イーリアス

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

『あゝ勇猛のトローエス、アキルリュウスを恐るゝな、

言句を以てわれも亦神と戰ふことを得む、

槍を以ては叶ふまじ、神は遙かにいや強し。

アキルリュウスも其言を皆悉く成すを得ず、

中あるものは成るべきも他は半ばにて敗るべし。 370

我今彼に向ふべし、彼の手猛火に似たりとも、

さなり猛火に似たりとも、力は鐵に似たりとも。』

しかく陳んじて勵ませば、トロイア軍は敵の前、

槍をかざして一齊に進んで鯨波湧き起る。

その時プォイボス・アポローン、來てヘクト,ルに宣んし曰ふ、 375

『あゝヘクトール、先陣にアキルリュウスと戰ふ勿、

迎へよ、彼を衆軍の中、混戰のたゞ中に、

さらずば彼の飛ばす槍あるは利劔に傷かむ。』

しかく宣んする神の聲、聞くヘクトール慄然と、

震ひ怖ひて、衆軍の隊伍の中に混じ入る。 380

猛威を奮ふアキリュウス、雄叫び凄く、トロイアの

軍を襲ふて眞先に、イプィチオーンを打ち倒す、

屡※都城破りたるオトリュンチュウスは彼の父、

仙女ネーイス彼の母、彼は多數の民の長、

雪を戴くトモーロス、麓のヒュデー彼の郷、 385

憤然として進み來る彼の頭のたゞ中を、

アキルリュウスは槍飛ばし、射當て二つに打ち碎く。

※と大地に倒れ伏す彼に叫べるアキリュウス、

『オトリュンチューデー、勇猛の汝大地に横はる、

こゝに汝の命盡きぬ、ギューガイエーの湖の 390

岸は汝の生れし場、父祖の莊園あるところ、

魚族に富めるヒュルロスと渦のヘルモス程近し。』

390 II 865.

しかく誇りて陳じ曰ふ、かくて敵の目暗に閉づ。

彼の屍體をアカイアの戰馬、車輪に先陣の

中に碎けり、之に次ぎアキルリュウスは打ち斃す、 395

アンテーノールの生みし者、デーモレオーン、勇武の子、

その黄銅の頬當を具せる兜を貫きて、

顳※うてば黄銅は槍を支へず、鋭刄は

貫き通り骨碎き、内の頭腦は悉く

微塵となりて、アキリュウス敵の猛威を抑へ止む。 400

而して次に兵車より降り、目前逃げゆける

ヒッポダマスに槍投げて、背筋貫き地に倒す、

敵は最後の息吐きて呻めき、恰もヘリケーの

神の祭壇めざしつゝ、ポセードーンの喜に、

若き人々ひきて行く牛の呻めきを見る如し、 405

しかく呻めきて敵將の猛き魂魄身を離る。

つゞいて彼は槍揮ひポリュドーロスに向ひ行く、

王プリアモス生みたる子、年齒最も若ければ、

父王は彼の最愛の此子進んで戰ふを

許さず、更に競走にすべてを凌ぎ勝ちし彼、 410

今若年の誤に脚の速さを示すべく、

先鋒中を駈け※り遂に一命亡しぬ。

脚神速のアキリュウス馳せ行く彼の背の眞中、

飛刄はげしく打當てゝ金の締金、革帶を

留め、二重に胸甲の重なるほとり貫きつ、 415

穗先鋭く投槍は臍のほとりに突きいづる、

討たれし敵は膝折りて、呻めきはげしく暗黒に

目は蔽はれつ、はみいづる臟腑を抱き地に伏しぬ。

396 前後に無し。

402 前後に無し。

403 アカイアにあり、ポセードーン崇拜の本據。VIII 203.

臟腑を抱き地に伏せるポリュドーロスを、愛弟を、

見たる將軍ヘクトール、悲哀に堪へず、双眼は 420

愁の霧に掩はれつ、離れて遠くたゆたふに

もはや忍びず、憤然と鋭き槍を打ち揮ひ、

猛火の如くアキリュウスめがけ驀地に馳せ出づる、

之を眺めてアキリュウス跳り上りて喝し曰ふ、

『來れり、われの心情を最も痛く惱ませる 425

彼れ――わが愛でし僚友を斃したる者、戰鬪の

場を雙方、彼と我、逃るゝことをもはやせじ。』

しかく陳じてヘクト,ルに目を怒らして叫び曰ふ、

『近寄れ、汝速かに死滅の運に逢はんため。』

堅甲振ふヘクトール恐れず答へて彼に曰ふ、 430

『ペ,レーデース! 言句もてさながら小兒見る如く、

われを嚇かすこと勿れ、われも同じく慘毒の

言句を放つ術を知る、侮辱の言を吐くを知る。

我また汝の勇を知り、我の劣るを善く悟る、

さもあれ勇は劣るとも汝に槍を投げ飛ばし、 435

汝の命を奪はんか、否か、其事神明の

手中に殘る、わが槍の穗先誠に鋭利なり。』

431 上文 200―202 にあり。

434 斯る文句を敵將に述ぶること訝かし。

しかく陳じて大槍を揮ひ飛ばせばアテーネー、

輕きいぶきに鋭刄を拂ひ、英武のアキリュウス、

打つを得させじ、あとがへる槍は將軍ヘクト,ルの 440

足許近く地に落ちぬ、續きて敵を倒すべく

はげしく念じ、憤然と※喚すごくアキリュウス、

勢猛く飛び出せば敵をプォイボス・アポローン

神力揮ひ、容易くも救ひて雲に隱れしむ。

三たび英武のアキリュウス、其青銅の槍あげて、 445

鋭き脚に進みより、三たび濃霧の中を打つ、

四たび續きて神靈の暴るが如く進みつつ、

聲を勵まし物凄く羽ある言句陳じ曰ふ、

『汝今また、憎き狗! 死を逃れたり、禍は

眞近く側に來れるも、今は汝が投槍の 450

響の中に祈る神、アポローン汝を救ひたり。

されど此後われに又神の助の有らん時、

汝に向ひ戰ひて汝の命を奪はんず。

今は他の敵わが前に現はるゝもの追ひ打たむ。』

しかく叫んでドリュオプス打てる投槍、其頸の 455

眞中通れば脚もとに倒れて伏せり。そを捨てて、

フィレートールの生みたる子デームウコスの膝討ちて、

槍に貫き逃げ走る彼を留めつ、引きつゞき、

かざす大刀ふりあげて其生命の根を留む。

つゞきて襲ひ打ち取るはビアースの二子、車上なる

ラオゴーノスとダルダノス――槍を飛ばして彼を打ち、

劔を揮ひてこれを打ち、共に地上に倒れしむ。

アラストールの生みたる子、トローオス又打ち倒す、

等しき年齒顧みてわが一命を助けよと、

彼は近づく敵將の膝を抱きて哀を乞ふ、 465

哀訴素より空しきを愚かや彼は悟り得ず、

敵は柔和の性ならず、温情知らず、勇猛の

氣に滿ち溢る、手をのべて膝を抱きて哀願を

致すも遂に效あらず、敵の利劍は肝臟を

碎けば臟腑溢れいで、流れ出でたる黒き血は、 470

胸を滿たして、暗黒は一命つきし彼の目を

蓋へり。次にムーリオス近くにあるを槍飛ばし、

耳より耳に青銅の穗先するどく貫きて、

之を倒しつ、又次にアゲーノールの生みたる子、

エケクロス打ち、長劍に頭のまなか打碎く。 475

刀身すべて血に熱く、一命こゝに盡き果てし

彼の双眼、暗き死と凄き悲運はおほひ去る。

ヂュウカリオーンは次の牲、肱の筋肉合ふところ、

其腕をうつ青銅のアキルリュウスの槍凄し、

彼は空しく腕を垂れ死の運命を覺悟して、 480

敵の迫るを迎へ待つ、敵は利劍を打ち揮ひ、

兜のまゝに其頭、打つて落せば背骨より、

脊髓溢れほとばしり、屍は大地に倒れ俯す。

ペーレーオスの産みたる子、リグモス――郷は豐沃の

土地トレーケー――こを目がけアキルリュウスは迫り寄り、 485

槍を飛ばして胸を打ち、青銅肺を貫きて

兵車の下に倒れしめ、更につゞいて彼の御者。

アレーイト,スの背を槍に、打ちて同じく兵車より

大地に落ちて倒れしむ、戰馬は爲に暴れ狂ふ。

461 XVI 604 に他のラオゴーノスあり、ダルダノスは前後に無し。

463 上文 231 に他のトローオスあり。

473 XVI 696 は別人。

478 トロイアのヂュウカリオーンは前後に無し。

484 II 844 ペーレーオスはペーローオスと同人。リグモスは前後に無し。

488 VII 8 のと別人。

譬へば旱る山脈の、深き谷間に暴れ狂ふ 490

猛火の力炎々と、深き林を燒き拂ひ、

風は四方に其火焔吹き捲き飛ばす樣や斯く、

アキルリュウスは槍揮ひ、神の如くに猛然と、

踏まるる敵を追ひ討ちて大地に黒き血は流る。

譬へば額廣き牛、軛を附けて農場の 495

床に小麥を踏み行けば、高らに吠ゆる牛の下、

紛々として白き穀、踏まれて殼を去る如く、

アキルリュウスの進め驅る單蹄の馬脚あげて、

敵の屍體を盾を踏み、而して車軸悉く、

車臺をめぐる縁と共、馬蹄並に輪金より 500

飛び散る凄さ鮮血に、皆一齊に染められぬ。

かくして勇むアキリュウス・ペーレーデース、功名の

情念切に剛勇の手を血に染めて暴れ狂ふ。

499 XI 534 以下と同じ。

第二十一歌

クサントスの岸上にアキリュウスの奮戰。 トロイア軍の一部は城中に逃げ、一部は河上に逃ぐ。 後者をアキリュウス劔を揮つて討ち、又十二人の敵の少年を捕ふ。 リカオーン及びアステロパイオスの死。 クサントス(=スカマンダロス=)の河靈怒りて激浪を揚げて勇將を苦しむ。 アキリュウス生命の危きを恐れて神に呼ぶ。 ポセードーンとアテーネー來りて彼を慰む。 されど河靈は怒をやめず、シモアイスの河靈を呼び再びアキリュウスに迫る。 ヘーレー之を見てヘープァイストスに命じ、猛火を起して平野を燒き、河流を枯渇せしむ。天上に於て諸神互に相討つ。 アテーネーはアレースを破る。 ポセードーンに激せらるるもアポローン戰はず。 アルテミスはヘーレーに惱まさる。 プリアモス王命じて城門を開き、逃れ來る自方を入らしむ。 追撃し來るアキリュウスはアゲーノールに迫る、アポローン之を救ふ。

水美はしきクサントス、クロニーオーン生むところ、

流渦卷くクサントス、其岸さしてトロイアの

軍到る時、アキリュウス之を散らして、一隊を

都城の方に平原の上に追ひ打つ、前の日に、

アカイア軍がヘクト,ルに追はれ畏れて逃げし場。 5

トロイア勢は逃げ走りこゝに群がる、其前に

ヘーレー霧を敷き散らし路を遮る、他の隊は

深き大河、銀浪を渦卷く中に追はれ入り、

騷音高く落ちこみつ、深き流は咆え哮び、

岸はめぐりに轟々の音もの凄く鳴りひゞき、 10

叫喚高く敵の軍泳ぎて波に捲かれ去る。

譬へば猛き火に追はれ、流に向ひ遁るべく

蝗の一群飛び翔くる、而して火焔炎々と、

激しく襲ひ燒き立てゝ、蟲は流に落つる如、

流れ渦卷くクサントス、其喧囂の大水は、 15

アキルリュウスの手よりして人と馬とに滿たされぬ。

4 XVII 753 以下。

ヂュウスの寵兒アキリュウス、岸の傍楊柳の

幹に其槍立てかけて、たゞ一刀を手に握り、

神の如くに勇猛の業たくらみて、切りまくる、

四角八面斬りまくる其鋭刄につんざかれ、 20

凄き叫喚湧き起り、流るゝ川は血に紅し。

譬へば魚群おほいなる海豚に追はれ、逃げ泳ぎ、

捕ふるものを皆喰らふ敵を恐れて、碇泊に

善き港灣の隅にある洞を充たすを見る如し。

斯くトロイアの軍勢は、流うづまく大川の 25

けはしき岸に身を隱す、而して既に殺戮に

其手の倦めるアキリュウス、流れの外に、生き乍ら

パトロクロスの牲として、囚ふ少年十二人。

仔鹿の如くおのゝける其一群を引き出し、

彼ら自らしなやかの被服のめぐり纒ひたる 30

革紐奪ひ、背の上に彼らの双手しばりつけ、

兵船さして送るべく、其友僚に渡すのち、

また殺戮の念に燃え、陣頭さして躍り出づ。

28 XVIII 337 に十二人のトロイア少年を牲とするをアキリュウスは盟ふ。

30 鎖かたびらの類か。(V 113)

31 捕虜を縛るため用意せるものと見ゆ(評家ユウスタチオスの説)。

その時彼の逢ひたるは、ダルダニデース・プリアモス

生みたる愛兒リカオーン、水より遁れ出でしもの。 35

これより先にアキリュウス夜に乘じて襲ひ入り、

捕へて父の果園より荒くも奪ひ取りしもの、

乘車の輪縁造るべく鋭き刄、無花果の

枝に加へし彼の上、不意の禍難は降りけり。

而して舟にのせ行きて彼を賣りしはレームノス、 40

堅き都城のあるところ、イエソーンの子は買ひ取りき、

そこより彼を莫大にエーイチオーンは賠ひき、

(彼の故郷はイムプロス)そこより更にアリスベー、

送られし彼逃れ出で祖先の家に歸り來ぬ。

35 リキエーの將軍に同名別人あり。(II 827)

41 イエソーンの子はユーネーオス VII 468.

42 テーベーの君主に同名別人あり。(VI 416)

レームノスより歸り來て、友と語りて樂しめる 45

日數十一、其の次の第十二日、運命の

神は可憐の子を又も、アキルリュウスの手に渡し、

勇將彼を好まざる冥王の許送らんず。

脚神速のアキリュウス、勇める眼に見るところ、

彼は赤裸に、兜無く、盾なく、更に槍も無し、 50

すべて是らを地の上に彼悉く投げ棄てぬ、

汗は川より逃れ來し彼を弱らせ、兩膝は

疲勞に惱む――之を見てペーレーデース怒り曰ふ、

『何らの奇怪! 今われの眼に親しく映るもの!

彼の勇猛のトロイアの軍勢われの討ちしもの、 55

陰霧の暗の郷を出で再びこゝに現はれむ、

見よ秀麗のレームノス郷に賣られし彼は今、

不幸の運を免れてこゝに來れり、海岸の

白波は衆を捕ふるも彼を抑ゆることあらず。

さはれ今はたわが槍の鋭刄彼も味はゝむ、 60

しかせば我は胸中に觀じ、しかして悟るべし、

同じく彼がかなたより歸るや、あるは生の本、

大地は彼を留むるや、他の勇將に爲す如く。』

しかく念じてアキリュウス立てば、恐怖を抱く敵、

近くに來り彼の膝ふれんとしつゝ飽く迄も、 65

無慚の死滅暗黒の運命逃れ去らんとす。

その時かなた英剛のアキルリュウスは大槍を

高く振りあげ打たんとし、こなたリカオーン其下を

潛り、身を屈し膝に觸る其背を越して飛べる槍、

人の血肉飽く迄も求め乍らも地に刺さる。 70

その時彼は片手もて哀願しつゝ膝に觸れ、

また他の手もて鋭刄の槍を抑へて放たせず、

かくて飛揚の翼ある言句を陳じ彼に曰ふ、

67 先文17には槍を岸の樹に立てかくとあり、かかる矛盾或は略文に關して古の或評家は喋々す。

72 槍は地に刺さる、他の槍か?(17)

『あゝアキリュウス、哀願を聞きて憐みわれ許せ、

神の寵兒よ、われの身は君の被保護者、そのむかし 75

デーメーテールの穀物を君の許にて味はひき、

そは果樹園の中にわれ囚へて父と友とより、

離して遠くレームノス聖なる郷に曳き行きて、

われを賣りし日――百頭の牛はわが身の代なりき。

而して我今三倍を與へて此身償はむ、 80

多くの苦難受けし後、われイリオンに着きてより、

今に到りて十二日、しかも今猶非なる命、

君の手中に我を置く、ヂュウスは我を憎しみて、

再び君に我與ふ、ラーオトエーはわれの母、

われを短命の子と生めり、母の老父はアルテース、 85

サトニオエース河に沿ふ地勢の高きペーダソス、

領とし、猛きレレゲース族を率ゐるアルテース。

彼の愛女をプリアモス、他の女性らと共に取る、

これより生れし二人の子、われらを君は打たんとす。

ポリュドーロスを先鋒の歩兵の中に君打てり、 90

鋭き槍に君討ちし彼は正しく神に似る。

而してこゝに禍は我に及ばむ、われは知る、

ある神靈の驅りし我れ、君の手中を逃れずと、

さはれ他の事我曰はむ、之を銘ぜよ、胸の中、

我をば殺すこと勿れ、優しきしかも猛勇の 95

君の愛友殺したるヘクトールとは母は別。』

90 XX 408.

プリアモスの子リカオーン、斯くの如くに言句もて

哀を求めぬ、然れども答ははげし、無情の句――

『愚かなる者、償を曰ふこと勿れ、説く勿れ、

パトロクロスが禍をまだ受けざりし昨日迄、 100

トロイア人の生命を許すをわれは喜べり、

而して彼ら生き乍ら捕へ、多數をわれ賣りぬ、

されども今はイリオンの前に、わが手に神明の

投ずるものは一として、死を免るゝものあらじ、

トロイア人は皆然り、プリアモスの子猶更に。 105

斯れば汝亦死せよ、何故汝斯く泣くや?

汝に遙か優れたるパトロクロスも亦死せり。

汝見ざるや更にわが躯幹の美なる大なるを?

すぐれし勇士、父とする、われは神女の生むところ、

しかも死滅と非命とは我にも遂に來らんず、 110

そは曙か、黄昏か、はた日中か、われ知らず、

あるもの我に手向ひて鋭槍飛ばしわれ討たむ、

あるひは絃を離れ來る勁箭われの命絶たむ。』

107 「パトロクロスも亦死せり」アレクサンダー大王臨終の時、侍醫カリステネース此句を大王に誦せりといふ。

113 ヘクトールを倒せる後日パリス彼を射て殺す。

しか陳ずればリカオーン、心も膝もわなゝきつ、

覺悟極めて槍放ち、兩手をのして地の上に

坐れば、やがてアキリュウス、鋭利の劍を拔き放ち、

頸筋めがけて斬りおろす、兩刄の劍斬り入りて、

無慚に裂けば、うつぶしに大地の上に身を延して、

彼は斃れつ、暗黒の血潮流れて地を染めぬ。

その脚取りて屍をアキルリュウスは水に投げ、 120

勝に誇りて翼ある言句放ちて叫び曰ふ、

『魚類の中に水中に汝休らへ、疵口の

血を意のまゝに水族は嘗むべし、而して恩愛の

母は汝を床に乘せ、泣き悲しむを得べからず、

スカマンドロス渦卷きて大海原に引き去らむ。 125

潮の中に躍る魚、暗き波浪を潛り行き、

リカオーン汝の白き肉求めて之を餌とせむ。

亡べ、汝ら逃げ走る其後追ひてわれ暴ぶ、

遂に聖なるイーリオンわれの手中に歸する迄。

美麗の流、銀浪の渦卷く川も汝らの 130

助けとならず、牲として夥多の牛を捧げしも、

又渦卷きに單蹄の馬生き乍ら沈めしも、

汝ら斯くも運命の非なるに因りて亡ぶべし、

パトロクロスの落命に、われの不在に舟のそば、

汝加へしアカイアの軍の死傷の償ひに。』 135

131 XI 728 參照、――ペルシヤ人は馬を川に牲として投ぜり(ヘロドートス vi 61. iv 113、パーチア人はユーフラテース川に馬を牲とせり(タチツスの年代史 VI 37)。

しか陳ずれば河の靈、更に一層怒り増し、

アキルリュウスの猛勇の働き抑へ、トロイアの

軍の破滅を救ふべく思※らす胸の中。

その時長く影を曳く槍ひつさげてアキリュウス、

ペーレゴーンの生みたる子、アステロパイオス倒すべく、 140

念じて猛く突きかゝる(ペーレゴーンはアキシオス

河の靈の子、其母はアケサメノスの息女らの

中の長たるペリボイア、彼と契れり、河の靈)

今アキリュウス突きかゝる敵は川より驅けあがり、

二條の槍を手に握る、而して河靈クサントス、 145

彼の心に勇を添ふ、河靈は猛きアキリュウス、

流の中に若き子ら酷く討てるをいきどほる。

かくて兩將打向ひ、近よる時に、脚速き

アキルリュウスはまづ口を開きて敵に叫び曰ふ、

140 パイオニヤの將軍アステロパイオス(XVII 351)。

『いしくもわれに手向へる汝の種族何ものか? 150

わが猛勇に手向ふは皆薄命の人の子ぞ。』

ペーレゴーンの勝れし子答へて彼に陳じ曰ふ、

『汝、勇武のアキリュウス、などわが素性問ひ正す?

遠く離るゝ豐沃のパイオニエーはわが故郷、

長槍揮ふパイオネス族を率ゐてイーリオン、 155

此地に我の着きてより第十一の日は曙けぬ、

我の祖先はアキシオス、其大水の河の靈、

(大地に添ひて清き波送る流のアキシオス)

槍の名將ペーレゴーン、彼の子にしてわれの父、

人は然かいふ、さはれ今、アキルリュウスよ戰はむ。』 160

154 パイオネス族は弓手とあり。

155 II 848. XVII 350.

しかく嚇せばアキリュウス、高らにかざすペーリオン

山より取りし秦皮の大槍、――こなた左右の手に、

ひとしく槍をふりあぐる、アステロパイオス勇將の、

其一條は盾に當つ、されども之を貫かず、

神の賜へる黄金の層は鋭刄遮りぬ、 165

他の一條はアキリュウス勇士の右の腕掠め、

腕より黒き血は流る、而して槍は彼を過ぎ、

肉に飽くべく念ずれど空しく土に突き刺さる。

次に英武のアキリュウス、其鋭利なる槍かざし、

アステロパイオス倒すべく勢荒く投げ飛ばす、 170

しかも其槍覘外れ、高き堤に突き當り、

槍身半隱れつつ、土中に深く突き刺さる。

ペーレーデースついで又腰より利劍拔きかざし、

激しく敵に進み行く、敵は剛強の手をのして、

アキルリュウスの長槍を岸より拔くを得べからず、 175

拔くべく猛に念じつゝ三たび其槍握り搖る、

而して三たび效あらず、四度試み、勇將の

投げし長槍おし曲げて、折らんとしつる折もあれ、

近く迫りてアキリュウス劔を擧げて彼を打つ、

腹部のもなか臍のそば、打てば臟腑は悉く 180

溢れ地上に擴がりて、暗は喘げる彼の目を

おほへり、かくてアキリュウス彼の胸のへ脚加へ、

武裝剥ぎ取り、揚々と大言放ち陳じ曰ふ、

『かく横はれ、おほいなる河靈の裔と生るるも、

クロニーオーン天王の子らと戰ふ事難し、 185

廣く流るる大川の靈より出づと汝曰ふ、

さもあれ我はクロニオーン・ヂュウスの裔と身を誇る、

我を生めるは數多きミルミドネスを司どる

アイアコスの子、ペーリュウス、其アイアコス、神の裔、

而してヂュウス、大海に流るる川の靈よりも 190

勝る、さばかりヂュウスの子、河靈の子にぞいや勝る。

汝の傍おほいなる川流るゝも、汝の身

助くるを得ず、クロニオーン・ヂュウスは遂に敵あらず。

アケローイオスの大いなる力も彼に並び得ず、

潮流深く湧き返るオーケアノスの大威力、 195

川こと/″\く流れいで、海ことごとく湧くところ、

あらゆる泉、底深き井水ひとしくいづる本、

彼れなほ偉なるクロニオーン天上高く震ふ時、

その恐るべき轟雷に、その霹靂におのゝけり。』

194 アイトーレーとアカルナニエーの間を流るるヘラスの大河、グリース人は頗る之を崇む、後代の文學には川の人化又水の人化として用ゐらる。

しかく陳じて堤より其青銅の槍を拔く。 200

敵の一命斷てる彼れ、屍體をそこにうち棄てつ、

沙場に伏して濁りたる波に空しく浸らしむ。

その屍目がけ寄せ來る鰻の群は、もろもろの

魚類と共に腎臟のほとり脂肪を噛み喰らふ。

パイオネス族冠毛を揮ふをついで彼は打つ、 205

アキルリュウスの手にかゝり、利劍によりてその主將、

戰軍中に亡べるを、眺める軍はおのゝきて、

渦卷く川の岸に沿ひ走るを追ひて彼は打つ。

テルシロコスとミュドーン又アスチュピロスを進み打つ、

又ムネーソス、トラシオス、オペレステース、アイニオス。 210

其外あまたパイオネス彼に打たれて死なんとす、

その時深き水の靈、假に人間の形現じ、

怒りて彼に渦卷ける水の底より叫び曰ふ、

204 鰻を魚と認めず。

209 XVII 216. ミュドーンは V 580 のとは別人、アスチュピロス以下皆前後に無し、オペレステースは VIII 274 のとは別人。

『あゝアキリュウス、人間の業にあまりて振舞へる

汝の暴び、神明は汝に常に力貸す。 215

トロイア軍の敗滅をヂュウス汝に許しなば、

我より避けて平原の上に無慚のわざを爲せ。

いみじき我の川流は屍體に滿ちて、溢るれば、

我は聖なる大海に水を搬ぶを得べからず、

汝、無慚に人を討つ、その凶暴を今止めよ、 220

あゝ勇猛のアキリュウス汝は我を驚かす!』

脚神速のアキリュウス答へて即ち彼に曰ふ、

『スカマンダロス、天王の愛兒、汝の命のまま

成るべし、されど城中にトロイア軍を追ひ攘ひ、

敵ヘクト,ルと相向ひ、彼と我との勝敗を 225

決する前は、驕傲の彼らを殺すこと止めず。』

しかく陳じて敵軍を神の如くに襲ひ討つ。

その時、河の渦卷ける靈はアポローン呼びて曰ふ、

『あゝ銀弓のアポローン、クロニオーンの命令を

汝守らず――夕陽のしづかに入りて、豐沃の 230

大地を夜の暗き影、蓋はん迄は、汝善く

トロイア軍を援けよと、ヂュウスは嚴に命ぜずや!』

232 ヂュウスは衆神にその好むまま兩軍中の一方を助くべしと命ず。(XX 22―25)

しかく陳じぬ、こなたには槍の名將アキリュウス、

流の中に嶮崖を飛びおる、川は躍り立ち、

狂へる流捲き立てゝ、アキルリュウスの倒したる 235

多くの屍體其中に群がるものを押し流し、

波浪の響、轟々と吠ゆる巨牛を見る如く、

屍體を岸に打上げつ、更に渦卷く深淵の

中に、美麗の川底に、生者を救ひ押し隱し、

更に逆立つ奔流は、アキルリュウスを攻め圍み、 240

はげしく襲ひ、盾を打ち進めば、彼の双脚は

支ふるを得ず、手にしかと、岸より崩れ落ち來る

巨大の楡の樹を掴む、巨木は根より打ち倒れ、

堤崩して繁り合ふ枝に美麗の水塞ぐ、

巨幹はかくて大川にさながら橋をかけわたす、 245

さすが畏るゝアキリュウス、深き水より躍り出で、

脚神速に平原の上に走りて逃げんとす。

されど其時おほいなる河流の神は休み無く、

黒ずむ波の頭立て、アキルリュウスを逐ひ進み、

其猛勇の業とめて身方の厄を拂はんず。 250

ペーレーデース其時に遠のく距離は、投槍の

飛び行く長さ――禽鳥の中に速さも猛しさも

勝る黒鷲、獵の鳥、飛ぶが如くにアキリュウス、

猛然として躍り飛ぶ――其胸の上鏘然と、

青銅凄く高鳴りて水のがれ行く彼のあと、 255

スカマンダロス轟々と波音高く逐ひ驅くる。

比喩を取らば、源流の暗き淵より水を引き、

田圃並に緑園の中に流を灌ぐ人、

手に鍬握り溝渠より砂礫をさらひ捨つる時、

傾斜の岸を淙々と音して水ははしりゆき、 260

あらゆる土砂を推し流し、流の脚は導きの、

人を凌ぎて先んじて、走り行く樣見る如し、

かくの如くに奔流の水は絶えずも、脚速き

アキルリュウスに追ひつけり、神は人より勝るなり。

脚疾く馳する剛勇のアキルリュウスは踏みとまり、 265

天を領する神明のすべてを擧げて悉く、

彼を逐はんとすや、否や、究めんとして勵むたび、

其度ごとにヂュウスより流れ出でたる大川は、

彼の肩のへ襲ひ打つ、而して彼が心中に

惱み乍らも、其足を運べば、川は奔流の 270

勢荒く彼の膝うちて脚下の砂洗ふ。

その時高く天仰ぎペーレーデース嘆じ曰ふ、

『あゝクロニオーン、神明のいづれか我を憐みて

此水難を救はずや? 後はすべてに我耐へむ。

天上やどる神明の中に最も我にとり、 275

罪あるものは我の母――虚言に我を迷はしめ、

胸甲鎧ふトロイアの軍勢守る壘の下、

アポローン飛ばす箭によりて、我が逝くべきを告げたりき。

こゝの至剛のヘクトール我を斃さば善からまし、

さらば勇士は他の勇士討ちて戰裝剥ぎ取らむ。 280

さるを運命われに非に、大河の中に封ぜられ、

無慚の最後遂げんとす、急湍わたる牧童が、

あらき風雨に襲はれて溺るゝ樣を見る如く。』

278 XVII 407 は斯く明かには告げず、漠然として説くのみ。

陳ずる彼に速に、ポセードーンとアテーネー、

近づき來り人間の姿を取りて側に立ち、 285

其手に彼の手をとりて言句を述べて慰めつ、

大地を震ふポセードーン先づ口開き宣んし曰ふ、

『ペーレーデースあまりにも恐れて騷ぐこと勿れ、

クロニオーンの許可により、二位の神靈こゝに來て、

汝を助く、見よ、われと藍光の目のアテーネー。 290

河流に因りて斃るべき非命汝に下されず、

河靈程なく靜まらむ、汝親しく之を見む。

さはれ服せば忠言をわれら汝に與へんず、

汝逃るゝトロイアの軍勢逐ひて、イーリオン、

城壁中に押し込むる前に、互角の軍より 295

手を退く勿れ。ヘクト,ルを倒さば汝水陣に

立ち歸るべし。光榮をわれら汝に與へんず。』

しかく宣んして二位の神、天上さして立ち歸る。

其神靈の勵ましに勇將奮ひ立ち上り、

平野にのぼる、――一面の大水そこに滿ち溢れ、 300

逝ける諸勇士身に帶べる美麗の武具は、屍と

共に無慚に漂へり。流を凌ぐアキリュウス、

やがて其の膝水面を躍り上がれば、奔流も

彼を止めず、アテーネー威力を彼に貸し與ふ。

スカマンダロス然れども怒をやめず、いやましに、 305

アキルリュウスに憤ほり、更に高らに奔流を

激しく蹴上げ、シモアイス呼びて叫びて彼に曰ふ、

307 合流する川の靈。

『汝と共に弟よ、此人間の威を止めむ、

さらずば彼は速にイリオン城を壞るべし、

而してトロイア軍勢は戰地に跡を留めざらむ。 310

いざ迅速に救援に來り、源泉溢れ來る

水に汝の量滿たし、急流すべて勵まして、

高く波浪を逆立てよ、而して樹木岸石の

騷音あらく起らしめ、おのれ自ら神明に

等しと誇り、勝ち誇る此猛將を喰ひ止めよ。 315

彼の勇力、秀麗の姿、綺羅めく戰裝も

かれを救はず、深潭の底に泥土に蓋はれて、

武具は沈まむ、我は又、沙利を盛に搬び來て、

勇士を底に葬りて上に砂泥を積み上げむ、

而してアカイア軍勢は彼の遺骨を集め得じ、 320

屍の上に泥濘を我は深くも積らせむ。

かくておのづと彼の爲紀念の印たてられむ、

アカイア人は又別に墳墓を築く要なけむ。』

しかく陳じて猛然と荒び進みて、アキリュウス

めがけて攻めつ、泡沫と血と屍體とを亂しつつ、 325

神より生れし大川は暗紅色の波凄く、

逆捲き立てて剛勇のペーレーデース押し流す。

されどヘーレーおほいなる川流深く渦卷きて、

アキルリュウスを溺らすを憂ひ、叫喚高くあげ、

たゞちに彼の愛兒たるヘープァイストス呼びて曰ふ、 330

『立てや、跛行のわが愛兒、渦卷き流るクサントス、

正に汝の好敵手、わが見る所過らじ、

いざ迅速に救援に行きて猛火を起たしめよ。

我はた行きて、ゼプュロスと脚神速のノトスとの、

はげしき呼吸、海洋の沖より誘ひ吹かしめむ、 335

彼らは凄き猛焔を搬び來りて、トロイアの

軍勢並にその武裝燒くべし、汝岸に沿ひ、

樹木を燒きて、クサントス河を火中に追ひ拂へ、

彼の甘言又威嚇、汝の耳に入る勿れ、

われ叫喚を擧げむ前、汝の怒とゞむるな、 340

叫喚聞かば猛焔の荒び其時靜むべし。』

ヘーレーしかく宣んすれば、ヘープァイストス持ち來す

不思議の神火、眞先に平野に燃えて、累々と

伏せる屍、アキリュウス倒せしものを燒き盡す、

平野はかくて皆乾き、輝く川の水停る。 345

譬へば秋のボレエース、先に洪水襲ひ來し

耕地を不意に乾かして、農夫の歡喜増す如し。

斯くて平野は悉く乾きて猛火もろ/\の

屍體を燒きつ、神は今、川に火焔をさしむくる。

楡と御柳と楊柳と今悉く燃え上る、 350

ロートス、蘆荻、キュペーロン、川の美麗の水に沿ひ、

豐かに生じ並ぶもの、等しく共に燒かれ去る。

更に渦流に舞ひ躍る鰻、並びにもろ/\の

魚は策謀巧みなるヘープァイストス、いぶき出す

其猛焔に、悉く呼吸苦しく惱まさる。 355

巨川同じく又燒かれ、神に向ひて叫び曰ふ、

『ヘープァイストスよ、神明の誰も汝に向ひ得ず、

猛火によりて燒き倒す汝と我は戰はず。

戰やめよ、アキリュウス勇將すぐに都城より、

トロイア勢を逐ふも善し、われ戰に加はらじ。』 360

猛火に燒かれ斯く叫び美麗の流沸き返る。

比喩をとらば、乾燥の薪を焚きて烈々の

火焔盛に釜包み、よく畜はれたる肥えし家猪、

煮られて脂肪とけ流れ、四方に溢れ出づる如、

美麗の河は火に燒かれ、水は盛に沸き上り、 365

前に進まず、留まりて、ヘープァイストス、計略に

すぐれし神の力より、出づる呼吸に惱まさる。

斯くして彼はヘーレーに哀訴捧げて叫び曰ふ、

『ヘーレー、などて汝の子、他を棄てひとりわが流、

惱ますことを勉むるや? 汝の前にわが罪は、 370

トロイア軍に應援の衆靈よりも重からず。

さはれ汝の命ならば、其應援を停むべし、

彼も同じく又止めよ。更に我また盟ふべし、

トロイア軍に禍の日の來るをば妨げず、

アレースめづるアカイアの軍勢燒きてトロイアの、 375

全部ひとしく猛焔の力に亡び去らんとも。』

しか陳ずるを耳にして、玉腕白きヘーレーは、

ヘープァイストス――愛づる子――に向ひ直ちに宣んし曰ふ、

『ヘープァイストス、光榮のわが子、とゞまれ、人間の

爲にかく迄、他の神を惱ますことはよかるまじ。』 380

しか宣んするに從ひて、ヘープァイストス神祕なる

火を收むれば、大川は再び清き水流す。

斯くクサントス憤激を抑へ、二神の爭は

終りぬ、心怒れどもヘーレーかれらを警めぬ。

されども別の爭は、激しく荒く他の神の 385

間に起り、抗敵の思かれらの胸煽る、

喧騷高く相向ふ神に大地は轟きつ、

サルピンクスの音を以て大空高く鳴り渡る。

ウーリュンポスに座を占むるクロニオーン之を聞き、

諸神互に戰ふを見て欣然と微笑めり。 390

間なく彼らは相向ふ、其眞先に盾碎く

神アレースは、青銅の槍を手にして、藍光の

目のアテーネー襲ひ討ち、罵詈の言句をあびせ曰ふ、

『狗と蠅とに似たる者、汝何故兇暴の

勇に驅られて神々を又鬪爭に誘へるや? 395

チューデーデース、勇猛のヂオメーイデース、勵まして

我を討たしめ、燦爛の槍を手にして眞向に

我を襲ひて、わが肢體破らしめしを忘れしや?

彼の時汝爲せしこと此日汝に報ふべし。』

しかく陳じて殺戮を好むアレース、おほいなる 400

槍を飛ばして盾を打つ、そは天王の轟雷を

物ともせざる恐るべき大盾、總を着けしもの。

あとに退くアテーネー、地に横はる巖々の

黒き大石、そのむかし、土地の境の標として、

据ゑられしもの、手にとりて投げて勇武のアレースの、 405

頸打ち四肢を弛ましむ。七ペレトラの地をおほひ、

倒れし彼は頭髮を塵にまみらし俯伏して、

鎧あたりに高鳴るを笑ふパルラス・アテーネー、

勝に誇りて翼ある言句を彼に宣んし曰ふ、

『愚かなる者、汝まだ我の汝に優れるを 410

悟り得ずして、いたづらに我の力に抗へる!

アカイア族を棄て去りて、汝誇傲のトロイアの

軍を救ふを憤ほり、禍難を汝の身の上に

加ふる母の呪咀の言、汝今こそ充たすべく。』

しかく宣んして爛々の目を他の方に轉じ去る、 415

氣を失ひて呻吟の聲しきりなるアレースの

手を、其時にアプロヂテー、ヂュウスの息女引きて去る。

そを玉腕の眞白なる神女ヘーレー見たる時、

直ちに彼はアテーネー、パルラス呼びて宣んし曰ふ

417 V 357 アレースの車をアプロヂーテー借りて逃る。

『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュトーネー、汝見よ、 420

狗兒蒼蠅に似たるもの、彼れ、アレースを戰場の

中より救ひ混亂の列を過ぎ行く、汝逐へ!』

しか陳ずればアテーネー、勇みて跡を追ひ進み、

アプロヂテーに飛びかゝり、強き手をもて胸を打つ、

打たれて膝を折り伏して、恐怖に心おのゝきつ、 425

斯くてアレースもろともに大地の上に横はる、

勝に誇りてアテーネー羽ある言句陳じ曰ふ、

『トロイア軍に身方して、胸甲鎧ふアカイアの

軍と戰ふ者は皆、今アレースを救ふべく

來りて我に手向へるアプロヂテーを見る如く、 430

勇氣鋭く強しとも此の如しと覺悟せよ。

堅き都城のイーリオンとくの昔に打ち崩し、

ヘーレーともに我は疾くやむべかりしを戰を。』

(しか宣んすれば玉腕のヘーレー聞きてほほゑめり。)

更にかなたにポセードーン、神アポローンに向ひ曰ふ、 435

434 此一行多くの版に省かる。

『あゝプォイボス・アポローン、などてわれらはためらふや?

他は今すでに初めたり、戰はずしてオリュムポス――

ヂュウスの宮に退くは、無上の恥辱――思はずや?

初めよ、汝、年若し、我初むるは不可ならむ、

齡に於て、知に於て、我は汝の上を超す。 440

汝愚にして思慮足らず、汝はすでに忘れたり、

諸神の中に只われら二神ヂュウスの命により、

來りてこゝにイリオンのほとりに痛く惱みしを、

ラーオメドーン高慢のあるじの下に一年を、

期間となして報酬を定めて命を奉ぜしを。 445

我はその時おほいなる美麗の壁をトロイアの

都市のめぐりに營みて、難攻不落のものとなし、

汝はイデーの山の上、森繁くして谷深き

ほとりに牧へり、角曲がり蹣跚として歩む牛。

斯くて樂しき四季移り、被傭の期日滿ちし時、 450

ラーオメドーン暴戻のあるじすべての給料を

非法に奪ひ、更にまた、われらを嚇し追ひ攘ふ。

彼はわれらの手を足を共に縛りて奴隷とし、

離れて遠き海上の島に賣らんとおびやかし、

青銅をもてわれ/\の耳を斬るべく壯語しき。 455

約して彼の拂はざる報酬のため憤り、

われらは斯くて胸中に不快を滿たし歸り來ぬ。

而して汝今彼の民に好意を施せり、

而して汝高慢のトロイア族が恩愛の

妻子と共に亡ぶるをわれと同じく試みず。』 460

442 VII 452.

その時飛箭のアポローン答へて彼に陳じ曰ふ、

『汝大地を震ふ神、われ人間の群の爲め、

汝を敵に戰はば我は賢しと曰はるまじ、

微々たる彼ら草木の葉にも似るかな、大地より

生ずる果物、食として育ち行きつゝ榮ゆるも、 465

やがて空しく亡び去る、さはれ我らは速かに、

戰鬪やめむ、鬪爭は彼らの爲すに任すべし。』

464 VI 146―149.

しかく言句を陳じつゝ、父の弟、敵として、

戰ふことを恐るれば、あとへと返すアポローン、

されど猛獸驅り使ふ彼の妹アルテミス、 470

獵する神女爭ひて、罵辱の言句吐きて曰ふ、

『箭を射る汝逃れ去り、ポセードーンに一切の

勝利を讓り、あるまじき光榮彼に與ふるや?

さらば何故、愚者、無用の弓を携ふる?

ポセードーンに相向ひ戰ふべしと、神明の 475

群のもなかに昨日迄汝誇れり、今にして

ヂュウスの宮にかく誇る汝を我は聞かざらむ。』

しか陳ずれど銀弓のアポローン彼にもの曰はず。

されどヂュウスの端嚴の神妃ヘーレーいきどほり、

罵辱の言にアルテミス、矢を射る神を叱り曰ふ、 480

『恥無き牝犬、いかなれば我に對して爭ふを

汝願ふや? 弓あるも武力によりて眞向に

いかでか我に敵し得む! 雌獅子と汝をクロニオーン、

たゞに女人の間にのみなして殺戮意にまかす。

優れる者にいさましく敵するよりは山あひに、 485

麋鹿並びに猛獸を屠ふることこそ優ならめ。

さもあれ汝、戰を望まば來れ、われの威に

向ひ來る時、いかばかり我の優るや悟るべし。』

しかく陳じて左手をのべ、彼の兩手の手首を

つかみ、同じく右手のべ、肩より弓矢ひきたぐり、 490

※然として笑ひつゝ、其弓矢もて、身をかはす

彼の耳端打ちたゝく、矢は速かに地に落ちぬ、

打たれて神女泣き乍ら屈みて逃る、譬ふれば、

鷹に追はれて洞窟の奧の深きに逃げかくれ、

死の運命を免れたる可憐の鳩を見る如し、 495

弓矢地上にすてし彼、涙流して逃げ走る。

その時アルゲープォンテース、使者はレートーに向ひ曰ふ、

491 呉都賦(左思)。

497 アルゴスを屠る者の意即ちヘルメーアス又ヘルメース。

『レートー、汝に戰を我は挑まず、雷雲を

集むるヂュウス天王の妃と爭ふは危かり、

激しき武力勝を得てわれを汝は破れりと 500

いざ今汝神明の群の間に誇れかし。』

しか陳ずればレートーは渦卷く塵のたゞ中に

亂れて落ちし彎弓と矢とをひとしく拾ひ上ぐ。

かくして神女その弓矢とりて愛女の後を追ふ。

ウーリュンポスに、青銅のヂュウスの宮に歸り着き、 505

わかき神女は潛然と、涙を垂れて父神の

膝にすがりて、アムブロシア薫ずる衣震はせば、

笑含みてクロニオーン彼を抱きて問ひて曰ふ、

『いづれの神か、正なくも斯くは汝を虐げし?

恰も衆の面前に過失犯せる者の如。』 510

冠美麗のアルテミス答へて彼に陳じ曰ふ、

『君の配なる腕白きヘーレー我をさいなめり、

諸神の間の爭と不和とは彼の爲すところ。』

しかく互に天上の諸神言句を陳じ合ふ。

かなたプォイボス・アポローン、其堅牢の都市の壁、 515

其運命に先んじて正しく其日敵軍に

破壞さるゝを恐れつゝ、聖イリオンの中に入る。

他の常住の神々はウーリュンポスをさして行き、

そのある者は憤り、又あるものは誇らひて、

雷雲寄する天王の周圍に坐せり。かなたには 520

トロイア軍と單蹄の馬とを殺すアキリュウス。

都城燒かれて其烟濛々として天に入り、

神の怒に煽られて、すべての者に艱難を、

多くの者に憂愁を、來す姿を見る如く、

トロイア軍にアキリュウス艱難憂苦蒙らす。 525

その時、老いしプリアモス、神の造れる塔の上、

立ちて巨大のアキリュウス認めぬ、見よや、恐怖せる

トロイア軍は散々に破れ防禦の力なし、

大息なして老王は壁より地上降り來つ、

壁のめぐりのいさましき守衞勵まし呼びて曰ふ、 530

『汝ら廣く城門を明け放し置け、逃げ歸る

衆軍中に入らん迄。ま近く迫り襲ふもの、

彼は正しくアキリュウス、恐らく禍難起るべし。

城裏に衆の收りて初めて息をつかん時、

汝ら堅く緊密に左右の扉閉ぢ返せ、 535

かれ兇暴の敵の將、中に入ること恐るべし。』

しか陳ずれば閂を外づして衆は門開く、

門開かれて光明を來す。かなたにアポローン、

トロイア軍の敗滅を防がんために驅けいだす。

渇に惱みて塵あびて、衆は都城と壘壁を 540

目ざし平野を逃げはしる、其あとしたふアキリュウス、

槍を揮ひて猛然と追ひうつ彼は束の間も、

勇を緩めず功名の念は激しく胸に滿つ。

斯くしてアカイア軍勢はトロイア城を取らんとす、

されどプォイボス・アポローン、アンテーノール生みたる子、 545

武勇に勝れ力あるアゲーノールを勵ませり、

即ち彼の胸中に勇氣を滿たし、自らは

傍へに立ちて山欅樹に身をもたせつゝ、運命の

つらき打撃を防がんず、濃雲神の身を隱す。

都城を破るアキリュウス見たるトロイア勇將は、 550

敵の迫るを待ち乍ら立ちて心肝惱しつ、

大息しつゝ、剛強の心の中に念じ曰ふ

546 IV 467.

『あゝ進退を如何にせむ? 衆の恐れて紛々と

逃げ去るほとり、我も亦アキルリュウスを逃れんか?

彼は我にも逐ひつきて手向ひ得ざる身を討たん。 555

或は衆のアキリュウス・ペーレーデースに逐はるゝを、

棄てゝ別路に足運び、城壁遠くイリオンの

平野の上を驅け走り、かくして後に高き岡、

イデーに入りて林藪の中に終日身を潛め、

夕べ靜に來る時、溪流中に身をひたし、 560

汗を洗ひて然る後イリオン城に歸らんか?

さはれ何故わが心かゝる思念を※らすや?

都城離れて原上を我の走るを彼認め、

其迅速の脚飛ばし逐ひつくことの無かれかし、

追ひ附かれなば運命と死とを逃るゝことを得ず、 565

彼れ一切の人類に優りて勇は比類無し。

或は都城の傍に彼と面して立つとせば……

さなり、鋭き青銅に彼の肢體は傷かむ、

彼も生命たゞ一つ、不死に非ずと衆は説く、

たゞ光榮をクロニオーン、ヂュウスは彼に儲けしむ。』 570

しかく陳じて決然とアキルリュウスを待てる彼、

強き心は胸中に奮鬪念じ躍り立つ。

譬へば獵の人目がけ、深き藪より猛然と、

現はれ出づる豹に似る、豹の心は何ものも

敢て恐れず、獵犬の咆ゆる叫も物とせず、 575

獵師まさきに矢を飛ばし、槍を揮ひて彼を討ち、

利刄に彼を貫くも敢てひるまず、迫り來て

鬪ひ、あるは斃るまで猛氣を棄つることあらず、

アンテーノール生みたる子、アゲーノールは斯くのごと、

アキルリュウスを試めす前、退くことを敢てせず。 580

即ち圓き大盾を前にかざして、青銅の

槍もて敵を覘ひつゝ、大音あげて叫び曰ふ、

『汝、譽れのアキリュウス、正しく此日勇猛の

トロイア族の城壘の破滅を汝望めるよ!

愚かなる哉。トロイアのほとり多くの難あらむ。 585

その城門に勇猛の多數の軍は、恩愛の

親と妻子の目のあたり、此神聖のイーリオン

防がん、こゝに災難に汝は逢はむ、アキリュウス、

汝、誠に勇猛のすぐれし將士なるべきも。』

しかく陳じて剛強の手より鋭槍投げ飛ばす、 590

しかして敵の膝の下、脛部を打ちて誤らず、

新たに成りし錫製の脛甲爲に物凄く、

鏘然として鳴りひゞく、されど鋭刄刎ね返り、

討たれしものを貫かず、神の恩惠かれを守る。

つゞきて進むアキリュウス、アゲーノールを――神に似る 595

勇士をめがく、然れどもアポローンかれに光榮を

許さず、勇士引きとりて濃霧の中に隱れしめ、

つゞきてこれを戰鬪の場より靜に退かす。

策を※らすアポローン、アキルリュウスをトロイアの

軍より離し、目前にアゲーノールの姿取り、 600

佇み立てば、神速の足を搬びて迫り來つ、

やがて豐沃の野に添ひて、あとより逐へばアポローン、

少しく彼に先ちてスカマンダロス――渦卷ける

流に向ひかけ走り、巧みに策を※らして、

彼を誘ひて迅速に追ひつくことを望ましむ。 605

かなた殘りのトロイアの軍勢逃げてむらがりて、

城内歸り喜べり、彼らは城に充ち滿ちぬ。

逃れしものは誰なりや? たそ戰場に倒れたる?

之を知るべく城壁の外に立ちつゝ、同僚を

待たんずるもの絶えて無し、たゞ早急に城内に 610

その脚により膝により助かりしもの流れ入る。

第二十二歌

アポローンに欺かれて之を追ふアキリュウス、悟りて歩を轉じてヘクトールに向ふ。 ヘクトールは城中に入らず、唯一人城外に立つて敵將を待つ。 兩親城壁より聲を放つて城中に入るべく彼に勸むれど聽かず。 アキリュウス來り迫る。 其威容に驚怖して三度城の周圍を逃れ走る。 ヂュウス黄金の衡を取り出し、兩將の運命を掛く。 ヘクトールの非運決定す。 アテーネー計りてヘクトールの弟の姿を取り、彼を勵してアキリュウスに向はしむ。 決戰。 ヘクトール遂にアキリュースに討たれて死す。 其屍體の脚に革紐を通じ、兵車に結びてアキリュウスは原上を驅る。 城上より之を眺めてプリアモス王、ヘカベー、アンドロマケーの慟哭。

斯くして衆は怯れたる仔鹿の如く、城中に

逃れ歸りて汗拭ひ、身を胸壁にもたせつゝ、

冷水飮みて渇癒やす、而してかなたアカイオイ

肩の上、盾をかざしつゝ壘壁近く寄せ來る。

而して凄き運命は、イリオンの前、スカイアイ 5

城門の前、ヘクト,ルを留めて内に入らしめず。

其時プォイボス・アポローン、アキルリュウスに宣んし曰ふ、

『あゝアキリュウス、いかなれば汝、人間の分として、

不死の神たる我を斯く迅き脚にて逐ひ來るや?

汝は我を神なりと認めず、やまず暴れ狂ふ。 10

激しく破り城中に逃れしめたるトロイアの

軍を汝は打ち捨てて、こなたに向ひ來りしな。

汝は我を殺し得ず、死滅の運は我に無し。』

脚神速のアキリュウス痛く怒りて彼に曰ふ、

『飛箭の汝、一切の神明よりも凄き者、 15

敵城離れこの場に我を誘へり、さもなくば、

イリオン城に入らん前、多くは土を噛みつらむ。

汝は我におほいなる光榮奪ひ、容易くも

敵を救へり、ゆく先きの復讐汝ものとせず、

あゝ我れ之を能くし得ば汝に讐を報ひんを。』 20

しかく陳じて功名の念に燃えつゝ、颯爽と

敵城さして驅けいだす、賭に勝ちたる駿足が、

車を牽きて平原を勇み躍りて驅くる如、

斯く迅速にアキリュウス脚と膝とを搬び行く。

しかして彼が燦爛と耀き平野馳せ來るを、 25

眞先に王者プリアモス其目を擧げて認め得つ、

秋としなれば大空に夜の影ぬち、衆星の

間にありて爛々の光を放つ一巨星、

オーリオーンの狗と名を人間の世に歌はれて、

光輝最も強きもの、又凶變の徴とて、 30

激しき熱を不幸なる人類中に運ぶもの、

その星のごと驅け來る彼の胸甲耀けり。

之を眺むる老王は痛く呻めきて高らかに、

双手を擧げて頭拍ち、又高らかに聲あげて、

彼の愛兒に呼び叫ぶ、其ヘクトール門外に 35

アキルリュウスと戰ふを激しく念じ佇めり。

兩手のばして老王は聲を搾りて呼びて曰ふ、

28 シリウス、支那人は之を天狼星と呼ぶ。オーリオーンはもと獵人の名、今日の天文學上一の星座の名、隣の星座中にシリウスあり。

『あゝわが愛子ヘクトール、衆を離れて只一人、

彼の敵將を待つ勿れ、しかせば汝速かに、

アキルリュウスの手に死なむ、彼の勇武はいや優る。 40

無慚なるもの、願くは我と等しく神明が

彼を嫌ひて憎まんを、然らば狗兒と鷙鳥とは、

斃れし彼の肉食みて我の悲嘆は解けさらむ。

多くのわれの勝れし子、我より彼は奪ひ去り、

彼らを殺し、又遠き島のあなたに賣り去りぬ。 45

今又トロイア軍勢は都城の中に歸れども、

ポリュドーロスとリュカオーン、二人の愛兒我は見ず、

女性の中にすぐれたるラーオトエーの生める者、

敵軍中にもし彼ら生きつゝあらば、青銅と

黄金をもて贖はむ、わが家これに豐かなり、 50

老いし譽れのアルテースこれを愛女に頒ちたり。

さはれ彼らはすでに死し、冥王のもと行きつらば、

彼らを生める我妻と我の悲嘆はおほいなり。

されども汝ヘクトール、アキルリュウスの手に懸り、

亡ぶることのなかりせば衆の悲嘆は長からじ。 55

愛兒よ、汝城壘の中に歸りてトロイアの

男女を救へ、恐るべきアキルリュウスに、大いなる

譽與へて、貴重なる一命絶やすこと勿れ。

更に憐め、餘喘あるわれを、運命薄くして

不幸の者を――クロニオーン、われ老境に臨む時、 60

辛き非運に死なしめむ、多くの禍難繼ぎ到り、

多くの子息殺されつ、多くの息女奪はれつ、

わが宮殿は掠められ、まだ物曰へぬ幼兒らは、

激しく狂ふ戰亂の中に大地に投ぜられ、

子らの妻子はアカイアの兇暴の子に奪はれむ。 65

而して我を敵人が鋭利の刄もて斬り殺し、

あるは飛槍に打倒し魂を體より離す時、

肉食む狗は前門のほとりに、われのなきがらを

喰ひ裂くならむ、その狗はわれ宮中に食卓の

下に飼ひつゝ、わが門を守らせしもの、我の血を 70

飮みてあらびて門の前、臥さん。――年齡若きもの、

鋭利の刄つんざきて戰場中に斃るもの、

彼にすべては惡からず、死するも恨なかるべし。

されど老翁殺されて、白きかしらと白き髯、

赤裸のかばね、群犬の牙に恥辱を被らば、 75

不幸の人の世に起る無上の慘にあらざるや!』

47 ポリュドーロスは XX 407。リュカオーンは XXI 35.

62 亡國の婦人らの運命の描寫 VI 465. IX 594 參照。

老王しかく叫びつゝ、手もて頭の白髮を

無慚につかみ引き拔けり、ヘクト,ル、さはれ從はず、

その時母は潛然と涕にくれて身を起し、

右手に胸をかき開き、左に乳房引き出し、 80

涙流して翼ある言句を彼に叫び曰ふ、

77 X 16.

80 古ゲルマーネンの間にも女性が胸を開き勇士を勵ます習ありき(タチツスのゲルマニア八章)。

『あゝわが愛兒ヘクトール、これを眺めてわれの身を

哀と思へ、此乳房吸ひて汝の歡びし

昔を忍べ、あゝ愛兒、かの敵將を防ぐべく、

城壁内に歸り來よ、眞先きに彼に手向ふな。 85

あゝ彼れ無慚の敵の將、汝かの手に討たれなば、

愛兒よ、我は床のへに汝を哭くを得べからず、

富める汝の妻も然か、我ら二人を遠く去り、

アカイア軍の船のそば、犬は汝を噛み裂かむ。』

老いし二人は泣き乍ら、斯く言盡し、彼らの子 90

諫めとむれど、ヘクトール遂に心を動かさず、

迫り來れる魁偉なるペーレーデース待ちて立つ。

譬へば山の洞窟に近づく人を覘ふ蛇、

毒草はみてものすごく、怒に滿ちて爛々の

眼をかゞやかし、窟内にとぐろを捲きて待つ如し、 95

かくヘクトール烈々の勇氣に滿ちて退かず、

耀く盾を城壁のその突角にたてかけて、

太き吐息に慨然と其胸中に陳じ曰ふ、

94 毒草を食ひて蛇は毒を有すと古人は信じたり(アエリアン動物誌六ノ四)。

98 アゲーノールの獨語參照 XXI 553 以下。

『あゝ何とせむ! 城門の中に我もし今入らば、

プーリュダマスは眞先に我を咎めむ、剛勇の 100

アキルリュウスの起てる時、夜に乘じて城中に、

トロイア軍を引くべしと彼は其時説きたりき、

されども我は聽かざりき。聽かば遙かに宜かりしを。

わが執拗の故により多くの衆を失へる

今われ、トロイア軍勢と、裾長く曳く女性らを 105

恐る、われより劣る者、他日或は斯く曰はむ、

「力頼みてヘクトール多くの衆を失へり」

かくは宣ぶらむ。さらば今アキルリュウスと戰ひて、

彼を倒して歸る事、或は城の前にして、

彼に打たれて、光榮の死を遂ぐる事優ならむ。 110

或は若しも隆起ある盾をわれ棄て、堅牢の

甲を棄てゝ城壁に槍を立てかけ、身の圍り

武裝なくして剛勇のアキルリュウスの許に行き、

彼に約さむ、爭の基となれるヘレネーを、

――更にパリスが舟のへに彼の資財を悉く 115

携へ來り、トロイアの城中收めし者を皆、

アートレ,デースに返すべく、更に加へて此都市に

隱せし富をアカイアの衆に等しく頒たんと、

而して次ぎに長老によりて盟をトロイアに

盟はしむべし、何物も隱さず、すべて一切を 120

――美なる都城に藏むるを出し二つに分たんと。

さはれ何故わが心かゝる思を念ずるや?

否、否、行きて訴を彼に爲すまじ、我を彼

憐まず、又重んぜず、弱き女性を見る如く

武具悉く棄て去りて防備なき身を屠るべし。 125

否、否、今は彼と共、談じ合ふべき時ならず、

巨木の下に岩蔭に、若き男女の喃々と

語らふ如く、我は今彼と談ずる時ならず。

會戰こそは優ならめ、やがて知るべし、クロニオーン、

我と彼とのいづれにか勝の光榮與ふるを。』 130

102 XVIII 254 以下。

しかく念じて待つ彼に迫り來れるアキリュウス、

軍神アレース見る如く、兜はげしく搖がして、

右手に高くペ,リオンのすごき大槍ふりかざし、

鎧ふ青銅輝きて、炎々燃ゆる火の光、

あるは瞳々のぼり來る旭日の光見る如し。 135

かくと眺めしヘクトール、恐怖に滿ちて其場に、

敢て留らず怱忙と城門あとに逃げ出す。

そを神速の脚飛ばし、逐ひかけ走るアキリュウス、

そを譬ふれば禽鳥の中に最も迅きもの、

深山の鷹が颯爽と戰く鳩を打つ如し、 140

鳩は斜めに身をかはす、鷹は鋭き聲あげて、

飽く迄之を捕ふべく絶えず激しく飛びかゝる、

正しくかくもアキリュウス激しく走る、かなたには、

トロイア城の壁の下、恐れて驅くるヘクトール、

二將かくして警哨の地點、並びに風搖ぐ 145

無花果過ぎて、壁の下、車道に沿ひて馳け走り、

スカマンダロス渦卷ける其源泉に滾々と、

水美はしく二筋に溢るゝほとり來り着く。

泉の一つ熱き水、流のほとり湯氣立ちて、

炎々燃ゆる薪より烟の立つを見る如し、 150

他の泉は盛夏にも流極めて冷かに、

雹霰又は白雪に又寒氷に觸る如し。

此泉流の側に又石に組まれし洗淨の

廣き場あり、そのむかしアカイア人の寄せざりし

平和の時に、トロイアの士人の妻と、佳麗なる 155

息女と來り、光澤の衣此場に洗ひたり。

此場過ぎて一は逃げ、他はうしろより之を逐ふ。

逃げ行く彼の剛勇に更に勝りて、勇猛の

此ははげしく追ひ迫る。世の競走の賭となる

牛皮或は牲を彼ら望まず、賭くるもの、 160

駿馬を御するヘクトール、其名將の命のみ。

賭を得るべく單蹄の駿馬はげしく終局の

地點――そこには戰歿の人の記念にすぐれたる

賭物――鼎あるは女子おかるゝ處、――さして飛ぶ、

正しく斯くも兩勇士イリオン城を三たび迄、 165

飛ぶが如くに馳け※る。すべての神は之を眺む。

その時、人と神の父、眞先に彼らに宣んし曰ふ、

146 VI 433.

148 此二筋の水は實際存す、されどトロイアを二十マイル隔てし處にあり。

163 神の祭禮に競技を爲すことは、ホメーロス以後のグリース風俗。

165 紫宸殿をめぐりて源義平と平重盛との驅馳に似たり。

『あゝ無慚なり!我は今、愛する者が、城壁の

めぐりに逐はれ行くを見る、憐れなる哉ヘクトール!

彼は多くの牛の股炙りてわれに捧げたり、 170

あるはイデーの連峯の上、又時に城中の

最も高き壇の上、――彼を勇武のアキリュウス、

脚を飛ばしてプリアモス王の都城をめぐり逐ふ。

汝ら諸神今計れ、計慮誤ること勿れ、

彼の死滅を救はむか? あるひは惜しき勇將を、 175

ペーレーデース・アキリュウスの手を今借りて倒さんか?』

174 XVI 433―438.

藍光の眼のアテーネー其時答へて彼に曰ふ、

『雷火を飛ばし雲湧かす君、今何の仰せぞや?

運命すでに定れる彼を、生死の人の子を、

恐怖の死より今も尚、君救はんと宣んするや? 180

爲さまくば爲せ、一切の他の神明は喜ばず。』

雷雲寄するクロニオーン其時答へて彼に曰ふ、

『トリトゲネーア、わが愛女、心安かれ。定まれる

心よりして我曰はず、汝にわれは辛からず、

汝の胸に思ふ儘、行へ、何ぞためらふや?』 185

しか宣んすれば、アテーネー――既にこの事望みたる

神女勇みて颯爽と、ウーリュンポスを飛びくだる。

かなた脚疾きアキリュウス、絶えずヘクトール逐ひ走る、

譬へば山に狩の犬、籠れる巣より鹿の子を、

驅り立て、谷を林藪を過ぎて激しく逐ふ如し。 190

可憐の仔鹿怖ぢ震ひ、繁みの内に隱るれど、

足跡したひ絶間なく逐ひ來る犬は探り出す、

斯くの如くにヘクトール、アキルリュウスを逃れ得ず。

堅固の構、壁の下、ダルダニエーの子らの門、

壁の上より矢を飛ばし助くる者のあるべきを、 195

望みてこゝに驀地、彼は駈けんと幾度も

焦せるも、敵は遮りて彼に先んじ、平原の

方にと彼を追ひまくり、身は城壁に近く馳す。

夢の中にて逃げ走る者に逐ひつくことを得ず、

また逃ぐるもの逐ひ來る人を免ることを得ず、 200

斯く一方は達し得ず、他方等しく逃れ得ず。

これ迄いかにヘクトール死の運命を免れし、

神プォイボス・アポローン彼のかたへに近づきて、

勇氣を鼓舞し迅速の膝を勵ますことなくば?

今剛勇のアキリュウス、頭を曲げて友僚に 205

相圖なしつゝ、ヘクト,ルに飛刄を放つ勿らしむ、

他は功名を先きに得て我れ次なるを恐るれば。

かくして二人今四たび泉のほとり來り着く。

其時ヂュウス黄金の衡取り出し、皿の中、

二つ死滅の運命の錘をおけり、其一は 210

アキルリュウスの、他は敵の將ヘクト,ルの持てる運。

衡のもなか手にとりて秤れば、垂るゝヘクト,ルの

運は冥王のもとに行く、アポローン遂に彼を棄つ。

藍光の目のアテーネー其時來り近づきて

アキルリュウスを勵まして羽ある言句陳じ曰ふ、 215

209 VIII 69―72.

『ヂュウスの愛兒、光榮のアキルリュウスよ、我々は

今こそ望め、戰鬪に飽くこと知らぬヘクト,ルを

倒し、アカイア水陣に偉大の譽搬ぶべし。

彼は今こそ我らの手遁るゝことを許されず、

飛箭鋭きアポローン、アイギス持てる天王の 220

前にひれ伏し哀願に力こむるも效あらじ。

さもあれ汝今立ちて休らへ、我は走り行き、

彼に勸めむ、まのあたり汝に向ひ戰へと。』

しかく宣んするアテーネー、勇將喜び之を聞き、

青銅の穗の大槍に身をもたせつゝ立ち留る。 225

そをあとにしてアテーネー、敵將めがけ走り來つ、

デーイプォボスの身相と高き音聲、その儘に

贋せて傍に近よりて、羽ある言句陳じ曰ふ、

227 彼の音聲 XIII 413 參照。

『あゝわが家兄、脚速きアキルリュウスは君を攻め、

飛ぶが如くにイリオンの都城※りて君を逐ふ、 230

いざ今共に立ち留り、彼を迎へて戰はむ。』

堅甲振ふおほいなる將ヘクトール答へ曰ふ、

『デーイプォボスよ、汝をばプリアモス王、ヘカベーの

双親うめる兄弟の中に最も我愛でき、

今は一層胸の中、我は汝を尊ばむ、 235

事の危急を眺め得て、敢てわが爲城壁の

外にいしくも來れるよ、他は皆中に留るに。』

目は藍光のアテーネー、彼を欺き答へ曰ふ、

『家兄よ、げにもわが父とわが恩愛の母及び

あたりの諸友、わが膝をかはる/″\にかき抱き、 240

出づる勿れと警めき。(さほどに彼ら畏ぢ震ふ)

しかはあれども、わが心痛く悲哀に滿たされき。

いざ今勇氣振り起し、まともに彼と戰はむ、

槍を惜まず戰はむ、かくて知るべしアキリュウス、

汝の槍に斃るゝか、あるは我らを打倒し、 245

血潮に染める戰裝をその水陣に持ち去るか?、』

しかく陳じてアテーネー彼を欺き先に立つ。

斯くして近く彼と此、兩敵互に相進み、

堅甲振ふヘクトール眞先きに口を開きいふ、

『ペーレーデース、先の如、我は汝に今怖ぢず。 250

三たびイ,リオンおほいなる都城の※りわれ走り、

襲ふ汝を待たざりき。されども今はわが心、

討つも或は討たるゝも汝に向ひ立てと曰ふ。

さはれ諸神をもろともに仰がむ、彼ら最上の

證者たるべし、諸の誓約彼ら護るべし。 255

若しもヂュウスの寵により、汝に勝ちて生命を

奪はゞ、我は汝の身、無慚に害すことをせず、

たゞ莊麗の武具を剥ぎ、終りて死屍をアカイアの

軍の手許に渡すべし、汝同じく之を爲せ。』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、 260

『忘れぬ恨、ヘクトール、誓約敢て曰ふ勿れ、

獅子と人との間には堅き約束あるを得ず、

狼及び小羊の間同じき心無し、

彼らは常に相互只傷害の思念のみ、

斯くの如くに戰鬪に飽かざる武神アレースを、 265

紅血をもて飽かす前、汝と我の間には、

愛の協定あるを得ず、誓約絶えてあるを得ず。

あらゆる勇氣振り起せ、今こそ汝投槍を

巧みに使ふ勇猛の戰士とおのが身を示せ。

逃るゝ道は既に無し、わが槍によりアテーネー・ 270

パラス汝を亡さむ、今こそ汝償はめ、

暴びて槍に倒したるわが友僚の悲しみを。』

しかく陳じて影長き大槍揮りて投げ飛ばす、

之をまともに確かと見て、巧みに避けしヘクトール、

身を屈むれば其上を青銅の槍飛び過ぎて、 275

大地に刺さる、こを拔きて私かにパラス・アテーネー、

ヘクト,ルの目に觸れずしてアキルリュウスの手に渡す。

その時ヘクト,ル剛勇のアキルリュウスに向ひ曰ふ、

『あゝ神に似るアキリュウス、汝誤る、ヂュウスより

わが運命をまだ聞かず、空しく言を弄ぶ、 280

汝巧みに喋々し、われを欺き、われをして、

汝を怖れ勇と意氣忘れしめんと念ずるや?

汝は槍に逃れ行く我が身の背をばよも刺さじ、

勇氣溢るゝわが胸を刺せ、神明の寵あらば。

いざ今汝青銅のわが鋭槍に心せよ、 285

汝の肢體願くはまともに受けよわが飛刄、

然らばトロイア軍勢に此戰は易からむ、

その最大の禍難たる汝生命失ひて。』

しかく陳んじて影長き大槍揮りて投げ飛ばし、

アキルリュウスの大盾のもなかを打ちて誤らず、 290

されども盾を貫かず、槍は之よりけし飛びぬ。

其手中より徒らに飛べるを怒るヘクトール、

他の鋭槍を持たざれば頭を垂れて佇みつ、

デーイプォボスに盾白き勇士に高く呼びかけて、

求む一條長き槍、されども彼ははや見えず、 295

はじめて悟るヘクトール大息しつゝ叫び曰ふ、

294 錫を以て盾の表を蓋ふ。

『あゝ無慚なり、もろ/\の神明われを死に呼べり。

デーイプォボスは勇を鼓し傍にありと思ひしに、

さならず、城の中にあり、我を計れりアテーネー。

恐るべき死は今前にわれを去ること遠からず、 300

逃るゝことは得べからず、とくの先よりクロニオーン、

また箭を飛ばすアポローン、之を望めり、一たびは

われを愛して守りしも、――今運命は迫り來ぬ、

されど空しく譽なく生を終らん我ならず、

すぐれし業を爲し遂げて未來にわが名響かせむ。』 305

堅甲振ふヘクトールしかく陳じて、腰の上

懸けし鋭きおほいなる、劍を颯と拔きかざし、

勇を奮ふて飛びかゝる――大空翔くる荒鷲が、

黒き雲より平原に勢猛く舞ひ下り、

あるは可憐の小羊を、あるは怯れし子兎を、 310

襲ふが如くヘクトール鋭刄かざし飛びかゝる。

同じく進むアキリュウス、激しき勇氣其胸を

滿たし、華麗の精巧の大盾かざし胸の上

蓋ひて、四つの隆起ある輝く兜ゆるがせば、

ヘープァイストス神工が其頂邊に植ゑしもの、 315

燦爛として美はしき金の冠毛打震ふ。

夕暗寄する天の上、群がる星の中にして、

宵の明星――天上の中の最も美なるもの、

光るが如く、アキリュウス右手に揮ふ鋭刄の

槍ひらめかし、剛勇の將ヘクトール倒すべく、 320

その壯嚴の身の中に隙ある處打ち覘ふ、

されど全身悉く、パトロクロスを亡して

奪ひ取りたる青銅の、美麗の武具におほはれつ、

露出はひとり咽喉部、そこに鎖骨は頸部より

肩を分ちて、生命の亡び最も疾きところ、 325

そこを目がけてアキリュウス、烈しく飛ばす大槍の、

覘たがはず鋭刄は敵の頸部を貫けり。

たゞ青銅の重き槍、喉笛はづれ、ヘクト,ルに

なほも言句を吐かすべき一縷の望猶殘る。

其時伏せる敵將にアキルリュウスは誇り呼ぶ、 330

314 V 743.

『パトロクロスの武具奪ひ、安しと汝思ひしか?

わが遠ざかる故をもて畏怖知らざりしヘクトール、

愚かなるかな、船の中、彼と離れて彼よりも

大なるもの、我ありき、今や汝を打倒し、

彼の怨を復さんず。汝の屍體辱しめて、 335

狗と鷙鳥は噛み裂かむ、彼をば友は葬らむ。』

堅甲振ふヘクトール息絶え/\に答へ曰ふ、

『汝の命に、また膝に、また兩親にかけて請ふ、

舟のかたへに、アカイアの狗にわが身を裂かしめな、

わが父及び端嚴の母が、汝に拂ふべき 340

青銅及び黄金を豐かに汝受け納れて、

我の死體をイリオンに還せ、故郷にトロイアの

男女ひとしく清淨の焔に我を燒かん爲。』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、

『わが膝にかけ兩親にかけて哀願する勿れ。 345

汝與へし禍を思ひて怒るわが心、

われに勸めん、劈きて生の汝の肉食めと!

汝の頭噛み碎く狗を禦がん人あらじ、

否、否、十倍二十倍増して賠償もたらすも、

否、否、更におほいなる約を爲すとも肯はず、 350

ダルダニデース・プリアモス、その等量の黄金に、

汝の屍體償ふを命ずるとても肯はず、

汝を生める恩愛の母は、床のへ載せらるる

汝を嘆くことを得ず、狗と鷙鳥は噛み裂かむ。』

347 IV 34.

堅甲振ふヘクトールいまはの際に彼に曰ふ、 355

『あゝ我汝を善く觀ず、汝に請ふは不可なりき、

汝の心硬くして抂ぐべくあらじ、鐵に似る。

さはれ、恐れよ、神々の復讐われぞ祈るべき、

汝いかほど勇なるも、パリスとプォイボス・アポローン、

スカイエーの城門のわきに汝を討ち取らむ。』 360

355 パトロクロスの最期の言參照。(XVI 854)

359 XIX 410.

しかく陳ずる彼を今、死の暗黒はおほひ去り、

その運命を泣き乍ら、青春及び剛勇を

あとに殘して體はなれ、魂は冥王のもとに行く、

死體に向ひ剛勇のアキルリュウスは叫び曰ふ、

『亡べ、我また運命を受けむ、正しくクロニオーン、 365

及び其他の諸神靈わが臨終を望む時。』

365 XVIII 115.

しかく陳じて屍體より其青銅の槍を拔き、

傍に之を捨て置きて、敵の肩より血まみれの

武具を剥ぎ取る。而して他のアカイアのわかき子ら、

あたりを圍み、ヘクト,ルの躯幹並びに雄麗の 370

姿を檢し、近寄りて各死屍を傷けつ、

各之を見守りて隣れる者に陳じ曰ふ、

371 ペルシヤ戰爭にペルシヤ將軍の死體をグリース軍が檢して其躯幹の大と美とを贊せしことヘロドートスの史(IX 25.)にみゆ。

371 死屍を傷くるは同僚がヘクトールに殺されしに報ゆるならむ。

『見よ、ヘクト,ル觸るゝべく今は遙かに柔ぞ、

先きに猛火にわが船を燒かんとしつる時よりも。』

しかく陳じて近寄りて彼ら各死屍を打つ。 375

脚神速のアキリュウス勇士は武具を剥ぎ終り、

アカイア軍の中に立ち彼らに向ひ陳じ曰ふ、

『あゝわが友ら、アカイアの諸將並びに統率者、

他の一切の人凌ぎ、禍害を多く行へる

この人間を、亡ぼすを神明われに許したり、 380

いざ今立ちて軍勢を率ゐて都城攻め寄せむ、

トロイア軍は何らの意今や抱くか知らんため、

彼の者すでに死したれば高き城市を棄つべきや?

あるはヘクト,ル亡べるも猶殘らんと念ずるや?

さはれ何故わが心かゝる思念を生ずるや? 385

パトロクロスの屍體今船のかたへに横はり、

まだ哀哭と弔祭を受けず、わが生ある限り、

わが兩脚の行く限り、我は彼の人忘られず、

冥王のもと逝ける者、そを人々は忘るとも、

われはそこにも懷しきわが同僚を思ひでむ。 390

いざ今行かん、アカイアの若き人々、高らかに

凱歌うたひて、船の中彼の屍體を携へよ、

トロイア人士一齊に神の如くに崇めたる

將ヘクトール打ち倒し、偉大の功を揚げ得たり。』

しかく陳じてヘクト,ルを辱しむべき法案じ、 395

其踵より踝に左右の足に孔穿ち、

こゝに牛皮の強き紐貫き通し、其端を

兵車に繋ぎ、頭をば無慚に地上に引きずらせ、

耀く武具を積み入れてかくて車臺の上に乘り、

鞭を當れば揚々と飛ぶが如くに兩馬馳す。 400

屍體曳かるゝ地上より斯くてうづまく砂烟、

黒髮亂れ、先までは美麗の頭、塵埃に

まみれ汚れぬ、クロニオーン斯く讐敵にヘクト,ルを、

彼の祖先の郷の上辱しむるを許容しぬ。

斯く塵埃に其頭まみれ汚るゝ無慚なる 405

姿眺めて、恩愛の母は白髮掻きむしり、

美なる面※打棄てゝ聲を搾りて泣き叫ぶ。

しかして彼の恩愛の父も悲痛の聲放ち、

全市ひとしく哀悼と慟哭の聲滿ち亙る。

高きイリオン悉く猛火に燒かれ、高樓の 410

上より下に至る迄、皆亡び去る時や斯く?

聖イリオンの城門を出でんと焦せり悲しめる

王プリアモス留むべく、ほどほど衆は苦めり。

その各の名を呼びて、塵土の中に這ひながら

痛くも泣ける老王は、哀願しつゝ叫び曰ふ、 415

『留むる勿れ、わが友ら、懸念誠に然りながら、

我れ身一つに城を出で、アカイア軍を訪はしめよ、

行きて無慚の兇行の彼に哀訴を試みむ、

或は彼は老齡を崇め白髮憐みて、

我に聽かむか。彼も亦、父あり、即ちペーリュウス、 420

彼を生みいで養ひて、トロイア族の禍と

ならしめ、特に一切に優りて我を嘆かしむ、

榮行くわが子幾人を彼は無慚に斃せしか!

さはれ彼らの一切を悲しみ乍ら、ヘクトール

只一人ほど我泣かじ、彼を慕ひて冥王の 425

もとに行かまし、あゝわが兒、我に抱かれ死すべきを!

さらば勝れし子を生める母と我とはもろともに、

心ゆくまで哀悼の涙をそゝぎ得べかりき。』

泣きつゝ斯くぞプリアモス、衆人同じく又泣けり。

ついでヘカベー、トロイアの女性の中にまづ哭す、 430

『あゝわが愛兒、汝逝く、我いかにして恐るべき

災忍び生くべきや! 全都に亙り日に夜に、

われの誇のあゝ汝、神の如くにトロイアの

男女は彼の救たる汝仰げり、生あらば

彼に對しておほいなる譽なりきを、今にして、 435

無慚なる哉、運命と死とは汝を捕へたり。』

母は泣きつゝ斯く陳ず、然かはあれどもヘクト,ルの

妻は何をもまだ知らず、いかなる人も使者として、

彼の夫の城外にあるを如實に知らせ來ず、

高き館の奧深く、機を設けて紫の 440

二重の衣織りなして、種々の刺繍を施しつ。

鬢毛美なる侍女を呼び、館の中におほいなる

鼎を据ゑて火を燒きて、戰場よりしヘクト,ルの

歸らん時の沐浴の備なさしむ、無慚なり、

沐浴既に用あらず、目は藍光のアテーネー、 445

アキルリュウスの手によりて彼を討ちしをまだ知らず。

さはれ慟哭哀痛の聲はひゞけり塔の上、

聞きて思はず膝震ひ梭を地上に取り落し、

風鬟霧鬢美しき侍女に向ひて陳じ曰ふ、

449 王漁洋の句を借る。原語を直譯すれば「美はしき髮の」。

『附き來よ、汝の中二人、今何事の起りしや? 450

われの尊む姑の聲今聞ゆ、自らの

胸裏心は口までも躍り、わが膝今しびる、

プリアモス王生める子ら、彼らに危害迫るらし。

かゝる事をばわが耳よ、聞かざれ、さはれ我恐る、

彼れ神に似るアキリュウス、わが剛勇のヘクト,ルを 455

獨り、城よりかけ隔て平野の上に逐ひまくり、

其一身を領したる激しき勇氣今すでに

亡したるにあらざるや? ――あゝわが夫、群衆の

中に殘らず、一切に勇氣まさりて先を驅く。』

457 VI 407.

しかく陳じて鼓動する胸を抑へて、屋形より 460

狂せる如く走りいづ、二人の侍女は從へり。

斯くして彼ら塔上に群衆中に着ける時、

壁上立ちて目を放ち、城のかなたに良人の

曳きずられ行く姿見る、足とき駿馬無情にも、

アカイア軍の水陣に勇士の屍を曳きて行く。 465

かくと認めし双眼を暗黒の夜はおほひ去り、

可憐の夫人のけざまに倒れて息は絶えかかる。

かくて彼女の頭より華麗の飾ほどけ落ち、

額の上の天卷も、髮を束ぬる網も解け、

面をおほふ帛も落つ、アプロヂテーの贈物、 470

その贈りしはヘクトール、エーイチオンの館より、

婚資豐かに與へつゝ、彼女娶りて連れ來し日。

今倒れたるそのめぐり夫の姉妹、兄弟の

妻女もろとも集りて、息絶え/\の身を抱く。

息吹返し胸中に心再び覺めし時、 475

はげしく呻めき、トロイアの女性の中に陳じ曰ふ、

『あゝヘクトール、わが良人、われは薄命、君と我

同じき運に生れたり、君トロイアにプリアモス

王の館に、我はまたプラコスの下、森繁る

テーベー城に、エーイチオーン幼き我を館の中、 480

不幸の我をはぐくみき。ああ生れずば、善かりしを!

あゝ君今や暗の底、冥府の神の宿に行き、

われを館に、無慚なる嘆きの中に、寡婦として

あとに殘せり、はたわが子、――共に不幸の君と我と

生みたるわが子、いはけなく未だ言語を善くし得ず。 485

あゝヘクトール! 君死して彼に何らの助なし、

彼また君を助け得ず。彼アカイアの戰を

逃れ得るとも、其後に嘆きと惱いたるべし、

彼の領土を他のものは非道に奪ひ掠むべし。

孤兒となる日に一切の友悉く失はる、 490

彼の頭は低く垂れ、彼の頬のへ涙垂る。

乏しき時にその父の舊友彼は訪ひ行きて、

哀を求めて裾を曳き、上着を曳くも效なけむ、

憐む友のある者は小さき盃取り出し、

彼の唇潤すも彼の喉をば潤さじ。 495

又双親を持つ者は手を擧げ彼を打ち乍ら、

其厨より彼を逐ひ、罵辱の言句浴びすべし、

「立ち去れ、汝、我が家に汝の父も招かれず」

斯くて涕涙潛として寡婦なる母に歸り來ん。

アスチュアナクス、あゝわが子! 昔は父の膝の上、 500

ひとり羊の脂ぎる肉と髓とを口にしつ、

而して眠襲ふ時遊戲を棄てて閨に入り、

乳母の腕に抱かれて、心しづかに喜びに

滿ち、柔軟の床の上、夢路たどりしあゝわが子。

恩愛の父失ひて今はた彼は惱むべし、 505

アスチュアナクスとトロイアの衆人汝の名を呼べり。

あゝヘクトール獨り君、トロイア城を禦ぎたり。

今は蠢めく蛆虫は、親を離れてアカイアの

舟の傍に狗の口、飽かず赤裸の君噛まむ。

女性の手にて作られし美なるいみじき褥今、 510

館の中に空しくも歸り來らぬ君を待つ。

されど此らを悉く猛火にかざしわれ燒かむ、

君にとりては用あらず、此上君は身を据ゑじ、

トロイア男女の目の前にこを燒き棄てん君の名に。』

涕涙切に斯く呼べばすべての女性また泣けり。

480 VI 396. I 366.

487 487―499 は後世の加筆なるべしとてアリスタルコスは棄つ。

506 「城を守る者」VI 402.

第二十三歌

ミルミドネス軍團と共に、アキリュウスはパトロクロスの死體を哭す。 葬禮の宴を設く。 疲れて睡るアキリュウスの夢に、パトロクロスの靈現はれて親しく共に語り、アキリュウスの死の後ち遺骨を共に一器に納めよと請ふ。 朝に到りアガメムノーン諸軍に命じて火葬のために伐木せしむ。 かくて縱横百尺の火葬臺を設け、パトロクロスの屍を載せ、衆多の牲と共に之を燒く。 ボレアス、ゼプュロス二位の風の神、祈に應じ來りて火※を盛ならしむ。 翌日遺骨を瓶に納めて陣中に齎らす、墳墓の位置を定む。 葬儀の禮として種種の競技を行ふ。兵車競走、拳鬪、角力、徒歩、競走、槍、投盤、弓、投槍。

彼ら斯くして城中に悲しみ泣けり、こなたには、

アカイア軍は水陣に、ヘレースポントスさして來つ、

衆は散じて陣を解き、各おのが舟に行く。

ミルミドネスを然れどもアキルリュウスは散らしめず、

即ち彼の勇猛の部下に向ひて陳じ曰ふ、 5

1 獨逸第二の詩豪シラは本歌を過度に贊す、「此篇を讀みて人は生き效あり」云々。

2 VII 86.

『ミルミドネスの諸勇士よ、友よ、駿馬を御する者、

まだ兵車より單蹄の軍馬を外すこと勿れ、

軍馬並びに兵車率て、近きに寄りて亡びたる

パトロクロスを弔はむ、死者に對する酬なり。

心往く迄哀悼を致し終らば、其後に 10

軍馬を解きて而してこゝに食事を共にせむ。』

10 「慟哭は悲を癒やす」――アイシュロス(エスキユーラス)。

しかく陳じて哀號を爲せば衆人また哭す。

即ち三たび死屍めぐり、鬣美なる馬を驅る、

しかしてテチス衆人に悲哀の情を起さしむ。

かくして岸の砂原も、衆の武裝も涕泣の 15

涙にぬれつ、敵にとり恐怖の的の英雄を、

悲しむ中に、先に立つペーレーデース、強き手を

其亡友の胸にのせ、慟哭しつつ叫び曰ふ、

17 XVIII 316.

『パトロクロスよ、冥王の宿に於ても歡喜せよ、

先に汝に約したる事一切を今爲さむ、 20

こゝに曳かれしヘクトール、狗に與へて噛ますべく、

トロイア族の美麗なる小兒こぞりて十二人、

首を火葬の壇の前、刎ねて汝を弔はむ。』

20 XVIII 335.

しかく陳じて剛勇の將ヘクトールの屍の

恥辱を案じ、亡友の死屍のかたへに、塵中に 25

俯伏さしめぬ――而して部衆おのおの青銅の

輝く鎧脱ぎ棄てて、嘶く戰馬解き放つ、

斯くして衆は脚速きアキルリュウスの舟のそば、

寄れば其前豐かなる葬禮の宴備へらる。

酷き刄に屠らるる多くの牛は悲鳴あげ、 30

多くの羊鳴き叫び、山羊また牙の眞白なる

家豚、脂肪に富める者、共にひとしく炎々の

ヘープァイストスの火の上に、調理のために炙られつ、

死體のあたり杯を滿たすばかりに血は流る。

やがてアカイア諸將軍、その主領たるアキリュウス、 35

友を悼みの痛恨にひたるを強ひて説き勸め、

彼を導き衆の王アガメムノーンに到らしむ。

アガメムノーンの陣營に衆人やがて着ける時、

直ちに音吐朗々の傳令の徒に命下し、

巨大の鼎据ゑ付けて、熱湯わかし剛勇の 40

アキルリュウスを促して其血痕を清めしむ、

されども彼は飽く迄も之を否みて誓ひ言ふ、

『あらゆる神の中にして至上至高のクロニオーン、

彼に盟ひて我は曰ふ、パトロクロスを淨火もて

焚きて、勇士の記念建て、わが髮斬るに先ちて、 45

わが頭上の血痕を洗ひさること許されず、

われ人界にある間、かゝる悲哀はまたあらじ。

さもあれ今は葬禮の宴に就くべし。而して

アガメムノーン、衆の王、明くるあしたに衆人に

命じ薪を取らしめよ、而してすべて暗深き 50

冥府に沈む勇將に、供ふべきもの整へよ、

斯くして※炎々と屍體を燒きて其姿

消すべし、かくて衆人は戰場さして向ふべし。』

しか陳ずれば衆人は其言聽きて從へり。

かくて衆人意を盡し、食事を備へ、平等の 55

分をおの/\分ち得ておの/\心飽き足れり。

かくて衆人飮食の願を滿たし飽ける時、

おの/\起ちて陣營の中に歸りて床に就く。

ミルミドネスの衆軍の中に脚疾きアキリュウス、

激しく呻めき喘ぎつゝ、高鳴る海の岸の上、 60

岸を洗へる潮流の淨めし場に横はる。

風吹きあらぶイリオンのめぐりヘクト,ル追ひ行きて、

強き肢體も疲るれば、やがて甘美の柔かき

眠の靈はおとづれて、胸より悲哀ふりほどく。

その時彼に臨み來るパトロクロスの幽魂は、 65

身の丈け及び美はしき双の目、更に音聲も、

衣服もすべて悉く、ありし昔の儘にして、

友の頭の上近く立ちて即ち陳じ曰ふ、

『汝は眠る、アキリュウス、汝は我を忘れしや?

生ける間は忘れねど死すれば汝忘るゝや? 70

冥王の門過ぎんため、葬れ、我を速かに。

惱み亡べるもろ/\の靈はわが身を追ひのけて、

しかして我の河を過ぎ、共に混じるを喜ばず、

かくて冥府のおほいなる門のほとりにわれ迷ふ。

いざ我に貸せ汝の手、われの涙の願なり、 75

淨火一たび身を焚かば我れ冥王の許去らじ。

他の僚友を別にして、汝と共に計策を

講ぜんことはもはや無し、わが生れより一身に

定り來る運命は、酷くもわれを亡せり。

而して汝アキリュウス、神に等しき汝また、 80

トロイア城の壁の下、死すべき運は定れり。

我また一事君に乞ふ、君願はくは之を聞け、

我の遺骨をアキリュウス、汝のそれと分たざれ。

骰子の遊びに憤り、心ならずも誤りて、

アムフィダマスの子をわれの殺せし昔、復讐を 85

メノイチオスは恐ぢ怖れ、幼き我をオポエスの

故郷をあとに連れ出し、汝の家に托したり、

其時騎將ペーリュウス、汝の父は慇懃に、

我を養ひはぐくみて、臣下となして同じ家に

汝と我を住ましめき、死後も同じく住ましめよ、 90

神母汝に與へたる一つの容器、黄金の

瓶に願はく我々の骨はもろとも收まらむ。』

73 冥土の河、但しいづれの河か、ホメーロス詩中には明かならず、後の詩人によればスチュクス。

78 屡※誕生と同時に人の非運は定めらる。XVIII 535.

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、

『最愛の友、何故にこゝに來りて、一々に

此事爲せと命ずるや?此らの事を悉く、 95

汝の爲に行ひて汝の命に從はむ。

さはれ一層わが傍に近づき來れ、願くは

しばしなりとも抱き合ひ、悲痛の思ひ飽かすべし。』

しかく陳じてアキリュウス双の腕をのぶれども、

觸れ得ず、靈は微かなる悲鳴を擧げて地の下に、 100

烟の如く消え去りぬ、驚き覺むるアキリュウス、

左右の兩手を相拍ちて悲痛の聲を放ち曰ふ、

『痛ましきかな、げに人は冥府の王の宿にすら、

魂あり、影あり、然れども生氣は全くそこに無し。

あゝ薄命のわれの友、パトロクロスの幽魂は、 105

泣きて呻めきて夜もすがら、われの傍に近づきて、

云々の事なせといふ。影は不思議に生ける儘。』

104 死者についてのホメーロス時代の觀念。

しかく陳じて衆人に悲泣の念を起さしむ。

今薔薇色の指もてる『曙』出でて、無慚なる

死體を嘆く衆照す。アガメムノーン衆の王、 110

その時四方の陣屋より人と騾馬とを勵まして、

木を運ばしむ、而してメーリオネース、剛勇の

イドメーニュウスの部將たる彼れ先に立ち導けり、

衆は即ち伐木の鋭利の斧を手に握り、

又よく縒りし繩を取り、騾馬を先立て進み行く、 115

斯くして登り又降り、或は斜め或は横、

行きて泉流豐かなるイデーの峯に到り着き、

急ぎて直ぐに鋭刄の青銅採りて、巨大なる

樹木を打てば、おほいなる音響たてゝ地に倒る、

アカイア勢は引きつゞき、之を斷ち切り騾馬の背の 120

上に載すれば、一列は蹄大地を蹴り乍ら、

繁き林藪穿ちつゝ、平野に向ひ急ぎ行く、

イドメーニュウスの部將たるメーリオネース命ずれば、

幹を倒せる衆人も、各割木背に負へり。

運び來りて岸の上、アキルリュウスが友のため、 125

身のため墓ときめし場に、材を衆人おきならぶ。

斯くて衆人四方より多量の材を集め來て、

こゝに身を坐しやすらへり。アキルリュウスは其時に、

ミルミドネスの勇士らに命を下して、青銅の

鎧着けしめ、おの/\の兵車に馬を繋がしむ、 130

衆は急ぎて立ち上り、しかして武裝整へり。

車臺に乘るは戰鬪の勇士並びに駕御の伴、

騎士は先立ち、其後に無數の歩兵隨ひて、

パトロクロスの屍を同僚まなかに擔ひ行く。

彼らは更に毛髮をおの/\斬りて屍體の 135

上に蓋へり、アキリュウス後につきて其頭、

手に觸れ泣きて、愛友を冥土の旅に送り行く。

135 古代の一般の習。

斯くして先にアキリュウス定めし場に到り着き、

屍體をおろし、速に山の如くに薪積む。

脚神速のアキリュウスその時一事また案じ、 140

火葬の場を離れ立ち、スペルケーオス河の神、

その爲育て長うせし黄金色の髮を切り、

即ち暗緑の海眺め慨然として叫び曰ふ、

141 XVI 174.

『あゝスペルケー、空しかり、君に我父ペーリュウス

立てし誓は――懷しき故郷にわれの歸る時、 145

わが金髮を君に切り、聖なる牲をたてまつり、

更に五十の牡羊を、君の神苑――香烟の

かをれる壇に程近き流に投じ捧げんと、

われの老父は誓ひしも、君は其意を成らしめず。

我は祖先のなつかしき故郷に歸る命ならず、 150

パトロクロスにわが髮を與へ携へ行かしめむ。』

しかく陳じて愛友の手に金髮を握らしめ、

眺むる衆に哀悼の念をそゞろに起さしむ。

哭する衆を夕陽の落ち行く光、照らす前、

アキルリュウスは近づきてアガメムノーンに向ひ曰ふ、 155

『アート,レデーよ(アカイアの族は最も君の言、

つゝしみ仰ぐ)衆人は後ちに飽く迄哭くもよし、

されども今は葬禮の場より彼らを去らしめよ、

食事の備なさしめよ、故人に愛の深かりし

我らすべてを行はむ、諸將は共に殘れかし。』 160

アガメムノーン、衆の王、彼の陳ずる言を聞き、

たゞちに衆を解き散じ、おの/\船に歸らしむ。

葬儀の任に當るもの、あとに殘りて薪材を

集め、縱横百尺の火葬の臺を築き上げ、

心に悲哀滿ち乍ら、其頂上に屍體おく。 165

而して火葬の臺の前、脂肪に滿てる群羊と、

角は曲りて脚歪む牛を屠りて皮を剥ぎ、

肉を調理す、其脂肪アキルリュウスは取り出し、

友の屍體の上に載せ、あたりに牲を積み重ね、

更に其上蜂蜜を油を盛れる壺二つ、 170

傾け注ぎ、慟哭を續け乍らも、頸高き

四頭の馬を速かに火葬の材の上に載す。

九頭の狗を食堂にパトロクロスは伴ひき、

中の二頭の喉きりて同じく上に彼は置き、

更に犧牲と蓄へしトロイア族のすぐれたる 175

子ら十二人、青銅に酷く屠りて積み重ね、

かくして狂ふ炎々の猛火の焔あらびしむ。

その時彼は慟哭の聲を放ちて友を呼ぶ、

『冥府の暗に宿るとも、パトロクロスよ、歡喜せよ、

先に汝に約したるすべてをすでに爲し遂げぬ。 180

トロイア族のすぐれたる子ら十二人皆すべて、

汝と共に火に燒けむ。プリアミデース・ヘクト,ルは、

之に反して火に燒かず、狗に與へて噛ましめむ。』

179 前文19.

しかく罵り叫びしも、狗は屍體に近づかず、

ヂュウスの神女アプロヂテー之を守りて夜も日も、 185

狗を遠ざけ、アムブロシヤ薔薇の香油まみらして、

アキルリュウスにひきながら屍體を裂くを得せしめず。

更にプォイボス・アポローン、平野の上に黒雲を、

天より彼のため擴げ、屍體の占むるすべての地、

皆蔽ひ去り、日輪の威力の爲めにいち早く、 190

肢體並びに筋肉の萎縮すること無からしむ。

パトロクロスの火葬堆、しかはあれども善く燃えず、

脚神速のアキリュウス再び一の策案じ、

即ち堆を立ち離れ、ゼプュロス及びボレエース、

風の二靈に祈祷上げ、すぐれし供物捧ぐべく 195

誓ひて、金の杯に數多の奠酒行ひて、

すぐに屍體の燃え上り、薪材迅く燒けん爲、

その來向を乞ひ求む。イーリス直ちに其祈

聞きて、急ぎて使者として、風の二靈を訪ひ來る。

吹嘘激しきゼプュロスの館に二靈は其時に、 200

集り宴を開き居り、石の戸口にイーリスの

足を駐むるを、目を擧げて眺めて共に一齊に、

座を立ちあがり、各はおのれの許に彼を呼ぶ。

されどイーリス座に着くを拒みて即ち陳じ曰ふ、

『留るを得ず、我は今オーケアノスの潮流に、 205

アイチオペーの郷に行く、衆人そこに神明に

犧牲を捧ぐ、我も亦同じく之に預らむ。

さはれゼプュロス、ボレエース、汝來るをアキリュウス、

切に祈りて豐かなる供物約せり、願くは

汝猛焔煽り立て、アカイア人の悲める 210

パトロクロスの葬りの火堆はげしく燃えしめよ。』

206 I 423.

しかく陳じてイーリスは別れて去れば、颯々の

音も激しく叢雲を驅りつゝ二靈たちあがり、

直ちに海の上來り、いぶけば潮澎湃と

嵐の下に湧き上る、やがてトロイア豐沃の 215

郷に、火葬の堆上に、吹けば神火は咆え叫ぶ、

二靈かくしてよもすがら荒れに荒れつゝ堆上の

焔を煽る、而して脚神速のアキリュウス、

又夜もすがら黄金の瓶に葡萄の美酒湛へ、

二重の盃に酌みとりて注ぎて大地潤しつ、 220

パトロクロスの薄命の魂呼べり、譬ふれば

華燭新たの若き人、俄に死して双親を

泣かしめ、遺骸燒く父の愁傷禁じ得ざるごと、

正しくかくもアキリュウス其親友の骨を燒き、

火葬の場を※り行き、時々慟哭の聲放つ。 225

地に光明を告ぐるべく曉の明星あらはれつ、

ついで番紅花の衣着る「曙」波を渡る時、

激しく堆を燒きたてし猛火は遂に鎭りて、

風の二靈はその郷に、トレーイケスの海の上、

今はと共に立ち歸り、また澎湃の波湧かす。 230

ペーレーデースこなたには、火葬の堆を遠ざかり、

疲勞のあまり横はる、甘眠彼の目をとざす。

されど衆人群りてアートレ,デース打ち圍み、

おこす騷ぎと雜音は端なく彼を目ざましむ。

即ち彼は身を起し衆に向ひて陳じ曰ふ、 235

『アートレ,デース及び他のアカイア族の諸頭領、

まづ暗紅の酒をもて、猛焔つよく襲ひたる

火葬の堆を鎭め消せ、而して次ぎに心して、

メノイチオスの生める息、パトロクロスのもろ/\の、

骨を仔細に撰り分けよ、認め知ること難からず、 240

堆のもなかに彼伏せり、其他の人馬もろともに、

離れて端に横はり、雜然として火に燒かる、

脂肪二重につゝませて、彼の遺骨を黄金の

瓶に藏めよ、冥王の郷に我また行かん迄。

今造るべき墳塋をあまりに大にする勿れ、 245

程よく建てよ、後の時、汝ら之を高くして、

大なるものとなすあらん、漕座あまたの舟の中、

我より後にながらへて殘るアカイア衆、汝。』

脚神速のアキリュウス、しか陳ずれば衆は聽き、

まづ暗紅の酒そゝぎ、猛焔つよく襲ひたる 250

火葬の餘燼しづむれば、あとに積るは厚き灰。

涕を垂れて衆人はやさしき友の白骨を、

脂肪二重に包みつゝ、藏む黄金の瓶の中、

而して之を陣營の中に齎らし帛に蓋ふ、

而して次に墳塋の位置を劃して其基礎を、 255

火葬の堆のそばに据ゑ、直ちに上に土を積む。

斯くて墳塋積み上げて去らんとするを、アキリュウス、

そこに留めて、盛なる集會の席に坐らしめ、

舟より種々の賞品を――鼎を※を取り來る、

數多の馬を又騾馬を、首逞しき大牛を、 260

衣帶いみじき女性らを、又燦爛の鐵を。

258 葬儀の禮としてこれより八種の競技初まる。第一は兵車競走。

まづ、いやさきに彼は懸く兵車競ひの賞の品。

第一等は工藝にすぐれし女性、加ふるに

二十二メトラの大きさの耳環を附せる大鼎、

次に二等の賞として定むる處、六歳の 265

牝馬、未だに馴れずして胎に仔馬を宿すもの、

次ぎ三等に對しては、四メトラ測る大きさの

まだ火に觸れぬ釜一つ、銀色燦と光るもの、

次に四等の賞として定む黄金の二タラント、

次に五等に二重盃、未だ火焔に觸れぬもの。 270

斯くして立ちてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

『アートレ,デース、及び他の脛甲堅きアカイアの

友よ、場裏に騎士待ちて此等の賞は横はる。

他の戰將の爲に此競技をわれら行はゞ、

我一等の賞を得てわが陣營に持ち去らむ。 275

汝ら知らむ、わが御する双馬すぐれていみじきを、

彼ら不死なり、わが父にポセードーンのそのむかし

與へたるもの、わが父は我に彼らを傳へたり。

さもあれ我も單蹄の双馬も共に動くまじ、

彼らを御せしすぐれたる、しかもやさしき勇將は 280

亡べり、彼は度々も清き水もて洗ふ後、

双馬の長き鬣にいみじき香油灑ぎしよ。

其勇將を悲みて髮を地上に垂れつつも、

見よや、可憐のわが双馬、悄然として佇むを。

さはれ汝等アカイアの中の誰しも、其馬と 285

其兵車とを頼むもの、いざ競爭の備せよ。』

しかく陳ずるアキリュウス、聞きて騎士らは寄せ來る、

ユウメーロスは民の王、アドメートスのめづる息、

馬術すぐれし彼は今遙か眞先に立ち上る、

チューデーデース、剛勇のヂオメーデース之に次ぎ、 290

アイナイア,スに奪ひたるトロイア双馬御して立つ、

(主公の彼を救ひしは銀弓の神アポローン。)

アートレ,デース・メネラオス金髮の將また續く、

ヂュウスの裔の勇將は二頭の駿馬御して立つ、

アガメムノーンのアイテーと、おのれ有するポダルゴス、 295

アガメムノーンに此牝馬エケポーロスは與へたり、

アンキーセースの子たる彼れ、イリオンさしてつき來るを、

好まず、邦に留るを願ふが故に與へたり、

ヂュウスに巨富を惠まれてシクオーンの地に彼は住む。

牝馬アイテーおほいなる歡喜に滿ちて競を待つ。 300

アーンチロコスは第四番、鬣美なる馬を御す、

ネストールのすぐれし子、父は高貴の性にして、

其また父はネーリュウス、ピュロスの産の駿足は

兵車を彼の爲に牽く、思慮に長ぜる彼のそば、

父は來りて慇懃に更に教をこめて曰ふ、 305

288 II 764.

291 V 296.

296 出陣せざるその賠償を爲すことは XIII 669 に見ゆ。

297 アイネーアースの父と同名別人。

『アーンチロコス、汝をば若き時よりポセードーン、

ヂュウスもろとも寵愛し、種々の乘馬の道を善く

示せり、然れば今更に汝に告ぐる要あらず。

汝全く終點を※り驅くべき術を知る、

されど汝の馬遲し、禍難或は起らんか。 310

彼らの馬は皆速し、されども彼ら駿足を

御すべき技は、わが愛兒、汝に優ることあらず。

いざ立て、愛兒、而して種々の計慮を胸の中

※らせ、懸けし恩寵を失ふことの無きがため、

腕力よりも技に因り樵夫遙かに相勝る、 315

船こぐものも技に因り、風に惱める快船を、

暗紅色の海の上、進め走らす術を知る、

同じく戰車御する者、巧みによりて他を凌ぐ。

されど戰馬と戰車とを偏へに信じ頼むもの、

思慮なくあなたこなたへと、永きに亙り馳せらして、 320

場裏に馬の驅け行くを正しく御する道知らず。

之に反して智あるもの、御する其馬遲しとも、

終點常に目に入れて、それの近くを驅り走る、

また初より牛皮にて造れる手綱手にとりて、

馬を御しつゝ怠らず、先だち驅くる相手見る。 325

今明瞭の目じるしを汝に告げむ、心せよ、

かなた地上に一尋の乾ける樹幹立つを見よ、

※かもしくは松柏か、雨に朽ちずに聳え立つ、

白き二つの石は其右と左の兩側に、

道の狹みの中にあり、競馬の路は其めぐり。 330

恐らく昔、亡びたる或る人間の記念樹か?

或は過ぎし人々のきめし競馬の目標か?

今足速きアキリュウス之を決勝點と爲す。

汝かしこに進む時、そこに戰車を近く驅れ、

而して車臺の上にして双馬の中の左へと、 335

少しく汝の身を寄せよ、而して高く叱※して、

右手の馬を驅り進め、而して手綱緩うせよ。

次に左の馬をしてかの目標に迫らしめ、

車輪の轂其へりに觸るゝと見ゆる程までも、

とく驅けしめよ、然れども石に觸るゝを警めよ、 340

恐らく馬と戰車とを傷つけ碎くことあらむ、

然らば勝利他に歸して汝恥辱を蒙らむ。

されば愛兒よ、心せよ、警戒怠ること勿れ。

もし曲り目に競爭者凌ぎて驅くることを得ば、

汝に誰も追ひ付かじ、況んや汝を凌がんや。 345

よし後よりアリーオーン、神の裔なる駿足を――

アドレートスの駿足を――人は驅るともあるは又、

こゝに飼はれて傑れたるラーオメドーンの馬驅るも。』

306 348 までこの教訓は續く。或評家曰く全く無用、後世の拙き加筆。

327 以下頗る曖昧。

346 アリーオーンは後代テーベーの神話に著名の馬。

347 II 572.

348 V 266.

ネーリュウスの子ネストール其子に種々の忠言を

斯くの如くに陳じ了へ、やがておのれの座に歸る。

鬣美なる馬を御し、メーリオネース第五番。

五人車臺に身を乘せて※を兜の中に入る。

之を打振るアキリュウス、其時先に出でたるは、

アーンチロコスの※にして、ユウメーロスのそれは次ぎ、

次は槍術巧みなるアートレ,デース・メネラオス、 355

メーリオネースまた次いで彼の戰車を進めんず、

チューデーデース、衆人にすぐれたる者、最後なり。

かくして五將一線に並ぶその時アキリュウス、

遙かあなたの平原の上の目標示しつゝ、

父の御者たるプォイニクスすぐれし勇士遣して、 360

此競走を監せしめ、報告誤りなからしむ。

其時五將一齊に馬に向ひて鞭加へ、

はげしく打ちて高らかに勢猛く叱※しつ、

衆馬即ち速に水師のもとをたち離れ、

平野に沿ひて馳け走る、其の脚のもと、蹴上げたる 365

塵埃亂れ、濛々と雲とあらしを見る如し、

而して彼の鬣は風の呼吸に流れ飛ぶ。

戰車時には豐沃の大地の面を掠め去り、

時には高く飛び揚がる、而して之を御する者、

車臺に立ちて心臟の鼓動はげしく優勝を、 370

おの/\念じ、其馬をおの/\痛く勵ませり、

馬のおの/\塵埃を立てゝ、平野の上を飛ぶ。

かくして衆馬脚速く平野の端に着きて後、

再び本に波白き海原さして歸る時、

彼らの長所現はれて力の限り驅け走る。 375

ユウメーロスの驅る駿馬その時まさき驅け來る。

これに續きて飛び來るヂオメーデース御する馬、

トロイア産の駿足は極めて近く迫り來て、

前の戰車に乘らんずる如くに見えて、其呼吸

ユウメーロスの背及び、廣き双肩掠め吹く、 380

見よ、追ひ來る其双馬、頭は彼の身に觸るゝ、

而して彼に追ひ付くか或は彼を越さんとす。

その時プォイボス・アポローン、チューデーデースに憤り、

彼の手中の耀ける鞭を彼より奪ひ去る。

怒る勇將潛然と涙流して眺め見る、 385

相手の牝馬いや速く驅くるに反し、おのが馬

驅るべき鞭の無き儘にその進行の遲々たるを。

かく勇將を欺けり神プォイボス・アポローン、

之を認めてアテーネー、急ぎ勇將逐ひ行きて、

その鞭彼の手に與へ、彼の駿馬の勇を鼓す。 390

更に神女は憤然とユウメーロスのあとを追ひ、

双馬の軛打碎く、かくして馬は右左、

道より狂ひ躍り驅け、轅碎けて地に落ちぬ。

而して車輪の傍に其車臺より落されて、

彼れ自らは肱と口また其耳をすりむきつ、 395

眉毛にかけて其額疵を負ひつゝ、双の眼に

無念の涙溢れ來て、朗らの聲も止りぬ。

チューデーデース其時にあらゆるものに先んじて、

路を轉じて單蹄の馬をすゝめぬ――アテーネー

馬に勇氣を鼓吹して勇者に譽與へたり。 400

次に進むは金髮のアートレ,デース・メネラオス、

アンチロコスは(之を見て)御し行く馬に叫び曰ふ、

383 アポローン嘗つてユーメーロスの父アドメートスの此馬を御せり。(II 766)

389 アテーネー特にヂオメーデースを惠む。(VI ―9)

『進め、汝ら、全力を盡せ、汝の脚を延せ、

チューデーデース乘る馬に競へと敢て我曰はず。

目は藍光のアテーネー、勇者の馬に力貸し、 405

速く驅けしめ、光榮を彼らの主に與へたり。

アートレ,デース乘る馬に、さはれ追ひつけ、速かに、

後るゝ勿れ、アイテーは牝馬ならずや! 汝らは

優れるものを、何故に後れて恥を受くべきぞ?

今汝らに告げんとす、告ぐる所は屹と成らむ、 410

今怠慢の故を以て劣れる賞を取るあらば、

衆民統ぶるネスト,ルに汝再び用なけむ、

彼は鋭き青銅をとりて汝ら屠るべし。

いざいま續け、全力を盡くし、相手のあとを逐へ、

我は計略※らして巧みに狹き道に入り、 415

彼を追ひ越す事をせん、此事必ず我爲さむ。』

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつゝ、

激しく驅くる、然れども間なく忽ち勇猛の、

アーンチロコス目前に、窪める狹き路を見る、

冬の雨水滔々と集り寄せて道崩し、 420

あたりをすべて推し窪め、深き低地となす處、

他と衝突の患避け、そこに向へりメネラオス。

されどたくらむネスト,ルの子は單蹄の双馬驅り、

聊か脇に外れ乍ら路を離れて彼を追ふ。

アートレ,デース見て怖れアーンチロコスに叫び曰ふ、 425

423 此二行不明(リーフ)。

『アーンチロコスよ、思慮なくも驅くるな、馬の足留めよ。

此道狹し、すぐ汝廣き道にて乘り越さむ、

我の兵車に打ちあてゝ共に傷ふこと勿れ。』

しかく陳ぜり、然れどもアーンチロコスは其言を

聞かざるまねし、鞭あげて愈※双馬驅り進む。 430

力を試す屈竟の青年腕を高く上げ、

投ぐる圓板遠く飛ぶ、其距離ほどに先んじて、

双馬すゝめば、其あとをアートレ,デースの馬は馳す、

彼は勉めて其馬を進むることを差し控ふ、

道路の上に彼と此、單蹄の馬打ち當り、 435

いみじき兵車くつがへし、爲に勝利を期し乍ら、

二人おのおの地に落ちて塵にまみるゝ恐れより。

今金髮のメネラオス叱りて彼に叫び曰ふ、

『アーンチロコスよ、汝ほど奸智に富める者あらず、

汝を先にアカイアの諸人褒めしは誤れり、 440

かく行ふも誓言を宣べずば汝賞を得じ。』

441 姦策を爲さずとの誓。

しかく陳じて其馬を勵まし彼に叫び曰ふ、

『汝ら留ること勿れ、心惱むも休らひそ、

相手の脚と膝と共、疲勞は汝のそれよりも

早かるべきぞ、青春の力を彼ら失へば。』 445

しか陳ずれば双の馬、主公の威喝恐れつゝ、

激しく驅けて競爭の相手にすぐに近づけり。

平野の上を塵揚げて、飛ぶが如くに驅け來る

馬群眺めて、アカイアの諸人集會の場に坐す。

場より外の高き丘、四方を眺むる處より、 450

眞先に馬を認めしはクレーテー王イドメネー、

まだ遠けれど大音に馬を勵ます聲を聞き、

其誰たるを認め知る、又見る、先に馳せ來る

駿馬は赤し、たゞ一の白き斑點圓くして、

さながら月に似たるもの其額上にいちじるし、 455

かくと認めて立ち上りアカイア族に向ひ曰ふ、

『あゝアカイアのもろ/\の頭領及び將帥よ、

我のみ馬を認むるや? 汝ら未だ認めずや?

先にはすぐれ先頭を驅けし牝馬は、平原の

上、いづくにか疵つける、我が見るところ今先を 460

驅くるは別の馬にして、別の勇將之を御す、

(先には彼ら境界を※り驅くるを我れ見たり、

されども今は何處にも見えず、トロイア平原を

わが目あまねく見※すも、彼らを見るを得べからず)。

御者は手綱を取り落し、馬を正しく境界の 465

ほとりに驅るを得ざりしか? 轉囘するを得ざりしか?

思ふに彼は車臺より地に落ち車輪破れしか?

而して馬は暴れ狂ひ、道より外にそれたりや?

されど汝ら立ち上り共に眺めよ、われは能く

見わくるを得ず、たゞ思ふ眞先に驅けり來るもの、 470

彼はアイトーロスにして、アカイア軍を司どる

ヂオメーデース――剛勇のチューデーデースなるべきを。』

464 以上三行大概の版に除かる。

しか曰ふ彼をアイアース・オイレーオスは誹り曰ふ、

『イドメ,ニュウスよ、饒舌はまだ尚早し、平原の

廣きを遠くかなたより馬は躍りて驅け來る。 475

アカイア族の中にして汝は若き者ならず、

汝のもてる双眼は善く明快に見るを得ず、

されども常に饒舌に汝は耽る、饒舌は

汝なすべき事ならず、勝れる者は他にあり。

先に先頭驅けし馬、今も眞先に驅け來る、 480

ユウメーロスのそれにして手綱を取りて彼は驅る。』

473 勇將等の口論全く小兒の爭の如し、好笑。

クレーテー王憤り答へて彼に叫び曰ふ、

『誹謗に最もすぐれたるアイアン(汝アカイアの

中に他のこと皆劣る)汝の心酷きかな、

いざ今こゝに三脚の鼎もしくは釜を賭け、 485

アガメムノーン元戎を共に判者と戴かむ、

いづれの馬が先なるや、汝敗れて悟るべし。』

483 呼格。

オイレーオスのアイアースその言聞きていきどほり、

直ちに立ちて激烈の言句に彼に答へんず、

斯くして二人爭を高めんずるを見て取れる 490

ペーレーデース・アキリュウス、自ら立ちて陳じ曰ふ、

『アイアン及びイドメニュー、汝ら辛き言句もて、

應答するをはや止めよ、ふさはしからず汝らに、

他のもの斯かる事あらば汝ら正に怒るべし。

集會の席に身を据えて汝ら、來る馬を見よ、 495

勝を競ひて速に群馬この場に來らんず、

來らん時に汝らはおのおの知らむ、アカイアの

馬群の中に何ものか、一着或は二着かを。』

しかく陳ずる間もあらず、チューデーデース近づけり、

絶えずも鞭を振り上げて進むる双馬速に、 500

空に躍りて飛ぶ如く平野の上を走り來る。

しかして絶えず塵埃は濛々として御者を打つ、

而して錫と黄金と掩ひ飾れる其兵車、

脚神速の馬牽きて進めば、めぐる双輪は、

輕き平野の塵埃の上に殆ど其痕を 505

殘し留めず、斯くばかり飛ぶが如くに急ぎ驅く。

ヂオメーデース場中にかくして着けり、淋漓たる

汗は双馬の首と胸流れて地上ふりそゝぐ。

勇士乃ち輝ける兵車をおりて地に立ちて、

鞭を軛に立て掛けぬ。その時彼の身に代り、 510

賭の褒美の一等を、即ち女子を、把手ある

鼎を受くるステネロス、直ちに之を家臣らに

搬び去らしめ、自らは疲れし双馬解き放つ。

續きて馬を驅り來るネーレーイオス、計策に

因りメネラオス凌ぎたるアーンチロコス今着けり、 515

而してすぐにメネラオス迫りて馬を驅り來る。

その間隔は小にして、譬へば兵車驅り乍ら、

主公を乘せて平原を走れる馬と輪との距離、

(馬の尾毛の末端は車輪の縁に相觸れて、

大平原を颯爽と勇める駿馬かけて行く、 520

かけ行く彼と車輪との間の幅は短かかり)

アーンチロコスにメネラオス後れし距離はかくばかり、

初め後れし間隔は、投げ飛ばさるゝ圓板の

距離にも等し、しかれども鬣美なるアイテース、

アガメムノーンの貸しゝ馬奮ひて彼に追ひつけり。 525

二人に對し競爭の路程これより長からば、

アーンチロコスを凌ぎ得て勝負明かなりつらむ。

イドメニュウスの家臣たるメーリオネース槍投げの

距離ほどおくれ、メネラオスすぐれし王のあとに着く。

鬣美なる彼の馬、脚は頗る速からず、 530

彼も場裏に其兵車驅るべき技倆他に劣る。

アドメートスのすぐれたる子は總體のいや末に、

美麗の兵車率きつゝも双馬を前に驅り來る。

脚神速のアキリュウス眺めて彼を憐みつ、

アカイア人の群の中立ちて飛揚の言句曰ふ、 535

532 ユーメーロス。

『最優のものいやはてに其單蹄の馬を驅る、

第二の賞をふさはしく彼に我らは與ふべし、

第一賞は勇猛のチューデーデース取るべかり。』

しかく陳ずる彼の言、衆人等しく善しと爲す。

アカイア諸人贊すれば馬をば彼に與へんず、 540

アーンチロコス其時に憤然として立ち上り、

ペーレーデース・アキリュウスの前に正しく叫び曰ふ、

540 265 行にいふ所。

『あゝアキリュウス、汝その言を遂げなばわが心

痛く怒らむ、汝今さすが勝れし勇將の、

兵車も馬も敗れしを痛く憐み顧みて、 545

正にわが賞奪はんず、彼は宜しく神明に

祈るべかりき、しか爲さば最後の馬を驅らざらむ。

汝心に彼を愛で而して彼を憐まば、

汝の營に黄金と青銅及び羊群と、

捕虜の女性と單蹄の馬のもろ/\數多し、 550

是の中より取り出でゝ優れし賞をやがて後ち、

彼に與へよ、アカイアの友喜ばゞ今すぐに。

我は牝馬を讓るまじ、そのため腕の力もて

我と爭ひ戰ふを望まんものは現はれよ。』

しか陳ずればアキリュウス勇將そゞろ微笑みつ、 555

親しき故に愛友のアンチロコスを喜びて、

即ち飛揚の言句もて彼に答へて陳じ曰ふ、

『アンチロコスよ、汝もしユウメーロスに、我が營の

中より賞を與ふるを、望まば我はしか爲さむ。

アステロパイオス打倒し取りし青銅の胸甲を 560

彼に與へん、耀ける錫の粧飾其上に

施されあり、彼にとりこの物高き賞ならむ。』

560 XXI 140. 183.

しかく陳じて其家臣オートメドーンに令下し、

營より武具を搬ばしむ、乃ち行きて搬び來て、

ユウメーロスの手に渡す、勇士喜び之を受く。 565

つづきて衆の面前にアンチロコスに憤ほる

王メネラオス立ち上る、彼の手中に傳令の

使は笏を握らしめ、アカイア軍に沈默を

命ず、その時神に似るアートレ,デース陳じ曰ふ、

568 I 234.

『アーンチロコスよ、昨日迄賢かりしに汝今 570

何をか爲せる? 劣等の汝の馬を驅り進め、

われのを敗り、わが長所汝はかくも辱しむ。

いざアカイアの諸頭領また諸將軍願くは

われら二人に審判を下せ、私ある勿れ、

アカイア軍のあるものに斯く曰はしむる事勿れ、 575

「アーンチロコスを虚言もて王メネラオス欺きて、

賞與の馬を牽き去りぬ、力と勇は優れども

彼が場裏に御せし馬いたく劣れるものなりき」

いざ今我は宣んすべし、而して思ふアカイアの

他の何人も咎むまじ、我が曰ふ處誤らず。 580

アーンチロコスよ、こゝに來て世の習のあるが儘、

馬と兵車の前に立ち、先に用ゐて驅りたてし

柔軟の鞭手にとりて、ヂュウスの裔の汝、今、

馬に觸れつゝ大地震るポセードーンに盟ひ曰へ、

故意に工らみ我が兵車妨げしこと無しと曰へ。』 585

彼に答へて聰明のアーンチロコス陳じ曰ふ、

『許せ、わが王メネラオス、我は遙かに汝より

若し、年齒に剛勇に汝は遠く我を越す、

年齒の若き人の子の過如何に、汝知る、

彼の心は焦燥に、彼の考慮は深からず。 590

願はく汝柔げよ、わが獲し馬を快く――

或は別にわが許に更に善き物あるべきを、

汝望まば喜びて直に我は捧げんず、

ヂュウスの愛づる汝より常に憎まれ、而して

不敬の罪を神明に犯すことより優ならむ。』 595

しかく陳じてすぐれたる老ネストール生める子は、

牝馬引き來てメネラオス王に渡せば喜べり、

秋收穫の原上に波よる麥の穗のならび、

玉露の惠み成熟の喜び得たる時の如、

しか喜べるメネラオス、アートレ,デース欣然と、 600

即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、

『アーンチロコスよ、憤激を先にはわれは起せしも、

今は汝に讓るべし、輕卒ならず、狂ならぬ

汝この日に心なく、血氣に驅られ誤れり。

此後再び先輩を欺き犯すこと勿れ。 605

アカイア族の他の者は我を早くは柔げじ、

されど汝は剛勇の汝の父と兄弟と、

共に同じくわが爲に痛く勉めて惱みたり。

かゝるが故に我は今汝の乞に從はむ、

而して我の※ち得べき馬を與へん、衆人は 610

かくして知らむ我心誇らず苛酷なるざるを。』

606 此戰爭はメネラオスの王妃ヘレネーを原因とするが故に。

しかく陳じて其馬をアーンチロコスの同僚の

ノエーモーンに牽かしめて耀く※の賞を受く。

メーリオネース第四次に、馬を驅り來て黄金の

兩タランタの賞を受く、後に殘れる第五賞、 615

二重の盃をアキリュウス、アカイア族の集團の

前に携へ、ネスト,ルに與へて彼に陳じ曰ふ、

『叟よ、いざ此品受けよ、パトロクロスの埋葬の

記念に之を蓄へよ、アカイア陣中また彼を

見ること無けむ、我れ君にかくして賞の品捧ぐ、 620

君は再び拳鬪に又は角力に爭はじ、

また投槍に加はらじ競けの走も爲さゞらむ、

辛き老齡痛むべく君の肢體を弱らしむ。』

しかく陳じて賞の品渡せば彼は喜びて、

之を受けつゝ翼ある飛揚の言句のべていふ、 625

622 以上四競技(投槍の代に圓盤投のことあり)及び兵車競爭を合しての五をホメーロス時代のペンタートロンと曰ふ、以下の三競技は後の添加。

『わが子、汝の曰ふところ皆悉く理に當る、

わが双脚ははや既に堅固に非ず、わが腕は

左右の肩より敏捷に昔の如く動き得ず。

あゝ我わかくわが力昔の如くあらましを、

エペーオイ族そのむかしブープラションに其主公 630

アマリュンケース葬りて、王子ら賞を懸けし時、

エペーオイ又ピュリオイの、更にはたまた剛勇の

アイトーロイの族の中、我に若く者あらざりき。

クリュトメーデス(エーノポス生める勇士)を拳鬪に、

プリュウローンの勇士たるアンカイオスを角力にて、 635

また優れたるイプィクロス、彼をば徒歩の競爭に、

ポリュドーロスとピュリュウスを皆投槍に打ち破り、

ひとり兵車の競爭に飽く迄勝を爭へる

アクト,ル生める二子のため、數の力にわれ負けぬ。

至上の賞を懸けし故彼ら飽く迄爭へり。 640

彼らは共に双生兒、一は激しく馬を御し、

他は其鞭を振りあげて激しく馬を叱※しき。

昔は我は斯くありき、今妙齡の子らをして、

斯る行爲を爲さしめよ。我はやむなく老齡に

屈すべからむ、いにしへは諸豪の中にすぐれし身。 645

いざ今行きて競技もて汝の友の葬禮を

行へ。我は心より歡喜に滿ちて此品を

受けむ、汝はとこしへに我の好意を胸に留め、

我を忘れず、アカイアの衆中われに敬いたす。

其報酬に神々は汝に寵を賜ふべし。』 650

630 XI 756.

634 前後に無し。

635 II 609 とは別人。

636 II 705.

637 XX 407 別人。

637 II 862

ネーレーデースしか陳じ、贊する言辭悉く

ペーレーデース聞ける後、アカイア陣をさして行き、

更に激しき拳鬪の競技の上に賞を懸く。

即ち彼は逞しき一頭の騾馬牽き來り、

集會の場につなぎ留む、馴らすに難き六歳の 655

騾馬なり、更に敗者には彼は二重の盃を

備へ、アカイア衆の前、立ちて彼らに宣んし曰ふ、

『アートレ,デーよ、又外の脛甲堅きアカイアの

友よ、我れ今此賞のために二人の剛勇の

友に奮ひて拳鬪をなすを勸めむ。アポローン 660

勝を與へてアカイアの衆人認めたらん者、

彼はすぐれし此騾馬を其陣營に牽きて行け、

敗れん者は其分に二重の盃を請けよかし。』

653 競技第二拳鬪、699 迄。

しか陳ずれば忽ちに、拳鬪の術すぐれたる

パーピュウスの子エペーオス、強き魁偉の勇士立ち、 665

すぐれし騾馬に手を觸れて衆に向ひて叫び曰ふ、

『二重の盃を請けん者こゝに現はれ出でよかし、

アカイア軍の何人も拳を以て勝を占め、

騾馬を牽き去ることなけむ、我この術に優れたり。

我れ戰鬪に拙きを咎むる勿れ、一切の 670

技悉く長ずるは人の善くする事ならず。

我今こゝに曰ふところ必ず成らむ、わが敵の

肉を全く我れ破り、彼の骨皆碎くべし。

哭くべき彼の親族は相集りてこゝに待て、

わが手によりて破られし死屍を引取り去らんため。』 675

しか陳ずれば衆人はみな默然と靜まりぬ。

ユウリュアロスは只一人敵對すべく立上る、

メーキステース生める息、祖父はタラオス、王者の身。

彼その昔テーベーにオイヂポデース弔ひの

式に來りてカドモスのすべての子らに打ち勝ちぬ。 680

チューデーデース槍術に巧みの勇士、言句もて

彼を勵まし、彼の身に勝利あれとて念じ立ち、

眞先に帶を纒はしめ、つゞきて更に牧場の

牛の皮もて作りたる革紐彼の手に與ふ。

二人の勇士帶締めて競技の場に入り來り、 685

猛然立ちて相向ひその剛力の手をあげて

相打つ、かくて物凄く拳と拳たゝきあひ、

又すさまじく齒ぎしりの音は響きて、淋漓たる

汗は四肢より流れ落つ、今や勇なるエペーオス、

隙を覘へる敵の頬激しく打てば耐へ得ず、 690

よろめく脚をとゞめ得ず、どうと大地に倒れ伏す。

譬へて曰はば、北風の吹嘘の下に魚躍り、

海草纒ふ淺瀬のへ、落ちて再び黒き波、

之を蔽へる樣や斯く、打たれし敵は飛び上り、

やがて倒れて地に伏せば、その時強きエペーオス、 695

手をかけ立たす彼の側、友群りて連れいだす、

黒き血を吐き脚を曳き頭かたへに垂れしまま、

氣を失へる彼を斯く友の間に臥せしめて、

衆は進みて賭けられし二重の盃を取り來る。

677 II 565.

679 即ちオイヂポス、ソホクレース大悲劇の主人公。

680 カドモスの子らはテーベーの古住民。

ペーレーデースすぐに又猛き角力の技のため、 700

アカイア人の眼前に三たび賭物持ち來る、

勝たん者には炎々の火にかざすべき大鼎、

アカイア人は評し曰ふ、價は牛の十二頭、

負けん者には工藝に巧みの女性、その價、

牛の四頭に當るもの、共に場裏に引き出さる。 705

ペーレーデース立ち上り衆に向ひて叫び曰ふ、

『此競爭に意あるもの、乞ふ速かに出で來れ。』

聲に應じて現はるゝテラモニデース・アイアース、

又オヂュシュウス、敏くして深く智謀に富める者。

二勇士かくて帶を締め共に場裏に進み入り、 710

その剛強の手を揮ひ勢猛く搦みあふ、

そを譬ふれば、すぐれたる番匠風を防ぐため、

二條の棟木、宏壯の館のかしらに組む如し。

かくして揮ふ双の腕、その力爭に二勇士の

背中はげしくきしり合ひ、汗は淋漓と流れ落つ、 715

かくて兩者の肩及び脇腹に添ひ、紅血の

幾多の條ぞ湧きあがる、而して二人賭けられし

鼎獲るべく奮然と長く激しく爭へり。

かくして敵をオヂュシュウス足を抄ひて倒し得ず、

はたアイアースよくし得ず、敵の力は強かりき。 720

脛甲堅きアカイアの衆人永くこを眺め、

倦めるその時、アイアース・テラモニデース叫び曰ふ、

『ラエルチアデー、神の裔、智謀すぐるゝオヂュシュウス、

われを擡げよ、さもなくばわれは汝を――一切は

神の意の儘』しかのべて擡げしかども、オヂュシュウス、 725

術を忘れず、うしろより敵の膝蹴り脚挫き、

仰向けざまに倒れしめ、而して敵の胸の上、

オヂュシュウスまた打ち倒る、衆は眺めて驚けり。

次にすぐれしオヂュシュウス剛力奮ひ試みて、

地より少しく動かせど敵を擡ぐることを得ず、 730

膝と膝とを搦み合ふ兩勇遂に地に倒れ、

重なり伏して其四肢はみな塵埃に汚れたり。

三たび勇士ら立ち上り、また角力はんとしたる時、

アキルリュウスは身を起し之をとゞめて陳じ曰ふ、

『もはや努むること勿れ、努力に惱むこと勿れ、 735

勝は二人に共にあり、等しき賞を領受して、

去れかし、外のアカイアの衆人別に爭はむ。』

700 競技第三、角力 739 まで。

しか陳ずれば兩勇士聞きて容易く順ひつ、

四肢より塵を拂ひ去り脱ぎし衣を身に纒ふ。

つぎて直ちにアキリュウス、足疾き者に賞をかく。 740

そは銀製の瓶にして美妙の細工、六メトラ

容るべし、地上外にまたかゝる華麗の物あらず、

手の工藝に秀でたるシドーンの人の作にして、

フォイニーケーの人これを大海の上持ち來り、

港に揚げて豪族のトアスに獻じ、而うして 745

プリアモスの子リカオンの償としてトアスの子、

イエーソンの生める息、ユウネーオスは英豪の

パトロクロスに讓りしを今アキリュウス取り出でて、

賞とし、脚の速力のすぐれしものに與へんず。

脂肪に富める大牛は第二の者に、しかうして 750

最後の者に黄金の半タランタは約されぬ。

將軍立ちてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

740 競技第四、競走 797 迄。

『此競爭を試みる意のあるものは出で來れ。』

しか陳ずれば忽ちにオイリュウスの子アイアース、

智謀に富めるオヂュシュウス、つぎてネストール生める息、 755

足の速さに衆凌ぐアーンチロコスは立ち上る。

三人かくて立ち並び、アキルリュウスは決勝の

點を示して競走の路程を定む。その時に

オイリアデース眞先に驅け、その後にオヂュシュウス、

近く逼りぬ――近きこと帶美はしき一女性、 760

梭を手にとり、縱糸の上に苧環はしらする

其時彼の胸許に、織機の梭眞近くに

來るが如し、オヂュシュウスしかく逼りて、先の者

蹴立てし塵の靜まるに先んじ跡を追ひ走り、

飛ぶが如くに驅け行けば、はげしき呼吸、其敵の 765

頭に吹けり、かくと見るアカイア衆人悉く、

勝を求めて極力に走る勇士に呼び叫ぶ、

最後の道を進む時、藍光の眼のアテーネー

神女に向ひ、オヂュシュウス心に念じ祈り曰ふ、

『神女よ、祈願きこしめし脚に力を添へ給へ。』 770

しかく祈ればアテーネー・パルラス之を納受しつ、

彼の兩脚兩手ともひとしく輕く動かしむ。

かくして賞を※ち得べく三勇ともに驅くる時、

驅けて躓くアイアース――神女は彼を妨げぬ、

足とく走るアキリュウス、パトロクロスの爲にして 775

屠りし牛の其汚物ちらばる中にどうと伏し、

鼻孔も口も群牛の汚物によりて充たされぬ。

かくてすぐれしオヂュシュウス第一着の故をもて、

寶瓶とればアイアース第二の賞の牛を得つ、

かくて汚物を吐きながら、手に逞しき牛の角、 780

握りて、かくてアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

『遺憾なるかなアテーネー、母の如くにオヂュシュウス

そのそば常に近く立ち、之を助くるアテーネー、

我の走りを妨げぬ。』聞きて衆人皆笑ふ。

アーンチロコスは又次ぎて最後の賞を搬び去り、 785

微笑なしつゝアカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、

『既に汝ら知るところ、我、なほ曰はむ、今も猶

年齡高き人の上、神は譽を降すなり。

見よ、アイアース我よりも長ずるところ只わづか、

之に反してオヂュシュウス、先の時代の長者たり、 790

老ゆれど豪の者なりと人は曰ふめり、アキリュウス

除かば誰か競爭に彼を凌ぎて勝ち得んや。』

しかく陳じて脚速きアキルリュウスを譽め稱ふ。

ペーレーデースその時に答へて彼に陳じ曰ふ、

『アーンチロコスよ、空しくは、汝の言句放たれじ、 795

見よ、半タランタの黄金を汝の賞に増し加ふ。』

しかく陳じて彼の手に渡せば受けて喜べり。

ペーレーデース又次ぎて場裏に更に持ち來す、

影長く曳く大槍と盾と鎧を――先の日に

サルペードーン打倒しパトロクロスの剥げる物。 800

即ち立ちてアカイアの衆に向ひて陳じいふ、

799 競技第五、槍の仕合ひ 825 迄以下明かに後の添加、特に槍の仕合の如き最も奇怪なり。

『此らの賞を衆人の見る目の前に競ふべく、

武裝とゝのへ青銅を手にして二人アカイアの

中の最も強き者、互に腕を試みよ、

いづれにもあれ先んじて敵の武裝を貫きて、 805

肢體疵つけ血を流し敵の急所に觸れんもの、

彼に與へんこの劍、銀鋲うてる美なる物、

アステロパイオス帶びしもの、わが手彼より剥ぎしもの、

こはトレーケー郷の産。他は兩人共にせよ。

また彼らには陣中に美なる食事を備ふべし。』 810

808 XXI 163.

しか陳ずればアイアース・テラモニデース飛び出し、

ヂオメーデース、剛勇のチューデーデースも飛び出す。

衆の群がる左右よりかくして二人武裝しつ、

場の眞中に躍り入る、鬪志はげしく物凄く

睨まへ合うて入るを見てアカイア衆人をのゝきぬ。 815

かくて兩雄相迫り互に近く寄する時、

三たび襲撃試みて三たび近づき飛びかゝる。

敵のかざせる大盾をはげしく打てるアイアース、

護る胸甲堅ければ彼の肢體を傷けず。

チューデーデースは又次ぎに光る飛刄の鋒に 820

敵のかざせる大盾のかげに其頸打たんとす。

アカイア衆人これを見てアイアースの身を危ぶみつ、

戰とめて而して等しき賞を分たんず。

今アキリュウスおほいなる劍と鞘と精巧の

皮帶ともに齎してチューデーデースの手に授く。 825

ペーレーデースやがて又鑄鐵の球賞に懸く、

エーチオーノスその昔力奮ひて投げしもの、

足疾く走るアイアース彼を殺して奪ひ取り、

其他の寶もろともに、其船中に運びたる

彼今立ちて、アカイアの衆に向ひて陳じ曰ふ、 830

826 競技第六投盤 849 迄。

827 アンドロマケーの父 VI 416.

『此競爭に意あるもの、現はれ出でゝ試みよ。

勝を得ん者、豐沃の農園いかにひろしとも、

五たび歳のめぐる中、豐かに鐵を用ゐ得む、

彼に仕ふる牧童も又農民も彼の許、

訪ひて求めて事欠かじ、彼は必ず與ふべし。』 835

しか陳ずれば健鬪のポリュポイテース立ち上る、

また神に似る豪勇のレオンテーオス、又更に、

テラモーンの子アイアース、又すぐれたるエペーオス、

皆一線に相並ぶ。まづ勇しきエペーオス、

振り※しつゝ球を抛ぐ、アカイア衆人皆笑ふ。 840

レオンチュウスはアレースのたぐひ、二度目に抛げとばす、

テラモーニオス・アイアースその剛強の腕あげて、

第三囘に抛げ飛ばし先の二人の標超す、

されど最後に健鬪のポリュポイテース球を取り、

とある牧童、群羊を牧ふもの、杖を投ぐる時、 845

杖は其群飛びこして※りてあなた落つるごと、

其距離ほどに他を凌ぎ抛ぐれば衆は歡呼しぬ。

ポリュポイテースの家臣らは即ち立ちてアキリュウス

懸けたる賞を領し得て其船中に運び去る。

836 II 740 以下。

次に弓射る者のため暗緑の鐵賞に賭け、 850

兩刄の斧と片刄とを各々十個取り出し、

而してはるか沙の上、引き上げられし黒船の

檣を的と打ち定め、そこに可憐の鳩一羽、

細き糸もて足繋ぎ之を射るべく命下す、

『いづれにもあれ矢を放ち可憐の鳩を打たんもの、 855

彼は双刄の十の斧取り陣營に運び去れ、

鳩に射當てず、たゞ糸を射たらんものは負として、

十の片刄の斧を得て其陣營に携へよ。』

850 競技第七弓 883 迄此も亦笑ふべし、弓の競技はアイネーシス V にヰルギリウスも述ぶ、されど此場面における如き不合理を避く。

しか陳ずれば立ちあがる勇武の王子チュウクロス、

イドメニュウスの家臣たるメーリオネース又立てり。 860

かくして二人青銅の兜に※を投げ入れて、

振り搖がせばチュウクロス先に當りていやすぐに、

弓勢強く切り放つ、されど初生の仔羊の

すぐれし牲を捧ぐるを神アポローンに盟せず。

アポローン斯くて許さねば、遂に鳩をば射當て得ず、 865

たゞ其足の眞近くに繋ぎし紐に射當つれば、

鋭き鏃忽ちに紐斷ち切りつ、放たれし

可憐の鳩は空に舞ひ、斷られし紐は地に垂れぬ。

之を眺めてアカイアの衆一齊に歡呼しぬ。

メーリオネースその時に勇みて弓を奪ひ取り、 870

長く前より心して放ち射るべく矢を持てる

彼は直ちに祈願して、新たに生れし仔羊の

すぐれし牲を捧ぐべく神アポローンに誓立つ、

かくして高き空の、上可憐の鳩を窺ひて

高く翔け舞ふ鳥の羽の、下の眞中に射當てたる、 875

其矢はもとに落ち來り、メーリオネースの足許に

近く大地につきさゝる。射られし鳩は其舳

眞黒の船の帆檣におりて其頸垂れさげつ、

而して厚き兩翼は共にひとしく垂れさがる。

斯くて生命速かに鳥のむくろを逃れ去り、 880

鳥は帆柱下に落ち、眺むる衆は驚けり。

メーリオネース悉く十の双刄の斧を取り、

片刄の斧をチュウクロス其船中に運び去る。

870 斯る折弓は只一張。

ペーレーデース又次ぎに更に場裏に持ち來す

影長く曳く投槍を、牛一頭の價ある 885

鼎を――未だ火に懸けず、花の浮彫せるものを。

槍を投ぐるに巧みなる勇者、こなたに權勢の

ア,トレーデース、かなたにはメーリオネース立ち上る。

足疾き勇武のアキリュウスその時彼らに陳じ曰ふ、

『アートレ,デーよ、一切に君の優るをわれら知る、 890

其權勢に、槍投ぐる術に、すべてに打ち勝つを、

いざ此賞を携へて君の船中歸り去れ、

而して君の心もし贊せば槍を豪勇の

メーリオネースに與へずや、正しくわれの望なり。』

しか陳ずれば權勢のアガメムノーンうべなへり、 895

メーリオネース青銅の槍を受けたり、其家臣

タルチュビオスにかの賞をアガメムノーン授けたり。

884 競技第八、投槍 897 迄。

第二十四歌

眠れぬ夜曙けアキリュウス起ちて、パトロクロスの墓のめぐりに、ヘクトールの屍を曳きずる。神々之を見て評議す。 ヂュウスは使を遣はし、アキリュウスに諭し、賠償を納れてヘクトールの屍を返せと命ず。 同時にプリアモスに賠償を命ず。 王妃ヘカベーの諫を聽かず王プリアモス進んでアキリュウスの陣營に行く。 ヘルメーアス之を護る。 陣營に着きて老王の哀訴。 アキリュウス之を聽き、十一日間の休戰を約す。 屍を車に乘せてプリアモス王トロイアに歸る。 ヘクトールの妻アンドロマケー、母ヘカベー、及びヘレネーの慟哭、ヘクトールの葬式。

集會今や解け散じ、衆人おのおの其船に

別れて去りて、口腹を又甘眠を滿すべく

念じぬ。されどアキリュウス、ペーレーデース唯獨り、

親しき友を憶ひ出で悲しみ泣けば、一切を

制する睡寄せて來ず、あなたこなたに寢返りて、 5

パトロクロスの剛勇と其精力を忍び泣き、

波浪の上の艱辛を、又陸上の戰を、

共に分ちて努めたる其いにしへを忍び出で、

潛然として爲に泣く涕涙長く留らず、

時に或は脇に伏し、時に或は仰向きつ、 10

時に或はうつ伏しつ、遂にはやがて身を起し、

思に暮れて大海の岸邊に添ひて※り行く。

さはれ海のへ岸の上照す曙光に心附き、

戰車の下に駿足の二頭の馬を駢ばしめ、

車臺の後にヘクト,ルの屍體曳くべく結び付け、 15

メノイチオスの逝ける子の墓のめぐりを三たび曳き、

終りて屍體うつぶしに塵埃中にのこしつゝ、

陣に退き休らへり。而してプォイボス・アポローン、

死屍よりすべて傷害を除き、逝きたる英雄に

憐憫加へ、黄金のアイギスをもて全體を 20

守りて、敵に曳きずられ害うくること勿らしむ。

16 パトロクロス。

20 神聖の盾。

怒りに任せ敵將を斯く辱しむアキリュウス、

之を眺むる天上の諸神は彼を憐みて、

ヘルメーアスを促して死體を盜ましめんとす。

こをもろ/\の神明は皆贊すれど、ヘーレーと、 25

ポセードーンと、藍光の眼もつ神女アテーネー、

贊せず、聖きイーリオン、王プリアモス、また部下の

民をパリスの咎のため先きの如くに猶ほ憎む。

パリスの牧場訪へる時、彼は神女ら辱しめ、

不義の歡樂得させたるアプロヂ,テーを尊べり。 30

さはれ數へて十二囘曙光の返る曉に、

神プォイボス・アポローン諸神に向ひ宣んし曰ふ、

29 イーリアスに歌はるる此戰爭の基となる事件、――これは詩中に他に説かれず、後の詩人の説くところ次の如し。神女テチスの婚禮宴(61)に衆神各々招かる、ひとり爭の神女エリス招かれず、之を怒りて復讐のため、宴席に『最美の者へ』と書せる黄金の林檎を投ず。ヘーレー、アテーネー、アプロヂーテー各之をわが物と主張す。ヂュウスは三神女に令しイデー山に牧羊せるパリス(アレクサンドロス)に審判を乞はしむ。パリスはアプロヂーテーを最美と判じて他の二神女を辱しむ。以來二神女は飽くまでもパリスとトロイアとを憎む。不義の歡樂得させたるとはアプロヂーテーの誘によりてパリスがヘレネーと通じたること、即ちトロイア戰爭の起源。王子パリスが牧人となれる理由は(後人の神話)次の如し。彼の母夢にトロイアはパリスの故に亡ぶべしと見たる故に恐れて山中に棄つ、牧人ら拾ひて彼を養育す云々(アポロドーロス綜合年代記三ノ十二及び其他)

『諸神、汝ら酷くして禍降し、ヘクト,ルが、

先きに精美の肉炙り捧げたりしを省みず、

息絶えし後今に猶ほ彼の救護を念とせず、 35

其恩愛の妻と子と母と父とに又民に、

彼眺むるを得せしめず。しかせしめなば慇懃に

彼等は早く淨火もて其葬禮を營まむ。

諸神よ、さはれ汝らはアキルリュウスに力貸す、

彼の胸中正しかる思念はあらず、温柔の

魂は宿らず、獅子に似てただ兇暴の思のみ。

獅子は勇氣と兇暴を頼みとなして、其食を

求むるために人間の群に向つて進み行く、

斯くの如くにアキリュウス憐憫の情失ひて、

廉恥を知らず、――人間に利害齎す情知らず。 45

抑も人は最愛のものを――例へば同胞の

兄弟あるは恩愛の子らを失ふことあらむ、

されど傷みて泣かん後遂には情を制すべし。

『運命』かかる忍耐を人の心の中に置く。

然るを彼はヘクト,ルの尊き魂を奪ふ後、 50

屍體を馬に曳かしめて親しき友の墳塋を

※り行くなり。こは彼の譽に非ず、利にあらず。

いかに勝るも神明の怒りに觸れて可ならむや!

彼は狂ひて知覺なき敵の屍體を辱しむ。』

54 アリストテレスの修辭學 II 3 に之の行を引く、「怒の原因たる者が知覺なきに到らば賢者は其怒を抑ゆべし」云々。

玉腕白きヘーレーは其時怒りて彼に曰ふ、 55

『ああ白銀の弓の神、アキルリュウスとヘクト,ルを、

汝等しく褒むとせば、汝の言句皆空し、

只の人間ヘクトール女性の胸に育てらる、

アキルリュウスは神女の子、われは神女を養ひて、

育てて遂に妻として王ペ,リュースに仕へしむ。 60

痛く諸神に愛でられし彼の婚賀の席のうへ、

諸神ひとしく連れる中に汝も琴を手に、

加はり乍ら惡人の友たり、汝信あらず。』

雷雲寄するクロニオーンその時彼に宣んし曰ふ、

『ヘーレー、汝、神々に對して怒ること勿れ。 65

彼ら二人の光榮は同一ならず、然れども

イーリオン中、他に優りヘクト,ル最も愛すべし。

われに然かなり、故は彼つねに供物を怠らず、

其祭壇はわが爲に祝祭缺かず、また奠酒

燔肉の禮怠らず、これらの榮をわれは受く。 70

されど勇なるヘクト,ルを奪はんことは爲さざらむ、

アキルリュウスに知られずに此事なすを得べからず。

彼の神母は夜も日もひとしく彼の前近し。

今われ望む、とある神、テチスをこゝに呼び來れ、

われは神女を諭すべし、アキルリュウスが敵王の 75

齎らす寶納受して其子の屍體返すため。』

しか宣んすれば、疾風に似たるイーリス使とし、

去りてサモスと嶮崖のインブロスとの間なる

暗き潮に飛び込めば、騷然として波亂る。

牡牛の角の先につく鉛の錘、貪慾の 80

魚に死命を齎らして沈み行く樣見る如く、

千仭深き波の下、使イーリス潛り行き、

神母テチスを廣やかの洞窟中に見出しぬ。

海の仙女ら群りて共に坐れるただ中に、

故郷離れてトロイアの沃土に死なん運命を―― 85

すぐれたる子の運命を、神母は泣きて悲めり。

其そば近く疾風の速きイーリス立ちていふ。

78 XIII 12 サモトレーケー嶋。

80 「オヂュッセーア」XII 251 以下に同樣の比喩。

83 XVIII 402.

『テチス起たずや、クロニオーン、永遠の智者汝呼ぶ。』

足銀色の玲瓏のテチス答へて彼に曰ふ、

『おほいなる神何故に來れと我に命ずるや? 90

神に混じるをわれ恐る、われの心に惱あり、

さはれ行くべし、おほ神の述べん言句は空ならず。』

しかく陳じて神聖の神女は黒きかつぎ取る、

是に優りていや更に黒き衣はあらざらむ。

斯くして脚は疾風の速きイーリス導きて、 95

進む行方に漫々の潮は分る右左。

やがて岸上登り來てそれより高く天に飛び、

四方を遠く眺めやるクロニオーンを見出せり、

彼を※りて慶福の不死の神々並び坐す。

ヂュウスのそばにテチス今坐れば席をアテーネー 100

讓り、ヘーレー黄金の盃與へ、慰めの

言句を述べぬ。――飮み終へて盃もとに納むれば、

人間並に神明の父は即ち宣んし曰ふ、

『テチスよ、汝、胸の中、言に述べ得ぬ憂愁を

抱きウーリュンポスに來ぬ、我も親しく之を知る。 105

汝をこゝに呼び寄せし其故我は今告げむ

九日續きヘクト,ルの屍體並に、アキリュウス、

都城を破る勇將につきて諸神は爭へり。

あるもの屍體盜むべくアルゲープォンテ,スそそのかす。

されども我は光榮をアキルリュウスに與へんず。 110

愛と敬とを末永く我は汝にいたすべし。

今陣中に速かに行きて汝の子に告げよ、

告げよ、彼れ猶暴れ狂ひ其曲頸の舟のそば、

なほヘクトール留め置く、其故を以て神明の

すべては怒る、特に我れ外に優りて憤ほる。 115

彼若し我を憚らば將ヘクト,ルの死屍返せ。

而して我はイーリスをプリアモスへと遣はさむ。

アカイア陣に赴きて愛兒の屍體求むべく、

アキルリュウスに其心和らぐ寶贈るべく。』

110 屍を償ふべきプリアモスの贈遺――これなくばアキリュウスの面目立たず。

しか宣んすれば銀色の脚のテチスは命奉じ、 120

ウーリュンポスの頂の高きを早く飛び下り、

愛兒の陣に來り着き、そこに勇將悲みて

聲を擧げつゝ泣くを見る、其かたへには諸の

親しき家臣いそがしく、朝の食事を整へつ、

羊一頭屠られて陣營中に横はる。 125

その時彼に端嚴の神母近より坐を占めて、

手もて撫でつつ名を呼びて言句を彼に陳じ曰ふ、

『我が子何時まで悲しみて身を苦めてかく迄も、

ひとり心を蝕むや? 食事或は甘眠を

汝心に思はずや? 女性と愛を契ること 130

また宜からずや? 永らくは汝は生きず、無慘にも

死と物凄き運命と共に汝に近寄れり。

今速に我に聽け、ヂュウスぞ我を遣はせる。

狂ひ怒りて曲頸の船のかたへにヘクトール

留めて汝返さねばすべての神は憤る、 135

而して外の一切に優りてヂュウス憤る。

やめよ、屍體を返し去り、其賠償を受け納れよ。』

脚迅速のアキリュウス聞きて神母に答へ曰ふ、

『しかくあれかし、クロニオーン誠に之を命じなば――

彼ら賠償齎して屍體を運び去るべけれ。』 140

數多の船のただ中にテチス並にアキリュウス、

しかく飛揚の翼ある言句互に相交う。

かなたイ,リオンめざしつゝイーリス送るクロニオーン、

『ウーリュンポスを後にして、イーリス、汝速かに

聖イ,リオンに赴きて王プリアモスに宣んし曰へ、 145

彼は愛兒の贖にアカイア水師おとづれて、

アキルリュウスを和ぐる賠償彼に致すべし。

トロイア軍の何人も彼に伴ふこと勿れ。

ただ老年の使のみ伴ひ、騾馬と輕輪の

車引くべし、而うしてかれ剛勇のアキリュウス、 150

殺せる屍體かなたよりイ,リオン城に運ぶべし。

死滅或は他の恐怖、彼の心に無かれかし、

彼を導く役としてアルゲープォンテ,ス與ふべし、

即ち彼を導きてアキルリュウスにつれ行かむ。

アキルリュウスの陣營に一たび彼を導かば 155

勇士は彼を殺すまじ、又他を抑へ制すべし、

彼は愚ならず、思慮缺かず、斷じて惡き漢ならず、

彼に悲しみ乞ふ者を心を盡し勞らむ。』

157 愚と無思慮と惡意とは人をして殘虐をを」]行はしむ――或るイーリアス評論家の言。

しか宣んすれば、疾風の脚とき使イーリスは、

起ちておとづるイーリオン、悲嘆に滿つる城の中、 160

父プリアモス打圍む數多の子息悉く、

涙に衣濡せり、老いたる王は其の眞中、

被覆全く身を包み、苦悶のあまりころがりて、

われとはなしに手に攫み投げし汚物の數々に、

頸また頭無慚にもいたくまみれてむさくろし。 165

而して彼の數多き娘と嫁は一齊に、

アカイア軍の手に斃れ、地上に屍體今さらす

數多の勇士忍び出て、涙流して悲めり。

その時ヂュウス遣はせるイーリス、王の前にたち、

恐れて手足戰ける王を柔和の聲に呼ぶ、 170

『ダルダニデーのプリアモス、心安んじ、恐れざれ。

我れ禍を告ぐるためこゝに汝をおとづれず、

好意齎らし來る我、ヂュウスはわれを遣はせり。

遠く離れて彼は善く汝を守り憐めり。

其大神はかく命ず、アキルリュウスを飽かすべく、 175

あまたの寶携へて子のヘクトール贖へと、

トロイア軍の何人も同じく共に行く勿れ、

ただ老年の使のみ汝に附きて騾馬を引き、

輕車曳くべし、而うして彼れ英豪のアキリュウス、

殺せる汝の子の屍體イ,リオン城に運ぶべし。 180

死滅或は他の恐怖、汝の胸に無かれかし、

汝導く役としてアルゲープォンテ,ス倶ならむ。

彼は汝を導きてアキルリュウスにつれ行かむ。

アキルリュウスの陣營に一たび汝到る時、

彼は汝を殺すまじ、又他を抑へ制すべし、 185

彼は愚ならず、思慮缺かず、斷じて惡しき者ならず、

彼に悲しみ乞ふ者を心盡して勞はらむ。』

しかく陳じて疾風の脚のイーリス別れ去る。

王は即ち騾馬の曳く輪車整へ、其上に

一つの籠を載するべく、もろ/\の子に命くだす。 190

而して彼は屋の高き木の香匂へる室に入る、

室には種々の珍寶の目を驚かす數多し。

而して彼はヘカベーを、彼の王妃を、呼びて曰ふ、

『不便の王妃、我に聞け、アカイア水師おとづれて、

アキルリュウスに物贈り愛兒の屍體求めよと、 195

ウーリュンポスの高きより神の使は來り曰ふ。

さもあれ汝、胸の中思ふところをわれに云へ、

アカイア勢のおほいなる陣をめがけて舟のへに、

我の勇氣は我を驅り、我に命じて進ましむ。』

しか陳ずれば驚きて聲を震はせ妃は叫ぶ、 200

『悲しや君の氣は亂る、先に異邦の人々も、

またわが部下も讃したる君の譽れの思慮いづこ?

君の多くの勇猛の子らを殺せる敵將の、

そのまのあたり身ひとりに、アカイア勢の水陣を

君訪はんとや? 然かあらば君の心は鐵ならむ。 205

ああ不信なる酷き敵、彼もし親しく君を目に、

眺め檢することあらば、君を憐むことあらじ、

君を敬することあらじ。否否、むしろ城中に

坐しつゝわが子哀まむ、彼をこの世に産みいでし

其日につらき運命の絆は彼の身を繋ぎ、 210

親を離れて足早き野犬の口を充たすべく、

かの兇敵に斃れしむ、ああわれ敵の心肝を

噛み取ることを得ましかば、――さらばわが子の復讐を

まさしく爲すを得べからむ。彼の殺せしわが愛兒、

絶えて未練のあとあらず、恐を知らず、退却を 215

知らず、雄々しくトロイアの男女の爲に戰へり。』

212 XXII 347 參照。

しか陳ずればプリアモス、神の姿の王は曰ふ、

『我の行かんと念ずるを止むる勿れ、城中に

不吉の言を吐く勿れ、汝はわれを諫め得ず、

地上に生ける人間のあるもの、我に命じなば、 220

即ち僧侶、卜筮者、あるは巫人の言ならば、

之を虚誕と觀じ去り、我れ其言を受けざらむ、

されども耳に聞きたるは神女の言葉、しかも目は

彼を眺めり、いざ行かむ。胸甲よろふアカイアの

水師のそばに斃るべき、運命われにありとせば、 225

われ甘受せん。――アキリュウスわれを打てかし、わが腕に

愛兒を抱き慟哭の涙を流し果てん後。』

しかく陳じてもろ/\の櫃の美麗の蓋開く。

かくて内より取り出す華美の禮服十二枚、

單衣の袍の十二枚、毛氈の數亦同じ、 230

華麗の上着、また下着、數はいづれも皆同じ。

更に數へて黄金の十タランタを取り出し、

更に輝く三脚の鼎二つと四つの盤、

又目を驚かす精巧の盃一つ、その昔、

トレーケースに客の時贈られしもの、宮中に 235

惜み留むることをせず、ただ其愛兒贖の

念に忙しく、老王は柱廊よりし一切の

トロイア人を追ひ拂ひ、罵辱の言を浴せ曰ふ。

『退れ汝ら無禮もの、厭ふべき者こゝに來て、

われ煩はす事なかれ、汝ら内に慟哭の 240

種なからずや。クロニオ,ンわが最上の子を奪ひ、

われに悲哀を與へたる其禍は足らざるや?

やがて汝ら悟るべし、一旦彼の逝ける後、

アカイア人は汝らを更に容易く亡さむ。

ああわが都城破られて掠み去られん、――其姿 245

わが目親しく見る前に、我は冥土におり行かむ。』

しかく陳じて笏揮りて衆を嚇せば、老王に

追はれて衆は散じ去る、あとに殘れる其子らに

王は叱りて命下す、ヘレノス、パリス、アガトーン、

アンチポノスとパムモーン、音聲高きポリテース、 250

デーイポボスとヒポトオス、ヂオス、すぐれし勇武の子、

九人の子らに呼ばはりて老王かくは命下す、

249,250,251 これらの名は前後に無し。

『急げ汝ら不肖の子、無慚のやから、汝らは

水師のほとりヘクト,ルに代りて死せばよかりしを。

ああわれ痛く不幸の身、廣きトロイア領の中、 255

すぐれし子らを産みたるも今一人もながらへず。

神にも似たるメーストル、車戰巧みのトローイロス、

又人中の神たりしヘク,トル――彼は人間の

生みたる者と見えざりき、正しく神に似たりけり。

アレース此らを悉く亡す、あとに殘るもの、 260

無慚のやから、善く踊り、虚言を吐きて、同族の

手より彼らの群羊と山羊とを掠め奪ふ者。

汝ら急ぎ我が爲に車駕を整へ、其中に

此らの品を積みのせて、われの行くべき備せよ。』

257 此二人はトロイア戰爭以前に逝く。

しか陳ずれば老王の言を恐れて、もろ/\の 265

子ら輕輪のよき車、新たに成りてうるはしき

車を騾馬に曳かせ來て上に一つの籠を載す。

彼らはついで掛釘にかかる軛をとりおろす、

騾馬のひくべき其軛――黄楊の軛に鈕あり、

手綱のための輪を具ふ。――軛もろとも九ペーギの 270

手綱を彼ら齎らして、善く琢かれし梶棒の

先に結びて而して輪を木釘に嵌め合はす。

而して三度右左綱を鈕にくくりつけ、

更に其後梶棒に結びて下に鉤を曲ぐ。

而して衆はヘク,トルの頭に代ゆる珍寶の 275

贖多く取りいだし、善く磨かれし車の上

積みつ、蹄の強き騾馬二頭軛の下に据う。

王プリアモス其むかしムーソイ族ゆ贈られて、

美なる厩に飼ひ來る其すぐれたる騾馬二頭、

衆は今はた老王の爲に軛の下に据う。 280

傳令並びにプリアモス、賢き思念胸にして

高き館の庭の中其兩頭を御して立つ。

266 266―274 馬具のくわしき圖入の説明リーフのイリアッド第二卷附録 623 以下にあり。繁きによりて省く。

274 不明。

278 II 858.

その時心安からぬヘカベーそばに寄り來り、

その右の手に蜜に似る酒を湛へし黄金の

盃持ちて、門出に奠酒の禮を果すべく 285

兩馬のかたへ立ち乍ら口を開きて陳じ曰ふ。

『ああ君しばし留りてヂュウスに神酒奉り、

敵陣よりし恙なき歸參を祈れ、わが心

好まざれども、水陣に飽く迄君は行かんとす。

雷雲寄するクロニオーン、イデーにありてトロイアを 290

みな悉くみそなはす、その大神にああ祈れ、

空とぶ使、衆鳥の威力まさりて大神の

最も愛づる鷲をして、君の右邊に飛ばしむる

その吉兆を祈れかし、親しく之を眺め得ば、

之を信じて喜びてアカイア軍を訪ひ得べし、 295

廣く目を張るクロニオーン若しこを聽かず、飛ぶ使

あらはすなくば、アカイアの水陣さして行かんずる

君の情願激しとも、我は飽く迄おしとめむ。』

神に似る王プリアモス即ち答へて彼に曰ふ、

『妃よ汝曰ふところ、我今敢て背くまじ、

ヂュウスに兩手さしあげて哀憐乞ふは惡からず。』

しかく陳じて老王は、侍女の一人に清淨の

水を其手に灑ぐべく、命を下せば盤と瓶、

共に左右の手に取りて王の傍に近く立つ。

洗ひ終りて王妃より盃うけて衆の前、 305

眞中に立ちて滴々と酒を灑げる老王は、

天を仰ぎて聲揚げてクロニオーンに斯く祈る。

306 XVI 231.

『ああおほいなる光榮の天王、イデーを知ろしめす、

アキルリュウスを訪ふわれに彼の憫み受けしめよ、

空とぶ使、衆鳥に威力まさりて天王の 310

最も愛づる鷲をして休徴となりてわが右に、

現ずることを得せしめよ、わが目親しく之を視て、

之を信じてアカイアの水陣さして行かんため。』

祈りてしかく陳ずればクロニーオーン聽き取りて、

直ちに鷲を遣はしぬ。休徴最も確かなる―― 315

獵に巧みの黒き鳥、人界の名はペルクノン、

高く聳ゆる嚴重の富豪の館其戸前、

廣く左右に張る如く飛び來る鳥の大翼、

翼は張りて城上の空を翔けつつ、群衆の

右手の方に現はるる、衆人親しく之を見て、 320

歡喜に滿ちておのおのの心樂しく晴れわたる。

315 XXI 252.

車臺の上に老王は其時急ぎ身を載せて、

玄關及び鳴りわたる柱廊よりし外に出づ、

騾馬は四輪の車曳き、前に進むをイダイオス、

賢き御者は驅り立てつ、この後より老王の、 325

鞭を振ひて城中を過ぎて進むる馬は行く、

其時友は一齊に續きて彼に從ひて、

彼の恰も死地に入る思をなして悲めり。

斯くして衆は城外に下りてやがて平原に、

到れる後に王の子ら、女婿ら共に引き返し、 330

イ,リオンさして歸り來る。廣く目を張るクロニオーン、

老翁二人平原の上を進むを見逃さず、

憐憫垂れて其愛子ヘルメーアスに向ひ曰ふ、

333 ヘルメーアス XVI 183 參照。

『ヘルメーアスよ、人間に伴ふことを汝よく好み、而して

汝また念ずる者に耳を貸す、さらば今行き、アカイアの 335

水陣さしてプリアモス王を導け、ダナオイの

衆人中の誰一人、彼を見、彼を認むるを

得せしむ勿れ、進み行きアキルリュウスに到る前。』

令に從ひ立ちあがる使アルゲープォンテース、

直ちに彼は脚の下、履を結びぬ、――黄金の 340

神聖の履、之により風の如くに迅速に、

波浪の上を涯なき大地の上を翔くるもの――

續いて彼は杖を取る、其意の儘に或ものの

瞼を閉ざし、時に又眠れるものをおこすもの――

強きアルゲープォンテース、之を手にして飛び行きて、 345

直ちにヘレースポントスに、又トロイアに到り着き、

顋に柔毛の生へそめて影青春の美しき、

王子の姿現はして彼方に向ひ進み行く。

339 339―345 は「オヂュッセーア」V 43―49 にまた出づ。

かなたイーロス王の墓過ぎたる時に二老翁、

騾馬と駿馬を引きとめて流れの水を飮ましむる、 350

折しも暗は蒼然と大地の上に寄せ來る、

その時傳令イダイオス、ヘルメーアスの側近く

立てるを認め、プリアモス王に向ひて陳じ曰ふ、

349 X 415.

『ダールダニデー、かなた見よ、今戒心の要起る、

我見るところ、とあるもの、すぐにわれらを喪はむ。 355

いざ馬驅りて逃げ去らむ、さらずば彼の膝抱き、

彼の憐憫、恩情を言懇ろに求むべし。』

しか陳ずれば老王の心亂れて畏怖強く、

毛髮爲に逆だちて肢體そゞろにわなゝきつ、

茫然として立ち留る、其そば近く寄り來る 360

ヘルメーアスは、老王の手を取り彼に尋ね問ふ、

『叟よ、いづこに此騾馬と駿馬を君は導くや?

夜は闌にかんばしく、睡に人の沈む時、

君恐れずや勇猛のアカイア族は敵慨の

思はげしく物凄くこゝらに近く群がるを。 365

彼らの一人暗黒の夜のもなかに、珍寶の

かゝる多量を携ふる君見出さば何とせむ。

君若からず、陪從の人も亦老ゆ、とある者

進み來りて襲ふ時、防禦誠に難からむ。

されども我は君の身に害を加へず、むしろ他の 370

害を防がん、君のため、君は愛する父に似る。』

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、

『はしき若人、げに然なり、誠に君の曰ふ如し、

とある神明手をのべてわれの如きを尚守り、

君の如きの好伴侶、我の途上に得さしめぬ。 375

いみじや君に壯麗の肢體と容姿備りて、

更に叡智は胸の中、幸なる哉君の親。』

使アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、

『叟よ、然かなり、正しくも君はこれらの事を曰ふ、

さはれ今また一切をまことに我に打ちあけよ。 380

夥多貴き財寶を身に安らかに保つため、

異郷の民の許さして君今搬び去らんずや?

或は君の子、すぐれたる勇將すでに逝きたれば、

恐れてここを――神聖のイ,リオン城を去り行くや?

アカイア軍の戰に彼は無双の勇なりき。』 385

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、

『はしき若人、君はたそ?君を生めるは何人か?

わが薄命の子の最期君はいしくも我に曰ふ。』

使アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、

『我を試して君は問ふ、將ヘクト,ルに付きて問ふ、 390

我は屡※此目もて、親しく彼を光榮の

戰鬪場に眺め見き、水陣近く追ひ詰めて、

利き黄銅の刄もてアカイア勢を討つを見き、

アガメムノーンに憤るアキルリュウスが戰を

許さぬ故に傍に立ちて眺めて驚きき。 395

ミルミドネスの族にしてポリュクトールの子たる我、

アキルリュウスの部下として同じ船にてこゝに來ぬ。

父は豐かに家は富み、君の如くに今は老ゆ、

我を除きて六子あり、我は即ち第七子、

彼らと共に籤引きて我れ從軍の命を得つ、 400

船を離れて原上に今我來る。眼の速き

アカイア軍は曉に城外かけて鬪はむ、

彼らは坐して耐へ切れず、アカイア軍の頭領は、

戰爭待ちてあこがるる衆を抑ゆること難し。』

神の姿のプリアモス老王即ち彼に曰ふ、 405

『君は誠にアキリュウス、ペーレーデースの部下ならば、

我れ君に乞ふ、全くの眞實われに打明けよ、

舟の傍にわが子今横はれるや? アキリュウス

彼の屍體をつんざきて狗の口腹充たせしや?』

使アルゲープォンテース即ち答へて彼に曰ふ、 410

『叟よ、心を安んぜよ、鷙鳥も狗も、未だ猶

喰はず、彼は陣の中、アキルリウスの船近く、

前の如くに横はる。曙光の彼を照すこと、

十有二囘、然れども皮膚は腐らず、アレースの

牲と斃れし人々を喰ふ蛆また苛まず。 415

曙毎に親友の墓のめぐりをアキリュウス、

彼の屍體を無慚にも曳きずり、兵車驅り飛ばす、

されども彼を傷はず、來りて君は眺むべし、

彼れ清淨に横はり、血は悉く拭はれて、

いづれの部にも汚なし。敵人あまた斬りこみし 420

其疵口は癒されて、痕跡見るを得べからず。

斯く慶福の神々は心汝の子を愛でつ、

既に逝けるも英雄を念頭よりし棄て去らず。』

しか陳ずれば喜べる老王答へて彼に曰ふ、

『ああ若人よ、神明に然るべき物を獻ずるは、 425

正しく宜し、われの子は生ける間はオリュンポス

領する神を宮中に絶えて忘れしことあらず、

其故神は運命の非なるも彼を思ひ出づ。

いざ此美なる盃を受けよ、感謝のわが手より、

而してわれを保護しつゝ導け神ともろともに、 430

斯くして我は到るべしアキルリュウスの陣營に。』

使アルゲープォンテース其時答へて彼に曰ふ、

『叟よ、年齡若き身を君は試む、われ聽かず、

アキルリュウスに知られずに物を受けよと君は曰ふ、

彼畏るべしわが心彼を奪ふを敢てせず、 435

しかせば後日災難の身にかかることありぬべし。

さはれすぐれしアルゴスにわれ懇ろに導かむ。

或は船に又陸に心をこめて伴はむ、

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