イーリアス

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

導く我を侮りて君と戰ふ者無けむ。』

ヘルメーアスは然か陳じ、兵車と馬に飛びのりて、 440

其手の中に速に鞭を握りて手綱取り、

而して騾馬と駿馬とに強き威力を吹きこみぬ。

かくして彼ら水陣の壘壁及び塹濠に

着ける其時、守兵らはすでに食事を爲し了へぬ、

其目に眼注ぎたる使アルゲープォンテース、 445

つゞきて直ぐに門開き、其貫木を引き拔きて、

プリアモス王また寶、車乘のままに引き入れつ。

やがてつゞきてアキリュウス宿る屋高き陣に入る。

ミルミドネスが王のため巨木の幹を切り倒し、

築きて上に、沼澤に刈りて集めし柔き 450

蘆荻を以て屋を葺ける其陣營に忍び入る。

部下は又その王のため廣庭設け、其※り

繁く並べて杙を植う、而して樅の閂は

關門閉ざす、閉ざすとき三人の力要すべし、

このおほいなる閂を拔き去る時も亦同じ、 455

されどもたゞに一人にてアキルリュウスはこを善くす。

その時老いし王のため、ヘルメーアスは門開き、

アキルリュウスの側近く貴重の寶齎らしつ、

馬よりやがて地の上に降りて彼に陳じ曰ふ、

『叟よ、我こそ不死の神、ヘルメーアスぞ、來れるは。 460

クロニオーンの命によりわれは汝を導けり。

我今あとに返すべし、アキルリュウスの眼の前に

われは行くまじ、天上の不滅の神が明かに、

かく人間を愛づること蓋し善きには非らむ。

いざ今汝中に入り、アキルリュウスの膝抱き、 465

彼の父また鬢毛の美なる母、また彼の子の

名を呼び彼に訴へよ、彼の心は動くべし。』

しかく陳じておほいなるウーリュンポスをめざしつゝ、

ヘルメーアスは立ち去りぬ。其時地上に車より

プリアモス王おりたちて老イダイオス殘しつゝ、 470

騾馬と駿馬を守らしめ、自らすぐにアキリュウス――

クロニオーンのめづる者、住める處に進み來つ、

彼を見出しぬ、其部衆離れて坐して、たゞ二人、

オートメドーンとアレースのめづる豪雄アルキモス、

かたへに侍せり、彼は今酒食具へし杯盤を 475

離れしばかり、食卓は退けられずしてそこにあり。

王プリアモス部下の目を逃れて側により來り、

アキルリュウスの膝を手に抱きて、彼のもろ/\の

子らを屠りし無慚なる、恐るべき手に口を觸る。

故郷に於ける殺人の罪ありし者『運命』に、 480

追ひ拂はれて他の國に來り、富豪の家の中、

身を現はせば之を見て衆は茫然愕かむ、

かくの如くにアキリュウス敵王を見て愕けり、

二人の侍者も愕きて互に目と目見合しぬ。

474 XIX 392.

王プリアモス其時に哀告しつゝ陳じ曰ふ、 485

『あゝ神に似るアキリュウス、汝の父を思出でよ、

我と同じく老齡の悲慘の門に彼も立つ、

恐らく彼を圍む者彼に逼りて苦しめむ、

而して死より苦鬪より救はむ者はあらざらむ、

されども彼は其愛兒汝生けると聞き知りて 490

その胸中に喜ばむ、而して更にトロイアを

あとに歸らん汝待ち日々に希望を抱くべし。

さもあれ我は不幸なり、トロイア城にすぐれたる

多くの子らを生みたるも、今一人もながらへず、

アカイア勢の寄せし時わが子はすべて五十人、 495

中の十九はわが妻の一つ胎より生れ出で、

殘るすべては宮中に侍女らわが爲生みいでぬ。

彼らの多數アレースの爲に打たれて亡び去る。

而して我の最愛の彼、――一切をイ,リオンを

防げる彼は―國のため奮へる彼は―ヘクト,ルは、 500

遂に汝の手に斃る。彼を贖ひ返すべく、

無量の寶携へてわれアカイアの船を訪ふ。

あゝアキリュウス、神明をかしこめ、我に憐みを

垂れよ、汝の父思へ、われは最も不幸の身、

地上に住める何人も享けざる非運われは享け、 505

愛兒屠れる敵の手にわが唇を觸れんとす。』

495 王の諸の子息の館につきて VI 224 以下參照。王の寵妃中、名をホメーロスの詩中に現はすものはカスチアネーラ VIII 305 とラーオトエー XXI 85.

しかく陳じて其父を痛む思念を起さしむ。

其時王に穩かに手を觸れ彼をおしのけて、

此と彼とは共に泣く、彼は勇將ヘクト,ルを、

アキルリュウスの足許に轉げ※りて思ひ出で、 510

激しく泣けば、アキリュウス・ペーレーデースは父のため、

パトロクロスの爲に泣き、哀慟高く屋にひゞく。

其哀慟を盡したるペーレーデース・アキリュウス、

(胸より身より哀悼の思の散じ行ける時、)

たゞちに坐より立ち上がり、手に老王を引き起し、 515

眞白き彼の頭又眞白き髯を憐みて、

即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、

514 此一行無用、後世の添加と古來批評家が曰ふ。

『あゝ君、誠に不幸なり、受けし災難いくばくぞ!

多くの子らを勇將を屠れる我の眼のあたり、

アカイア軍の水陣に、君いかにして來訪の 520

強き決意を爲し得たる? 君の心は鐵なりき。

いざ身を起し席に着け、苦惱誠にはげしとも、

悲哀を共に胸中に君も我身も靜むべし、

何らの益も慟哭の激しき中にあらざれば。

蓋し神明かくの如、苦難の生を送るべく、 525

われら不幸の人間に命ぜり、神は愁なし。

二つの壺はクロニオーン、ヂュウスの門におかれあり、

一は福を他は難を充たす、ヂュウスが人間に

與ふるところ、――雷霆の神こを混じ與ふれば、

人は時には禍に時には福に出で合はむ。 530

禍のみを受くる者ただ凌辱に暴されむ、

つらき『飢饉』は神聖の大地の上に彼逐はむ、

神と人とに侮られ彼は四方に彷徨はむ。

かく神明はペ,リュウスに誕生以來勝れたる

惠與へき、かくありて彼は裕かに幸多く、 535

あらゆる人に立ち優り、ミルミドネスの首領たり。

而して神は人間の彼に神女を娶らしむ、

されど他の神、禍を彼に加へり、彼の後、

其宮中に君臨の子孫は絶えてあらざらむ。

その唯一の子たる我、若く逝くべく、老齡の 540

彼にかしづくことを得ず、故郷を去りてトロイアに

來り汝を子息らを我はかく迄惱せり。

叟よ、汝もいにしへは幸なりしよし我ら聞く、

王のマカルの領したる、海のかなたのレスボスの

全嶋、並にフリュギエー、ヘレースポントス悉く 545

子らの力に富により汝統べりと我ら聞く。

されど天上すめる神、其後災降らしめ、

かくて都城に殺戮と戰爭つねに絶ゆるなし。

忍べ、果なく胸中に悲み嘆くこと勿れ、

愛兒を如何に悲むも何らの益もあらざらむ、 550

彼を再び生かし得ず、其前外の難あらむ。』

528 プラトーンのポリタイア(レパブリカ)II 379 參照。ピンダロスのピヂアンオーヅ(ピュチオニカイ)III 146 には福の壺一、禍の壺二つとあり、後の詩人が歌へるパンドーラの箱の觀念はこゝらより來るならむ。

543 XVIII 288 以下參照。

神の姿のプリアモス答へて彼に陳じ曰ふ、

『葬られずにヘクトール、陣營の中伏せる間は、

神の寵兒よ、我をまだ座に着かしむること勿れ、

急ぎて彼を引き渡せ、わが眼親しく之を見む、 555

わが齎せる賠償の多くの寶身に受けて、

汝故郷に歸れかし、而して我に生らへて、

光り耀く日輪の姿を見るを得せしめよ。』

足疾くはしるアキリュウス睨めて彼に陳じ曰ふ、

『叟よ、此上怒らすな、我は汝にヘクト,ルを

引き渡すべし、海洋の老いたる神のうむところ、

わが母テチス神明をうけて使しわれに來ぬ、

而して叟よ心中に我は悟れり、明らかに、

わがアカイアの水軍にある神汝導けり。

いかに若きも人間はわが陣營を犯し得ず、 565

われの守衞の嚴重の目を遁れ得ず、おほいなる

わが關門の閂を容易く拔くを得べからず。

されば此上哀痛に沈めるわれの此心

激する勿れ、哀告の汝を我は陣營の

中に許さで神明の命に背かん恐れあり。』 570

しか陳ずればプリアモス恐れて命に從へり。

ペーレーデース門さして獅子の如くに飛び出す、

身一人ならず彼と共二人の部將また續く、

オートメドーンとアルキモス――部衆の中に將軍は、

パトロクロスの逝ける後二人を特に崇べり。 575

騾馬と駿馬を軛より二人はやがて解き放し、

老いたる王の傳令の使を内に導きて、

席に着かしめ、而うして將ヘクト,ルのなきがらに

代る無數の財寶を、車の外に取り出し、

獨り二枚の上衣また他に精巧の一枚の 580

下衣を殘し、歸る時屍體をこれに掩はしむ。

アキルリュウスは老王の見ざる處になきがらを

齎らし、侍婢に命下し洗ひて香油まみらしむ。

屍體を見なば老王は悲嘆のあまり其怒

はげしく爲に敵將を激せん、かくてアキリュウス、 585

彼を殺して天王の命に背くを免れじ。

かくて侍婢らは屍を洗ひ香油をまみらして、

下衣並に華麗なる上衣を之に着せし後、

アキルリュウスは床のへに手づから之をかきのせつ、

やがて部將はこを擔ひ琢ける馬車の上に載す。 590

將軍やがて聲をあげ呻きて友の靈に呼ぶ。

『パトロクロスよ、ヘク,トルを父老王に渡せるを、

冥府にありて聞かんとき我に怒をなす勿れ、

彼の齎らす賠償はふさはしからぬ者ならず、

汝に對しふさはしき分を我又配るべし。』 595

しかく陳じてアキリュウスその陣營に立ち歸り、

而して壁に添ひ乍ら先に起ちたる華麗なる

其の席の上、身を据ゑて王プリアモスに向ひ曰ふ、

593 アキリュウスはヘクトールの屍體を狗に與へんと約したり。XXIII 21 及び 183.

『叟よ、汝の命の儘、汝の子息渡されて、

かなた車上に横はる、あくるあしたに引き返り、 600

親しく汝彼を見む、今は飮食思ふべし。

娘六人、青春の男子六人かれとこれ、

合せて十二悉く其宮中に死したるも、

鬢毛美なるニオベーはなほ飮食を求めたり。

頬美しきレートーにおのれを比して誇へる 605

ニオベー曰へり、レートーはただに二人の子を生めり、

我の生めるは數多し――其高言に憤り、

銀弓の神アポローン、射る矢鋭きアルテミス、

二神は起ちて憤然と十二の子女を亡しぬ。

魂魄去りし十二人、九日續きて地に伏して、 610

之を葬る者あらず、近寄るものをクロニオーン、

石と變じぬ、十日目に諸神かれらを葬りぬ。

涙流して悲めるニオベー食をなほ思ふ。

シピュロスの郷、荒凉の山の岩蔭、そこにして、

アケローイオスもろともに踊り狂へる仙女達、 615

休の床をおくといふ、そこに今尚ニオベーは、

石に化しつつ神明の下せる難を耐へ忍ぶ。

尊き叟よ、われら亦同じく食を思ふべし、

終りて後ちにイ,リオンに屍體携へ歸るのち、

汝愛兒を哭すべし、涕その時多からむ。』 620

604 タンタロスの女。父と等しく神々と交はることを得、此特權を濫用して高言を吐き、子女を失ふ。

しかく陳じて脚早きアキルリュウスは身を起し、

白き羊を屠り去る、二人の伴は皮を剥ぎ、

調理巧に肉を切り串に貫き叮嚀に、

心をこめて火に炙り、炙りて肉を引き拔きつ、

オートメドーンは食卓の上、おのおのに雅麗なる 625

籠に入れたるパンくばり、アキルリュウスは肉くばり、

かくて一同手を延して其眼前の美味を取る。

飮食終へて口腹の願おのおの滿てる時、

ダルダニデース・プリアモス、神にも似たる相好の

アキルリュウスの麗容を驚きの目に眺めやる、 630

アキルリュウスも、敵の王ダルダニデースのすぐれたる

面を眺め、今更に其聲聞きて驚けり。

兩者互に相眺めおのおの心滿てる時、

神の姿のプリアモスまづ口開き陳じ曰ふ、

『神の寵兒よ、速かに我を臥榻に就かしめよ、 635

心しづかにやすらひて甘き睡に入らんため。

わが子汝の手に斃れ其一命の盡きし後、

目蓋の下に我は目を閉ざせしことは嘗て無く、

わが廣庭の地の上に塵にまみれて輾々し、

呻き叫んでとこしへに無量の悲嘆續けたり。 640

今にはじめて我れ食を取りて芳醇わが喉を

降りぬ。前は一片の肉をもわれは味はず。』

しか陳ずればアキリュウス侍婢と部下とに令下し、

柱廊の下、床を据ゑ、色紫の華麗なる

褥を敷きて毛氈を其上に掛け、又次に 645

此らの上に柔かき毛布を更に重ねしむ。

彼らは命に從ひて松火持ちて室を出で、

急ぎつとめて迅速に二つの床をしつらひぬ。

その時足疾きアキリュウス半戲れ陳じいふ、

『叟よ危し、此室の外に汝の床につけ、 650

常に傍に評定の言を呈するアカイアの

一人意見齎らして或はこゝに來るあらむ。

かかる一人暗黒の夜の中汝認め得て、

直ちに衆の王者たるアガメムノーンに報ぜんか、

さらば屍體の解放の延引あるひは起るべし。 655

さはれ今曰へ、眞實を正しく我に打明けよ、

將ヘクト,ルの葬禮を營む日數幾何ぞ?

その終る迄我休み、又我民を抑ゆべし。』

神の姿のプリアモス老王答へて彼に曰ふ、

『アキルリュウスよ、其如くわれを惠みて我をして、 660

わがヘクト,ルの葬禮を行はしめば嬉しかり。

君知る如く城中にわれら圍まる、木材を

取るべき山は程遠し、トロイア人は皆懼る。

九日われらはヘクト,ルをわが宮中に哭すべし、

十日目彼を葬りて凶禮の宴設くべし、 665

あくる日墳を彼の爲築かむ、これを成し終へて、

第十二日戰を若し要あらば初むべし。』

彼に足疾きアキリュウス勇將答へて陳じ曰ふ、

『プリアモス王、汝今曰へるが如くしかあらむ、

汝の曰へる日の間われ戰を禁ずべし。』 670

しかく陳じて老王に心の畏あらせじと、

其右の手の手首をアキルリュウスは手に取りぬ。

斯くして王者プリアモス其傳令の使者と共、

思慮を抱きて室の外、柱廊の中、床に就き、

アキルリュウスは堅牢の其陣營の奧深く 675

眠り、かたへに紅頬のブリセーイスは又眠る。

馬上戰ふ人々も又神々もよもすがら、

甘き眠に襲はれて靜かに休む、そを外に

人を助くる神明のヘルメーアスは目を閉ぢず、

嚴しき守備の目を遁れ、王プリアモス、アカイアの 680

水陣いかに退くべきや、策を心に※らして、

即ち王の枕もと立ちつゝ彼に陳じ曰ふ、

『アキルリュウスに許されて危難の思またく無く、

叟よ汝は敵陣のもなかにかくも眠るかな。

今や汝は莫大の寶に愛兒贖へり。 685

されど汝のここなるをアガメムノーン敵の王、

アートレ,デース聞き知らば、アカイア軍勢皆知らば、

なんぢの子らは三倍の賠償拂ふ要あらむ。』

聞きて畏るる老王は又傳令を呼びさます。

ヘルメーアスは其爲に騾馬に駿馬に軛かく、 690

斯くて急ぎて陣中を過ぐるを誰も認め得ず。

清き流のクサントス、不死のヂュウスの産み出でし

渦卷く流れクサントス、其岸の上來る時、

ヘルメーアスはおほいなるウーリュンポスに分れ去り、

番紅花色の衣つけ曙の神女は地を照らす。 695

彼らは呻めき泣き叫び、城中さして馬を驅る、

騾馬は屍體を曳き乘せて。――されど城中何人も、

帶美はしき女性らの誰しも未だこを知らず。

カッサンドレー只一人、アプロヂ,テーに似たるもの、

ペルガモスの塔のぼり、車臺の上に立つ父を、 700

又傳令の聲高き使者を認めつ、更に又、

車上の臺にヘクト,ルの屍伏すを認め得つ、

即ち聲をあげ泣きてイ,リオン市民に叫び曰ふ、

699 XIII 365.

『ああトロイアの男女達出でよ、ヘクト,ル見るべきぞ、

其生ける時戰場をあとに歸るを喜びき、 705

彼は城中一切の民に歡喜の種なりき。』

其聲聞きて城中に男女一人も居殘らず、

耐ゆるに難きおほいなる悲哀は衆を皆襲ふ。

衆群りて門のそば屍體引き來る王圍み、

眞先きに彼の愛妻と彼の慈母とはもろともに、 710

車めざして奔り來て死屍の頭に手をふれつ、

狂ふが如く髮むしり、衆は泣きつつ側に立つ。

而して衆は門の前、流涕切にヘクト,ルを

哭し、夕陽沈む迄ひねもすここに殘らんず、

されど老王車上より衆に向ひて叫び曰ふ、 715

『騾馬を驅るため道開け、わが宮中になきがらを、

收めん後に飽く迄も汝ら彼がために泣け。』

其言聞きて衆は去り、兵車の爲に路開く。

かくて屍體を壯麗の館のもなかに齎らして、

之を組まれし臺にのせ哀歌初むる一群の 720

歌手をかたへに坐らしむ、即ち彼ら哀痛の

聲を放てば、そを繞る女性らすべて咽び泣く。

アンドロマケー、腕白き妻はその時ヘクト,ルの

頭双手にかき抱き、まづ慟哭の聲をあぐ。

722 ヘクトールの死を知りし時の悲泣 XXII 429 以下參照。

『ああわが夫、若うして世を去り我を屋の中に 725

寡婦と殘しぬ、なんぢの子、なんぢと我と薄命の

親を持ちたる小さきもの、其生長は頼まれず、

之に先んじわが都城その基礎までも崩されむ。

都城を守り端嚴の女性を守り、物言はぬ

小兒を守る汝今邦を禦ぎて斃れたり。 730

彼らはやがて船の上遠くあなたに搬ばれむ、

我亦之と倶ならむ。わが子よ汝また我に

附きて異郷に酷き主の命のまにまに働きて

恥辱の業や營まむ、あるはアカイア軍勢の

一人汝を手に取りて、塔より下に抛げ飛ばし、 735

無慚の最後遂げしめむ、恐らく彼の兄弟を、

或は父を又は子をわがヘクトール斃ししか?

彼らの多數ヘクト,ルの爲に塵土を噛みて死す。

汝の父は戰場に於て優しき人ならず、

その爲衆は城中に亙りて彼を悲めり。 740

ああヘクト,ルよ、双親に無量の悲嘆負はしめぬ、

更に我には就中はてなき恨殘されむ、

ああ君死して臨終の床より我に手を延さず、

智慮の一言又のべず、のべなば我は日も夜も、

之を思ふて流涕の悲つくること無けむ。』 745

しか陳ずれば女性らは聞きてそゞろに悲めり。

母のヘカベー之に次ぎ悲嘆激しく叫び曰ふ、

『ああヘクト,ルよ、子らの中われの最も愛でし者、

わが爲汝生ける時、汝は神に愛されき、

死の運命にある時も神は汝を勞はりき。 750

我の他の子をアキリュウス捕ふる時は、荒れ狂ふ

波のあなたの國々に――あるひはサモス、時に又、

インブロスまた香煙のレームノスにし賣りたりき。

されども長き青銅の刄汝を討てる時、

汝が先に斃したるパトロクロスの墳塋の 755

めぐりを彼は曳きずりぬ、されども死者を起し得ず、

汝今はた宮中に靜かに臥して鮮かに、

全く新たに斃されて死せるに似たり、銀弓の

アポローン彼の矢を飛ばし射て亡せる者に似る。』

泣きて陳ずる母の言、はてなき呻ひき起す。 760

三人目衆の哀號をヘレネー起ちて誘へり、

『義兄義弟の中にして最も愛でしヘクトール。

姿は神に似たるもの、パリスぞわれの夫たる、

彼トロイアにわれ連れぬ、その前死せば宜かりしを。

故郷を去りてこゝに來しこの方過ぎし年の數、 765

今年は正に春秋の二十重ねしうたてさや。

されども遂に君よりし惡言罵詈の聲聞かず、

若し宮中に何人か――或は義兄又義妹、

わが良人の姉妹又義兄らの妻あるは義母、

(舅の君は優しくてまことの父に似たりけり) 770

われを叱れば君はそを咎め言葉に諫めつつ、

その温情と温言によりて彼らを諭したり。

されば今我れ苦しみて君と我との爲に泣く、

廣きトロイア其中に我に優しき者はまた

見るを得がたし、すべて皆人はわが身を忌みきらふ。』 775

763 良人のパリスもヘクトールほど我を保護せずの意を含むか。

766 古の評家の説、初の十年は遠征の準備に費さる云々。アキリュウスの子ネオプトロモスは(XIX 325)成長せる一青年なるを思へば二十の春秋云々は不穩當ならず。此が事實ならばヘレネーの齡は四十前後ならざるべからず。スパルタを亡命せる時に既に一子あり。

770 (770)スカイエー城門の上におけるプリアモスのやさしさ III 161以下參照。

しか嘆ずれば之を聞き無數の群は又嘆く。

その時老王プリアモス衆に向ひて叫び曰ふ、

『トロイア人よ、燃料を都城に運べ――アカイアの

埋伏あるを恐るるな、アキルリュウスが、水師より

われの歸るを送る時、十二日目の曙の 780

光の前はわれわれを攻めずと堅く盟ひたり。』

其言聞ける衆人は牛と騾馬とに軛着け、

車引かして城門の前に直ちに集りつ、

九日つづいて莫大の燃料城に齎らしぬ。

人に光明携ふる曙十たびあくる時、 785

涕流して剛勇の將ヘクト,ルを搬び來て、

衆人高く積み上ぐる薪にのせて火をかけぬ。

薔薇の色の指もてる曙またもあけし時、

衆は來りてヘクト,ルを焚ける淨火を取り圍み、

(相集りて一團をなしてあたりを取り圍み) 790

まづ暗紅の酒を以て先に猛焔襲ひ來し

あらゆる淨火うち消しつ、續きて友と兄弟と

力を共に白骨を拾ひ集めつ、慘然と、

泣ける涕はおのおのの頬を傳へてはてあらず。

集めし骨を黄金の壺に納めて柔軟の 795

紫染むる絹をもて之を包みて、穿たれし

墳のたゞ中おきすゑつ、つづきて衆は數多き

おほいなる石其上に、厚く積み上げかくて後、

急ぎて土をもりあげて墓を築きて其めぐり、

守備の群おく、アカイアの來り襲ふを誡めて。 800

墓を築きてたち歸り、更に再び集りて、

ヂュウスのめづるプリアモス、トロイア王の宮殿の

中に弔慰の盛なる美なる宴飮催しぬ。

駿馬を御するヘクト,ルの葬禮斯くぞ營まる。

(大尾)

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