既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン
身に黄金の鎧着て手に精巧に造られし 25
金の鞭とり、悠然と車臺に乘りてまつしぐら、
潮の上を乘り行けば海の百妖、洞窟の
中より出でて、君王を認めて波に躍り舞ふ、
波浪も共に喜びて路を開けば神速に、
馬はさながら飛ぶ如く青銅車輪濕はず、 30
神を運びてアカイアの舟師めがけて進み行く。
17 ヰルギリウスのアエネーイス五の八一七以下はこの一段をまぬ。
21アカイアの一市(VIII 203)か、ユーボィアの傍の島か、ユーボィアの岸上の市か、古來の註解者未決。
23 ボアロウの名譯あるよし。
テネドス及びイムブロス、其險要の間にして、
おほわだつみの淵の下、廣き洞窟あるところ、
大地を震ふポセードーン、驅りし駿馬を留まらしめ、
兵車よりして解き離し、アムブローシヤの食物を 35
投げ與へつゝ、其脚を黄金の枷、堅牢に
解き得ぬ枷に繋ぎとめ、こゝに再び自らの
歸り來る迄留らしめ、かくてアカイア陣に行く。
かなたトロイア軍勢は一隊と成り炎々の
焔の如く、吹きまくる嵐の如く、叫喚の 40
聲を擧げつゝ猛然とプリアモスの子ヘクト,ルに
つづきアカイア兵船を奪ひ、全師を斃さんと、
望む折しも大海を出で來りたるポセードーン、
大地を抱き又震ふ神はアカイア軍勢を
勵まし、聲と姿とは、カルハースの如くして、 45
すでに猛威の隆なる同名二人アイアース、
二將に叫ぶ、『アイアース、救へアカイア軍勢を、
卑怯の逃思ふなく汝の勇氣振り起せ、
一隊なして壘壁を越せるトロイア軍勢の
勇猛の腕、我は他の部署に於ては恐怖せず、 50
脛甲堅きアカイアの軍一齊にみな支ふ。
われただ痛く恐るゝはこゝなり、禍難來るべし、
ヂュウスの息と驕ぶれるプリアミデース・ヘクトール、
士卒に令し猛勇の威勢さながら火の如し。
されど或る神汝らの胸に勇氣を吹き入れむ、 55
斯くて汝ら勇猛に支へ、尚且つ同僚を
警め、敵の奮進を船脚速き水軍の
外に攘はむ。オリュムポス主神は敵を助くるも。』
45 占術に長ぜるもの。(I 69)
53 ヂュウスに愛さるるもの守らるるもの。後 153 又 XVIII 293 等。
しかく宣んして、大地ゆり大地を包むポセードーン、
其笏あげて兩將に觸れて勇氣を滿たさしむ、 60
かくて二人のアイアース手足ひとしく輕く敏し。
かくて譬へば千仭の高き嶮しき岩山の
上より颯と落し來て、平野の空に鳥を逐ふ
翼するどき若鷹の勢猛く翔くるごと、
大地を震ふポセードーン二人を離れ驅けさりぬ。 65
これを眞先きに認めたるオイリュウスの子アイアース、
すぐにテラモーン生みいでし他のアイアースに向ひいふ、
『見よアイアース! とある神、ウーリュンポスを降り來て、
占者の姿とり乍ら水師のそばの戰を
命じぬ(鳥のふるまひを解くカルハース、彼ならず、 70
驅けさる彼の後影我は容易く認めたり、
足の動きを認めたり、神認むるは難からず)
今胸中にわが心、奮戰苦鬪果すべく
いたく奪ひて勇みたち、はげしく躍り靜まらず、
下の双脚また上の兩腕ひとしく皆勇む。』 75
70 鳥の動きを見て占ふ。
テラモーン生めるアイアース其時答へて友にいふ、
『正に同じく剛勇のわが手は槍を振ふべく
勇み、わが意氣また奮ひ、堅き双脚輕くして
驅けいでんとす、たとへ身はひとりたりとも猛勇に
狂ふ敵將ヘクトール迎へて雌雄決せんず。』 80
然く互に陳じ合ふ兩將胸に神靈の
注げる思、戰鬪の思に勇み喜べり。
時を同じく輕舟のほとり、後陣に留りて
氣を養へるアカイアの軍を勵ますポセードーン。
彼らの四肢は痛はしき苦鬪によりて弱りはて、 85
トロイア軍の一齊に勢猛く壘壁を
昇り來るを眺めやり、胸に悲痛の念滿たす。
斯くて敵軍侵し入る姿を眺め、潜然と
涙を垂れて、身の破滅免れ得ずと觀じたる
アカイア勢をポセードーン、訪ひて勇氣を振はしむ。 90
初めに訪ひて勵ますはチュウクロスまたレーイトス、
ペーネレオスと勇猛のトアス並にデーイピュロス、
又音聲の大いなるメーリオネース更に又、
アーンチロコス勵まして羽ある言句宣んしいふ、
91 レーイトスとペーネレオスはボイオーチアーの將軍(II 494)トアスはアイトーロイの將(II 638)デーイピュロスは IX 83 に出づ。別に V 325 に似たる名あり。λとρとの差
『恥ぢよ! 汝らアカイアの小兒、汝ら戰ひて 95
わが水軍を防ぐべく我は信頼かけたりき、
汝らつらき戰鬪を恐れて逃ぐることあらば、
トロイア軍の戰勝の日は正しくも曙けしなり。
あはれ何らの驚異なる、今わが眼に映ずるは!
忌まはしきかな、かゝることあり得べしとは思ひきや! 100
我に向ひてトロイアの軍勢かくも寄せんとは!
怯れて道に逃げ迷ひ、鬪ふ術を知らなくに、
果は無慘に林中に虎豹或は豺狼の
餌食となれる鹿の群、先にはこれに似たる敵、
トロイア軍は眞向にアカイア軍の勇力に 105
手向ふ術を知らざりき、拒ぎ得ざりき、しばしだも。
さるを今はた總帥の過失、並びに士卒らの
懈怠の故に、都城より離れて彼ら水軍の
ほとりに荒び、わが軍は之と戰ひわが船を
守る能はず、いたづらにこゝに無慘に滅さる。 110
アートレ,デース、權勢のアガメムノーン、英豪の
彼れ脚早きアキリュウス・ペーレーデース恥かしめ。
そのため招く禍の本たる責は免れず、
しかはあれども戰鬪を捨つるはわれの分ならず、
いざ禍を救ふべし、勇士の心癒え易し、 115
軍中最もすぐれたる汝ら猛き剛勇の
意氣抛ちてよからむや? 他の卑怯の輩の
恐れ戰場引き去るを、われは咎めず爭はず、
ただ軍中の勇士たる汝に痛く憤る。
あゝ汝ら弱き者、間なく懈怠の罪により、 120
更に大なる禍を來さん、いざやおのおのの
胸に恥辱と憤激を滿たせ、大事は起らんず。
雄叫び高きヘクトール勇を奮ひて水軍の
そばに戰ひ、關門を長き横木を破りたり。』
107 アガメムノーンがアキルリュウスを怒らせしこと。
大地を包むポセードーンかくアカイアを勵ませり、 125
かくて二人のアイアスを※りて、強き陣列は
悍然として踏みとまる、アレース敢て侮らじ、
兵を勵ますアテーネー又侮らじ、衆中に
勇氣最も優るもの起ちてトロイア軍勢と
ヘクト,ル迎へ槍と槍、楯と楯とは相逼り、 130
大盾小盾亂れうち、兜と兜、人と人、
馬毛の冠、燦爛の兜頂、互に觸れ當り、
混じ亂れて紛々と兩軍互に相攻めつ、
槍ははげしく勇敢の手に揮はれて相交り、
敵も味方も勇猛の念を燃して戰へり。 135
130 130―133 はXVI 215―217 に又出づ、古代に有名なりし句、本詩の最上のスタイルを代表するものと稱せらる。
トロイア軍は密集の隊を造りてヘクトール、
その先頭にたけりたつ、譬へば大雨勢を
添ふる急湍溢れ出で、嶮しき山根打ち崩し、
頂き高く大石を緩めて坂を落す時、
路にあるもの皆碎け、森は其下なりひびく、 140
其石躍り飜へり、落ちて平野に下る時、
なほ勢は殘れども留りて遂に轉び得ず、
かく其はじめヘクトール嚇し進みて殺戮を
加へ、アカイア陣營と舟と岸とに押し迫る、
されども進み密集の敵の部隊に逢へる時、 145
激しく打たれ立ち留る。その時アカイア軍勢は
利劍を振ひ、双刄の槍を振ひて追ひ攘ふ。
追ひ攘はるるヘクトール、思はず引きてめくるめき、
大音あげてトロイアの軍勢よびて叫びいふ、
『トロイア、リキエー諸軍勢、接戰強きダルダノイ、 150
耐へよ敵は壁のごと、その隊勢を整へて
密に合ふとも、又永く我を支ふることを得じ、
ヘーレーの夫、雷霆のヂュウス、諸神の主たるもの、
力を貸さむ、わが槍に逐はれて彼ら退かむ。』
しかく宣んしておのおのの勇と意氣とを呼び起す。 155
プリアモス王生める息、デーイポボスは勇猛の
思を皷して圓形の盾を其前ふりかざし、
之に其身を掩ひ守り、脚神速に進み行く。
メーリオネース之を視て耀く槍を投げ飛ばし、
牛皮のつゝむ圓盾に覘違はず打ち當つる、 160
されども之を貫かず、鋭く長き槍はその
根元に於て穗を碎く――デーイポボスは剛勇の
メーリオネース突く槍を恐るるあまり、牛皮もて
包める盾を腕のばし胸より隔て身を蔽ふ。
かなた英武の敵將は、勝利を外し槍折りし 165
其失敗に憤る脚を囘して隊に入り、
やがて陣舍とアカイアの水師に急ぎ立ちかへり、
先きに陣中殘し來し巨大の槍を手に取りぬ。
他の軍勢は戰ひて不斷の叫び湧き起る。
テラモニデース・チュウクロス奮ひ、牧馬の群多き 170
メントロスの子――勇猛のイーンブリオス討ち取りぬ。
アカイア軍の寄せし前、ペーダイオスに住める者、
プリアモス王生める庶子、メーデシカステー彼の妻。
アカイア軍勢船率ゐ、郷に上陸したる後、
イリオン城に入り來りトロイア中に名を揚げつ、 175
プリアモス王、子の如く愛して宮に留めしもの。
テラモニデース・チュウクロス長槍振ひ耳の下、
彼を貫き其槍を引けば大地に斃れ伏す、
山頂高く四方より仰ぎ見るべき喬木の
幹を青銅の斧伐りて其葉地上に散る如し、 180
彼は斃れて青銅の琢ける武具は鳴りひびく。
武具を剥ぐべくチュウクロス勢猛く驅けいづる、
驅けづる彼をヘクトールめがけ耀く槍飛ばす、
そを認めたるチュウクロス避けて危く逃れ得つ、
槍は戰地に立ち向ふアムフィマコスの胸を射る、 185
アクトリオーンの生める息クテアートスを父とする
彼れヘクト,ルの槍うけて地に伏し武具は高鳴りぬ。
その時馳せてヘクトール、勇武のアムフィマコスより
其額上を掩ひたる兜を奪ひ剥がんとす、
其驅けいづるヘクト,ルを、耀く槍にアイアース、 190
覘ひて討てど、堅牢の青銅武具に守らるゝ
かの身に入らず、大盾のおもての隆起討ちあてぬ、
これに怯れてヘクトール、敵と身方の二勇士の
屍をあとに引きかへし、アカイア之を取り收む。
アテーナイ族率ゐたるメネスチュウスとスチキオス、 195
アムフィマコスの屍體をアカイア陣に搬びさり、
更に二人のアイアース、イムブリオスを勇ましく、
搬ぶ、譬へば獅子二頭、鋭き牙の狗の群、
守れる山羊を奪ひ取り、繁れる藪のただ中に
啣みて、頭高らかに振りあげ搬びさる如し、 200
斯く青銅を鎧へる二人の猛きアイアース、
高く屍を引き揚げて武裝を剥ぎつ、更に又
オイリアデース其友のアムフィマコスの故により、
怒りて敵の柔き頸より頭切り落し、
投ぐればあなたヘクト,ルの脚下に塵にまみれ落つ。 205
203 オイリュースの子なるアイアース。
この恐るべき戰鬪に斃れし裔子憐みて、
大地を震ふポセードーン痛く心に憤り、
ダナオイ族の勵ましに、アカイア軍の陣營と
水師に向ひ、トロイアの軍の禍もくろめる――
其行く道に出で遇ふは槍の名將イドメネー、 210
鋭き青銅其膝を打てるひとりの彼の友、
戰場あとに歸れるに別れて來るイドメネー、
仲間に負はれ來りたる負傷の友を醫に托し、
身は戰場に向ふべく、念じて陣に急ぎ行く
彼に向ひてポセードーン、威力大地を震ふもの、 215
アンドライモーン生める息トアスの聲をまねていふ、
(トアスの領はプリーローン、又嶮要のカリュドーン、
アイトーロイを統べ治め、神の如くに崇めらる。)
206 186 のクテアートスはポセードーンの子と稱せらる。クテアートスの子はアムフィマコス。
211 無名氏。
214 下文 240.
217 II 639.
『クレーテー族導けるイドメニュースよ、いづくにぞ?
トロイア軍に加へたるアカイア軍のおどかしは。』 220
クレーテー族導けるイドメニュースは答へいふ、
『トアスよ我の見るところ、アカイア軍中誰人も
咎むべからず、悉く皆戰鬪の術を知る、
卑怯の恐れ抱くもの一人もなし、一人も
懈怠の故に戰を避けむとはせず、然れども 225
アルゴス遠く此郷に、アカイア軍の譽れなく
亡びんことは、最高のクロニオーンの意志と見ゆ。
さはれトアスよ、その昔汝は強く勇溢れ、
怯るゝ者のある時は之を勵まし諭したり、
汝今なほ之を止めず今なほ衆を警めよ。』 230
220 II 286 トロイアを亡さずば國に歸らずの盟など。
大地を震ふポセードーンその時答へて彼にいふ、
『イドメニュースよ、けふの日に戰鬪棄てゝ逃ぐるもの、
斯くあるものはトロイアを去りて望める其郷に
歸らむことの無かれかし、――彼は野犬の餌たらむ。
いざ今、汝武器を取りわれに從へ速かに、 235
ただの二人に過ぎざるも恐らく軍を救ひ得む、
弱き者だも結ぶ時集る力大ならむ、
しかも我らは勇猛の敵と戰ふ道を知る。』
しかく宣んして人間の戰鬪中に神は入る。
彼方堅固に建てられし陣營中にイドメネー、 240
行きて華麗の鎧つけ二條の槍を携へて、
電火の如く――譬ふればウーリュンポスの高きより、
雷霆の威のクロニオーン、放ちて人に驚愕の
念を來らす爛々の電火の如く――進み行き、
馳せ行くときに胸※る彼の青銅耀けり。 245
行きて陣舍に遠からず、青銅の槍求むべく、
歸り來れる副將のメーリオネースに道にあふ、
勇氣盛りのイドメネー彼に向ひて陳じいふ、
245 胸甲。
『メーリオネース、モロスの子、最愛の者、脚早き
汝何故亂戰と苦鬪を捨てゝこゝに來し? 250
疵を負ひしや? 鋭き矢或は汝惱ますや?
或はとある使命帶びわれを訪ふべく來りしや?
我は陣舍に留るを好まず出でて戰はむ。』
メーオリネース、思慮深き勇士答へて彼にいふ、
『青銅鎧ふクレーテス族を導くイドメネー、 255
陣中君の殘したる槍もしあらば取らんため、
戰場よりし歸り來ぬ、先きに我が手に取りし槍、
無慚や折れぬ、高慢のデーイポボスの盾打ちて。』
クレーテス王イドメネー彼に答へて陳じいふ、
『わが陣營の耀ける壁に立て掛け殘したる 260
槍を望まば汝取れ、一條或は二十條、
トロイア戰士亡ぼしてわれの分捕したる槍、
敵の戰士と間隔て鬪ふことを我はせず、
われには槍の數多し、表隆起の盾多し、
燦爛光る胸甲と頭甲の數も亦多し。』 265
メーオリネース、思慮深き勇士即ち答へ曰ふ、
『我も同じく陣中に又わが黒き船中に
トロイア戰士掠めたる武具は數あり、いかにせん、
身近にあらず、取りがたし、勇猛の意氣忘れしと
われは思はず、戰鬪のあらび湧く時わが軍の 270
先鋒中に交りて譽の場にわれは立つ、
青銅鎧ふアカイアの他の衆人は速かに
戰ふ我を認め得ず、さもあれ君は能く知らむ。』
クレーテス王イドメネー其時答へて彼に曰ふ、
『われは汝の勇を知る、辨言何の要あらむ、 275
水師のかたへ最上にすぐれしわれら撰ばれて、
埋伏の陣造るとき(人の勇氣の最も善く
知らるゝ處、)怯なるもの、勇氣のものは一樣に
露顯なすべし、怯るるは顏貌種々に色を變へ、
靜かに心悠々と其胸中に宿り得ず、 280
膝おののかし兩脚を折りて大地に横はり、
辛き運命あらかじめ感じて、爲に胸中の
皷動はげしく、口中に齒と齒と打ちて音いだす。
勇なるものは顏色を替へず、一たび埋伏の
隊に入るとき何事も彼の戰慄起し得ず、 285
ただ速かに物凄き戰鬪場裏に入るを乞ふ。
汝の腕と力とを誰しもこゝに咎むまじ。
苦鬪の汝、遠くより或は汝近くより、
討たれん時に敵の武具、汝の頸を後より、
或は汝の背の上を傷くことはあらざらむ、 290
先鋒隊に加はりて進む汝の胸部又
腹部を討たむ、さはれ今、痴人の如くかゝる言、
陳ぶるを止めむ、恐らくは或者痛く咎むべし、
いざ陣中に赴きて鋭利の槍を取り來れ。』
しか陳ずれば速かに、メーリオネース陣營に 295
入り青銅の槍を取り、アレースの如神速に、
イドメニュウスのあとを逐ひ勇戰念じ進み行く。
譬へばアレース「人間の禍」戰地に行く如し、
愛兒「恐怖」は彼につぐ、(勇敢にして強き者、
人界いかに勇なるも彼を恐れぬものあらじ、) 300
二靈かくしてトレーケー出でて戰裝整へて、
エピュレー及び剛勇のプレギアイ族めがけ行き、
兩軍共に扶けずに、只一方に勝與ふ、
メーリオネース、イドメネー二將正しく其の如く、
青銅鎧ひ耀きて戰陣さして進み行く。 305
メーリオネース其時にまづ口開き陳じ曰ふ、
『ヂューカリオーン生める息、いづくの隊に君入るや?
全軍中の右なるか? 或はそれの中央か?
或はむしろ左にか? 毛髮美なるアカイアの
軍勢そこに他に増して援助求むることはげし。』 310
307 即ちイドメニュース下文 451 以下を見よ。
クレーテス王イドメネー即ち答へて彼に曰ふ、
『見よ、兵船の中央に他の防禦の勇士あり、
同名二人のアイアース、更にアカイア軍中の
無双の弓手チュウクロス――彼また歩戰に巧なり。
プリアミデース・ヘクトールいかに其威を振ふとも、 315
勇氣いかほど勝るとも彼らの爲に逐はるべし。
敵將いかに勵むとも彼らの武力、恐るべき
腕に勝ち得てわが船を焚くは誠に難からむ。
雷霆の神クロニオーン船脚早き水軍に
自ら炬火の猛焔を投ずとすればいざ知らず。 320
死の運命を身に負ひて、デーメーテルの惠なる
穀を食とし、劔戟に巨石に打たれ、疵を負ふ
人界の子のいづれにも、テラモニデース、アイアース
讓らず、一騎相討たば、わが勇猛のアキリュウス、
ペーレーデースに讓るまじ、ただ健脚は及び得ず、 325
いざいま向へ軍陣の左方に――間なく知り得べし、
われ與ふるや光榮を他に、他はわれに與ふるや?』
321 穀物の神。
しか陳ずれば神速のアレース神に髣髴の
メーリオネース、命うけし陣門さして走り出づ。
かくて猛威は炎々の焔の如きイドメネー、 330
從者と共に精巧の武具を着くるを眺め見て、
トロイア軍は隊中に警め乍ら寄せ來り、
かくてアカイア水軍のほとり亂鬪湧き起る。
塵埃厚く道を蔽ふその日疾風吹きまくり、
颶風となりて濛々の沙塵の雲を空高く 335
揚ぐる姿も斯くあらむ、トロイア、アカイア兩軍の
勇士は同じ一點に會し、鋭利の青銅の
刄を振ひ相討ちて心は燃えて火の如し。
かくて破滅を産み來る戰暴れて兩軍の
揮ふ長槍相亂れ、群がり寄する勇士らの 340
耀く兜、新しく琢ける鎧燦爛の
盾よりかへす青銅の光に、目と目みな眩む、
この亂戰のありさまを親しく其目眺めやり、
苦惱感ぜず喜べる人はいたくも酷からむ。
344 戰場の慘、IV の終參照。
さはれクロノス産みいでし二神おの/\思慮異に、345
辛き苦惱を戰へる勇士の上に相釀す、
ヂュウスはトロイア軍勢とヘクトールとの勝求め、
アキルリュウスに光榮を歸せんとするも、アカイアの
全軍擧げてイリオンの前に亡ぶを喜ばず、
テチスと彼の勇敢の愛兒の譽ただ念ず。 350
またひそやかに大海の波浪を分けて出で來る
ポセードーンはアカイアの陣を訪ひ來て勵ましつ、
トロイア軍に負けたるを怒り、ヂュウスに憤ほる。
二位の神靈その系とその種と同じ、然れども
長子と生れしクロニオーン、その知は特にすぐれたり。 355
ポセードーンはこれがため現の救助さし扣へ、
ただ人間の姿とり祕密に常に勵ませり。
かくして二神兩軍に、かはる/″\に奮鬪と
勝負半ばの戰のもつれを與ふ、そのもつれ
解くこと難し、絶ち難し、人の兩膝わななかす。 360
345 ヂュウスとポセードーン。
頭髮半ば白けれど槍の名將イドメネー、
アカイア軍に呼ばはりてトロイア軍を追ひ攘ひ、
カペーソスより戰場の譽求めて先つ頃、
こゝに訪ひ來し一武將、オトリュオニュース打ち果す、
王プリアモス生める中カッサンドレー最美なり、 365
そを禮物を具せずして娶るを望み約しいふ、
アカイア軍をトロイアの地より攘ひて功立てむ。
誓言聞けるプリアモス、愛女を許し與ふべき
其約束に信を措き、揚々として戰場に
進み出づるをイドメネー覘ひ、耀く燦爛の 370
槍を飛ばせば、身に帶べる其青銅の胸甲は
防ぎ守らず、鋭刄は腹の最中につき刺さり、
どうと倒れぬ、これを見て勇士勇みて叫び曰ふ、
366 ソールの女を得べく百人のフィリステン人を殺さんとのダビデの約を思はしむ。
『オトリュオニュース、汝もしダルダニデース・プリアモス
王に約せる一切を遂げ果し得ば、一切の 375
人に優りてわれ褒めむ、彼は愛女を許したり。
われまた同じ事柄を約してしかも果すべし、
而して汝われと共富み榮えたるイリオンを
攻め亡さば、アルゴスの郷よりこゝに誘ひ來て、
アートレ,デースの最美なる娘汝に與ふべし。 380
いざわが後につき來れ、波浪をわたる舟の上
婚嫁につきて談ずべし、われら鄙吝の友ならず。』
382 嘲弄的反語。
しかく宣んしてイドメネー、亂軍中に敵の脚
ひきつゝ歸る、其敵の救助に來るアーシオス、
馬に先んじ歩行に立つ、近くに御者の曳きし馬、 385
馬の呼吸は肩に觸る、しかして彼は心中に
イドメニュースを打たんとす、されども勇士先んじて
槍を飛ばして※の下、喉を射當てゝ貫けり。
敵は倒れぬ、――山上に樵者新に磨がれたる
斧ふりあげて船材となすべく倒す巨大なる 390
樫の如くに、白楊の如くに、あるは松柏の
如くに倒れ、身をのして馬と兵車の間に伏し、
齒を噛みならし鮮血に染めたる塵を手に握む。
之を眺めて彼の御者茫然として其心
またく失ひ、敵の手を免れ出づべく其馬を 395
牽きも歸さず佇立める、そを槍飛ばし覘ひたる
アーンチロコス正しくも其胴體のただ中を
射れば、青銅きたへたる胸甲彼を守り得ず。
巧みに組める車臺より、うめきて落ちて地に俯せる
彼の駿馬を、ネストール生める勇將速かに 400
トロイア勢の間よりアカイア軍に奪ひ牽く。
384 XII 95.
400 アーンチロコス。
デーイポボスはアーシオス切に痛みて側近く、
イドメニュースに覘ひ寄り、耀く槍を投げ飛ばす、
その青銅の投槍を、イドメニュースは眼敏くも
認めて避けて、携へし其圓き盾――牛王の 405
皮と耀く青銅を料とし造り、更に又
二條の把手を備へたる――盾をかざして一身を
またく蔽へば、青銅の槍はその上飛び過ぎて、
楯の縁をぞ掠めたる、楯は鏘然音たてて。
されども強き手よりして放ちし槍は空ならず、 410
ヒッパシデース、衆の將、ヒュプセーノール膈膜の
下――肝臟を貫ぬかれ、直ちに膝を緩め去る。
デーイポボスは眺め見て傲然として叫び曰ふ、
『復讎なしにアーシオス逝けるに非ず、冥王の
城門堅く恐るべき宮を訪ふとも、われ彼に 415
曰はむ、心に喜べと、一人の伴をわれ附せり。』
407 二條の把手とは盾の裏面に縱横各々一本の把手、十字形をなすもの。
411 同名の人 V 76 にあり、又 XI 426 のは第二の別人。
しか陳ずればアカイアの軍勢、彼の廣言に
悲み怒り、就中アーンチロコス侠勇の
心を痛く惱ましめ、友棄ておかず走り出で、
之を守りて盾の下蔽ひ隱せば引きつぎて、 420
親しき彼の友二人、一はエキオス生むところ、
メーキスチュース、他は神に似たる美麗のアラス,トル、
呻めく同僚援けあげ軍船さして引きかへす。
イドメニュースは勝れたる勇氣をつゆも緩まさず、
トロイア勢のあるものを斃すか、あるはアカイアの 425
破滅防ぎて自らの死するを念じ怠らず、
アイシュエ,テース愛する子、クロニーオーン養へる
勇士、その名はアルカト,ス――(アンキーセースの女壻にして、
ヒポダメーアは彼の妻、家庭に於て思愛の
父と母とが心より痛くもめでし長女、 430
容姿も技も心情も同じ齡の友どちに、
優れたる故、トロイアの都城のうちに其武勇
衆に優れしアルカト,ス娶りて彼の妻としき)
今ポセードーン耀ける彼の双眼くらましつ、
またその四肢を鈍らしてイドメニュースに打たれしむ。 435
彼は後陣に退くをなし得ず敵を避けも得ず、
柱の如く、繁りたる巨木の如くゆるぎなく
たてるを、勇士イドメネー槍を飛ばして胸を射り、
彼の穿てる青銅の胸甲ぐさと貫けり。
先きには身より傷害を禦ぎし鎧いま脆く、 440
鋭利の槍に碎かれて破るる音はもの凄く、
どうと倒れて伏せる敵、敵の心臟貫きて
それの最後の鼓動より端のゆらげる長き槍、
そも亦しばし、猛烈の槍の力は收まりぬ。
434 同樣にアポローン神はパトロクロスを打たれしむ(XVI 787 以下)。
444 直譯すれば「アレースの力收る」。
大音聲にイドメネーその時誇りて叫び曰ふ、 445
『一に對して三を討つわが戰略のいみじきを、
高言妄に吐く汝、デーイポボスよ認むるや?
無慙の汝、今われに面して立ちて見て悟れ、
何等ヂュウスの裔としてわれ今こゝに來るやを、
天王さきにクレーテー領するミ,ノース産みいでぬ、 450
ミ,ノース次ぎに剛勇のヂューカリオーン産みいでぬ、
ヂューカリオーンは廣大のクレーテーにて數多き
民を領するわれ生めり、我れ今舟師率ゐ來て、
汝と父とトロイアの民に禍難を齎らせり。』
446 一は自方のヒュプセーノール、三はオトリュオニュウス、アーシオス、アルカトース。
450 ミーノースはヂュウスがユーローパと契りて産む者。(XIV 321)
しか陳ずれば胸中にデーイポボスは二筋に 455
思ふ、或は退きてトロイア勢のあるものに
救乞はむか、あるは又只一身に努めんか?
思案の後に、勇猛のアイネーアース求むるを
善しと決して退きて、後陣の中に彼を見つ、
勇は諸人に優れども、王プリアモス崇敬を 460
致さぬ故に、老王に對して常に憤どほる
彼のかたへに走り來て、羽ある言句陳じ曰ふ、
『アイネーアース、トロイアの參謀、汝縁戚の
好思はば今來り、汝の義兄救ひ出せ、
われに續きて救ひ出せ、アルカトースはそのむかし、 465
若き汝をその家に義兄の縁に養へり、
槍の名將イドメネー今し彼をぞ斃したる。』
458 アイネーアース又アイネアース。
460 トロイア王家の分派相互の間の嫉妬 XX 178―186 參照。
その言聞きて胸中に勇氣を奮ひ起したる
アイネーアース、猛然とイドメニュースに向ひ行く。
されど勇將イドメネー小兒の如く畏怖知らず、 470
屹然として立ち留る、譬へば野猪が山の上、
おのが威力に依り頼み、荒れたる途に寄せ來る
衆の喧騷待つ如し、野猪は背の毛を逆立てて、
双の眼は火の如く、牙を磨きて獵人と
獵犬の群、攘ふべく、猛然として勇み立つ。 475
槍の名將イドメネー斯くて戰鬪巧みなる
アイネーアース寄せ來るを迎へ、一歩も退かず、
されども猛き同僚を、――アスカラポスとアパリュウス、
メーリオネース、デー,ピロス、アーンチロコス、――もろ/\の
勇士を呼びて勵まして羽ある言句叫び曰ふ、 480
『來れ同僚! 孤獨なるわれを助けよ、脚早き
アイネーアース襲ひ來る、われの恐るる敵の將、
かれ戰鬪に勇にして人を屠るは數知れず、
かれは正しく青春の、至大の威力身に備ふ、
心と共に年齡も等しかりせば、われか彼れ、 485
いづれか高き功名の譽を搬び去るべきに。』
しか陳ずれば衆軍は同じ思を胸にして、
おのおの肩に盾あてゝ彼のめぐりに近く立つ、
アイネーアースまたかなた、その同僚を警めつ、
デーイポボスとパリスとを眺めつ、更に神に似る 490
アゲーノールら、もろともにトロイア軍の首領たる
諸將に呼べば、衆卒は從ひ來る――牧場を
出で牡羊のあとにつき群羊水に進むとき、
牧人そぞろ胸中に喜悦の情の湧く如く、
アイネーアース衆卒のつづき來るを喜べり。 495
かくてトロイア軍勢はアルカトースの身のめぐり
近く、長槍手に取りて進めば凄く胸の上、
青銅鳴りて彼と此、兩軍互に相覘ふ、
中にも著き二勇將、共にアレース軍神に
比すべし、こなたアイネ,アス、あなた名將イドメネー、 500
互に敵を屠るべく凄き槍もて向ひ合ふ。
アイネーアースまつさきにイドメニュースを覘ひ打つ、
それをまともに認め得て青銅の槍、彼は避く、
アイネーアース投げし槍、その剛勇の手よりして、
空しく飛びてその穗先ゆらぎ大地に突きさゝる。 505
槍の名將イドメネー、オイノマオスの腹部打ち、
その胸甲を貫けばそこより臟腑溢れいで、
敵は沙塵の中に伏し双手に土をかい握む。
イドメニュースは影長く曳く槍、敵の屍體より
奪ふを得たり、然れども他の精巧の軍裝を 510
彼の肩より掠め得ず、敵の射撃は物凄し、
心焦せるも双脚の骨筋今は堅からず、
走りておのが槍を取りまた敵の槍避くること
難し、奮ひて接戰に死の運命を防げども、
戰場あとに速かに退くことは易からず。 515
かくして徐々に立ちさるを憎怨つねに抱きたる
デーイポボスは伺ひて耀く槍を投げ飛ばす。
されども覘誤りて槍はアレース愛づる息、
アスカラポスの身に當り、激しき穗先その肩を
貫き刺せば塵の中倒れて土をつかみ伏す。 520
猛威恰も火に似たるアレース未だ戰場の
亂れの中にその愛子斃れ伏せるを悟り得ず、
クロニオーンの計らひによりて止められ、オリュンポス
至上の嶺に黄金の雲に包まれ坐に着けり、
戰場はなれ遠ざかる諸神も共に一齊に。 525
506 XII 140.
アスカラポスをただ中にこなた衆軍相みだる、
アスカラポスの頭よりデーイポボスは輝ける
兜を奪ふ、――かくと見てメーリオネース迅速の
アレースのごと走り出で槍を飛ばして腕を打つ、
打たれて手より頭鎧は大地に落ちて鳴りひびく。 530
メーリオネース更にまた鷹の如くに飛びかゝり、
鋭き槍を敵將の腕の端より拔き去りて、
すばやく返し友軍の間に交る。ポリテース
その時、腕に同胞の腰をかゝへて囂々の
戰場そとに引き出し、後陣の彼の脚早き 535
駿馬のもとにつれ來る。御者と戰車ともろともに、
戰後に彼を待ちし馬、疵に惱みていたはしく
はげしくうめくその主人、乘せてトロイア城中を
さして駈け行く、鮮紅の血汐の流れ溢るまま。
他の軍勢は戰を續け雄叫び鳴りやまず、 540
カレートールの産める息アパリュウスの向へるに、
アイネーアース飛びかゝり、鋭き槍に喉を突く、
突かれて頭傾きて倒れて盾と兜とは
これに續きつ、息絶やす死滅は彼をおほひ去る。
トオンその背を向けし時、アーンチロコス認め得て、 545
走りかかりてこれを討ち、背筋全部に添ひ走り、
頸におよべる脈管を勢猛くたち切りぬ。
勢猛くたち切れば敵は沙塵に仰向きて、
斃れ双手を傍らのその同僚にむけのばす。
アーンチロコス飛びかゝり、あまねく四方見わたして 550
敵の肩より武具を剥ぐ、トロイア軍勢迫り來て、
圍みて彼の巨大なる華麗の盾を四方より、
打てどもこれを貫きて、アーンチロコスの身に害を
加ふるを得ず、ポセードーン大地を震ふ神靈は、
亂射の中にネストール生める愛兒を蔽ひ守る。 555
アーンチロコス勇にして敵を逃るゝことあらず、
これに面して鋭槍を勢猛く振りまはし、
絶えず勉めて敵人をめがけて槍を投げ飛ばし、
あるひは近く飛びかゝり接戰するを念じ掛く。
かく亂軍のただ中に、勇める彼にア,シオスの 560
うめるアダマス飛びかゝり、鋭き槍に大盾の
もなかを討ちぬ、然れども毛髮黒きポセードーン、
彼の生命いとしみて鋭き槍を無效とす。
561 XII 140.
かくして槍の一半はア,ンチロコスの盾の中、
くすべし杙を植うる如、他部は地上に横はる、 565
敵は運命逃るべく友の間に引き返す。
返すを逐ふて槍飛ばすメーリオネース誤らず、
臍と恥骨の間にして、特にアレース不運なる
人に對して殘忍の力を振ふそのほとり、
正しくこゝに鋭槍を覘ひ貫く、突かれたる 570
敵は屈みて鋭刃によりつゝ悶く、譬ふれば、
牧人山の中にして嚴しく繩に繋ぎつゝ
ひき行く屠牛見る如し、疵つけられし敵將は
かくこそもがけ、そもしばし、メーリオネース迫り來て
槍ぬきとれば暗黒は彼の兩眼おほひさる。 575
565 腐敗を防ぐため杙の末端をくすべて地に植う。
こなたヘレノス近よりてデーイピロスの蟀谷を、
トレーケースの大いなる劍に斬りて頭鎧を
碎く、頭鎧つんざかれ地上に落ちてころがるを、
とあるアカイア一戰士足もとよりし拾ひ取る、
暗夜はかくて薄命の將の双眼おほひさる。 580
576 VI 75.
577 トレーケースは大刀を産す。
これを眺めて悲めるアートレ,デース、大音の
將メネラオス、大股に鋭槍ふるひ敵の將
ヘレノスめがけ威しよる、將は剛弓高く張る。
兩將かくて相向ふ、これは鋭き投槍を
飛ばさんとしつ、かれは又絃上の矢を放たんず。 585
プリアミデース敵將を覘ひてかれの堅く張る
胸甲めがけ矢を飛ばす、されど勁箭はねかへる。
譬へば廣き穀倉の床の上振ふ大いなる
箕より黒豆白豆の鋭き風に扇がれて、
農夫の強き力より紛々として飛ぶ如し、 590
かく光榮のメネラオス穿つ胸甲貫かず、
鋭き飛箭はね返り離れて遠く飛び行きぬ。
その時大音のメネラオス・アートレ,デース槍飛ばし、
磨ける弓を手に握る敵將の手に射あつれば、
青銅の穗は貫きて手より弓へと刺し通る。 595
敵は運命免るべく、あとに返して友軍の
間に混じ、射られたる槍を垂れたる手もて曳く。
その槍、手より勇猛のアゲーノールは引き拔きて、
羊毛捩りし皮紐の繃帶かけていたはりぬ、
石を抛つための紐、從者携へ來るもの。 600
598 アンテーノールの子(XII 93)。
ペーサンドロスその時に敵メネラオス、光榮の
將に向へり、禍の運命彼を導きて、
メネラーオスよ、君のため亂戰中に倒れしむ。
兩將互に相迫り近よる時にメネラオス、
アートレ,デース誤りて其槍敵をはづれたり、。 605
ペーサンドロス光榮の敵メネラオスもてる盾、
打てども堅き青銅を貫き通すことを得ず、
巨大の盾はそを支へ、槍は穗先を打ち碎く、
されども敵は心中に勝を望みて喜べり。
アートレ,デースその柄に銀鋲うてる長劔を 610
拔きて振りあげ、まつしぐらペーサンドロス襲ひ討つ、
敵は琢ける橄欖の長き柄つけて青銅を
鍛へし斧を盾の下、取りて互に相向ふ。
敵は覘ひて打ちゆらぐ冠毛の下頭鎧の
頂邊討てば、メネラオス走りかゝりて敵將の 615
鼻梁のはしを眞向に骨打ち碎く、碎かれて
血に塗れつゝ、眼球は其足許に地に落ちて、
沙塵にまみれ、敵將は斃れて遂に地に伏しぬ、
其胸彼は踏みつけて武具を奪ひて誇りいふ、
601 同名の別人はアガメムノーンに殺さる。(XI 122)
613 斧或は矛はホメーロス詩中の諸將用ゐること稀。(後者はVII 141 に見ゆ)アカイア軍は全く用ゐず。
『汝ら斯くも駿馬驅るアカイア勢の水陣を 620
去らむ、汝ら、喊聲に飽かざるトロイア誇傲の徒!
汝ら無慙、狗の群、汝ら我に加へたる
無禮と恥辱足るとせず、汝らヂュウス・クロニオーン――
世の歡待を司る――神の雷霆凄しき
怒を畏ぢず、他日彼れ汝の都城壞るべし。 625
汝らむかしわが妻の厚き歡待受けしとき、
彼女並に其資財非法に奪ひ立ちさりき、
而して今は海洋を渡るわれらの兵船に、
猛火を放ち燒き拂ひアカイア勢を屠らんず。
汝らいかに勇むとも遂に戰場追はるべし。 630
あゝわが天父クロニオーン、其智あらゆる人天に
優ると曰はる、然れどもこれらは凡て君の所爲、
君今非法の國人を――トロイア人をいかばかり、
愛でんとするや? あゝ彼ら心は常に不義にして、
しかも戰亂鬪爭の騷に常に飽き足らず。 635
人は凡ゆるものを愛づ、或は睡、又は愛、
又は歌謠のいみじきを、又は舞踊の妙なるを、
戰よりもこれらをば好みて人は飽かんとす、
ひとりトロイア族人は常に戰鬪飽き足らず。』
しかく陳じて剛勇の將メネラオス敵將の 640
身より血染の武具を剥ぎ、そを同僚の手に渡し、
更に進んで先鋒の隊伍の中に加はりぬ。
625 メネラオスがヂュウスに對する祈を參照すべし(III 351 以下)。
633 惡事を爲すも天罰を被らざるは何故か、東西千古の疑問、ホメーロスは之を只ヂュウスの所爲に歸す。後來エスキュラス(アイシュロス)は之を運命(アナンケー)に歸す。
その時彼を襲ひしはピュライメネース王の息、
ハルパリオーン、戰を願ひて父のあとにつき、
トロイア訪ひし彼遂に歸國の運を惠まれず、 645
アートレ,デース携ふる盾のもなかを近よりて、
うてども堅き青銅を貫き通すことを得ず、
死の運命を逃るべく敵の刃を恐れつつ、
あたり見※し退きて友の間に身をかくす。
逃げ行く彼に矢を飛ばすメーリオネース過たず、 650
右の腰部を貫きて鋭き鏃、骨の下、
その膀胱を貫きて彼を地上に倒れしむ。
そこにさながら蟲のごと、その身をのして愛友の
手に抱かれて、いやはての呼吸を彼は引きとりぬ、
暗紅色の血の流れ凄く大地を濕して。 655
その介抱は勇猛のパプラゴニアの郷の友、
悲哀に沈み屍を車に乘せて神聖の
イリオン城に持ち返る、涙にくれてその中に
父は伴ふ、死せる子の復仇遂に遂げられず。
659 父ピュライメネースは V 576 以下に於て戰死、これらの矛盾は後世の※入ならむ。
されどもパリス死者のため心の憤怒甚し、 660
パプラゴニアにそのむかし彼の歡待受けたれば、
爲めに怒りて鋭き矢、絃上つよく射て飛ばす。
ユウケーノール(其父は豫言巧みのポリュイドス、
富みて勇あり、コリントス郷を住居となせるもの)
非命を遂に逃れずと悟りて船に乘り來る、 665
故は老いたるポリュイドス屡※彼に陳じ曰ふ、
惡き病を身に受けて其邸中に身まかるか、
若くはアカイア水軍のそばにトロイア軍勢に
殺さるべしと。かくて彼れ、心の惱み逃るべく、
アカイア人の刑罰と惡しき病魔を共に避く。 670
その耳のもと、顎の下パリスに射られ、その生氣、
彼の肢體を離れさり、暗黒彼を蔽ひさる。
663 同名の別人 V 148.
かくて兩軍炎々の焔の如く戰へり、
ヂュウスの愛兒ヘクトール、彼の軍勢水陣の
左に於てアカイアの軍に破られ、程も無く 675
アカイア勢は、――大地震り大地を抱くポセードーン、
アカイア軍を勵まして威力を之に加ふれば――
勝ちて光榮得るべきを未だ聞き得ず、知るを得ず、
先に盾持つ密集の敵の軍陣打ち破り、
その城門と壘壁に進みしほとり、彼は今 680
たてり、そこにはアイアース、プロテシラオス、乘りて來し
軍船白き激浪の寄する岸の上相ならび、
そこに築ける壘壁は最も低し、然れども
軍馬軍勢もろともに勇氣尤も甚だし。
675 ヘクトールより見て左。
ボイオートイとその被服長き民族イアオネス、 685
又ロクロイとプチィオイ、譽の高きエペーオイ、
急ぎて船を襲ひ來る敵將防ぐ、然れども
猛威さながら火の如きヘクトールをば攘ひ得ず。
685 II 494.
685 即Ionians――「被服長き」は戰裝に非ず。
アテーナイオイ軍中の精華率ゐて將たるは、
ペテオースの子メネスチュ,ス、同じく之に續けるは 690
ペーダス、ビアス、スチキオス。エペーオイ軍率ゐるは
ピュリュース生めるメゲースとアンフィオーンとドラキオス。
691 ペーダスとビアスとは前後他に現はれず、アンフィオーンとドラキオスも亦然り。
プチオイ族を率ゐるはメドーン並にポダルケ,ス、
オイリュウスの庶子にして、アイアースを兄とする
メドーンは先に其父の娶れる繼母エリオピス―― 695
繼母の族を討てるためピュラケーの地に移りにき。
ポダルケースはイピクロス・ピュラキデースの生めるもの。
ポダルケースとメドーンとの兩將舟を防ぎつゝ
プチオイ軍の先に立つ、ボィオートイともろともに。
693 ポダルケースは II 704.
オイリュウスの子アイアース、テラモーンの子アイアース、 700
互に近く相接し、たえて離るゝことあらず、
譬へば黒き牛二頭ひとしく勇氣ふりおこし、
頑丈の鋤牽く如し、力をこめて喘ぎつゝ、
牽けば獸の角の端、汗は淋漓と流れ出づ、
畦を踏み行く兩牛を別つはひとり琢かれし 705
頸木あるのみ、かくありて鋤は耕地の端に着く、
斯く二勇將彼と此、互に接し位置を占む。
その數多き勇猛の將士は共にテラモーン
生める勇士に伴ひて、汗と疲勞に彼の膝、
そゞろに弱りはつる時、彼より受けて盾を取る。 710
ロクロイ族は剛勇のオイリアデ,スに伴はず、
故は歩兵の戰に彼らの心安んぜず、
冠毛しげき青銅の甲を持たず、圓形の
盾また持たず、白楊の柄ある長槍携へず、
ひとり羊の毛を捩りし抛石紐と剛弓に、 715
たよりて遠くイリオンに伴ひ來り、その武具を
用ゐて後に屡※もトロイア陣を破りたり。
705 牛は頸によらず角によりて連結せらる(リーフ註)。
711 オイリアデースとはオイリュウスの子の意、即ちアイアース。
斯くて一部は精妙の武具を用ゐて先陣に、
トロイア及び青銅を穿つヘクト,ル敵と爲し、
一部後陣に身を隱し、矢と石飛ばし敵陣を 720
亂せばトロイア軍勢はすでに戰疲れたり。
かくてトロイア軍勢は、兵船ならびに陣營を
棄てゝ退き、風荒きイリオンさして歸らんず、
その時強きヘクト,ルにプーリダマスは寄りて曰ふ、
『あゝヘクトール、忠言に君は容易く耳貸さず、 725
戰術、衆に優るべき神の惠みの故をもて、
君また衆を智に於て凌がんことを念ずるや?
あらゆる能を一身に備へんことは得べからず。
ある一人に神明は戰ふ業を、又他には
舞踊の業を、又他には琴と歌とを授けたり、 730
又他の胸に轟雷のクロニオーンは智慮深き
心をおけり、これにより多數の人は利を受けむ、
衆を救はむ斯る人、最も智慮の徳を知る。
われ今君に最善と思ふところを陳ずべし。
君をめぐりて戰鬪の環は火の如く燃え立てり、 735
敵の壘壁、越せる後わが勇猛のトロイア勢、
あるひは武具を携へて休み、あるひは敵船の
ほとり、多數を敵として寡勢ながらに戰へり。
君いま脚を※らしてこゝに至剛のものを呼べ、
而して次に一齊に討議凝さん、神明の 740
助によりて敵軍に勝つべくあらば彼の舟――
漕座、數ある舟めがけ勢ひ猛く襲はんか、
あるは傷害受けぬ前、敵船あとに歸らむか、
恐るゝところ先きの害、敵軍われに報ふべし、
彼らの舟の中に、今戰飽かぬ一勇士 745
殘れり、しかも戰を思ひ棄てたるものならず。』
728 IV 320.
744 VIII におけるアカイアの敗北。
プウリュダマスはかく陳じ、ヘクト,ルこれを受け納れつ、
ただちに彼は武具を取り、大地に戰車おりたちて、
飛揚の羽ある言句もて友に向ひて陳じ曰ふ、
『プーリダマスよ諸々の勇將こゝに呼び來れ、 750
われ先づ行きて戰場に勤め、而して號令を
衆に下して、然る後また此場に歸り來ん。』
しかく陳じて白雪の山の如くに駈けいだし、
叫喚あらくトロイアと其友邦の陣、過ぎ行きぬ。
パントオスの子、勇猛のプウリュダマスの立つ處、 755
衆將ともにヘクト,ルの聲聞くときに寄せ來る。
彼は進んで先鋒の中に同僚探しゆく、
デーイポボスを、剛勇の王ヘレノスを、アシオスの
息アダマスを、更にまたヒュルタコスの子アシオスを。
彼は探せど見當らず、傷害うけず、助かりし 760
友は今無し、あるものはアカイア勢の手に亡び、
アカイア軍の水陣のほとりに近く横はり、
又あるものは壘壁の中に射られぬ、疵つきぬ。
753 非常に高き山の如くの意か、此比喩は前後に見えず、IV 462 に「塔の如くに進む」の句あり。
その悲慘なる戰場の左の端にヘクトール、
見出し得たり、鬢毛の美なる女性のヘレネーの 765
夫たるパリス、その友を鼓舞し戰勸むるを。
即ち近く進み來て彼は叱りて叫び曰ふ、
『無慙のパリス! 姿のみ美にして婦女に惑溺し、
欺瞞に馴るるあゝ汝、デーイポボスはいづくぞや?
勇將ヘレノスいづくにぞ、アシオスの子アダマスは? 770
ヒュルタコスの子アシオスは? オトリオニュウスはたいづこ?
高きイリオン崩るべし、汝も正に亡ぶべし。』
768 III 39.
姿は神に似るパリス、答へて彼に陳じ曰ふ、
『咎なきものを咎めんと念ずる汝、ヘクトール、
さきにはとまれ、戰場を今に逃るゝわれならず、 775
卑怯の者とわが母はわれを産みしにあらざりき、
舟のめぐりに戰鬪をなすべく汝、わが軍を
激せし以來こゝにたち、アカイア勢を敵として
弛まずわれら戰へり、汝の探す戰友は
討たれぬ、ひとりヘレノスと(彼は勇將)――その友の 780
デーイポボスは長槍に手は射られしも死を脱れ、
クロニオーンの助け得て、この戰場を立ちさりぬ。
雄志の汝進むべく命ずる處、軍勢を
導け、われら勇を鼓し、汝のあとに從はむ、
思ふに武力足るとせばわれら勇氣を失はず、 785
武力を越せる戰鬪は勇める者も能くし得ず。』
しかく陳じて同胞の心をパリス柔げつ、
かくして彼等混戰と苦鬪の荒き中に行く、
ケブリオネ,スと勇猛のプーリダマスとパルケース、
オルタイオスと神に似るポリペーテース、パールミュス、 790
アスカニオスとヒッポチオ,ン生めるモリュス立つほとり、
これら前の日、交替にスカニエーの豐沃の
郷より來る――クロニオーン今戰場に勵ましむ。
これら勇士の進むこと凄き颶風の吹く如し、
クロニオーンの轟雷によりて颶風は平原を 795
襲ひ、轉じて海洋に入りて擾亂起す時、
轟きわたる海洋の泡立つ潮高まりて、
溢れ流るる銀浪は、前に後に湧き起る、
斯くもトロイア軍勢は前と後と相迫り、
燦爛光る青銅を鎧ひ主將のあとを逐ふ。 800
プリアミデース・ヘクトールこれを率ゐて人類の
禍害アレース見る如く、圓き大盾、牛王の
皮はりつめて青銅を上に延したるものを手に
取りて、耀く頭鎧はその蟀谷の上搖ぐ。
盾をかつぎて進む前、靡くや否や、敵陣の 805
四方にわたり試みて勇將徒歩に馳け進む、
されどアカイア軍勢の心ひるますことを得ず。
濶歩し來るアイアース眞先に彼に挑み曰ふ、
『奇怪の汝、いざ寄せよ、など斯く汝アルゴスの
軍勢嚇す? わが將士つゆも未練の徒にあらず、 810
アカイア勢はただヂュウス降せし鞭に弱るのみ。
正しく汝心中に、われの軍船破るべく
念ず、されども速に我手は之を拒ぐべし。
むしろこれより先んじて汝の都城――人口の
豐かなるものわれの手に奪ひ取られん、荒されむ。 815
われは汝に今告げむ、時は迫ると、――クロニオーン
及びその他の神明に汝逃げつゝ祈る時、
平野を駈けて塵立つる軍馬汝をイ,リオンに
搬び去ること鷹よりも早くと汝祈る時。』
しかアイアース叫ぶ時、右手の方に現はるる 820
蒼旻高く翔ける鷲、アカイア兵士その祥に
勇みて叫ぶ聲高し、答へてヘクト,ル彼に曰ふ、
ああ大言のアイアース、汝何らの饒舌ぞ!
この日アカイア全軍に正しく禍難來る如く、
しかく確かに願くはアイギス持てるクロニオーン、 825
われその愛兒たり得まし――天妃ヘーレー母として、
アテーナイエー、アポロ,ンと同じ光榮惠まれて。
しかして汝わが長き槍に向ふを敢てせば、
亂軍中に殺されむ、槍は汝の柔き
膚つんざかむ、舟のそば倒れて伏せる汝その 830
肉を脂をトロイアの狗と鳥との餌となさむ。』
しかく陳じて先頭にたてばその友一齊に、
叫喚凄く續き來て士卒高らに後に呼ぶ。
こなたアルゴス軍勢は同じく叫び、勇猛の
氣を失はず、寄せ來るトロイア軍の勇士待つ。 835
その兩軍の喊の聲、天にヂュウスの宮に入る。
第十四歌
マカオーンを看病しつつあるネストール出でゝ戰況を見る。 負傷の諸將アガメムノーン、ヂオメーデース、オヂュッシュウスと語る。 アガメムノーンは退却すべしと説く。 オヂュッシュウス之を駁す。 ヂオメーデースの忠言に從ひ、諸將進んで衆軍を勵す。 ポセードーンはアガメムノーンを勵す。 神女ヘーレー計りてヂュウスを睡らしむ。 ポセードーン先頭に立ちアカイア軍を進ましむ。 アイアース大石を投げてヘクトールを氣絶せしむ。 トロイア軍退却。 アカイア諸將の戰功。
酒盃擧ぐれどネストール、かの喊聲を耳にして、
羽ある言句陳じ曰ふ、アスクル,ピオス生める子に、
『思へ、すぐれしマカオーン、このこといかに成り行かん?
血氣の子らの喊聲は舟のかたへに高まりぬ。
さはれ汝はこゝに坐し耀く酒盃傾けよ、 5
やがて鬢毛うるはしきヘカメーデーは温浴を、
汝の爲めに備ふべく、凝血洗ひ清むべし、
われは急ぎて展望の場に現状眺むべし。』
1 負傷のマカオーンをネストールは其陣中につれ歸る(XI 517 以下)。
しかく陳じてその子息、馬を御するに巧みなる
トラシュメーデ,ス陣中に殘せる盾を手に取りぬ、 10
そは青銅に輝ける精妙の武器、彼れの子は
代はりて父の盾とりき。老將はた又青銅の
鋭き槍を手に握り、陣外出でゝ眺むれば、
無慘やアカイア軍勢は破れ、トロイア軍勢は
勝に勇みて逐ひ來り、アカイア壘壁打破る。 15
暗澹として滄溟のうねり高まり、漠然と
やがて吹き來ん疾風の道告ぐる時、海の波
未だ左右のいづれにも向ひ捲き立つことあらず、
やがてヂュウスの手よりして疾風つよく襲ふべし。
斯くの如くに老將は胸裏二つの筋道を 20
決しかねつゝ佇立めり、駿馬を御するダナオイの
戰陣めがけ急がんか、アガメムノーンに向はんか、
思ひ煩ふ果に先づアートレ,デース訪ひ行くを
善しと判じぬ。かなたには兩軍互に相當り、
つらき青銅鳴りひびき、刀刃または兩刃の 25
槍を用ゐて彼と是紛々として屠り合ふ。
10 IX 81.
ヂュウスのめづる列王は船より出でてネスト,ルに
逢へり、鋭利の青銅に傷けられし諸將軍、
チューデーデース、オヂュシュウス、アガメムノーン。其船は
戰場はなれ、波さわぐ渚の上に揚げられき、 30
諸王の船は最前の列をなしつゝ陸の上、
最後の船の端近く壘壁長く造られき。
沙岸狹きに非ざれど、舟一切を悉く
並ぶるを得ず、軍勢は豐かに地所を占めがたし、
かくして彼ら幾列に舟を引き上げ、海岸の 35
廣き入口悉く滿たす高地の麓まで。
かくして諸王隊を組み槍を杖つき、もろともに
難戰苦鬪見渡して胸を傷めて悲めり。
そこに老將ネストール訪ひて、アカイア列王の
胸裏の思傷ましむ、アートレ,デース、衆の王、 40
その時飛揚の翼ある言句を彼に陳じいふ、
31 海に最も近きの意か、岸上に舟を引き揚げしことは I 486.
32 VII 338.
40 意味不明(リーフ)。ネストール負傷せずして來る、何故諸將は胸を傷ましむるや。
『ネーリュウスの子ネストール、アカイア軍の譽たる
君、何故に人間の禍害――戰場あとにして
こゝに來れる? われ恐る、かれ勇猛のヘクトール、
さきにトロイア陣中にのべてわれらを嚇したる 45
其言遂に成るべきを、われらの船を燒き拂ひ、
われらの軍を亡ぼして後イリオンに歸らむと。
ああ彼の言今にして程なく正に遂げられむ。
痛しいかな脛甲の堅きアカイア諸軍勢、
アキルリュウスともろともにわれに向ひていきどほり、 50
船嘴のかたへ戰ふを念ぜず、彼の胸中に。』
45 VIII 181. 526.
ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、
『さなり誠に君がいふ事は成るべし、眼の前に、
轟雷高きクロニオーン、彼すら之を變へがたし。
わが軍勢とわが船に對し、不落の防陣と 55
信頼篤くおきたりし壘壁遂に崩されぬ。
敵の軍勢わが船のそばに不撓の戰を、
續けて休むことあらず、又いかばかり探るとも、
いづれの側にアカイアの將士敗られ逐はるるや?
辨へがたし、紛々と屠られ、喊聲天に入る。 60
されど思念の效あらば、局面いかに動くべき、
こを今共に計るべし、されど渦中に加はるを
われは勸めず、傷負ひし將は奮鬪なしがたし』
アガメムノーン衆の王、彼に向ひて答へ曰ふ、
『ああネストール、衆軍は船首のほとり戰ひて、 65
而して堅き壘壁も又塹濠も效あらず、
そはダナオイ諸軍勢つとめて造り、胸中に
わが軍勢とわが船の防禦たるべく望むもの。
我は思ふに、クロニオーンこゝにわれらのアカイオイ、
アルゴス遠く此郷に空しく死ねと計らへり。 70
先に大神喜びてわが軍勢を助けたり、
我が知るところ彼は今敵に譽を神のごと、
與へて我の健剛の腕と力を縛りたり。
やむなし、されば今われの言に衆人耳を貸せ。
海にま近く陸上に揚げ据ゑられし諸の 75
舟をこぞりて今もとに海波の中に返し入れ、
之れに重みの石を附け、波浪の上に浮かしめよ、
「夜」の神聖の幕たれて、トロイア軍の戰を
やすまん時に、すべて他の舟、水上におろすべし。
夜間なりとも禍を免るることは恥ならず、 80
亡ぶるよりは禍を逃れ避くるを善しとせむ。』
計略富めるオヂュシュウス奮然睨みて彼にいふ、
『アートレ,デーよ、何らの語、君の齒端を洩れ出でし?
無慙なるかな、あゝ汝、汝は外の卑怯なる
隊率ゆべし、我が軍に主たるべからず――我軍の 85
少年及び老年の總に、高きクロニオーン、
最後の一人死する迄、奮戰苦鬪勉めしむ。
汝は斯くも廣街のトロイア都城さらんとや?
其爲われら忍びたる辛苦の量はいくばくぞ?
默せよ、外のアカイアにかかる言句をきかしめな、 90
正しき言を語るべく胸に叡智を持つ者は――
而して汝アルゴスに王たる如く、王冠を
戴き衆に服從を命ずる者は何人も、
かかる言句の齒端より逃れいづるを許すまじ。
我は全く汝今述べし計慮を善しとせず、 95
戰爭喊聲盛なる中に、われらの兵船を
海におろせと汝曰ふ、しかせばすでに優勝の
勢誇るトロイアはいよよ思の儘ならむ、
而して破滅敗亡の運命われに降るべし。
故はアカイア軍勢は兵船波に浮ぶ時、 100
其戰を續くまじ、四方を眺めて逃るべし、
汝の計慮成る果は斯る禍難を生み出でむ。』
アガメムノーン、衆の王、その時答へて彼にいふ、
『あゝオヂュシュウス、痛烈の叱りを以てわが心、
汝は刺せり、然れどもアカイア軍勢意を枉げて、 105
おのおの海に其船をおろせと敢へて我曰はず、
老少いづれは我問はず、優れし計慮抱くもの、
請ふ速かに現はれよ、われ喜びて耳假さむ』
ヂオメーデース、大音の勇士その時衆に曰ふ、
『その者正に前にあり、永く求むる要あらず、 110
汝らおのおの喜びて彼の言葉に耳を貸し、
衆中最も若しとて彼を侮ることなくば。
素生は卑しからざるを我は汝に敢て曰ふ、
父はチュウヂュウス、テーベーの異郷の土の掩ほふ者。
すぐれし三子そのむかし生める遠祖はポルチュウス、 115
彼らの郷はプリュウローン、又嶮要のカリュドーン、
長アグリオス、次ぎメラス、三は騎將のオイニュウス。
そはわが父を生めるもの、勇名尤も高かりき。
彼は故郷に、わが父は諸所の漂浪永き後、
ヂュウスと諸神の命のまゝ來てアルゴスの地に住みぬ。 120
アドラストスの娘らの一人を彼は妻として、
資産豐かに居を定め、あたりに麥の畑廣く、
又果樹多き地を領し、更に群がる牧羊を
飼ひたる彼は槍とればアカイア族を凌ぎけり。
わが曰ふところ誤か、汝等すべて聞きつらむ。 125
されば素性は賤しかる卑怯の者とおとしめて、
わが忠實に曰ふところ輕んじ笑ふこと勿れ、
いざ戰場に向ふべし、疵は負へどもやむを得ず。
されどかしこに行かん後戰なさず飛ぶ武器を
避けん、さらずば或者は疵又疵を重ぬべし。 130
されど是迄心中に怒を抱きたちはなれ、
戰はざりし人々を勸め戰地に行かしめむ。』
しか陳ずれば彼の言聽きて衆軍從へり。
斯くして彼ら動き出で、アガメムノーンこを率ゆ。
110 自己を指して曰ふ。
114 死して異郷に葬らる。
大地を震ふポセードーン其警戒は空ならず、 135
一老人の姿取り諸將と共に歩を進め、
アガメムノーン衆の王アートレ,デースの右の手を
取りて勵まし、翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
『アートレ,デーよ、今しがた、アキルリュウスの無慙なる
心、胸裏に喜べり、アカイア軍の敗亡と 140
死滅を眺め喜べり、ああ彼微塵の知慮も無し、
見よ彼やがて亡ぶべし、神靈彼を倒すべし。
さはれ汝に慶福の諸神は怒るところなし、
トロイア軍の將帥と首領はやがて廣原の
塵を揚ぐべく、汝また舟と陣營あとにして 145
イリオン城に逃れ去る彼等の姿眺むべし。』
しかく陳じて原上を走り乍らにポセードーン、
高らに叫ぶ。譬ふれば九千或は十千の
將士戰地にアレースの列に加はり叫ぶごと、
かかる喊聲胸よりし叫び出せりポセードーン、 150
かくしてアカイア軍勢のそのおのおのの心中に、
はげしき威力増し加へ不撓のいくさ勵ましむ。
今黄金の王座もつ神女ヘーレー高らかに、
ウーリュンポスの頂にたちて見おろし、忽に
功名來たす戰場に彼の同胞――しかもまた 155
彼の義弟の――ポセードーン奮ふを眺め喜びつ、
更に清泉豐かなるイデーの峯の絶頂に
クロニオーンの坐せる見て心に深く憎しめり。
その時牛王の目を持てるヘーレー思ひ※らして、
アイギス持てる大神の心欺く道究め、 160
やがてすぐれし計略と自ら思ふものを得つ、
即ち容姿整へて行きてイデーの峯を訪ひ、
クロニオーンの情慾をそゝり、かくして閨房に
もろとも入りて、歡會の果にいみじき甘眠を
彼の眼蓋にそゝぐべく彼の聰明蓋ふべしと。 165
神女かくして室に入る、室は彼の子、神工の
ヘーパイストス彼れの爲め造りたるもの、祕密なる
閂用ゐ堅めたる其戸、他神は犯し得ず。
ヘーレーかくて室に入り其燦爛の戸を閉ざし、
まづアムブロシヤふりかけてその艶麗の肢體より 170
汚れを清め、柔かく芳薫強き膏油もて
膚を塗りぬ、其薫りクロニオーンの青銅の
戸を備へたる宮の中、ゆらがば餘香天上に
いみじく布かむ、下界にもなごりの薫傳はらむ。
かく膏油もて艶麗の身を塗り終り、手を揚げて、 175
其神聖の頭より、長く流れて垂れさがり、
薫りあふるる鬢毛を梳りつゝ編み上げつ、
つぎに神女はアムブロシヤ匂ふ衣を身に纒ふ、
そは精妙にアテーネー、縫ひて刺繍を添へしもの、
そを胸の上、黄金の襟留用ゐ着けし後、 180
百の總ある艶麗の帶を纒ひて腰につけ、
更に左右の耳の下、三つの珠ある寶環を
垂るれば、照す燦爛の光あたりにかがやけり。
輝く神女更にまた華麗の面※、日輪の
如くにひかるものを取り、いみじく面を掩はしめ、 185
次に同じく光ある脚に美麗の履穿つ。
斯くして神女莊嚴のすべてを以て身を飾り、
其室いでて神明の群の中よりただひとり、
アプロヂイテー招きつつ、彼に向ひて陳じいふ、
156 ヘーレーと共にクロノスを父とするポセードーンはヂュウスの弟、而してヂュウスはヘーレーの夫、故にポセードーンは又ヘーレーの義弟。
『わが子よわれの乞ふ所、汝はわれに應ずるや? 190
或は汝わが言に背くや? 汝はトロイアを、
救ふに反し、アカイアを我の救ふに腹立てて。』
アプロヂイテー、艶麗の神女答へて彼にいふ、
『ああおほいなるクロノスのむすめ、ヘーレー、端嚴の
神女、陳ぜよ君の旨、其旨われは遂げしめむ、 195
我にしかする能あらば、又遂げ得べき事ならば。』
その時神女、端嚴のヘーレー計りて彼にいふ、
『與へよ我に情慾と愛との祕術――これにより
神靈及び人間を汝の制し馴るるもの。
故は我今萬物を育つる大地の果に行き、 200
諸神を産めるおほいなるオーケアノスとテーチュスを
訪はんと欲す、クロノスを大地の下に、海濤の
搖ぎの下にクロニオーン、投げしむかしにかの二神、
レーアの手よりわれを取りその宮中に育みき。
我今訪ひてはてしなき彼らの爭とめんとす、 205
瞋恚を胸に蓄へて互に離れ、温柔の
閨を分ちて、抱擁を彼ら永くも忘れたり。
甘言をもて説き勸め、再び閨を共にして、
互に熱き抱擁の昔に彼ら返し得ば、
我はうれしきよき友と彼らに永く仰がれむ』 210
201 ホメーロスによれば(ヘーシオドスの説と異る)神々は皆オーケアノスとテーチュスとより生る。(アキリュウスの母神テチスと混ずべからず)ヘーシオドスによればオーケアノスはウラノスとゲーアの子にして其妻たり妹たるテーチュスと共に三千の河流を生む。
204 レーアはクロノスの妹及び妻、――ヂュウス、ヘーレー、ポセードーン、皆其生むところ。
嬌笑愛づる艶麗のアプロヂィテー答へいふ、
『君の御言に背くこと、然るべからず、叶ふまじ、
天威かしこきクロニオーン、御腕に君を抱き給ふ。』
しかく陳じて腰のへの寶帶解きぬ、精巧を
極めたる者、その中に種々の魅惑の籠るもの、 215
こゝに戀あり、そこに媚、燃ゆるが如き情熱と、
また温柔の戲れと――賢者も心迷ふもの、
其寶帶を手渡してアプロヂィテー彼にいふ、
214 原文には「胸のへの。」
『あらゆる祕法こもりたる此精巧の帶取りて、
君の御膚につけ給へ、君の心に願ふもの、 220
遂ぐることなくいたづらに歸り來給ふことあらじ。』
しか陳ずれば牛王の眼のヘーレーはほゝゑみぬ、
ゑめる神女の端麗の膚に寶帶まとはりぬ。
アプロヂィテー艶麗の神女其家さして去り、
ヘーレー高きオリュンポスあとに急ぎて飛び降り、 225
ピイエリエイとうるはしきエーマチエーを通り過ぎ、
トレーケースの騎兵らの領する雪の山の上、
其絶頂の峯こして脚は大地に觸るるなく、
アトス下りて激浪のとどろく海に、又嗣ぎて
勇武恰も神に似るトアスの領のレームノス、 230
着きて睡の靈に逢ふ(そは死の靈と同じ胞)
即ち彼の手をとりて彼に向ひて陳じ曰ふ、
226 マケドニアの南部にあり。
『睡の靈よ、一切の神と人との主たるもの、
汝は先にわが言を聞けり、願はくは今も聽け、
即ちわれの一生を通じて感謝捧ぐべし。 235
ヂュウスのかたへ温柔の閨にわが身の臥さん後、
直ちに彼の眉の下、耀く眼を睡らせよ。
酬としては黄金の不壞の玉座を贈るべし、
双腕固きわが愛兒ヘーパイストス、精妙に
造らんところ、其下に又足臺を備ふべし、 340
食事の際に汝その耀く脚をおかん爲め。』
甘き睡の靈彼に答へて即ち陳じいふ、
『ああおほいなるクロノスの生めるヘーレー、わが神女、
永遠不死の神々の他のいづれをもわが力、
眠らし得べし、おほいなるオーケアノスの流さへ、 245
其流こそ一切を生めるものなれ。然れども
クロニーオーン・ヂュウスには近寄ることを得べからず、
又かれしかく命ぜずば眠らすことを得べからず。
クロニオーンの勇しき愛兒、トロイア亡ぼして
イリオンあとに波の上去りしかの時、我れ痛く 250
君の下せる命の故懲されたりき、苦みき。
アイギス持てる天王に我は甘美の氣を注ぎ、
彼の心をくらましき、その時君は彼れの子に
禍難たくらみ、大海のおもに暴風吹きおこし、
友より遠く人口の多きコオースに驅りさりき。 255
覺めたる後にクロニオーン痛く怒りて、宮殿の
ほとりに諸神ふりとばし、特にわが身を追ひ求め、
天上遠く追ひ拂ひ海に投げんと激したる――
その時神と人間を治むる「夜の神」のもと、
われ逃げ來り救はれき、足とき夜を惱ますを 260
恐るる故にクロニオーン・ヂュウス怒を抑へたり。
なすまじき行爲今君は再び我に命ずるや?』
249 ヘーラクレースがトロイアを破りしこと V 638 以下。
253 ヘーラクレース。
その時牛王の目を持てるヘーレー答へて彼にいふ、
『睡の靈よ、何故にこれらを思ひ煩ふや?
ヘーラクレ,スの故に因り怒れるヂュウス、轟雷の 265
クロニーオーン、トロイアに救援貸すと思へるや?
我は汝に妙齡の天女のひとり與ふべし、
汝のつねにあこがれしパーシテエーを與ふべし、
彼は汝と婚すべく汝の妻と呼ばるべし。』
266 クロニーオーン心ならずもトロイアに應援するなり。第一歌以來曰ふ如し。
268 268は大概の版に省かる。
しか陳ずれば喜べる睡の靈は答へ曰ふ、 270
『然らば盟へ、スチクスの犯すべからぬ水により、
片手をもつて豐沃の大地に、他の手を以て
耀き光る海に觸れ、盟へ、然らばクロノスと
共に深きにある諸神、われの間の證たらむ
君今われに妙齡の天女のひとり與ふべし、 275
わが身のつねに憧れしパーシテエーを賜ぶべしと。』
271 冥府の川。
玉腕白きヘーレーはその時つゆもためらはず、
願のままに盟ひつつ、チーテーネスの名を負ひて、
タータルロスの下にある諸神を呼べりおごそかに。
ヘーレーかくておごそかの盟を果す。然る後、 280
二靈は共にレームノス、イムブロス二都あとにして、
霧に包まれ速かに其行程を進め行く。
荒き野獸を生む處、泉豐かのイデー中、
先に海より上り來てつきしレクトン經たる後、
歩を進むれば足の下巨大の林みな震ふ。 285
ヂュウスの眼に寫る前、睡の靈は丈け長き
樅の木のぼり身をひそむ、イデーの山に生じたる
最も高きその巨木、雲霧つらぬき天に冲る、
其樅繁る枝のあひ、聲玲瓏の山鳥の
姿をとりて身を潜む、神の間に其鳥は、 290
カルキスといひ、人間に呼ばるる其名キュミンヂス。
278 英語タイタンス、獨逸語=チターネン。
279 冥府。
ヘーレー斯くて速かにたかきイデーの頂の
ガルガロンに近寄るを雷雲寄するクロニオーン、
眺むる時に、其むかし親の眼掠め、閨房の
中に隱れて温柔の戀の戲せし如く、 295
激しき情火、思慮深き彼の心をそそらしむ。
即ち女神の前に立ち、ヂュウスは彼に陳じいふ、
『ウーリュンポスを降り來てヘーレー何を望めるや?
汝の常に乘り慣るる馬も車も我は見ず。』
293 VIII 48 ガルガロンにヂュウスの殿堂あり。
その時神女、端嚴のヘーレー計りて彼にいふ、 300
『われは萬物養へる大地の端を訪ひに行く、
又もろ/\の神生めるオーケアノスとテーチュスを。
彼らはむかし其館に我をはぐくみ養へり、
我今彼ら訪ひ行きて果なき敵視解かんとす、
永きに亙り爭ひて彼等心に憤り、 305
其閨房と抱擁を互に離ち分れたり。
又堅固なる陸の上、又風浪の海の上、
わが驅る馬は清泉のイデーの山の下に立つ。
ウーリュンポスをわれこゝに降り來るは君のため、
われ一言を述べずして、オーケアノスの激流の 310
深きやどりを訪ひ行かば、君の怒は恐るべし。』
雷雲寄するクロニオーン其時答へて彼に曰ふ、
『ヘーレー、汝、かれの許訪ふは今とし限るまじ。
いざ温柔の床の上、燃ゆる思を晴すべし、
女神或は人界の女性に向ふ情念は、 315
かばかりわれに迫り來て胸を充たせし事あらず。
智謀恰も神に似しペーリトオスを産めるもの、
イキシーオーンの愛妻をわれ斯く迄は愛でざりき、
アクリシオスの娘たる脚美はしきダナエーも、
(勇士すべてに勝れたるペルシュウスは其子息) 320
高き譽のポイニコス其娘にてわが爲めに
ラダマンチュース、ミーノース生みたる彼もかばかりは。
ヘーラクレース生みいでしアルクメネーもかく戀ひじ、
またセメレーも、かく戀ひじ、すべての人の喜の
ヂオーニソスを産みいでし彼れ艶麗のセメレーも、 325
デーメーテール、鬢毛の美なる女王も、光榮の
神女レートーも亦さなり、更に先には汝をも、
情念燃ゆる今の如かく戀したることあらず。』
317 317―327 をアレクサンドリアの評家は斥けたり。
318 愛妻の名はホメーロス詩中に見えず、神話によれば其名はヂーアー(リーフ)。
320 海魔を殺しアンドロメダを救ふ。
322 ユーローパ。
その時ヘーレー、端嚴の神女謀りて彼にいふ、
『天威かしこきクロニデー、何らの言を宣んするや? 330
高きイデーの峯の上、あらゆる事のあらはなる、
そこに温柔の床の中、君は臥さんと思すとや?
常住不壞の神明のあるものわれら眠る見て、
行きてあらゆる神々に之を告げなば何とせむ?
その温柔の床を出で、再び君の宮殿に、 335
到らんことは叶ふまじ、何らの恥辱! 耐へがたし。
されども君の御心は強ひても、しかく望まんか、
かれに室あり、君の御子ヘーパイストス、君のため
造りて、これに堅牢の戸を具へたる室かれに、
かしこに行きてかたらはむ君は臥床を求むれば。』 340
雷雲寄するクロニオーンその時答へて彼に曰ふ、
『ヘーレー、汝、此事を人間あるは神明の
見るを恐るること勿れ、われは汝を黄金の
雲に包まむ、エーリオス眼光他より鋭くも、
之を貫き、われ/\の姿伺ふことを得じ。』 345
344 太陽。
しかく宣んしてクロニオーン神女を腕に抱き取れば、
大地は下に聖くして新たの草花生ぜしむ、
露を帶びたるロートスと番紅花及び風信子、
厚くてしかも柔かに地上離れて神支ふ。
そこに二神は添ひ臥して、黄金の雲美しく 350
之を蔽へば、燦爛と輝く露ぞ降り來る。
ガルガロンの頂きに眠と戀に制せられ、
腕に神女を抱きつつ、クロニーオーンかく眠る。
甘き眠の靈かくてアカイア軍の水陣に、
大地を抱き又震ふ神に使命を傳へ行き、 355
即ち之に近きて飛揚の羽ある言句いふ、
『ダナオイ族に、ポセードーン、今し勇みて力假せ、
しばしなりとも光榮を加へよ、ヂュウス眠る中、
甘美の眠かれの上われは注げり、更に又
ヘーレー彼を温柔の床に迷はしやすましむ。』 360
眠の靈はかく陳じ、アカイア軍の救援を
ポセードーンに勵まして、譽の群に飛び去りぬ。
直ちに神は先鋒の中に飛び出し叫び曰ふ、
『アルゴスの子よ、見過すやプリアミデース・ヘクトール、
勝を制して舟奪ひ功名たてて喜ぶを? 365
ペーレーデース憤ほり舟に停りて出でざれば、
まさしく事の成るべきを彼は陳じて誇らへり。
されどもわれら一齊に相互の間に力假し、
奮はばさまでアキリュウス・ペーレーデース要とせじ。
いざ今我の命のまゝ全軍こぞり奮ひ立て! 370
戰陣中に最上の、又最大の盾かつげ、
光耀く青銅の甲に頭守らせよ、
手に最長の槍をとれ、奮つて進め、われ先に
立ちて汝を導かん、思ふに敵將ヘクトール、
プリアミデース、勇むとも永く留ることあらじ。 375
勇猛なるも肩の上、掩へる盾の小さき者、
之を劣れる人に假し、おのれ大なる盾を取れ。』
しか陳ずれば衆軍は容易く聽きて從へり、
しかして疵を負ひたれど列王立ちて列につく。
チューデーデース、オヂュシュウス、アートレ,デース、衆の王、 380
みな戰陣の中を行き戰鬪の器を取り換へつ、
勇者は優る武器を取り、劣れる者は劣る器を。
かく耀ける青銅に身をよろひたる諸將卒、
其先頭に身をおきて、大地を震ふポセードーン、
其強き手のふりかざす鋭き劔は恐るべく、 385
さながら電火飛ぶ如し、之に對して何人も
戰場中に立つを得ず、驚怖は彼を妨げむ。
されどもかなたヘクトール、トロイア勢を整へり、
かく黒髮のポセードーン、又光榮のヘクトール、
彼はアカイア軍勢に、これはトロイア軍勢に、 390
力を假して戰の氣運飽く迄熟せしむ。
その時アカイア水軍と其陣營に大海は
波打ち寄せつ、兩勢は喊聲高く相討てり。
北吹く風の恐るべき呼吸によりて、滄溟の
淵よりかられ、岸上に寄する波浪もかく吠えず、 395
溪谷深く炎々の焔を揚げて森林を、
猛火はげしく燒き拂ふその轟きも亦若かず、
樫の巨木の頂きに高らに叫ぶ疾風の
怒り狂へる咆哮の極みの音も亦若かず、
トロイア、アカイア兩軍の將士互に相襲ひ、 400
戰ふ時に物凄く擧ぐる怒號の雄叫びに。
392 詩的轉囘、――單純にして效果大なり。394 以下は後世の※入か。
眞先き譽のヘクトール槍を飛ばしてアイアース
まともに向くを覘ひうつ、覘外れず、然れども、
二條の胸綬――盾の帶、又銀鋲をちりばめし
劔の帶と胸の上、重なるところ打ち當つる、 405
當つれど肉を傷けず、之を眺めてヘクトール、
飛ばせし槍の效なきに怒り乍らも退きて、
死の運命を免るべく隊伍の中に身を潜む。
退く彼を勇剛のテラモニデース・アイアース、
船の支となる石の、――勇士戰ふ脚下に 410
ころがる石の一つとり、高らにあげてヘクト,ルの
かざせる盾の縁の上、首もと近く胸打ちて、
獨樂の如くに轉々と巨大の肢體※らしむ。
クロニオーンの雷撃に樫の大木根こそぎに
倒れ、そこより硫黄の香もの凄しく湧き起り、 415
傍へに立ちて見るものの心肝爲におぢ震ふ、
(雷雲よするクロニオーン、その電撃ぞ恐ろしき、)
かく剛勇のヘクトールどうと倒れて塵に伏し、
槍は離れて手より落ち、盾また次ぎて頭鎧と
共に地に落ち、燦爛の青銅の武具高鳴りぬ。 420
その時アカイア軍勢は高く叫びて寄せ來り、
彼を曳きずり去らんとし、激しく迅く槍を投ぐ、
されど誰しも投げ槍にまた突く槍に敵將の
身を疵つくることを得ず、救の諸將集れり、
プーリダマスと勇猛のアゲーノールとアイネ,アス、 425
リキエー軍を率ゐたるサルペードーン、グロウコス、
其他の勇士ひとりだも彼を思はぬものあらず、
彼を蔽ほふて圓形の盾をおの/\突き出す、
諸友はたまた腕に抱き戰場よりし運び出し、
後陣にありて待ちわぶる軍馬並に美しく 430
飾れる兵車、また御者のかたへに彼を連れ來り、
はげしく呻めく將軍を乘せて都城に歸らしむ。
かくしてかれら永遠のクロニオーンの産み出でし
渦卷く流れクサントス清き岸のへ着ける時、
兵車よりして地の上に彼をおろして水そゝぐ、 435
即ち呼吸ふきかへし眼を開き天仰ぎ、
膝をつきつつ黯黒の血をもの凄く吐き出し、
やがて再び地に倒れ、目は暗黒の夜の中に
蔽はれさりて、被むりし打撃に魂をめいらしむ。
こなたアカイア軍勢は將ヘクトール去るを見て、 440
ます/\勇を振りおこし、トロイア軍に攻めかかる、
中にはるかに拔きんじてオイリュウスの子アイアース、
鋭き槍を振りあげて突けり敵將サトニオス。
水の仙女と契りつゝ彼を生めるはエーノプス、
サトニオイス岸の上、牛を牧ひたるエーノプス。 445
槍の名將アイアース近く迫りて敵將の
其脇腹を貫けば仰ぎ倒るゝ其めぐり、
トロイア及びアカイアの二軍はげしく相討てり。
斃れし友を救ふべく同じく槍に秀でたる
プーリダマスは寄せ來る、パントーオスの生める彼、 450
槍を飛ばして右肩にアレーイリュス生める息
プロトエ,ノール覘ひ打つ、打たれて彼は地に伏せば、
プーリダマスは傲然と大音あげて叫びいふ、
『パントーオスの武勇の子、其剛強の手よりして、
槍は空しく飛ばざるを見よや、アカイア軍勢の 455
一人之を身に受けぬ、思ふに彼は杖として、
之に身を寄せアイデース住める冥府におり行かむ。』
452 ボイオーチアーの將 II 495.
457 冥府の王。
しか叫びたる高言を聞きてアカイア軍勢に
悲哀起りて、なかんづくテラモニデース・アイアース、
そばに斃れし友を見て痛く心を惱ましむ。 460
退く敵に速かに彼は輝く槍とばす、
されども之を外づし得てプーリダマスは片側に
跳びて死命を免れつ、アンテーノール生みいでし
アーケロコスは神明の旨より槍を身に受けぬ。
槍の突きしは脊柱の至上の局部、――彼の頸、 465
頭に繋ぎ合ふ所、――槍は二條の筋を截る。
彼の頭と口と鼻、斯くして脛と膝とより
遙に先きに地に落ちて塵埃中に横はる。
その時勇むアイアース、プーリダマスに叫び曰ふ、
『プーリダマスよ思ひ見よ、プロトエ,ノールの酬とし、 470
此ものこゝに斃さるる價あらずや? 思ひ見よ、
わが見る所卑賤なる素生にあらず此將士、
馬術すぐれし老將のアンテーノール産める子か?
或は彼の同胞か、容姿頗る彼に似る。』
464 XII 100.
實を知れどもしか陳じトロイア軍を嘆かしむ。 475
其斃れたる同胞の近きに寄れるアカマース、
屍の足を曳かんずるボイオーチア,のプロマコス、
槍に斃して大音に傲然として叫び曰ふ、
476 アーケロコスの同胞、プロマコスは初めて現はる。
『弓勢荒るるアカイアの軍勢、汝ぢ脅喝に
厭かず、辛苦と不幸とは獨りわれらのものならず、 480
汝ら共に一齊に同じく打たれ亡ぶべし、
見ずや汝のプロマコス、わが鋭刄に亡され
眠るを、われの同胞の血の復讐は遠からず、
必ず成らむ、さればこそ人は願へり、其仇を
返す族人、其家のあとに殘りて留るを。』 485
その高言に悲めるアカイア勢の中にして、
特に心を傷めたるペーネレオース、すぐれたる
勇將たちて奮然とアカマ,スめがけ突きかかる、
アカマ,ス逃げて鋭刄はイリオニュースを打ち斃す、
トロイア族の中にして神ヘルメース特にめで、 490
牛羊多く富ましめしポルバスの息――唯一の
子息と彼の妻産みしイリオニュウスを打斃す。
額の眞下つんざきて酷く突き入る鋭刄は、
眼※の外に眼球を飛び出でしめつ、頭蓋の
裏に通れば手を張りて敵は地上に倒れ伏す。 495
ペーネレオースまた次いで鋭利の劔拔き放ち、
頸を目がけて打ちおろし、兜とともに其頭
斬りて地上にまろばしむ、しかも長槍また拔けず、
眼を貫ぬける、その儘に頭を高く手にとりて、
トロイア勢に示しつゝ傲然として叫びいふ、 500
『トロイア勢よ、すぐれたるイリオニュースの父母に
わがため告げよ、失せし子を其宮中に悲めと、
同じく我のプロマコス――アレゲーノールを父とする
彼を其妻歡びて迎へ得ざらむ、トロイアを
あとに航してアカイアの壯士故郷に歸る時。』 505
491 492 ポルバス及イリオニュース前後に無し。
しかいふ言に敵軍のすべては震ひおののきつ、
各々あたり見※して破滅逃るる術思ふ。
ウーリュンポスを家とする歌の神女ら乞ふ告げよ、
大地を震ふポセードーン戰機一たび換へし後、
アカイア軍の中にして誰か眞先に敵人の 510
武具を剥ぎしや? アイアース・テラモニデースそれなりき。
ギュルチアデース・ヒュルチオス、ミュソイの將を彼うてり。
アーンチロコスはパルケースまたメルメロス剥ぎ取りぬ、
メーリオネースはヒポチオーン及びモリュス打取りぬ、
チュウクロスは討つ敵の將、ペリフェーテース、プロトオーン、 515
アートレ,デース之に次ぎ、ヒュペーノール敵將の
腹部を突きて斃れしむ、其槍突きてもの凄く、
臟腑を外に溢れしむ、受けたる重き疵口を
逃れて魂は急ぎ去り、暗黒彼の目を閉ぢぬ。
されど最も數多く敵をうちしはアイアース、 520
オイリュウスの子――何人もかく迅速に敵打たず、
クロニオーンのおどかしに逃げ行く群の後逐ひて。
第十五歌
ヂュウス目を覺まして戰況を眺め、ヘーレーを叱り責め、イーリスを遣はしてポセードーンを退かしめ、アポローンに命じてヘクトールを助けしむ。 ヘクトール負傷より囘復し、アポローンの援助により進んでアカイア軍を討ち、敵の退却を逐ひ、塹濠と壘壁とを越す。 パトロクロス此戰況をユウリピュロスの陣營に於て眺め、急ぎアキリュウスを説服せんとす。 アカイア軍は前線の水師より退く。 テラモニデース、甲板に立ちヘクトールが燒かんとするプロテシラオスの舟を防ぐ。
柵と塹濠過ぎ越えて、トロイア軍は蒼惶と
逃れ走りつ、アカイアの軍勢の手に粉々と
打たれて、戰車待つ處來りて陣を整へつ、
恐怖に滿ちて蒼然と面色かへて立てる時、
黄金の座のヘーレーのかたへ、イデーの峯の上、 5
目を覺したるクロニオーン、立ちて二軍の樣を見る、
トロイア軍は破られて逃れ、其あと逐ひせむる
アカイア勢をポセードーン勵まし進め、こなたには
地上に伏せるヘクトール、其友僚に圍まれて
呻吟の聲たえ/″\に氣を失ひて血を吐けり、 10
彼を打てるはアカイアの衆中弱き者ならず。
彼を眺めて人天の父クロニオーン憐みつ、
目を怒らしてヘーレーに向ひ即ち宣んし曰ふ、
3 トロイア軍は先に塹濠の前に戰車を殘して進み來れり(XII 75 以下)。
『ヘーレー、汝、狡獪の策を弄して勇猛の
將ヘクト,ルを退けて、トロイア軍を敗れしむ。 15
憎き汝の奸計の報の果はいやさきに
汝に來ずと誰かいふ、われは汝を鞭うたむ、
思ひ出でずや、高きより吊られし汝兩脚に
金砧垂れて、黄金の堅き鎖は汝の手、
解くべからずに縛りしを、其時汝雲中に 20
懸りて諸神これが爲めウーリュンポスに悲みき、
近寄り汝救ふべく彼らの力空なりき。
わが手の攫み取りしもの天より遠く地の上に
投げ落されて氣は絶えぬ。されども依然わが心、
ヘーラクレースめで思ひ悲む苦惱解けざりき。 25
かの時汝、風の神ボレエースより助力得て、
嵐を起し、奸計を工みて荒るる海の上、
わが子を放ちコオースの戸口豐かの地にやりぬ、
我はそこより救ひ出し、牧馬に富めるアルゴスの
郷に再び辛勞を盡せる後に齎らせり。 30
汝このこと思ひ出で奸計またとたくらむな、
狎戲並に閨房のたくみ汝を救ひ得じ、
諸神はなれて閨房に汝は我を欺けり。』
18 かかる刑罰當時に行はれき、『オヂュッセーア』XXII 173 に牧人メランチュースかく苦めらる。
24 I 590.
25 XIV 253 以下。
しか宣んすれば牛王の目のヘーレーはおののきつ、
即ち飛揚の翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、 35
『ああわが爲に證者たれ、大地並に宏大の
上天並に地の底の流スチュクス――神明に
とりて最も恐るべき、又おほいなる盟の語――
又神聖の君の頭、またわれ/\の合歡の
閨房――之に僞りの盟は掛けず――證者たれ、 40
大地を震ふポセードーン、わが命により、トロイアの
軍勢並にヘクト,ルを害せしならず、其敵を
助けしならず。恐らくは自ら進み斯くなせり、
船のかたへに惱みたるアカイア勢をあはれみて。
さもあれ我は忠言を彼に致して、雷雲を 45
集むる君の命のまゝ其道行くを勸むべし。』
しか陳ずれば人天の父なる神はほゝゑみつ、
即ち飛揚の言句もて彼に向ひて宣んし曰ふ、
『汝、牛王の目を持てるヘーレー、此後群神の
席に臨みて心想をわれと同じうするとせば、 50
かのポセードーン、其願いかほど我に反するも、
直ちに念を飜へし、われに汝に從はむ。
汝誠に僞らず正しく所念述ぶとせば、
今群神の集の中に訪ひ行き、イーリスを、
また銀弓のアポローンを、呼びてこなたに來らせよ。 55
青銅鎧ふアカイアの陣にイーリス使して、
大地を震ふ海の王ポセードーンにまのあたり、
戰やめて其家に歸らんことを命ずべし
しかしてポイボス・アポローン、彼はヘクト,ル促して、
また戰場に進ましめ、勇氣を彼に吹き込みて、 60
今其心惱ませる苦痛を忘れ去らしめん。
かくしてアカイア軍勢に未練の恐怖起さしめ、
再び之を破るべし、敵は逃れてなだれ落ち、
ペーレーデース・アキリュウス領する船に退かむ、
パートロクロス、彼の友かくて出づべし、然れども 65
サルペードーン、わが愛兒及び諸勇士うてる後、
イリオン前にヘクト,ルに打たれん、ついでアキリュウス、
仇を報ゐて光榮の將ヘクトール殺すべし。
その時以來舟師より、わが意によりてトロイアの
軍の退却ひき續き、遂にアカイア軍勢は、 70
アテーネーの助より、堅城トロイア亡さむ。
されど其時到る迄我は恐を續くべく、
ダナオイ族に他の神の救援絶えて許すまじ、
やがてペーリュウス生める子の念願成らむ、初め我れ
約して頭うなだれて諾せし如し、かの時に 75
都城を破る剛勇のアキルリュウスを榮すべく、
神母テチスはわが膝にすがり情願切なりき。』
47 甘言を聞きてヂュウス喜ぶ(I 595 以下)。
54 54―77 ヂュウスの言によりて戰局の未來を述ぶ。
71 木馬の計略によりてトロイアを亡す(オヂュッセーアの IV 272 等)。
75 I 500 以下。
しか宣んすれば腕白き神女ヘーレーかしこみて、
ウーリュンポスの頂をさしてイデーの山を出づ。
譬へば諸國經※りて、其胸中に「彼の郷に 80
あらまほし」など又其他、更に多くの情願を
抱ける人の想念の、自由に迅く飛ぶ如く、
かく迅速に端嚴のヘーレー其歩進めつつ、
ウーリュンポスの頂に着きてヂュウスの宮の中、
共につどへる群神のまとゐに近く寄り來る、 85
來るを眺め群神は盃取りて相迎ふ。
されどヘーレー顧みず、ひとりテミスの手よりして
盃とりぬ、紅頬の若き神女はいやさきに、
立ちて向ひて翼ある言句を彼に陳じ曰ふ、
87 ヂュースに使ふる神女の一。
『何らの故の來臨ぞ? ヘーレー、御心病むと見ゆ。 90
クロニーオーン、君の夫、君を恐らく脅せしか?』
玉腕白き端嚴のヘーレー答へて彼に曰ふ、
『神女テミスよ、其事をことさら我に曰ふ勿れ、
彼の心の驕傲を又剛愎を汝知る。
今堂上に群神の宴を初めよ、クロニオーン 95
何等不祥の行を宣んし述ぶるや、不滅なる、
集る諸神もろともに汝親しく學び得む、
こを聞きながら宴席を樂み好む者あらば、
人天中の何者も之を喜ぶこと無けむ。』
しかく陳じて端嚴のヘーレーおのが座につけば、 100
クロニオーンの宮中に諸神ひとしく悲めり。
其紅唇は微笑めど神女の黒き眉の上、
額は晴れず憤然と衆に向ひて陳じ曰ふ、
『ヂュウスに對し思慮淺く怒るわれらは愚かなり、
言葉或は力もて迫りて彼の爲すところ、 105
妨碍するは愚かなり、見よ見よ彼は遠ざかり、
絶えてわれらを顧みず、神明すべての中にして
威力と勇氣明かにおのれ無上と誇らへり、
いかなる禍難下すともおのおの之を耐へ忍べ。
思ふに今しアレースに彼は災加へたり、 110
見よ戰場にアレースの、威力はげしきアレースの、
最愛の子と呼べるものアスカラポスは斃れたり。』
112 XIII 518.
その時アレース平手もて、其たくましき双の股
はげしく打ちて、愁嘆の聲を放ちて衆にいふ、
『ウーリュンポスに住める友、われを咎むること勿れ、 115
愛兒の仇を報ふべくアカイア水師襲ひ討ち、
ヂュウスの雷火身を碎き、血と塵埃にまみれたる
戰死の群に加はるるは、われの運命ならんとも。』
しかく陳じて「逃走」と「恐怖」に命じ戰の
裝ひ馬に備へしめ、身に燦爛の鎧着る。 120
やがて未曾有のおほいなる憤怒瞋恚は恐るべく、
クロニオーンの手よりして諸神の上に落ちんとす、
されど藍光の眼光るアテーナイエー、群神の
惱を患ひ座より起ち、堂の戸口を過ぎ行きて、
アレース神の頭より肩より盾と兜とを、 125
又青銅の大槍を其剛強の手より取り、
荒るるアレース誡めて叱りて彼に陳じ曰ふ、
119 ダイモスとポボス、人化して曰ふ。IV 440. IX 299.
『狂へる汝、分別を失ひ、我を忘るるや?
聞くべき耳を持たざるや? 恥と知慮とを棄てたるや?
クロニーオーン・ヂュウスより只今歸り來りたる 130
玉腕白きヘーレーの言を汝は聞かざるや?
汝多くの災難をうけたる後にやむを得ず、
悲しみ乍ら歸り來て、ウーリュンポスの此場に、
われらすべての神明に禍難蒙らしめんとや?
見よ、クロニオーン、トロイアとアカイア棄てて速かに、 135
ウーリュンポスに神々を痛く騷がせ惱まして、
罪あるものも罪なきも皆順々に懲すべし。
されば汝に我勸む、子ゆゑの怒打ち棄てよ、
腕に威力に汝の子、凌げるものも殺されぬ、
後にもやがて殺されん、汝よろしく思ひ見よ、 140
あらゆる人の子らを皆守るは易き事ならず。』
141 神より出づる人の子を救ふは神の所爲(XVI 433 以下)、されど神も亦運命に因りて決定せる死をば救ふこと能はず(VIII 69 以下)。
しかく陳じて荒れ狂ふアレース席にもどらしむ。
ヘーレーやがてアポローンを堂の中より呼び出し、
又神明の使たるイーリス共に呼び出し、
飛揚の羽ある言句もて之に向ひて陳じ曰ふ、 145
『汝二神にクロニオーン、能くする限り迅速に
イデーに來よと命下す。行きてまともに逢はん時、
彼が汝に令すべき其一切を怠りそ。』
宣んし了りて端嚴のヘーレー歸り、おのが座に
着けば二神は立ち上り、急ぎて路を進み行く。 150
泉豐かに猛獸の宿るイデーに彼ら來て、
雷音高きクロニオーン、ガルガロンの頂に
坐せるを眺む、香雲は彼を※りてたなびけり。
二神即ち雷雲をよするヂュウスの目のあたり、
立てば眺めてクロニオーン、天妃くだせし命令を 155
彼ら直ちにききたれば、心に深く喜べり。
即ち先きにイーリスに向ひ言句を宣んしいふ、
『迅きイーリス、とく走り、ポセードーンに一切の
使命傳へよ、聊かも誤り述ぶること勿れ。
戰鬪攻伐打棄てて、去りて諸神の集りに 160
合せよ、あるは洋々の波浪の中に行けといへ、
彼もし我に從はず、命を侮ることあらば、
よろしく彼の胸中に思はしむべし、いかばかり
強くもわれの攻撃を凌ぎて耐ゆること難し、
我は宣んせん、我が威力彼に優りて更に又、 165
長子と我の生れしを、然るを彼は衆神の
恐るる我に劣らずと胸裏に曰ふを憚らず。』
しか宣んすれば疾風の脚のイーリス命をきき、
イデーを降り神聖のイリオンさして急ぎ行く。
譬へば雪と雹霰と雲より出でて、玲瓏の 170
空より生れし北風の呼吸に驅られ飛ぶ如く、
しかくイーリス迅速に勇みて馳せて進み來つ、
近くに寄りて地を震ふポセードーンに向ひ曰ふ、
『ああ大地を抱くもの、汝、鬢毛黒き神、
アイギス持てるヂュウスより、我は使命を持ち來る。 175
戰鬪攻伐打ち棄てて、去りて諸神の集りに
合せよ、あるは洋々の波浪に入れと彼の命。
彼の言に從はず之を侮ることあらば、
彼は自らこゝに來て汝を敵に猛烈の
戰なさむ、しかも彼れ汝に之を避くべしと 180
警む、彼は其威力汝に勝つと宣んし曰ひ、
しかも長子の權誇る、然るを汝衆神の
恐るる彼に劣らずと胸裏に曰ふを憚らず。』
その時大地を震ふ神、大に怒り彼に曰ふ、
『無慙なるかな強くとも彼の高言甚だし、 185
位は彼に劣らざる我を威力に壓さんとや?
クロノス、レーア父母としてわれら同胞の神三位、
ヂュウスと我と地の底の冥府の司ハイデース。
一切三つに分たれて各々おのが領得たり。
籤を引く時とこしへの居住となして漫々の 190
海をわれ得つ、暗黒の領を得たるはハイデース、
ヂュウスは高く雲上に廣き天界受け得たり。
されどすべてに倶なるは大地と高きオリュンポス。
かくある故にヂュウスの意われは奉ずることをせず、
彼いかばかり強くとも第三領に甘んぜよ。 195
さながら我を怯として手をあげおどすこと勿れ。
彼の子息ら息女らを暴びの言におどすこと、
彼にとりては優ならむ、彼の生みたるものなれば、
彼の命ずる一切に止むなく彼ら從はむ。』
その時疾風の脚早きイーリス答へて彼にいふ、 200
『ああ大地を抱くもの、汝、鬢毛黒き神、
此不屈なる粗暴なる言をヂュウスに述べよとや?
或は改め變ぜんか? 智者の心は改まる、
汝知れりや、エリニュエス常に長子に伴ふを。』
204 特に家庭の神聖を守りて秩序を保つ者、不正に對し復讐する者。(IX 454―457. XXIII 595)
大地を震ふポセードーン答へて即ち彼に曰ふ、 205
『神女イーリス、今汝述べたる言句正しかり、
使たる者適當の言を述ぶるはげにいみじ、
されど等しき分を持ち同じき命をうくる者、
之を瞋恚の言句もて叱り罵る者あらば、
われの心と魂に苦き惱は襲ひ來む。 210
さもあれ今は憤悶を抑へてわれは讓るべし、
但し一事を今述べて之を威嚇の言とせむ、
戰利を分つアテーネー、天妃ヘーレー、ヘルメース、
ヘーパイストス及び我れ――其一切を侮りて、
イリオン城の要害を彼もし許し破壞せず、 215
アカイア軍に莫大の力假すこと無かりせば、
知るべし彼と我の間不盡の怒燃え出でん。』
しかく宣んして大地ゆる神はアカイア軍勢を
去り海浪に沈み去る、アカイア軍勢みな嘆く。
雷雲寄するクロニオーン、その時アポローン呼びて曰ふ、 220
『ゆけやポイボスわが愛兒、青銅鎧ふヘクト,ルに。
大地を抱き又震ふポセードーンは今しがた、
われの激しき憤怒避け、波浪の中に退けり。
さもなかりせば、クロノスと共に地底の暗に住む
他のもろ/\の神明は、わが戰を聞きつらむ。 225
彼この事の起る前、怒り乍らもわが腕に
屈せしはよろし、彼の爲又わが爲にともによし、
故はこの事ありとせば苦鬪の汗は流されむ。
さあれ汝は總飾るアイギスとりて進み行き、
之を激しく打ふりてアカイア軍をおびやかせ。 230
飛箭の汝、光榮の將ヘクトール善く守り、
偉なる力を彼に假せ、水師とヘルレースポントス
さして逃れて、アカイアの軍勢そこに到る迄。
其後所爲と言句とをわれ計らはん、其果に
再びアカイア軍勢は辛勞終へて休らはむ。』 235
しか宣んすればアポローン、父の命令かしこみて、
羽禽の中にいと迅き翼をもてる若鷹の
鳩逐ふ如く速かに、イデーの丘を翔け下る。
下りて見ればヘクトール・プリアミデース座につきて、
また原上に身を伏さず、生氣囘りて傍に 240
其僚友を認め得つ、呻吟、流汗すでにやむ、
アイギスもてるクロニオーン計りて生に囘らしむ。
其時飛箭のアポローンかたへによりて宣んし曰ふ、
『プリアミデース・ヘクトール、など衆人と相離れ、
弱りてこゝに留るや? 何らの禍難來れるや?』 245
堅甲振ふヘクトール呼吸弱りて彼にいふ、
『神明の中すぐれたる君、誰なればしか問へる?
君は知らずや? アカイアの船のかたへにアイアース、
大石なげてわが胸を、われ其友を屠る時、
はげしく撃ちて、奮鬪のわれの力を留めたり。 250
我は思ひき、けふ此日わが生命を吐き去りて、
死人の群を、アイデ,スの領を親しく見るべしと。』
飛箭鋭きアポローン、その時再び彼にいふ、
『勇め、今こそ、クロニオーン汝に添ひて助くべく、
イデーの峯の高きより、黄金の劍身に帶ぶる 255
われアポローンを遣はせり。われは先にも汝が身
守り救へり、イーリオン汝の堅き城ともに。
いざ起て、奮へ、兵車驅る多くの御者を勵まして、
敵の軍船まつかうに足疾き軍馬駈けしめよ、
我れ先頭に進み行き、兵車のために路開き、 260
アカイア軍の諸勇士を討ちて敗走なさしめむ。』
255 V 509.
しかく宣んして勇將に偉大の力吹きこみぬ。
かくて譬へば厩中に食を飽くまで喰み了へる
駿馬たづなをふりほどき、平野の上を驅け走り、
清く流るゝ川流に其身をひたし、揚々と 265
勇みて頭高く上げ、肩に鬣颯爽と
靡かせ流し、壯麗のおのが姿にほこらひつ、
牝馬のむるる牧場に勢猛く馳する如、
斯くアポローンの聲ききて勢猛くヘクトール、
膝と脚とを早めつゝ御者を勵まし進ましむ。 270
譬へば角の逞しき鹿を或は山羊を追ひ、
獵犬の群、獵人の群、一齊に進む時、
峨々たる巖、繁る森、牲を救ひて隱れしめ、
之を探りて見出すこと遂に彼等の運ならず、
囂々として叫びあふ、其眼前に金毛の 275
獅子現はれて、勇みたる一群攘ひ退くるごと、
アカイア軍勢一團となりて利劍を、兩刄ある
槍を揮ひつ敵軍を追ひつつ進む眼前に、
プリアミデース・ヘクトール其陣中にあるを見つ、
恐怖に滿ちて脚の下勇氣全く沈みさる。 280
263 VI 506以下。
アンドライモーン生める息アイトーロスの族の中、
槍を飛ばすに秀でたる、又接戰にすぐれたる、――
討議の席にわかき子ら競へる時にアカイアの
會中尤もすぐれたる――トアス其時衆の前、
立ちて慇懃の思こめ、口を開きて陳じ曰ふ、 285
『無慙なるかな大なる驚異ぞわれの眼に映る、
あゝ彼再び起ち上る、死の運命を免れたる
彼ヘクトール。わが軍のおの/\心望みしは、
テラモニデース・アイア,スの手により彼の亡べるを。
今神明のとある者再び救ひ援けたる、 290
かれヘクトール、これ迄にアカイア軍を惱ませり、
思ふに再び斯くなさむ、轟音高きクロニオーン、
助くることのなかりせば斯く先頭に勇むまじ。
さはれ今我れ曰ふ如く汝ら聽きて命守れ、
われ衆勢に命下し水師をさして去らしめむ、 295
されど陣中剛勇と稱するものは立ちとまれ、
かくて眞先にまのあたり、槍を揮ふてヘクト,ルを
攻めて退却なさしめん、よしいかばかり勇むとも
彼は心にアカイアの軍を破るを憚らむ。』
しか陳ずれば衆人はかしこみ聞きて從へり。 300
かくアイア,スの傍に、イドメニュウスの傍に、
メーリオネース、チュウクロス、アレースに似るメゲースの
傍に、ある人々は勇士に呼びて陣勢を
張りて、トロイア軍勢とヘクトールとを待ち迎へ、
他の衆勢はアカイアの水陣さして退けり。 305
そのときトロイア軍勢は密集なして寄せ來る、
導く者はヘクトール、堂々として大跨ぎ、
更に先んじアポローン・ポィボス雲に肩包み、
總ある盾の燦爛を手にす、それはた神工の
ヘーパイストス、敵敗るヂュウスのために造るもの、 310
こを携へてアポローン衆の眞先きに進み行く。
こなたアカイア軍勢も密集なして相迎ふ、
喊聲二陣に相起り、矢は弦上を放れ飛び、
剛勇の手に投げられし槍のあるもの、戰鬪に
勇む壯士の身を穿ち、更に多くは肉體に 315
觸るる其前途に落ち、肉に飽かんとあせれども、
其效あらず、いたづらに大地の中に突きささる。
神ポイボス・アポローン盾動かさず保つ間は、
彼此二軍の羽ある武器互に壯士斃れしむ、
されど眞ともにアカイアの軍勢睨め大音に、 320
叫びて盾を揮ふとき、彼らの心胸中に
恐れて震ひ慄きてその勇猛の意氣忘る。
譬へば牛の一群を、あるは羊の群集を、
其牧人のあらぬ時、黒夜の暗に突然と、
猛獸二頭襲ひ來て、騷がし散し逐ふ如く、 325
かく紛々とアカイアの軍勢勇を喪ひて、
走る、アポローン恐惶をかれらに起し、トロイアの
軍に、勇將ヘクト,ルに勝利の譽れ與へたり。
かくて兩軍亂れ合ひ、兩軍互に相殺す、
ヘクトール手に倒せしは、アルケシラオス、スチキオス、 330
一は青銅の鎧着るボイオーチオス族の長、
一は武勇にすぐれたるメネスチュウスのめづる友。
メドーン並にイアソスをアイナイアース討ち倒す。
メドーンは勇士オイリュウスうみなせる庶子、アイアスの
弟、――父の娶りたるおのが繼母の族人を、 335
エリオーピスの族人を――殺せし故に故郷より、
離れて遠くフュラケーの郷に移りて住める者、
またイアソスは將としてブーコリデース・スヘーロス
生める子息と呼ばはれてアテーナイ族率ゐたり。
プーリダマスの倒せしはメーキステース、エキオスを 340
討ち取る者はポリテース、アゲーノールはクロニオス、
パリスは打てり、デーイオコス、先鋒中に逃げ行くを
肩の根射れば青銅の鏃は彼を貫けり。
334 334―337 は XIII 694―697 と同じ内容。
斯くして彼ら屍體より武具を剥ぎとる、――かなたには
アカイア軍勢逃げ走り、塹濠及び塞柵に 345
身を投じつつ、迫られて其壘壁に退けば、
大音あげてヘクトール、トロイア勢に叫び曰ふ、
『急げ汝ら船さして、捨てよ血染のものの具を、
船より離れ遠ざかり立つものあるを認め得ば、
その場に彼の誅滅をわれ計らはん、其者に 350
其親戚の男女らは火葬の禮を致すまじ、
イリオン城の前にして群犬彼の肉喰まむ。』
しかく陳じて腕揮ひ、長鞭馬を驅り立てて、
トロイア勢を陣中に呼び勵ませば、一齊に
等しく叫び、戰馬驅り戰車進めて囂々の 355
騷ぎを起す、其先に進むポイボス・アポローン、
堅脚あげて塹濠の堤容易く踏み破り、
之を水中に投げ入れて廣き道路を造り上ぐ、
壯士力を試すため腕を揮うて投ぐる槍、
空を飛び行き地に落つる巨禽と等しく長き道、 360
其道過ぎて密集の隊伍進めばアポローン、
眞先きに立ちて燦爛の盾をかざしてアカイアの
城壁易く打崩す。譬へば海の岸の上、
嬉々と戲る少年の其玩弄に、沙山を
造りて後に堆積を手にて脚にて崩すごと、 365
かく銀弓のアポローン、神はアカイア軍勢の
努力の效果打ち碎き、之をおどして走らしむ。
斯くして船の傍に來り留まるアカイオイ、
互に呼びて勵まして、各々高く双の手を
延ばし、すべての神明に其救援を祈願する、 370
其中特にアカイアの守りゲレーニャ・ネストール、
星張りつむる天上に其手をあげて祈り曰ふ、
366 原文、こゝに二人稱を用ゐ、『‥アポローンよ君は‥』。
『ああわが天父クロニオーン、穀を産するアルゴスの
あるもの、君に牛羊の肥えたる股を燒き捧げ、
歸郷の祈り念ぜしを、君うなづきて納受せる―― 375
そを今思し、災難を、ウーリュンポスに住める君、
攘ひ、トロイア軍勢の手よりわれらを救護せよ。』
ネーレーイアデ,ス老將の祈りてしかく陳ずるを、
クロニーオーン納受して殷雷遠く轟かす。
379 雷は時には凶兆時には善兆(VIII 133 參照)。
アイギス持てるクロニオーン鳴らす轟雷耳にして、 380
トロイア軍はなほ強くアカイア軍に攻めかかる。
渺々としてはてしなき海上さして高きより、
颶風はげしく吹きおろし、銀浪怒濤かりたてて、
漂ふ舟の甲板を襲ひて之を涵す如、
トロイア軍は大音をあげて壘壁おどり越し、 385
中に戰車を驅り入れて兩刄の槍を繰り出し、
短兵急に敵艦の船首に近く戰へば、
アカイア勢は黒船の船上高く攀ぢ上り、
甲板上に、水戰のために備へて青銅を
先につけたる長き矛とりて奮ひて戰へり。 390
是より先に船離れ、トロイア、アカイア二軍勢
壁のほとりに戰へる、其間にかなた親しめる
ユウリュピュロスの陣の中、パトロクロスは座を占めて、
言句を以て慰めつ、彼のうけたる疵の上、
つらき苦惱を救ふべく良藥塗りてかしづけり。 395
されど今はた壘壁を上るトロイア軍勢と、
叫喚揚げて逃げ走るアカイア軍を見たる時、
思はず起る呻吟の聲もろともに平手もて、
双の股打ち愁然と友に向ひて陳じ曰ふ、
395 XI 846.
『ユウリュピュロスよ、要あれど我は汝の傍に 400
今は留ること難し、見よや大事の迫れるを、
從者、汝をいたはらむ、我はただちに急ぎ行き、
ペーレーデース・アキリュウス訪ひて戰勸むべし、
天佑あらばわが諫、彼の心をおこすこと
なしと誰かは斷ずべき? 友の諫は力あり。』 405
しかく陳じて其脚に任せて彼は進み行く。
かなたアカイア軍勢はトロイア勢を防げども、
數は劣れる敵軍を舟より攘ふことを得ず、
トロイア勢もアカイアの陣を破りて陣營を
水師の中に攻め入るを能くせず、之を譬ふれば、 410
藍光の眼のアテーネー教ゆる故に一切の
道に巧みの工匠の、其手用ふる準繩は、
船作るべき木材を正に二つに分つごと、
二軍の間の勝敗の運は正しく相等し、
かくて攻防相續き水師のほとり戰へり。 415
410 同樣の譬喩は、XII 433.
中にほまれのアイア,スに向ひ來るはヘクトール、
同じ一つの舟のそば二將爭ひ、一方は
敵を攘ひて兵燹に舟を燒打するを得ず、
他も亦敵に神明の救ある故追ふを得ず。
やがてほまれのアイアース、舟をめがけて松火を 420
投ぜんとするカレート,ル――クリュチオスの子に槍を、
飛ばして胸を貫けば、松火落し地に倒る、
舟をまともに塵の中、從兄弟の倒るるを、
悼める眼に眺めやる將、光榮のヘクトール、
大音あげてトロイアとリュキエー軍に叫び曰ふ、 425
『接戰猛きトロイアとダルダニエーとリュキエーの
汝ら、これこの急迫の時に逃げ去ること勿れ、
汝ら救へ、斃れたるカレートールを、敵の船
群がる前に斃れたる其武具敵は剥がんとす。』
421 プリアモスの弟。(III 147)
しかく陳じて燦爛の槍をアイア,スめがけ打つ、 430
覘違へり、然れどもマストールの子リュコプローン、
キュテーラよりの彼の臣、(キュテーラの地にある人を
殺し、主公の許住みし)彼れアイア,スの傍に
立てるを、打ちてヘクトール其青銅の利き槍に、
耳の上、頭つらぬけば船首を落ちて仰向きに、 435
大地の上に塵の中、倒れて四肢は緩みたり。
之を眺めてアイアース戰慄しつつ弟に向て即ち陳じいふ、
432 ラコニアの南岸に近き島。
『ああチュウクロス、われ/\の親しき侶は斃れたり、
マストリデース、斃れたり、キュテーラよりし訪ひ來り、
われらと共に住める時、親の如くにめでし彼れ、 440
彼を英武のヘクトール殺せり、いづこ汝の矢?
はたポイボス・アポローン與へし汝の弓いづこ?』
しか陳ずれば諾ひて走り來りてそばに立ち、
張りし勁弓、手の中に取りて勁箭蓄ふる
胡※そばに、速かにトロイア勢をめがけ射る。 445
而して射たりクレートス、――ペーセーノール生める子を、
パントーオスの勇武の子、プーリダマスは彼の友、
射られし前にクレートス手綱をとりて其戰車、
驅りて最も戰鬪のはげしきほとり馳せ向ひ、
ヘクト,ル及び衆軍の意を滿たしめき、然れども 450
災到り、救援を念ずるものも防ぎ得ず、
見よ彼れ首に慘毒の飛箭を受けて兵車より、
身を飄へし倒るれば馬は主なき車引き、
迷ひ驅くるを速かにプーリダマスは認め得て、
まさきに來り引き留めて、プロチアオーンの生める息、 455
アスチュノオスに引き渡し、嚴しく命じ目を留めて、
之をおのれの傍近く隨はしめつ、自らは
脚を返して先鋒の勇士の中に混じ入る。
456 同名の別人ヂオメーデースに殺さる。(V 144)
チュウクロス今第二の矢、青銅鎧ふヘクト,ルを
覘へり。勇む敵將を射りて生命奪ひ得ば、 460
船の傍の奮鬪をとこしへ彼に絶たしめむ。
されどもヂュウス聰明の思慮は忘れず、ヘクト,ルを
防ぎ守りてテラモーンの子の功名を奪ひ去る。
見よチュウクロス精巧の弓を張る時、クロニオーン
其絃ふつと斷ち截りて鏃鋭き勁箭は、 465
それてけし飛び手中より剛弓落ちぬ、斯くと見て、
戰慄しつつチュウクロス、兄に向ひて陳じ曰ふ、
『無慙なるかな、とある神わが戰爭の謀らひを
皆打ち碎き、剛弓を我の腕より奪ひ去り、
新たに縒りし弦斷ちぬ、今日朝早く心して 470
絶えず勁箭射飛ばすに耐ゆべく強く張りしもの。』
470 前にも弦の斷ちしことあり。(VIII 328)
その時テラモーン生める息、大アイアース答へ曰ふ、
『ああわが弟、アカイアの軍に惡意を抱く神、
汝の弓と箭をくじく、弓箭さらば打棄てよ、
長槍汝の手にとりて盾を汝の肩にとれ、 475
トロイア軍と戰ひて他の衆兵を起たしめよ、
敵軍われを制するもわが備ある戰艦を
彼あに易く奪はむや! いざ戰鬪の念奮へ。』
しか陳ずればチュウクロス、弓箭陣の中に捨て、
肩のめぐりにおほいなる四重の盾を打ちかざし、 480
駿馬の髮を飾りたる兜を彼のおほいなる
頭の上にいただけば冠毛凛と打ち振ふ。
かくして彼は青銅の穗先するどき長槍を
手にし、急ぎて速に兄のかたへに來り立つ。
480 革四枚を重ねたる。
かなたに勇むヘクトール、敵の弓箭效なきを 485
見て、トロイアとリュキエーの二軍に大音あげて曰ふ、
『接戰猛きトロイアとダルダニエーとリキュエーの、
わが友僚よあゝ奮へ、勇み進んで中廣き
敵の戰船襲ひ打て、わが目親しく今見たり、
ある敵將の弓と矢をクロニオーンの挫きしを。 490
ヂュウス勝利の光榮を與ふるところ、勇士らの
冥護誠に明らけし、同じく神の冥護なく
挫かるる者亦しるし、見よ今ヂュウス、アルゴスの
軍勢痛く弱らしめ、我に應護を加ふるを。
いざ密集の隊なして敵の兵船おそひ打て、 495
刀槍或は箭に打たれ死の運命に逢はんもの、
甘んじ死せよ、國のため死するは何の光榮ぞ!
あとに殘れる恩愛の彼の妻子と其家と、
其所領土は一齊に害受くること絶えてなし、
敵の軍勢舟に乘り故郷をさして去らん時。』 500
495 495―496 同樣の奬勵 XII 243。
しかく陳じて各々の意氣と勇とを勵ましむ。
かなた同じくアイアースその友僚に叫び曰ふ、
『アカイア勢よ、恥を知れ、道は明か、討死か、
或はおのれの救援と舟より敵の驅逐のみ。
堅甲震ふヘクトールわれらの舟を奪ふとき、 505
汝ら徒歩に其國に歸り得べしと期し得るや?
舟を燒くべく雄叫びて、其軍勢を高らかに
かれヘクトール勵ますを汝等耳に聞かざるや?
舞踊に非ず戰場に、彼は將士を勵ませり。
われにとりては、猛烈の腕を振ひて接戰に 510
進むべきのみ、この外に優る方なし計なし。
かく空しくも舟のそば、劣れる敵に襲はれて、
長く苦戰と亂鬪に陷ゐるよりは、一時に
死か生存か運命を決せんことぞ優るべき。』
しかく陳じて各々の意氣と勇とを勵ましむ。 515
ペリメーデース生む處、フォーケース族率ゐたる
スケヂオス今ヘクト,ルに打たる、されどもアイアース、
歩兵率ゐるラオダマス、アンテーノールの子を倒す。
キュルレーネーのオートスを、將ピュリュウスの子の友を、
エペーオイ勢率ゐるをプーリダマスは打倒す。 520
之れを認めしメゲースは近寄り來り襲ひしも、
プーリダマスは身をかはし遁れぬ、故はアポローン、
パントーオスの生める子を先鋒中に死なしめず。
さはれメゲースその槍にクロイスモスの胸突きて、
どうと地上に倒れしめ、其武具身より剥ぎかかる。 525
剥ぐメゲースを今襲ふ槍にすぐれしドロプスは、
猛勇もとも甚だし。ラーオメドーンの孫にして、
父はラムポス、衆中に勇武のほまれ高きもの。
ピュレーデース・メゲースの盾の眞中を鋭槍に
近寄り彼は貫けど堅き胸甲身を救ふ。 530
身に着け馴るる金屬の堅き胸甲そのむかし、
セルレーイスの岸の上、エピュレーよりし父は得ぬ、
ユゥヘェーテース、其土地の君主は彼を客として、
戰鬪中に強敵を禦ぐ守に與へたる、
此武具今や彼れの子の身より破滅を外らしめぬ。 535
ついでメゲース鋭利なる槍繰り出し、敵將の
冠毛ゆらぐ青銅の、頭甲の高き穹窿を
突きて、そこより冠毛を拂ひ落せば、新らしく
眞紅の色に染め上げし飾は塵にまみれ去る。
かくして敵と戰ひて勝利の望抱くとき、 540
彼に救を與ふべく來る勇武のメネラオス、
槍を手にしてひそやかに傍に立ちてうしろより、
敵の肩射る。猛然と投げ飛ばしたる其槍に
胸を無慘に貫かれ倒れ地上にうつぶしの、
敵に二將は迫り來て、肩より彼の青銅の 545
武具を剥ぐめり。ヘクトールかなたすべての同族に、
殊にまさきにメラニポス――ヒケタオーンの勇猛の
子を呼び叱る。これ迄にペルコーテーの郷にして、
敵來ぬ中は蹣跚の牛群彼はやしなへり。
されどアカイア軍勢の船に乘じて來る時、 550
イリオン城に歸り來てトロイア勢の中秀いづ。
プリアモス王其舘にやどし子のごとあしらへり。
彼を叱りてヘクトール、羽ある言句陳じいふ、
517 同名の別人は XVII 306 にあり。
519 メゲース。
526 XI 302 は別人。
532 II 659.
547 プリアモスの弟 III 147。
『ああ思ひ見よ、メラニポス、かかる怠慢よからんや!
汝の心斃れたる同族を見て痛まずや? 555
見ざるや? 敵はドロプスの武裝剥がんとつとむるを、
いざ立て、もはや遠くよりアカイア勢と相打たじ、
やがて彼らを殺すべし、或は彼ら嶮要の
イリオン城を覆し其城民を亡ぼさむ。』
しかく陳じて先に立つ、神に似る將彼に嗣ぐ。 560
テラモニデース・アイアース、かなたアカイア軍勢を
警めていふ『ああ勇士、心に恥を忘るる勿、
暴び爭ひ戰の中に互に相恥ぢよ、
恥ある者の助かるは死するに比して數多し、
逃げ去る者の間より勝も譽も起り得ず。』 565
562 V 529 以下同の言樣を以てメネラオス自方を勵す。
しか陳ずれば、自らも敵を防ぐに勇みたる
衆は其言胸にして、即ち青銅の垣をもて
船を守れり、クロニオーンこれにトロイア勢を向く。
アーンチロコスに其時に呼ぶ大音のメネラオス、
『アーンチロコスよ、アカイアの中に最もわかき者、 570
最も脚の速きもの、勇氣最も強きもの、
願はく進みトロイアのとある勇將打ち倒せ。』
しかく陳じて勵ましておのれはあとに引き返す、
曰はれし彼は先鋒の中より拔けて進み出で、
あたり見※はし爛々の槍を投げつく、其前に 575
トロイア勢はあとしざる、槍は空しく飛ばざりき、
即ち猛きメラニポス――ヒケタオーンの生める子の
來るを撃ちて乳の側、胸を無慘に貫けば、
どうと地上に打ち倒れ暗黒彼の目を蔽ふ。
巣を飛び出す若鹿を、覘ひ正しく狩人の 580
射りて四足を緩ましめ、地に倒すとき狩犬の
勢猛く跳びかかる、其樣見せてメラニポス、
汝の上に剛勇のアーンチロコスは飛びかかり、
汝の武具を剥がんとす。之を認めてヘクトール、
亂軍中を走り過ぎ、まともに彼に向ひ來る。 585
勇はあれども其おもにアーンチロコス向ひ得ず、
荒き野獸が牛群を守りする犬を牧人を
殺し、無慚に暴れ盡し、獵の一群寄せぬ間に、
すばやく遁るあとや斯く、アーンチロコス引き返す、
ネストリデース引き返す後を慕ひてヘクトール、 590
トロイア軍も一齊に喊聲高く槍飛ばす、
されど身方の陣に着き、むき直りつゝ立ちとまる。
こなたトロイア軍勢はさながら荒るる獅子のごと、
アカイア軍の船襲ひ、ヂュウスの令を果さんず、
神はトロイア軍勢に盛に勇氣起さしめ、 595
アカイア軍を滅入らしめ其光榮を奪ひ去る。
プリアミデース・ヘク,トルにかくして神は光榮を
加へなんとす、斯くありて舳とがりし船の上、
炎々として燃えさかる猛火をかけて、僭越の
テチスの祈成らしめむ。知慮を※らすクロニオーン、 600
燃え出す舟の猛焔を眺めんとして斯く待てり。
かくある後に舟よりのトロイア勢の退却を
命じ、新たにアカイアの軍に光榮與へんず。
かかる計慮にアカイアの船に向ひてクロニオーン、
すでに自ら勇みたるプリアミデース・ヘクト,ルを 605
驅れば、恰も槍揮ふアレース又は、深林を
炎々として燒き拂ふ猛火の如く暴れ狂ふ、
見よ口角に泡を噴き、双の眼は爛々と
其恐ろしき眉の下、燃えて戰ふヘクト,ルの
頭甲を飾る冠毛は凄く額上打ち振ふ。 610
〔故は天よりクロニオーン自ら彼に助け貸し、
多勢の勇士ある中にただ彼ひとりヘクト,ルに
光譽あらしむ、故は又彼の生命永からず、
アキルリュウスに討たるべき其運命の禍つ日を、
すでにパルラス・アテーネー彼に向ひて急がしむ。〕 615
彼いま敵の軍隊の勢威最も盛なる、
武裝もつとも勝れたるものを求めて、猛然と
進めり、されど勇めども敵陣破ることを得ず、
隊列つくり屹然と敵は留る、譬ふれば、
鋭き風の迅速の道に當りてたぢろがず、 620
澎湃としておしよする波濤の怒ものとせず、
大海原の岸の上ますぐに立てる大岩か。
かくトロイアの襲撃に耐へて、アカイア軍勢は
逃げず、されどもヘクトール火焔の如く敵陣に
迫れば、アカイア軍勢は心恐怖に碎かれぬ、 625
譬へば暗雲低く垂れ、颶風起りて奔潮の
勢猛く襲ふ船、船は一面泡沫に
蔽はれ、風は咆吼の聲凄しくまつかうに、
白帆を打てば、生と死と只一髮の隔りの
水夫の群の一齊にをののき震ふ有樣か。 630
をののく軍をヘクトール襲ふ、恰も獰猛の
獅子王、沼に沿ふ牧に、無數の牛の草喰むを
襲ふが如し、牧人は可憐の群が猛獸の
餌食となるを救ひ得ず、ただ漫然と群の先、
群の最後に沿ひて行く、されども獅子は中央に 635
躍りかかりて忽ちに一頭の牛打ちころし、
貪り食ふ、これに恐ぢ群一齊に逃げ出す。
斯くヘクト,ルとヂュウスとに逐はれ、アカイア勢は逃ぐ。
されどヘクト,ル打取るはミケーネー人ただひとり、
ペリペーテース、(コプリュウスの生みたる勇士、)其むかし 640
ユウリスチュウスの命によりヘーラクレース訪ひしもの。
父は劣れる質乍ら子は優良の材にして、
文武に秀いで、健脚に、又戰爭の術に長け、
智慮に於てもミケーネー族人中に秀でたる――
彼れ戰勝の光榮を今ヘクト,ルの手に讓る。 645
歩みをあとに返すとき脚まで屆く彼の楯、
槍の防禦にかつぐもの其縁射たりヘクトール、
之に躓き仰むきに地に倒るれば、倒れたる
勇士の兜ものすごく、その顳※のほとり鳴る。
直ちに之をヘクトール、認め走りて近よりて、 650
槍もて敵の胸を突き其同僚の傍に
之を屠りぬ、同僚は哀悼いたく切なるも、
勇猛の將ヘクト,ルを恐るる故に救ひ得ず。
594 上文 254.
600 I 408 と 508.
かくして彼ら退きて水陣中にたてこもり、
其外端の船守る、されど敵軍逐ひ來れば、 655
アカイア勢はやむを得ず、其先頭の船棄てて、
一隊なして陣營のかたへに敵を待ちうけつ、
さすがに恥を知るが故、又敗滅の怖れより、
其陣中を散り去らず、絶えず互に呼び交はす。
アカイア軍の守りたるゲレーニャ騎將ネストール、 660
特に將士のおのおのに父祖の名を呼び諫め曰ふ、
660 660―674 は後世の添加へたること疑なし(リーフ)。
『ああわが友ら、男兒たれ、衆の目の前汝等の
心に恥を忘るるな、おのおの胸に思ひでよ、
其恩愛の妻を子を家産を更に双親を、
そのあるものは生けりとも、他のあるものは逝けりとも。 665
われは離れて遠ざかる彼らのために敢て乞ふ、
勇を奮ひて敵防げ、怯れて逃ぐること勿れ。』
しかく陳じて各々の意氣と威力を勵ませば、
藍光の眼のアテーネー衆の眼を蓋ひたる
不思議の雲霧拂ひさる、光明かくて燦然と、670
兵船の上、戰場の上をひとしく照すとき、
彼らは見たり大音の將ヘクト,ルを其部下を、
部下のあるもの陣勢のあとに控へて戰はず、
あるもの船のかたはらに勇を奮ひて戰へり。
今剛勇のアイアース、他のアカイアの軍勢と 675
離れて陣をとる處、そこに殘るを喜ばず、
數艘の舟の甲板を、あなたこなたに大股に
歩み、金環繋ぎたる長さ二十二ペークスの
おほいなる戈――海戰に用ゐるものを手に握る。
乘馬の術を巧妙になすもの、あまた駿足の 680
中より四頭選び取り、之を御しつゝ颯爽と、
平野を過ぎて、大いなる都城をさして驅けいだす、
その驅け過ぐる道の上、之を眺むる群衆の
男女ひとしく驚ける、彼は巧みに、過たず
馬より馬に飛び移り、飛びかへりつゝ驅けて行く。 685
正しく斯くもアイアース、船より船に大またぎ、
甲板上に乘り移り、舟と陣營救ふべく、
アカイア軍を勵まして物凄く呼び叫ぶ、
聲はひびけり天上に。かなたは敵のヘクトール、
青銅鎧ふトロイアの隊列中に留まらず、 690
流の岸に餌をあさる羽禽の群に――頸長き
白鳥あるは丹鶴に、雁鷺に――荒き金色の
鷲猛然と飛びかかり、襲ふすがたも斯くあらむ、
黒き船首の船めがけ、猛然としてヘクトール、
直ちに迫る、うしろより其おほいなる手をあげて、 695
彼を進むるクロニオーン、衆軍ひとしく勵まさる。
680 ホメーロスの時代に曲馬の藝ありしを見る。
695 形容的と見るべし。
斯くて再び船のそば起る戰鬪ものすごし、
二軍互に向ふ時、彼らさながら倦怠と
疲勞を知らぬものに似て、さばかり暴く戰へり。
その戰鬪に當る時、彼等の念は斯くありき―― 700
アカイア勢は思へらく、危難逃れず、亡ぶべし、
トロイア軍の各將士その胸中に望むらく、
アカイア軍の船を焚き、其勇將を討つべしと、
兩軍しかく念じつゝ互に向ひ陣を張る。
海上迅く走る船、プロテシラオス乘せ來り、 705
トロイアの地につきしもの、されど故郷に勇將を
のせ歸さざる迅き船、其艫をつかむヘクトール、
船を※りてアカイアとトロイア勢と密接の
戰なして相うてり。もはや離れて戰はず、
羽箭並びに投槍の飛來を今は待ちも得ず、 710
二軍心を一にして近く互に相向ひ、
鋭利の斧と手斧とを握り、或は長き劔、
あるは兩刄の槍とりて勢猛く戰へり。
黒く捲かれし柄持てる長劍利刄數多く、
奮ひ戰ふ勇士らの手より肩より落されて、 715
黒き大地に横はる、淋漓流るる血は凄く。
かなた勇めるヘクトール一たび船を占めし後、
艫の飾を手にとりて放たず衆に叫び曰ふ、
705 II 698 以下、彼は最も早く上陸せる故舟も最先端に曳き上げらる。
712 XIII 612.
718 艫の突出部―飾となす(ix 241)。
『持ち來よ、猛火! 共に又喊聲擧げよ一齊に、
今クロニオーンわが軍に酬ひ勝利の日を與ふ。 720
神に背きてこゝに來て、わが長老の卑怯より、
災難われに與へたる船を取るべき日を與ふ。
わが長老は敵軍の船尾のかたへ戰鬪を
勵まんとするわれをとめ、又將卒を抑へたり。
見よ雷霆のクロニオーン、先にはわれを欺けど、 725
今はわが軍勵まして自ら我に令下す。』
しか陳ずれば衆軍はいよゝ激しく敵襲ふ。
こなた英武のアイアース、さすが耐へず投槍に
いたく襲はれ、敗滅を覺悟し乍ら、七尺の
高き舷橋わたり去り、舟の甲板退きぬ。 730
やがて勇將踏みとまり槍を揮ひていつ迄も、
船に猛火を掛けんずるトロイア勢を防ぎとめ、
ものすごき迄高らかの聲を放ちて叫びいふ、
729 原語ヘプタポデーン。
『ああわが友ら、アカイアの勇士、アレース神の僕、
友ら奮つて男兒たれ、はげしき苦鬪心せよ。 735
曰ふや汝ら、背面に別に救の軍ありと?
或は破滅援ふべく更に堅固の壁ありと?
否、否、壁を※らせる城市、われらを守るべく、
戰機新たに轉ずべき力あるもの側に無し、
今わが立つは青銅を鎧ふトロイア軍の土地、 740
海只われの頼みなり、祖先の郷は道遠し、
救はわれの腕にあり、鈍き戰事の中ならず。』
しかく陳じて鋭利なる槍を揮ひて敵を討つ。
將ヘクト,ルの命により猛火を船に掛けんとし、
進み來れるトロイアの兵を英武のアイアース、 745
待ち受け長き槍のして防ぎてやまず、かくしつゝ、
船のかたへの接戰に敵の十二を傷けぬ。
第十六歌
パトロクロス戰況を報じ、アキリュウスの武裝を借りて進撃するを乞ふ。 アキリュウス之を諾し、部下を率ゐて進ましむ。 兩軍の諸將の奮戰。 パトロクロス勇を鼓してトロイアの諸將を屠る。 サルペードーン之を迎へて力戰し、遂にパトロクロスの飛槍に射られて死す。 彼の屍體を※りて兩軍の爭。 神々はサルペードーンの屍體を救ひ、故郷リュキエーに送る。 パトロクロスなほ進んでトロイア城壁に迫る。 神アポローン之を退く。 ヘクトール、神に鼓吹せられケブリオネースと共に進む。 パトロクロス石を投じてケブリオネースを斃す。 トロイアの若き將軍ユウポルボス、槍を飛ばしてパトロクロスに當て、更にヘクトール亦同じく槍を飛ばし、急所を射て之を斃す。 パトロクロスの臨終の言。 ヘクトール進んでアウトメドーンを追ふ。
斯くて兩軍漕座善き船をめぐりて戰へり。
パートロクロス今行きてアキルリュウスの許を訪ひ、
※然として涙垂る、譬へば暗き泉より、
迸り出で山崖を降る濁流見る如し。
脚神速のアキリュウス之を眺めて憐みつ、 5
即ち彼に打向ひ飛揚の羽ある言句曰ふ、
『パトロクロスよ、いかなれば泣涕さまではげしきや?
幼き少女其母の跡を逐ひ行き、急げるを
妨げ袖を引きとめて其抱擁を乞ひ願ひ、
願ひ成る迄涕涙の目もて見上ぐる如くなる―― 10
パトロクロスよ、汝いま悲哀の涙留らず。
ミルミドネスに、我がもとに齎す何の報告か?
あるはフチェー故郷より聞き得し何の消息か?
アクトールの産みたる子メノイチオスは健在に、
アイアキデース・ペーリュウス同じく郷に活くといふ。 15
二人もし世を去るとせばわれらの悲哀大ならむ。
もしくは先きの專横の故にアカイア軍勢が、
船のかたへに斃るるを思ひて汝悲むや?
包まず胸を打ち明けよ、我ら等しく知らんため。』
1 原語ユウセルモス。
Voss 譯は 〔scho:ngobordete, Lang〕 譯は Well-timbered, Murray 譯は Well-benched.
3 同樣の形容 IX 14.
8 この種の比喩を下文 259. XVII 4. 570. XXI 257 XXIII 760 にも見るべし。
14 パトロクロスの父はペーリュウスの許にあり。(XI 771)
その時長き大息にパートロクロス答へ曰ふ。 20
『アカイア中の至剛なる、ペーリュウスの子、アキリュウス、
怒を除け、おほいなる危難われらの上迫る!
陣中先に勇猛のすぐれし諸將、見ずや今、
射られ突かれて一齊に、わが船中に横はる。
ヂオメーデース、剛勇のチューデーデース射られたり、 25
オヂュシュウス亦突かれたり、アガメムノーン亦同じ、
ユウリュピロスは腰のそば、飛箭によりて射られたり、
而して治療の術優る醫士らは疵を救ふべく、
彼らのそばにいそしめり。されど汝は枉げがたし!
汝の胸の憤りわれの心に入る勿れ。 30
アカイア軍にふりかかる此災難を攘はずば、
後の子孫は汝より何の救護を得るとせむ。
無情の汝、今見ればペーリュウスは父ならず、
テチスは母に非りき、之に反して波荒き
海と險しき大岩は苛酷の汝産みしなり。 35
汝胸裏に神託を恐れて之を避くとせば、
あるは汝の端嚴の母より神語聞くとせば、
やむなし、されど速かにわれ立たしめよ、われに又
ミルミドネスの勢を附せ、アカイア軍を救ふべし。
さはれわが肩鎧ふべく汝の武裝われに借せ、 40
われを汝と誤らばトロイア軍は憚りて、
戰やめむ、アカイアの武勇の子らは疲勞より
休らひ得べし、戰場の休みはよしや短くも。
而して船と陣營をあとに都城に、疲れたる
敵を容易くわが新手、疲れぬ軍は攘ふべし。』 45
36 同樣にパトロクロスに對してネストール曰ふ。(XI 794―803)
しかく陳じて需めしは不明なりけり、自らに
死の運命と大難を願ひしものと知らざりき。
脚神速のアキリュウス大息しつゝ彼に曰ふ、
『ああ無慚なり、神の裔、パートロクロス、何を曰ふ!
われ耳にする神明の暗示は我を惱さず、 50
端嚴の母また我にヂュウスの言をことづてず。
ただとある者權勢に誇りて、おのが同輩を
欺き、彼の戰勝の酬を掠め奪ふ時、
恐るべくして耐へがたき悲哀はわれの胸襲ふ、
胸に災受けたれば大なる悲哀われにあり。 55
アカイア衆軍戰利とし、われに撰べるかの少女、
敵の堅城打破り、わが槍先に得しものを、
アートレ,デース、權勢のアガメムノーンわが手より、
われ譽なき外邦の子なるが如く奪ひ去る。
さはれ是みな過ぎしこと、心の中に限りなく、 60
瞋恚は滿たすべきならず、只我さきに念じたり、
戰及び喊聲のわが兵船を襲ふ時、
其時來るに先んじてわが憤激を棄つまじと。
いざ光榮のわが武裝なんぢの肩の上よろへ、
ミルミドネスの勇卒を戰場さして繰り出せ。 65
トロイア勢の黒き雲、勢凄く舟の上
襲ひて懸り、わが軍は只陸上の一小地
殘して、岸に踏みとまり、トロイア勢は全力を
あげて勝利を信じつつ猛然として寄せ來る。
故は彼らは眞近くに輝くわれの頭鎧の 70
おもて眺めず。然れどもアガメムノーン權勢の
彼れ慇懃の計らひを我に加ふることあらば、
今戰へる敵逃げて濠を屍體に埋むべし。
チュウデーデース、剛勇のヂオメーデース、其槍は
アカイア軍を救ふべく其手の中に強からず、 75
其憎むべき口開きアートレ,デース叫ぶ聲、
われ耳にせず、ただひとりトロイア軍を警むる
兇暴の敵ヘクトール叫ぶ聲のみ鳴り響き、
アカイア軍に打勝ちてかれら平野に主たり。
いざ兵船の災を、パトロクロスよ、攘ふべく 80
激しく攻めよ、然らずば敵は猛火に船を燒き、
わが軍勢のなつかしき國に歸るを妨げむ。
わが曰ふ處、その要を汝の胸に銘じ聞け、
即ちアカイア勢の前、汝わがため光榮と
名譽かち得よ、しかあらば彼らはわれに紅頬の 85
少女を返し、すぐれたる禮物更に加ふべし。
さはれ船より敵軍を攘はば歸れ、轟雷の
クロニーオーン光榮を汝に許すことあるも、
我さしおきてトロイアの勇士と汝、身一つに
戰ふことを求むるな、わが面目は害されむ。 90
又敵勢を討ち斃し、亂戰苦鬪喜びて、
イリオン城のまのあたりわが軍勢を進むるな。
恐らく不滅の神一位、ウーリュンポスを降り來む、
飛箭鋭きアポローン特に彼らをいつくしむ、
さればアカイア兵船の安寧果し得なん時、 95
退き歸り、原上の戰事を他の手に托せ。
吁わが天父クロニオーン、アテーナイエー、アポローン――
ねがわく、トロイア、アカイアの二軍の中の一人も、
死をまぬがるる事なかれ、ただ我二人災難を
のがれ聖なるイリオンの高塔破り得んことを!』 100
51 われを悲ますべき言を。
59 IX 648.
97 自方も我に無情なりとアキリュウスは思ふ、此四行に對してリーフのイリアッド版第二卷 163 に長き説明あり、アリスタルコスは此四行を咎む、其説に近來の諸評家は皆贊成す。
しかく二人は相向ひ、これらの事を語りあふ。
かなた英武のアイアースもはや支ふることを得ず、
ヂュウスの意思と槍飛ばすトロイア勢の猛撃に、
惱める勇士、額上に耀く兜絶間なく、
打たれてひびく音凄し、見よ精巧の頬當を 105
紛々として打つ槍を、更に左の彼の肩、
絶えず多彩の盾しかと支ふる故に疲れはつ、
しかも敵軍槍をもて迫りて彼を攘ひ得ず、
彼は次第に其呼吸迫るを感じ、淋漓たる
汗は四肢より流れ落ち、ただ束の間も恢復の 110
機會はあらず、四方より禍難つづいて湧き來る。
ウーリュンポスに鎭れる歌の神々乞ふ告げよ、
猛火はじめてアカイアの船にかゝりし樣いかに。
アイアスめがけヘクトール、迫り來りておほいなる
利劍揮ひて敵の槍、穗先に近きただもとを 115
斬つて落せば、アイアース・テラモーンの子の手の中に、
殘るはひとり無效なる柄のみ――其手を離れ行く
鋭き穗先き青銅は、大地に落ちて鳴りひびく。
こを神明のなす業と畏怖の思ひにアイアース、
觀じそゞろに身は震ふ、轟雷高きクロニオーン、 120
彼の軍器を打碎き、トロイア軍に勝與ふ。
しかく觀じて投槍を避けぬ。こなたにトロイア軍、
猛火を船に打かけて瞬く中に炎々の
焔起せば舳を※り火は荒れ狂ふ――かくと見て
ペーレーデース股を打ちパ,トロクロスによびかくる。 125
『パートロクロス、神の裔、すぐれし騎將、ああいそげ!
はや我は見る、舟のそば敵の火焔の狂へるを!
恐らく舟は亡され、我に歸郷の道なけむ!
急ぎわが武具身に帶びよ、われ軍勢を集むべし。』
しか陳ずれば軍裝をパートロクロス身に纒ふ、 130
即ち双の健脚に、白銀製の留金を
よくあしらへる、壯麗の脛甲まさきに纒ひ附け、
續きて廣き胸めぐり、色彩つよく耀ける
胸甲纒ふ、――脚早きアイアキデース貸せしもの、
次に銀鋲飾りたる――刄は青銅――の長劍を 135
肩に投げかけ、其上に巨大の堅き盾を負ひ、
その頭上には精妙の工みになれる大かぶと、
馬尾の冠毛頂きを飾りてすごくゆらめけり。
次に二條の長き槍、手にふさはしきものを取る。
只剛勇のアキリュウス使ふ大槍、重くして 140
堅固なるもの手に取らず、アカイア軍の中にして、
アキルリュウスを除きては之を使用し得るは無し。
こは勇將ら斃すべくケーローンよりし彼の父
讓られしもの、ペーリオン嶺の白楊、柄を造る。
戰馬御すべく彼は今オートメドーンに令下す、 145
アキルリュウスの剛勇に次ぎて敬ふ彼の友、
亂戰中に彼の令奉じ最も誠なり。
オートメドーンは命を聞き戰車に繋ぐ二駿足、
風とひとしく飛び驅くるバリオス及びクサントス、
オーケアノスの岸近く草噛むときにハルプュイア、 150
(名はポダルケー)産むところ、風の王なるゼピュロスに。
更に二頭の傍に駢べて繋ぐペーダソス、
エーイチオーンの都市破りアキルリュウスの掠めたる、
此は尋常の種なれど天馬に並び競ふべし。
134 即アキリュウス。
143 IV 219.
150 嵐を人化せる者、天馬と譯すべきか。
152 VIV 87.
153 I 366.
ミルミドネスの各部隊あまねく※るアキリュウス、 155
衆に命じて陣中に武裝なさしむ。衆軍は
譬へば凄き猛勢を蓄へ肉にあこがるる
豺狼の群見る如し、角逞しき大鹿を
山徑のうへ打殺し、貪り食ひ鮮血に
牙を染めつつ、群りて滾々として湧きいづる 160
溪流求め、陰慘の水を痩せたる舌をもて、
吸ひつゝ、凄き鮮血を吐きいだしつゝ、勇猛の
氣は胸中に漲りて膓を飽く迄滿たしむる、
其群狼を見る如くミルミドネスの諸隊長、
アキルリュウスの剛勇の副將めぐり集まれり、 165
其陣勢の中に立つ脚神速のアキリュウス、
戰馬並に盾かつぐ將卒ひとしく勵ましむ。
神の寵兒のアキリュウス・ペーレーデース故郷より、
トロイアめがけ率ゐ來し迅き兵船數五十、
舟おのおのに五十人心一つに漕座占む。 170
此等の勢を令すべく、彼は信頼おくところ、
五人の將の名を擧げて身は最高の指揮を執る。
第一隊に將たるは胸甲華美のメネスチオス、
神より出でし河の神、スペルケ,オスは彼の父、
ペーリュースの女、うるはしきポリドーレーは彼の母。 175
スペルケーオス、力ある神と契りし女性をば、
ペリエーレース生める息、ボーロス後に莫大の
資財を具して妻としてメネスチオスの義父となる。
ユウドーロスは勇にして第二の隊の將となる。
ポリュメーレーは彼の母、美なる舞姫、ピューラスを 180
父とするもの、――そのむかし、黄金の箭を携ふる
神アルテミス司どる歌舞の群のち、窈窕の
女性かいまみ戀したる猛きアルゲーポンテース、
ただちに彼の樓上にヘルメーアスは慇懃に、
登りひそかに語らひき、かくて生れしすぐれし子、 185
ユウドーロスは勇にして駈けに戰事に脚早し。
エーレーチュイア、分娩を司どるもの、光明に
彼をさまして太陽の影を小兒の見たる時、
アクトールの子、勇猛のエケクレーオス、莫大の
産を與へておのが家に小兒の母を連れ去りぬ、 190
子を老祖父のピューラスは、はぐくみ育て、心して
恩愛篤く慇懃にわが子の如くあしらへり。
第三隊に剛勇のペーサンドロス將となる。
マイマロスの子、槍の手はアキルリュウスに伴へる
パートロクロス外にして、ミルミドネスの衆凌ぐ。 195
馬術巧みのポイニクス老將第四の隊率ゆ。
ラエルケスの子すぐれたるアルキメドーンは第五隊、
かく軍勢の將定め正しく部署を整へて、
ペーレーデース・アキリュウス言句激しく宣んし曰ふ、
183 即ヘルメーアス。
187 分娩を司どる女神。(XI 270)
193 同名の人、XI 122 XIII 601 等。
196 IX 432 等。
『わが憤激のありし時、ミルミドネスよ、輕快の 200
舟のかたへにトロイアの軍に汝ら吐きたりし
威嚇の言を忘るるな、汝ら我を責めたりき、
「ペーリュウスの子酷き哉、膽汁をもて君の母、
君育てしや? 船のそば厭へる部下を抑へ留む、
波浪劈く船に乘り、むしろ故郷に立ち去らむ、 205
不祥の怒り斯く迄も君の心を領すれば」
屡※かくも汝らは集議の席に述べたりき。
汝らかくも求めたる戰正に今來る、
勇ある者はトロイアの敵にはげしく打かかれ。』
しかく宣んしておのおのの勇氣盛に奮はしむ。 210
主將の言にもろ/\の部隊ます/\迫り合ふ、
風の暴威を防ぐべく密に組みたる石をもて、
巨屋の壁を工人の築くが如く緊密に、
互に觸るる軍勢の兜と兜、盾と盾、
盾は隆起の浮彫もゆゆし、兜は燦爛と、 215
馬尾の冠毛ゆらめきて、彼と此とは相觸れつ、
將士互に相交り密集しつゝ並び立つ。
その全隊の先に立つ二人の勇士意は一つ、
ミルミドネスを率ゐつつパートロクロス、鎧ひたる
オートメードン奮然と進めり。こなたアキリュウス、 220
その陣營に立ち歸り、美なる精巧の櫃の蓋、
開きぬ、櫃は銀色の脚のテチスが船中に
彼に備へておけるもの、中に豐かに充たせるは、
下衣並に風防ぐ外套及び氈の類。
中に又見る精巧の盃、外の何人も 225
これより美酒を酌まぬもの、又何人も之に因り、
ヂュウスの外の神の前、奠酒の禮をなさぬもの。
櫃より之を取り出だし、まづ硫黄もて淨めたる
ペーレーデース、次にまた清き水にてこを洗ひ、
次におのれの手を洗ひ、盃に葡萄の美酒滿たし、 230
陣のもなかに立ち上り、天を仰ぎて芳醇を
地に傾けて祈り乞ふ、雷霆の神きこしめす。
『天王ヂュウス! 嚴冬のドードーネーをまつろひて、
ペラスゴイ族守る神、地に臥し足を洗はざる
祭司セルロイかしづきてあなたに遠く住める神! 235
既に先きにはわが祈り求むるところ聞し召し、
わが身を揚げてアカイアの軍に災加へたり、
今は新たのわが祈願再び之を聞き給へ。
われ自らは留りて水師のほとり控うべく、
而して友を戰に、ミルミドネスの陣勢と 240
共に送らむ。光榮を彼に雷霆の神よ貸し、
彼の胸中雄心を充たしめ給へ、――ヘクトール
かくして知らん、わが友のひとり戰事に勇なりや、
或はわれの戰鬪に共に並びて進む時、
其時にのみ剛強の彼の腕の凄きやを。 245
而して船より叫喚の敵の軍勢攘ふのち、
恙なくしてわがもとに、彼れ其武具と接戰の
勇士ら率ゐ輕舟の水師に歸り得んことを。』
233オリュンピアならず、ドードーネーを鎭するヂュウスに祈る、アキリュウスはドードーネー市を含むテッサリーの人。
236 I 453. 503.
祈りてしかく陳ずるを聞ける明知のクロニオーン、
天上の父その言の一部を許し他を拒み、 250
敵の襲撃水師よりパトロクロスの攘はんを、
許せど彼の恙なく陣に歸るは諾はず。
奠酒の禮を行ひて祈りを終へてアキリュウス、
その陣中に立ち歸り、櫃に寶器を藏め入れ、
再び出でて陣營の前に佇み、トロイアと 255
アカイア二軍怖るべく戰ひ合ふを見なんとす。
武裝整へ剛勇のパトロクロスに附き來る
衆軍、かくて勇み立ち、トロイア勢に打ちかかる。
ただちに衆は散兵の線に擴がる、譬ふれば、
路傍に巣くふ熊蜂を惡しき習の少年が、 260
つねに無慚に怒らして刺戟を續け、其はてに
あまねく衆に災を來らし、とある旅人が、
それとは知らず、其路を過ぎて覺はず觸るる時、
勇氣に滿てる蜂の群、奮然として飛び出し、
其巣の中にこもりたる幼き者を禦ぐ如。 265
正しくかかる勇を鼓し、ミルミドネスは奮然と、
その水陣を立ち出でて揚ぐる喊聲果しらず。
パートロクロス大音にその友軍に呼びて曰ふ、
『ミルミドネスよ、英剛のアキルリュウスの友軍よ、
ああわが友よ、男兒たれ、はげしき勇を忘るゝ勿! 270
水師のほとりアカイアの中の至上のアキリュウス、
彼に光榮與えずや、奮はざらめや部下の友!
アカイア中の至上者を尊とまざりし過を、
アートレ,デース、權勢のアガメムノーンに知らせずや!』
しかく陳じて友軍の意氣を力を奮はしむ。 275
かくて衆軍一齊にトロイア勢に打ちかかる、
そのアカイアの叫喚に船は凄くも鳴りひびく。
かなたトロイア軍勢は、耀く武具を裝へる
メノイチオスの剛勇の子息、並に其部隊
眺めし時に一同の心騷ぎて隊亂れ、 280
思へり、船の傍に脚神速のアキリュウス、
先きの瞋恚を抛ちて新たに衆と結べりと、
かくて破滅を免るべく各四方をかへり見る。
パートロクロスまつ先きに耀く槍を投げ飛ばし、
プロテシラオス乘りし船、黒き船尾の傍に 285
敵の軍勢亂れたるそのただ中に抛げ飛ばし、
おほいなる川アキシオス、流るるほとりアミドーン
郷より、騎馬のパイオニア勢を率ゐし剛勇の、
ピュライクメ,スの右の肩打てば、呻めきて塵の中、
あをのけ樣に打ちたほる。戰事すぐれし其首領、 290
パトロクロスに打たるるをパイオニヤ勢打ち眺め、
恐怖抱きて一齊に算を亂して逃げ走る。
かくして彼は水師より敵を攘ひて炎々の
焔を消しぬ。軍船は半ば燒かれて岸にあり、
トロイア軍は紛々と亂れて逃れ、アカイアは 295
船中さして殺到し高き喧囂わき湧る。
今譬ふれば霹靂を飛ばす天王クロニオーン、
厚き雲霧を大山の頂よりし攘ふ時、
丘陵及び高き峯また谿谷も一齊に、
現はれ出でゝ仰ぎ見る大空廣く開くごと、 300
船より敵の兵燹をアカイア軍勢攘ひ得て、
しばしくつろぐ、然れども戰またく止みはせず。
故はトロイア軍勢は黒き船より背をむけて、
アカイア軍の奮戰の前にまたくは退かず、
なほ抵抗を試みてただ強力に屈するのみ。 305
289 II 848.
299 VIII 557.
今亂戰のただ中に將帥中の人と人、
互に打てり、まつさきにメノイチオスの勇武の子、
その青銅の槍飛ばし逃れんとする敵の將、
アレ,イリコスの股を打ち、貫き通る鋭刄に
骨をはげしく劈けば大地の上にうつぶしぬ。 310
アレースに似しメネラオス、トアスの胸の露はなる、
楯のおほはぬ胸を討ち、彼の肢體をゆるましむ。
ピュレーデースは敵の將アムピクロスのつき來るを、
認めて之に先んじて、脛の起端を――筋肉の
最もあつき部を討ちぬ、槍の穗先きに筋肉は 315
つんざかれつゝ、暗黒は彼の兩眼おほひ去る。
ゲレーニャ騎將ネストール産める二人の子のひとり、
アーンチロコスは槍をもてアチュムニオスの腹部刺し、
その眼前に斃れしむ、兄を打たれていきどほる
マーリス近く迫り來て、屍體の前にふみとまり、 320
アーンチロコスを打たんとす、トラシュメデース之を視て、
先を制して打ちかかり、覘違はず忽ちに
其肩打てば、槍の先鋭く入りて根本より、
腕をもぎとり、更にまた骨を無慚につんざけば、
どうと斃れて地に伏して暗は兩眼蔽ひ去る。 325
アミソーダロス生める二兒、サルペードーンの友にして、
槍を飛ばすに巧みなる兄弟二人かくのごと、
敵の二人の兄弟に打たれ冥府の暗に入る。
父は人類の禍の怪物キマイラ養へり。
オイリュウスの子アイアース、奮ひ進みて生き乍ら、 330
クレオブノロス、亂軍の中に惱むを引き捕ひ、
やがて利劍をひき拔きて其頸打ちて斃れしむ。
熱き血汐は刀身を全くぬらし、もの凄き
死滅並に恐るべき運命彼の目を蔽ふ。
ペーネレオース打ち向ふ敵將リュコーン、槍をもて 335
おのおの覘過ちて利刄空しく飛び去れば、
更に互に劍を取り向へり、リュコーン其時に
利劍は柄のもとにして折れとぶ――彼を耳の下、
ペーネレオース斬りさげて落す首は一枚の
皮に僅に支へたれ、肢體は土に倒れ伏す。 340
メーリオネース殺急の脚に、敵將アカマース
追ひて、兵車にのるところ、覘違はず右の肩
討てば、大地に打斃れ暗は兩眼おほひさる。
イドメニュウスは殘忍の青銅をもてエリュマスの
口突き刺せば鋭利なる槍は頭腦の下を過ぎ、 345
貫き通り白き骨、勢猛くつんざきつ、
齒は碎け飛び、兩眼は無慚に紅き血を滿たし、
張りし口より鼻孔より、滾々として鮮血を
吐き出し乍ら斃れふし、死の暗雲におほはれぬ。
309 XIV 451 は別人。
311 II 638 別人。
313 ピュリュウスの子=メゲース。
318 V 581 は別人。
326 或説によればリキエエー族の王、前後に其名無し。
329 VI 179.
331 前後に無し。
335 II 494.
344 下文 415 のは別人。
これらアカイア將帥は各※敵の一人討つ。 350
譬へば牧人怠りて群山上に散れる時、
群の中なる小羊を、あるは小山羊を貪食の
狼襲ひうつ如し。好餌認めて猛然と
迫り來りて惡獸は、可憐の群を奪ひ去る。
斯くもアカイア軍勢はトロイアめがけ打ちかかる、 355
勇を忘れし敵軍はただ逃走をこころざす。
テラモーニオス・アイアースつねに念じて青銅を
鎧ふヘクト,ル討たんとす、されど戰事に巧みなる
敵は牛皮の楯をもて。その大なる肩掩ひ、
飛箭の音に投槍の響に耳を傾けつ、 360
勝利の運は敵軍に向ふを悟り知り乍ら、
なほ斯く後に踏み留りその戰友を救はんず。
ヂュウスあらしを起すとき、ウーリュンポスの高きより、
晴れし日ののち暗き雲天に冲して上るごと、
舟よりトロイア軍勢は叫喊高く逃げ走る、 365
彼ら塹濠退くに隊伍整ふことを得ず。
將ヘクト,ルを武具ともに脚神速の馬は曳き、
後に殘れるトロイア勢やむなく濠に遮ぎらる。
多くの戰馬その濠を渡らんとして將帥の
兵車の轅打碎き彼らを後に殘し去る。 370
パートロクロス之を逐ひ、アカイア勢を勵まして、
トロイア軍を討たんとす。敵は隊伍を破られて、
叫喊及び畏怖をもて其途滿たし、塵埃の
あらしは高く雲に入る、而して船と陣營を
あとに都城をめざしつゝ、單蹄の馬翔けて行く。 375
敵軍最も數多く亂ると彼の見るところ、
パートロクロス聲あげて戰馬驅くればその下に、
敵は地上に倒れ伏し、兵車碎けてくつがへる。
斯くて神よりペーリュウス受けし恩寵、不死の馬、
飛ぶが如くに塹濠をその神速の脚に越す、 380
其馬進め、ヘクト,ルをパートロクロス打たんとし、
心しきりに勵めども敵も駿馬を驅りて逃ぐ。
集議の席に暴威もて審判まげつ、正道を
棄てて諸神の復仇を、物ともせざる民の上、
怒をむけてクロニオーン豪雨はげしく注ぐ時、 385
秋の一日慘澹のあらし大地を襲ひ打ち、
すべての河流洪水をなして走れば、丘陵は
怒の波に崩されつ、水は滔々おほいなる
響を以て、源泉の山より凄き大海に
其奔流を下し行き、人の勞作、田園の 390
富一齊に碎き去る、――正しくかかるおほいなる
叫びを以て、トロイアの馬一齊に嘶けり。
パートロクロス敵軍のはじめの隊伍破る時、
更に彼らを驅り立てて水師めざして走らしめ、
都城に向ひ逃れんとするを許さず、水軍と 395
川と高らの城壁の間におしつめ、其中に
躍り進みて亡して、死せる自方の讐を打つ。
かくて眞先きにプロノオス盾の隙より露はせる
胸を耀く槍に刺し、彼の肢體を緩ましむ、
敵は大地にどうと伏す。エーノプスの子テストール、 400
つづいて彼に亡ぼさる。光る車臺にゐすくまる
敵は恐怖に氣は滅入り、茫然として双手より
手綱落せる時まさに、彼れ迫り來て槍をもて、
右の顎刺し貫きて齒牙悉くつんざきぬ、
かくて車臺のへりの上槍もて彼を曳き來り、 405
譬へば岸の岩の上坐せる漁翁が神聖の
魚を釣糸、青銅の耀く針に釣り上げて
海より陸に移すごと、耀く槍に車臺より
地にうつぶして倒れしむ、倒れて彼は息絶えぬ。
次にはせくる敵の將、エリアーロスの頭蓋の 410
もなかに石を打ち當つる、堅き甲を被れる
頭二つに碎かれて敵は地上にうつぶして、
生を奪へるものすごき死の運命は彼を掩ふ。
アンポテロス、エリユマス、エパルテースに引きつぎて、
ダマストールの生める息トレーポレモス、エキオスと、 415
ピューリス、イピュウス、ユウイポス、アルゲアスの子ポリュメール、
かはるがはるに豐饒の大地の上に打ち斃る。
406 水に住む者として海神ポセードーンに屬する故に神聖と曰ふ。
416 ポリュメーロスを略す。
メイノチオスの勇武の子パトロクロスの手の下に、
帶なき胸衣身につくる友僚かくも斃るるを、
サルペードーン眺め見てリキエー軍を叱り曰ふ、 420
『恥ぢよ、リキエー軍勢ら! いづくに逃ぐる! ああ奮へ!
我かの敵に向ふべし、勝に誇れる彼は誰ぞ?
多くの勇士うち倒し、トロイア軍に災を
かくも來せる彼は誰そ? 向ひて其名聞きとらん』。
しかく陳じて兵車より武具を手にして地に降る、 425
パートロクロス斯くと見て同じく車臺飛び下る。
嘴曲り爪猛き二羽の荒鷲憤然と、
高き岩のへ物凄く叫び戰ふ樣見せて、
喊聲高く敵身方二將互にわたりあふ。
計略深きクロノスの子たるヂュウスは之を見て、 430
之を憐み、其天妃また同胞のヘーレーに
向ひて語る『ああ無慚! 人間の中最愛の
サルペードーン、敵の將パトロクロスに倒されむ。
思ひ亂るる胸の中われ今二つの途念ず、
涙の種の戰場の外に救ひてやすらかに、 435
彼を富饒のリキエーの故郷に搬びさるべきか?
パトロクロスの手の下にやむ無く彼を倒さんか?』
431 ヘーレーはヂュウスの妃並に妹。
その時牛王の眼をもてるヘーレー答へて宣しいふ、
『天威かしこきクロニデー、今何事の仰せぞや?
長き前より運命の定められたる一人を、 440
不祥の死より救ふべく君は新たに念ずとや?
しかせよ、外の神明は君に贊することあらじ。
われ今一事君にいふ、銘ぜよ君そを胸の中。
サルペードーンを生き乍ら彼の故郷に遣はさば、
思へ、恐らく外の神、また戰亂の街より、 445
離れて遠くその愛兒送らんことを望むべし。
君に向ひて恐るべき瞋恚を起す衆神の
多くの子らは戰へり、プリアモス守る城のそば。
君もし彼をいつくしみ心に彼を憐まば、
亂戰中に彼をしてメノイチオスの勇武の子、450
パトロクロスの手の下に打たれ最期を遂げしめよ、
その靈魂と生命と共に勇士を去らん時、
死の神及び甘美なる眠の神に令下し、
彼を運びておほいなるリキエーの地に行かしめよ、
そこに同胞親友は柱を立てて墳設け、 455
彼を埋めむ、しかするは死者に對する禮にこそ。』
453 「死」と「眠」XIV 231.
しか宣んすれば人天の父クロニオーン之に聽き、
やがて地上に血の雨を灑ぎ愛兒を崇めしむ、
程なく彼はリキエーの故郷を遠く隔てたる
こゝ豐沃のトロイアに、パトロクロスの手に死なむ。 460
敵と身方の二勇將かくて互に迫るとき、
メノチオスの勇武の子パートロクロス槍飛ばし、
トラシュメーロス――主將たるサルペードーンの勇猛の
臣下の腹の下部を射て彼の肢體を弛ましむ。
サルペードーンこれに次ぎ、耀く槍を投げ飛ばし、 465
打てど覘を誤りぬ、されど其槍敵將の
馬ペーダソス右の肩打てばはげしく嘶きて、
倒れて塵の中に伏し叫び乍らに息絶えぬ。
かくして副馬、挽綱を曳くもの塵に伏したれば、
殘りの兩馬相はなれ、軛きしりて綱縺る。 470
オートメドーン、槍術に巧みの勇士、かくと見て、
その逞しき腰の下鋒刄長き劍を拔き、
走り來りてためらはず副馬の綱を切り放つ、
かくして兩馬立ち直り、もとの如くに手綱張る。
463 前後に無し。
かくして二將もの凄き苦鬪に又も渡り合ふ。 475
サルペードーン再びも、その燦爛の槍をもて、
覘誤まり、鋭刄はパトロクロスの左肩
掠め落つれば、青銅をかざし馳せ寄る敵の將、
パートロクロス手中より放つ飛槍は誤らず、
隔膜及び心臟の觸れ合ふほとり打ち當つる。 480
巨船の材を造るべく磨きあげたる斧を揚げ、
山の間に工人の群、樫の木を白楊を、
はた長松を伐り倒す、正しくかくも馬の前、
兵車の前に身をのして、サルペードーン倒れ伏し、
苦惱に高く呻めきつゝ血潮に染める塵攫む。 485
蹣跚として歩む群、中にすぐれし褐色の
牛を獅子王襲ひ來て、無慘に屠り殺す時、
牛は悲鳴の聲あげて噛まるる儘に死するごと、
パトロクロスの手に死する援軍リキエー猛將は、
最後の勵み聲揚げてその友僚に叫び曰ふ、 490
481 XIII 389.
486 486 以下此比喩の複雜は後人の添加か。
『ああグローコス、人中の戰士、今こそ覺悟せよ、
槍を揮ひて戰ひて恐怖を知らぬ勇士たれ!
凄き鬪戰心せよ、奮ひて進め、ためらふ勿!
まさきに四方馳せ※り、サルペードーンの屍の爲め、
苦鬪なすべくリキエーの諸將に呼びて起たしめよ、 495
次ぎに自ら槍取りて奮ひ戰へ、われのため!
船をめぐりて戰ひてわれ斃る時、アカイアの
敵わが武具を剥ぐとせば、此後我は永遠に
汝に對しとこしへに誹謗恥辱の種たらむ。
ああ起て! 奮へ、一切のわが軍勢を起たしめよ!』 500
陳じ終れる勇將の眼を鼻孔を、いたはしき
死の暗影はおほひ去る。その胸の上脚すゑて、
槍を屍より拔きとれば臟腑つづいて溢れ出づ、
かくして魂と鋭刄を共にひとしく引き拔きぬ。
ミルミドネスの軍勢は、主公の兵車打ち棄てて、 505
逃れんとして嘶ける敵の軍馬を抑へとむ。
友の最後の音聲をききて悲むグローコス、
救助を果し得ざるため痛く心を惱ましつ、
更に其手に腕つかみ、力をこめて疵抑ゆ、
城壁さして走るとき、敵の副將チュウクロス 510
友軍救ひ、矢を飛ばし彼の腕射て疵つけぬ。
その時彼は銀弓の神アポローンに祈り曰ふ、
511 XII 386.
『神、きこしめせ、リキエーの豐饒の地におはすとも、
又トロイアにおはすとも、到るところに人間の
惱聞くべき力ある神みそなはせ、わが惱み。 515
われこのつらき疵を負ひ、腕のめぐりは猛烈の
苦痛によりて惱まさる、流るる血汐留めんと
すれど留まらず、わが肩は疵ゆゑ重く耐へがたし、
しかとわが槍とりがたし、更に進んで敵軍と