既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン
奮ひ戰ふことを得ず。ヂュウスの子なる最勇の 520
サルペードーン討死し、大神これを憐まず。
されども君はわが負へる重疵いやし、激烈の
苦惱柔げ、新なる力を我に貸し給へ、
さらばリキエー軍勢に呼びて戰勵さん、
われも自ら殺されし友を護りて戰はむ。』 525
513 アポローンはリュキエー族の神。(IV 101)
祈りてしかく陳ずるを神アポローン納受しつ。
直ちに苦痛和げて、重き疵より溢れくる
黒き血潮を乾かしつ、心に勇氣吹き込めば、
これを感ずるグローコス、かく速かにアポローン、
彼の祈りを聽きたるを知りて心に歡喜滿ち、 530
起ちて四方を驅けめぐり、リキエー諸將勵まして、
サルペードーンのなきがらを※り戰はしめんとす。
しかしてのちにトロイアの陣にはげしく馳せ來り、
パントーオスの生める息プーリダマスとアゲノール、
アイネーア,スと青銅を鎧ふヘクト,ル訪ひ來り、 535
傍に立ちて口開き飛揚の羽ある言をいふ、
527 神々は速に疵を癒やす。(V 448)
『あゝヘクトール、援軍を汝全く忘れたり、
汝のためになつかしき故郷を友をあとにして、
命を棄つる軍勢の援を汝心せず。
楯のリキエー軍勢を率ゐ、力と正義とに 540
よりて彼らを治めたるサルペードーンは今死せり、
見よ青銅のアレースはパトロクロスの槍により、
彼を死せしむ、今彼の傍に立ちて勇奮へ!
ミルミドネスは恐らくは彼の武裝を剥ぎとりて、
彼に恥辱を加ふべし、船のかたへに槍をもて、 545
わが軍さきに倒したるアカイア勢の復讐に。』
542 ここのアレースは單に戰鬪を意味す。
しか陳ずればトロイア勢、耐ゆべからざる強烈の
悲哀に打たる、彼にとりサルペードーンは外來の
勇士なれども、其都市の堅き防備を引きうけて、
多數を具して其中に奮鬪最も勉めたり。 550
リキエー軍は勇を鼓しアカイア軍に向ひ行く、
その先頭にヘクトール、サルペードーンのために起つ。
かなたアカイア軍勢をパートロクロス勵ましつ、
眞先きに二人のアイアース、すでに自ら勇めるを
勵ましていふ『アイアース、先きに戰士の中にして 555
すぐれし汝勇奮へ、更に一層勇奮へ!
アカイア軍の壘壁にまさきに入りし敵の將、
サルペードーン斃れたり、いざ今行きてなきがらに、
恥辱與へて軍裝を彼の肩より剥ぎ取らむ、
なきがら守る友軍をわが鋭刄に打ち取らむ。』 560
その言聞ける兩將はすでに自ら勵み合ふ。
かくて兩軍彼と此れ、各々隊伍整ふる、
トロイア及びリキエーとミルミドネスとアカイオイ、
喊叫すごくその武具を高らに鳴らし、斃れたる
サルペードーンのなきがらを※り互に渡り合ふ。 565
逝ける愛兒の傍に戰鬪いたく荒るるため、
その時ヂュウス戰場のはげしき上に夜を擴ぐ。
トロイア軍はまつさきにアカイア勢を追ひまくる、
ミルミドネスの陣中の怯れぬ一人先づ斃る、
アガクレエース生める息エペーギユスはそのむかし、 570
ブーデーオンの豐かなる都市に君臨したるもの、
其勇しき從弟を殺せる故に逃げ來り、
助け求めてペーリュウス、又銀色の光ある
脚のテチスに憑りすがり、其命によりトロイアと
戰ふために、勇猛のアキルリュウスに附けるもの、 575
死體剥がんとする彼を覘ひ譽のヘクトール、
頭に石を投じあつ、堅き兜におほはれし
頭二つに碎かれて、勇士は屍の傍に、
地にうつぶしに打倒れ、死の暗影に蔽はれぬ。
かく友僚の斃れしをパートロクロス悲しみて、 580
憤然として先鋒を過ぎてさながら猛き鷹、
羽音するどく小鴉を又椋鳥を逐ふ如く、
友を傷みて汝今パトロクロスよ、馬を驅り、
リュキエー及びトロイアの軍に向ひて打ちかかる。
かくて勇將石飛ばしイタイメネース生める息、 585
ステネラオスの頸にあて其筋肉をつんざけり。
敵の先鋒、譽あるヘクト,ル共にあとしざる。
競技の場にも戰場の生死爭ふ境にも、
力をこめて抛てる壯士の長き槍の身の、
飛び行く距離に等しかる、さほどの道をトロイアの 590
軍はアカイア軍勢に追はれてあとに退けり。
されど眞先にグローコス、盾持つリキエー軍勢の
主將、かへしてカルコーン生める勇將バチュクレス
討ちぬ、ヘラスの郷に住み、其財力と資産とは
ミルミドネスの首たるもの、あと逐ひ來り迫る時、 595
不意にかへしてグローコス、その長槍をさしのべて、
覘違はず敵將の胸のもなかを貫けば、
どうと大地に斃れ伏す。かく勇將の斃るるを、
眺めてアカイア軍勢は悲しみ、トロイア軍勢は
痛く喜び、一團となりて來りてそばにたつ、 600
アカイア勢も其勇を忘れず、奮ひ、立ち向ふ。
メーリオネースその時にオネートールの生める息、
ラーオゴノスを討ちとりぬ。父はイデーのクロノスの
子に奉仕して民により神の如くに崇めらる。
顎と耳との下うたれ倒れし彼れの肢體より、 605
魂魄早く立ち離れ凄き暗黒彼を蔽ふ。
アイナイアースその時に青銅の槍投げとばし、
盾をかざして進み來るメーリオネース打たんとす、
されど勇將之を見て其青銅の槍を避け、
前にかがめば頭越し飛べる長槍その背後、 610
落ちて大地をぐさと刺し槍身しばし打震ひ、
やがて程なく恐るべきアレースの威は鎭りぬ。
〔アイナイアース剛勇の手より空しく抛げられて、
覘はなれて長槍は大地の中につきささる〕
アイナイアースその時に憤然として叫び曰ふ、 615
583 三人稱より二人稱への變化稀なるが前にもあり。
603 同名の別人XX 460 にあり。
612 槍を曰ふ。
613 此二行後人の添加。
『わが槍汝を貫かば、メーリオネースよ、速かに
舞踏の術に長じたる汝の息をとどめしを。』
617 冷笑の句、歩武堂々の反對。
その時槍の名手たるメーリオネース、答へ曰ふ、
『汝誠に勇なるも、ああアイネーア、進み來て
汝に向ふ一切の敵の威力を鎭むるは、 620
難かるべきぞ、汝また死ぬべき者と生れたり。
汝誠に勇ありて其腕力に頼るとも、
われ青銅の鋭きを投げて汝を討つとせば、
我に光榮、冥王に魂魄、汝讓るべし。』
619 呼格。
しか陳ずるを警めてパートロクロス叱り曰ふ、 625
『メーリオネーよ、剛勇の汝何らの饒舌ぞ!
思へ、罵辱の言によりトロイア勢は屍體より
あとに返さず、その前に地に倒るもの多からむ、
戰時の決は腕力に、言句のそれは評定に。
されば無用の辯棄てよ、たゞ奮鬪を心せよ。』 630
しかく陳じて先にたち、勇將つゞき跡を逐ふ。
谷間に繁る森の中、木樵の群の丁々の
響起れば、反響は遠くあなたに湧く如く、
刀劍及び兩刄の槍を用ゐて兩軍の
戰ふ時に、大地より、彼ら打合ふ盾の音、 635
青銅及び牛皮張る盾の轟音湧き起る。
サルペードーンの屍體今、頭よりかけ足先に
到り全身こと/″\く武器に射られて、鮮血に、
塵にまみれて、先によく知りたる友も認め得ず。
さはれ其そば衆軍は群がり寄する――譬ふれば、 640
陽和の春の農園に搾りし乳の滿つる桶、
溢れ流れて其めぐり蠅の一群寄するごと、
斯く衆軍は死屍めがけ群がり寄せぬ。クロニオーン
さはれ耀く双眼を戰場よりし他に向けず、
凄き光景見おろして胸に思案を※らしつ、 645
パトロクロスの殺害につきて考慮をくりかへす、――
無慚に死せる勇猛のサルペードーンの屍の上、
その場去らせず彼を又高き譽のヘクトール、
飛刄によりて打斃し、肩より武具を剥ぐべきか?
或は更に衆を討ち彼れ功名を増すべきか? 650
思案のはてにクロニオーン斯く意をきめて善しとなす、――
アキルリュウスの勇猛の副將更に勇を鼓し、
都城をさしてトロイアの軍勢並に其首領、
青銅鎧ふヘクト,ルを走らせ、衆を討つべしと。
斯くして神に眞先に恐怖の念を注がれし 655
將ヘクトール、飛び乘りし兵車を驅りて逃げ乍ら、
ヂュウスの聖き秤知り、トロイア軍を返さしむ。
その時強きリキエーの軍勢同じく支へ得ず、
其心臟の碎かれて屍體の群の中、伏せる
主將をあとに一齊に皆逃げ出す、クロニオーン 660
激しき軍促して衆軍そばに斯く斃る。
かくして部下に燦爛の青銅の武具、斃れたる
サルペードーンの肩よりし剥ぎ取り、之を中廣き
軍船さして運ぶべく、パートロクロス命下す。
その時かなた雷雲の神はアポローン呼びて曰ふ、 665
657 聖き秤 VIII 69、こゝは只ヂュウスの意。
『行けポイボス、わが愛兒、飛箭、飛槍の間より、
サルペードーンを引き出し、黒き血潮を拭ひ去り、
更に遠くに搬び行き、流るゝ水に洗淨し、
アムブロシアをまみらしてアムブロシアの衣きせよ。
しかして彼れを神速の運搬者たる双生兒、 670
「眠」と「死」とに一齊に故郷に擔ひ去らしめよ。
彼らは廣きリキエーの豐かの郷に速かに、
行かん、而して盟友と同胞彼を葬りて、
墳と柱を打建てむ、死者に對する禮は斯く。』
666 XV 221 アポローンは最もヂュウスに愛さる、而して常に其命を奉ず。アテーネーも最も愛さるれども時に反抗す。II 371 等に以上三神に訴ふる句あり。
671 上文 454.
674 上文 456.
しか宣んすればアポローン、父なる神の命を聽き、 675
イデーの連山おりたちて凄き戰場訪ひ來り、
直ぐに飛刄の間よりサルペードーン引き出し、
之を遠くに搬び去り、流るゝ水に洗淨し、
アムブロシアを塗らして、アムブロシアの衣きせつ、
しかして彼を神速の運搬者なる双生兒、 680
「眠」と「死」とに一齊に故郷に搬び行かしめぬ、
彼らは廣きリキエーの豐かの郷に擔ひ去る。
オートメドーンと戰馬とをパートロクロス勵まして、
トロイア、リキエー軍勢を逐ひし其果、災難を
遂に招けり。アキリュウス先に命ぜし警めを 685
守らば、あしき運命と黒き死滅を免れしを。
さはれヂュウスの考量は人のそれよりいや強し。
(彼は勇士を畏れしめ、其戰勝をたやすくも
奪ひ、而して又次に彼を戰裡にかり進む)
パトロクロスの胸の中かく今彼は勇を鼓す。 690
その時誰を眞先に、誰を最後に、汝の手、
パトロクロスよ、討ちたるや? 運命自ら盡き乍ら。
685 先文 87.
687 XVII 176 XVIII 328.
692 先文 584.
692 直譯すれば『神々汝を死に呼ぶ時』
アドレーストス、アウトノス、又エケクロス、メーガスの
生みたる子息ペリモスとエピストールとメラニポス、
これら眞先に、エラソスと又ムーリオス、ピラルテ,ス、 695
同じく討ちぬ、殘るものたゞ逃走を願ふのみ。
693,695 アドレーストス以下を記せるものに同名異人あり。他は初めて出づる人名、但しメラニポスはXV 546.
その時ポイボス・アポローン、イリオン固き城壁に
立ちて禍難を彼の上たくらみ、トロイア軍勢を
助くることのなかりせば、鋭刄揮ひ荒れ※る
パトロクロスの手によりて、トロイア城は落ちつらん。 700
三たび壁上突角にパートロクロス攀ぢ登り、
三たびポイボス・アポローンゆゝしき神の手を延して、
燦爛の盾打ちたゝき勢猛く追ひ攘ふ。
四たび猛將奮然と鬼神の如く進むとき、
凄く叫びてアポローン羽ある言句宣んし曰ふ、 705
『退け、汝、神の裔、パトロクロスよ、豪勇の
トロイア都城、槍とりて落すは汝の命ならず、
汝の勇にいやまさるアキルリュウスも能くし得ず。』
しか銀弓のアポローン叫ぶ怒りを恐れ避け、
パートロクロス悄然とはるかに後に引返す。 710
單蹄の馬をスカイエー門に駐むるヘクトール、
心に念ず、亂戰の中に再び驅るべきか?
衆に命じて城壁の中に集らしむべきか?
念ずる彼の傍に來るポイボス・アポローン、
ヂマスの子息、ヘカベーの同胞、しかも年若く 715
勇氣に滿てるアーシオス――悍馬を御するヘクト,ルの
母方の叔父、而うしてサンガリオスの岸近き
プリュギエーにし住める者、その風貌を身に借りて、
ヂュウスの寵兒、銀弓のアポローン彼に呼びて曰ふ、
716 ヒュルタコスの子に同名別人。(II 837)
717 III 187.
『あゝ光榮のヘクトール、など戰場を退くや? 720
勿れ、あゝわれ汝より勝らましかば! 劣る我、
しかも直ちに戰場を去るは汝の恥ならん!
起て、單蹄の馬驅りてパトロクロスに打ちかゝれ!
彼に勝ち得ばアポローン光榮汝に與ふべし。』
しかく宣んして人間の爭鬪の場に神は入る、 725
その時譽のヘクトール、ケブリォネースに命くだし、
戰馬を驅りて戰場に馳けしむ。かなたアポローン、
軍勢群れたつ中に入り、アカイア勢の陣中に
騷擾起しヘクト,ルとトロイア勢に榮與ふ。
その時勇むヘクトール他の敵勢に目をかけず、 730
討たず、ひとへにその駿馬パトロクロスに向けて驅る。
パトロクロスは兵車より大地の上におりたちて、
左の手には槍を取り、右には白き大理石、
角ばる巨石――剛健の拳にしかと握り締め、
力をこめて投げ飛ばす。石は覘へる敵將を 735
はづしたれども空しくは地上に落ちず、ヘクト,ルの
御者の額に――手綱とるケブリオネ,スの眞向に、
鋭き石は飛び當る。彼れ敵王の庶腹の子、
石は眉毛を右左ひとしく碎き、其骨も
支へず、かくて右左兩眼落ちて足もとに、 740
塵土の中に埋れつ、彼はさながら潛水夫
見るが如くに、車上より落ちて魂魄身を去りぬ。
その時汝あざけりてパトロクロスよ、かく曰ひき、
『不憫なるかな、輕き身に水を潛るに似たるもの、
さなり、魚類の豐かなる海の上にし彼あらば、 745
波あるるとも船を出で、飛びて潛りて蠣求め、
多くの人を飽かしめむ、見よ彼れ斯くも身も輕く、
戰車下りて大地のへ眞逆樣に倒れたり、
げに水潛るもの多くトロイア軍の中にあり。』
750 上文 617 に同樣の嘲笑の句あり。
しかく陳じて剛勇のケブリオネ,スの死屍めがけ、 750
獅子の如くに奮ひ行く。獅子は牧場をあらすのち、
胸をうたれておのが勇すぐるゝ故に命おとす。
パトロクロスよ、汝かくケブリオネ,スに打ちかゝる。
かなた大地にヘクトール兵車よりしておりて立つ。
ケブリオネ,スの屍の故、二將さながら飢ゑはてし 755
二頭の獅子が、奮迅の勇を揮ひて山頂に、
打ち殺したる鹿の餌を爭ふ如く鬪へり。
ケブリオネ,スの屍の故、メノイチオスの勇武の子、
パトロクロスと光榮の將ヘクトールおのおのの
肉を無慚の刄もて打ち碎くべく奪ひ合ふ。 760
屍の頭をヘクトール堅くつかみて放つなく、
パトロクロスは其脚を同じく捕れば、トロイアと
アカイア二軍加はりてはげしき戰鬪湧き起る。
ユーロス、ノトス二種の風互に競ひ吹きまくり、
みやまの溪のしげき森、※と白楊、滑かの 765
皮の山茱萸一齊に搖る時、樹々は凄じく、
叫びて吠えて、おほいなる枝と枝とを打ち當てて、
碎きて折りて、轟々の爆音起す樣や斯く、
トロイア・アカイア兩軍は互の上に打ちかゝり、
討ちて屠りて敵身方つらき逃走心せず。 770
ケブリオネ,スの屍めぐり、鋭き槍と絃上を
放れ飛び來る勁箭は、大地のうへにつき刺され、
あたりに立ちて戰へる猛士らの盾おほいなる
石に打たれて相碎く、されども死者は戰馬驅る
術を忘れて悠然とうづまく塵の中に伏す。 775
764 東風と南風。
日輪高く中天にかゞやく迄は、兩軍の
飛刄はげしく彼と此れおのおの討ちて衆亡ぶ、
されど光輪傾きて、牛の軛を解く頃に
到れば、アカイア軍勢は運命凌ぎ勝を得て、
ケブリオネ,スを亂刄の外に、トロイア軍勢の 780
叫びの外に奪ひさり、肩の軍裝剥ぎ取りぬ。
776 XI 84 以下參照。
パートロクロス之に次ぎ敵軍めがけ三度まで、
高く叫んでアレースの進むが如く打ちかゝる、
三たび進んで敵軍の九人斃せる勇將は、
鬼神の如く今四度奮然として進む時、 785
パトロクロスよ、生命の最期、汝に現はれぬ。
故は汝に亂戰の中にポイボス・アポローン
向へり、されど混亂の中に汝は認め得ず、
厚き雲霧に掩はれて恐るべき神近寄りて、
背後に立ちて、彼の背と廣き左右の兩肩を、 790
手のひらあげてはたと打つ、打たれて彼は目くるめく、
ついでポイボス・アポローン彼の頭甲を打ち落す、
冠毛飾るその頭甲馬蹄に蹴られ轉がりて、
音響たてつ、冠毛は鮮血及び塵埃に
むごくまみれぬ。これ迄は冠毛飾る此兜、 795
鮮血及び塵埃にまみるゝことは許されず、
神にも似たる英雄兒――アキルリュウスの美はしき
額と頭守りにき。今やヂュウスはヘクト,ルの
頭に之をいたゞかす。彼の運命迫り來ぬ。
パトロクロスの長き槍、重くて堅くたくましく、 800
青銅の穗のすごき武器、その手の中にぽきと折れ、
足先屆く大盾は肩より皮革ともに落ち、
ヂュウスの愛子アポローン彼の胸甲ほどき去る。
かくして彼は茫然と心暗みて驚きて、
さすがの肢體ゆるみはて、佇む時にうしろより、 805
近づき双の肩のあひ、鋭き槍を飛ばし射る、
ダルダニエーの一勇士、パントオスの生める息、
ユウポルボスは槍術に騎馬に奔馳に同齡の
儕輩ひとしく凌ぐもの、はじめてこゝに戰鬪の
修業に兵車ゐて來り、二十の騎者を討ちしもの、 810
パトロクロスよ、眞先に彼は汝に槍とばし、
打てど汝を制し得ず、投げし鋭槍引き拔きて、
蒼惶として退きつ、今は其身を防ぐべき
武裝を缺ける敵將に、向き得で衆中潛み去る。
パートロクロス神明の打撃と槍にまかされて、 815
死命避くべく友僚の間に同じく退けり。
799 ヘクトールは、パトロクロスを斃し、其着せるアキリュウスの兜を奪ひて暫く之を頭上に戴けど、やがてアキリュウスに殺さるべし。
807 III 146.
808 XVII 6 に、又 XVII 45 以下に於てメネラオスに殺さる、ピタゴラスはアルゴスにおけるヘーレーの殿堂に掛けられしユウポルボスのむかしの盾を取り卸して勇將の魂は我に下れりと主張す。(オービトのメタモルフォーシス XV 161)
鋭刄うけて傷きて、パートロクロス剛勇の
將もやむなく退くを、見たる敵將ヘクトール、
陣列すぎて迫り來て、長い鋭槍投げ飛ばし、
彼の腹部の下の端、利刄に刺して貫けば、 820
どうと音して地に倒れ、アカイア勢を痛めしむ。
譬へば山の頂に乏しき泉湧くところ、
共に其水飮まんとし競ひ爭ひ鬪ひて、
その奮迅の力より獅子王遂に荒き野猪、
息絶え/″\の猛獸をまたく負かすも斯くあらむ。 825
プリアミデース・ヘクトール近く迫りて槍をもて、
メノイチオスの勇武の子、衆勢うちし猛將の
息の根とめて揚々と誇りて飛揚の言句曰ふ、
824 印度マーラッタ地方の諺に『二虎の間に一猪水を飮む』、此獸は時に極めて強暴。
『パトロクロスよ、わが都城、取るべく汝念じたり、
自由を奪ひ、トロイアの女性を汝、舟にのせ、 830
祖先の國に搬ぶべく正に思へり、愚かなり。
われヘクト,ルの神速の馬は女性を守るべく、
戰地に走り、又我は勇むトロイア陣中に、
槍にすぐれて彼らより悲慘の命を攘ふべし。
されど汝はこゝに死し鷙鳥の腹を肥すべし。 835
無慚なるかなあゝ汝、アキルリュウスは勇なるも、
汝救はず、居殘りて汝立つ時曰ひつらむ。
「パトロクロスよ、騎馬の將、鮮血そむるヘクト,ルの
胸衣を彼の肢體より、剥ぎとる前に汝この
わが水營に歸ること斷じて勿れ」正しくも 840
彼曰ひつらん。愚かにも汝其言納れつらん』
パトロクロスよ、其時に汝の言句かくばかり、
『誇れ、ヘクト,ル今の間に! 容易く我を挫きたる
かれ、クロニオーン、アポローン汝に勝を與へたり、
われの肩より軍裝を奪ひ去りしは彼なりき。 845
汝の類、二十人、我に向ひて戰ふも、
わが長槍に打ち負けてこゝに斃れん悉く。
されども辛き運命とレートーの子と人中の
ユウポルボスはわれを討つ、汝は最後に討ちしのみ。
我又汝に敢て曰ふ、汝心に銘じおけ、 850
汝の餘命長からず、すでに汝の側近く、
死と兇暴の運命と立てり、汝は無双なる
アイアキデース・アキリュース、彼に打たれて斃るべし。』
844 クロニオーンはこゝに運命を代表す、IX 244 參照。
850 臨終の人は特殊の豫言力を持つと一般に信ぜられたり。
しかく陳ずる勇將を死の暗影は掩ひ去る、
肢體はなれて彼の魂非命を嘆じ傷みつゝ、 855
青春及び剛勇を捨て冥王のもとに飛ぶ。
息を引取る敵將にかくと叫びぬヘクトール、
『パトロクロスよ、何故に我に非命を豫言する?
誰か知るべき、アキリュウス、鬢毛美なるテチスの子、
わが鋭槍に貫かれ、まさきに死することなしと。』 860
しかく陳じて敵將の屍を踏みて、其疵の
口より拔ける青銅の槍もて屍覆へし、
すぐに其槍携へてオートメドーンを逐ひて行く、
アキルリュウスの猛勇の家臣をうたん念強く。
されども不死の迅き駿馬――諸神の惠みペーリュウス 865
うけたる駿馬、脚速く彼を救ひて驅け行けり。
第十七歌
パトロクロスの死體を爭ふ兩軍の奮戰。 メネラオス特に奮ひ、ユウプォルボスを斃す。 ヘクトールはオートメドーンの追撃をやめ、パトロクロスの武裝を剥ぐ。 クロニオーン之を眺めて其最期の近づくを嘆ず。 新たの武裝を具せるヘクトール又進んでパトロクロスの屍體を奪はんとす。 アカイア諸將之を防ぎ、兩軍互に死傷あり。 パトロクロスの死を悲んで二頭の駿馬流涕す。 オートメドーン之を戰場に驅る。 ヘクトールとアイネーアース之を捕へんとするも能くせず。 アイアースの奮戰。 メネラオス陣中を※りてアーンチコロスを求め、彼に面して悲報をアキリュウスに傳へしむ。 メーリオネースとメネラオス戰場よりパトロクロスの屍體を運び去らんとす。 アイアース二人迫り來るトロイア軍を防ぐ。
アレース愛づるメネラオス、亂軍中にトロイアの
手により遂に斃れたるパトロクロスを認め得つ、
身に燦爛の青銅を鎧ひ先鋒の陣を過ぎ、
彼の屍體に近きぬ。母性の愛を知らざりし
牝牛初めて子を産みて、やさしき聲に鳴き乍ら 5
庇ふが如く、金髮の將メネラオス鋭刄の
槍を、全面皆丸き盾を、屍體の前かざし、
來りて犯す敵軍を討つべく猛く念じ立つ。
4 此比喩に似るもの XVI 6―10.
パントオスの子、槍術に巧みなるもの又こなた、
パトロクロスの斃れしを認め近くに迫り來て、 10
アレースめづるメネラオス立てるに向ひ叫び曰ふ、
『アートレ,デース・メネラオス、神の育てし民の王、
歸れ、屍體を離れ去れ、血染の武具を棄てゝ行け、
トロイア又は譽ある援軍中の何人も、
われより先に戰場にパトロクロスを撃たざりき、 15
トロイア勢の中にして優る譽はわれのもの、
妨げなさば汝撃ち甘美の命奪ふべし。』
9 ユウポルボス。
その大言にメネラオス大に怒り叫び曰ふ、
『あゝわが天父クロニオーン、過度の高言聞き苦し、
豹の暴びも及ぶまじ、獅子のあらびも叶ふまじ、 20
其胸の中猛然と力に誇りものすごく、
怒り狂へる野猪も亦、パントオスの子、白楊の
槍を使へる傲慢の彼の暴びに劣るべし!
ヒュペレーノール、騎馬の將、誇りて我を侮りて、
アカイア中の卑怯者とわれを欺き戰へる、 25
其時彼の青春の血氣は遂に空しくて
亡べり、思ふ、彼の脚、彼を運びて恩愛の
妻と父母との喜びに故郷に歸り去らしめず。
汝今もし手向はゞ、此と同じく汝の威
われ碎くべし、然れども汝に教う、退きて 30
陣中に行け、わが前に殘り留ること勿れ、
然らずば禍難來るべし、來りし後は愚者も知る。』
22 野猪の強暴 XVI 825 參照。ユウポルボス、ヒュペレーノール、プウリダマス、三將みなパントオスの子。
32 IX 250.
しか陳ずれど聽き入れず、敵は答へて彼に曰ふ、
『神の育てしメネラオス、わが同胞を屠りたる
汝は彼の落命を償ふべきぞ、高言の 35
汝は彼の妻をして、新婚の屋に薄命の
寡婦たらしめつ、双親に悲憤の涙流さしむ!
されど汝を討ち倒し、頭と武具を携へて、
パントオスと端嚴のプロンチスとの手の中に、
捧げん時ぞ哀愁の彼らの恨晴らされむ。 40
汝と我の爭は勝利敗北いづれとも、
間なく決せむ、いたづらにためらふことはあらざらむ。』
36 新婚の夫婦は親の邸内に新の屋を築きて住む古の習ひ、印度に於て今日なほ然りといふ。
39 パントオスの妻。
しかく陳じて圓き盾、目がけて槍を突き出だす、
槍は青銅貫かず、穗先は曲る堅牢の
大盾の中。――之につぎアートレ,デース・メネラオス、 45
槍ひつさげて躍り出でクロニオーンに祈り上げ、
その剛強の手に任せ、勢猛く押し進み、
鋭利の穗先、柔軟の頸をますぐに貫けば、
地響き打ちて斃れ伏し、鎧は上に高く鳴り、
金糸銀糸に捲き上げし美麗の髮は――髣髴と 50
天女のそれに似たる髮――無慚亂れて血にひたる。
泉ゆたかにあふれ湧く靜けき郷に人ありて、
勢強き橄欖の若木――緑の榮え行くを、
植ゑ育つれば四方より光風和風吹き來り、
かくる吹嘘に枝ゆれてましろき花は咲き匂ふ、 55
されど烈風忽然と勢強く襲ひ來て、
そを根こそぎに吹き倒し大地の上に倒れしむ、
アートレ,デース・メネラオス恰もかゝる有樣に、
ユウポルボスを打倒しその戰裝を剥ぎかかる。
53 IV 483 下の比喩に似る。
譬へば山の若き獅子、その強暴の威を頼み、 60
草はむ牧の群の中、すぐれし牝牛引きとらへ、
まづ其頸を恐るべき牙に碎きつ、引きつぎて
其身つんざき、鮮血と臟腑あく迄喰ふ時、
彼をめぐりて番犬と牧場守る人の群、
遠く離れて大聲に叫び乍らも、猛獸を 65
恐るゝ故に、まのあたり近くことを敢てせず、
正しく斯くも光榮のメネラーオスにまのあたり、
迫る勇氣を胸の中宿し得るもの絶えて無し。
斯くして正にメネラオス、パントーオスの子の鎧、
美麗の武裝やす/\と奪ひ去るべき其時に、 70
之を惜みてアポローン、脚神速のアレースに
似るヘクトールたゝしめつ、キコネス族のかしらたる
メンテースの姿似せ、彼に向ひて叫び曰ふ、
72 II 846.
『あゝヘクトール、汝、今アキルリュウスの馬を逐ふ、
されど汝は得べからず、不死の神母の生むところ、 75
アイアキデース外にして、人間の子の何ものも、
かの駿足を制し得ず、その背上に乘るを得ず。
思を轉じ、かなた見よ、アレースに似るメネラオス、
パトロクロスの傍に、トロイア陣中最勇の
ユウポルボスを打ちとりて彼の猛威を亡しぬ。』 80
75 X 401.
宣んし終りてアポローンまた戰場の中に去る。
その言聞けるヘクトール悲哀の暗に胸曇り、
戰陣よもに見渡して直ちに認む、一人は
華麗の武具を剥ぎとるを、他の一人は地の上に
無慚に伏して鮮血は疵口よりし流るゝを。 85
かくと見るより耀ける青銅穿ち、先鋒の
中に驅入り、消ゆるなきヘープァイストスの火の如く、
奮ひて揚ぐる叫喚はアートレ,デースの耳に入る、
叫びを聞きて呻きつゝ勇將胸の中にいふ、
『我れ進退を如何にせむ? こゝに美麗の武具を捨て、 90
わが雪辱のため死せるパトロクロスを棄て去らば、
之を眺むるアカイアの軍勢われに怒るべし、
恥を怖れて單獨に、ヘクト,ル及びトロイアの
衆を敵とし戰はゞ、多數の包圍身にうけむ。
堅甲震ふヘクトールこゝに衆勢引き來る。 95
さはれ何故わが心これらの事を我に曰ふ?
神意を蔑みし、神明の寵する者を敵として、
戰ふ時は忽ちに、はげしき禍難迫るべし。
今ヘクトール神明の意によりわれと戰はゞ、
われ逃るるも之を見てアカイア勢は咎むまじ。 100
音聲高きアイアース、彼をわれ若し見出さば、
彼もろともに振り返り又奮鬪をこゝろざし、
神の心に抗してもアキルリュウスの眼前に、
パトロクロスを搬び來て禍難輕むることを得ん。』
かく其胸に心肝に勇士思ひをこらすまに、 105
トロイア軍勢迫り來て先をかくるはヘクトール、
かくと眺めてメネラオス屍體を棄てて引き返し、
返し乍らも幾度も後ふりかへる、譬ふれば
番犬及び番人の槍と叫びに、農園を
逐はれて返す獅子王の、さすがの猛き胸震ひ、 110
心ならずも悄然と牧場あとに退く如し。
かく金髮のメネラオス、パトロクロスを棄てゝ去る。
されど陣中歸り着き、足を駐めて八方に
その目を配り、剛勇のテラモニデース・アイアース
いづく? と探し、忽ちに陣の左方に彼を見る、 115
銀弓の神アポローン、恐怖の念を滿たしたる
部下を勵まし、戰場に赴かしむる彼を見る。
即ち急ぎ驅け來り、傍に立ちて彼に曰ふ、
116 ヘクトールの戰ふ處 XI 498. XII 118.
『あゝわが愛づるアイアース! パトロクロスのなきがらの
爲に急がん、剥がれしもアキルリュウスの眼前に 120
恐らく搬び行くを得む、武具はヘクト,ル剥ぎ去りぬ。』
しかく陳じてアイア,スの勇猛心を奮はしむ。
かくして彼は金髮の將メネラオスもろともに
先を驅け行く――かなたにはパトロクロスの武具剥ぎて、
屍體引き行くヘクトール、肩より首を切り放ち、 125
之を餌としてトロイアの野犬の群に與へんず。
斯くと眺むるアイアース、巨大の盾を打ちかざし、
近づき寄れば、ヘクトール退きかへし、陣中に
入りて兵車に身をのせつ、奪ひし美なり戰裝を
部下に命じて城中に搬び譽を揚げんとす。 130
メノイチオスの子のめぐり、巨大の盾をアイアース
かざして立てり、譬ふれば深林中に子らを具し、
獵夫に逢へる獅子王か? 獅子は其子を蔽ひ守り、
其おほいなる威に誇り、すごき眉毛を垂れさげて、
其眼を蓋ふ――かくの如テラモニデース・アイアース、 135
惜くも逝ける勇猛のパトロクロスの屍守る。
アレースめづるメネラオス・アートレ,デース胸の中、
深き憂愁みたしめて其傍に立ち留る。
132 パトロクロス。
ヒポロコスの子、グロウコス、リキエー軍を率ゐたる
勇士、その時ヘクト,ルを睨み、はげしく叱りいふ、 140
『あゝヘクトール、見る處、姿は凛々し、勇は缺く!
戰場逃げて光榮を全うせんと欲するや?
トロイア領に生れたる士民ばかりともろともに、
汝、都城と壘壁を防ぐべき術考へよ!
リキエー軍の何人も是より後は城のため、 145
アカイア軍と戰はじ、絶えずも敵と奮鬪を
つとむる者に、見るところ、何らの感謝拂はれず!
客と友とを身に兼ねしサルペードーンを、アカイアの
餌とし戰利とならしめし、無慚の汝いかにして
彼より劣る軍將を混戰中に救ふべき! 150
生ける間はトロイアと汝とのため盡したる
彼の屍より犬の群攘ふを汝敢てせず!
故にリキエー軍勢の一人われに從はゞ、
去りて故郷に歸るべし、破滅逃れずイーリオン!
祖國のために敵を討ち艱苦を忍ぶ勇士らを、 155
鼓舞する鋭氣、剛強の不屈の鋭氣、トロイアの
軍勢中に今あらば、此頽勢を盛り返し、
パトロクロスのなきがらをイリオン城に搬ぶべし。
かく敵將のなきがらを戰場よりし奪ひ來て、
王プリアモス戴ける都城の中に納め得ば 160
敵は直ちに之に代へ、サルペードーンの華麗なる
武具返すべく、彼の身もイリオン城に戻し得む。
水師めぐりてアカイアの再勇猛のアキリュウス、
其友うたれ亡びたり、多くの勇士斃れたり。
然るに汝勇猛の將アイアースまのあたり、 165
亂軍中に向ひ視て手向ふことを敢てせず、
彼の武勇の勝るため彼と戰ふことをせず!』
140 VI 144 以下にグロウコス系の統。
146 146―153 リキエーの將軍は特に勇に誇る。サルペードーンがヘクトールに述べし言(V 472)參照。
150 サルペードーンの屍體は救はれしを(XVI 667 以下)グロウコスは知らず。
しか陳ずるを睨まへて堅甲震ふぐヘクトール、
『あゝグローコス、さかしきに汝なにらの暴言ぞ?
地味豐沃のリキエーに住へるものゝ一切に、 170
優りて汝聰明の質ありとしも思へるを、
かゝる亂言耳にして汝を咎めざるを得ず、
われ剛勇のアイア,スを支へがたしと汝曰ふ。
われ陣前の戰を戰馬の音をものとせず、
アイギス持てるヂュウスの意、さはれ至上の力あり、 175
勇氣に滿てる戰將を走らし、勝を忽ちに
奪ひ、或は時として又戰に驅り進む。
さはれ今わが傍に立ち奮戰を眺め見よ、
果して汝曰ふ如く、我は終日怯なりや?
パトロクロスの死のために、猛威を鼓して寄せ來る 180
アカイア軍のある者を、迎へて之を破らんや?』
175 175―178は XVI688―690 に同じ。
しかく陳じて大音を揚げてトロイア勢に呼ぶ――
『接戰つよきトローエス又リキオイとダルダノイ!
男兒たれかし、勇猛の意氣を飽く迄ふり起せ、
わが手に討ちし剛勇の、パトロクロスを剥ぎとりて、 185
アキルリュウスの華麗なる鎧わが身に着くる迄。』
しかく陳じて戰場を堅甲震ふヘクトール、
去りて走りて速かに、距離遠からぬ其部衆――
アキルリュウスの華麗なる武具を、都城に搬び行く
其の跡追ひて、神速の歩みを以て近きつ、 190
憂苦を釀す戰場を離れて武裝改めつ、
これ迄着けし甲冑をトロイア勢の手に托し、
イリオン城に搬ばしめ、パトロクロスにアキリュウス
貸せし美妙の武具を着る――天の神明その父に
惠みたるもの――老齡に到りて父は此武具を 195
子に讓りたり、然れども子は之を着て老いざりき。
197 若くして逝けり。
雷雲よするクロニオーン、かなたよりして神聖の
アキルリュウスの武具を身に穿てる彼を眺め見つ、
即ち頭搖がして自ら胸に宣んし曰ふ。
『無慚なるかな、あゝ汝、今眼前に迫りくる 200
最後を汝つゆ知らず! 衆の恐るゝ英剛の
勇士の武裝――靈妙の武具をおのれの身に穿つ。
アキルリュウスの勇猛の、しかもやさしき、友を討ち、
彼の肩より頭より無慚に武具を剥ぎ取りて。
さあれ我今おほいなる力汝に加ふべし、 205
戰場歸る汝よりアキルリュウスの美なる武具、
アンドロマケー受くること絶えてあらざる償に。』
207 ヘクトール戰場に斃れて其妻彼を城中に迎ふることを得ず。
しかく宣んしてクロニオーン黒き眉垂れうなづきて、
武具ヘクト,ルに適はしむ、更にアレース勇猛の
神靈彼に加はれば、威力と猛氣其四肢に 210
飽く迄滿てるヘクトール、雄叫び高く奮然と、
譽れの高き援軍の中に進みてアキリュウス・
ペーレーデースの燦爛の武具を穿てる姿見せ、
陣中遍く經※りて説きて衆將勵ましむ。
メストレースとグロウコス、テルシロコスと將メドーン、 215
デーセーノール、ヒポトオス、アステロパユウス勵ましむ。
更にポルキュス、クロミオス、更に占者のエンノモス、
これらすべてを勵まして飛揚の羽ある言句曰ふ、
216 みな同盟軍の將、この中初めてこゝに名ざさるる者デーセーノール。
『あゝ邦隣る同盟の衆人、われの言を聞け。
たゞ軍勢の數のため、其要のため汝らを、 220
其各々の都城よりこゝに呼びしにあらざりき、
たゞ汝らが快く戰好むアカイアの
手より、トロイア女性らと子らを救はんためにこそ。
これらの事を胸にして、われわが民のもてる物、
糧食ともに汝らの力を増さんために徴す。 225
されば汝ら敵軍に向ひ、あるひは身を捨てよ、
或は生きよ、これはこれ皆戰の習のみ。
パトロクロスの屍を、悍馬を御するトロイアの
軍勢中に曳かん者、又剛勇のアイアスを
破らん者は、われと共戰利の半分分け取らむ、 230
而して彼の光榮は當にわれのに比ふべし。』
しか陳ずれば衆人は敵軍めがけ槍擧げて、
激しく迫り、アイアース・テラモニデースの脚下より、
パトロクロスの屍を曳きとらんとす、愚かなり、
迫り來れる敵あまたこゝに打ち取るアイアース、 235
音聲高きメネラオス王に向ひて叫び曰ふ、
『あゝわが愛づるメネラオス、神の寵兒よ、戰の
場よりあとに返すべき希望はすでに我に無し。
今トロイアの狗の群、野鳥の群に餌たるべき、
パトロクロスのなきがらを憂ふるよりもわが頭、 240
汝の頭、禍にかゝるをむしろ我憂ふ。
見よ戰の黒き雲、將ヘクトール迫り來る、
而して我に恐るべき破滅の運は近よりぬ。
さはれすぐれし同僚に叫べ、あるもの聞きとらむ。』
しか陳ずれば大音の將メネラオスうべなひつ、 245
轟く聲を張りあげてアカイア軍に叫び曰ふ、
『友よ、アカイア陣中の將よ、司令よ、苟くも、
アガメムノーン、メネラオス之に陪して民の酒
酌む者、――譽れ光榮はクロニオーンより出づる者、
汝らおのおの軍勢を率ゐるものよ、われに聞け、 250
われ汝らのおのおのを身分くることを得べからず、
今戰の炎々の焔はげしく荒れ狂ふ、
さらば自ら進み行き、パトロクロスがトロイアの
野犬の餌となることを、汝らおの/\恥とせよ。』
248 IV259.
しか陳ずれば脚迅きオイリュウスの子アイアース、 255
聞きて眞先に戰場に彼に逢ふべく走り出づ、
イドメニュースは之に次ぐ、メーリオネースその副手、
恐るべき神アレースに似たる勇將またつゞく。
(其他かれらのあとに附き、奮ひ戰ふアカイアの
その衆勢を誰か能くおのが力に名ざし得ん?) 260
かなたトロイア軍勢はヘクト,ル先きに寄せ來る。
神より出づる大川の河口に於て、奔流に
逆ひ、海のおほいなる波浪怒りて叫ぶ時、
之に臨める高き岸みな一齊に鳴りひゞく。
正しく斯る叫喚にトロイア勢は寄せ來る。 265
かなたアカイア軍勢は青銅の盾身にかざし、
パトロクロスの屍守る。その兩軍の輝ける
頭甲のめぐり濃雲を厚く掩へるクロニオーン。
先に此世にありし時、アイアキデースに仕へたる
パトロクロスを轟雷の神は憎しみ忌まざりき、 270
今其屍體トロイアの狗の餌食となることを、
きらへる故に同僚を勵まし之を防がしむ。
眸かゞやくアカイアの衆まづ敗れ、死屍棄てて
恐れてあとに引返す、されどトロイア軍勢は
勇めど敵の一人も其槍揮ひ倒し得ず、 275
たゞかの屍體ひき去りぬ、アカイア軍は退くも
たゞしばしのみ、速かに彼らを立たすアイアース、
其風貌も其勇もペーレーデース、アキリュウス
除けばアカイア全軍のすべての上に臨む者、
彼れ今立ちて先鋒の中に進めり、その猛威、 280
譬へば山に獵犬と獵人の群やす/\と、
叢林中を經※りて追ひ散し行く野猪の如、
テラモニデース、剛勇の譽の高きアイアース、
トロイア軍の隊列を縱横無碍に追ひまくる、
パトロクロスの屍を圍み戰ひ奪ひとり、 285
イリオン城に功名を揚げんずるもの追ひまくる。
279 II 268.
ヒッポトオスは其一人、ペラスゴス人レートスの
生みたる勇士、亂戰の中に努めて、皮紐に
屍體の足の頸しばり、曳きずり去りてトロイアの
諸軍並にヘクト,ルの感賞得んと望みたる―― 290
彼に忽ち難起り、友は望めど救ひ得ず。
テラモニデース戰陣の間を馳せて飛びかゝり、
近くによりて青銅の彼の兜を槍に突く、
冠毛ゆらぐ其頭甲利刄はげしく剛勇の
腕の力にくりだせし槍にむごくもつんざかれ、 295
鮮血染むる腦髓は槍の身傳へ、疵口の
外に溢れつ、忽ちに勇士の力衰へて、
パトロクロスの脚を地に其手中より取り落し、
屍のそばにうつぶしに、地味豐かなるラーリッサ、
故郷はるかに打ち斃る。かくして彼は勇猛の 300
テラモニデースの手に討たれ、亡びし命短くて、
其養育の厚き恩、親に報ゆることを得ず。
こなたヘクト,ル燦爛の槍を飛ばしてアイアース
覘へど、之を認め得てその青銅の鋭刄を
勇將避けつ、其槍はイヒートスの子スケヂオス―― 305
プォーケース族――其中の武勇最も優るもの――
パノピュウスの名勝地占めて衆民統ぶる者――
彼の鎖骨のたゞ中の下を貫き、青銅の
穗先はげしく進み入り、肩のうしろに貫けば、
地ひゞきうちて斃れたる彼の武裝は高鳴りぬ。 310
またかなたにはアイアース、プァイープスの子剛勇の
將プォルキュスの腹部うつ、ヒッポトオスを庇ひたる
彼の胸甲貫きて、鋭刄臟腑つんざけば、
※と倒れて塵中に伏して双手に土握む。
かくと見るよりヘクトール、先鋒ともにあとに引く。 315
アカイア軍は聲あげてヒッポトオス、プォルキュスの
屍體を奪ひ曳きずりて肩より武裝剥ぎとりぬ。
299 II 841.
305 II 517.
アレースめづるアカイアの勇士に斯くも攘はれて、
怖氣のつきしトローエス、イリオン城にひかんとし、
アカイア軍は勇を鼓し、ヂュウスの旨に忤ひて、 320
勝利の譽かち得んず。されどポォイボス・アポローン、
アイナイアース勵ましてペリイプァスの姿とる、
孝の一念その胸を領して老に到る迄、
父に仕へし傳令者、エーピュチデースの姿とる、
かくてプォイボス・アポローン彼に向ひて宣んし曰ふ、 325
322 アイトーロスの將軍に同名人あり。(V 842)
『ああアイネーア、いかにして、よしや神意に背くとも、
わがイリオンの堅城を防ぎ得べきか? われ先きに
眺めし如く、あるものは勇と威により、其力
劣れる衆を率ゐるも之を頼みて戰へり。
しかもヂュウスはアカイアの勝よりむしろわが軍の 330
勝を喜ぶ、然れども戰避けて汝逃ぐ。』
アイナイアースその言を聞き、銀弓のアポローン、
親しく認め、ヘクト,ルに大音あげて叫び曰ふ、
327 呼格。
『あゝヘクトール、又汝、トロイア及び援軍の
將よ、恥辱ぞ、アレースのめづるアカイア軍勢に 335
追はれ怯れて蒼惶とイリオンさして逃るるは!
今神靈のとある者、われに現はれ宣んし曰ふ、
神慮無上のクロニオーンわれの戰助けんと。
さればアカイア軍勢に向へ、彼らに水陣に、
パトロクロスのなきがらを容易く曳くを許さゞれ!』 340
しかく陳じて先鋒の遙かの前に出でて立つ。
部衆再び盛り返し、アカイア軍に打ち向ふ。
アイナイアース槍のべてレーオークリトス疵つけぬ、
彼、アリスバス産むところ、リコメーデースの強き友。
倒るゝ時に剛勇のリコメーデース憐みて、 345
近きに寄せて燦爛の槍を飛ばしてアピサオス――
ヒッパソスの子――衆民を率ゐる者の隔膜の
下、肝臟を突きあてゝ膝ゆるましむ、討たれしは、
パイオニエーの地味肥えし郷より來り、戰場に
アステロパュウス外にして勇武尤も優る者。 350
其斃るゝを憐めるアステロパュウス勃然と、
勇を奮ひて走り寄り、アカイア軍勢破らんと
思へど空し、地に伏せるパトロクロスの屍のうへ、
衆人ひとしく盾かざし其長槍を繰り出す。
故は衆勢經※りてアイアス固く令下し、 355
屍體を棄てゝ後方に誰しも返すこと勿れ、
他の同勢に先んじて進み戰ふこと勿れ、
パトロクロスのそば去らず、之をめぐりて戰へと、
かく勇猛のアイアース令を下せり。大地今
鮮血流れ、かなたにはトロイア及び應援の 360
勢、こなたにはアカイアの衆徒ひとしく陸續と
倒れ、紅血流さずに戰ふことはあらざりき。
さはれ地上に倒るゝはむしろ少なし、亂戰の
中に互に凄慘の死を逃るべく念じあふ。
かくて衆軍炎々の焔の如く戰へり。 365
彼らの目には天上の日月共に光なし、
パトロクロスの死屍めぐる、敵と身方のすぐれたる
將は、蹴立つる塵埃の暗に全く蔽はれつ。
他のトロイアと脛甲の善きアカイアの雜軍は、
晴天のもと悠然と相爭ひつ、日輪の 370
つよき光に照らされて、地上並に山上に
かゝる雲霧の影を見ず、且つ戰ひて且つ休み、
唸りを生じ飛び來る亂刄避けて彼と此、
間を隔つ。然れども眞中にありて剛勇の
すぐるる者は戰と暗とに惱み、青銅の 375
利刄の爲に弱はり果つ。さはれかなたに大剛の
パトロクロスの斃れしをトラシュメデースまだ知らず、
アーンチロコスまだ知らず、即ち思ふ、猶生きて
身を先鋒の中に伍しトロイア軍と戰ふと。
二將かくして同僚の死と退却を警めて、 380
かなたに別に戰へり、黒き船より戰場に、
彼ら促し立たしめし老ネスト,ルの命の儘。
343 前後に無し。
346 XI 578 は別人。
349 II 848.
350 上文217.
斯くて終日ものすごき戰鬪あらび休みなく、
アキルリュウスの遣はせる其副將のしかばねを、
めぐり戰ふトロイアの軍勢、及びアカイアの 385
衆の膝節、脚の先、腕も肱も一齊に
皆悉く疲れはて淋漓の汗に惱まさる。
脂肪のしめる大いなる牡牛の皮を延ばすべく、
一家のあるじ一群の僕に渡すをうけとりて、
圓陣つくり立ち乍ら力こめつゝ引き延ばす、 390
かくして濕氣速かに外にはみ出し、これと共、
脂肪は肉にしみ入りてかくして皮は延ばされん。
狹き地上に立ち乍ら斯の如くに兩軍は、
互に屍體引き合ひつ、トロイア軍はイリオンに、
アカイア勢は水陣に、搬び去るべく胸中に、 395
切に念じて猛烈の爭斯くは湧き起る、
軍はげますアレースと軍眺むるアテーネー、
心激しく怒れども敵を互に咎め得ず。
パトロクロスのなきがらを※りて此日クロニオーン、
人馬のかゝる苦しみを起せり、しかも英剛の 400
アキルリュウスは未だ猶、パトロクロスの死を知らず。
輕き船より遠ざかり、トロイア城の壘壁の
下に彼らの戰へば、彼死せりとは思ひ得ず、
なほ生命を全うし、敵の城門近づきて、
やがて歸らんことを待ち、パトロクロスが身ひとりに、 405
或は共に敵城を取ること敢て思念せず、
雷雲よするクロニオーン、神の心のあるところ、
ひそかに先にテチスより屡※彼は聞き知りぬ。
されど神母は最大の不幸を嘗つて打明けず、
他の一切に優りたる至上の愛の友の死を。 410
406 アキルリュウスがトロイア城の前に斃るることを神母テチスは先にいふ(IX 410 以下)。
かなた兩軍鋭刄の槍を揮ひて休みなく、
屍體をめぐりて戰ひて荒く互に屠り合ふ。
青銅鎧ふアカイアの軍の一人叫び曰ふ、
『あゝわが友よ、中廣き船に退き返ること、
恥なり! むしろ黒き土こゝにわが爲口開け! 415
その運命に陷るはむしろわれらに優ならむ、
都城をさして此屍體、曳きずり行きて光榮を
得るを、トロイア軍勢に得させんよりは優ならむ。』
しかしてかなた剛勇のトロイア勢の一人曰ふ、
『あゝわが友よ、こゝにこの屍體めぐりてわが同士、 420
亡び果つべき命とせば、退く勿れ誰ひとり!』
とある一人かく陳じ、衆の勇氣を勵ましむ。
兩軍かくぞ戰へる。荒れたる空を貫きて
打ち合ふ凄き音響は青銅色の天に入る。
その戰場を離れたる二頭の馬は涙垂る、 425
アキルリュウスの御せしもの、敵ヘクト,ルの手にかゝり、
パトロクロスが塵中に斃れ死せるを知れるため。
ヂオーレースのすぐれし子、オートメドーンは疾き鞭を
屡※之に加ふれど、或は蜜の甘き言、
或は嚇す荒き言、かはる/″\に陳ずれど、 430
ヘレースポンテス岸の上、水師をさして退くを、
又アカイアの戰場に進むを兩馬悦ばず、
世に無き人のあと殘す其墳塋の上にたつ
圓き柱を見る如く、動かずそこに立ち留る。
425 一切を生かす詩人の空想は此の双馬をして單に泣かしむるのみならず、XIX 406 に於て人語を發せしむ。
かく悄然と華麗なる兵車を附けて立ち留り、 435
頭大地に近づけてパトロクロスの死を傷む。
悲嘆の兩馬※然と、熱き涙をまぶたより
地上に流し、身につくる軛の左右垂れさがる
其美はしき鬣は、塵に無慘にまみれ行く。
悲しむ兩馬見おろして憐催すクロニオーン、 440
頭搖がし我とわが胸中ひとり宣んし曰ふ、
『あゝ不便なり、などてわれ不老不死なる汝らを、
人界の王ペーリュース死すべきものに與へけむ?
そは不幸なる人類と共に悲しみ泣くためか?
大地の上に氣を吸ひて動く生類一切の 445
中、人間にいやまして不幸なる者われ知らず。
プリアミデース、ヘクト,ルは、さはれ汝と華麗なる
兵車に乘るを得べからず、此事われは許し得ず。
アキルリュウスの武具を得る誇りは彼に足らざるか?
汝の脚に心中に威力をわれは加ふべし、 450
オートメドーンを救ひ出し、戰場あとに汝らは
水陣中に返すべし、しかも我なほトロイアの
軍に譽を加ふべし、漕座よろしき兵船に
着きて、夕陽沈みさり、聖き暗影來る迄。』
446 人間の不幸は同樣にオヂュッセーア XVII 130 以下に説かる、人世の變遷は本詩 VI 146 に。
しかく宣んして勇猛の力を馬に吹きこめば、 455
まみれし塵を地の上に鬣振ひ拂ひ去り、
トロイア、アカイア兩軍の中に兵車を驅り進む、
馬の背後に乘車するオートメドーンは、その友を
悲しみ乍ら戰ひて鵞鳥に向ふ鷲の如、
トロイア軍にかけ向ひ、時に或はあとしざり、 460
或は敵の衆列を力容易く逐ひ拂ふ。
さもあれ敵を散らせども討ち取ることは難かりき、
聖き車臺にたゞひとり立ちてひとしく槍揮ひ、
ひとしく速き馬を驅る――此事彼は遂げがたし。
されど間もなく彼の友アルキメドーン之を見る、 465
ハイモニデース・ラエルケ,ス勇士の息は近づきて、
オートメドーンにうしろより聲を放ちて叫び曰ふ。
465 XVI 197.
『オートメドーンよ、神靈のいづれぞ汝の智を奪ひ、
汝の胸にいたづらに無用の策を納れたるは?
先鋒中にたゞひとり、トロイア軍と戰へる 470
汝知らずや? 友斃れ、アキルリュウスの軍裝を
奪へる敵のヘクトール、肩のへ帶びて誇らふを。』
ヂオーレスの子、勇猛のオートメドーンは答へ曰ふ、
『アルキメドーンよ、アカイアの中の何もの、此不死の
馬の進退制し得て汝に比ふものあらん、 475
その思慮、神に劣らざるパトロクロスは今は無し。
死と運命ともろともに彼を囚へて今は無し。
汝今とれ疾き鞭と輝く手綱手の中に、
われは車臺をおり立ちて敵に向ひて戰はん。』
しか陳ずれば、戰場を走る兵車に飛びのりて、 480
アルキメドーンは速かに鞭と手綱を手にとりつ、
オートメドーンは車より降る――そを見るヘクトール、
アイナイアース傍に立てるに向ひ説きて曰ふ、
『アイナイアース、青銅を鎧ふトロイア軍勢の
謀主よ、見ずや? 脚速きアキルリュウスの双の馬、 485
拙き御者に驅られ來て今戰場に現はるを、
汝同じく念とせば、かの俊足を願はくは、
われは奪はん。もろともに力を合せ進む時、
われに對してまのあたり彼ら戰ひ得ざるべし。』
しか陳ずれば命をきくアンキーセースの勇武の子、 490
共に肩のへ堅牢の乾ける牛皮、青銅を
厚くのべたるものをつけ、二將驀地につきかくる。
あとに從ふクロミオン、又秀麗のアレートス、
二人もろとも驅けいでて敵の二將を打ち斃し、
昂然として頸擧ぐる双の駿馬を奪はんず、 495
愚かなるかな流血の災なくて引き返し、
オートメドーンを逃ること二人の命に非りき。
天父ヂュウスに祈祷上げ胸に勇氣を滿たしめて、
オートメドーンは心友のアルキメドーンに向ひいふ、
『アルキメドーンよ、双の馬われより離すこと勿れ、 500
彼らの呼吸われの背の上にあれかし、われ思ふ、
プリアミデース・ヘクトール、鬣美なる此双馬――
アキルリュウスの有に乘り、われら二人を打斃し、
わが軍勢を走らすか、或は自ら先鋒の
中に戰ひ討死か、勇氣其迄やまざらん。』 505
つゞきて二人のアイア,スとメネラオスとに叫び曰ふ、
『アカイア軍の主將たる汝二人のアイアース、
またメネラオス、その屍をめぐり戰ひ、敵軍の
隊伍散らすは諸の他の勇將に任かし去れ、
生けるわれらを亡滅の運より汝、乞ふ、救へ。 510
トロイア軍の最勇のアイナイアースとヘクトール、
亂陣すぎてこなたより勢猛く襲ひ來る、
さはれ、これらの成敗は只神靈の膝にあり、
われ又槍を飛ばすべし、すべてはヂュウスの命の儘。』
513 文句は曖昧なれども意味は明かに「神明の處置」、――神の坐像の前に物を捧ぐるより來るか。
しかく陳じて影長く曳く槍ふりて投げ飛ばし、 515
アレートスの手かざしたる圓き大楯はたと打つ。
盾は長槍とゞめ得ず青銅つきて肉に入り、
護身の帶をつんざきて下の腹部にさし通る。
譬へば強く若き者、鋭き斧をふりかざし、
野に立つ牛の角のもと、打ちて無慚に筋肉を 520
つんざき去れば、よろめきて大地にどうと倒れ伏す、
その有りさまにアレートスよろめき仰に倒れ伏す。
鋭き槍は内臟に立ちて震ひて四肢ゆるむ。
オートメドーンにヘクトールかゞやく槍を投げとばす、
されど眞ともに之を見て彼は青銅の槍さけつ、 525
前に其身をかゞめたる、其上飛びて長き槍、
うしろの土につきさゝる。さゝれてしばしその根本、
震ひ動きてやがて後激しき力をさまりぬ。
ついで双方相迫り、劍ぬかんずる折もあれ、
友に呼ばれて亂軍のあひを、急ぎて驅け來る 530
二人の猛きアイアース、あらぶ双方引き分くる。
之を恐れて後方に再び返すトロイアの
アイナイアース、ヘクトール、又神に似るクロミオス、
あとに地上にアレートス討たれしまゝに棄てゝ去る。
アレースに似て脚速きオートメドーンは其武具を 535
死體よりして奪ひとり、欣然として叫び曰ふ、
『パトロクロスの死を傷む恨いさゝか晴らしたり、
今討ちとりし敵將はさまでの勇士ならずとも。』
しかく陳じて鮮血に染みし武裝をとりあげて、
兵車の中に納め入れ、牛を屠れる獅子のごと、 540
兩手兩足血にまみれ車臺の上に躍り立つ。
パトロクロスの屍めぐり、激しく強く痛むべき
戰またも湧き起る。心を變へてアカイアを
勵まさんずるクロニオーン、其命うけてアテーネー、
天上あとに降り來てこゝに爭湧きたゝす。 545
地上に人の勞作を止め、家畜を悲します
その嚴冬のつらき節、もしくは凄き戰鬪の
前兆としてクロニオーン、高き雲の上紫の
虹、人類に示すごと、紫の雲身を覆ひ、
アカイア軍に降り來る神女かれらを勵ましむ。 550
眞先に神女アテーネー、かたへに近くメネラオス、
アートレ,デース、勇猛の將の立てるを顧みて、
彼を勵まし、疲れざる音聲及び外貌に、
將プォイニクスまねつゝも羽ある言句陳じ曰ふ、
『あゝメネラオス、すぐれたるアキルリュウスのめでし友、 555
彼をトロイア城の下、狗の一群噛み裂かば、
恥辱と慚愧とこしへに汝の上にあるべきを、
いざ勇猛の氣を鼓して勵ませ友を一齊に。』
音聲高きメネラオス即ち答へて彼に曰ふ、
『あゝプォイニクス、老齡の尊き叟よ、願はくは 560
神アテーネー力貸し飛刄の猛威防がんを!
パトロクロスの落命をわれ懇ろに悲しめば、
彼の屍體を守り禦ぐ願はあつし、然れども、
プリアミデース・ヘクトール猛威さながら火の如し、
ヂュウス譽を與ふれば彼の殺傷果知れず。』 565
しか陳ずれば藍光の目のアテーネー喜べり、
あらゆる神の中にして眞先に祈うけたれば。
かくして神女將軍の肩と膝とに力添へ、
その胸中に蚊蚋の持てる不屈の勇加ふ、
蟲は屡※人間の體より追はれ攘はれて、 570
なほ執拗に噛み續け、甘き人間の血をば吸ふ、
かゝる勇氣を胸中に神女によりて滿たされて、
パトロクロスのから守り、燦爛の槍投げとばす。
今トロイアの族の中エーイチオーンの生める息、
富みて勇あるポデースを其最愛の友として、 575
又宴飮の客としてヘクト,ルいたく重んじぬ。
ポデース今し戰場を急ぎ逃げんとしつる時、
金髮ひかるメネラオス、彼の皮帶射て當てつ、
青銅の槍貫きて地ひゞき拍ちて倒れしめ、
パトロクロスを敵軍に奪ひて陣に曳き來る。 580
574 エーイチオーンはヘクトールの妻アンドロマケーの父、然るにアンドロマケーは其兄弟みなすでに殺さるゝ事を VI 241 に説く。然らばこゝ 574 のエーイチオーンは同名別人か。
その時近くヘクト,ルの傍に立ちてアポローン、
アビードスの地、郷として彼に最も親しめる
アーシオスの子プァイノプス、其相假りて勵ましつ、
銀弓の神アポローン即ち彼に宣んし曰ふ、
583 V 152.
『あゝヘクトール、アカイアの他の何人か汝をば 585
今恐るべき? ――先頃は弱將たりしメネラオス、
彼より汝逃げ去るや?――見よ身一つにメネラオス、
かの屍を奪ひ去り、更に汝の友を討つ、
エーイチオンの生める息、先驅に勇むポデースを。』
その言聞きてヘクトール、悲哀の雲に蔽はれつ、 590
光る青銅身に着けて先鋒中に現はるゝ、
その時、房の飾ある輝く盾をクロニオーン、
手にして厚き黒雲にイデーの嶺を包ましめ、
電火を飛ばし、雷音を轟かしめて盾握り、
トロイア軍に勝與へ、アカイア軍を恐れしむ。 595
ペーネレオースまづ走る、彼はボイオーチアの人、
プーリダマスの近きより射たる鋭槍彼を射る、
敵におもてをさらしつゝ立ちたる彼の肩の先、
かすり行きたる敵の槍、彼を疵つけ骨に觸る。
アレクトリオーン勇將の生みたる子息レーイトス、 600
彼の手首をヘクトール打ちて戰ひ得ざらしむ、
槍を手にしてトロイアとまた爭ふを得ずと知り、
恨み抱きて悄然とあたり見※し彼は去る、
其レーイトス追ひ迫る將ヘクト,ルの胸甲の、
乳のあたりを覘ひつつ、イドメニュウスは槍とばす、 605
されど長槍柄は碎けトロイア軍は聲揚ぐる。
ヂューカリオーンの生める息イドメニュウスが車臺のへ、
立つを覘へるヘクトール、鋭槍少しく覘ひそれ、
メーリオネ,スの部下にして兵車を御するコイラノス、
うてり、戸口の豐かなるリュクトスよりし來る者、 610
(イドメニュウスは海上にうかべる舟を去りし時、
徒歩に來りてトロイアに功名得さすべかりしを、
急ぎて御者のコイラノス駿馬とばしてかけ來り、
彼を救ひて恐るべき運命の手を免れしめ、
爲に自ら敵將の手により命を失へり。) 615
その顎の下、耳のもとするどく射たるヘクトール、
槍は齒の根を打碎き舌のまなかをつんざけば、
車臺の下にどうと落ち手綱は垂れて地に觸れぬ。
そを身を曲げて大地よりメーリオネースとりあげつ、
イドメニュウスに聲あげて羽ある言句陳じ曰ふ、 620
『鞭を加へて馬を驅り、水師めざして急ぎ行け、
勝利はすでにアカイアにあらずと汝悟るべし。』
596 II 494.
600 II 494.
607 XIII 452.
609 V 677 は同名別人。
イドメニュウスは之を聞き鬣美なる馬を驅り、
恐怖の念を胸中に充たし乍らに舟に去る。
確かの勝をトロイアに、クロニーオーン與へしを、 625
今や悟れるメネラオス、又勇剛のアイアース、
即ち衆にアイアース・テラモニデース陳じ曰ふ、
『あゝ無慚なり、トロイアに助けを天父クロニオーン、
貸すを今はた悟るべし、思慮淺はかの人の子も。
勇氣の有無に係らず、かの軍勢の投げ飛ばす 630
槍悉く皆當る、ヂュウスすべてを導けり。
しかも我らの放つもの、ただに地上に落つるのみ。
さはれ今われ最上の策を心に※らさむ、
パトロクロスの死屍を曳き、身を全うし歸り得て、
親しき友を喜ばす其道いかに、窮め見ん。 635
友はこなたを見渡して痛く惱みて思ふべし、
將ヘクト,ルの強暴の威力をわれら支へ得じ、
その剛勇の手に驅られ水師になだれ落つべしと。
アキルリュウスに速に、此らの報をいたすべき
使は無きや?われ思ふ、彼は悲痛の音づれを、 640
パトロクロスの落命の報を未だに耳にせじ。
されどアカイア陣中にかゝる使を見出し得ず、
烟塵暗く軍勢を戰馬を共に蔽ひ去る。
あゝわが天父クロニオーン、わが軍勢の暗攘へ!
空吹き晴らし、其目もて親しく見るを得せしめよ。 645
神慮のまゝに光明の中にわれらを死なしめよ。』
涕流して陳ずるをクロニーオーン憐みつ、
直ちに霧を吹き拂ひ暗雲遠く散ぜしむ、
かく燦爛と日は出でゝ戰場廣く照りわたる。
音聲高きメネラオス今アイアスの言を聞く、 650
『ネストールの生める息、アーンチロコスは尚生くや?
ヂュウスの愛兒メネラオス、汝目を張り探し見よ、
あらば勸めて速かにアキルリュウスを訪はしめよ、
告ぐべし彼の最愛の友は亡びて今無しと。』
651 アキルリュウスの友、脚早し。(XV 569)
しか陳ずれば大音の將メネラオス從ひて、 655
出で行く、之を譬ふれば牧場守る人と犬、
防げる獅子が倦み疲れ、野よりあなたに去る如し、
彼らよすがら見張りして、肥えたる牛に猛獸の
襲ひ來るを妨げつ、飢ゑたる獅子は勇めども、
其意を遂げず、投槍は強き腕より放たれつ、 660
彼の恐るゝ松火は猛焔吐きて飛び來る、
かくして彼は進み得ず、やがて曙光の照す時、
憤然として逃げ歸る――恰も斯る樣見せて、
音聲高きメネラオス、パトロクロスの屍あとに、
アカイア勢の散々に敗れて屍を敵軍の 665
餌と棄つべきを憂ひつゝ、心ならずも去り行けり。
行くに臨みてアイアスにメーリオネースに呼びて曰ふ、
656 同じき比喩 XI 548以下。
『アカイア軍の首領たる汝二人のアイアース、
メーリオネース、又汝、忘るゝ勿れ、薄命の
パートロクロス生ける間は、やさしかりけり衆人に。 670
無慚なるかな今は死と暗き運命彼を蔽ふ。』
670 彼の友情屡※記さる。先文 204. XIX 287. XXI 96.
しかく陳じて金髮の將メネラオス出で行きつ、
鷲の如くに八方にその目を配る――人は曰ふ、
鷲は空飛ぶ禽鳥の中に最も目は強し、
足疾き兎、林叢の繁みに其身ひそむとも、 675
高きに翔けて認め知り、羽音鋭く落し來て、
彼を襲ひて速に捕へて息の根を留む。
ヂュウスの寵兒メネラオス、斯くも汝の光る目は、
ネストールの子、なほ生きてあるや否やを知らんとし、
多くの同志群れる中を普く見渡して、 680
忽ち認む全軍の左端にありて勇將の、
其同僚を勵まして戰場めがけ進むるを。
近きに寄せて金髮の將メネラオス彼に曰ふ、
『アーンチロコス、こゝに來よ、ヂュウスの寵兒あゝ汝、
世にあるまじき災難の報を新たに聞かんため! 685
思ふに既に汝の眼、親しく眺め知りつらん、
神はアカイア軍勢に破滅を、敵に光榮の
勝與へしを――ダナオイのすぐれし將は斃れたり、
パトロクロスは斃れたり、あゝわが軍の大悲哀!
さもあれ汝速かに馳せアカイアの舟に行き、 690
アキルリュウスに言告げよ、願はく彼は迅速に、
裸の屍を引きとらん、武具はヘクト,ル剥ぎ取りぬ。』
しかく陳ずる彼の言、アーンチロコス愕然と、
聞きてしばらく哀悼に言葉もあらず、涕涙は
二つの目より潜然と流れて聲は塞りぬ。 695
しかありながら、メネラオス下せる命を怠らず、
傍へに立ちて單蹄の馬を御しつるラオドコス、
親しき友に其武具を與へて急ぎ馳けいだす。
ペーレーデース・アキリュウス訪ひて悲報を傳ふべく、
涙乍らに戰場をあとに勇將かけいだす。 700
697 IV 87 アンテーノールの子に同名の人あり。
アーンチロコスいで行けるあとに弱れる其同志、
いで行くかれにあこがるるピュロスの同志――其隊を
ヂュウスの寵兒メネラオス、汝は敢て援くるを
念ぜず、されど其隊にトラシュメデース送りやり、
其身はまたも英剛のパトロクロスのからのそば、 705
走り歸りてアイアスの傍へに立ちて叫び曰ふ、
『彼を我今輕舟の陣に遣はし、脚速き
アキルリュウスを訪はしめぬ。さもあれ我の見る處、
アキルリュウスはヘク,トルを痛く怒れど來るまじ、
武裝を缺ける彼いかでトロイア勢に向ひ得む? 710
さはれ今われ最上の策を心に※らさむ、
死屍を奪ひて曳き歸り、トロイア軍の騷ぎより、
われら自ら安かに死の運命を避くる策。』
テラモニデース・アイアース偉大の將は答へ曰ふ、
『あゝ光榮のメネラオス、なんぢの言句すべて善し、 715
メーリオネースと汝今、急ぎ屍體をとりあげて、
戰場の外運び行け、あとに殘りて我二人、
心も一つ名も一つ、勇を奮ひて英剛の
將ヘク,トルとトロイアの軍に向つて戰はむ、
先にも二人相依りてはげしく苦鬪行へり。』 720
しか陳ずれば他の二人、地より屍體を高らかに、
勢猛くかつぎ擧ぐ、屍體をあぐるアカイアの
將を眺めてトロイアのおめき叫べる軍勢は、
獵する人の目の前に、負傷の野猪に飛びかゝる
狗の一群見る如く、猛然としてつきかくる。 725
野猪を裂くべくしばらくは猛然として驅くる群、
されど力に誇らひてあと引き返す猛獸の
ふりむく時は退きて、恐れ四方に逃げ散んず。
まさしく斯くもトロイア勢、隊を造りてしばらくは、
劍或は兩刄ある槍を揮ひて追ひ進む、 730
されど二人のアイアース之に向つて振り返り、
立ち留まれば衆人は色を失ひをのゝきつ、
前に進んで死屍のため戰はんずるものも無し。
斯くして二人戰場をあとに屍體を水陣に、
搬ぶを追ひて戰ははげしく荒ぶ、譬ふれば、 735
不意に襲ひて立ち並ぶ人家を掠め、炎々の
焔を揚ぐる火の如し、火光の中に散々に
家は燒け落ち、吠え叫ぶあらしは更にあらび増す。
斯くも退く敵軍を追ひてトロイア軍勢の
戰馬と戰士恐るべき騷ぎ收まる時もなし、 740
高き山より險阻なる阪を下りて全身の
力を騾馬は振りおこし、船造るべき大木を、
或は棟木を搬ぶ時、流るゝ汗と疲勞とに
可憐の家畜惱む如、精を盡して二勇士は
屍體を擔ひ退けり。そのあと防ぐアイアース、 745
トロイア勢を喰ひとむる、そを譬ふれば、平原に
廣く亙れる堅牢の堤、怒潮を防ぐ樣、
滔々として漲りて勢猛く寄する水、
之を抑へて暴れしめず、破壞の力挫きつつ、
行くべき路に漫々の流を走り行かしむる―― 750
正しく斯くもトロイアの軍勢とむるアイアース、
されども後を逐ひ來る中にすぐれし二勇將、
アンキーセース生める息、アイナイアースとヘクトール。
小さき鳥に滅亡を齎らす鷹の近づくを、
椋鳥又は樫鳥の一群認め、ものすごき 755
叫びを揚げて逃ぐる樣、アカイア勢は一齊に、
アイナイアース、ヘクトール二將來るを眺め見て、
畏怖の叫に退きて戰忘れ逃げ歸る。
斯くて逃るる軍勢の美なる戰具は數知れず、
塹濠めぐり散らばりぬ、戰止まむ時知れず。 760
第十八歌
アーンチロコス戰場より歸りてパトロクロスの死をアキリュウスに告ぐ。 アキリュウスの慟哭。 其聲海底に達す。 神母テチス彼を慰むるため海中の仙妃團を率ゐて來る。 アキリュウスの復讐の念。 彼の兵具を作ることを神母はヘープァイストスに願はんと曰ふ。 仙妃らを海に返し自らオリュンポスに上る。 パトロクロスの屍體を繞りて兩軍の奮戰。 ヘクトールとアイアースの戰。 天妃ヘーレー使としてイーリスをアキリュウスに送る。 イーリス來りアキリュウスを陣頭に進ましむ。 塹壕の上に立ちアキリュウス大音聲を發してトロイア軍を威嚇す。 トロイア軍恐怖してパトロクロスの屍體をアカイア軍に奪ひ返さる。 日沒に到り兩軍互に退く。 トロイア軍退陣して評議の席を開く。 ポリダマスの忠言。 ヘクトールの反對。 パトロクロスの屍を抱きてアキリュウスの慟哭。 天上におけるヂュウスとヘーレーの問答。 テチス行きて神工ヘープァイストスを訪ふ。 神工夫妻の歡迎。 神母の依頼を受けてアキリュウスの爲に諸種の武具を造る神工の妙技。 まづ盾を造る。 盾の面に鑄らるる自然の景と人間の行爲との多種多樣。 盾の後に介冑と兜と脛甲を造る。 すべての完成。 テチス之を携へてオリュンポスを降る。
斯くて兩軍炎々の焔の如く戰へり。
時に使命に脚早くア,ンチロコスは、アキリュウス
舳艫直なる船の前、立てるを訪へば慘然と、
將軍すでに成り果てし凶變胸に感じ知り、
大息しつゝ英豪の心に獨り嘆じ曰ふ、 5
1 XI 596 と同じ。新たのエピソードの初をしるす。
3 「直ぐの角ある」(直譯)。
4 親しきパトロクロスの死。
『ああ長髮のアカイア族、原上走る畏怖の色、
水師をさして蒼惶と退き歸る、何事ぞ?
我の悲む災難を恐らく諸神果せしや?
神母は先に此事を我に啓示し告げたりき、
我なほ生を保つ中、ミルミドネスの最勇士、 10
トロイア人の手に懸り、日の光明を見棄てんと、
メノイチオスの勇武の子、あゝ彼れ遂に亡べりや?
敵の猛火を掃ひ去り、水師に歸れ、豪勇の
ヘクトールとな戰ひそ――しか我れ彼に命ぜしを。』
6 グリース人を指す、ホーマア詩中に「グリース」の名なし。
9 アキリュウスの母神テチス――ここに述ぶる處は XVII 410 と矛盾す。
10 彼らの種屬の稱。
12 パトロクロス。
斯くも胸裏に煩ひて思に惱むアキリュウス、 15
その傍に走り來て英名しるきネスト,ルの
子は熱涙を流しつつ彼に凶變告げて曰ふ、
『ああ無慘なり! 勇しきペーレーデース、大哀の
おとづれ今こそ君聞かめ、世にあるまじき禍や!
パートロクロス殺されて、鎧はヘク,トル奪ひ去り、 20
彼れの赤裸の屍を兩軍今し爭へり。』
16 「ネストール」を音調のため縮む Poetical License「,」を用ふ。
18 ペーリュウスの子アキリュウス。
20 パトロクロス、パートロクロス、パトロークロス‥‥音調のために種々に變化す(Brasse's A Greek Gradus)
しか陳ずれば英雄を悲哀の黒き雲は蔽ふ。
見よ、彼れ、双の手を延して餘燼の黒き灰握み、
頭の上に振りかけて其秀麗の面汚し、
灰塵更に美はしき軍袍の上まみれつく。 25
23 水師の戸外に立てど神壇恐らく戸の前にありて香火を燒きしならむ。
24 舊約全書ヨブ紀――大苦惱の時、ヨブは塵をかぶる。
長躯今はたおほいなる幅を滿たして地に倒れ、
我と我手に頭髮を將軍そぞろに掻きむしる。
パートロクロスとアキリュウス、共に囚へて侍らしし
婢女一齊に悲みて、叫はげしく陣營の
門走り出で、猛勇のアキルリュウスの傍に、 30
寄りてひとしく胸打ちて、おのおの膝を震はしむ。
ア,ンチロコスは自らの涕ながらも警めて、
悲嘆のあまり鋭刄に喉を割かん恐より、
英武無双のアキリュウス・ペーレーデースの手を抑ゆ。
斯く物凄く嘆く彼れ、そを千尋の波の底、 35
老いたる父の傍に其座を占むる端嚴の
神母ききとり誘はれて共にひとしく咽び泣く。
その時蒼溟の底に住む仙女の群は其めぐり、
集り寄りぬ、グラウケー、ターレーア、はたキモドケー、
ネーサイエーとスペーオウ、トエー、美目のハリイエー、 40
キユモトエイ又續き來るリムノーレーア、アクタイエ、
更にメリテー、イアイラー、アムピトエーとアガウエー、
ドウトウ及びプロウトウ、ペルーサ及びヂナメネー、
デクサメネーに續き來るカルリアネーラ、アムプィノメー、
ドリース及びパノペーと高き譽れのガラテーア、 45
ネーメルテース更に又アプシューデース、カリアナサ、
續きて更にクリメネー、ヤネーラ及びヤナッサア、
オーレーチュイア、マイラアと髮美しきアマテーア、
その他、波浪の底に住む水の仙女ら群りて、
銀光照らす洞窟に皆一齊に胸打ちて、 50
悲み泣けり、其時にテチス先づ聲あげて曰ふ、
27 X 15. XX 77. 406.
28 アキリュウス、アキルリュウス兩用。
36 海王ネーリュウス。
37 テチス。
39 39―48 行の仙女の名―ヘーショッドの『テオゴニス』243 行以下にある中より撰ばれしものならん。後の添加なるべし。
40 『牛王の目ある』直譯。
『ネーレーイデス、われに聽け、ああわが姉妹、汝らの
おのおのすべてわが胸の悲哀いかにと思ひ見よ。
あはれ薄倖! 英雄の母たる我の運命や!
絶えて責むべきあと見ざる英武のわが子産み出でて、 55
勇者の中に傑れたる(巨幹の如く生ひ立てる)
彼を沃土の野に立てる樹木の如くはぐくみつ、
やがて曲頸の船の上、トロイア族の戰に、
イリオンさして遣はしき、――ああペーリュウスの家の中、
再び歸りくる彼を迎ふる時はあらざらむ。 60
生の脈搏ある限り、日の光明を見る限り、
彼れ其苦惱免れじ、われ近よりて救ひ得じ。
さはれ今行き、めづる子に逢ひて訊さむ、戰鬪の
場を離るる彼にして何の禍難に苦むや?』
52 「海王ネーリュウスの子ら」。
62 神々も運命を抂ぐるを得ず。
しかく宣んして洞窟を出でつつ共に一齊に、 65
ネーレーイデス伴ひて涙ながらに波を分け、
進みて斯くて豐沃のトロイア郷の岸の上、
行列なして登り來ぬ、ミルミドネスの數多き
兵船曳かれアキリュウス將を※りて並ぶ場。
悲慟はげしき彼のそば、端嚴の母近く寄り、 70
共に流涕はげしくて愛兒の頭かき抱き、
痛く悲み彼に斯く羽ある言句述べて曰ふ、
72 羽翼を有するものと言葉を形容す。
『愛兒! 何らの涙ぞや? 何ら心の哀傷ぞ?
陳ぜよ、隱すこと勿れ、先に汝が手を揚げて
祈り求めし情願は成りしならずや? 神明の 75
計らひありてアカイアの子らは汝の無きが故、
水師のかたへ破られて恥をかく迄受けたれば。』
75 第一歌――總戎アガメムノーン辱かしめし故にアキリュウス怒りて退きアカイア軍の敗北を望めり。
脚神速のアキリュウス、泣きて叫びて答へ曰ふ、
『慈母よ、誠にわがためにウーリュンポスの神これを
成しぬ、惠みぬ、しかはあれ、パートロクロス、恩愛の 80
友は亡べり、一切の友に優りてめでし友、
われの頭を見る如く愛せし友は殺されぬ!
彼を倒してヘクトール、目を驚かす莊麗の
鎧奪へり、ペーリュウス、神の惠みと受けしもの、
神そのむかし人間の妻とし君を爲せる時。 85
――波浪を宿の神明の間に君は留りて
ペーリュウスただ人界の女性を娶るべかりしを、――
さもあれ今はおほいなる悲哀は君の胸にあり。
君の愛兒は斃るべし、故郷に歸る彼の身を
君は再び見ざるべし、われ又生を續くべき 90
情願あらず、人界に殘り留る事あらず、
わが槍に因り、ヘクトール先づ三寸の息絶えて、
パトロクロスの無慘なる戰死償ふこと無くば。』
79 オリュムポス、又ウーリュンポス。
84 鎧はアキリュウスがパトロクロスに貸せしもの、即ち前者の父ペーリュウスが其妻テチスを娶りし時、海神ネーリュウスより受けしもの。
涙流して端嚴のテチス即ち答へ曰ふ、
『愛兒よ、汝曰ふ如く、汝の壽命長からず、 95
死の運命はヘクト,ルの其れに續きて備へらる。』
脚神速のアキリュウス、慨然として答へ曰ふ、
『非命に逝ける愛友を救はん事の叶はねば、
願はく、ただちに我れ死せむ――友は故郷に遠ざかり、
その逆運を防ぐべき我が救助なく斃されぬ。 100
愛づる祖先の故郷へと歸るに非ず、しかも猶、
パトロクロスを救ひ得ず、敵の勇將ヘクトール、
其手に逝ける幾何の他の將卒を救ひ得ず、
用なく地上の煩ひと水師のそばに身をおきて、
青銅鎧ふアカイアの中に無双の勇者の名、 105
享くるもよしな、(評定の席には優るものあれど)。
いざ、神明の爭も、又人間の爭も
失せよ、深慮の人々を分離せしむる憤、
流るる蜜の甘きにも遙かに勝さり、あらびては、
猛火の如く人間の胸に燃えたつ憤、
失せよ、大王アガメムノーン我をさばかり怒らせき。
苦惱は激しかりしとも、過ぎたるものを過ぎしめよ、
胸の中なる心靈をただ運命に屈せしめよ。
いざ今行きて、愛友を倒しし敵將ヘクトール
屠り、つづきてわが生を棄てむ、ヂュウスと諸の 115
天の神靈一齊に、此事成るを望む時。
天王ヂュウス・クロニオーン、其最愛の子と誇る
ヘーラクレース偉なりしも、遂に死命を免れず、
運命及びヘーレーの凄き怒に倒されき。
斯く又我に運命の同じきものの來るべくば、 120
倒れて遂に地に伏さむ、ただ光榮を羸ち得まし。
ダールダニエイ、トロイアの胸温柔の女性らの
一人、双の手を延して、紅潮さむる頬の上、
涙を拭ふ慟哭の本を我まづ成し遂げむ。
知るべし彼等、戰鬪の休みは既に我に足る、 125
愛はさもあれ戰を止めざれ、命に從はじ。』
98 屡※古代の諸の著書に引用さるゝもの、プラトーの『アポロギア』三十八節など。
107 戰は宇宙の第一義と説けるグリース哲人ヘラクリタスは此句を責む――アリストートルの倫理學に之を説くよし。
109 樹より滴る野生の蜜=舊約全書サミユル前書十四章二十六節參照。
119 VIII 362. XIV 250. XV 27. XIX 119.
122 βαθυκολπων「深き胸の」「深き襞ある胸衣の」―Voss は Schwellenden Busens と譯す。
124 ヘクトールを殺し、アンドロマケーを哭せしむること。
足は銀色玲瓏の神女答へて彼に曰ふ、
『わが子、誠に然かなりき、厄に陷る同輩を、
破滅無慚の境より、解くをいみじとせざらめや?
さはれ汝の美しき武具、青銅の燦爛の 130
鎧、トロイア人の手に、殘り今その肩の上、
堅甲振ふヘクトール着けて誇らふ――さはれ見よ、
彼の歡喜は永からず、死の運命は近よりぬ。
今ただ汝戰鬪の中にな入りそ、この場に
親しく汝まのあたり我が再來を見なんまで―― 135
ヘープァイストス神工の許より美麗の武具を率て、
あしたの空に昇る日と共に我また音づれむ。』
127 「銀色の足ある」――テチスの常用形容句。
136 ラテン名はヴルカン、鍛冶の神、跛足なり。
しかく陳じて身を轉じ、愛兒を去りて海洋の
波浪に浮ぶ姉妹水の仙女に宣んし曰ふ、
『汝ら去りて大海の深き胸のち潜り行き、 140
波浪のあるじ、老齡のわが父のもと音づれて、
この一切を物語れ、ウーリュンポスの頂に、
ヘープァイストス神工のもとをわれ訪ひ、燦爛の
武具を武勇の我れの子に、造るや否や尋ね見む。』
142 オリュンポス、又ウーリュンポス、神々の住める山。
しか宣んすれば仙女らは海潮ただちに潜り行く。 145
足銀色の玲瓏のテチス、即ち莊麗の
武具を愛兒に倶せんため、ウーリュンポスに進み行く。
ウーリュンポスに双の脚彼女を運ぶ、その間、
殺戮無慙のヘクト,ルの手を免れて水陣に、
ヘレースポントス海峽に叫喚高くアカイオイ 150
着きぬ、されども堅甲のアカイア軍も、斃れたる
パトロクロスの屍を、激しき敵の飛箭より
救ひも得せじ、トロイアの軍勢軍馬一齊に、
猛火の如きヘクトール共に屍體を襲ひ討つ。
三たび光榮のヘクトール屍體の双の脚取りて、 155
奪ひ去るべく、奮然とトロイア人に呼はりつ、
三たび勇猛の威を奮ふアイアス二人一齊に、
死屍より彼を逐ひ攘ふ、されども勇むヘクトール、
時に亂軍のただ中に突き入り、時に大音に
喚めき叫びて、一歩も絶えて後に退かず。 160
譬へば原に牧の子ら、焔の如き獅子王の
飢はげしきを屍の餌より攘ひ得ざる如、
勇を奮へるアイアスの二人斯くして屍體より、
プリアミデース・ヘクト,ルを逐ひ斥くること難し。
斯くして敵は奪ひ去り、無比の譽を得なんとす、 165
その時疾風の脚早く、ヂュウスと諸神の目を掠め、
ウーリュンポスを降り來て、ペーレーデース・アキリュウス、
彼に軍裝せしむべく、天妃ヘーレーの命帶ぶる
イーリス彼の側に立ち羽ある言句陳じ曰ふ、
157 同名二人のアイアース。
164 トロイア王プリアモスの子。
169 ヂュウス、ヘーレーらの使者。
『起て、アキリュウス、一切の人中最も猛き者、 170
パトロクロスの屍を救へ、――そのため水軍の
かたへ戰荒れ狂ひ、兩軍ひとしく彼と此、
討ちつ討たれつ爭へり、此は屍を囘すため、
かれトロイアの軍勢は風凄しきイーリオン、
都城に之を奪ふため、中に光榮のヘクトール、 175
切に望を之に懸け、いみじき頸を斬り落し、
頭を高く城門の杙に懸けんとこころざす。
起て、今、休既に足る、――パトロクロスの屍にして、
かれトロイアの群犬の戲弄となるを恐れずや?
屍露だも汚るれば汝何等の恥辱ぞや!』 180
脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『あゝ、イーリスよ、我に君送りしものは誰なりや?』
答へて疾風の脚早きイーリス示して彼に曰ふ、
『ヂュウスの天妃、端嚴のヘーレー我を遣はせり、
高き天位のクロニオーン、はた白雪のオリュンポス 185
嶺に住へる諸の神靈共にこを知らず。』
脚神速のアキリュウス答へて即ち彼に曰ふ、
『我いかにして戰鬪の場に入るべき? わが鎧、
敵は奪へり、わが神母われに命じて出陣を
禁ぜり、彼の再來をわが眼親しく見なんまで、 190
ヘープァイストスの手許より武具齎らすは彼の約。
そを外にして勝れたる武具を借るべき者知らず、
テラモーンの子アイアスの盾ただ一つあるばかり、
さはれ彼今先鋒の間にありて槍揮ひ、
パトロクロスの屍を衞るがために戰へり。』 195
その時疾風の脚早きイーリス答へて彼に曰ふ、
『美なる汝の鎧いま敵手にあるを我も知る、
ただ塹濠の側に行き、トロイア人に身を示せ、
トロイア軍勢恐らくは汝を恐れ、戰を
やめん、斯くしてアカイアの疲勞の勇士休らはむ、 200
斯くして荒るる戰鬪の休息しばし有り得べし。』
然かく宣んして疾風の早きイーリス立ち去れば、
ヂュウスの寵兒アキリュウスこなたにすくと身を起す、
その剛健の肩の上總あるアイギス投げかけて、
頭のめぐり黄金の雲を擴ぐるアテーネー、 205
神女斯くして燦爛の焔を彼に燃え立たす。
譬へば遠き離島、その城中に狼煙の
天に冲して入るところ、敵軍四方を取り圍み、
城兵終日討ち出でて奮戰苦鬪なす處、
太陽やがて落ち行けば數團の火焔燃え渡り、 210
火光閃めき炎々と冲いりて天に映る時、
四周の隣里望み見て禍難をこゝに救ふべく、
計略おのおの※らして船に乘じて寄する如、
然かく英武のアキリュウス頭より光空に射る、
即ち城壁の外に出で、塹濠の上立ちとまり、 215
神女の命をかしこみてアカイア軍に加はらず、
立ちて叫べば、遠くより妙音振ひ、トロイアの
陣一齊に震らしむる藍光の目のアテーネー。
斯くて城都を四方より圍める敵の、吹き鳴らす
サリピンクスの朗々の響の如く、叫喚の 220
アイアキデース呼ばはれる音聲高く雲に入る。
218 「藍光の目の」アテーネーの常用形容。
220 喇叭の一種。
221 アキリュウスの別名。
アイアキデース呼ばはれる其朗々の聲聞きて、
敵軍怖ぢて騷ぎ立ち、鬣長き一群の
戰馬ひとしく禍を、感じて兵車曳き返し、
車上の敵は勇猛のペーレーデース頭上に、 225
藍光の目のアテーネー、點じ燃せる光焔の
不盡の靈火望み見て、心に畏怖を充たしめぬ。
三たび塹壕の上に立ち叫ぶ英武のアキリュウス、
三たびおののくトロイアと其豪勇の諸援軍、
中に勇士の十二人、おのが兵車の傍に、 230
おのれの槍に貫かれ亡べり、こなたアカイアの
軍勢勇み、亂箭の中より援ひ引き出し、
パトロクロスの屍を床にかきのせ、一團の
親友泣きて傍に立てり、その中アキリュウス、
鋭刄痛くつんざける――柩の上に横はる 235
友を眺めて潜然と熱き涙に添ひて行く。
先に兵車と戰馬とを具して、荒べる戰に
遣はせし友、生還の姿再び迎へ得ず。
その時牛王の目を持てるヘーレー、強ひて日輪を、
大わだつみの波のをち、疲れぬ乍ら沈ましむ、 240
紅輪斯くて落ち行けば、奮戰苦鬪の惱より、
勇武の將士アカイアの軍勢しばし休らへり。
239「牛の目をもつ」ヘーレーの常用形容。
こなたトロイア諸軍勢、奮戰苦鬪のあらびより
退き歸り、兵車より足疾き馬を解き放し、
食を思ふに暇無く、直ぐに評議の席に入る。 245
一人も敢て坐に着かず、眞直に立ちて評定の
席を開きぬ、――アキリュウス長き勇武の戰を
休みし後の出現に、トロイア軍勢怖ぢ震ふ。
其時智あるポリュダマス、パントオスの子、將來と
過去とを獨り悟るもの、ヘクトールの友にして、 250
同じき宵に生れいで、友は長槍の術により、
名あるが如く、辯口の巧に秀いで名あるもの、
彼今衆に慇懃の思をこめて陳じ曰ふ、
249 ポリュダマス又プウリュダマス、好參謀、XII 60 參照。
『わが同志らよ、よく思へ、我は勸めん、汝らが
都城に引くを、原上に舟のかたへに曙の 255
到るを敢て待つ勿れ、我れ今、城壁去る遠し、
アガメムノーン元帥に彼の怒りし昨日まで、
彼らアカイア軍勢と戰ふことは易かりき、
敵の兵船、われの手に奪ひ取るべく樂みて、
その水陣の傍に我れ安んじて、さまよひき。 260
さはれ足疾きアキリュウス、彼れ今われの畏怖の的、
その兇暴の一念は、トロイア及びアカイアの
二軍互に相對し、威武を比ぶる原上に
留ることを肯んぜず、進み、都城と女性とを
擧げてひとしく掠め去る其戰を彼れ念ず。 265
我言ききて城内に歸れ、この事理に當る。
今清淨の夜の影、アキルリュウスの戰を
留む、されども鋭刄を其手に取りてあすの朝、
こゝに我が軍襲ふ時、彼の武勇は凄からむ、
幸にして免るもの、トロイア城に歸り得む、 270
されど多くの我軍は犬と鳥との餌とならむ、
ああ其不祥のおとづれは願はく耳に入る勿れ。
心に忌むもわが言に汝ら聞きて從はば、
こよひ集る城中に我の力を養はむ。
かくして塔を、城門を、之に適ひてふさはしく 275
琢き光りて大なる扉を、城を護るべし。
かくしてあした朝早く身に青銅を鎧ひて、
城壁の上並み立たむ、其時彼ら水陣の
中より進み出で來り、攻めんものこそ咎あらめ。
城のめぐりを驅け走る頸たくましき駿足を、 280
疲らし果てて、水陣をさして再び退かむ。
城壁の中犯し入る思を彼は抱き得じ、
之を亡し得べからず、野犬の餌と先づ成らむ。』
堅甲振ふヘクトール眼を怒らして彼に曰ふ、
『あゝポリュダマス、聊かも汝の言句意に滿たず、 285
城中歸りいたづらに閉ぢこもるべく汝曰ふ。
城壁中にこもること未だ汝に足らざるや?
いにしへよりしプリアモス、領する都城黄金に
滿ち、青銅に滿つる事、世人あまねく口に曰ふ。
されどもヂュウス・クロニオーン怒りし故に其寶、 290
諸の家はなれ去り、フリュギエー又うるはしき
メーオニューの人々の手に買ひ取られ散じ盡く。
今はた計慮深き神クロニーオーン、水陣の
そばに光榮われに貸し、アカイア軍を岸上に
閉ぢこむる時、愚かにもかゝる助言をわが民に 295
告げざれ、トロイア一人も聞かず、我また許すまじ。
今我れ親しく曰ふところ、汝らすべて身に納れよ。
今戰陣の中にして汝ら各※食を取れ、
夜の警備を心して各々怠ること勿れ、
トロイアの族その家に藏むるものをいとしまば、 300
之を集めて衆人に與へて糧の足しとなせ、
敵のアカイア軍勢に與ふるよりも優らずや。
いざ紅輪のあさぼらけ、身に青銅を鎧ひて、
敵の兵船まちかくに猛き戰起すべし、
而して若もアキリュウス、戰望み兵船の 305
かたへに立たば禍は彼にあるべし、我いかで
彼を恐れて戰場を逃るべきかは! まのあたり
立たむ、勝利は彼の手に、若しくは我にあるもよし、
アレース皆に平なり、打たんずるもの、打ちとらむ。』
288 V 489. VI 46. IX 402 及び其他にプリアモスの富を曰ふ。
しかヘクトール陳ずれば、トロイア軍勢愚かにも 310
贊じ叫べり、アテーネー彼らの心くらませり、
將ヘクトール誤りて計るを彼ら譽め稱へ、
叡智の言を宣んしたるプーリュダマスを喜ばず。
かくて食事を陣中に取りぬ、しかしてこなたには、
アカイア軍勢よもすがらパトロクロスを悲しめり。 315
ペーレーデース眞先に逝きたる友の胸の上、
その剛強の手を延して、涙はげしく潜然と
悲しみ泣けり、譬ふれば顎髯長き獅子王の
愛兒の群を、繁りたる森より人の奪ふ時、
時におくれて歸り來て痛く悲み猛然と、 320
憤怒の情に耐へやらず、彼らの跡を探るべく、
谷のほとりを驅け※り、狂ひ※るも斯くあらむ。
ミルミドネスの中にして哀號はげし、アキリュウス。
313 プーリュダマス即ちポリュダマス、調のため原典に自由に用ふ。
『あゝ無慚なり、我彼の日メノイチオスを――勇將を、
彼の館の中にして慰めし言今空し、 325
トロイア城を陷れ、分てる戰利もたらして、
オポスの郷に光榮のその子連れんと約せしも。
さもあれヂュウス人間の祈願すべてを受け納れず、
こゝトロイアの郷の土、彼と我との紅血を
染めん運命定りぬ、――駿馬を御するペーリュウス、 330
その城中に歸り來る我を迎ふること無けむ、
神母テチスも亦さなり、我この郷に命終へん。
パトロクロスよ、斯くありて汝のあとを追ふが故、
汝をうてる豪雄の將ヘクト,ルの首と武器、
こゝに携へ歸る迄われ葬禮を行はず、 335
屍體を燒かん火の前に、トロイア陣中すぐれたる
十二の首を刎ね落し、無念の思晴すべし。
その時迄は、曲頸のわが兵船の、かたはらに
休らへ、そばに夜も日も言あざやけき人間の
富裕の都市を陷れ、わが長槍と力とに 340
よりて捕へて獲しところ、ダールダニエー・トロイアの
胸温柔の女性らは涙灑ぎて悲まん。』
327 メノイチオス父子はもとロクリス(II 531)のオポスに住めり、後フチーエーに移る。(XI 771)
339 Μεροπο※(禽獸と異に言語明瞭の意)。
しかく陳じて勇猛のペーレーデース、衆人に
命じ、火焔の傍に巨大の鼎備へしめ、
パトロクロスの屍の汚れし血汐淨めしむ。 345
斯くて衆人燃えあがる火焔の上に鼎据ゑ、
水を滿して炎々の薪を下に投げ入れぬ、
火焔鼎をうち圍み滿たせる水を沸かし立つ。
斯くて耀く青銅の中に熱湯沸ける時、
紅血染めし屍を洗ひて上に膏塗り、 350
更に九年の長き經し芳香疵に施しぬ。
かくして床に屍を乘せ、其頭より足にかけ、
柔軟の布被むらせ、上に雪白の氈おほひ、
よすがら長く勇猛のアキルリュウスの側に、
ミルミドネスの諸將卒パトロクロスを悲めり。 355
その時ヂュウス、妹の神妃ヘーレーに向ひ曰ふ、
『ああ牛王の目を持てるヘーレー、汝脚速き
アキルリュウスを起たしめて、遂に素懷を遂げ得たり、
鬢毛長きアカイアの民ぞ汝の子なるべき。』
その時牛王の眼をもてるヘーレー答へて彼にいふ、 360
『天威かしこきクロニデー、仰せ何らの言句ぞや?
朽つべく、しかも神明の知を備へざる人の子も、
これらの業を他に對し敢て加ふることを得ん。
素生に因りて、更にまた天のすべての神明を
治むる君の配として、女神すべての長なりと 365
自ら誇る我、いかで意のまゝ振舞ひ得ざらんや!
怒の故にトロイヤに禍害を加へ得ざらめや!』
361 クロニデース=クロニオーン=クロノスの子。クロニデーは呼格。
二位の神明かくばかり互ひに言句相交ふ。
而してかなた銀色の脚のテチスはたづね行く、
ヘープァイストスの青銅の不壞の神殿燦爛と 370
光りて他を凌ぐもの、跛行者自ら建てしもの。
そこに鞴の前にして汗を流して働ける
彼れ、礎の堅牢のその宮殿の壁のそば、
据うべき二十おほいなる鼎造るに忙はし。
その各々の脚の下、金の車輪を彼は附す、 375
かくて見る目を驚かし、鼎自ら搖ぎ出で、
神の評議の席に行き、しかして後に歸るを得。
工おほかたは遂げられて、ひとり鼎の精妙の
耳のみ殘る、之のために彼今鋲を鑄つゝあり。
その功妙の工みもて働く彼に、玲瓏の 380
銀色の脚美はしきテチス近づきおとづるる、
その時名工の譽ある跛行の神の配にして、
光る面紗の美はしきカーリス即ち認め得つ、
進み迎へて手をとりて思をこめて陳じ曰ふ、
370 諸神の殿堂と共にオリュンポスにあり。(I 607)
『ああ嚴しく譽あるテチス、衣の長き曳き、 385
稀の玉歩をこゝに抂げ、音づれ來る何故か?
いざ身につづき内に入りわが歡迎の宴につけ。』
しかく陳じて天上の女神の中にすぐれたる、
あるじはテチス導きて、銀鋲打てる莊麗の
玉座の上に坐らしめ、下に脚臺据ゑおきて、 390
ヘープァイストス譽ある神工を呼び叫び曰ふ、
『ヘープァイストス、いざここに、テチス來りて君を待つ。』
ヘープァイストス譽ある跛行の神匠答へいふ、
『ああ譽ある端嚴の女神わが屋の中にあり、
跛足の故におのが子を隱さんとせしヘーレーの、 395
願によりて落されて、苦難のはげしかりし我、
救ひし女神ここにあり。ユウリュノメーは潮流を
囘へす海神生める姫、ユウリュノメーとテチスとの
胸その時に受けざらば、わが心痛やいかなりし。
九年の間、そのそばに、居を空洞の中に据ゑ、 400
頸の飾と腕の環と胸又耳の飾との
工み數々鑄たる我、外は泡立つ海神の
無限の潮澎湃と高鳴り渡り、神明の、
また人間の何ものも絶えて此場を知らざりき、
ひとり我が身を救ひたるユウリュノメーとテチスのみ。 405
テチス今われ訪ひ來る、一命の恩、鬢毛の
美なる神女に正にわれ報いん時は今到る。
いざ今、汝、歡迎の宴を神女の前いたせ、
我、今行きて諸の器具を鞴を收むべし。』
395 此の神話と別に、ヂュウスがヘープァイストスを天上よりレームノス島に投げ落したる神話は I 560 以下參照。
しかく陳じて鐵床を立ちて煤けし巨躯起し、 410
跛足を曳けど神工の痩せたる脚はいと速し。
かくて鞴を猛火より遠ざけ離し、手にとりて
勤めし器具を悉く白銀製の櫃に納れ、
やがて海綿とりあげて面並に双の手を、
又逞しき頸筋を、粗毛の厚き胸を拭き、 415
而して上衣身に纒ひ、手に太やかの杖握り、
跛足を曳きて出で來る、彼を助けて命ある
少女に似たる金製の群像あとに働けり。
彼らは心知解して中に聲あり、力あり、
しかして不死の神明の靈妙の業學び知り、 420
主公の神の傍に勉めり、こなた神工は、
來りテチスの座に近く耀く椅子に身をよせつ、
即ち彼の手を取りて思をこめて陳じ曰ふ、
410 αιητονは意味不明、Voss は russige, Murray は panting と譯す。
『ああ我が愛づる端嚴のテチス、衣を長く曳き、
ここ音づるる何故か? 先は光臨稀なりき、 425
君の心を打明けよ、われの力の及び得ば、
又其事の成るべくは、成し遂げんことわが願。』
その時テチス潜然と涙を垂れて答へ曰ふ、
『ヘープァイストスよ、思ひ見よ、ウーリュンポスの頂の
女神の中の何ものか、クロニーオーン・ヂュウスより、 430
我唯獨り蒙りし如き禍難を受けたるや?
海の神女の群の中、彼はわが身を擇び取り、
人界の子のペーリュウス・アイアキデ,スに嫁せしめき、
心ならずも册づける彼れ老齡の惱より
居城の中に弱り伏す。しかも他の難又我に、―― 435
ひとりの男兒彼れ我に生ませ、すぐれし英雄と
はぐくましめて、繁り行く若木の如く長ぜしむ、
廣き沃土に立てる樹の如くに彼を長ぜしめ、
トロイア勢に向ふべくイーリオンにと、曲頸の
舟に乘じて行かしめし彼を再び其郷に、 440
ペーリュウス住む城中に、迎ふることはあらざらむ。
かれ生命のある限り、目に光明を見る限り、
絶えず苦む、我れ行きて彼を助くること難し。
アカイア諸軍賞として彼に少女を與へしを、
アガメムノーン威に誇り、彼の手よりし奪ひ取る。 445
彼は少女の故により痛く惱めり、かなたには、
アカイア軍をトロイア勢、舟のあたりに閉ぢこめて、
外に出づるを得せしめず、しかしてアルゴス諸長老、
彼に願ひて數々のすぐれし贈與算へ擧ぐ。
されども彼は進み出で禍難攘ふを諾はず、 450
パトロクロスに自らの武具を與へて穿たしめ、
夥多の戰士引き具して戰場さして進ましむ、
彼は終日スカイエー門のほとりに戰へり。
神アポローン、先鋒の中に敵軍惱せる
パトロクロスを――勇將を斃し、譽をヘクト,ルに 455
與ふることの無かりせばその日トロイア落ちつらむ。
我その故に今來り汝の膝の前に請ふ、
わが薄命の子に盾と兜並に胸甲と、
脚部を守る武具附せる脛甲、汝賜ぶべきや?
彼の戰裝、トロイアの敵に討たれし親友の 460
身より剥がれて、奪はれて彼今土に伏して哭く。』
430 ヘーレーに養育の恩を負ひしテチスはヂュウスに背きしことあり、天王之を怒り、人間に嫁せしむ云々の神話。
その時跛行のすぐれたる神工答へて彼に曰ふ、
『心安かれ、そのために胸を痛むること勿れ、
危急の運の迫る時、無慚の凶死遠ざけて、
彼の一命守るべく我願くは心せむ、 465
即ち彼に勝れたる戰裝我は整へむ、
これを眺むる人界の子は悉く驚かん。』
しかく宣んして神工はテチスを去りて進み行き、
猛火に鞴さしむけて其働きを初めしむ。
すべての鞴一齊に熔爐二十の上に吹き、 470
炎々として燃えあがる火焔の嵐立たしめつ、
ヘープァイストス望む儘、又其業の進む儘、
時に勉めて時にやむ神工助け働けり。
斯くして彼は炎々の火中に強き青銅と、
錫と貴き黄金と銀とを投じ、又次ぎて、 475
その臺上に巨大なる鐵床据ゑつ、一方の
手に堅剛の鎚をとり、火箸を外の手に握る。
眞先に彼はおほいなる堅牢の盾鑄造りつ、
美妙の工施して燦爛としてかゞやける
三重の縁、一條の銀の吊紐之に附す。 480
層五重より成れる盾、盾のおもてに神工は
その靈妙の巧より種々の意匠を施せり。
盾の表に鑄造るは緑の天と海洋と、
大地と倦まぬ日輪と、團々缺けぬ月輪と、
天を飾りて連れる無數の高き星宿と、 485
プレーイアデス、フィアーデス、更に堂々のオーリオーン、
更に車輪の異名呼ぶ大熊星の座ぞ高き、
同じ處を※り行きオーリオーンを眺め見て、
オーケアノスの潮流に彼のみ漬ることあらず。
483 こゝより本歌の終迄盾の表の意匠の詳説、まづ大地日月星を彫る。
486 1と2共に牡牛座中の星群。
盾の面に更に鑄る人界の子の都市二つ、 490
美麗なるもの、その一は婚禮及び賀宴の場、
松火かざし花やげる新婦のむれを人々は、
室より誘ひ外に連れ、婚賀の歌を唱へ出づ。
若き子の群、青春の血を躍らして舞ひ※る、
その中起る※喨の笛のひゞきと琴のおと、 495
女性はあまた戸の前に立ちて驚異の目を見張る。
又かなたには集會の廣場に衆は群れり、
爭議おこれり、殺されし人の賠償、題として、
甲乙二人爭へり、賠償すでに濟みたりと、
衆に向ひて甲は述べ、そは未だしと乙は曰ひ、 500
判者の前に爭を兩者もろとも終へんとし、
衆は双方いづれかを贊するまゝに呼び叫ぶ、
そを傳令はとりしづむ、かなた聖なる一團に、
老いし判者のおのおのは彫琢されし石の上、
坐して音聲朗々の傳令の笏手に握り、 505
かはるがはるに立ち上り、其判定をのり示す。
其判定を巧妙に、宣んする者に與ふべく、
席のもなかに黄金の兩タランタおかれあり。
490 平和の場面(二)。
外の都市には燦爛の武裝穿ちて攻め圍み、
二種の考思を胸にして、二軍の勇士陣構ふ、 510
一は都城を破らんを念じ、他は又城中の
資材を擧げて其半受けてこれらと和せんとす。
されど城兵從はず、埋伏すべく武裝しつ、
その城壁と恩愛の妻と幼き小兒らを、
齢傾く衰殘の輩に托して守らしめ、 515
立ちて進めばアレースと藍光の眼のアテーネー、
黄金の身に黄金の衣纏ひて先に行く、
武具携ふる莊嚴の華麗の姿、天上の
神に叶ひていちじるし、衆の躯幹は小なりき。
埋伏するに善しと見る場に軍勢やがて着き、 520
牛羊來り水を飼ふ川のほとりに、燦爛の
青銅の武具鎧ひて、おの/\隱れ屯しつ、
而して列と隔りて、二人の卒は偵察の
任に當りて、牛羊の群の來るを待ちわびぬ。
すぐに牛羊むらがり來、二人の牧者これにつぎ、 525
敵の計略思はねば笛を弄して樂めり。
軍勢かくとうかがひて走りかかりて忽ちに、
牛の群また雪白の羊の群を打ほふり、
率ゐ來りし牧人を共にひとしく打とりぬ。
圍める軍は評定の場に坐しつゝ、牛羊の 530
ほとりに湧る騷擾の聲を耳にし、駿足の
軍馬に乘りて怱忙と馳せてこの場に寄せ來る、
彼等は斯くて川流の岸のへ立ちて戰ひつ、
青銅の槍くりだして兩軍互に相うてり。
中に『爭』『騷ぎ』あり凄き『運命』またありて、 535
あるは疵負ひ尚ほ活くる、あるは未だに疵負はぬ
ものを握みつ、あるは又死者の脚曳き陣を過ぐ。
其『運命』は肩の上、人の血に染む衣まとふ、
恰も生ける人に似て三靈互ひに相交り、
互に打ちて戰ひて互に死屍を曳き合へり。 540
509 戰の場面(三)。
535 IV 440.
盾の表に柔かの耕土の姿亦鑄らる、
鋤返すこと三度なる豐かの圃に農民は、
牛馬を驅りてをちこちに軛を轉じ進ましむ。
軛を轉じ進ましめ耕地の端に達すれば、
人現はれて蜜に似る甘美の酒の一盃を、 545
各自の手中受け取らす、受けたるものは身を返し、
圃畦に進み、またかなた耕地の端に着かんとす。
盾の地板は金なれど、鑄られし耕地黒くして、
鑄る妙工の巧みより眞の物を見る如し。
541 耕地の姿(四)。
次に鑄たるは收穫の野のおも、ここに鋭利なる 550
大鎌とりて、勞働の群は收穫忙はし。
無數の瑞穗、あるものは今畦に添へ地の上に、
刈られて落ちつ、あるものは又繩により束ねらる。
束ぬるものは三人あり、並びて立てばうしろには、
年若き子ら穗を集め、腕に抱へて休みなく 555
彼らに運ぶ、而して主人はひとり默然と、
その間立ちて杖を取り心の中に喜べり。
又かなたには僮僕は木蔭の下に食のため、
屠れる牛を調理して忙しく勤め、女性らは、
夥多の麥を振り蒔きて農夫の食事とゝのへぬ。 560
550 收穫の場面(五)。
盾のおもてに又次に金をもて鑄る葡萄園、
葡萄の房は充ち滿ちて實は皆黒く熟したり、
葡萄の蔓の這ひわたる棚の支柱は銀に成り、
周圍は深き溝流れ、錫もて造る垣たてり。
只一條の路ありてこの場に通じ、これにより、 565
働く者は園内に入りて葡萄の房を刈る。
若き女性と若人は柔和の思胸にして、
編める籃ぬち熟したる果實を共に運び行く、
其の群の中一人の小兒美妙の琴とりて、
美妙の曲を奏しつゝ、その晴朗の聲揚げて、 570
葡萄の歌を吟ずれば、衆人同じく之に和し、
大地を脚に踏み鳴し、歌ひつ呼びつ進み行く。
561 葡萄園と酒の釀造の場面(六)。
盾の面に次に見る、角は眞直の一群の
牝牛あるもの黄金に、あるもの錫に鑄り出さる、
鳴聲高く牛舍より引き出されて牧場に、 575
出づる道のべ潺湲の流れの岸に蘆なびく。
又黄金に鑄られたる牧人四人牛を逐ひ、
更に九疋の脚早き犬の一群從へり。
そこに二頭の恐るべき獅子王、群の前列を
犯し捕ゆる一牡牛、牛は高らに吠え叫び、 580
曳かれて行けば犬の群、牧人ともに之を逐ふ。
今獅子王はおほいなる牛噛み倒し皮を剥ぎ、
内臟及び黒き血の溢れいづるを貪りぬ、
牧人逐へど效あらず、只脚早き犬に呼ぶ、
されど獅子をば噛み得ざる群は恐れて之を避け、 585
あたり圍みて※々の聲あぐるのみ、近づかず。
573 牧牛と獅子(七)。
586 『猛犬※々‥』(宋玉九辨)。
次に跛行の神工の盾のおもてに鑄るところ、
一の美麗の谷の中、白き羊の群遊ぶ
廣き牧場、更に又小屋と羊舍と園庭と。
587 牧場と羊舍(八)。
589 原文は「屋根のある小屋」、! 屋根の無き小屋は無し、くどきこと斯の如し、只調のため也。
次に跛行の神匠は盾にあらはす舞踊の場、 590
ダイダーロスがそのむかしクノーソスなる廣き地に、
鬢毛美なるアリアドネー彼に造りしそれに似る。
こゝに少年うちつれて嫁資豐かなる少女らと、
手と手親しく取り合ひて樂しく共に舞ひ踊る。
舞の群の中少女らは華麗の衣を身に纏ひ、 595
また少年は精巧に織られし光る上衣着る、
更に少女ら冠のいみじきものを戴きつ、
又少年は白銀の帶、黄金の劔を帶ぶ。
譬へて曰はば、陶工が手の中取れる※轉の
ろくろをためす時に似て、馴れたる脚に速かに、 600
列を造りて彼と此、互に向ひ進み合ふ。
多數の群は樂みて此一團を取り圍み、
更に其中すぐれたる歌謠者、絃を彈じつつ、
吟じ、而して其歌の初まる時に、輕妙の 605
二人の業師、群衆のもなかにありて跳ね踊る。
590 舞踊の場面(九)。
斯く堅牢に造られし盾の外輪に、神工は、
鑄りぬ、潮流湧きかへるオーケアノスの偉なる影。
斯く堅牢の大盾を神工造りはてて後、
火焔に優り耀ける胸甲彼のため造り、
又その額おほふべき精巧華美の甲造り、 610
黄金製の冠毛を更に其上飾り附け、
又屈伸の自在なる錫の脛甲造り終ゆ。
607 オーケアノスは世界全體を圍む流と考へらる。
譽れの神匠一切の武具をかくして造り終へ、
アキルリュウスの母にもて携へ來り捧ぐれば、
ヘープァイストスの宮居より神母さながら鷹の如、
燦爛の武具携へてウーリュンポスを飛び降る。
第十九歌
神工ヘープァイストスの造れる武具を携へ、神母テチス來りてアキリュウスを訪ひ、又パトロクロスの屍體の腐爛を防止す。 アキリュウス陣を出でて集會の席に臨み、アートレーデースと和睦す。 アガメムノーン己が過失を衆前に認め、先に約したる賠償を出し、アキリュウスの從者に之を其陣中に搬び去らしむ。 オヂュツシュウスの勸を納めて衆人みな食を取る。 アキリュウス獨り飮食を欲せず。 麗人ブリセーイス陣に歸りてパトロクロスを哭す。 アテーネー、ヂュウスの命を奉じ、來りてアムブロシヤをアキリュウスの胸中に注ぎ、飢渇の患なからしむ。 アキリュウスの出陣。 駿馬クサントス、神女ヘーレーの惠に因り、人語を發しアキリュウスの運命を豫告す。 アキリュウス之を顧みず戰車を驅り進む。
番紅花色の被衣着て、神と人とに光明を
與ふるためにエーオース、オーケアノスの波わくる、
折しもテチス神工の惠携へ舟を訪ふ。
1 VIII 1 以下。
訪へる神母はその愛兒、パトロクロスの傍に
伏して號慟切なるを認む、同僚亦ともに 5
あたりに泣けり、端嚴の神女その時近寄りて、
彼の手を取り、翼ある言句を陳じ彼に曰ふ、
『愛兒よ、悲哀切なるも、彼の伏すまゝ打すてよ、
その初より神明の意により彼は討たれたり、
いざ人界の子が未だ肩に荷ひしことのなき、 10
華麗の鎧收め取れ、ヘープァイストスの贈物。』
しかく言句を宣んしつゝ、アキルリュウスの目の前に、
精美の武具を並ぶれば、皆錚々と鳴り響く。
ミルミドネスの諸勇士は、驚怖にうたれ一人も
之をまともに眺め得ず、されど英武のアキリュウス、 15
これを眺めて憤然と更に勇氣を振りおこし、
眼蓋の下の双眼は火焔の如く耀きつ、
神の惠の燦爛の武具を手に取り喜べり。
精美の武具を恍惚と眺め終りてアキリュウス、
直に母に翼ある飛翔の言句陳じ曰ふ、 20
『慈愛の母よ、この武具を神は賜へり、まさしくも
こは天上の作ならむ、人間これを造り得ず、
我今行きて甲冑を着けん、されども我恐る、
青蠅の群、勇猛のメノチオスの子の疵に――
鋭刄割きし疵に入り、蟲を湧かして屍を 25
汚さんことを、我れ痛く恐れ悲しむ、(生命は
逃れ去りたり)全身を死はいたはしく腐らせむ。』
脚玲瓏の銀色のテチス答へて彼に曰ふ、
『愛するわが子、此事を胸に憂ふること勿れ、
打死したる勇將の屍體を噛まむ青蠅の、 30
むごき一群追ひ去るを我は必ず勉むべし。
パトロクロスの屍は一年こゝに殘るとも、
絶えず姿を變ゆるなく却りて今に優るべし。
汝は行きて集會にアカイア勇士呼び集め、
アガメムノーン元帥に對する憤怒和らげて、 35
戰鬪のため速かに武裝とゝのへ勇を鼓せ。』
しかく言句を宣んしつゝ、彼に激しき勇加へ、
パトロクロスの鼻孔より、アムブロシヤ、又血紅の
靈液注ぎ、其屍體腐敗すること勿らしむ。
やがて英武のアキリュウス、怒濤の岸を進み行き、 40
大音聲に叫びつゝアカイア勇將呼び起す。
呼ばれてかくて兵船の屯の中に住めるもの、
又柁とりて兵船の先に其座を占むるもの、
又水陣の中にあり、人に糧食配るもの、
これらの衆は一齊に――戰場長く退きし 45
アキルリュウスの出でたれば――勇み集會の席に就く。
その時二將、アレースに仕ふる二將、槍を杖に、
疵なほ痛く惱むため跛行なしつゝ出で來る、
チューデーデース勇將と、智慧神に似るオヂュシュウス、
二將はかくて前列の中に加はり座を占めぬ。 50
最後に來しは疵帶べるアガメムノーン、混戰の
中に青銅の槍をもてアンテーノール生める子に――
コオーンに――突かれ疵つきしアガメムノーン、民の王。
かくてアカイア諸軍勢皆一齊に集まれば、
脚迅速のアキリュウス彼らの中に立ちて曰ふ、 55
『アートレ,デーよ、過ぎにし日、少女の故に君と我、
痛く心を苦しめて憤怒激しく爭ひし、
其時和解ありつらば二人のために善かりしを。
リルネーソスを陷れ少女わが手に奪ひし日、
船のへ矢もてアルテミス彼を斃さば善かりしに。 60
さらばアカイア衆軍はわれの憤怒の故により、
敵に打たれて亡され塵を噛むことなかりけむ。
ヘクト,ル及びトロイアに取りて此事幸なりき、
君と我との爭をわが民長く忘るまじ。
さはれ苦痛に係らず、運命により胸中の 65
われの思を制し得て、過ぎたることを過ぎしめよ。
我今憤怒鎭むべし、執念深くとこしへに
怨抱くはわれに不可、いざ速に戰に、
毛髮長きアカイアの軍勢君は立たしめよ、
しかせば我はまのあたり、行きてトロイア軍勢に 70
向ひ、彼らが我船のほとり殘るや試めし見む。
思ふに暴き戰をわが鋭槍を免れて、
歸りて膝を曲ぐること彼らの多數喜ばむ。』
48 XI 377. 437.
53 XI 248.
59 II 690.
60 アルテミスは矢を放つて忽ち婦人を斃す。(VI 205)
しか陳ずれば堅牢の脛甲つくるアカイアの
軍勢痛くアキリュウス怒やめしを喜べり。 75
その時衆のたゞ中に進むこと無く、民の王、
アガメムノーン悠然と坐せる場より陳じ曰ふ、
『友よ、アカイア勇將よ、神アレースの隨從よ、
立ちて陳ずる者に善く耳傾けよ、妨げを
爲すこと勿れ、妨げは馴るる者にもつらからむ。 80
衆人はげしく騷ぐ時、誰かは善くも聞くを得む、
善く言ふを得む、朗々の聲あるものも亂されむ。
アキルリュウスに辯解を我は致さむ、アカイアの
衆人ひとしくわが言を聞きて各々悟れかし。
アカイア人はこれ迄も屡※かゝる言陳じ、 85
われを咎めき、然れども罪あるものは我ならず、
罪あるものはヂュウスなり、又モイラなり、暗に住む
エリンニュスなり、わが魂を――アキルリュウスの獲たる者、
我の奪ひし彼の時に――集議の席に暗ませり。
我れ何事を爲したりや? すべてを成すはある神女、 90
即ちヂュウスの端嚴の息女――すべてを欺ける
凄きアテーぞ、其脚は輕捷にして地にふれず、
たゞ人間の頭の上歩みて彼は人間に
害を加へつ、あるものゝ魂を繋縛し喜べり。
人間及び神明の中の至上と曰はるれど、 95
ヂュウスも嘗て彼のため欺かれたり、ヘーレーは
女性の身にて(其力借りて)巧みに欺けり。
そは堅城のテーベーにアルキュメーネー今正に
ヘーラクレース勇猛の男子産まんとしつる時。
其時ヂュウス揚々と諸神の中に宣んし曰ふ、 100
「あゝ一切の神明と神女もろともわれに聞け、
エーレーチュイア――誕生を司るもの――光明の
中に一人を今日擧げん、血統われを本とせる
人界の子の中にして、彼れ一切を率ゆべし。」 105
計略たくむ端嚴のヘーレー其時彼に曰ふ、
「君恐くは僞らむ、其言ふところ遂げざらむ、
ウーリュンポスを統ぶる君、今誓言を立てゝ曰へ、
君を本なる血統の人間の子の中にして、
此日女性の胎内を出で來るもの、彼れ正に、 110
他の一切の隣人を皆悉く統ぶべしと。」
しか陳ずればクロニオーン・ヂュウス僞計を悟り得ず、
固き誓言宣んし述べ、次ぎて痛くも欺かる。
ウーリュンポスの高嶺よりかくてヘーレー飛び降り、
ペルシュウスの子、ステネロス娶れる淑女住むところ、 115
神女は知りてアルゴスのアカイア城市さして來つ。
彼れ其時に胎中に愛兒宿して七ヶ月、
産期滿たねど、ヘーレーは光の前にその子擧げ、
エーレーチュイア遮りて、アルキュメ,ネーの産留め、
かくして行きてクロニオーン・ヂュウスの前に陳じ曰ふ、 120
「耀く電火飛ばす君、われ一言を陳ずべし、
アルゴス族を治むべき譽れの人は生れいでぬ、
ペルセーイアデ,ス・ステネロス生みたる其子、君の系、
ユウリュスチュウス、アルゴスを司る事不可ならず。」
しか陳ずれば、おほいなる哀愁痛く胸打ちて、 125
怒はげしきクロニオーン、即ち毛髮輝ける
アテーの頭かいつかみ、すべてを斯くも欺ける
アテー、再び星光る天界並にオリュンポス、
訪ふべからずと、莊嚴の誓を堅く宣んし告げ、
宣んし終りて手の中に彼を握りつ、星光る 130
天よりはるか抛げおとし、下界の中に降らしむ。
ユウリュスチュウスの令をうけ、賤しき勞にいそしめる
愛兒見るたびクロニオーンつねにアテーを憎しめり。
斯く亦われもおほいなる堅甲振ふヘクトール、
わが水陣の傍にアルゴス軍を打てる時、 135
はじめ我身を欺きしアテーを忘れ得ざりけり。
さもあれ我は過てり、ヂュウスはわれを欺けり、
かゝれば今は和ぎて君に賠償贈るべし。
乞ふ、戰鬪に身を起し我が衆軍を起たしめよ。
先きに英武のオヂュシュウス親しく君の陣に行き、 140
約せしところ一切の贈遺を君に致すべし。
君に意あらば、戰の情念いかに激くも、
暫く殘れ、わが家臣、舟より品を齎らさむ、
心に叶ふ珍重を贈るを斯くて君は見む。』
77 衆の眞中に立たざるは負傷の故か、或は近くアキリュウスに聞かせんためか、此句評家に種々の説あり、Voss は「席より立ちて、しかれども集團中に進まずして」と譯す。
87 運命、時には好運、時には惡運、エリンニュスはIX 454 と 572 參照。
92 IX 502「罪」(アテー)と「祈」參照。
95 95―136 他のエピックよりの※入なるべし、此の場合にふさはしからず。
102 XI 270.
119 ヂュウス―ペルシュウス┐
┌―――――――――――――┘
├ステネロス―ユウリュスチュウス
├アルケーオス―アムプィトリオン
│ ├ヘーラクレース
└エレクトリオン―アルキュメーネー
133 ヘーラクレース。
138 アキリュウス。
141 IX 225 以下。
脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、 145
『アートレ,デーよ、光榮のアガメムノーン、衆の王、
望まば君は正しくも約せる品を與ふるを
得べし、或は扣ゆるを。今は我たゞ速かに
戰鬪念ず、こゝにしてたゞ空言に耽けること、
猶豫すること不可ならむ、偉なる事業はまだ成らず、 150
やがて見るべし、先頭に立ちてトロイア軍勢を、
青銅の槍打ち揮ふアキルリュウスの亡ぼすを。
かく又汝ら敵軍と戰ふことを心せよ。』
智謀に富めるオヂュシュウス即ち答へて彼に曰ふ、
『あゝ英武のアキリュウス、汝誠に勇なるも、 155
食を取らずにわが軍を、敵と戰爲さんため、
進むる勿れイリオンに、二軍ひとたび向ふ時、
而して神が各々に燃ゆる勇氣を鼓する時、
わが見るところ戰爭の時期は短きものならず。
いざ兵船の中にして食と酒とを充すべく、 160
アカイア軍に令下せ、勇も力も是よりぞ、
夕陽入るにいたる迄、終日たえて食物を
取ることなくば、いかにして敵と戰ふことを得む。
心の中に戰鬪の激しさ人は望むとも、
彼の筋骨おのづから疲勞を感じ弱るべし、 165
餓と渇とは迫り來て歩むに膝は惱むべし。
之に反して、酒に飽き食に等しく飽き足りて、
終日敵の軍勢に向ひ力を奮ふ者、
彼の胸中勇猛の氣は衰へず、双の膝
戰場あとに歸る迄、絶えて疲るゝ事あらず。 170
いざ軍衆を解き散じ、食傳ふべく令下せ。
アガメムノーン、衆の王、アートレ,デース、集會の
席のもなかに約したる品を搬ばむ、アカイアの
衆軍親しく之を見む、君亦心喜ばむ。
又アルゴスの衆中に立ちて誓言彼述べむ、 175
世間の習ひ、兩性の間に常にある如く、
ブリセーイスの床の上、未だ上りしことなしと、
しかせば君の胸中に心おのづと鎭まらむ。
而して王は陣中に豐かの宴を催して、
君の心を和げむ、君の求めは皆滿たむ。 180
アートレ,デーよ、今の後、他にも一層正しかれ、
われ眞先に他に對し、非法をなさば己より
進み和睦を求むべし、この事王の恥ならず。』
アガメムノーン、衆の王、即ち答へて彼に曰ふ、
『智謀に富めるオヂュシュウス、我喜びて君に聞く、 185
君説くところ詳細に皆悉く理に叶ふ。
我の心の命の儘、これらの事を盟ふべし、
神明の前僞の盟は爲さず、アキリュウス、
戰志さこそは激しくも、暫くとまりこゝに待て、
衆將同じく亦殘れ、約せる贈遺、陣よりし 190
來らしむべし、而うして堅き盟を結ぶべし。
オヂュシュウスよ、我れ君に願ひ而して又命ず。
アカイア族中すぐれたる青春の子ら撰び取り、
我の舟より、先きにわが約せる儘に大量の
贈遺の品を取らしめよ、又女性らを連れ來れ。 195
而してアカイア軍中にタルチビオスよ牲として、
ヂュウス並に日の神に野猪さゝぐべく備せよ。』
196 I 370.
脚神速のアキリュウス即ち答へ彼に曰ふ、
『アートレ,デーよ、光榮のアガメムノーン、衆の王、
これらの事を努むるに優れる時は後にあり、 200
そは戰の終告げ、而して我の胸中の、
憤怒今より和らぎて其激しさを減らす時。
プリアミデース・ヘクト,ルに、ヂュウス光榮與へたる
其時、彼の斃したる諸友裂かれて地に伏せり。
さるを汝ら饗宴に人を招くや? 我は唯、 205
わがアカイアの青年ら、食取らずして戰ひて、
恥辱を報ゐ終る後、光輪沈み降る時、
美々しく宴を快く備ふることを命ずべし。
其時未だ到らねば、之に先んじわが喉に、
飮食共に入るを得ず、見よ青銅の劈ける 210
彼の屍體は、陣營の中に倒れて、戸の方に
其顏を向け、傍に僚友ひとしく悲しめり、
我は其ため胸中に酒食思はず、思ふもの
たゞ殺戮と流血と敵のはげしき悲泣のみ。』
212 死人が顏を戸口に向くる習はローマ人中にもあり、足を戸口に向け‥と譯せる者あるは誤か。
智謀に富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、 215
『あゝアキリュウス、アカイアの中に勇武の勝れたる
ペーレーデース、槍取らば汝誠に我よりも
優る、されども光輪の影まづ我の身を照し、
世を見しことの多ければ智慧は汝に我優る。
されば汝の心よくわが忠言を受入れよ。 220
激しく暴ぶ戰鬪に早くも人は飽き足らむ。
鋭刄廣く地の上に多くの犧牲切り斃す、
されど戰鬪審く神、クロニーオーン權衡を、
傾けむ時收穫は思の外に小ならむ。
アカイア勇士食斷ちて死者を傷むは不可ならむ、 225
戰ひ死する者の數極めて多く日々續く、
いづれの時か人は能く其辛勞を休め得む?
されば一日哀弔を致せる後に、剛健の
心を持ちて、戰歿のわが同僚を埋むべし、
又悲慘なる戰に免れ生を保つもの、 230
彼は酒食を念頭におくべし、かくて將來に、
堅き青銅身に着けて、絶えずも敵の軍勢に、
向ひ戰ふことを得む。我また曰はん、軍中の
誰しも二度の忠言を待ちて留ること勿れ!
われの水師の傍にたぢろぎ留るものあらば、 235
禍ならむ、我軍は寧ろ群り、一齊に
駿馬を御するトロイアの軍に向つて戰はむ。』
224 鹵獲の少きを曰ふか。
しかく陳じて立上る、伴ふものはすぐれたる
ネスト,ルの子ら更に又、ピュリュウスの息メゲースと、
メーリオネース又トアス、クレーオ,ンの子リュコメデ,ス、 240
又伴ふはメラニポス、打ちつれたちて元戎の
陣に入り來る間もあらず、言の如くに行爲は成り、
船より齎らし來るもの、七つの鼎、約の儘、
燦爛として光る釜、其數二十、引き來る
駿馬合せて十二頭、技藝すぐれし七人の 245
女性、つゞいて第八はブリセーイスのやさ姿。
衡にかけてオヂュシュウス、十タランタの黄金を
携へ行けば、アカイアの青年同じく品々を
齎らし來り、集會の席のもなかに之をおく。
アガメムノーン身を起す、其傍に朗々の 250
聲、神に似るタルチビュオス、手に一頭の野猪押ふ。
アートレ,デース、おほいなる劍の鞘の傍に
帶べる短刀引き拔きて、野猪の頭の一總の
粗毛をさくと切り落し、双手を擧げて神明に
祈凝せば、アカイアの衆軍ひとしく聲收め、 255
皆蕭然と元戎に耳傾けて座に並ぶ。
その時、王はおほ空を仰ぎ祈祷を捧げ曰ふ、
243 IX 122 以下參照。
『神明すべての頭たる至上のヂュウス初めとし、
日輪、大地、及びかの世上僞盟の罪惡を
犯せる者に地の底に罰を加ふるエリンニュス、 260
わが證者たれ、妙齡のブリセーイスに我觸れず、
彼と臥床を倶にせず、何らの害も施さず、
わが陣營の中に善く彼女操を保てりと。
此わが盟僞らば、僞盟の者に加ふべき
禍害のすべて悉く神明われに下せかし。』 265
陳じ終りて野猪の首、無慚の刄切り落す、
タルチュビオスはこを取りて、白浪をどるわだつみの、
千仭深き淵めがけ、魚の餌食と抛げ飛ばす。
ついで勇武のアカイアの衆中に曰ふアキリュウス、
『天王ヂュウス、人間に君ははげしき困惑を 270
下す、さなくばわが胸にアガメムノーン、衆の王、
怒りの心起させず、強ひても我に逆らひて、
少女奪はず、正しくも天王先にアカイアの
衆、滅亡の禍を受くるを善しと見たまへり。
さはれ、衆、今、食を取れ、やがて戰鬪初むべし。』 275
しかく陳じてアキリュウスたゞちに集會解きさりぬ。
衆人即ち散じ去り、各々彼の舟に行く。
ミルミドネスの諸勇卒、勉めて種々の寶物を
運びて共に、英剛のアキルリュウスの舟に行き、
これらを彼の陣中におろし、女性を座に着かせ、 280
馬匹を驅りて勇士らはおのが馬群に混ぜしむ。
されどさながら金髮のアプロヂテーに髣髴の、
ブリセーイスは、鋭刄にパトロクロスの裂かれしを、
見て慟哭の聲を揚げ、傍に倒れ手を延して、
胸といみじき首筋と顏貌を痛くかきむしり、 285
神女の姿見る如き麗人悲み泣きて曰ふ、
285 婦人の慟哭 II 700. XI 393.
『パトロクロスよ、優しくもわが心痛を憐みし
君なほ命ありし時、我れ陣營を別れゆき、
今し歸れば衆人の頭領――君はすでに逝く。
斯くして禍難相つゞき我が身を襲ふ、かなしさや! 290
恩愛の父母許したる我の良人、青銅の
刄に裂かれ斃れしを、先には見たり都府の前、
わが慈母生める三人の愛の兄弟、禍の
其日ひとしく薄命の最後とげしを又見たり。
脚神速のアキリュウス我が良人を討ち倒し、 295
ミネースの都市破りたる、其時君はわが泣くを
許さず、我を英剛のアキルリュウスの妻となし、
舟に乘じてプチエーに、歸りてそこに大禮を、
ミルミドネスの族中に擧げんと優にのたまひき。
優にやさしき君の死を我はいかでか泣きやまむ!』 300
287 パトロクロスの優しさ XVII 670.
292 リルネーソス、II 690.
涙流して陳ずれば、傍の女性一同に、
パトロクロスを陽に泣き、心におのが難を泣く。
今アカイアの諸長老アキルリュウスの傍に、
集り食を勸むれば、拒みて慟哭しつゝ曰ふ、
302 XVIII 28―29.
『愛するわれの同僚のいづれかわれの命聽かば、 305
われは願はむ、口腹の好みに因りてわが心
慰むべしと曰ふ勿れ、大哀我の身を襲ふ、
夕陽沈む時まではまだ/\酒食我取らず。』
しかく陳じてアキリュウス、友の諸將を去らしめぬ、
殘るは二人のアトレーダ、及び英武のオヂュシュウス、 310
イドメニュースとネストール、老齡の御者プォイニクス、
これら等しく慟哭の切なる友を慰めぬ。
されども暴るゝ血戰の中に入らずば慰まず、
彼は過ぎしを思ひ出で慟哭しつゝ叫び曰ふ、
310 複數。
『薄命の君、一切の中に至愛のわれの友、 315
駿馬を御するトロイアに、アカイア軍勢悲慘なる
戰鬪はげしく挑みし日、心をこめて迅速に、
わが陣中に豐かなる食を君こそ備へたれ。
而して今は鋭刄にさかれて君は横たはる、
君を悼めば陣中に具へる酒食取ることを 320
わが情とゞむ。君の死に優る災難われ知らず、
妖婦ヘレネー本をなし、異郷の空にトロイアと
戰ふ其子思ひ佗び、プチエーの地に恐らくは
今※然と悲みの涙灑がん、われの父、
その父死すと聞かんとも、ネオプトレモスわが愛兒、 325
スキュロスの地に育てられ、今安からむ秀麗の
彼死したりと聞かんとも、我はかほどに嘆くまじ。
先にひとりの胸中に我の心は念ずらく、
馬の産地のアルゴスを、隔ててこゝにトロイアに、
我只一人斃るべし、されども君はプチエーに 330
歸りて黒き船の上、我が子をかなたスキュロスの
郷より呼びて、彼の目にわが一切の財寶を、
我の有する奴隷らをわが高屋を示せとぞ。
故は、思ふにペーリュウス、其頃既に生命を
またく棄つべし、さもなくば餘命短く老齡は 335
彼を襲ひて惱まして、つねに悲報を期し乍ら、
遂には此身アキリュウス――彼の愛兒の死を聞かむ。』
涙流して陳ずれば、共に等しくもろ/\の
長老おの/\其家に殘せしものを思ひ泣く。
其泣くを見てクロニオーン彼等を痛く憐みつ、 340
たゞちに羽ある言句もてアテーナイエーに向ひいふ、
『あゝわが愛兒、剛勇の男子を汝見棄てたり。
汝の心いさゝかもアキルリュウスを思はずや?
船首眞直の舟のそば、見よ彼坐して亡びたる
その愛友を思ひ泣く。他の同僚はみな去りて 345
その宴席に赴けり、彼たゞひとり酒食斷つ。
汝今行きネクタルと、アムブロシアの芳醺を、
彼の胸裏につぎ入れよ、然らば餓に苦しまじ。』
しかく宣んして、素よりも望める神女呼び起たす。
神女即ち羽廣く聲の鋭き鷲のごと、 350
虚空横切り天上を降る。其時アカイアの
軍勢共に速に其陣中に身を鎧ふ。
神女即ちネクタルとアムブロシヤの芳香を、
アキルリュウスの胸の中注ぎて弱る勿らしめ、
かくて至上の力ある天父の宮に歸り行く。 355
而して軍勢速き舟、離れて岸に擴がりぬ。
虚空に湧けるボレアスのいぶきに吹かれ紛々と、
天より降る雪片の亂れて飛びて舞ふ如く、
かく燦爛と輝ける無數の兜、水陣の
外に搬ばる、浮彫の無數の盾も、青銅を 360
厚く重ねし胸甲も、堅き長柄の大槍も。
其閃光は空を射り、大地は共に青銅の
光のもとに微笑みつ、軍勢進む足もとに
響は起る、其中に、鎧ふ英武のアキリュウス、
(齒ぎしり強く、爛々と光る双眼譬ふれば、 365
炎々燃ゆる火の光、憤怒はげしく迫り來て、
思に耐へず、トロイアの軍に怒りて、神工の
ヘープァイストス鑄造りて贈れるものを身に纒ふ。)
358 XII 156. XV 170. 等參照。
365 365―368 後世の添加としてアレクサンドリヤの學者等の棄てたるもの。
先づ初めには双脛をめぐりて美なる脛甲を、
銀の締金備へたる其脛甲を、其次ぎに、 370
胸のめぐりに堅牢の青銅製の胸よろひ、
肩のめぐりに、細かに銀鋲うちし壯麗の
青銅の劍、之につぎ取る堅牢の大盾の、
光は強く輝きて滿ちたる月を見る如し。
譬へば海に漂へる水夫の眼に、炎々の 375
火焔――あなたの荒凉のほとり、山上燃え上る
光現はれ出づる時、颱風おこり、やむを得ず、
友を離れて魚群るる海上遠く去る如し、
斯く精巧を盡したるアキルリュウスの壯麗の
盾の光は空に入る。而して照りて星に似る 380
堅固の甲取り直し、頭の上にいたゞけば、
上に冠毛搖めける、其黄金の冠毛は、
ヘープァイストス甲頂のめぐりに厚く着けしもの。
その時猛きアキリュウス武具善く彼に適するや、
剛き肢節はしなやかに、動くやいかに檢すれば、 385
さながら羽翼生ゆるごとわが勇將を躍らしむ。
つゞきて彼は其父の傳へし槍を架臺より
拔き取る、重き堅牢の大槍――外のアカイアの
誰しも揮ひ得べからず。揮ふはひとりアキリュウス。
彼の父にとケーローン與へたるもの、諸勇士を 390
討たんが爲にペーリオン山に其柄を切りし者。
オートメドーンとアルキモス次に軛に戰馬附け、
其胸めぐり、革帶を美々しく纒ひ、轡を
しかと噛ましめ、堅牢に組める車臺に、其手綱
きびしく結び、乘り入るる戰車に立ちて、手の中に 395
オートメドーンは輝ける使ひ馴れたる鞭を取る。
彼のうしろにアキリュウス、纒ふ鎧に輝きて、
ヒュペリオーンの燦爛の姿の如く立ち上り、
父乘り馴れし駿足にもの凄じく叫び曰ふ、
388 XVI 142.
392 XVI 197 アルキメドーンを縮めし名。
『あゝポダルゲー生むところ、しるき譽のクサントス、 400
及びバリオス心せよ、わが戰をやめん後、
ダナオイ陣に安らかに騎乘のわれを引き返せ、
パトロクロスを見る如く戰死の我を捨てなせそ。』
その時疾風の足はやきクサントス只愁然と、
軛によりて首を垂れ、軛の輪より垂れさがる 405
鬣長く地に觸れて、答へて彼に陳じいふ、
(玉腕白きヘーレーの神女言葉を彼に貸す)
『あゝ英剛のアキリュウス、我今君を救ふべし、
さはれ大難近づけり、責あるものは我ならず、
あるおほいなる神及びつらき運命然らしむ。 410
わが怠慢と遲緩とによりてトロイア軍勢は、
パトロクロスの肩よりし彼の武裝を剥がざりき。
※毛美なるレートーの生める一位の高き神、
先鋒中に彼を討ち、將ヘクト,ルの名を成せり。
神速無比と人の曰ふゼプュロスの息もろともに、 415
速く翔けむはわが願。さはれ運命君が身に
既に定まる、あゝ君は神と人との手に死なむ』
410 アポローンを暗に指す。
413 即ちアポローン。
417 神はアポローン、人はアレクサンドロス。
陳じ終れば其聲をエリンニュエスはおし留む。
脚神速のアキリュウス痛く怒りて彼に曰ふ、
『あゝクサントス、あらかじめ、など死を告ぐる? 益も無し。 420
我善く知んぬ、恩愛の父と母より遠ざかり、
こゝに死すべき運命を、――さはれ飽く迄戰ひて、
トロイア軍を破るべき其時迄は留らず。』
しかく叫びて先鋒に單蹄の馬驅り進む。
418 IX 454 參考、自然の秩序を護る者。
第二十歌
ヂュウス令を下して諸神を集め、各々其欲するまゝトロイア或はアカイアの軍を助けしむ。 雷鳴り地震ひ、冥王も地底に畏れ震ふ。 アポローンはアイネーアースを勵ましてアキリュウスに向はしむ。 兩將の相互威嚇の言句。 アイネーアース父祖の系圖を説く。 兩將の激戰。 アイネーアース敗れて退きポセードーンに救はる。 ヘクトールつづきてアキリュウスに向はんとするをアポローン押し止む。 アキリュウス前後つづきてトロイア諸將を斃す。 ヘクトール再び進んでアキリュウスに向ひ敗れて退く。 アキリュウス單騎進んで敵軍を破る。
戰鬪飽かぬ剛勇のアキルリュウスをたゞ中に、
アカイア軍は曲頸の舟のかたへに陣を布き、
かなたトロイア軍勢は對して高き原上に。
その時ヂュウス連峯のウーリュンポスの高きより、
テミスに命じ群神を衆議の席に呼び集む、 5
神女四方をかけ※り衆をヂュウスの宮に呼ぶ。
オーケアノスを別にして川の諸神は悉く、
蔭美はしき深林と、清き泉と、草青き
野を、逍遙の一切の仙女もろとも集ひ來つ、
雷雲よする天王の宮殿の中進み入り、 10
ヘープァイストス優秀のたくみによりて彼の父、
ヂュウスの爲めに造りたる※廊の中、座に着けり。
かく天王の宮の中、群神よれば、ポセードーン、
地を震ふもの彼も亦神女の命に隨ひて、
波浪を出でゝ來り坐し、ヂュウスの神意問ひて曰ふ、 15
5 XV 87.
11 I 607.
『あゝ轟雷を飛ばす君、など又神の集りぞ?
トロイア及びアカイアに關し何らの計らひか?
二軍の間、戰鬪と抗爭痛く迫り來ぬ。』
雷雲よするクロニオーン即ち答へて彼に曰ふ、
『大地ゆるもの、汝わが胸の計らひ、群神の 20
集る故を悟るべし。その滅亡の際に猶ほ、
我人界の子を思ふ、されどもこゝに座を占めて、
ウーリュンポスの高きより眺めて心樂しめり。
されば汝等意の儘に、トロイア或はアカイアの
陣に進みて、孰にか汝の威勢貸し添へよ。 25
ペーレーデース、トロイアに一人向ひて戰はゞ、
脚神速の勇將を暫しも防ぐものあらじ。
先には彼を見しばかり猶全軍は動搖めきぬ、
彼れ愛友を失ひて痛恨胸をみたす時、
運命とゞめ遮るもイリオン城を崩すべし。』 30
26 神々の干渉なくばの意。
しかく宣んしてクロニオーン烈しき軍起さしむ。
群神即ち意のまゝにおの/\戰場さして行く。
アカイア軍の兵船にゆくはヘーレー、アテーネー、
同じく共にポセードーン、大地を※り振ふもの、
巧みの智計身を飾り奉仕勉むるヘルメ,アス、 35
更に彼らと共に行く、ヘープァイストス、英剛の
氣を負へるもの、蹌踉と跛行の脚を曳きて行く。
トロイア勢に向へるは頭甲光るアレースと、
鬢毛長きアポローン、射弓を好むアルテミス、
レートー及びクサントス、嬌笑好むアプロヂテー。 40
是まで諸神人界に係はりなくて遠のける
時しも、アカイア軍勢は其アキリュウス、戰鬪の
勞より長く休らひて出でしが故に勇みたち、
しかしてトロイア軍勢は脚神速のアキリュウス、
身に燦爛の鎧つけ、猛勇恰もアレースに 45
髣髴として出づるを見、四肢わななかし畏れたり。
今オリュンポス山上の群神來り、人界に
加はる時に煽動のエリスあらびて立ちあがる。
見よ、壁の外、塹濠の傍、或は※※と
波うつ岸に、大聲に叫ぶは神女アテーネー。 50
かなた都城のかしらより、時にシモエイス川に添ふ
カリコロネーを驅けながら、トロイア軍に雄たけぶは、
猛きアレース、咆哮の烈風暴るゝにさも似たり。
かく天上の群神は二軍の兵をはげまして、
戰はしめつ、おのれ又等しく猛く戰へり。 55
群神及び人間の父なるヂュウス・クロニオーン、
上に烈しく雷おこし、下には共にポセードーン、
大地山嶽ゆるがしめ、かくて泉流豐かなる
イデーの山の麓より、トロイア都城丘陵と、
アカイア軍の兵船と、皆一齊にゆらめきぬ。 60
而して冥府司るアイドーニュウス地の底に、
恐怖に打たれ王座より、たちて叫喚く聲高し、
大地震はすポセードーン、大地を發き、慘憺の
冥府の姿――神さへも恐るゝものを、人間と
神との前にあらはすを患ひ叫喚く聲高し。 64
かくて群神戰鬪の暴び起せば、比類なき
巨大の響き湧き起り、ポセードーンに逆ひて、
鋭き飛箭携へて立つはプォイボス、アポローン、
アレース武神に向へるは、藍光の目のアテーネー、
ヘーレーめがけ向へるは、飛箭鋭きアポロ,ンの 70
妹にして黄金の弓を手にとるアルテミス、
レートーめがけ迎へるは強き應護のヘルメアス、
ヘープァイストスに向へるは、淵を湛ふる川の神、
天上の名はクサントス、スカマンダロスと人は呼ぶ。
61 アイデース(詩的延長)。
かく天上の諸の神挑み合ふ、こなたには、 75
プリアミデース・ヘクト,ルを一人めざしてアキリュウス、
心の聲の命により、彼を斃して鮮血を
神アレースに捧ぐべく、亂軍中に進み入る。
されどプォイボス・アポローン、アイネーアースを勵まして、
アキルリウスにむかふべく彼に勇氣を注ぎ入る、 80
即ち神はリカオーン・プリアミデースの聲を眞似ぬ、
斯くてアポローン、ヂュウスの子、彼に向ひて陳んじ曰ふ、
75―352 アイネーアースとアキリュウスの戰、――此枝話は本來の原詩以外のものにして行文も着想も宜しからず、後世の※入なりとリーフは曰ふ。しかもリーフは 164 以下の比喩をホメーロス詩中の獅子談中最も完全なるものと讚す。
81 III 333.
『トロイア軍の參謀のアイネーアース、先きつ頃、
盃擧げてトロイアの諸將に誇り、アキリュウス・
ペーレーデースに向くべしと大言吐けり、今いかに?』 85
アイネーアース其時に答へて彼に陳じ曰ふ、
『プリアミデーよ、勇猛のペーレーデース・アキリュウス、
これと戰ひ好まざる我に何とて強ひて説く?
脚神速のアキリュウス、彼に始めてけふ此日
向ふにあらず、むかし彼わが牛羊の群襲ひ、 90
リルネーソスとペーダソス荒したる時イデーより、
槍をふるひて我を攻め我を敗りぬ、クロニオーン
其時我の身を救ひ、四肢と勇とをはげましぬ。
さなくば彼の手に死なむ、彼を助けしアテーネー、
彼を導き戰捷の譽を與へ、青銅の 95
槍をふるひてトロイアとレレゲスの民撃たしめき。
人界の子の何者かアキルリュウスに敵し得む!
とある神明傍に彼の禍拂ひ捨つ、
而して更に彼の槍、ますぐに飛びて敵人の
身を刺さずんば留まらず、若し平等に戰鬪の 100
運を頒たん神あらば、容易くわれは敗るまじ、
一身すべて青銅と彼誇るとも效あらじ。』
ヂュウスの神子アポローン即ち答へて彼に曰ふ、
『勇士よ汝亦起ちて、祈を高き神靈に
捧げよ、汝を生みたるはアプロヂ,テーと人は曰ふ、 105
アキルリュウスを生みし神、位は彼の下にあり、
汝の母はヂュウスの子、彼のは老いし海神の
子なり、進みて青銅の鋭き槍をくり出せ。
彼の威喝に欺かれ恐れて引きて可ならむや!』
しかく陳じて統率の將に猛威をふき込めば、 110
光る青銅よろほひて先鋒すぎて進み行く、
かくアキリュウス目ざしつゝ、戰士の群を驅け拔くる
アンキーセースの勇武の子、これを認めし玉腕の
ヘーレー乃ち友を呼び、之に向ひて宣んし曰ふ、
『ポセードーン又アテーネー、事の成行きいかならむ? 115
汝等二神おの/\の胸にこの事思ひ見よ、
アキルリュウスを目がけつゝ、光る青銅の甲着て、
アイネーアース進み來ぬ、アポローン彼を勵ませり。
何かはあらむ、今彼を其陣中に返すべし、
或は誰か其側にたちて威力の激しきを、 120
ペーレーデースの身に與へ、勇氣外より優れしめ、
かくて悟れる彼をして「偉なる神靈身をまもる、
先にトロイア軍勢に力を貸して戰鬪と
混亂の難外らしたる神は劣る」と知らしめむ。
ウーリュンポスの高きより下り戰ふわが望み、 125
今日アキリュウス敵陣の中に禍なきをこそ、
神母勇士を生みし時、運命既に定めたる
その一切はアキリュウス後に必ず身に受けむ。
神明の聲この事を彼に告げずば、敵對の
神を見ん時、勇猛の彼も恐れむ、神靈の 130
姿あらはしいづる時、人間の目は耐へがたし。』
大地を震ふポセードーン彼に答へてん宣んし曰ふ、
『ヘーレー、さまで理を離れ怒るをやめよ、君に似ず。
我らの力優るとて諸神互に相對し、
互に戰ひ挑み合ふ、そはわが好むことならず、 135
寧ろこゝより立ち離れ行き高山の上に座し、
休みてひとり戰を人界の子にゆだぬべし。
たゞ若しアレース、アポローン戰鬪中に身を投じ、
アキルリュウスを妨げて其たゝかひを留めんか、
即ちすぐに戰のあらび彼等を取り卷かむ、 140
して運命の定めより我が勇猛の威に負けて、
彼ら敗れて速かにウーリュンポスの頂きに、
退き返し他の神の群集中に加はらむ。』
しかく陳じて先に立ち、みどりの髮のポセードーン、
英雄ヘーラクレースの廣き壘壁さしてくる、 145
(高き壘壁、彼がためトロイア人とアテーネー、
築きたるもの、波洗ふ岸を離れて原上に。
海の妖怪追ひ來る、其時潛む場として。)
こゝに來りてポセードーン他の神明と共に坐し、
双の肩のへ雲深くおほひつゝみて見えわかず、 150
かなたに別に銀弓のアポローン、及び都市破る
アレースのそば、一隊はカリコロネーの山に坐す。
斯くて兩陣立ち分れ、計略凝し座につきて、
まだ戰鬪の烈しさに進むを避けつためらへり。
されどもヂュウス・クロニオーン高きにありて令下す。 155
今や平野は一面に戰士戰馬に充ち滿ちて、
青銅光り、兩軍のひとしく進む脚の下、
大地とゞろく、そが中に他より優れし二勇將、
戰鬪猛く志し、時を同じく驅けいづる、
アンキーセスの子、勇猛のアイネーアースとアキリュウス。 160
アイネーアース眞先に大喝なして進み出で、
その堅牢の甲の上、冠毛すごく振り立てつ、
大盾、胸の前につけ手に青銅の槍揮ふ。
しかして英武のアキリュウス、猛威さながら獅子王の
荒るゝが如く向ひ來る、獅子は全村こぞり來て、 165
打たんとするも悠然と衆を侮り道を行く、
されども勇む若人が槍を飛ばして當つる時、
憤然として物凄く口を開きて泡を噛み、
猛然として奮迅の威勢はげしく吠え叫び、
左右に強き尾を振りて脇と腰とを打拂ひ、 170
群がる衆を眞向に跳りかゝりて打たんとし、
双眼燃えて火の如く、狂へる如く進み來て、
敵を屠るや、前列の中に斃るや顧みず、
正しく斯くもアキリュウス、凛然として勇を鼓し、
敵の猛將トロイアのアイネーアースめざし行く。 175
二人の勇士近よりて互に向ひ立てる時、
脚神速のアキリュウス飛揚の言句先づ陳ず、
『アイネーア,スよ、斯く遠く隊を離れて進み來て、
我に向ふは何故ぞ? 王プリアモス見る如く、
馬群率ゐるトロイアの族の統率、念として、 180
汝來りて戰ふや? さもあれ汝勝てりとも、
王プリアモス其爲に汝に主權與ふまじ、
子ら彼にあり、彼の意は堅し、謹愼又深し、
或は我を亡さばトロイア人は賞として、
果園と耕土――すぐれたる沃地汝のために割き、 185
與ふることを念とすや? 思ふに汝得べからず。
先きには我の鋭槍を恐れて汝逃げさりき、
思ひ出でずや、その昔イデーの山に群牛を
汝ひとりに牧ひし時、我速かに逐ひたるを?
跡見返らず飛ぶ如く汝逃足速かりき、 190
リルネーソスに逃げ走る汝を逐ふて其都城、
ヂュウス並にアテーネー助くる故に陷れ、
中にこもれる女性らを囚へ、自由を剥ぎ取りき、
されどヂュウスと諸の神明汝を救ひたり。
今は汝の望むまゝ神の助は來るまじ、 195
我は汝に今命ず、こゝ退きて隊列の
中に加はれ、又われに向ひ戰ふこと勿れ、
禍來るを待つ勿れ、事成る後に愚者は知る。』
アイネーアース其時に答へて彼に叫び曰ふ、
『ペーレーデース、言句もて、さながら小兒見る如く、 200
われを嚇す事勿れ、汝は之を望み得ず、
我また罵辱嘲弄の言句を陳ぶることを得ん。
生死の運の人間のいにしへ述べし言により、
我と汝と諸共に系統並に親を知る、
汝は我の親を見ず、我も汝の親を見ず。 205
世人はいへり、汝かの譽の勇士ペーリュウス、
又鬢毛の美はしき神女テチスを親とすと、
而して我は英雄のアンキーセースを父とすと
曰はる、又曰ふ、わが母はウーリュンポスのアプロヂテー。
その神明のいづれかは其恩愛の子を此日、 210
失ふべきぞ、空言を費す後に相別れ、
双方共に戰場を退くことはよもあらじ。
汝好まば我の今述ぶる處を耳にして、
わが系統を學び知れ、衆のひとしく聞く處、
雷雲寄するクロニオーン眞先にうめるダルダノス、 215
ダルダニエーを打ち建てぬ。其時聖きイーリオス、
言鮮けき人の都市、未だ平野に立たざりき、
泉流多きイデー山、麓に民は集りき、
其ダルダノス生みたるはエリクトニオス、王として
生死の運の人間の中に最も富みし者、 220
彼の領する沼澤の地に草はめる三千の
牝馬は、嬉々と喜びてめづる仔馬を伴へり。
草喰む牝馬、其中のあるもの慕ふボレェース、
鬣黒き馬の形現じて之と交はれり、
種を宿せる牝馬らは遂に子を生む十二頭、 225
※を産する豐沃の地上をこれら躍るとき、
熟りし麥の頂の高きを飛びて傷けず、
或は彼ら海洋の潮の上に躍る時、
白く碎くる激浪のかしらを凌ぎ飛びこせり。
エリクトニオス生める息、トローオス、彼れトロイアを 230
治めて之が王となり、生みたる三兒皆勝る、
アッサラコスとイーロスと、更に容貌神に似る
ガニュメーデース、人界の中に最も美なるもの、
その秀麗の故により、長く天上住まふべく、
諸神は彼を伴れ去りて酒をヂュウスに捧げしむ。 235
はたイーロスの生みたるはラーオメドーン、すぐれし子、
ラムポス及びクリチオス、更に勇武のヒケタオーン。
アッサラコスの子はカピュス、アンキーセースはカピュスの子、
アンキーセース我を生み、プリアモス王、ヘクト,ルを 240
生めり。種族と血統は、我の誇りとするところ。
クロニーオーン一切の主たるが故に意の儘に、
時には人に力添へ、時に或はそを減ず。
さあれ敵對混戰のもなかにありて、斯る事
喃々するも愚かなり、小兒の如し、はや止めむ。 245
罵辱の言を述ぶること我も汝も難からじ、
其量多く百の橈こぐ大船に餘るべし。
人間の舌滑かに、中にあらゆる言説を
含む、言語のおほいなる領は隨處に眺むべし。
汝の口に曰ふところ、汝は他より耳にせむ。 250
さあれ汝と我と今かゝる言語の爭を、
交はして何の效あらむ、女性を見るに似たるべし、
心惱ます爭論に怒る女性は足進め、
道の眞中に相向ひ、憤怒の情に驅らるれば、
まことの事も僞も喃々しつつ他を咎む。 255
青銅採りて目のあたり戰ふ前に脅喝の、
言葉を以て汝わが勇を攘ふを得べからず、
いざ速に槍揮ひ互に技倆試めし見む。』
215 ダルダノスに關して古の史家詩人らの曰ふところ互に相違あり。
216 後世の詩人中ダルダニエーとイーリオスとを同一視するものあり。
219 ダルダノス―エリクトニオス┐
┌―――――――――――――――┘
│ ├ガニュメーデース
│ ├アッサラコス―カピ
└トローオス┤ュス――アンキーセ
│ース―アイネーアー
│ス
├イーロス―ラーオメ
│ドーン(236)
223 風の神。此らの馬の系統については XVI 149 參照。
236 イーロス―ラーオメドーン┐
┌――――――――――――――┘
├ヒケタオーン
├クリュチオス
├ランポス
├プリアモス―ヘクトール
├チトーノス
244 XIII 293 參照。
246 246―255 十行は恐らく後世の添加。
しかく陳じて、恐るべき盾をめがけて、堅牢の
槍を飛ばせば、其穗先其大盾に鳴りひゞく。 260
さすがに震ふアキリュウス、其剛健の腕のして、
前に大盾突きいだす、蓋し思へり勇猛の
アイネーアース投げし槍、容易く盾を穿たんと、
神靈惠む精巧の武器は生死の人の子の
力に因りて挫かれず、絶えて敗るゝ事なきを、 265
愚かに彼は胸の中、心の中に悟り得ず。
アイネーアース勇將の影長く曳く大槍は、
盾を破らず、其二層穿てどあとに三層は
殘る、譽れの神工は五層重ねて鍛へあぐ、
表にあるは青銅の二層、裏には錫二層、 270
その中央の黄金の一層、さすが猛將の
抛げし鋭き其槍の力を防ぎ留めたり。
268 盾は五層の皮革より成る、金屬は外面の飾のみ、要するに此數行は全く盾を誤解するもの、―後世の添加なること疑なし、リーフの註解詳悉に説明す。
次いで英武のアキリュウス、影長く曳く槍飛ばし、
アイネーアース持てる盾、圓き大盾うちあつる、
あつるは盾のはしのへり、青銅薄く掩はれて、 275
更に其上又薄き牛皮掩ふを、ペーリオン
山に伐りたる大槍は貫き、盾は高鳴りぬ。
アイネーアース恐ぢ怖ひ、其身を屈め腕を延し、
身よりはなして盾支ふ、其身を護る圓盾の、
二層を通し貫ける槍は彼の背うちこして、 280
大地に刺さる、鋭刄をアイネーアース免れ得て、
立ち停りつゝ、おほいなる憂愁、双の眼を滿たし、
傍に槍の立つを見て恐る、直ちにアキリュウス、
勇氣激しく物凄く、大喝しつゝ劔を拔き、
走りて彼に打ちかゝる、アイネーアース其時に、 285
巨大の石を――今の世に二人揃ひて揚げがたき
巨大の石を、やす/\と手に取り之を打振りぬ。
進み來れる敵將の甲、或は先に死を
防ぎし盾を、雄將は石を投じて打たんとし、
アキルリュウスは劔をもて敵の息の根とめんとす。 290
その時地を搖るポセードーン早くも之を認め得つ、
たゞちに不死の神明の群に向ひて宣んし曰ふ、
276 XVI 143.
291 ポセードーンは先にはトロイアに敵する神、今アイネーアースに同情す、アポローンに對する反感より、又運命の欲するところを成さしめんために。
『あゝわが憂ひ――剛勇のアイネーアース速に、
アキルリュウスに破られて、冥王の府に降るべし、
愚かなるかな、矢を飛ばす神アポローンに彼れ聞けり、 295
而して神は亡滅の禍救ふこと無けむ。
無慘なるかな、罪なくて唯に他人の罪のため、
など彼れ禍難受くべきや? 見よ、彼つねにおほいなる
天上住める神明に、すぐれし牲を供ふるを。
いざ今行きて死滅より彼を救はむ、アキリュウス、 300
彼を倒さば恐くはクロニデースは怒るべし、
見よ、運命の定めあり、彼は死滅を免れむ――
生死の運の女性らに、うませし彼の一切の
子らに優りて、クロニオーン愛するところ、ダルダノス、
其裔かくて血統を斷ちて亡ぶること無けむ。 305
クロニオーンは今すでにプリアモス王の族憎む、
アイネーアース勇にしてトロイア族を治むべし、
彼らの子孫、引きつゞき生れんものも治むべし。』
306 トロイア軍が盟を破りたるためか、されど IV 44 以下ヂュースはトロイア族を憎まず。
307 此豫言は所謂「ホメーロスの讃歌」中アプロヂーテーの讃 197以下にものべらる。
ヰルギリウスのアイネード III 94―98 にも。
その時牛王の眼をもてるヘーレー答へて彼に曰ふ、
『大地を震ふ汝、今、心に思へ、危難より、 310
アイネーアース救ふやを、或は勇將棄て去りて、
アキルリュウスの手に打たれ亡ぶるまゝに任かすやを。
我れ藍光の眼光るアテーナイエーもろともに、
不滅の神の群の前、誓しば/\宣んしたり、
トロイア族の禍を逃るを絶えて許さずと、 315
勢猛きアカイアの子ら其都市を燒きたてて、
トロイア全部炎々の猛火のために滅ぶ時。』
大地を震ふポセードーン其言きゝて立ち上り、
戰場あとに槍刄の響をあとに進み行き、
アイナイアース、アキリュウス二將の立てる場に着く。 320
而してすぐにアキリュウス、ペーレーデースの目の前に、
神は雲霧を捲き散らし、アイネーアース勇將の
盾より敵の青銅の穗先鋭き槍を拔く、
アキルリュウスの足の前、拔きたる槍を神はおき、
アイネーア,スを大地より空のへ高く引上ぐる。 325
斯くして神の手によりて、アイネーアース、もろ/\の
勇士の列を、もろ/\の戰馬の列を飛びこして、
戰鬪はげしくあれ狂ふ場のこなたのはしに着く、
コウコーネスの諸軍勢そこに戰裝整へり。
大地を震ふポセードーン、彼のかたへに近づきて、 330
乃ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
323 281と矛盾す。
329 X 428 此民族は第二歌のトロイア應援軍中に無し。
『あゝアイネーア、神明の誰ぞ、汝を欺きて、
アキルリュウスに向かしめし? 剛勇無雙アキリュウス、
遠く汝を凌ぎ得て、神の恩寵また優る。
彼に再び逢はん時、避けて退け、然らずば、 335
その定命に先んじて汝冥王の許行かむ。
而して他日アキリュウス、死と運命に逢はん時、
其時汝安んじて先鋒中に驅け得べし、
アカイア軍の何人も汝を殺し得ざる故。』
336 上文 302 參照。
しかく一切明かに陳じて彼を離れ行き、 340
直ちに次に暗雲をアキルリュウスの眼より去る。
暗雲散じ、アキリュウス其眼をあげて眺め見て、
大息なして豪勇の心に向ひ陳じいふ、
『あゝわが双の眼に寫る此れそも何の奇怪ぞや!
わが槍こゝに横はる、而して一命絶たんとし、 345
此鋭刄を飛ばしたる當の敵今あとも無し。
アイネーアース、彼も亦、同じく不死の神明の
愛兒、さもあれ、我思ふ、彼の誇は空語のみ。
彼は逃げたり、胸の中、再びわれに敵すべき
念はあるまじ、今正に死を免れて喜べり。 350
いざ戰鬪を喜べるアカイア族に令下し、
他のトロイアの軍勢に向ひて之と戰はむ。』
しかく陳じて陣中に進みて衆に叫び曰ふ、
『あゝ、豪勇のアカイオイ、トロイア軍を離るゝな、
おの/\敵に相對し、鬪志はげしく振り起せ、 355
われの勇氣は大なれど、かゝる衆軍追攘ひ、
其一切を敵として戰ふことは易からず、
不死の神たるアレースも、はたアテーネー、彼も亦、
かゝる苦戰の難局をいかに勵むも凌ぎ得じ、
さはれわれ能く爲す限り、わが手わが脚わが勇を 360
奮はん、われは一寸も敢て弛むること無けむ。
われ敵軍を貫かむ、トロイア軍の中にして、
わが鋭槍に近づきて喜ぶものはよもあらじ。』
しかく陳じて衆軍を警しむ、こなたヘクトール、
アキルリュウスに自らの向ふを宣し叫び曰ふ、 365