イーリアス

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

指揮の七將、おのおのに從ふ者は、百人の 85

若き勇卒、手の中におのおの槍を携へて、

長壁及び塹濠の間、眞中に陣を張り、

炎々篝焚きながらおの/\食の備なす。

81 X 254. XIV 10 16 321. XII 378 705.

82 II 512.

82 XII 478 XII 541.

83 XII 366.

アートレ,デース陣中に、アカイア軍の數多き

宿老招き、盛大の宴を彼らのため設く、 90

備へ設けし飮食に諸將おのおの手を延ばす。

斯くておのおの口腹の慾を滿たして飽ける時、

先に至上の忠言を述べし老將ネストール、

今又衆に先じて勝れし意見述べんとす。

老將即ち慇懃の思をこめて宣んし曰ふ、 95

『アートレ,デーよ、光榮のアガメムノーン、衆の王、

わが言最初君に向き、最後同じく君に向く、

君は最多の衆を統ぶ、笏と權威をクロニオーン

君の手中に托しつゝ、衆人のため計らしむ。

さればすべてに拔きいでゝ君は説くべし、他の説に 100

耳を貸すべし、他の善しと思ひて進言する處、

君は爲すべし、實行はひとへに君の上にあり。

我今最も善しとする我の意見を陳ずべし。

他の何人も恐くは是に優れる説無けむ。

わが是の意見抱けるは一日ならず、さきつ頃 105

雷霆の神生める君、明眸ブリーセーイスを

アキルリュウスの陣よりし、彼の憤激顧みず、

奪ひ來りし時よりぞ、われらの贊せざりしもの、

われもろ/\の理によりて諫めたりしも君聽かず、

權威に誇り紅頬の少女を君は奪ひ取り、 110

神明さへも尊べるアキルリュウスを辱しめぬ。

甘美の言と珍寶の贈與によりて和げて、

彼に説く道――今になほ能はゞ――講ずべからずや?』

97 此の句は神を讃美する時に用ゐるもの、今ネストールはアガメムノーンが恰も地上におけるヂュウスの代表たるが如くに曰ふ。

其時彼に衆の王アガメムノーン答へ曰ふ、

『あゝ叟、我の過を君は正しく説き得たり、 115

我あやまてり、あやまてり、今更之を否み得じ。

ヂュウスの愛づる英豪は百千人に相當る、

彼を崇めてアカイアに神は禍難を降したり。

無慙の情念われを驅り、これに過失を犯さしむ。

今莫大の贈與もて願はく彼を和げむ。 120

其償の珍寶を今衆前に披露せむ。

まだ火に觸れぬ鼎七、十タランタの黄金と、

光り耀く釜二十、その神速の脚により

賞を儲けし倔強の良馬揃へて十二頭、

この單蹄の駿足のわがため先に獲しところ、 125

さほどの財を獲なむ者、乏しき人と曰はるまじ、

人の望める黄金の財に乏しと曰はるまじ。

更に手藝に勝れたる女性七人贈るべし、

そは堅城のレスボスを彼の破りし時にわれ、

自ら撰び取りしもの、艶美秀づるレスボスの 130

これらの少女贈るべし、中に彼より奪へりし

ブリーセーイス加はらむ、更に盟ひて我曰はむ、

その閨房に進み入り、男女の間、世の常の

習はしなれど慇懃のかたらひなせしこと無きを。

即時にこれら諸の贈遺を彼に整へむ、 135

而して此後神明の惠みによりて、イーリオン

都城の破滅あらん時、アカイア軍勢其戰利

別たん時に彼來り、黄金黄銅其船に

滿たして、更にトロイアのすぐれし女性十二人、

かのアルゴスのヘレネーに次ぐ者自ら撰ぶべし。 140

而して異日アルゴスの豐沃の地に歸る時、

彼を養ひ子となして、富裕の生に育ちたる

われの末の子最愛のオレステースに劣るなく、

彼を崇めむ。わが館の中に三人の息女あり、

クリュウソテミス、ラーオヂケー、イーピアナッサ――其中の 145

一人、彼の望む者、結納なくて彼の父、

ペーリュウスのもと彼連れよ、その時われは何人も

未だ其女に與へざる多量の贈遺致すべし。

更に戸口の賑へる七つの都市を贈るべし。

カールダミュレー、緑草のイレー、エノペー、神聖の 150

ペーラス及び茫々の平原廣きアンテーア、

風光美なるアイペーア、葡萄に富めるペーダソス、

すべては海に遠からず、沙地のピュロスの端を占む。

その住民は牛羊の多くの群を養へり、

その住民は彼迎へ神の如くに尊ばむ、 155

彼の手にする王笏の下に貢賦は盡きざらむ、

憤怒を解かば彼にわれ以上の贈遺致すべし。

和ぎ彼にあらしめよ、和ぎがたく曲げがたき

冥府のあるじアイデース、最も人の憎惡たり、

願はく彼の讓らんを、我の王權彼に優し、 160

我の年齡また彼に比して長きを顧みて』

115 I 117參照。

131 アキリュウスの名を指さず、只彼といふ、アキリュウスは之に反して『憎むべきアートレーデース』を繰り返す。

145 グリース悲劇作中には此らの名に相違あり、イーピアナツサはイプィゲネーアか然らばアウリスにおけるイプィゲネーアの牲の話はホメーロスに全く知られざりしなり。イーピアナッサ此時健在なれば。

146 嫁の父に資財を呈するは當時の習。XI 243 以下參照。

159 何らの方法を以てしてもアイデースの司配する死を免れず。

160 ネストールが I 280 以下に説く如し。

ゲレーニャ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、

『アートレ,デース、光榮のアガメムノーン、衆の王、

君の贈遺のもろ/\はアキルリュウスも賤しめじ。

ペーレーデース・アキリュウス宿る陣舍に速かに、 165

行きて説くべき選良をいざ今奮ひ起たしめよ。

よし我之を選ぶべし、選ばるゝもの命を聽け、

ヂュウスの愛づるプォイニクス眞先に立ちて導けや、

次は偉大のアイアース、又神に似るオヂュシュウス、

二人の使オヂオスとユウリバテースまた續け。 170

清めの水を持ち來れ、聖の沈默あらしめよ、

クロニデースに祈り上げ其冥護をぞ願ふべき』

168,169,169 使者三人最も適當。

プォイニクスはアキリュウスを其の少年の時育つ、アイアースはアキリュウスに次ぐ最強の武將、オヂュシュウスは能辯にして策謀に富む。

171 清めの水 VI 266―268 參照。

しか宣んすれば衆人は皆喜びて之を聞く。

直ちに侍者は衆人の手に水灑ぎ清めしむ。

若き給仕は芳醇を溢るゝまでに瓶滿たし、 175

奠酒を果し隊中を※りすべてに酌み與ふ。

奠酒の式にはじまりて衆人心滿てる時、

アガメムノーン大王の陣を使者等は奔り出づ。

ゲレーニャ騎將ネストールその時衆に、又特に

オヂュシュウスに目を注ぎ、ペーレーデース英豪の 180

説伏切に勉むべく種々の訓示を之に垂る。

174 原文に「使者」なれども、こは今行かんとする使に非ず。

176 まづ神明に酒を捧げ、盃を地上に傾く。

二人はかくて※々とひゞく波浪の岸に沿ひ、

アキルリュウスの倔強の心容易く服すべく、

大地を搖するおほいなる神に行く行く祈上ぐ。

ミュルミドネスの陣營に並に船に着ける使者、 185

精美盡して銀製の絃柱もてる竪琴の

玲瓏の音に其王者心樂む姿見る、

エーイチオーンを陷れ鹵獲の中に撰りしもの、

彈じて彼は興じつゝ武勇の事蹟謠ふめり。

パトロクロスは只ひとり默然として其前に、 190

アイアキデース吟謠を終るを待ちて向ひ座す。

そこに智勇のオヂュシュウス先に二人は進み入り、

アキルリュウスの前にたつ、驚く彼は座より立ち、

手に絃琴をとるまゝに急ぎ二人に向ひ來る、

同じくこれを認めたるパトロクロスも身を起す。 195

脚神速のアキリュウス其時二人を迎へ曰ふ、

『善くぞ! 友とし來るかな、迫る用事は何者か?

我は怒れどアカイアの中に汝は愛の友』

186 ホメーロスの詩中、軍將にして琴を彈ずるものはアキリュウスとパリス(III 54)。他に名を擧げられしもの無し。

189 ホメーロス以前敍事詩の存せる一證。

然かく陳じてアキリュウス二人導き中に入り、

紫紺いみじき氈しける榻の上之を坐せしめつ、 200

パトロクロスの傍にたてるに向ひ直にいふ、

『メノイチオスの勇武の子、おほいなる瓶持ち來り、

中に芳醇滿たしめて盃わたせ、おの/\に。

親しみ最も深きもの今陣營の中にあり』

しかく宣んする愛友にパトロクロスは應じきく。 205

爐火のほとりに大なる卓を据えたるアキリュウス、

羊の背肉、山羊の肉、脂肪の光澤々の

家猪の肥鮮の豐肉をとり/″\これの上にのせ、

アウトメドーンを手助けに勇士親しく肉を割き、

薄身に切りて幾條の串に貫き了すれば、 210

メノイチオスの勇武の子、炎々強き火を燃す。

焚火やがては燃え盡し勢やゝに沈む時、

燠火を廣く散らし布き、其上串を据えかざし、

更に架上に取り直し清めの鹽をふりかけぬ。

かくして調理事終り、美味卓上に並ぶ時、 215

パトロクロスは美麗なる籠に麺麭齎して、

之を頒てば、アキリュウス同じく肉を衆前に。

かくして彼はオヂュシュウスまともにおのが座を占めつ、

パトロクロスに命下し諸神に牲を捧げしむ、

友は應じて調し得し眞先の肉を火に投ず。 220

かくして衆はその前の美味に向ひて手をのしつ、

やがて飮食事終り口腹おの/\飽ける時、

ポイニクス見てアイアースうなづく、これをオヂュシュウス

悟り、盃充たしつゝアキルリュウスを祝し曰ふ、

209 アキリュウスの御者。XVII 429.

『さきくあれかしアキリュウス。われら共同の宴缺かず、 225

アガメムノーン光榮のアートレ,デース、其陣に

同じく共に皆缺かず、心を慰する饗宴の

豐かの料は具はれり、さはれ飮食今われの

煩ひならず、おほいなる禍難逼るを我恐る。

あゝアキリュウス! 君にして奮ひたゝずばアカイアの 230

櫓櫂いみじく備はれる舟の存亡計られず。

水師並に長壁に近く勇めるトローエス、

遠くよりして呼ばれ來し援軍共に陣を布き、

諸隊あまねく煌々と篝火を燒きて宣んすらく、

敵は拒ぐを得べからず、船中さして逃れんと。 235

彼らに向ひクロニオーン吉兆示し、霹靂を

飛ばしむ、かくてヘクトール高言吐きて傲然と、

物凄き迄暴れ狂ひ、ヂュウスを信じ、何人も

何らの神も尊まず、はげしき猛威身に滿てり。

彼は曙光の速かの出現切に乞ひ祷り、 240

舳より記號剥ぎとりて舟を炎々の火に燒きつ、

烟に咽び逃げ迷ふアカイア軍をそのそばに

皆悉く討つべしと飽く迄誇り叫び曰ふ。

われは痛くも心中に嘆きて畏る、神明の

計らひ、彼のおびやかし成りて、アルゴス―駿足を 245

産する地より遠くこゝトロイアの地に死すべきを。

トロイア軍の奮戰に痛くも惱むアカイアの

軍勢救ふ念あらば、よし遲くとも奮ひ起て。

さらずば悲嘆君に來む、一たびすでに逃げられし

禍難の治療見出すべき術あるなけむ、されば今 250

アカイア軍の禍の日を掃ふべく努めずや。

あゝ友、父のペーリュウス、プチーエーより君の身を

アガメムノーンに送りし日、訓戒切に斯く曰ひき。

「わが子よ、汝にアテーネー及びヘーレー意ある時、

威力惠まむ、胸中に汝よろしく剛強の 255

心を抑へ制すべし、謹愼の徳あゝ思へ、

禍釀す爭を根絶すべく心せよ、

しかせばアカイア老少はひとしく汝崇むべし」

老翁斯くも教訓を垂れしを君は忘れたり。

いざ今心肝煩はす怒を棄てよ、アガメムノーン、 260

怒棄つべく君のためいみじき贈遺備へせり。

君もしこれを聞かまくばアガメムノーン營中に

約し盟ひし珍寶の數々こゝに語るべし。

まだ火に觸れぬ鼎七、十タランタの黄金と、

光り耀く釜二十、その神速の脚により、 265

懸賞得たる倔強の良馬揃へて十二頭、

これらすぐれし駿足のアガメムノーンに獲し所、

さほどの財を獲る者は乏しき人と曰はるまじ、

人々望む黄金の財に乏しと曰はるまじ、

更に手藝に秀でたる女性七人贈るべし。 270

こは堅城のレスボスを君の破りし時に彼

自ら撰び取りしもの、艶美秀づるレスボスの

これらの少女贈るべし、中に君より奪へりし

ブリーセーイス加はらむ、更に盟ひて彼は曰ふ、

かの閨房に進み入り男女の間、世の常の 275

習はし、彼と慇懃のかたらひ爲せしこと無きを。

即時にこれらもろ/\の贈遺を君に整へむ、

而して此後神明の惠によりて、イーリオン

都城の破滅あらむ時、アカイア軍勢その戰利

頒たん時に、君行きて、黄金、黄銅、船中に 280

滿たして更にトロイアのすぐれし女性二十人、

かのアルゴスのヘレネーに次ぐもの君は撰ぶべし。

而して異日アルゴスの豐沃の地に歸る時、

君を養ひ子となして、富裕の生に育ちたる

かれの末の子、最愛のオレステースに劣るなく 285

君を崇めむ、彼の館、中に三人の息女あり、

クリューソテミス、ラーオヂーケー、イーピアナッサ――その中の

一人、君の望む者、結納なくて君が父

ペーリュースのもと君つれむ、その時彼は何人も

未だ息女に與へざる多くの贈與致すべし。 290

更に人口殷賑の都城七つを贈るべし、

カールダミュレー、緑草のイレー、エノペー、神聖の

フェーラス及び茫々の平原廣きアンテーア、

風光美なるアイペーア、葡萄に富めるペーダソス、

すべては海に遠からず、沙地のピュロスの端にあり、 295

その住民は牛羊の多くの群を養へり、

其住民は君迎へ神の如くに尊ばむ。

君の手にする王笏の下に貢賦は盡きざらむ。

憤怒を解かば君に彼以上の贈遺致すべし。

アートレ,デース及び其贈遺を痛く憎むとも、 300

君願はくは、陣中に惱むすべてのアカイアの

他の軍勢に哀憐を垂れよ、彼等は

神明の如くに君を尊べり、その眼前に勳功を

たてよ、近くに寄せ來るかれ、ヘクトール打斃せ、

暴びたけりて彼は曰ふ、戰艦こゝに搬び來し 305

ダナオイ軍の一人も我に手向ふ者なしと』

236 II 353 及び VIII 133 170 等。

241 舳部における突出部、ヘクトールは之を鹵獲品となさんとするか?

249 『禍難の來りし後は愚者も知る(悟る)』XVII 32 參照。

253 オヂュシュウスはネストールと共にプチーエーに行きてアキリュウスを誘へり。(XI 765)

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、

『ラーエルテースの秀れし子、智謀に富めるオヂュシュウス、

心にわれの思ふ儘、事成るべしと思ふ儘、

矯飾あらず、明かに口を開くぞ善かるべき。 310

かくせば君らわが前に矛盾の言句述べざらむ。

心に一事蓄へて口に別事を述ぶる者、

我は痛くも忌みきらふ、冥王の門見る如し。

今わが心正當と思ふ所を陳ずべし、

アートレ,デース、アガメムノーン並に外のアカイアの 315

すべてはわれに勸誘をなすべからずと我思ふ。

不斷に敵と鬪へど常に感謝は拂はれず、

同じ運命休らへる、はた鬪へる者にあり、

同じ運命卑怯なる、はた勇悍の者にあり、

死は一樣に勤めたる、はた怠れる者にあり、 320

命を不斷の戰に暴して爲めに心中に

いたく苦難をうけし後、われに何らの酬なし。

譬へば未だ飛び得ざる雛に其餌をあさり來て

與へて、たゞに辛酸を自ら嘗むる母鳥か。

敵と戰ひ汝等のめづる女性を護るため、 325

斯く我、多く睡眠を知らざる夜を過したり。

斯く我、多く流血の無慚の日數過したり、

船に乘じて敵人の十二の都城打ち破り、

また陸上にトロイアの郷に十一陷れ、

其一切の財寶を奪ひ來りて衆の王、 330

アガメムノーン、權勢のアートレ,デースに與へたり。

彼は水師の傍に悠然として居殘りて、

受けて小量他に頒ち自ら多く貪りぬ。

其列王と諸將とに頒ちし戰利皆共に

衆は手中に失はず、ひとりアカイア軍中に 335

わが得しところ温柔の女性を彼は奪ひ去る。

歡會かれにあらしめよ。思へ、アカイア軍勢は

何らの故にトロイアに敵せる? 衆を何故に

アートレ,デース率ゐたる? ――ヘレネー故にあらざるや?

聲朗かの人類の中に女性を愛するは、 340

アートレ,デースあるのみか。情理正しき者は皆

妻女を愛し勞はらむ。我また等しく慇懃に、

彼女を愛でき、戰鬪の力によりて獲たれども。

わが手中よりわが戰利奪ひて恥辱與へたる

彼はいかでか我に説き我を服することを得む。 345

オヂュシュウスよ、彼をして君と諸將の力借り、

敵の猛火を水師より攘はん術を取らしめよ。

我の加はることなくて夥多の業は遂げられぬ、

長壁すでに築かれぬ、めぐりに廣き大なる

濠穿たれぬ、其中に多くの杙は植ゑられぬ、 350

しかも斯くして獰猛の敵ヘクトール攻め來るを、

防ぎも得せじ。先に我、アカイア陣にありし時、

かれヘクトール城壁を離れ戰鬪挑み得ず、

たゞスカイエー城門と樫の樹のそば寄せ來り、

一囘われと戰ひて危く命を免れき。 355

されど我今ヘクトール敵とすること好まねば、

ヂュウス並にもろ/\の神を明日の日祭る後、

物滿載のわが諸船、水におろさむ、その時に、

(望まば、而して此事に君ら意あらば)眺むべし、

曉早くわが諸船、鱗族富めるわだつ海 360

かのヘルレースポントスを渡るを、水夫櫂取るを。

大地を震ふポセードーン善き航海を惠みなば、

第三日に豐沃のプチーエーにぞ歸るべき。

我に多くの資財あり、不幸にこゝに出で來る

前に故郷に殘し來ぬ、更にこゝより黄金を 365

また黄銅を、美はしき帶の女性を、鋼鐵を、

我の得し者悉く搬び去るべし、然れども

アガメムノーンわれの手に先に頒ちて今奪ふ。

これ等を彼に公然とわが望む儘云へ――さらば

厚顏常に恥知らず、恐らく更にダナオイの 370

とある一人欺くを彼望むとき、一齊に

アカイア軍は怒るべし。狗に等しき面持つも、

アートレ,デース今更に我をまともに眺め得じ、

評議或は行動にわれ亦かれと伴ならず、

われを欺き怒らせし彼また更に甘言に、 375

欺くことを得べからず、事すでに足る、今やいざ

破滅に向へ、神明は彼より智慮を取去りぬ。

彼の贈遺は汚らはし、われに微塵の價なし、

彼の所有の十倍に、はた二十倍、更に又

他方より來る財寶に、オルコメノスの領に入る 380

其貢獻の數々に、アイギュプトスのテーベーの

貢獻加へ贈るとも――巨萬の富の滿ち溢る

テーベー百の門ありてその各を兵二百

馬と車と共に過ぐ――これらをわれに贈るとも、

沙と塵との數多き贈遺をわれに爲すとても、 385

我を惱めし禍のすべてを拂ふことなくば、

アガメムノーンわが心絶えて説得すべからず。

アガメムノーン權勢のアートレ,デース生める子を

我娶るまじ、美に於てアプロヂーテーに競ふとも、

技藝に於てアテーネー・パラス神女に等しとも、 390

我娶るまじ、王をして他のアカイアの族にして

更に權勢優る者、適せる者を取らしめよ。

若し神明の加護ありて故郷に我の歸りなば

われに必ずペーリュウス一人の女性撰ぶべし。

ヘルラス及びプチイエー、中に多くのアカイアの 395

女性ら、都市を防護する勇士の生める息女あり、

中の一人、われの意に適する者を婦となさむ。

かくて正しき合法の配偶を得て之と共、

老ペーリュウス、われの父、獲たる資財をうけつぎて

享樂すべし、その強き情願われの胸に滿つ。 400

アカイア軍の寄する前、先に平和の日にありて、

トロイア族の持てりてふ其珍寶の數々も、

はた石がちのピュートウの地の銀弓のアポローン・

プォイボス神の殿堂の中に收まる珍寶も、

わが見る所生命に絶えて優れる物ならず。 405

肥えたる羊、牛の群之を獲ること難からず、

鼎鐺はたまた銀色の駿馬も求め難からず、

たゞ人間のこの呼吸、齒の防壁を出で去らば、

本に囘すを得べからず、捕ふることを得べからず。

足銀色の玲瓏のわが母テチス示し曰ふ、 410

二種の運命われをわが最期の途に導くと、

トロイア城の壁の下、こゝに殘りて戰はゞ、

歸郷の幸は失はれ、不朽の名譽獲らるべし、

之に反してわが愛づる祖先の郷に歸らんか、

高き光榮失はれ、しかも壽命は長うして、 415

死の運命は速かにわれに到らん事あらじ。

われ又衆に船に乘り郷に歸るを勸むべし。

高き堅城イーリオン、其滅亡の期をもはや

汝ら見るを得べからず、轟雷震ふクロニオーン、

手を延べ之を擁護して其民奮ひ喜べり。 420

さはれ汝ら今行きてわがアカイアの諸勇士に

其報告を齎らせよ(そは宿老の勤め也)

彼らの船と船中のアカイア軍を救ふべき、

外の優れる考案を、其胸中に講ずべく

彼らに告げよ、今の案效なし、救これにより 425

實現するを得べからず、わが憤激は解けざれば。

さはれ老將プォイニクス、こゝに殘りて休み取れ、

明日われの船の上、我に從ひ故郷に

望まば歸り行かんため、さはれ強ゆるを我はせず』

328 レスボス(IX 129.)テネドス(XI 625)テーベー(II 691)ペーダソス(VI 35)及び其他。

342 此一段も亦英雄時代における正式結婚の婦人に對する愛の證明。

372 I 225

380 ミニアイの首都、II 511.

381 エジプトのテーベー(テーブス)は當時全盛、第二十一王朝の都。

403 デルフイデルファイの古名、「イーリアス」全體中ただ一度こゝに名ざさる「オヂュッセーア」には二度 VIII 80, XI 581.

411 XVIII 535 又 I 352.

しか宣んすれば之を聞く衆默然と口を閉ぢ、 430

勢猛に拒みたる彼の言句に驚けり。

馬術巧みのプォイニクス老將その時アカイアの

水師を痛く悲しみて熱涙そゝぎ陳じいふ、

『あゝ勇壯のアキリュウス、憤激汝の身を驅りて、

歸郷の念を胸中に抱き、無慚の兵燹を 435

攘ひて水師防ぐこと少しも汝望まずば、

あゝわが愛兒いかにして汝と離れ我こゝに

殘るを得んや? その昔馬術巧みのペーリュウス、

プチイエーよりわれと共アガメムノーンに遣はせし

其日汝は若かりき、すべてに辛き戰鬪を 440

知らず、評議の席の上、身を拔んずる術知らず。

そも如何にして言論に秀で戰法長ずべき。

之を汝に示すべく老將われを遣はしき。

されば愛兒よ、汝より離るゝ事ぞ憂はしき、

離れは得せじ。離れなば神明われの老衰を 445

癒し、むかしの青春を囘すとよしや約すとも。

あゝ青春のその昔、われははじめて麗人の

郷ヘルラスを立ち退きぬ、父の怒を避くるため

(オルメノスより生れたるアミュントールは我の父)

父は正妻わが母を嫌ひて、とある麗人を 450

戀へり、悲しむわが母は反間の策先んじて、

其麗人と契るべく我に請願切なりき。

我其言に從ひてしか行へり、そを悟る

父ははげしき呪咀の言放ちて凄き復讐の

神女に乞へり、彼の膝攀づべき者の一人だも 455

われより生れ出でざれと――其誓願を納受せる

深き地底のヂュウス又ペルセポネーア恐るべし。

悲憤に耐へず鋭利なる刄に父を弑せんと

念ぜる折に、とある神、我を抑へてわが胸に、

アカイア族の中にして父を殺せる惡名の 460

世間の批判思はしめ、諸人の非難恐れしむ。

かくて瞋恚の父と共、同じき宿に一身を

留めんことは胸中に遂に全く忍ばれず。

さはれ親戚僚友は共にひとしく傍に

ありて館中殘るべく諫諍切に我を止む。 465

即ち蹣跚と歩み行き、角の曲れる肥えし牛、

脂肪に富める羊また家猪を屠りて、炎々の

ヘープァイストスの火の上にかざして之を炙り燒き、

又老人の蓄ふる瓶より酒を酌みほして、

かくして九囘夜を重ね、我のめぐりにやすらへり。 470

衆人かくてかへ/″\に監視續けて、一方は

防備嚴しき中庭の※廊の下、他の方は

わが住む室の戸に近き玄關の前、煌々の

篝火絶えず燒きつゞく。されど十日目暗黒の

夜來る時、わが室の堅く閉せる戸を破り、 475

又中庭の厚き壁、容易く越して、警戒の

諸人並に奉仕せる女性の眼を掠め去り、

逃れて遠く茫々のヘラスの郷を巡り行き、

足駐めしは羊群の滿てる肥沃のプチーエー。

その領主たるペーリュウス、身を慇懃にもてなして 480

愛でぬ。さながら老齡に及びはじめて儲けたる

唯一の子息、裕なる家庭にはぐむ親の如。

かくして我に富與へ、多く庶民を從はす。

斯くプチーエーの端を占め、ドロペス族を我統べぬ。

而して汝を心より、あゝ神に似るアキリュウス、 485

愛でつゝ我は育み來ぬ、汝その時他の者と

共に食事の卓上に着かず、館裏に物食まず、

必ず我の膝の上、坐するを汝常としつ、

わが細かに切りしもの食みて葡萄の美酒すゝり、

時に幼稚の身の習ひ、啣めるものをわが胸の 490

上に吐きだし笑止にもわれの衣を潤しき。

汝の爲に斯くばかり我は勞苦の數積めり。

神明われに生まるべき子を許さずと觀じ知り、

アキルリュウスよ、我の子と汝を見なし、いつしかは

わがためつらき災難を攘はんことを望みてき。 495

あゝアキリュウス剛愎の心抑へよ、殘忍の

思を胸に滿たしめな、徳も力も光榮も

優る神靈、彼すらも時には讓ることあらむ。

罪を犯して悔ゆる時、香を燻じて心より

祈願をいたし、奠酒禮供へ、脂肪のいけにへを 500

捧げて人は神明の心を抂ぐることを得む。

知るべし「祈願」もろ/\はクロニオーンの息女なり。

其脚蹇ぎ其おもて皺み其眼斜視にして、

常に「罪過」の後を追ひ進み行くべくこゝろざす。

「罪過」は強し、脚速し、速きが故に一切を 505

凌ぎ大地の面に添ひ、先んじ驅けて人類に

種々の禍害を蒙むらす、「祈願」は後に之を治す。

クロニオーンの息女らの近よる時に崇敬を

致さん者は惠まれて其念願は聽かるべし、

之を推し退け頑強に拒まん者は許されじ、 510

「罪過」に彼の追ひつかれ禍難をうけて償ふを、

息女ら即ちクロニオーン・ヂュウスに迫り求むべし。

アキルリュウスよ、謹みてクロニオーンの息女らを

崇へ、外の英豪も心ひとしく伏すところ。

アートレ,デース禮物を贈らず、後を約さずば、 515

而して今に其激怒續けて休む無かりせば、

其事いかに緊急に要ありとても、汝また

怒を棄てゝアカイアを救へと我は命ずまじ。

されども彼は今多く贈與し、後を又約し、

而してアカイア族中に撰び拔きたる、しかも又 520

アカイア族中親しみの最も深き僚友を、

送りて哀訴致さしむ。先の怒は可なれども、

彼らの言句又使命汝侮ること勿れ。

われはすぎにし古のすぐれしものが、憤激を

起してしかも禮物を受けて動きて、諫爭に 525

從ひたりし行動の次第つぶさに聞き知れり。

そのいにしへの事にして新たの跡にあらぬもの、

思ひ出でたり、汝らのすべての前に陳ずべし。

クーレーテス族、豪勇のアイトーロイ族その昔、

カリュドーンの都市のそば相戰ひて打ち打たる、 530

アイトーロイは美はしきカリュドーンの都市守り、

クーレーテスは其都市を攻め落さんと焦りたる――

(事の起りを尋ぬれば)オイニュウス王もろ/\の

神には犧牲捧げしも、黄金の座のアルテミス

神女に對し豐沃の土地の初穗を獻ぜねば、 535

クロニオーンの女は怒り禍難をこゝに蒙むらす。

懈怠あるひは忘却によりて國王過てり。

斯くして弓に巧みなる神女怒りて、兇暴の

野猪を下して鋭利なるましろき牙を鳴らさしめ、

王の領する豐沃の地をこと/″\く荒さしむ。 540

あまたの巨木根こそぎに、花も果實も猛獸は

皆一齊に累々と大地の上に倒れしむ。

オイニュウス王生める息、メレアーグロスその時に、

獵人及び獵犬を種々の都市より集め來て、

野猪を斃しぬ(大なる野獸を先に僅少の 545

衆制し得ず、そこばくの人は殺され屍燒かる)

されども神女斃されし獸の頭、粗き毛の

皮を爭ふ亂鬪を、クーレーテスと豪勇の

アイトーロイの兩族の間に更に生ぜしむ。

メレアーグロス戰鬪を續けし限り、敵軍の 550

クーレーテスは不利にして、其軍勢は多けれど、

敗れて都市の城壁の外に留ることを得ず。

メレアーグロス、然れどもそゞろ憤激堪へやらず、

――思慮あるものも憤激によりて胸裏に念亂る――

生みの母なるアルタイア、母に對して憤り、 555

クレオパトレー艶美なる妻のかたへに身を留む。

ユウエーノスの生み出でしマルペーッサは妻の母、

父はイデース、人界の中に最も強きもの、

脚美はしき女子のため、神プォイボス・アポローン、

威靈かしこき神明に向ひて嘗て弓張りぬ。 560

父と母とは其館にアルキオネーの綽名もて

愛女を呼べり、遠矢射る神プォイボス・アポローン、

彼女を奪ひ去りし時、悲痛はげしき哀號の

その禽鳥を見る如く痛くも嘆き泣きたれば。

其女のそばに豪勇のメレアーグロス身を留め、 565

母に激しく憤る、母はおのれの兄弟を

打ち斃されし怨よりおのが愛兒を呪詛しつゝ、

其手をあげてあまたゝび大地を打ちて、ハイデース

冥王及び恐るべきペルセポネーア呼びかけつ、

大地に膝をつき乍ら涙に襟をうるほして、 570

愛兒の死滅乞ひ求む、そを暗に住むエリーニュス、

無情の心持てる靈、エレボスよりし聞き入れぬ。

今速かに城門のほとり巨塔は破られて、

騷音はげしく湧き起り、アイトーロイの諸長老、

神の至上の祭司らを送りて彼に莫大の 575

贈與を約し、現れて救助なすべく乞ひ求め、

地味豐饒のカリュドーン、中にも特にすぐれし部、

そこに意のまゝ撰ぶべき五十ギオンを――其中の

半ばは葡萄みのる園、半ばは平野、耕作に

適するものを取るべしと衆人かれに約し曰ふ。 580

更に其父オイニュウス老いし騎將も彼に乞ひ、

彼の宿れる高き屋の居室の閾進み入り、

その堅牢に組まれたる戸をゆるがして哀訴しつ、

同じく共に其姉妹、先に咀ひし母も亦、

其哀憐を求むれど聽かず、同じくもろ/\の 585

僚友 皆の中にして親交最も厚きもの、

誠あるもの願へども彼の心を抂げ難し。

されども遂にその居室激しく破り、塔上を

クーレーテス族攀ぢ登り、兵火放ちて都城燒く。

その時美麗の帶纏ふ妻は嘆きて其夫、 590

メレアーグロスに訴へつ、都城一たび破る時、

來らむ慘禍――其民は屠られ盡し、城塞は

兵燹燃やし、其子らは、また女性らは囚はれて、

漂浪の道進むべき無慙の姿ものがたる、

かたる慘状耳にしてメレアーグロス猛然と、 595

思ひ直して立ち上り、燦爛の武具身に着けて、

進み戰ひ、禍をアイトーロイより攘ひ去る。

されど約せし數々の贈與は遂に果されず、

果されざれど勇將は國の慘禍を攘ひ退く。

されども友よ情念を彼と同じうする勿れ、 600

神明願はく此途に君を誘ふこと勿れ、

わが船舶の燒けん時、救ふはすでに遲からむ。

來り禮物今うけよ、アカイア族は神の如、

君を崇めむ、禮物の無きに及びて戰はゞ、

敵軍いかに破るともかくる光榮得べからず』 605

434 605までプォイニクスの言つづく。

454 エリーニュス(單數)エリーニュエス(複數)はこゝに父の權利の擁護者として説かる。

457 冥王ハイデース。

457 冥王ハイデースの妻。

468 火を掌る神。

484 プチーエーの西に住む民族、こゝよりプォイニクスはミルミドネス五隊の一を率ゐ來る。(XVI 196)

486 XI 831 によればケントール彼を教ふ。

504 人の犯す罪過、之を治むるものは神明への祈願。脚蹇ぎ云々は懺悔者の態度を表す。

533 原文に此句無し、添加す。

553 メレアーグロスはアイトーロイ族の王オイニュースの子、母はクーレーテス族の王女。野猪を殺せる後メレアーグロスは母アルタイアの兄弟と爭ひ彼らを殺して母の爲めに咒はる。イデースはユーエーノスより其女マルペーツサを奪ふ、而してアポローンまた彼女を得んとして彼と爭ふ。ヂュウス女をして撰ばしむ、女はイデースを撰ぶ。イデースとマルペーッサの間に生れしはクレオパトレー即メレアーグロスの妻。

メレアーグロス母の咒詛を怒り、愛妻の許に閉ぢこもる、クーレーテス軍來りてアイトーロイの城を攻めし時も出でて救はず、後ち愛妻の痛諫によりて初めて起つて之を救ふ。

561 即ちクレオパトレー。

564 翡翠(英語halcyon)の原語はアルキオネー。

脚神速のアキリュウス答へてその時彼に曰ふ、

『あゝプォイニクス、敬すべき叟よ、ヂュウスの愛づる君、

君曰ふ如き光榮は我に要なし、我思ふ、

ヂュウスはすでに光榮を我に賜へり、船のそば

息ある限り、兩膝の動く限りは身にあらむ。 610

今われ一事君に曰ふ、銘せよ、これを胸の中、

アートレ,デースのため計り、われの心を嘆息と

悲泣によりて亂すことやめよ、かの人愛するは

君に似合はず、しかなさば我の憎惡の的たらむ。

惱ます彼を我とゝも惱ますことぞ君によき。 615

我と等しく統治せよ、威光の半わけ受けよ。

他の友僚はわが答、歸りて述べん、君はこゝ、

陣に殘りて温柔の床に休らへ、あくる朝

君もろともに計るべし、歸るや或は殘るやを』

しかく宣んして眉あげて、パトロクロスに言葉なく 620

合圖をなして、老將を床に就かしめ、速かに

陣營よりし別るべく他の僚友を誘はしむ。

テラモニデース・アイアース其時口を開き曰ふ、

『ラーエルテースのすぐれし子、計策富めるオヂュシュウス、

いざ辭し去らむ、言説の目的かゝる道により、 625

遂げらるべしと思はれず、いま迅速に彼の言、

よし善からずも待ち佗ぶるアカイア族に傳ふべし。

あゝアキリュウス、剛勇のペーレーデース、飽くまでも

其胸中に憤懣の思ひ滿たして、無慙にも

其同僚の愛情を――水師のほとり一切の 630

他の誰よりも尊べる其友情を顧みず。

あゝ無慙なり、アキリュウス! 見ずや世の人、兄弟を、

子を亡せる仇よりし賠償收め許す時、

其族人のたゞ中に仇は安んじ身を留む。

賠償得たる者はその激しき怒抑へとむ。 635

神明君の胸の中、少女一人の故をもて、

抂げざるつらき心おく、而して今は七人の

明眸及び諸の贈與は君に捧げらる。

君、その心和げよ、又※待の禮思へ、

君の宿れる陣の中、われらはこゝにダナオイの 640

中より來り、アカイアの族人中の誰よりも

誠盡して慇懃に君と睦むを冀ふ』

624 卒直なる武人の句として簡單明瞭、一女子の賠に七女子を得て足らざるや? 云々。

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、

『神より生れしアイアース、テラモーンの子、民の王、

衷心よりし君のいふ言に一理のあるを見る。 645

しかはあれどもアルゴスの衆人中にわれを彼、

アートレ,デース無禮にも、さながら一の放浪の

徒たるが如く恥ぢしめし時を思へば、憤激は

わが胸そゝる、いざ歸り我の答を傳へ曰へ、

プリアミデース・ヘクトール勇を奮ひてアルゴスの 650

子らを殺しつ、兵燹に船を亡し、進み來て

ミルミドネスの陣犯す其時未だ到らずば、

われ鮮血を流すべき戰思ふことあらず。

さはれいかほど勇むともわが陣營と船のそば

彼、ヘクトール、戰を挑むをわれに憚らむ』 655

陳じ終ればおの/\は二重の盃に灌酒しつ、

オヂュシュウスは先にたち、水師に沿ひて歸り去る。

こなた急ぎて友僚と婢女とに命じ、慇懃に

パトロクロスは厚き床、老將のため設けしむ。

命に應じて人々は床を設けつ、羊毛の、 660

氈と被覆と華麗なる麻布とを之に備ふれば、

老人しづかに其中に身を横へて曙を待つ。

アキルリュウスは堅固なる陣營の奧、床に就く。

その側に添臥すはポルバスの女、紅頬の

ヂオメーデーはそのむかし、レスボスよりし連れし者。 665

パトロクロスの傍には帶美はしき一女性、

イーピス侍しぬ、エニュユース領する高地スキュロスの

都城落せるアキリュウス囚へて彼に與へし子。

アガメムノーンの陣營にかなた使節の歸る時、

之を迎へて立ち上る衆人おの/\黄金の 670

盃あげて勞らひつ、アキルリュウスの答聞く、

眞先に口を開けるはアガメムノーン、衆の王、

『來れ、褒むべきオヂュシュウス、あゝアカイアの譽たる

君、報じいへ、アキリュウス、敵の猛火を掃はんと

思ふや、あるは憤激をやめず、わが命拒めるや?』 675

耐忍強きオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、

『アートレ,デース、光榮のアガメムノーン、衆の王、

聞け、かの人は憤激をやめず、ます/\胸の中

瞋恙蓄へ、君の威と君の贈遺を拒み棄て、

アカイア軍と軍船をそもいかにして救ふべき、 680

之をアルゴス衆人の間に計れと君に曰ふ、

而して更に嚇し曰ふ、明くる曙光ともろともに

二列漕座のよき船を海に泛べて去るべしと。

而かも猶いふ、他を勸め、故山に向ひ波わけて

歸らしめんと、蓋し彼思へり、高きイーリオン、 685

その陷落は望まれず、音聲高きクロニオーン、

之に應護の手を加へ、其民ひとしく勇み立つ。

斯くこそ彼は陳じたれ、我に從ひ行きしもの、

アイアース又兩人の使節謹み深きもの、

同じく之を報ずべし、老プォイニクス彼ひとり、 690

かしこに留る、アキリュウス、彼に勸めて明くる日に

郷に意あらば波わけむ、されど強ゆるをせずと曰ふ』

しか報ずれば衆軍は默然として鳴靜め、

アキルリュウスの猛烈の言句を聞きて驚けり。

長きに亘り、口緘み、心惱すアカイアの 695

陣中、やがて猛勇のヂオメーデース起ちて曰ふ、

『アートレ,デース、光榮のアガメムノーン、衆の王、

アキルリュウスに哀願を致して、君が量なき

贈與を約し盟ひしは、よからざりけり、さなきだに

傲れる彼に一層の驕慢、君は増さしめぬ。 700

さはれ歸るも留るも彼に任せよ、いつの日か

其胸中の勇猛の心促し起たん時、

神明彼を驅らむ時、彼は再び戰はむ。

いざ今我の曰ふ處、衆軍聞きて受け入れよ、

酒と食とを口腹に滿たして後に床に就き、 705

英氣養へ、酒と食、そは勇氣なり、力なり。

薔薇の紅き指もてる美なる「曙」出づる時、

水師の前に速かに軍馬軍勢整へて

之を勵ませ、先鋒の中にわが王あゝ奮へ』

しか陳ずれば諸將軍、皆一齊に歡呼しつ、 710

悍馬を御する猛勇のヂオメーデースの言を褒む。

かくておの/\灌酒禮、終りて陣に引き歸り、

臥床に其身横へて眠の神の惠受く。

第十歌

深夜アガメムノーン憂ひて起ち弟メネラオスと共に陣中を巡り諸將軍を呼び醒す。 ネストール進言し、偵察を爲すべく諸將に計る。 ヂオメーデース及びオヂュシュウス選に當りて進む。 トロイアの偵者ドローンを捕ふ。 其白状。 之により兩將進んでトロイア軍の援軍トレーケース軍を襲ひ、十二將を斃し、最後に其王レーソスを殺し、馬を奪ひて凱旋す。 本篇は『ドローン物語』と稱せらる。 或評家は後世の追加なりといふ。

他のアカイアの諸將軍、おの/\船の傍に

甘き眠に襲はれて夢路に入りぬ、よもすがら、

されど胸中さま/″\に思ひ煩ふ民の王、

アガメムノーン温柔の熟睡遂に取るを得ず。

鬢毛美なるヘーレーの夫、天王クロニオーン、 5

電火を飛ばし、大雷雨あるは雹霰あるは雪、

(雪は粉々亂れ飛び原野を掩ひ、時に又、

もの恐しき戰鬪の巨大の口を掩ふめり)

雪を來らす時の如、アガメムノーン胸中に、

心肝深き底よりし屡※うめき身をもだゆ。 10

眸放ちてトロイアの原上彼は眺めやり、

イリオン城を前にして燃ゆる數千の篝火に、

又吹奏の笛の音、人の騷ぎに驚きつ、

次にアカイア軍勢と其兵船を見渡しつ、

その根元より頭上の毛髮あまた掻きむしり、 15

高きにゐます雷霆の神に祈りてうめき泣く。

王は其時胸中の此計畫を善しと見る――

ネーリュウスの子、ネストール、人中最も優る者、

之を訪ひ行き、もろともにダナオイ族の一切の

禍難を攘ふ方略を講ぜんことを善しと見る。 20

即ちむくと身を起し胸のめぐりに武具を着け、

耀く双の足の下、美麗の軍鞋穿つ後、

大なる獅子の鳶色の毛皮――足まで垂るゝもの――

肩の※りに投げかけて鋭利の槍を手に取りぬ。

1 此本篇の初りは II の初を摸したるものとリーフは曰ふ。(集合論者リーフはイーリアスを構成する諸篇の作成の時代を三段に區別す)

8 兩軍の戰陣相對するを野獸の口に譬へしならむ、XIX 314, XX 358 にも見ゆ。

10 電火の屡※飛ぶ如く屡※うめく。比喩は唯此のみ。

15 XVIII 27.

23 III 17, X 177.

甘眠同じくその眼蓋おとづれかねしメネラオス、 25

アガメムノーンの弟は、彼の爲とて大海の

波浪を渡り、トロイアに來り、激しき戰鬪を

思ふアルゴス軍勢の惱み恐れて胸痛む。

即ち先に斑なる豹の毛皮に肩掩ひ、

次に燦爛光射る黄銅製の兜取り、 30

頭上に之をいたゞきて、その剛強の手に槍を

握り、その兄(アルゴスの衆のすべてに命下し

神の如くに敬さるゝ)兄醒ますべく趨り行き、

船尾のかたへ華麗なる武具を肩のへ投げ懸けし

兄――大王を見出して其到着を喜ばる。 35

その時勇猛のメネラオス先づ口開き陳じ曰ふ、

『君、何が故黄銅の兜を着くる? トロイアの

軍探るべく同僚の一人醒まさんためなるや?

暗黒の夜にたゞ獨り奮ひ進みて敵軍の

偵察敢てなすべしと君に約さんものありや? 40

さる者無きを我恐る、あらば無双の勇ならむ』

アガメムノーン權勢の王者、乃ち答へ曰ふ、

『神の育つるメネラオス! アルゴス勢と水軍を

防ぎて救ふ方策の急務は、我と汝とに

今こそ到れ、天王の神慮變ると我は見る。 45

神は心をヘクト,ルの犧牲の上に注ぐめり、

神の愛するヘクトール、さもあれ神の子に非ず、

神女の子にもあらぬもの、アカイア軍に加へたる

かゝる災難一日に、何者嘗て身一つに

起せるありや? 我は見ず、人の語るを我聞かず。 50

大難われに加へたる彼の武功は末遠く、

遙かに遠くアルゴスの民に憂の種たらむ。

さはれ水陣さして行き、呼べ勇猛のアイアース、

イドメニュウスを共に呼べ、我は進みてネストール

勇將訪ひて、彼をして奮ひて立ちて護衞軍、 55

すぐれし群を訪はしめて之らに令を爲さしめむ、

彼らは痛く勇將に服して命に從へり、

其子護衞の將として、イドメニュウスの伴侶たる

メーリオネースと相並ぶ、二人は任を我に受く』

その時猛きメネラオス答へて彼に陳じ曰ふ、 60

『君の言句は何事を我に托すや、命ずるや?

かなたに衆ともろともに留まり君を待つべきか?

或は令を下し終へ、走りて君に歸らんか?』

アガメムノーン、衆の王その時答へて彼に曰ふ、

『かなたに留まれ、往復の中に恐らく共々に 65

相見失ふことあらむ、軍旅の間に道多し。

行く途すがら聲揚げて衆呼び醒ませ、おの/\に

その父の名と家系とを、また譽ある稱號を

呼びて勵ませ、汝また心に誇ること勿れ。

我ら二人は辛勞を盡さむ、神は艱難の 70

重きを我に負はしめぬ、わが誕生の初めより』

68 父の名を呼ぶは其名譽のため。

70 IX 23 參照、神意に服從せざるを得ずの意あり。

しかく宣んして命令を下し、王弟去らしめつ、

自ら立ちてネストール、將軍めがけ進み行き、

陣營並びに黒船のかたへ温柔の床の上、

休める將を見出しぬ、あたりにあるは種々の武具、 75

盾と二條の大槍と燦爛光る銅甲と、

種々に飾れる皮帶は又側に横はる、

そは流血の戰鬪に軍勢率ゐ進むべく

鎧はん時に帶ぶるもの、老齡彼を屈せしめず。

老將その時肱立てゝ身を振り起し頭揚げ、 80

アートレ,デース近寄るに向ひて聲を放ち曰ふ、

『汝、何者? 衆人の眠れる時に只獨り、

暗夜の中に船舶の間、軍營彷徨ふは?

汝は騾馬を求むるや、あるはひとりの友僚か?

語れ、無言に近寄りそ、何らの要ぞ我に曰へ』 85

アガメムノーン、衆の王その時答へて彼に曰ふ、

『ネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の光榮の

汝認めむ、明かに、アガメムノーン、われ來る、

胸に呼吸のある限り、兩膝動き利く限り、

たえず、ヂュウスは衆人に優りて我を勞せしむ。 90

今甘眠はわれの目を訪はず、戰鬪、アカイアの

災難われを憂ひしめ斯くて今われさまよへり。

ダナオイ族を思ふよりわれの憂怖は甚だし、

心は安きことを得ず、搖蕩しつつ胸の中

跳りてやまず、堅甲を帶ぶるわが四肢皆震ふ、 95

君亦睡取るを得ず、心に思ふことあらば、

こゝより去りて衞軍に共に行かずや? 恐らくは

勤務に弱り睡眠に襲はれ、全く其任を

彼等忘るゝなしとせず、いざ今行きて檢し見む、

敵は近くに陣を張る、誰か知るべき眞夜中に 100

なほかつ彼等戰鬪を起さんことのあるべきを』

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、

『譽れ至上のアートレ,デー、アガメムノーン、衆の王、

思ふに高き神明は敵の勇將ヘクトール

その胸中に望むもの、すべてを許すこと無けむ。 105

思ふ、英武のアキリュウス、その心より物凄き

憤怒を棄つることあらば敵將いたく惱むべし。

今、我君の跡を追ひ、更に他將を醒ますべし、

槍の名將、勇猛のチュウデーデース、オヂュシュウス、

又足速きアイアース、又ピュウリュウスの勇武の子。 110

而して我は又望む、或るもの行きて、神に似る

アイアース、又すぐれたるイドメニュウスを呼ぶことを、

彼らの船は外よりも遠く離れて近からず、

さはれ今、我メネラオス咎めむ、よしや親しくて

敬すべけれど咎むべし(よし君之を怒るとも) 115

見よ、彼眠貪りてたゞ君ひとり勞せしむ。

彼すべからく列將を※りて切に懇願の

勞を取るべし、襲ひ來る危急は遂に忍ばれず』

110 オイリイウスの子たるアイアース。(II 527)

110 メゲース。(II 627)

アガメムノーン、衆の王、その時彼に答へ曰ふ、

『叟よ、他の時、彼の者の咎めを君に勸むべし、 120

彼は無能の者ならず、又怠慢の徒に非ず、

我の所業に目を注ぎ、我を仰ぎて我の命

待つも、時には緩慢に振舞ひ勞苦敢てせず、

されども今は我よりも先んじ醒めてわれ訪へり、

君の求めし諸將軍呼ぶべく彼を我やりぬ。 125

いざ今行かむ、衞兵の中に諸門の前にして

彼らに逢はむ、かの場に我集合を命じたり』

ゲレーニャ騎將ネストール其時答へて彼に曰ふ、

『さあらば彼の令下し勵ます時に、アルゴスの

軍勢中の何人も怒るまじ、又背くまじ』 130

しかく陳じて其胸のめぐり胴衣を纏ひ着け、

華美の戰鞋を耀ける其双脚に穿ちつゝ、

廣き二重の紫の袍――其上を柔かき

絨毛厚く蓋ふ者――はおりてしかと締めとめぬ。

老將かくて黄銅の穗先つけたる槍を手に 135

取り、黄銅の胸甲のアカイア軍の船に行く。

ゲレーニャ騎將ネストール眞先に醒ますオヂュシュウス、

聰明さながら神に似る、そのオヂュシュウス、眠より

醒まし叫べる音聲は直に彼の胸に入る。

即ち陣營の外に出で二人に向ひ陳じ曰ふ、 140

『何故君ら唯二人、アムブロシヤの夜のもなか、

軍陣すぎて船舶のほとりさまよふ? 危機何か?』

ゲレーニャ騎將ネストール乃ち答へて彼に曰ふ、

『ラーエルテースの生める君、策謀富めるオヂュシュウス、

怒をやめよ、おほいなる憂アカイア軍にあり。 145

我に附き來よ、他の者を醒まし、評議をこらすべし、

逃走或は戰鬪のいづれか、今の急務なる?』

策謀富めるオヂュシュウス其陣營の中に入り、

種々に飾れる大盾を肩に投げかけ共に行き、

チュウデーデス、剛勇のヂオメーデース休らへる 150

許に來りて、陣營の外に見出でぬ、其部下は

あたりに眠り、其盾は頭の下に、其槍は

地に柄を植ゑて直に立ち、鋭刄遠く耀きて、

クロニオーンの電光に似たり。首領の將軍は、

野牛の皮を敷き擴げ其上眠り、燦爛の 155

華麗の氈は熟睡の彼の頭の下にあり。

ゲレーニャ騎將ネストール側に近寄り呼びさまし、

其足あげて彼に觸れ彼を起して叱り曰ふ、

『チュウデーデース、とく起きよ、などよもすがら睡り去る?

知らずや原上高き場にトロイア軍勢陣を張り、 160

わが水軍に近くして間、寸尺の地あるのみ』

しか叫ばれて將軍はすぐに床より立ち上り、

羽ある言句陳じつゝ彼に向ひて答へ曰ふ、

『叟よ、何らの健剛ぞ、倦まず勞務に常に就く、

アカイア族の中にして君より齡若きもの、 165

軍營遍ねく經※りて、諸將おの/\呼びさます

任務につかんものなきや?あゝ叟、君ぞ無双なる』

ゲレーニャ騎將ネストール乃ち答へて彼に曰ふ

『然かなり、友よ、君の言、皆悉く理に適ふ、

優れし子らは我にあり、多數の部下もわれにあり、 170

中のいづれか經※りて諸將を醒ますことを得む。

さはれ危急の運命はアカイア軍に今逼る、

もの凄じき敗滅か? 或は生か? アカイアは

正に鋭利の剃刀の薄刄の上に立つ如し。

いざ今行きて脚速きアイアース、またピュリュウスの 175

子を呼び醒ませ、君わかし、わが老齡を憐まむ』

聞きて勇將おほいなる獅子王の皮、其脚に

垂るゝを取りて肩にかけ又長槍を手に取りぬ。

斯くして彼は出で行きて部下を起してつれ來る。

衆將かくて哨兵のつどへる群に到るとき、 180

見る集團の諸隊長甘眠敢て貪らず、

すべて目ざめて凛然と武具携へて並びあり。

譬へば山中の森過ぎて來る猛獸吠ゆる時、

欄のかたへに羊らを守る狗群は安からず、

猛獸めぐり、一齊に番者番犬囂々と、185

亂れ騷ぎて睡眠は全く彼等に失はる、

斯く陰慘の夜もすがら警守の任に當るもの、

その目蓋より甘眠は逃げて、其目は平原に

常に向ひて、トロイアの進撃いかに窺へり。

老將軍はかくと見て心喜び口開き、 190

即ち之を勵まして羽ある言句宣んし曰ふ、

『さなり、愛兒ら、しか守れ、睡魔誰をも襲はざれ、

さらば災難免れ得て敵の歡喜はあらざらむ』

しかく宣んして塹濠を越せば、評議に呼ばれたる

アカイア族の諸將軍ひとしく彼の後を追ふ。 195

同じく共に進めるはメーリオネース、更にまた

ネストールのすぐれし子、評議の故に呼ばれたり。

かくして彼ら塹濠を過ぎて、大地の一隅に

坐せり、そこには戰沒のむごき屍體の影とめず。

そこより猛きヘクトール、夜の暗黒寄せし故、 200

アルガイ族を敗るのち其陣營に退けり。

そこに衆人座を占めて互に語り談じ合ふ、

ゲレーニャ騎將ネストールまづ口開き宣んし曰ふ、

197 トラシュメーデース。(IX 81, 255, XIV 10)

『わが同僚よ、汝らの中に一人勇猛の

意氣に驅られてトロイアの陣中犯すもの無きや? 205

恐らく彼は敵軍の中にさまよふとある者、

亡ぼすを得む、恐らくはトロイア陣中何事を

計るや、それの消息を洩れ聞くを得む、わが陣を

隔てゝ彼ら原上に殘らんずるや? あるは又

アカイア軍を破る後、城壘さして歸らんや? 210

此らを彼の探り得て安らに歸り來なん時、

普天の下のおほいなる光榮彼のものたらむ。

すぐれし恩賞また彼に授けらるべし、水軍に

命令下す諸將軍、その各は小羊に

乳を與ふる黒色の羊を彼に與ふべし、 215

之に比すべき寶無し、而して彼はとこしへに

宴席、食事一切にひとしく我と共ならむ』

215 かかる恩賞は勇將たるものに相應せず。恐らく他處にあるべきを誤つてこゝに入れしか(リーフ)

しか宣んすれば衆人は默然として靜まれる、

その中にして剛勇のヂオメーデース陳じ曰ふ、

『あゝわが老將ネストール、われの心とわれの意氣、 220

われを促し手近なる敵のトロイア陣中に

行かしむ、されど一人のわれに伴ふものあらば、

わが熱情は更に増し、更に勇武の業あらむ、

二人もろとも行くとせば、中の一人他よりも

先んじ功を成し遂ぐる道を辯ぜん、さもなくて 225

唯一人の行かん時思慮遲くして策淺し』

しか陳ずれば諸勇士はヂオメーデースに次がんとす、

アレース神に從へるアイアス二人、又ついで

メーリオネース、又ついでネストールの勇武の子、

槍の名將メネラオス、アートレ,デース皆望む、 230

また耐忍のオヂュシュウス常に胸裏に熱情を

宿す將軍、トロイアの軍中さして行かんとす。

アガメムノーン、衆の王、その時衆の前に曰ふ、

『あゝチュウヂュウスの勇武の子、ヂオメーデース、わが心

愛するところ、こゝにある諸將の中に伴として 235

望むが儘に選び取れ、多くの勇士そを望む。

心の中に憚りて至剛の者を省かんは

要なし、素生の尊きに、又權勢の大なるに

其目曳かれて憚りて劣れる者を取る勿れ』

しかいふ彼は金髮のメネラオスのため憂ふ。 240

ヂオメーデース勇武の士、再び衆の前に曰ふ、

『自ら伴を選ぶべく諸君子我に命ぜんか?

さらば取るべしオヂュシュウス、聰明、神に似たる者、

千辛萬苦迫る時彼の心と勇氣とは、

優にぬきんづ、アテーネー神女は彼をいつくしむ、 245

彼もし我と共ならば猛火をさへも逃れ得て、

安らに歸り來るを得む、彼れ策謀にすぐれたり』

耐忍強きオヂュシュウス、神に似る者答へ曰ふ、

『チュウデーデーよ、あまりにも我を讚することなかれ、

咎むるなかれ、いふ處、アルガイ族はすでに知る。 250

さはれ夜は今更け行きて曙來る遠からず、

天の衆星進み行き、夜の長さの三の二は

すでに過ぎたり、三の一今たゞ僅か殘るのみ』

しかく二人は語り合ひ、凄き武裝に身を包む。

その時トラシュメーデース勇武の將は取り出でし 255

兩刄の劔を盾と共ヂオメーデースに貸し與ふ、

(彼は其劔船中に殘し來れり)更に又

カタイチクスとよばれたる兜、角なく冠毛の

なきを冠らす、牛皮より成りて若人守るもの。

メーリオネースは弓と劔また胡※を聰明の 260

オヂュシュウスに備へしめ、革の兜を頭上に

戴かしめぬ、其裏に強き革紐多く布き、

表に銀を見る如き眞白き野猪の牙多く、

あなたこなたに熟練の妙技を以て緊密に

植付けられつ、三層の眞中は強き革帽子。 265

アウトリュコスはそのむかし、オルメノスの子アミュントル

住める堅固の館破り、エレオーン城よりこの兜

スカンデーアに奪ひ來て、之を其後キュテーラの

アムフィダマスに讓り去り、アムフィダマスは※待の

禮にモロスに、モロス又メーリオネースめづる子に、 270

斯くして遂にオヂュシュウス之を頭上に戴きぬ。

258 グリーキ文學全部の中に此語こゝにたゞ一つあるのみ。(リーフ)

266 オヂュシュウスの母アンチクレーア、其母の父はアウトリュコス。

266 IX 449.

二將かくして堅牢の武裝を具して立上り、

あとにアカイア諸將軍のこして脚を進め行く。

其道近く右側に一羽の鷺を、アテーネー、

神女パラスぞ遣はせる、夜の暗黒その影を 275

目には視せねど鳴く聲を二將は耳に聞きとりて、

喜び勇むオヂュシュウス、神女に向ひ祈り曰ふ、

『アイギス持てる天王の息女、わが言きこしめせ、

あらゆる辛苦の中にしてわれに與みして行くところ、

われを顧み給ふ君、今こそ特に愛でたまへ。 280

トロイア軍の煩ひとならん偉業を果す後、

櫂を備ふる船舶に無難に歸らしめ給へ』

ヂオメーデース、勇猛の將軍同じく祈上ぐ、

『アトリュトーネー、ヂュウスの子、我の祈も聽き給へ。

父チュウヂュウスその昔、アカイア族の使者となり、 285

テーベー城に赴ける時の如くに共にあれ、

その時黄銅の甲着けしアカイア軍をアソポスに

殘して父は親しみの言を傳へぬカドマイア、

されど歸郷の道の上、目は藍光のアテーネー、

君の救援仰ぎ得て勇武無双の業遂げき、 290

今その如く側にたちてわが身を守りたまへ。

捧げまつらむ牲として初歳の仔牛、其おもて

廣く豐かに其首に軛を未だ着けぬもの、

捧げまつらむ其角に光る黄金の箔つけて』

しか念ずるをアテーネー神女パラスは納受しぬ。 295

286 IV 377, V 803.

289 IV 391.

斯く二將軍おほいなる神女に祈り願ふ後、

さながら二頭の獅子のごと暗黒の夜の空の下、

殺傷屍體たゞ中に、流血武具の間行く。

こなた英武のヘクトール亦トロイアの勇將の

眠許さず、トロイアの首領將軍もろ/\の 300

すぐれし者のある限り皆悉く呼び集め、

集めし席に巧みなる謀略のべて陳じ曰ふ、

『誰そ今われの曰ふところ、わが爲め約し成し遂げて、

多大の恩賞得るものぞ? 豐かの酬あるべきを。

敵の兵船、先の如、今も敵軍守れりや? 305

わが軍勢に破られて疲勞によりて力盡き、

たゞ逃亡を心して守衞をなさん念なきや?

そをアカイアの輕舟の水營中に近きて、

窺ひ探り光榮をかち得なんもの、其者に

われ與ふべし一輛の戰車並びに一双の 310

駿馬、其首高きもの、即ちアカイア水陣の

かたへ最も優るもの、われは勇士に與ふべし』

しか陳ずるを耳にして、默然として靜まれる

トロイア軍の中にして一人ドローンと呼べる者、

(父はすぐれし傳令使、ユウメーデース、黄金に 315

富み黄銅に富めるもの)形惡しきも脚速し、

※妹五人の中にしてたゞ一人の男子たる

彼いまトロイア軍勢とヘクトールとに向ひ曰ふ、

『あゝヘクトールわが心わが猛き意氣促して、

敵の輕舟の陣近く其動靜を探らしむ。 320

されど其前笏揚げて願はく我の爲め盟へ、

駿馬並びに黄銅の飾をつくるかの戰車、

ペーレーデースを乘するもの、必ず我にたぶべしと。

我また君に無效なる偵察なさず、徒らに

君の望を裏切らず、敵陣中を經※りて 325

アガメムノーンの船につき探らん、そこに諸將軍

逃亡あるは戰鬪の評議をこらしつゝあらむ』

其言聞きてヘクトール手に笏とりて盟ひ曰ふ、

『ヘーレーの夫、霹靂を飛ばす天王、證者たれ、

他のトロイアの何人もかの駿馬には乘るを得ず、 330

我敢て曰ふ、汝のみ光榮つねに持つべしと』

しかく宣んして勵まして空しかるべき盟取る、

聞きてドローンは速かに曲弓肩の上に負ひ、

灰白色の狼の皮を被むり、頭上には

鼬の皮の頭巾つけ、鋭利の投槍手に取りて、 335

隊を離れて敵軍を目ざし進みぬ、然れども

之に近づき探り得て、其報告をヘクト,ルに

齎らし歸る命ならず、馬と人との群集を

後に殘して奮然と途上に走りすゝむ彼れ、

オヂュシュウスは見出してヂオメーデースに向ひ曰ふ、 340

『ヂオメーデスよ、かの者は敵の陣より出で來る、

わが水陣の偵察のためか? 或は戰場に

斃れし屍體剥ぐ爲か? いづれか我は辧へず。

ともあれ原上まづ彼を少しく前に進ましめ、

其後われら飛び出だし直ちに彼を捕ふべし。 345

若し彼の脚速くして我ら二人を凌ぎ得ば、

トロイア軍に遠ざけてわが水陣に追ひつめよ、

槍を振ひて彼を追へ、敵城さして逃げしめな』

341 「ヂオメーデース」の呼格。

しかく談じて二勇將、路の傍散らばれる

屍體の間に身を隱す、敵は知らずに馳せて行く。 350

されども騾馬の鋤く畦の長さの程に、敵の距離

なりし其時(重き鋤、深き土壤に驅り進む

わざに於ては、牛よりも騾馬は優れり)其時に、

二人は追ひて驅け出す、足音聞きて留る敵、

心に思ふ、トロイアの陣よりわれを呼び返す 355

友は來れり、ヘクトール新たに令を下せりと。

されど投槍とゞく距離、あるはそれより尚近く

迫りし時に敵と知り、駈足速く逃げ出せば、

二將ひとしく迅速に躍り進みて之を追ふ。

譬へば鋭利の牙もてる狩に慣れたる狗二頭、 360

林の中に吠え叫び、逃げゆく牝鹿、逃げ走る

兎を遂ひて猛然と隙をあらせず飛びかゝる、

正しくかくもオヂュシュウス、チュウデーデースもろともに、

敵の陣より遮りて勢猛に彼を遂ふ。

水陣さして逃げ走り、哨兵團のたゞ中に 365

正にドローンの入らん時、黄銅鎧ふアカイアの

一人も彼に先んじて、敵を討てりと誇ること

無からんために、アテーネー、チュウデーデースに力貸す。

チュウデーデース槍を手にはしりて敵に叫び曰ふ、

『止まれ。さらずば槍飛ばむ、わが手の下す物凄き 370

死命を汝長らくは免るゝ事得べからず』

しかく宣んして槍飛ばしわざと覘を外し打つ、

鋭利の穗先、右の肩越して大地に突きさゝる。

斯くと眺めて足止むる敵は肢體を震はして

言句吃りぬ――口中に齒と齒ときしる音きこゆ、 375

恐怖の故に青ざめる彼に二將は喘ぎつゝ、

來り近づき手を捕ふ、ドローンは泣きて詫びて曰ふ、

『我を生捕れ、自らを我賠はむ、わが家の

中にあまたの黄銅と又黄金と琢かれし

鋼鐵とあり、わが生きてアカイア軍の船中に 380

ありとし聞かば、わが父は賠償巨多に拂ふべし』

智謀に富めるオヂュシュウス答へて彼に宣んし曰ふ、

『意を安んぜよ、胸中に死滅を思ふこと勿れ、

いざ今我に打ち明けよ、委細正しく我に曰へ。

他の衆人の眠る時、此暗黒の夜を犯し、 385

隊を離れて身一つにわが陣向ひ、いづく行く?

戰鬪の場に斃れたる屍體を剥がんためなりや?

或は汝をヘクトール、視察のためにわが陣に

遣はしたるや? あるは又心汝に命ぜしや?』

その時肢體をのゝけるドローン答へて彼に曰ふ、 390

『禍難に向けてヘクトール我の心を惑はしぬ、

アキルリュウスの單蹄の駿馬、並びに黄銅を

飾りし戰車與ふべく、我に約してヘクトール、

我に命じて暗黒の夜を犯して敵陣に

近く迫りて探らしむ、アカイア軍の輕舟は 395

先と等しく今も尚堅く敵軍守れりや?

或はわれの軍勢にすでに激しく破られて、

たゞ逃亡を念ずるや? 疲勞にすでに力盡き

夜の警備を怠るや? われに命じて探らしむ』

智謀に富めるオヂュシュウス笑を含みて彼に曰ふ、 400

『げにも汝は莫大の恩賞念じたりしよな!

アキルリュウスの駿馬とは! 不死の神女の生みいでし

アキルリュウスを外にして、死の運命の人界の

何者敢て之を御し、之を制することを得む!

さはれ委細を打ち明けて正しく我に知らしめよ、 405

使命をうけて來る時、諸軍の首領ヘクト,ルと

汝いづくに別れしや? いづくぞ彼の武器と馬?

他のトロイアの哨兵と陣營のさま、はたいかに?

更に彼らの談じ合ふ思念やいかに? わが舟に

離れてしかも相對し、そこに殘るを欲するや? 410

あるひは我に勝てる後引きて都城に歸らんや?』

ユウメーデース生める息、ドローン答へて彼に曰ふ、

『これらの事を詳細に正しく君に語るべし、

評議の員に備はれる諸將と共にヘクトール、

聖イーロスの墓のそば、外の擾ぎに遠ざかり、 415

評議を凝らす――はた君の問へる哨兵われ説かむ、

特に軍隊衞るもの、警備の任に當るもの

あらず、トロイア衆軍の篝に近くおの/\は、

要に應じて睡眠を省き、互に警めて

互に守る、諸の國より來る援軍は 420

睡る、警備をトロイアの隊に托して皆眠る。

彼等の子らも妻女らもかたへに近くあらざれば』

415 イーロスはトロースの子、ラーオメドーンの父(II 819)イーリオンを創設せる者、イーロスの墓は XI 166, 371 にも説かる。

智謀に富めるオヂュシュウス再び敵に問ひて曰ふ、

『其援軍の眠れるは馬術巧みのトロイアの

軍隊中にまじりてか、或は別か、われに曰へ』 425

ユウメーデースの生める息、ドローン答へて彼に曰ふ、

『これらの事を詳細に正しく君に語るべし。

海に向ひて陣するはカーリア及びパイノイア、

其郷の軍、又更にカウコーネスとレレゲスと、

ペラスゴイ族更に又チュムブレーにはリキア族、 430

ミューシアの族、更に又フリュゲス及びメーオネス。

さはれこれらの詳細を君何故に我に問ふ?

君、それトロイア軍中に進み入らんと欲するか?

新たに來り陣頭にトレーイケスの族宿る、

エーイオニュウス生める息、王レーソスは之を率ゆ。 435

王の駿馬を我見たり、華麗を極め、丈高し、

色は雪よりなほ白し、飛ぶこと風にさも似たり、

彼の戰車は黄金と又白銀と相飾る、

更に彼また身に着くる目を驚かす莊麗の

黄金製の鎧見よ、不死の神明ならずして 440

人界の子の何者か之を帶ぶるに適せんや?

さもあれ迅く漕ぎ走る船にわが身を運び行け、

あるひはこゝに嚴重の鎖によりてわれ縛れ、

かくして君ら進み行き、果して我のいふ處、

正しかりしや、然らずや、自ら試すことを得む』 445

428 II 867, 850.

429 こゝに初めて記さるる名。

430 II 841.

430 平原の名。

431 II 858 862 865.

437 白馬は往時最も尊ばれたり。

ヂオメーデース憤然と睨みて彼に宣んし曰ふ、

『ドローンよ、汝、善き事をわれに忠言したりとも、

一たび我の手に落ちぬ、免るべしと思ふ勿れ。

今もし汝を解き許し汝を放ちやるとせば、

他日再びアカイアの輕舟さして寄せ來り、 450

或は我を偵察し或はわれと戰はむ、

今もし我の手に掛り汝命を失はゞ

此後またとアカイアの禍難の種とならざらむ』

しかいふ彼の顎に手をのして悲しみ訴ふる

ドローンに猛に飛びかゝり、鋭利の劔ふりあげて、 455

頸のもなかに切り付けつ、二條の筋を斷ち去れば、

物曰ふ彼の首落ちて塵埃中に横はる、

其時、二將ドローンの頭上の革の冠剥ぎ、

又狼の皮衣、弓と槍とを奪ひ取る、

かくて戰利を司どるパラス女神にオヂュシュウス、 460

これらの物を捧げつゝ祈願をこめて陳じ曰ふ、

『喜び給へ、あゝ神女、これらの物を――オリュンポス

諸神の中にまつさきに君に我呼ぶ。いざや今

トレーイケスの陣營と駿馬にわれをむけ給へ』

しかく宣んして手を延して戰利を高く傍の 465

柳に懸けて目じるしに、繁れる枝と蘆の葉を

集めて之が上にのせ、夜の暗黒犯しつゝ

歸り來ん時、誤りて見失ふことなからしむ。

二將かくして歩を進め流血及びもろ/\の

武具踏みわけて速かにトレーイケスの陣に着く。 470

その軍勢は勤勞に疲れ弱りて皆眠り、

武器はかたへに整然と三列なして地の上に

ならべられあり、おの/\に又一双の軍馬沿ふ。

王レーソスは戰陣の眞中に眠る、其駿馬

手綱によりて並びつゝ戰車の端に繋がれぬ。 475

そをまづ見たるオヂュシュウス、ヂオメーデ,スに示しいふ、

『ヂオメーデ,スよ、屠りたるドローンのわれに話せしは、

正しくこれこの將帥と正しくこれこの駿馬なり。

いざ今汝旺盛の勇氣呼び出せ、武器持ちて、

ためらふ勿れ、この駿馬、今速かに解き放せ、 480

或は汝敵を撃て、われは駿馬を牽き去らむ』

しかく彼曰ふ――其時に藍光の目のアテーネー、

ヂオメーデースに力添ふ、勇士即ち斬り※る、

斬られし者の叫喚はすごし、大地は血に赤し。

山羊か羊か可憐なる家畜の群の守りなき、 485

そを襲ひ來て獅子王の勢猛く跳びかかる

樣もかくこそ、敵團をチュウデーデース襲ひ討ち、

斃せる勇士十二人――智謀に富めるオヂュシュウス、

その同僚の劔により打たれし屍體脚とりて

引きずり去りて推しのくる智謀豐かのオヂュシュウス、 490

かくせば彼の捕へくる鬣振ふ敵の馬

安らに過ぎむ、數々の屍體を踏みて驚きて

をのゝき慄ふことなけむ、馬は屍體にまだ馴れず。

更に敵王レーソスをチュウデーデース襲ひ討つ。

蜜の如くに甘美なる命失ひ息絶ゆる 495

第十三の牲は王、その頭上に「凶死」立つ、

此夜パラスの策によりオイネーデースの子息立つ、

こなた倦まざるオヂュシュウス單蹄の二馬解き放し、

手綱によりて結びつけ、戰車の上におかれたる

美麗の鞭を手の中に取るを忘れつ、弓あげて 500

馬を打ちつゝ陣營の外に驅り出し進ましめ、

口笛吹きて剛勇のヂオメーデースに相圖なす。

されども彼は尚殘りなほ一層の勇を鼓し、

華麗の武具の横はる兵車奪ひて轅取り

牽き歸らんか? 高く背に擔ひて運び歸らんか? 505

トレーイケスの軍勢の更に多くを屠らんか?

これらを胸にさま/″\に思へる時にアテーネー、

來りて近く側にたちヂオメーデースに向ひ曰ふ、

493 434 に曰ふ如くトレーイケスは新來の軍、未だ戰はず。

497 オイネーデース=チューヂュウス=ヂオメーデースの父。

『強きチュウヂュウス生める子よ、水陣さして歸るべく

思へ、今こそ――さもなくば敗れて逃ぐることあらむ、 510

恐らくトロイア軍勢を外のある神めざまさむ』

神女の言に從ひて彼は直に馬に乘り、

馬を弓あげ、むちうてるオヂュシュウスともろともに、

飛ぶが如くにアカイアの輕舟さして馳せ歸る。

さはれ銀弓のアポローン彼の監視を怠らず、 515

チュウデーデースにアテーネー附き纒へるを眺め見て、

心に之を憤り、行きてトロイア軍勢の

中に進みてヒッポコオーン――トレーイケスの將起す。

レーソス王の勇しき族人乃ち睡より

さめて、駿馬の立ちたりし場のむなしく荒るゝを見、 520

又恐るべき殺戮の中に最後の喘ぎなす

人を眺めて驚きて、急ぎて友を呼びおこす。

騷動痛くその時に、むらがり來るトロイアの

中に起りて、敵將の二人しとげし驚愕の

業に彼等は目を張りぬ、二人はすでに立ち去りぬ。 525

先にヘクト,ル遣はしし諜者屠りし其場に、

二人かくして來る時、ヂュウスのめづるオヂュシュウス、

駿馬とむれば剛勇のチュウデーデースおりたちて、

血にまみれたる戰利品オヂュシュウスの手に渡し、

再び乘りて馬に鞭あてゝ勇みて走らしめ、 530

やがて水師に歸り來て心くつろぐ二將軍、

音をまさきにネストール耳に聞き取り叫び曰ふ、

『あはれ、同僚、アルゴスの將帥及び號令者、

わが曰ふ處誤か、眞か? 心われに告ぐ。

奔馬の迅き足の音、われの耳底を襲ひうつ。 535

願はくは彼、オヂュシュウス、ヂオメーデースもろともに、

單蹄の馬トロイアより奪ひてこゝに乘りくるを、

さもあれ、切にわれ恐る、トロイア人の手の中に

わがアルゴスの二勇將或は禍難受けたるを』

其言未だやまぬ中、二將はすでに進み入り、 540

馬より下り土に立つ、衆喜びて手をのべて、

之を迎へて蜜の如、甘美の言にねぎらへり。

ゲレーニャ騎將ネストールその時まさきに問ひて曰ふ、

『あゝ稱ふべきオヂュシュウス、わがアカイアのおほいなる

譽、今曰へ、いかにしてこれらの駿馬捕へたる? 545

トロイア軍を犯してか? あるは神明の賜物か?

驚くべくも太陽の光に似たる此駿馬。

我はトロイア軍勢と常に戰ひ、老ゆれども

水師のほとり空しくも殘り留ることあらず、

されども今に到る迄かゝる良馬を絶えて見ず、 550

思ふに汝にいで逢ひし、ある神明の惠みしか?

雷雲寄するクロニオーン又その息女、藍光の

目の耀けるアテーネー汝二人をいつくしむ』

智謀に富めるオヂュシュウス其時答へて彼に曰ふ、

『あゝネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の譽なる 555

君は知るべし、とある神好まばこれら駿足に

優るものすら賜ふべし、神の力はおほいなり。

されども君の曰ふ處、新たに到る駿足は、

トレーイケス族もちしもの、その頭領を剛勇の

ヂオメーデース打ちとりぬ、部下の十二をもろともに、 560

われらは更に船近く第十三を打ちとりぬ、

そは諜者なり、わが軍を探らんためにヘクトール、

又トロイアの諸將軍こゝに派遣し來る者』

しかく宣んして揚々と、塹濠こして單蹄の

馬を驅り入る、アカイアの友喜びてあとを逐ふ。 565

チュウデーデース堅牢の陣にかくして入りし時、

よく編まれたる手綱もて衆は厩舍にこを繋ぐ、

そこにさながら蜜に似る甘美の小麥噛み乍ら、

ヂオメーデースの脚早き軍馬は立ちて相並ぶ。

又ドローンより剥ぎとりし武具を船尾にオヂュシュウス、 570

掛けて犧牲をアテーネー神女にあぐる備とす。

かくて二將は海に入り、波浪を浴びて淋漓たる

汗を股より頭より腰より洗ひ落し去る、

かくして波は兩將の膚より淋漓わきいでし

汗を全く洗ひ去り氣を爽になせる時、 575

二人は更に浴室に入りて潮水洗ひ棄て、

香油を膚にまみらしてかくて酒宴の席に就き、

蜜の如くに甘美なる酒のあふるゝ寶瓶を、

傾け來りアテーネー神女に捧げ奉る。

577 IX 90, 221 によればオヂュシュウスは此夜三度酒宴の席につく。

第十一歌

ヂュウス、計りて曉に「爭」の神女をアカイア軍に遣はし勇氣を鼓す。 アガメムノーンの進撃。 トロイア軍また進む。 晝に到りてアカイア軍優勢となる。 アガメムノーン奮つて敵の諸將を殺す。 ヂュウス使者イーリスをヘクトールに遣はし、アガメムノーンの勇戰の間は進む勿れ、其負傷して退く時に追撃せよと命ず。 果して神命の如し。 アガメムノーン退く。 同じく勇將ヂオメーデース退く。 オヂュシュウス敵に包圍さる。 アイアース之を救ふ。 アカイアの軍醫マカオーンら亦負傷す。 老將ネストール彼を助けて歸陣す。アキリュウス其友パトロクロスをネストールに遣はしてマカオーン等の安否を訪はしむ。 ネストール、善くパトロクロスに説き、アキリュウスの救を暗示す。 パトロクロス歸途にユーリピロスを助け、アカイア軍の急状を聞く。

不滅の神に人間に天の光明頒つべく、

チートウノスの傍の床より起てりエーオース。

其時ヂュウス戰爭のしるしを手中携ふる

神女エリスをアカイアの水陣さして進ましむ。

テラモニデース・アイアース及び勇武のアキリュウス、 5

腕の力と勇氣とに信頼篤く其船を、

陣の左右の兩端に共に曳き上げ据ゑたりき、

二將の陣の中央に位占むるはオヂュシュウス、

其おほいなる黒船の上に神女は立ち留る。

斯くて左右に響くべく神女は高き音聲に 10

叫び、アカイア軍勢の其おの/\の胸の中、

勇氣を鼓して休みなく奮鬪苦戰つとめしむ。

衆忽然と勇み立ち感じぬ、戰甘くして

船に乘じて恩愛の故郷に去るに優れるを。

2 ラーオメドーンの子、其美貌を戀ひて「曙」の神女天上に奪ひ去り夫君と爲す。

2 「曙」の神女。

4 「不和」の神女、戰爭のしるしとは恐らくアイギスならむ。

13 II 453―454 の繰返し。

アートレ,デース大呼してアルガイ軍に戰裝を 15

命じ、自ら燦爛の黄銅の武具身に纒ふ。

まづ双脚に美麗なる脛甲あてゝ、白銀の

留金をもてしかと締め、之に續きてその胸の

めぐり美麗の胸甲を纒ひぬ、むかしキニュレース

客を尊ぶ禮としてアガメムノーンに寄せしもの。 20

アカイア軍勢船に乘り、トロイアさして進み漕ぐ

そのかしましき風評の、キュプロス島に傳はるを

聞き、大王の歡心を得んと欲して寄せしもの。

其胸甲の線條は十は眞黒き鋼鐵と、

十二はひかる黄金と、二十は錫と相まじる、 25

左右おの/\頸に向き走る三條藍色の

蛇あり、虹にさも似たり、虹は天王クロニオーン

言鮮けき人間に徴と爲して雲に懸く。

大王更に肩の上、柄にはあまたの黄金の

鋲燦爛と光る劔、投げ懸く、鞘は白銀を 30

材とし、幾多黄金の締輪によりて飾られぬ。

更に手にとる堅牢の美なる大盾身を掩ふ、

巧み凝らしてその周り青銅十の輪は走り、

二十の錫の圓形の白き隆起は其おもに、

而してそれの中央に鋼鐵黒き隆起あり。 35

盾の上部にゴルゴーは其兇暴の眼を張りて

すごく睨まへ、傍に「畏怖」と「驚惶」伴へり。

盾の附帶は銀の製、上に藍色の蛇うねる、

その蛇のばす一つ首、首より三つの頭出で、

互に纒ひ解けがたくからみ合ふ樣物凄し。 40

四つの隆起を頂に具ふる兜、その上に

馬尾の冠毛凄じく搖ぐを王は戴きつ、

更に手にするおほいなる二條の槍は青銅の

穗先鋭く爛々と光放ちて空高く

冲す、其時アテーネー、ヘーレー共にミケ,ネーの 45

王を崇めて殷々の霹靂遠く轟かす。

その時諸將おの/\は御者に命じて其馬を、

整然として塹濠のほとりに駐め扣へしめ、

自ら進み青銅の武具を穿ちて堂々と、

まさきに進み喚聲をまだ薄暗の空に揚ぐ。 50

かくて戰士は塹濠のほとりに並び、騎士隊に

先んじ進み、やゝ後れ騎兵の群は續き行く。

クロニオーンは其中にはげしき騷ぎ湧かしめて、

天より露を虹の血汐に染めて降らしめ、

勇士を多く暗深き冥王の府に投げんとす。 55

19 キプロスの富める王。

28 XVII 550.

36 恐るべき怪物。(VIII 348, V 740)

37 φοβο※驚惶、逃亡‥‥

41 V 744.

46 雷は只ヂュウスの力なるを思へば此行は怪むべし。(リーフ)

51 極めてあいまい解すべからず。(リーフ)

かなたトロイア軍勢は丘の高所に陣を占む、

その中心はヘクトール、又勇剛のポリュダマス、

トロイア軍に神のごと崇められたるアイネアス、

アンテーノールの三人の子、ポリボス及びアゲノール、

不滅の神に髣髴のまだ年わかきアカマース、 60

先頭中にヘクトール圓き大盾手にとりぬ。

凶星光り爛として雲より出でゝ忽ちに

また暗澹の雲に入る、其樣かくやヘクトール、

先陣中に現はれてやがてたゞちに其姿

後陣にかへり令下す、身は青銅を鎧ほひて、 65

アイギス持てる天王の飛電の如く耀けり。

56 X 160.

57 又プーリュダマスとも曰ふ、トロイアの名將。父はパントーオス。XII 60.

62 シリアス(天狼星)か、XXII 28 等に見ゆ。

富める土豪の畑の上、農夫は群れて畝に添ひ、

互に向ひあひ乍ら小麥大麥刈り行けば、

紛々として地に落つる穗のうづ高く積るごと、

トロイア及びアカイアの軍勢互に進み行き、 70

殺戮互に行ひて卑怯の逃を思ふ無く、

互に屈せず奮然と餓狼の如く突き進む。

之を眺めて喜ぶはエリス、呻吟嘆息の

基をおこす「不和の神」、衆神中にたゞひとり

戰場にあり、他の神は離れてこゝに遠ざかり、 75

ウーリュンポスの連峯の上に華麗の宮殿を

營むところ、其中に悠然として座を占めつ、

雷雲寄するクロニオーン、トロイア軍の光榮を

加へんとする故をもて衆神ひとしく之を責む。

天王之を省みず、離れて奧にたゞひとり、 80

他の群神に遠ざかり其光榮に誇らひて、

トロイア城とアカイアの水軍、更に青銅の

耀き、更に打つ者と打たるゝものを眺めやる。

曙かけて、更に日の昇るにつれて、兩陣に

飛箭投槍ふり注ぎ、軍勢互に相倒る。 85

眞晝に到り、山上の森林中に杣人が

食の準備にかかる頃――おほいなる樹を伐り倒し、

左右の腕は弱りはて、倦怠いたく其胸を

襲ひ、口腹滿たすべき美味の願の起る頃、

ダナオイ軍勢勇を鼓し敵陣猛く打ち破り、 90

隊伍横ぎり同僚を諫め勵ます、その先に

アガメムノーン奮ひ馳せ、敵の一將ビエーノ,ル、

續きてかれの兵車驅るオイリュウスを打ちとりぬ。

車臺をおりてオイリュウス勢猛く眞向に

まちかく立つを、鋭利なる槍を延ばして面を突く。 95

青銅重きその兜、敵の鋭刄支へ得ず、

兜、並びに額骨を貫く槍の鋭刄は

頭腦無慘に碎き去り、猛き戰士を打斃す。

アガメムノーン、衆の王、かくて二人の胸甲を

剥ぎ去り、白き其胸を露はすまゝに棄てさりて、 100

更に進んでアンチポス、イソス二敵に打ちむかふ。

プリアモス王生める二子、嫡子と庶子と相並び、

一つ戰車に身を托し庶子は手綱を取り捌き、

武勇すぐれしアンチポス親しく敵に打向ふ、

イデーの兵に羊飼ふ二人を襲ひアキリュウス、 105

柳の枝もて縛りつけ賠償とりて放ちにき。

アートレ,デース、剛勇のアガメムノーン槍をもて

イソスの胸部――乳の上貫き更に劔を拔き、

アーンチポスの耳のわき打ちて車外に斃れしめ、

すぐに手早く華麗なる武具剥ぎとりぬ、そのむかし 110

脚神速のアキリュウス、イデーの地より囚へ來し

二人を王は輕舟のほとりに眺め知り得たり。

足疾き牝鹿生める子ら、可憐の群のすむ處、

そこに獅子王襲ひ來て之を無慙の牙にかけ、

屠りつくして孱弱の若き呼吸を絶やす時、 115

近く牝鹿は立ち乍ら之を救ふに力なし、

救ふ力の無きのみか、驚怖の念に四肢震ひ、

猛獅の難を逃れんと、淋漓の汗に飛ぶ如く

走りて驅けて、荊棘と茂林の間逃げて行く、

正しく斯くもトロイアの中にひとりも、友僚を 120

救ふ者無く、悉くアカイア軍を避けて逃ぐ。

101 IV 489に出づ、但し II 864 は同名異人。

109 アンチポス又アーンチポス。原文には語の位置に從ひ音を伸縮す。他處に於ても同樣。

アンチマコスの二人の子、パイサンドロス、ヒポコロス、

二人に王は今向ふ。アンチマコスはパリスより

黄金珍寶うけ入れて、特に努めて金髮の

メネラーオスにヘレネーを返すを止めたりし者、 125

其二子ともに駿足の馬を驅りつゝ、もろともに

一つ戰車の上に立つ、之を目がけて獅子の如、

アガメムノーン猛然と勢凄く近よれば、

二人畏れてふためきて華麗の手綱取り落し、

涙流して膝つきて車上に哭し陳じ曰ふ、 130

『アートレ,デーよ、生捕りてわれの賠償、受納れよ、

アンチマコスは其家に、精錬したる青銅と、

黄金及び鋼鐵を夥多豐かに貯へり、

そを莫大に取り出だし父は償ひ致すべし、

アカイア軍の船中にわが生存を知らん時』 135

涕流して温柔の言葉に斯くと陳ずれば、

これに答へて殘酷にアートレ,デース叫び曰ふ、

『汝ら、正に不敵なるアンチマコスの生める子か?

神にひとしきオヂュシュウスもろとも先に使者として、

トロイア陣にメネラオス、行ける其折其場に 140

彼を殺してアカイアに歸らしめなと進議せし

彼の子なるか? さらば今、父の非法の報取れ』

139 III 205 兩將トロイアに使しヘレネーの引渡しを求めし折のこと。

しかく宣んして槍のべて胸を貫き車上より、

パイサンドロス突き落し、地上に仰ぎ倒れしむ、

つゞいて劔ふりあげてヒッポロコスの手向ふを 145

打ちて兩腕切り落し、首打ち落し地の上に

斃しさながら臼の如、戰場中にまろばしめ、

更に進みて軍勢の最も多き諸部隊の

亂るゝ場に躍り入る、同じくアカイア衆兵も。

かくて歩兵は逃走の敵の歩兵を追ひまくり、 150

騎兵は刀槍ふりかざし敵の騎兵を亡せば、

人馬の脚は轟きて濛々の塵、地上より

昇り立たしむ、その中にアガメムノーン奮然と

進み續けて敵を打ち、アカイア軍を勵ましむ。

猛火の焔繁り立つ林の上にかゝる時、 155

風は四方に其火焔あまねくあほり運ぶとき、

火の猛勢に打負けて地上に樹木倒るごと、

斯く奔竄の敵軍の首は地に落つ、剛勇の

アートレ,デースの眼前に――逃げ行く馬は戰場に

亡べる主公悼みつゝ空しき戰車率き返す、 160

勇士は斃れ地の上に伏して再び起き出でず、

今恩愛の妻よりもむしろ鷙鳥を喜ばす。

ヂュウスはかなたヘクト,ルを矢より塵より逃れしめ、

殺戮流血喧騷の場より去らしむ、こなたには

アートレ,デース敵を逐ひアカイア軍を鼓舞し行く。 165

トロイア軍は蒼惶とダルダニデース・イーロスの

墳墓のほとり平原のもなか無花果樹たつ處、

過ぎて走りて城中に退かんとす。そのあとを

アートレ,デース鮮血に手をまみらして叫び逐ふ。

されど城門スカイアイまた無花果樹にいたるとき、 170

トロイア軍は立ちとまり、軍勢互に待ち合はす。

後れし者は平原を蒼惶として逃げて行く、

ちさき牝牛のむらがりを夜半に獅子王襲ひ來て、

逐ふにも似たり、恐るべき死は其中の一頭を

囚ふ、獸王その頸を鋭き牙にまづ碎き、 175

やがて滴る鮮血をすゝり臟腑を喰ひ盡す、

正しく斯くも豪勇のアガメムノーン追ひ迫り、

最後の敵を打ち果す、殘りの者は逃げ走る。

かく槍揚げて奮然とアートレ,デース追ひ打てば、

打たるゝ敵は紛々と馬より前後倒れ落つ。 180

斯くて都城と城壁にアガメムノーン迫る時、

人間並びに神明の父は天上おり來り、

泉ゆたかに湧きいづるイデーの嶺に座を占めて、

手に閃々の電光を握り、翼は黄金の

イーリス呼びて勵まして彼の使令に走らしむ。 185

167 X 414, 無花果樹は VI 433 參照。

170 Voss は Buche と譯す。Murray 英譯は fig-tree とす。原語φηγο※, V 693, VI 237, VII 22, IX 354 等參照。

182 ヂュウスは身親しく戰場に出づることなし、イデーに降りて戰場を眺むるのみ。

『イーリス、汝神速に行き、ヘクト,ルに斯く述べよ――

アガメムノーン敵の將、先陣中に戰ひて

トロイア軍勢打ち敗る、――そをヘクトール見る中は、

身を退けて加はらず、たゞ衆軍に令下し、

混戰いたく敵軍に向ひて奮ひ起たしめよ。 190

されど敵王槍をうけ、或は飛箭に傷きて、

戰車に其身乘せんとき、われヘクト,ルに勇力を

與へて敵を打たしめむ、かくして彼は漕座善き

アカイア船に近よらむ、日は沈むべし、夜は寄せむ』

186 XI 163 以下參照。

しか宣んすれば疾風の脚のイーリスかしこみて、 195

イデー連峯はせ下り忽ち到るイーリオン、

そこに双馬と兵車との上にたちたるヘクトール、

プリアモス王うみいでし英武の將を見出しつ、

脚神速のイーリスは即ち向ひて陳じ曰ふ、

『プリアミデース・ヘクトール、聰明神に似たる者、 200

聞け、天王クロニオーンわれを遣はし、かく宣んす、

アガメムノーン、敵の王、先陣中に戰ひて、

トロイア軍勢打ち破る――これを汝の見る中は、

身を退けて加はらず、たゞ衆人に令下し、

混戰、猛に敵軍に向ひて奮ひ起たしめよ、 205

されど敵王槍を受け、或は飛箭に傷きて、

戰車に其身乘せんとき、神は汝に勇力を

與へて敵を討たしめむ、かくして汝漕座善き

アカイア船に近よらむ、日は沈むべし、夜は寄せむ』

しかく陳じて神速の脚のイーリス立ちさりぬ、 210

その時武具をヘクトール取りて地上に降りたちつ、

鋭利の槍を打ち揮ひ隊伍の間駈け※り、

戰鬪すべく勵ましぬ、かくて激戰また起る。

かくてトロイア軍勢はまた盛り返し向ひ來つ、

こなたアカイア軍勢はその陣營に兵加ふ。 215

かくて兩軍相對し奮戰またも初りぬ。

その先頭に他を凌ぎアガメムノーンまた奮ふ。

ウーリュンポスの宮殿に住めるムーサイ今告げよ、

アガメムノーンに眞つ先に向ひ來るは誰なりや?

トロイア軍の一人か? 援軍中のあるものか? 220

そはイフィダマス其父はアンテーノール――勇にして

魁偉なるもの、育ちしは羊に富めるトレーケー、

幼き時に母方の祖父キッセイス――紅頬の

佳人テアノーうめる祖父其屋に彼を養へり。

歳月移り、青春の盛となりし彼の身を、 225

なほ其もとに引き留め、愛女を與へ伉儷の

契を結ぶ間もあらず、アカイア軍の遠征を

聞きて閨房たち離れ、十二の舟を率ゐ行く、

されど其舟こと/″\くペルコーテーに泊めおき、

上陸なして徒歩にしてイリオン城に向ひ來ぬ。 230

アガメムノーン、衆の王、アートレ,デースに向へるは

彼なり、斯くて左右より兩將迫り近づきて、

アートレ,デース其覘、過まり槍はそれて飛ぶ。

されどこなたにイフィダマス、敵の胸甲、其下の

帶をまともに突きあてつ、勇を頼みて槍を繰る、 235

されども槍は精巧に組まれし帶を貫かず、

穗先は銀の壁に觸れ鉛の如く打ち曲がる、

その時權威おほいなるアガメムノーン、獅子王の

如くあらびて其槍を激しく引きて捻り取り、

更に利劔に敵の頸切りて其四肢緩ましむ。 240

敵は斯くして青銅の睡に入りて倒れ伏す、

憐れなるかな、友邦を救ふが爲に恩愛の

妻に別れてこゝに逝く、妻に贈與の數多き

その感謝をばまだ受けず、先きに與へぬ百の牛、

又牧場より千頭の山羊と仔羊約したり。 245

其時彼を剥ぎとりて、アートレ,デース華麗なる

その軍裝を運び去り、アカイア陣に引き返す。

218 詩神(複數)II 481 參照。

223 V 70, VI 298 以下、テアノーはアンテーノールの妻、アテーネー殿堂の祭司。

226 テアノーの妹即ち叔母に當るもの、叔母と婚せるヂオメーデース V 412 參照。

229 II 835, VI 30.

241 利刄に討たれて亡ぶを曰ふ。此句を※ルギリウスは直譯して ferreus somnus(Aen. X. 745)と曰ふ。

衆中特に拔んづるほまれのコオーンかくと見る、

アンテーノールの長子、彼その弟の斃れしを

悼み、はげしき哀痛に其双眼は蓋はれつ、 250

乃ち槍を携へてアガメムノーンの目を偸み、

斜に進み迫り來て、其肱の下前膊の

もなかを討ちて耀ける鋭刄直に刺し入れば、

アガメムノーン、衆の王さすが慄然うち震ふ、

されど戰鬪、攻撃をあく迄やめず、猛然と 255

颶風の如く槍とりてコオーン目がけて飛びかゝる。

コオーンは弟イフィダマス同じき父の子の屍體、

其足曳きて諸勇士に呼ばはり乍ら急ぎ行く、

曳き行く彼を隆起ある圓楯の下槍に突き、

アガメムノーン青銅の利刄に四肢を緩ましめ、 260

更に近より其首をイフィダマスの上斬り落す。

アンテーノールの二人の子、斯くして共に運命を

アガメムノーンの手にゆだね、冥王の府に沈み入る。

こなたは王者堂々と敵の陣中かけめぐり、

槍と劔と巨大なる石塊用ゐ戰へる、 265

その間に熱き鮮血は、彼の疵より溢れ出づ、

されど其疵乾き來て流血やめば、猛烈の

苦痛は強きアカイアのアートレ,デース惱ましむ。

そを譬ふればヘーレーの娘ら、助産司る

エーレーチュウアイ放てる矢、苦き鋭き惱の矢、 270

産褥中の女性らを射るにも似たり、おほいなる

苦惱は王者、勇猛のアートレ,デース襲ひくる。

苦惱を遂に耐へ得ず、戰車の中に跳り入る

アガメムノーン聲あげて、御者に命じてアカイアの

水陣さして走らしめ、更に身方に叫びいふ、 275

『あゝアルゴスの諸頭領、諸將勉めて海洋を

わたるわれらの戰艦を攻むる敵軍よく防げ、

計略密のクロニオーン、我に許さず、トロイアの

軍に對して日暮まで飽く迄奮ひ鬪ふを』

270 助産の神女。XIX 119 にも出づ。(複數)

しか宣んすれば、水陣をさして鬣美はしき 280

双馬に鞭を當つる御者、馬は勇みて飛ぶ如く

駈けつ、泡沫その胸に、下は塵埃まみらして

弱れる王を戰亂の巷はなれてのせて行く。

その時、勇將ヘクトール、アガメムノーン退くを

認め、トロイア、リキエーの兩軍よびて叫び曰ふ、 285

『トロイア軍よ、リキエイよ、ダールダノイよ、勇しく

進み戰へ、猛烈の威力今こそ呼び起せ、

至剛の敵は退けり、クロニーオーンわれに今

賜ふすぐれし光榮を、いざ單蹄の馬を驅り、

勇武の敵に打ち向ひ偉なる功名身に立てよ』 290

しかく宣んして各の意志と勇氣を呼びおこす。

とある獵人牙白き狗の一群はげまして、

暴き野獸に獅子王に向くるが如く、禍の

神アレースに髣髴とプリアミデース・ヘクトール、

トロイア軍を勵ましてアカイア勢に向はしめ、 295

身は功名の念に燃え、先鋒中をかけめぐり、

亂軍のなか進み入る、高き天より吹きおろし、

緑の海波かきみだす颶風の如くすさまじく、

ヂュウス譽を與へたるプリアミデース・ヘクトール、

眞先に誰を滅せる、誰を最後に打ち取れる? 300

先に打ちしはアサイオス、アウトノオスとオピ,テース、

クリュチデース・ドロプスとオペルチョス、アゲラ,オス、

アイシュムノスとオーロスと勇武ひいづるヒポノオス、

此らダナオイ諸將軍、プリアミデース打取りて、

次に雜兵また斃す――南風寄せし雲の群、 305

そを西風の咆哮のあらしの呼吸亂すとき、

大海原の潮捲きて泡沫高く中空に、

風のいぶきに紛々と亂れ吹かれて飛ぶ如く、

あまたの頭ヘクト,ルに打たれひとしく亡び去る。

301 301―304 此等のアカイア諸軍の名は前後に記されず。

305 III 10.

ヂオメーデース猛將にその時智勇のオヂュシュウス、 310

呼ばゝることの無かりせば破滅と大事湧き起り、

アカイア勢は蒼惶と軍船中に逃げつらむ。

『チュウデーデーよ、何事のあればぞ我ら勇猛の

威力忘れし? あゝ奮へ、わが側に立て! ヘクトール

我が軍船を掠めなば、何等われらの恥辱ぞや!』 315

しかいふ彼に勇猛のヂオメーデース答へ曰ふ、

『我は正しく留りて敵を支へむ、然れども

其效蓋し小ならむ、雷雲寄するクロニオーン、

我よりむしろトロイアに勝與ふるを喜べり』

しかく陳じて馬上よりチュムブライオス敵將の 320

左の胸を槍に刺し、落せばこなたオヂュシュウス、

王の從僕モリオーン、容姿すぐれし者殺し、

戰鬪またと爲し得ざる彼らの屍體後にして、

二將進んで敵軍を亂す、譬へば勇猛の

勢鼓せる野猪二頭、獵犬の群襲ふごと、 325

斯く引返しトロイアを討てばアカイア軍勢は、

ヘクト,ルの手を遁れ得て安堵の呼吸喜べり。

320 322 チュムブライオスとモリオーン、前後に無し。

二將は次に一輛の戰車を襲ひ、すぐれたる

二人の勇士打取りぬ、ペルコーテーのメロプスの

子ら打ちとりぬ、占術に長ぜる父は、流血の 330

戰場さして行かざれど、子ら警めぬ、然れども

其命きかず、暗黒の死の運命に導かる、

ヂオメーデース英豪の槍の名將彼を打ち、

魂と生とを奪ひ去り華麗の武具を剥ぎとりぬ。

フュペーロコスとヒポダモス二人斃すはオヂュシュウス。 335

329 II 830―831.

335 674 は別人。

その時イデーの高きよりクロニーオーン見おろして、

彼と敵とに戰を均衡せしむ、かくありて

兩軍互に相討ちつ、チュウデーデース槍あげて、

パイオーン生める勇將の腰を貫き打ち斃す。

救ひの乘馬近からず、從者は之を遠ざけぬ、 340

アガストロポス思慮足らず、勇に任せて走り出で

先鋒中に戰ひて遂に一命失へり。

そを速かにヘクトール隊列中に眺め見て、

叫び二人に向ひ來る、トロイア勢は後を追ふ。

ヂオメーデース大音の勇士眺めてをのゝきて、 345

オヂュシュウスの傍に近く立てるに向ひ曰ふ、

『見よ、勇猛のヘクトール、憎むべきもの驅け來る、

いざ脚固め立ち停り勇氣を鼓して防禦せむ』

しかく陳じて影長く曳く投槍を振りかざし、

頭覘ひて過たず、飛ばして敵の被むれる 350

堅固の兜射當つれど、其青銅をかするのみ、

膚に觸れずけし飛びぬ、神プォイボス・アポローン

賜へる三重の堅甲は青銅の槍はね返す。

されど遠のくヘクトール急ぎて衆に身を混じ、

膝つき伏してその儘に大地に強き手を突けば、 355

暗黒の夜襲ひ來てその兩眼をおほひ去る。

チュウデーデース先鋒を離れて遠く、彼の射し

槍の大地につきさゝる地上に向ひ進むまに、

我に返りしヘクトール、兵車の上に身をのせて、

群衆中に驅け入りて黒き運命避け得たり。 360

槍携へて飛びかゝるヂオメーデース叫び曰ふ、

『賤狗、再び逃れしよ、さはれ禍難は遠からず

來らむ、今はアポローン、汝をまたも救ひたり、

槍とぶ場に進む時、汝は彼に祈るよな、

後に再び逢はむ時、我は汝を斃すべし、 365

若し神靈のとある者、我に冥護を貸すべくば――

いざ今他の敵逐はむ、わが腕捕へ得むものを』

362 アキリュウスの口に此らの句また述べらる。(XX 449 以下)かかる著明の文句を異なる二人に述べしむるは性格描寫として敍事詩人にふさはしからず。(リーフ)

しか曰ひ、槍に巧みなるパイオニデース剥ぎかゝる、

その時鬢毛美はしきヘレネーの夫、トロイアの

パリスは、弓を勇猛のヂオメーデースに向けて張り、 370

國の元老ダルダノス其の子イーロス――イーロスの

墳墓のめぐり圓柱の一つに其身もたせ倚る。

こなた武勇のトロイアのアガストロポス穿ちたる

光る胸甲また肩におほひし盾と兜とを

ヂオメーデース奪ふ時、パリス圓弓高く張り、 375

剽と放てる一箭は無效に非ず、飛び行きて

敵の右足の甲を射り貫き通し地に立ちぬ。

その時アレクサンドロス欣然として高らかに

笑ひ、隱れし所より跳り出して叫びいふ、

『汝正しく射られたり、わが矢空しく飛ばざりき、 380

汝の腹の下部を射て生命絶やし得ましかば!

さらばトロイア軍勢は禍逃れくつろがむ、

獅子を畏るゝ山羊のごと、彼等汝を畏れたり』

其時つゆも怯みなくヂオメーデース答へいふ、

『あゝ高言の射手、汝、少女に秋波注ぐもの、 385

武器を携へ、まのあたり我の威力を試めしみば、

汝の弓と矢數とは汝の用をなさざらむ。

我が足の甲射たりとて汝空しく誇り曰ふ。

何かはあらむ、一女性或は無知の一小兒

射たるが如し、怯憶の賤しき者の矢は鈍し。 390

われの鋭く放つ矢は之に異なり、いさゝかも

當らば人は凄慘の死を免るゝことを得ず、

妻たるものは悲しみて其紅頬を疵つけむ、

其子ら孤兒の身とならむ、彼は大地を赤く染め、

腐れむ、側に女性より多く野鳥は集らむ』 395

385 III 39 ヘクトールがパリスを罵る句參照。

387 武裝完全の勇士が弓手を侮ること、グリース史に傳統的。

しかいふ彼の傍に槍の名將オヂュシュウス、

來りて前に扣へ立つ、彼は退き地に坐して、

脚より其矢拔き去れば激しき苦惱身を襲ふ。

かくて戰車にとびのりて御者に命じて軍船を

さして後陣に歸らしむ、彼の苦痛はおほいなり。 400

槍の名將オヂュシュウスかくて留るたゞひとり、

アカイア勢は畏怖抱き、かたへに殘るものあらず、

彼は呻きて勇猛のその魂に向ひ曰ふ、

『あゝ我、何をか今爲さむ? 敵を恐れて逃げ去らば

その禍は大ならむ、敵に身ひとり獲らるるは 405

一層辛し、クロニ,オーン、わが友僚をおどし去る、

さはれわが魂何故にこれらを我に談ずるや?

卑怯の者は戰場を逃れむ、されど戰鬪の

中にその勇示すもの、彼は宜しく勇敢に

留るべきを、討たるゝも、はた敵人に打勝つも』 410

これらの思念其魂の中に動きて※るまに、

盾携ふるトロイアの軍勢近く襲ひ來て、

其恐るべき禍の種と見なして攻め圍む、

譬へば森の繁みより眞白き牙をとぎすまし、

野猪の現れ出づる時、若き獵人、獵犬の 415

群一齊に勇みたち、彼を圍みて襲ひくる、

野猪は其牙噛み鳴らし、見るもすさまじ、然れども

衆は飽く迄退かず、勇を奮ひて襲ひ來る、

斯くトロイアの軍勢に攻め圍まるゝオヂュシュウス、

神の寵兒は奮然と躍り、鋭き槍揮ひ、 420

其肩撃ちて眞つ先に勇將デーイオピテース

傷け、次いでエンノモス、トオーンの二將打ちはたし、

次いで其槍さしのべてケルシダマスの戰馬より

降るその時、隆起ある圓盾の下、臍突けば、

其手大地を握みつゝ塵埃中に斃れ伏す。 425

これらを棄てゝ猶進みヒパソスの息カロプスを――

高き素生のソーコスの義弟を槍に突き倒す。

こを救ふべく驅け出づる神に等しきソーコスは、

近くに進み脚とゞめ敵に向ひて陳じいふ、

『計略及び策動に飽かず、名高きオヂュシュウス、 430

今日汝ヒパソスの二人の子らを打斃し、

其軍裝を奪へりと高言せんか、然らずば

わが槍先に貫かれ、其一命を失はむ』

422 II 858 のエンノモスは別人。

422 V 152 のトオーンは別人。

423 ケルシダマスは前後に無し。

426 XIII 411 に他のヒパソスあり又 XVII 348 にも同名の人あり。

しかく叫びてオヂュシュウス持てる圓盾打ち目がけ、

飛ばす激しき投槍は耀く盾を貫きて、 435

その精妙に造られし胸甲中に進み入り、

脇腹よりし肉を割く、されどもパラス・アテーネー、

利刄進みて勇將の臟腑に入るを防ぎとむ。

槍の急所をはづせしを知りて勇めるオヂュシュウス、

あとにしざりてソーコスに向ひて高く叫び曰ふ、 440

『不幸なるもの、あゝ汝、大難すぐに到るべし、

げにも汝はトロイアの戰爭我に停めたり、

されど我曰ふ、殺害と黒き運命今の日に

汝襲はむ、わが槍に斃れて汝光榮を

われに與へむ、魂魄は馬に名高き冥王に』 445

しか陳ずればソーコスは逃げてうしろに引き返す、

逃げ行く彼の背をめがけ左右の肩のたゞ中を、

槍を飛ばして胸かけて打ち貫けば、ソーコスは

大地にどうと倒れ落つ、そを見て誇るオヂュシュウス、

『馬術に長けて勇しきヒパソスの息、ソーコスよ、 450

最期の非命、進み來て襲へる汝免れず。

不幸なるものあゝ汝、その臨終に父と母、

汝の眼を閉ざし得ず、腐肉をくらふもろ/\の

野鳥集り飛び※り、汝のむくろ喰ひ裂かむ、

されども我は逝かんときアカイア人に祭られむ』 455

452 臨終に目を閉ざすは兩親の、又特に妻の義務なりき。

しかく宣して勇ましきソーコスの槍鋭きを、

身より盾より――隆起ある盾より拔けるオヂュシュウス、

槍拔かるれば血は溢れ勇士の心惱ましむ。

勇士の流す血を見たるトロイア勢は其時に、

互に警め合ひ乍ら皆一齊に寄せ來る、 460

その時あとにオヂュシュウス歩み轉じて、同僚に

聲ある限り高らかに三たび續きて呼び叫ぶ。

叫びを三たび耳にするアレースめづるメネラオス、

たゞちにそばにアイアース立てるに向ひ陳じ曰ふ、

『テラモニデース、衆の王、ヂュウスの裔のアイアスよ、 465

われは智勇のオヂュシュウス、叫べる聲を聞き得たり、

聲はさながら曰ふ如し、トロイア軍勢亂戰の

中に遮り、他と分ち、たゞの一人の我攻むと。

いざ敵陣に赴かむ、彼の救援よからずや!

我今恐る、勇なるも敵陣中に彼ひとり 470

災うけむ、おほいなる悲哀は湧かむ、わが陣に』

しかく陳じて驅け出せばつゞく勇武のアイアース、

行きてヂュウスの寵兒たるオヂュシュウスの敵中に

陷るを見る――譬ふれば獵人放つ矢に射られ、

角逞しき大鹿の疵つき走る山の上、 475

茶褐色なる豺の群襲ふに似たり――獵人を

避けて逃げ行く大鹿は、血の温く膝動く

その間は走る、然れども矢疵に遂に弱るとき、

豺は山の上、森の中、こを噛み伏す、しかれども、

運命こゝに一頭の獅子を引き出す、これを見て 480

恐るゝ豺は逃れ去り、大鹿獅子の餌となる。

斯く數多き剛勇のトロイア勢は、計略に

富み且つ猛きオヂュシュウス攻めて圍めり、然れども

槍を揮ひて勇將は黒き運命追ひ拂ふ。

其時さながら塔に似る巨大の盾を携へて、 485

かたへに來るアイアース、見てトロイアの軍震ふ。

アレースめづるメネラオスその時敵の陣の外、

其手を引きて友救ふ、御者は戰車を寄せ來る。

その時進みてアイアース、トロイア軍を襲ひ打ち、

プリアモス王生める庶子ドリクロス又パンドロス、 490

リサンドロスとピューラソス、又ピラルテ,ス打ち斃す。

譬へばヂュウスの雨により、水量増せる一條の

河、平原に山腹を急湍なして溢れ來つ、

乾ける樫と樅の樹の數百を流し、更に又

泥土塵埃大海に搬び去るにもさも似たり。 495

斯く耀けるアイアース、人馬を碎き敵軍を

亂し原上追まくる――こなたに之をヘクトール、

未だ悟らず、全軍の左にありて戰へり、

スカマンダロス岸の上、敵ゲレーニャのネストール、

又剛勇のイドメネー之を※りて叫喚は 500

絶えず、首級の紛々と落つるほとりに戰へり。

その中にしてヘクトール、戰車の上に槍揮ひ

若き戰士の隊列を荒して偉功立て續く。

鬢毛美なるヘレネーの夫たるアレクサンドロス、

その三叉の鏃ある矢にマカオーン勇將の 505

右の肩射て奮戰を停むることの無かりせば、

アカイア軍は其道を退くことのあらざらむ、

勇氣凛たる衆軍は彼の一身憂慮しつ、

形勢轉じ敵の爲、彼の死せんを悲しめり。

かくて直にイドメネー、ゲレーニャ騎將に向ひ曰ふ、 510

490 これらの名前後に無し。別人ピュラルテースはXVI 696 にあり。

496 勇將を洪水に比するは V 87 にもあり。

『ネーリュウスの子、ネストール、アカイア軍の譽れ君、

戰車に乘りてマカオーン同じく共に引き具して、

疾く單蹄の馬驅りて軍船さして歸り去れ、

矢を拔くを知り微妙なる良藥疵に塗るを知り、

醫療の術に優るもの、外の多數に比ふべし』 515

しか陳ずればゲレーニャの老ネストールうべなひて、

戰車にすぐに身をのせつ、すぐれし軍醫マカオーン、

アスクレ,ピオス生める息、同じく共に打ちのして、

鞭を双馬に加ふれば、飛ぶが如くに軍船を

さして駈け出す、又そこに歸るを軍馬喜べり。 520

其時他方トロイアの軍敗るゝを眺め見て、

戰車御しつゝヘクト,ルにケブリオネース陳じいふ、

『こゝに我らは、ヘクトール、禍難を生める戰場の

一つの端にアカイアの兵と戰ふ、トロイアの

他の軍勢は人馬とも紛々として他に敗る。 525

テラモニデース・アイアース味方を破る、我れは知る、

彼、肩の上おほいなる盾をかざせり、いざや今

戰車、戰馬を驅り行かむ、行かむ、かなたに、他に勝り、

騎兵と歩兵一齊に殺し合ひつゝ、猛烈の

戰鬪なして、叫喚のたえず湧きでるかの場に』 530

しかく宣んして鬣の美なる双馬を音高き、

快鞭揮ひ驅り進む、音に勇みて驅けいづる

馬はアカイア、トロイアの兩陣さして迅速に、

戰車率きつゝ倒れたる屍體を盾を踏みにじる、

車軸は下に鮮血にまみれ、座席の周圍なる 535

欄また※る車輪より、又馬蹄より揚ぐる血の

しぶきにまみるヘクトール、かくて念じて敵軍の

中に突き入り突き返し、縱横無碍にアカイアの

軍を亂して其槍をやすむる隙はしばしのみ。

槍とつるぎと巨大なる石塊とりて敵陣の 540

中を貫きヘクトール、かく勇猛にあらべども、

テラモニデース・アイアスと戰ふことを敢てせず、

(優れるものに手向ふをヂュウスは彼に喜ばず)

543 此一行いづれの寫本にも無し。

其時ヂュウス、アイアスに驚怖の念を起さしむ、

勇士驚き立ち止まり、やがて七牛の皮張りし 545

盾をかつぎて敵陣を見わたし乍ら逃れ行き、

あとをしば/\振り※る獸の徐々に去る如し。

犬の一群、農夫らと力合して牛小屋に

寄する茶色の獅子王を攘ふもかくや? 農夫らは

夜すがら寐ねず、看守りて脂肪に富める牧牛を 550

取るを許さず、貪婪の獸は餌にあこがれて、

勢猛く襲へども遂に其意を遂げがたし、

勇武の手より放つ矢と、さすが畏るゝ炎々の

松明かれに飛び來れば、あらび乍らもたぢろぎつ、

やがて曙光の到るとき恨抱きて遠く去る。 555

斯くアイアース、トロイアの軍勢あとに怏々と、

心ならずもアカイアの船を憂ひて引き返す。

又譬ふれば鈍き驢馬、農場近くよせ來り、

小兒ら棒の折るる迄打てど叩けど顧みず、

これを凌ぎて悠々と侵し入りつゝ、蓄へる 560

穀を飽く迄貪りて、後に初めて弱き子の

棒に追はれて悠々と其場あとに去る如し、

かく剛勇のトロイアの軍勢、及び集れる

種々の援軍槍飛ばし、テラモニデース・アイア,スの

巨大の盾を射りつゝも皆一齊に逐ひ進む。 565

その時、おのが猛威力思ひてあとにふりかへり、

悍馬を御するトロイアの衆の襲ひをアイアース、

防ぎとどめつ、やがて又脚※らして去り乍ら、

わが輕舟に向ひ來る敵悉くひきとゞめ、

トロイア及びアカイアの兩陣間に立ち乍ら、 570

奮ひ戰ふ。勇敢の手に放たれし投槍は、

或は飛んでアイアスの巨大の盾につきささり、

或は彼の身に立つを望み乍らも、途にして

落ちて大地に突きたてり、白き膚には觸れも得ず。

555 548―555 此比喩は又XVII 657 以下メネラオスの上に用ゐらる。

かく亂箭にアイアース惱むをユウアイモーンの子、 575

ユウリュピロスは認め知り、來りて彼のそば近く

立ちつゝ、勇士耀ける其長槍を繰りいだし、

ポーシオスの子、民の王、アピサーオーンを突き伏せつ、

横隔膜のすぐの下、肝臟つきて打ち斃す。

ユウリュピロスは走り出で敵の肩より武具を剥ぐ、 580

アピカーオーンの戰裝を剥ぎとる彼を認めしは、

美麗のアレクサンドロス、彼はたゞちに弓を張り、

ユウリュピロスに一箭をとばして、右の股を射る、

蘆にて造るその矢柄折れて其股痛ましむ、

ユウリュピロスは同勢の中に退き、死をのがれ、 585

鋭く聲を張りあげてアカイア軍に叫びいふ、

『あゝアカイアの諸頭領また諸將軍、われの友、

脚を※らし踏みとまれ、禍防げアイアスに、

見よ、彼、敵の亂箭に惱めり、彼の悲慘なる

戰場外に逃るゝを思ひ得がたし、あゝ奮へ、 590

テラモニデース、アイアスをめぐり汝ら踏みとまれ』

疵うけ乍ら勇猛のユウリュピロスはかく叫ぶ、

衆人乃ちそのそばに近づき來り、其盾を

肩にかざして其槍をくり出し乍ら立ちとまる、

そこに再びアイアース歸りて衆の前に立つ、 595

かくして彼ら炎々の火焔の如く戰へり。

かなた淋漓の汗流すネーリュウスの馬はネストルを、

また民の王マカオーンを戰場よりし搬び來る、

その時脚は神速のペーレーデース・アキリュウス、

そのおほいなる船の端たちつゝ之を眺め得て、 600

アカイア軍の敗走とその難局を認め知り、

すぐに船より聲あげて其親愛の同じ伴、

パトロクロスに呼ばゝれば、こを陣營の中に聞き、

外に勇士は出で來る、彼の禍難の本はこれ。

メノイチオスの勇武の子まづ口開き問ひて曰ふ、 605

『アキルリュウスよ、何のため我に呼びたる? 要はなぞ?』

脚神速のアキリュウス、彼に向ひて宣んしいふ、

『わが心肝のめづるもの、すぐれしメノイチアデーよ、

アカイア族は案ずるに、われの膝下に願ひ來む、

遂に耐ふるを得ざるべき危難彼らに迫り來ぬ、 610

ヂュウスの愛づる友よ、いざ行きて尋ねよ、ネスト,ルに、

戰場よりし連れ來る負傷の勇士誰なりや?

後より我の見るところ、アスクレピオス生める息、

マカオーンにぞ彼は似る、されど面貌われは見ず、

急ぎに急ぎ双の馬わが眼前を過ぎ行けり』 615

しか宣んすれば其言にパトロクロスは從ひて、

アカイア軍の陣營と舟とを出でゝ走り行く。

かなた、ネスト,ル陣營に友もろともにつける時、

戰車を出でゝ豐沃の大地の上におりたちぬ。

ユーリメドーンは老將の御者――今彼は戰車より 620

双馬を解きぬ、解きし後、波浪の岸に佇みて、

吹き來る風に胸甲の汗を兩將乾かしつ、

やがて陣舍の中に入り、休の床に身を延せば、

ヘカメーデーは其爲に酒を混じぬ、鬢毛の

美なる麗人、おほいなるアルシノオスの生むところ、 625

(テネドス城をアキリュウス、掠めし時に老將の

功を思ひて、衆人の撰びて頒ち與へたる)

麗人その時琢かれし美はしき卓、緑色の

脚あるものをまづ先に二人の前に引き出し、

青銅製の籃をその上におきつゝ、酒によき 630

葱と新たの蜂蜜と聖なる麥の粉とを入る。

そばの金鋲ちりばめし華美の酒盃は老將の

家より携へ來るもの、四つの把手のおの/\に、

黄金製の二羽の鳩餌をついばめる彫刻の

美なるものあり、盃は下に二つの脚備ふ。 635

此盃の滿つる時卓より之を動かすは、

老ネストール除く外、誰も難しとするところ、

姿神女に髣髴の麗人、中に混成し、

造る飮料――青銅の※器によりて乾酪を

おろしゝものと白き粉を、プラムネーオス産したる 640

酒に混ぜる飮料を二人に勸め酌み干さす。

二人は之を飮み終へて痛く惱める渇を去り、

互に談話かはしつゝ心くつろぐ折もあれ、

戸口の前に神に似るパトロクロスは訪ひ來る。

之を認めて耀ける椅子より起てる老將は、 645

彼の手を取り内に入れ席に就くべく説き勸む。

これを拒みて口開きパトロクロスは陳じいふ、

624 後 XIV, 6 に又出づ。

626 I, 37, IX 328.

631 神の惠める聖き麥。(IX 214)

632 ミケーネーにてシリーマンの發掘せる黄金の盃頗る此敍述に似る。

『神の養ふ尊榮の叟よ、坐すべき暇無し、

勸むる勿れ、戰の場より君のつれ來る

負傷の彼は誰なりや? 問ふべくわれを遣はせる 650

彼敬すべし、恐るべし、われマカオーンを認めたり、

こを報ずべくわれは今アキルリュウスに歸り行く。

神の養ふ尊榮の叟よ、正しく君知らむ、

彼、恐るべし、ともすれば彼は罪なきものを責む』

651 最愛の友の此句はアキリュウスの威望を卜すべし。

ゲレーニャ騎將ネストールその時答へて彼に曰ふ、 655

『アカイア戰將これ迄に多く傷く、何故に

今に及びてアキリュウス、特に痛むや? 彼知らず、

陣營中に懊惱の起るを、――特に秀でたる

諸將ら槍に矢に打たれ、兵船中に休らふを。

チューヂュウスの子おほいなるヂオメーデース傷けり、 660

槍の名將オヂュシュウス、槍に傷く、總帥の

アガメムノーン亦然り、ユウリュピロスは股に矢を

受けたり、更に弦上を離れし飛箭此友を

射たるを我は戰場の中より救ひこゝにあり。

されど英武のアキリュウス、アカイア軍を憐まず、 665

彼岸上の迅き船、アカイア勢の禦げども、

敵の兵火に焚かるるを、又わが將士順々に

討たれ亡ぶを待たんとや? ああわが力いにしへの

ありし日われの柔靱の肢體における如からず。

あゝわれむかしエーリスの住者とわれの族のあひ、 670

家畜を奪ひ戰のありし日の如、わかくして

勇力堅くあらましを。かの時われは剛勇の

ヒュペーロキデース・イチモネー、エーリス人を打斃し、

償取りぬ。――先陣の間にありて牧牛を

防げる彼はわが手より投げし鋭槍身に受けて、 675

大地に落ちつ、其部下の農民怖れ逃げ散りぬ。

かくして敵の原上に掠めし獲物おびただし、

牝牛の數は五十頭、羊の群も亦等し、

又數等し家猪の群、山羊亦同じ數なりき、

栗毛の馬は百五十、しかも總てはみな牝馬、 680

伴ふ仔馬亦多しこれらを擧げて奪ひ取り、

夜に乘じて悉くネーリュウスの市ピューロスに

驅りて歸りぬ、若くしてわれ戰場に立ち乍ら

巨大の鹵獲得たりしを、いたく嘉みしぬネーリュウス。

次の日曙光出づる時、傳令使らは朗々と 685

聲あげ、先にエーリスに害をうけたる人々を

集む、かくしてピューロスの主領ら來り、掠奪の

品を頒てり、先きの日にピューロス戸口乏しくて、

弱りていたくエーリスの民に迫害うけたりき。

ヘーラクレースそのむかしあらび我が郷犯し入り、 690

わが族中の優秀の多くの者を亡ぼせり、

わが剛勇のネーリュウス其子數ふる十二人、

其中ひとり我殘り、他は悉く亡さる。

黄銅うがつエーリスの族人これを伺ひて、

心勇みて凌辱を加へし處、今報ふ。 695

今ネーリュウス一群の牧牛及び數多き

羊を撰び三百を、併せて牧の人を取る、

エーリス族に蒙りし彼の被害は大なりき、

競馬に勝てる四駿足、兵車も共に奪はれき。

鼎を堵して競走に送りし馬をエーリスの 700

アウゲーアス王奪ひとり、御者を叱りて憤激の

涙にくれて去らしめし――其兇行と兇戻の

言語思ひて、いきどほる老翁かくて莫大の

賠償とりて身に收め、殘れる處こと/″\く

諸人に與へ、憾みなく各々分を收めしむ。 705

かくして衆は一切の獲物を頒つ邑の中、

諸神に牲を捧げたる、其第三日に敵軍は、

數を盡して早急に單蹄の馬驅り來り、

犯し來れる其中にモリオン二人兄弟は、

年若くして勇戰に堪えねど共に武具取りぬ。 710

沙地のピュロスの境なるアルペーオスの岸の上、

高き丘のへ邑ありてトリュオェッサの名を呼べる、

その覆滅を心して敵軍之を攻め圍む。

其敵軍の原上をまつたく通り過ぎし時、

ウーリュンポスの高きより使となりてアテーネー、 715

夜を犯して走り來てわれに武裝を促しつ、

ピュロスの中に勇戰を念ずるものを呼び集む。

われの武裝はネーリュウス許さず乘馬おし隱し、

軍事につきて何事も未だ知らずと我をいふ。

されど馬無く徒歩ながらわれは騎將に交はりて、 720

神アテーネー導けば功名ことにすぐれたり。

海に直ちに注ぐ川――ミニュエ,イオスの名を呼びて

アレーネーにし程近し、こゝにピュロスの騎兵隊、

着きて曙光の聖き待ち、歩兵の隊も群れ來る。

そこより急ぎ一切の武裝とゝのへ眞晝ころ、 725

アルペーオスの神聖の流の岸に進み來つ、

すぐれし牲を大能のクロニオーンにたてまつり、

アルペーオスの河靈又ポセードーンに一頭の

牡牛おのおの、藍光の目の神女には若牝牛、

捧げてかくて陣中に隊にわたりて食を取り、 730

おのおの武裝そのまゝに其神聖の川の岸

沿ふて眠りぬ。かなたには勇氣盛りのエペーオイ、

すでに覆滅企てて都邑を圍み陣取りぬ、

されど其前アレースのおほいなる業現はれぬ。

大地の上に燦爛の日の出づる時わが軍は、 735

ヂュウス並にアテーネー拜し戰地に進み出づ、

ピュロスの軍とエペーオイかくて鋒刄まじへたる――

其の眞つ先きに敵將のムーリオスをば我殺し、

その單蹄の馬奪ふ、アウゲーアスの壻にして

王の長女と生れたるアガメーデーは彼の妻、 740

大地産する藥草を知る金髮の一女性。

近より來る敵將をわれ黄銅の槍を以て、

打てば塵ぬち倒れ伏す、その兵車の上飛び乘りて、

先鋒中に加はりて我は進めり。エペーオイ

武勇すぐれて騎馬の隊率ゐし將の斃されて、 745

大地に伏すを見て怖れ、あなたこなたに逃げ走る、

追ひ行く我は暗黒のあらしの如く驅り進み、

奪へる兵車數五十、その各に乘る二人、

わが鋭槍に討たれ地に、落ちて齒を以て塵を噛む。

更に我又アクトルの裔のモリオン若き二子、 750

討つべかりしを遠近に威力振ふて地を震する

彼らの父は救ひとり、むらぎる霧に包み去る、

その時ヂュウスおほいなる勝を惠みてピュロス軍、

廣き平野を驅り進み馬前に敵を追ひはらひ、

衆を亡ぼし華麗なる武裝を剥ぎて集めとり、 755

ブープラシオス、麥の土地、オーレニエーの岩の土地、

アレーシオスの名を呼べる岡あるところ進み打つ、

其ほとりよりアテーネーわが軍勢を追ひかへす。

最後の敵をわれ討ちしブープラシオス其地より

アカイア軍は其馬をピュロスにかへし神の中 760

特にヂュウスを讃美しぬ、人の中にはネスト,ルを。

670 670 以下 761 に到る迄ネストールの青年時代の囘顧エーリス(住民エーレーオイ、其古名はエペーオイ)はペロポンネソスの中にあり、其北部にエペーオイ住み其南部にアカイア族住みてネストールの領土たり

此一段は後世の添加なるべしと或評家は曰ふ。

673 イチュモニュウスの佛蘭士訓み。

690 ヘーラクレースはグリースの國民的英雄に非ず、ホメーロス中には西部グリースの不法なる壓制者として記さる、V 404 參照。

709 XXIII 638.

712 トリュオェッサ一名トリオン。(II 592)

723 II 591

752 ポセードーン(XIII 207)此神は一般に勇士の父として現はる。

756 アカイアに隣る。(II 615)

756 II 617.

斯くその昔戰場にわれはすぐれき、しかれども

ただアキリュウス剛勇のほまれを獨り今に受く。

見よわが族の亡ぶ時彼は哀悼切ならむ。

ああ友、君をそのむかしプチーエーより總帥の 765

アガメムノーンに送るときメノイチオスは警めき、

われ諸共にオヂュシュウス、その時共に室にゐて、

彼が汝を警しめしその一切を耳にしき。

彼の巨館にペーリュウス、豐沃の郷アカイアの

四方より客を呼びしかば、われら二人も共なりき。 770

その時汝亦ありき、メノイチオス又アキリュウス、

同じくありき、ペーリュウス戰車を御する老將は、

庭の中にて牛の股肥えたる肉を雷霆の

ヂュウスのために燒き炙り、手に黄金の盃を

取りて、きらめく芳醇を火焔の上にふり蒔きき。 775

その時肉を汝らは調理し立てり。而うして

我ら戸口に近寄るを見て驚けるアキリュウス、

進み來りて手を取りて内に導き坐を備へ、

客をもてなす諸の美味をわが前据えたりき。

而して食に飮料に口腹おのおの飽ける時、 780

我まづ先に口開き共に從軍勸むれば

汝二人は喜べり、二翁も警告切なりき。

即ち老いしペーリュウス、常に勝れよ、他のものに

劣る勿れと慇懃にアキルリュウスを警めき。

また、アクトール生める息メノイチオスは警めて、 785

汝に曰へり『ああわが兒、アキルリュウスは汝より

素生は高し、年齡は汝優れり、勇は彼、

汝よろしく智慧の言陳じて彼を諫むべし、

又命ずべし、其言に從ひ彼は益を得む』

老翁かくは教へしを汝は之を忘れたり。 790

されど今なほ剛勇のアキルリュウスに陳じ見よ。

誰か知るべき神明の助によりて彼の意を

汝動かし能はずと。友の忠言つねに善し。

彼もしとある神託を恐れ避くるか、あるは又、

ヂュウスの言を彼の母彼に傳へしことあらば、 795

なほ少くも汝をば彼送れかし、而うして

ミュルミドネスともろともに、恐らく汝アカイアの

光明たらむ、更に又、彼其華麗の軍裝を

貸して汝を戰場に立たしめよかし、トロイアの

軍勢彼と誤りて戰やめん、アカイアの 800

疲れし諸勇士くつろがむ、戰鬪しばし隙あらむ。

あるは新手の汝らは、わが陣營と水師より、

疲れし敵を容易くも彼の都城に攘ひ得む』

769 IX 252.

しかく陳じてネストール、パトロクロスを動かせば、

水陣過ぎて走り出で、アキルリュウスの許かへる。 805

かくして智謀神に似るオヂュシュウスの船のそば、

パトロクロスは馳せ來る、そこに彼らの集會あり、

審判の席またありて諸神の壇も設けらる。

そこに鋭き矢を股に受けて跛足をひきつゝも、

戰場よりし逃れ來しユウリピロスは彼に逢ふ、 810

ユウアイモーンの勇武の子、肩と頭は淋漓たる

汗にまみれつ、いたはしき疵口よりはだくだくと、

黒き血潮の流るれど勇氣は未だ衰へず。

メノイチオスの勇武の子、之を眺めて憐憫に

堪へず、呻きて翼ある言句を彼に陳じいふ、 815

『ああ無慚なり、アカイアの諸王並に諸將軍、

友を郷土を離れ來てこゝトロイアの空の下、

汝ら白き脂肪もて野犬の口を飽かしめむ、

神の養ふ英豪のユウリュピュロスよわれにいへ、

アカイア軍は畏るべき將ヘクトール支ふるや? 820

或は彼の槍の下皆悉く亡びんや?』

矢疵に惱む豪勇のユウリュピュロスは答へ曰ふ、

『パートロクロス、神の裔、アカイア軍は今既に

防禦の術なし、黒船をさして退き逃るべし、

先きに至剛の譽得し諸將こぞりて、トロイアの 825

鋭き槍に矢に打たれ、皆船中に横はり

起たず、而して敵軍の勇はます/\激しかり。

さはれ乞ふ、今黒舟の中に導き我救へ、

股を穿てる矢を拔きて湯をもて黒き血を拭へ、

而して疵に有效の善き軟膏を塗れかし、 830

ケントール中すぐれたるケーローンよりし學び得て、

汝に先にアキリュウス傳へしものと人はいふ。

ポダレーリオス、マカオーン二人の醫師の中一人、

思ふに彼は疵うけて其陣中に横はり、

其身自らすぐれたる醫師を求めて惱むべく、 835

他は原上に戰ひてトロイア軍を支ふべし』

823 パートロクロス及びパトロクロス兩樣に發音せらる。

831 カイローンはアキリュウスを教ふ。(IV 219)

メノイチオスの勇武の子即ち答へて彼にいふ、

『此事いかに成り行かん? われら何をか今なさむ?

アカイア軍の護たるゲレーニャ騎將ネストール、

下せる令を剛勇のアキルリュウスに傳ふべく 840

われ途にあり、然れども惱める汝を棄ておかじ』

しかく陳じて頭領を胸に抱きて、陣中に

運び來れば、其從者認めて牛の皮を敷く。

其皮の上、横にして、劔を拔きて鋭き矢

股より斷ちて、流れづる黒き血潮をあつき湯に 845

拭ひつ、やがて其上に苦き草根、くるしみを

留むるものを施せば、ユウリュピュロスの一切の

苦惱は去りぬ、疵口は乾きぬ、血潮とどまりぬ。

第十二歌

アカイア軍の壘壁後年に到りて破滅すること。 アカイア軍退却。 プウリダマスの言を納れ、ヘクトール騎兵を車上より降らしめ、五隊に分れて徒歩にて進撃す。 アシオス其隊を率ゐて左門に向ふ――二勇將之を守る。 凶鳥トロイア軍に現はる。 プウリダマス之を見てヘクトールを諫むれども聽かず。 アカイア軍に向つて大神暴風を起す。 ヘクトール壁を襲ふ。 二人アイアース衆を勵す。 トロイアの援軍サルペードン及びグローコス進撃。 テラモーンの諸子之を防ぐ。 グローコス負傷して退く。 サルペードーン胸壁を破る――ヘクトール大石を投じ門を破る――トロイア軍の侵入。

メノイチオスの勇武の子、かく陣營の中にして、

ユウリュピュロスの矢の疵をいたはる。――かなたトロイアと

アカイア二軍戰鬪をつづく、はたまた塹濠と

其上高き壘壁はアカイア勢を末長く

守るに耐へず――壘壁は高くも立ちて其めぐり、 5

塹濠廣く※らして中に多くの輕舟と

夥多の戰利安らかに保たんために築かれき。

されど不滅の神明に犧牲捧ぐること無くて、

神意にそむき營まれ、永く榮えんよしあらず。

アキルリュウスの憤激と將ヘクト,ルの生命の 10

續ける限り――プリアモス王の都城の破られず、

立ちたる限り――アカイアの巨大の壘は堅かりき。

されど其後トロイアの勇將すべて死せる時、

又アルゴスの諸將軍あるは殺されあるは生き、

第十年にイリオンの堅城遂に陷りて、 15

アカイア軍勢船に乘り故郷に歸り去れる時、

ポセードーンとアポローン共に壘壁崩すべく、

高きイデーを降り來て大海そそぐ諸川流、

カレーソス又レーソスと、ヘプタポロスとロヂオスと、

グレーニコスと神聖のアィセーポスとシモエース、 20

スカマンダロスもろ/\の川の威力を打ちつくる

――其岸のうへ牛皮張る多くの盾と兜とは

半ば神なる英雄の群もろともに地に伏しぬ――

此らの川を向かへて神ポイボス・アポローン、

九日續きて壘壁に注げば、更にクロニオーン、 25

疾く大海に流すべく絶えず豪雨を降らしむ。

更に地を震るポセードーン三叉の鋒を手にとりて、

眞先に進み、アカイアの軍勢堅く据えたりし

その木石の根底を、波浪に流し壘壁を

拂へる後に、澎湃のヘレースポントス大波の 30

岸悉く平げてまた一面の沙としつ、

かくて再びもろ/\の川をその前美しく、

流れ馴れたる川床に再び戻り歸らしむ。

ポセードーンとアポローン後の日かくぞ振舞へる。

今は戰爭叫喚の狂ひは壁をとりかこみ、 35

うたれて塔のもろ/\の棟木は高く鳴りわたる。

クロニオーンの鞭により打たるるアカイア軍勢は、

その輕舟の傍に追はれ來りてすくだまり、

はげしき畏怖の基たる將ヘクト,ルに向ひ得ず、

そのヘクトール今も亦颶風の如く荒れ狂ふ。 40

譬へば獅子王あるは野猪勇に誇りて一群の

狩人及び狩犬を前に其身を囘らせば、

衆はさながら壁のごと隊を組みつゝ相向ひ、

はげしく早く手中より投槍飛ばす、然れども

野獸の心猛くして畏れず怯ぢず、荒れ狂ひ、 45

(其勇遂に生命を亡ぼす本となりぬべし)

かくて屡※身を轉じ隊の勇氣を試みて、

奮ひ躍りて入るところ、衆は恐れてあとしざる。

かくヘクトール隊中を進み乍らに同僚を

勵まし敵の塹濠を渡り行くべく説き勸む。 50

されども彼の脚早き駿馬空しく岸の上、

其外端に立ち留り、ただ高らかに嘶きて

廣き塹濠恐れつゝ敢て進まず、一躍に

其濠越すを得べからず、渡ることまた易からず、

濠の兩側懸崖は迫るが如く聳え立ち、 55

上にアカイア軍勢の植えし鋭き杙繁く、

叢がりたちて敵人の侵入いたく拒ぐめり。

車輪を牽ける馬にして容易く越んものあらず、

されども徒歩の軍勢は勇みてこれを遂げんとす。

8 彼らは神に犧牲を捧ぐることを怠る。(VII 750)

23 「半ば神なる英雄」此句はホメーロス中唯こゝにのみ、後代に至りて廣く用ゐらる、以上の理由により此らの段は後世の添加なりと主張する評家あり。

その時猛きヘクト,ルにプーリダマスは陳じ曰ふ、 60

『ヘクト,ル及びトロイアの諸豪並に諸將軍、

駿足驅りて此濠を越えんとするは愚かなり、

濠を越すこと易からず、鋭き杙は其中に、

植えられ、しかもアカイアの壘壁すぐに聳えたつ、

騎兵たるもの降り行き戰ふ事を得べからず、 65

處は狹し、恐くは害受くること多からむ。

高きにゐます轟雷のクロニーオーン憤ほり、

わが仇斃しトロイアの軍に助を心せば、

アカイア勢はアルゴスの故郷はなれて譽なく

こゝに亡びむ、其事の早くも成るをわれ願ふ、 70

されども彼ら盛り返し、我ら船より攘はれて、

彼の穿ちし塹濠の中に陷ることあらば、

再び振ふアカイアの軍を逃れて、わが城に

のがれ敗報傳ふべき一人もなきをわれ恐る。

いざ今われの忠言を衆ことごとくうけ入れよ。 75

從者に命じわが馬を濠のほとりに留めしめ、

我らは徒歩に軍裝を整へ、共にヘクト,ルの

あと一齊に追ひ行かむ、破滅の絆アカイアの

軍勢纒ひ附くべくば我に抗ふこと無けむ』

プウリダマスの陳べし言、贊しうべなふヘクトール、 80

直ちに戰車とびおりて武裝整へ地に立てり。

その時外のトロイアの軍勢猛きヘクト,ルを

眺め同じくためらはず戰車を棄てゝおりたてり、

かくておのおの其御者に命じ、順よく塹濠の

ほとりに馬を駐めしめ、衆人即ち相わかれ、 85

更に五隊に軍勢をとゝのへ、かくて堂々と

進みおのおの命令を下す武將のあとにつく。

ヘクト,ル及び豪勇のプウリダマスの率ゐたる

第一隊は兵の數最も多く勇すぐれ、

壘壁破り船の前戰ふ念も他に優る。 90

ケブリオネース第三の將たり、ケブリオネースより

劣れるものをヘクトール戰車に沿ふて留らしむ。

パリス並にアルカトス、アゲーノールは第二隊、

第三隊はプリアモス王の生みたる双生兒、

デーイポボスとヘレノスに並び將たりアーシオス、 95

(フュルタキデース・アーシオス、セルレーイスの流より

アリスベーより鳶色の駿馬に乘りて來るもの)

アンキーセス生むところ、アイナイアース第四隊、

率ゐつ、共に將たるはアンテーノルの二人の子、

アルケロコスとアカマース、共に戰術すぐれたり。 100

最後の隊はほまれある援軍、之を率ゐるは

サルペードーン、侶として、アステロパイオス、グローコス、

撰べり、二將彼に次ぎ勇武もつとも優れりと

其眼に映る、然れども主將すべてにいや優る。

かくて衆隊一齊に牛皮を張れる盾用ゐ、 105

身を守り、急ぎアカイアの軍勢めがけ奮ひ行き、

心に思ふ、敵軍は支へず船に逃ぐべしと。

91 ヘクトールの御者 VIII 318, XI 522.

93 アイシュエテースの子、ヒポダメーアの夫。(XIII 427)

93 アゲーノールはアンテーノールの子。(IV 467, XI 59)

95 デーイホボス勇將の一人。(XIII 156)ヘレノスは VI 76.

96 アシオス及びアリスベーは II 836.

100 アルケロコスとアカマース。II 823.

102 XXI 140.

他のトロイアの軍勢と譽とどろく援軍は、

常に過失を犯さざるプーリダマスの言を納る。

フュルタキデース・アーシオス、一の部隊を率ゐたる 110

彼ただ獨り其戰馬並に御者を濠のそば、

殘すことなく一齊に率ゐて敵の舟せまる。

愚なるかな凶運を逃れて敵の舟よりし、

風凄じきイーリオン都城をさして揚々と、

戰車戰馬を引きかへす譽得べきに非りき、 115

その事あるに先だちてヂュウカリオーンのすぐれし子、

イドメニュウスの槍により彼は非命に斃れたり。

(事の始末をたづぬれば)アカイア勢が平野より、

戰馬戰車を引きかへす水師の左翼めあてとし、

彼の戰馬と戰車驅り進みて敵の陣門に、 120

到れば長き閂は引かれず、其戸閉されず、

戰場よりし舟めがけ逃れ來らん同僚を、

救はんために陣門は廣く開きて殘されぬ。

そこに勇みて馬を驅る、衆も叫喚物すごく、

之に續きて攻め寄せて、思ふアカイア軍勢は 125

留り支ふるを得ず、水陣さして退くべしと。

愚かなるかな、門の前、見ずや佇立む二勇士を、

ラピタイ族の槍使ふ英豪の子ら、その一は

ペーリトースの生める息、ポリポエテース、他の者は

レオンチュウスの名を呼びて殺戮好むアレースに 130

比すべし。二人高らかの門の戸口にすくとたつ、

譬へば樹梢高らかに空に冲りて山上に、

屹然として聳え立ち、おほいなる根を廣く張り、

日々に雄々しく雨風を凌ぐ大※見る如し、

かくて二人は其腕と勇氣を頼み、押し寄する 135

敵アーシオス待ち受けて一歩もあとに退かず。

敵は牛皮を張りし楯高くかざして堅牢の

壘壁めがけ叫喚の聲かしましく攻め來る。

率ゐるものはアーシオス、イアメノス又オレステス、

アーシオスの子アーダマス、トオーン並にオイノモス。 140

こなた二將はそのはじめ壘壁の中聲あげて、

舟防ぐべく堅甲のアカイア軍勢勵ましき。

されどトロイア軍勢がこゝに向ひて殺倒し、

身方の勢は叫喚を發し逃げんとするを見て、

二將即ち出で來り陣門の前戰へり。 145

二頭の野猪が山の中荒れて狩人狩犬の

群、奮然と襲へるに抗し左右より向ひ來て、

あたりの樹木推し倒し根もとよりして打碎き、

牙噛み鳴し狂ひつゝ、遂には群の一人の

放つ矢玉に斃されて其生命を失へる―― 150

正にその如、兩將の光る胸甲敵人の

打撃を受けてひびくまで、味方の勢の壁上に

立つを、はた又わが力猛きをたのみ戰へり。

身の生命と陣營と舟とを守り防ぐため、

アカイア軍は壁の上其堅牢の塔により、 155

石投げ落す。譬ふれば暗澹として凄き雲、

雲を驅り行きあらぶ風、風の激しく吹きまくる

雪は粉々舞ひ降り、大地の上にふるごとし。

かくしてかなたアカイアの、こなたトロイア軍勢の

手より投ぜる飛道具、巨大の石の降り來て、 160

激しく打てば兜鳴り隆起の高き盾ひびく。

ヒュルタキデース・アーシオスその時うめき、双の股

激しく打ちて憤然と聲はりあげて叫びいふ、

『天父ヂュウスよ、君も亦忌むべき虚僞をかくばかり

好むものかな、わが威力、わが堅剛の手に向ひ、 165

アカイア勢のかくばかり堪へ防ぐを思ひきや?

嶮しき路に巣を造る、體しなやかの熊蜂か、

あるは蜜蜂いそがしく獵りする群に奮然と、

抗して常に過らず、その子を守り禦ぐため、

其宿めぐり紛々と亂れ翔るを見る如し。 170

僅か二人に過ぎざれど、討つか、あるひは討たるゝか、

最後の時の到る迄彼等陣門たち去らず』

117 XIII 384.

129 I 163 II 741.

129 II 740.

130 II 745.

139 イアメノスとオレステスとは後レオンチュウスに殺さる。

(193)オイノモスは V 706 のと別人。トオーンと同名者二人あり。V 152, XI 422.

アーダマスは XIII 560 に又現はる。

164 ヂュウスを人間が咎むること III 164.

しか叫べどもクロニオーン其神意をば動かさず、

彼の光榮授くるはただヘクトール一人のみ。

他衆同じく他の門のほとりに立ちて戰へり、 175

我もし神の身なりとも此らすべてを述べ難し、

見よ石造の壁に沿ひ、いたるところに猛火燃ゆ、

苦み乍らアカイアの軍はやむなく其舟を

禦ぐ、而してアカイアを其の戰鬪の場の上、

助くることを念じたる諸神ひとしく悲めり。 180

しかして奮戰力鬪にラピタイ二將努めたり。

パイリトオスの生める息ポリポエテース勇奮ひ、

槍を飛ばしてダーマソス着る青銅の兜うつ、

兜は槍を防ぎ得ず鋭き穗先突き入りて、

彼の頭骨つんざけば腦膸うちに飛び散りぬ、 185

勇にはやりしダーマソスかくて無慘に亡び去り、

ピュローン並にオルメノス同じく次いで斃れたり。

レオンチュウスはアレースに似たる勇將、槍飛ばし

アンチマコスの生める息ヒッポマコスを射て斃し、

更に鞘より鋭利なる劔を燦と拔き放ち、 190

群がる敵を通り越し、アンチパテ,スにまつさきに、

近づき寄りて討とめてどうと地上に切り倒す。

續きてメノーン、イアメノス、オレステースを順々に

レオンチュウスは勇を皷し大地の上に切り倒す。

而して彼ら身につけし耀く武具を剥ぎとれる、 195

其間にかなたヘクト,ルとプーリダモスに續きたる――

トロイア壯士、其數も最も多く、其勇氣

最もすぐれ、壘壁を破りて船を焚かんずる

思念最も強きもの、濠のへ立ちてためらへり。

故は塹濠渡るべく念ぜる時に忽然と、 200

高く空飛ぶ荒鷲は陣の左方を掠め來つ、

爪に血紅のおほいなる蛇をつかめり、其蛇は

なほ活き、もがき、抵抗を棄てず忘れず、身をかへし、

捕へる鷲の頸のそばはげしく胸に噛みつけば、

猛鳥さすが苦みに堪へず獲物を打すてゝ 205

大地の上に、軍隊のむらがる中にふりおとし、

聲高らかに鳴き叫び嵐に駕して飛び去りぬ。

トロイア勢は足許にもがく蛇見てアイギスを

持てるヂュウスの徴とし畏怖にうたれて立ちとまる。

187 188 ダーマソスとピュローンは前後に無し、VIII 274 に他のオルメノスあり。

191 193 アンチパテースとメノーン他に見えず。

201 左方に現はるるを凶兆とす。(II 353)

その時勇武のヘクト,ルにプーリダマスはよりて曰ふ、 210

『ああヘクトール、集會の席に忠言吐く我を

汝はつねに責め叱る、げに民衆のとある者、

評議或は軍略に汝に反し述ぶること、

ふさはしからず、須らく汝の威力加ふべく

勉むべからむ。然れども今最善の策述べん。 215

進みアカイア軍勢と船を爭ふこと勿れ、

トロイア軍勢この濠を越すべく念じたりし時、

此鳥來る、之により思ふに結果かくあらむ。

高く空とぶ荒鷲は軍の左方を掠め來ぬ、

爪に攫むは巨大なる血紅色の凄き蛇、 220

なほ生けるもの、然れども巣に到る前、地に落し、

携へ歸り※鳥に與ふる望空しかり。

かくの如くにアカイアの陣門並に壘壁を、

力をこめて打ち碎き、敵をはげしく破るとも、

同じき道を整然と舟より歸り得べからず。 225

多數の味方後なるを、アカイア勢は水軍の

防禦の爲めに、青銅の刄を以て殺すべし。

神の徴を聰明の心の中によく悟り、

占ふものは斯く釋かむ、衆は其耳傾けむ』

堅甲光るヘクトール、彼を睨みて叱りいふ、 230

『プーリダマスよ、汝いふ言はわが耳喜ばず。

これより優る善き言句、汝は述ぶる術知らん。

されども汝、心よりかゝる言説吐くとせば、

正しく天の神明は汝の智慧を亡せり。

汝はわれに轟雷のクロニーオーン約したる、 235

しかもうなづき、うべなひし教示を忘れしめんとし、

而して翼おほいなる鳥に服從せよといふ。

そを我敢て省みず、つゆ念頭に掛くるなし、

右方に飛びて曙と光輪めがけ翔るとも、

左方に向きて暗澹の夜の領へと進むとも、 240

何かはあらむ、我は只人間並に神明の

王たる高きクロニオーン降す警め守るべし。

祖國のための戰は、正に無上の善き徴、

何故汝戰と爭鬪、切に恐るるや?

我ら他の勢悉くアルゴス軍の舟※り、 245

討死すとも、汝のみ死すべき恐怖あらざらむ、

汝の心、戰に剛健ならず勇ならず、

されども戰地はなるゝか、あるは他人を言句もて、

誘ひ戰避けしめば、許さぬわれの長槍は、

鋭く討ちて忽ちに汝の命を絶やすべし』 250

210 II.

243 此名句は古人の賞嘆する處、アリストテレスの修辭學十一章、二十一章、プルタルコスのピルロス傳二十九章‥‥に引用。Vossの譯“Ein Wahrzeichen nurgilt, das Vaterland zu erretten“

しかく陳じて先頭に進めば、衆は囂々と

叫喚あげて後を追ふ、その時ヂュウス・クロニオーン、

イデーの山の高きより颶風一陣吹き送り、

船をめがけて眞向に沙塵を飛ばし、アカイアの

軍を惱まし、ヘクト,ルとトロイア軍のほまれ増す。 255

神の徴とわが威力信じて頼むトローエス、

アカイア勢の壘壁を勇み進んで碎かんず、

即ち塔の笠石を崩し、胸壁押し倒し、

アカイア軍がそのはじめ塔の固めに地の中に、

据えし支への巨材をば槓杆用ひこぢ扛げて、 260

はづしてかくてアカイアの壘壁碎きおほせんず。

されどアカイア軍勢は其場を絶えて立ちのかず、

牛皮〔の楯〕に胸壁を飽く迄堅く防禦しつ、

壁に向ひて寄せ來る敵にはげしく石を投ぐ。

256 トロイア人(トロース)の複數。

258 原語『カロッサイ』明かならず。

263 原語は單に『牛皮を以て』或は盾ならず牛皮を以て破隙を被はんとするか? されど盾を單に牛皮と呼ぶこと稀ならず。

こゝに二人のアイアース塔に沿ひつゝ令下し、 265

至る所にアカイアの軍の力を振はしめ、

畏怖し全く戰場を退くものを見る時は、

あるは温言あるは又叱※によりて誡むる、

『わが戰友よ、アカイアの中に拔んじ出づる者、

或は力、中等の者、又劣る者、 270

(戰の場に萬人は皆平等に造られず)

いづれのものも悉く其任あるを汝知る、

威嚇の聲を聞かむもの誰しも船に逃るゝな、

進め、進みて各は友を勵ませ、クロニオーン

空に電光飛ばすもの、敵の攻撃打ち拂ひ、 275

之を都城にかへすべく恩寵賜ふことあらむ』

しかく叫んで兩將はアカイア軍勢振はしむ。

石は今降る、譬ふれば雪の大地にふる如し、

そは思慮深きクロニオーン玄冬の日に白雪を、

恰も彼の矢の如く風をしづめて紛々と、 280

人間の世に降すとき、高き山々高き崎、

草生ふ平野、農人の畑一齊に掩ふ時、

又大海の岸の上、港の上に下す時、

かくして獨り波浪のみ、其上襲ひ來る雪を

溶かして影を隱す時、――クロニオーンの手よりして 285

天地一つに包む迄、斯く降り來る雪のごと――

敵と身方の兩陣は互に石を投げかはし、

トロイア軍はアカイアに、アカイア軍はトロイアに、

投げて飛ばして壘壁の※り喧囂おびただし。

その時ヂュウス其愛兒サルペードーンをアカイアの 290

軍にさながら牧牛の中に獅子王荒るるごと、

向はすことのなかりせば、トロイア軍とヘクトール、

敵の陣門また巨材破り碎くは不可ならむ。

見よ、勇將の振りかざす圓き大楯いみじきを、

鍛錬なせる青銅の華麗の楯は、良工の 295

造りしところ、圓面のめぐりを走る黄金の

條に牛皮の幾層を縫ひて堅めてなりしもの、

此楯前に捧げもち更に二條の槍振ひ、

サルペードーンは深山に永く飢えたる獅子の如、

奮ひ進めり――其獅子は猛き心に促され、 300

守り堅固の羊欄を襲ひて家畜屠るべく、

進み侵して、其場に槍を具したる牧人と、

番する犬と諸共に群を守るを見出すも、

一の試なさずして場を逐はるゝを肯んぜず、

跳りかゝりて一頭を噛むか、或は牧人の 305

すばやき手より飛ばさるる槍にうたれて斃るべし。

かく敵營を襲ひ討ち其胸壁を崩すべく、

サルペードーンの勇猛の心は彼を促して、

ヒポロコスの子グローコス友を勵まし叫びいふ、

『ああ、グローコスいかなれば我ら二人はリキエーに、 310

衆に優れる席順とまた食膳と芳醇を

受くるや? 衆は何故に神の如くに崇むるや?

更に我らはクサントス、流れに沿ひてうるはしき、

果樹の畑又麥の畑、廣き莊園領と爲す。

さらばリキエー軍勢の先鋒中に身を置きて、 315

燃ゆるが如き戰鬪に面することぞふさはしき、

さらば胸甲纒ひたるリキエー人は斯く曰はむ――

『肥えたる羊、食となし、蜜の如くに甘美なる

酒傾けて、リキエーに臨む我らの諸統領、

げにも卑しき者ならず、見よ、勇力もまた優り、 320

リキエー軍の先鋒に立ちてかく迄戰ふを』

ああ友、今し亂鬪の此現場を免れて、

とこしへ常に不老の身、不滅の者となるべくば、

我は再び先鋒の間に戰ふことなけむ、

譽を得べき戰場に君を進むることなけむ。 325

さあれ死滅の運命は無數、われを取り圍む、

いかなる者も是を避け、是を逃るを得べからず。

さはいざ行かむ、光榮を他に與ふるもわれ取るも』

322 是亦古人の賞嘆の句、Demosthenes の王冠論二十八章、Cicero のフィリピックス十ノ十、Virgilius の Aeneis X 467 ‥‥に引用さる。

しか陳ずればグローコス、背かず絶えて側向かず、

共にリキエー大部隊率ゐて猛に攻めかゝる。 330

破滅を來す敵將のおのが持ち場に攻め寄るを、

ペテオースより生れたるメネスチュウスは見て震ひ、

畏れ、アカイア軍勢の塔を見※し、將軍の

一人友の災を防ぎ救ふを乞ひ求む。

やがて二人のアイアース戰志倦まざるもの認む、 335

新に陣を出で來るチュウクロス亦そば近し。

されど大聲發するも彼らの耳に入り難し、

喧囂最も甚だし、打たるゝ盾と兜との、

ひびき、はた又關門をうつ音、高く天に入る。

そは閉されし關門を圍みて前に立てるもの、 340

勇を振ひて打ち破り内に入らんとするが故。

直ちに彼は使者としてトーオテースを走らしむ、

『トーオテースよ、疾く走り、行きてアイアス呼び來れ、

或はむしろ、兩將を、――さらば最も可なるべし、

今速に此場に凄き壞滅起らんず。 345

過ぎしこのかた恐るべき鬪爭中に、其威力

猛きリキエー二將軍、こゝに向ひて迫り來る。

されどかなたも戰鬪の勞に衆人かゝはらば、

せめてもひとりテラモーン生める豪雄アイアース

來れ、而してチュウクロス、弓の名將彼に嗣げ。』 350

332 II 552.

333 壁全部を曰ふ。

336 ヘクトールに傷けられて陣に退く。VIII 334.

しか陳ずるを聞ける使者、命に少しも忤らず、

走り、青銅身に鎧ふアカイア軍の壁めがけ、

行きアイアース立てるそば近づき寄りて叫び曰ふ、

『青銅鎧ふアカイアの將軍、二人アイアース、

聞け、ペテオース生める息、メネスチュウスは乞ひ求む、 355

かなたに行きて戰鬪に、しばしなりとも面せよと。

叶はば二人もろともに――さらば最も可なるべし、

今速にかの場に凄き壞滅起らんず、

過ぎしこのかた恐るべき鬪爭中に、その威力

猛きリキエー二將軍かなたに向ひ迫り來る、 360

されど、こゝにも戰鬪の勞に衆人かゝはらば、

せめても獨りテラモーン生める豪雄アイアース

行け、而うしてチュウクロス、弓の名將彼に嗣げ』

しか陳ずれば大いなるテラモニデース・アイアース

うべなひ、すぐにオイリュウス生める子息に叫び言ふ、 365

『汝、並に力あるリコメーデースこゝにたち、

奮つて敵に向ふべく、アカイア軍を戒めよ、

我はかなたに進み行き其戰局に面すべし。

而して援助はつる後、疾くこの場に歸り來ん』

366 IX 84.

然く陳じて進み行くテラモニデース・アイアース、 370

父は同じき弟のチュウクロスまた共に行く、

其曲弓を携へてまたパンヂオーン共に行き、

壘壁の中通り過ぎメネスチュウスの守る塔、

――形勢正に迫りたる部隊に到り眺むれば、

敵はさながら暗澹の颶風の如く胸壁を 375

登りつゝあり、勇猛のリキエー主領諸將軍、

かくて戰鬪、相亂れ叫喚はげしく湧き起る。

372 前後に此名なし。

テラモニデース・アイアースまさきに打ちて斃せしは、

サルペードーン伴へる、名はエピクレース、強き武者、

壘の中にて胸壁の眞上にありし鋸齒状の、 380

巨大の岩を振り飛ばし斃せり、岩は人間の

誰しも双の腕もて(盛りの年の勇あるも)

支ふることを得ざるもの、そを高らかに持ち上げて、

投げ飛ばしたるアイアース、四つの角ある兜討ち、

エピクレースの頭骨を碎けば、彼は潜水者 385

見るが如くに、壘壁の上より落ちて息絶えぬ。

高き壁上矢を飛ばしヒポロコスの子グローコス、

進み來るを露なる腕に射あてしチュウクロス、

斯くして彼の戰鬪の力碎けば、悄然と

私かに壁を飛び降る、アカイア軍のとあるもの 390

其射られしを認め得て高言吐くを拒ぐため。

かくグローコス退くを悟るや否や悲は

サルペードーンを襲ひ來る、されども絶えて戰を

忘れず槍の一突きに、テストールの生める息、

アルクマオーンを貫きつ、手繰れば槍に引かれ來て、 395

敵はうつぶし青銅のきららの鎧高鳴りぬ。

サルペードーン更に又その剛強の腕のして、

胸壁つかみ、もみ碎き引けば壘壁土崩れ

上部あらはに露出して侵し入るべき口開く。

その時彼にアイアース、またチュウクロス一齊に、 400

向ひ來りて敵將の胸を蓋へる大楯の、

耀く紐に矢を射あつ、されどもヂュウスその愛兒

水師のほとり斃るるを惜み、彼より凶命を

そらしむ、つぎてアイアース躍りかゝりて盾を突く、

突きて穗先は入らねども、勇める彼をよろめかす。 405

かくして彼は胸壁を前に少しくあとしざる、

されど、またくは退かず、なほ光榮に望かけ、

身をひるがへし勇猛のリキエー軍に叫び曰ふ、

379 他に此名現はれず。

『リキエー軍よ、いかなれば汝の勇は弛めるや?

我はかばかり勇なるも、唯身一つにいかにして、 410

壘を破りてアカイアの水師に到る路あけむ?

いざ立て、われにつき來れ、人多かれば功優る』。

リキエー軍は其言を聞きて呵責に怖ぢ畏れ、

嚴命下す王の身を※ります/\迫り行く。

之に向ひてアカイアの軍はこなたに壘中に 415

其隊勢を増し加ふ、大事は起る目の前に。

かくてリキエー軍勢はアカイア軍の壘破り、

其水陣に進むべき道を開くを得べからず、

又槍揮ふアカイアの勢は一たび迫り來し

リキエー軍を壘の外追ひ攘ふこと得べからず、 420

界を示す石のそば測りの竿を携へて、

その共同の地所に立ち、勤め爭ひ狹隘の

區域にありて彼と此、おの/\分を獲んとする

其樣斯くか、兩軍は壘をおの/\相分ち、

其壘の上戰ひて、互の胸に牛皮張る 425

盾を、小盾を、圓形の巨大の盾を、打ちつくる。

斯くて戰鬪相つづき、無慘の刄或者の

うしろを見せて退ける露出の背を傷けつ、

或は盾を貫きてまともに敵の肢體討ち、

胸壁、並に塔の上到るところにトロイアと 430

アカイア軍の双方の流す紅血ものすごし。

かくてアカイア軍勢を追ひ退くることを得ず、

そを譬ふれば細心の女性が左右の皿の上、

分銅及び羊毛をのせて衡を均くし、

之を績ぎて子らのため些少の賃を得る如し、 435

かく戰へる兩軍の勢力正に相等し。

やがて勝利の光榮をクロニーオーン、ヘクト,ルに――

プリアモス王生める子に――與へて壘を眞先に

越えしむ、彼は高らかにトロイア軍に叫びいふ、

『馬術たくみのトロイアのわが軍勢よ、いざ進め、 440

アカイア軍の壘破れ、舟を猛火に焚き拂へ』

しかく陳じて勵ませば衆軍これを耳にして、

猛然として壘めがけ一團なして迫り行き、

鋭き槍を手にとりて壘上高く馳け上る。

その時下部は厚くして上部は尖る石一つ、 445

城門のまへ横はる、そをヘクトール抱き上ぐ

今ある如き人間の力、最も強きもの、

二人合して地上より槓杆用ゐ車の上

容易くこれが乘せがたし、されどヘクト,ル唯ひとり、

クロニオーンの助けよりこを輕々と抱き上ぐ。 450

譬へばとある牧羊者やすく羊毛一房を

片手に取りて其重み些の煩をなさぬ如、

かくヘクトール大石を抱きおこして腕にとり、

嚴重堅固の備ある其關門の戸の前に

搬び來りぬ、關門は二重の扉高く張り、 455

二條の横木、一條の閂、内にこを固む、

その前迫り立ち停り、投げの威力を増すがため、

しかと兩脚踏み張りて、まともに巨石投げ飛ばし、

門を堅むる※番左右二つを碎き去る、

石はおのれの重みにて内に落ち入り關門は 460

高鳴り横木支え得ず、石に打たれて堅剛の

扉左右に飛び散りぬ、かくて勇めるヘクトール、

面は俄かの夜の如く、その黄銅の裝は

燦爛として、其手には二條の槍を携へて、

躍り進みて内に入る、神を除きて何人も彼に 465

手向ふことを得ず、其眼光は火の如く、

衆軍中に振り向きて壘を越すべくトロイアの

諸軍に高く呼はれば、彼の指令を衆は聽き、

其あるものは壁を越し、他のあるものは堅牢の

門を潜りて流れ入る、アカイア勢は支へ得ず、 470

水陣さし逃げて走り喧囂絶えず湧き起る。

463 I 46.

第十三歌

舟のほとりの戰。 ポセードーンはアカイア軍の敗亡を憐み、行きて其陣中に現はれ、カルハースの姿を借りて衆軍を勵ます。 双雄アイアース勇を奮つてヘクトールを退く。 其他諸將の奮戰。 左陣に於てイドメニュウス、メーリオネース、アーンチロコス、メネラオスらはアイネアス、デーイポボス、ヘレノス、パリスと戰ふ。 プーリダマスの忠言により、ヘクトールは諸將を集めて一齊に追撃す。 戰益※激し。

トロイア軍とヘクト,ルをアカイア軍の船のそば、

導き來るクロニオーン、絶へず努力と艱難を

彼らに課しつ、自らは其爛々の二つの眼、

囘してあなたトレーケー、馬の産地と接戰の

ミユーソイ族とすぐれたるヒペーモルゴイ住める郷、 5

馬乳飮む者、更にまた正しき義民アビオイの

國々遠く見渡して、またくトロイア顧みず、

心に想ふ、神明の中のいづれもトロイアに

又アカイアに應援の爲めに行くものあるまじと。

2 イデー山上に座して。(XI 183―)

8 VIII 7. IX 73.

大地を震ふポセードーンされど看守を過らず、 10

サーモス・トレーイキエーの緑埋むる高き嶺、

其頂に坐せる神、驚き乍ら戰爭と

苦鬪を眺む、其場よりイデー並にイリオンの

都城並にアカイアの船望むべし、大海を

出で來る神かく坐して、トロイア軍に破らるる 15

アカイア軍を憐みて、痛くヂュウスにいきどほる。

11 エーギア海中の島。

直ちに彼は高峻の山より降り、其脚を

急に運べば、欝蒼の森も聳ゆる山々も、

ポセードーンの大いなる不滅の脚の下に震る。

三たび進める大跨、四度に着くは終なる 20

アイゲー、其所にわだつみの波浪の底に黄金の

光耀き永劫に朽ちざる宮ぞ築かるる。

こゝに來りて青銅の脚ある駿馬――黄金の

たてがみありて迅速に飛ぶを兵車に繋ぎつけ、

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