イーリアス

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

見よ今パラス・アテーネー、ヂオメーデース、チュ,ヂュウスの

子に與へたり勇と威を、アルゲーオイの一切の

中に拔き出で光榮の譽を彼の得んがため。

即ち彼の兜より盾より光焔放たしめ、

初秋の空に爛々と耀く星を見る如し、 5

其星、海の大潮に浴し衆星凌ぎ照る。

かかる光焔頭より肩より彼に耀かし、

彼を促し群衆の繁きが中に推し進む。

2 アルゴス族=アカイア族。

5 シリアス即ち天狼星、XXII 26―31 にもあり。

8 1―8 を XVIII 203―206 と比すべし。

トロイア族の中にしてダレースの名を呼べるあり、

ヘープァイストスの祭司にて、正しく富みて生みなせる 10

二子ペーギュウス、イダイオス戰術すべて精しかり、

今隊列を離れ出でヂオメーデースに向ひ行く。

彼ら二人は兵車の上、これは地上に歩を進む、

かくて双方進み出で互に近く來る時、

先づペーギュウス影長く引く鋭槍を投げ飛ばす、 15

鋭利の穗先敵將の左の肩の上を越し、

彼に當らず、之に次ぎチュウデーデース進み寄り、

手中の槍を投ずれば、覗違はず敵の胸、

乳房の間貫きて馬より彼を打ち落す。

之を眺めてイダイオス華麗の兵車うち棄てて、 20

すばやく逃れ、同胞の屍體防ぐを敢てせず、

おのれ自ら辛うじて死の運命を避けしのみ、

ヘープァイストス暗影の中に隱してこを救ひ、

彼の老父に限りなき悲嘆に沈む勿からしむ。

ヂオメーデースこなたには捕獲し得たる馬二頭、 25

其同僚の手に渡し水師の中に送らしむ。

かくダレースの二人の子其一人は逃れ去り、

兵車のかたへ他は斃る、之を眺めてトロイアの

衆人、恐れおののけば藍光の目のアテーネー、

はげしく荒るるアレースの手を取り彼に宣んしいふ、 30

11 III 247 は同名異人。

11 劍に槍に、車戰に歩戰に遠近共に長ず。

『嗚呼ああ、アレース、人類の災、なんぢ、血に染みて

都城を破壞する汝、トロイア並にアカイアの、

いづれにヂュウス光榮を、贈るも彼れの戰鬪を

後にしわれは退きて、彼れの怒を避くべきぞ』

しかく宣んして、荒れ狂ふアレース引きて、戰場を 35

去らしめ、之を座らしむスカマンドロスの岸のうへ。

今アカイアの軍勢はトロイア軍を打ち破り、

將帥おのおの一人の敵を打取る、――いや先きに

ハリゾーノーンのオヂオスをアガメムノーン射て斃す、

即ち先に逃るべく退きかくる彼の背、 40

左右の肩のただ中を飛槍は射りて胸に入る。

車上よりして敵は落ち、落ちて介冑鳴りひびく。

39 II 856.

地味豐沃のタルネーを出で來りたるパイストス――

メーオネス人ボーロスの子をイドメネー屠り去る、

槍の名將イドメネー兵車の上にのりかゝる 45

敵をねらひて長槍に彼の右肩を突き通す、

兵車よりして落つる敵、死の暗黒に蔽はれぬ。

其軍裝をイドメネー率ゐる部下は剥ぎとりぬ。

ストロピオスの生む處、狩獵の術に巧みなる

スカマンドリオス亡さる、槍の名將メネラオス 50

ア,トレ,デースの鋭刄に。山の深林養へる

猛き獸を射る術を教へたりしはアルテミス、

されど弓矢を弄ぶ神女も、先きに彼の身の

飾となれる弓術も其時彼を救ひ得ず。

槍の名將メネラオス・アートレ,デース目の前に 55

逃げ行く彼の背を突けば、肩の間より胸にかけ、

貫ぬく槍にこらえ得ず、大地の上にうつ伏しに

倒れて亡ぶ、亡ぶ時鎧甲高く鳴りひびく。

50 ヘクトールの子も亦之と同じき名稱を有す。(VI 402)

更にこなたにペレクロス―ハルモニデース工匠の

生みたる子息倒されぬ、メーリオネ,スの手によりて。 60

神女パラスに惠まれて、技工すべてに長ぜる身、

パリス率ゐし諸の船造りしは彼なりき、

船は禍難の基にしてトロイア並におのが身に

破滅來せり、神明の警彼は知らざりき。

メーオリネース彼を追ひ、彼に近づき、長槍を 65

揮ひて彼の右の腰、突けば鋭き其穗先、

貫ぬき通り膀胱のほとり恥骨の下に入り、

うめき叫びて地に伏せば、死の暗黒は彼をおほふ。

アンテーノ,ルの子ペ,ダイオス、メゲースにより亡さる。

庶子なりしかど貞淑のテアノウ愛兒もろともに 70

その良人の意を迎へ思をこめてはぐくみぬ。

槍の名將メゲースは彼に迫りて鋭刄を

飛ばして首のくぼみ撃つ、齒牙の間を貫きて、

舌を無慘に槍は截り其一命を亡せば、

冷めたき刄先噛み乍ら彼れ塵中に倒れ伏す。 75

70 アンテーノールの正妻にしてアテーネー殿堂の祭司。(VI 298‥‥)

スカマンドロスの祭司たり、神の如くに仰がれし

ドロピオーンの生める息プセーノール勇將は、

ユウアイモーン生みなせるユウリピュロスに打ち取らる。

ユウアイモーンのすぐれし子、ユウリピュロスは目の前に

逃げ行く敵を追ひかけて、迫り近づき長劔を 80

揮ひて彼の肩を撃ち、重き腕を切り落す、

鮮血凄く大地染め、死の黯黒と兇暴の

運命彼に迫り來て其兩眼を閉ぢしめぬ。

76 同名の河の神。

78 II 736.

斯く猛烈の戰鬪に衆人ひとしく倦み疲る。

さはれチュウヂュウス生める子は、トロイア或はアカイヤの 85

いづれに與みし戰ふや、殆んど辨じ得ぬばかり、

縱横無碍に原上を走り駈け行く、譬ふれば

水量増して荒るる河、溢れて堤坡崩し去る、

堅く築ける堤防も其奔流を留め得ず、

ヂュースの雨に勢を増して俄に襲ふとき、 90

沃野の土工また之を防ぎ抑ゆること難し、

村の少壯努めたる工事はすべて破壞さる、

斯の如くにトロイアの密集諸隊破られて、

軍兵乏しからねどもヂオメーデースに抗し得ず。

かくて諸隊を目の前に亂し破りて原上を 95

進める彼を認めしは、リュカオーンのすぐれし子、

チュウデーデース的としてすぐに強弓圓く張り、

馳せ來る彼の右の肩、其胸甲の結節に

はげしく飛んで射當てたる勁矢は之を貫きつ、

勇將穿つ胸甲は凄く黯紅の血に染みぬ。 100

85 ヂオメーデース。

96 パンダロス。(IV 89)

リュカオーンの子此を見て、大音あげて叫び曰ふ、

『起て豪勇のトロイア人、駿馬巧みに御する者、

アカイア軍の最勇士射られぬ、我は敢て曰ふ、

勁矢に永く彼耐へじ、リキエーよりし急ぎ來し

われをアポローン、ヂュースの子、勵まし力貸すとせば』 105

斯く誇へり然れども勁箭敵を亡さず、

ヂオメーデース退きて、戰車戰馬を前にして、

カパニュースの子ステネロス呼びて即ち陳じ曰ふ、

『カパネーイアデー、願くは汝の兵車下り來れ、

下りて無慘の勁き矢をわれの肩より拔き棄てよ』 110

109 呼格。

其言聞きてステネロス馬よりおりて地に降り、

傍に立ちて彼れの肩貫く勁矢拔き去れば、

其しなやかの被服越し、鮮血高く迸る。

その時亂軍の勇士たるヂオメーデース祈り曰ふ、

113 鎖帷子の類か。

『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュトウネー! われに聞け、 115

凄き苦戰の中にしてわれと父との傍に、

應護を垂れて立ちし君、今もしかあれ、アテーネー!

われに先んじわれを射り、更に今又我を誣ひ、

再び長く光輪の影は見まじと叫ぶ彼、

許せ、飛ばさんわが槍の射程に入りて亡びんを!』 120

115 「屈せざるもの、弱らざるもの」の意、アテーネーの名稱。

しかく祈願を陳ずればこを納受するアテーネー、

彼の肢體を、兩脚を、更に双手を輕くしつ、

傍に立ちて翼ある言句を彼に宣んし曰ふ、

『ヂオメーデスよ、信を取りトロイヤ人に渡り合へ、

堅盾揮ふチュウヂュウス持ちしが如き強烈の 125

威力汝の胸中に、すでに送れり、恐るるな、

我また汝の双眼を蓋ひし霧を、吹き去りぬ、

かくして汝明かに神と人とを辨ずべし。

例へば汝を試すべくある神こゝにおとづれむ、

汝心を警めて他の神靈と戰ふな、 130

されどヂュウスの娘たるアプロヂーテー來りなば、

彼と戰ひ青銅の刄を以て彼を打て』

124 呼格。

藍光の目のアテーネーしかく宣んして引き去れば、

更に再び先鋒にチュウデーデース加はりつ、

トロイア軍と奮戰の先の思をいやましに、 135

烈々として三倍の威力を増せり――譬ふれば、

野に群羊を飼ふ牧者、其牧場に躍り入る

獅子に微傷を負はすれど、之を制することを得ず、

たゞ其猛威増すばかり、群羊救ふに術なくて、

震ひて小舍にすくまれば、可憐の群は怖ぢ恐れ、 140

やがて累々重なりて血は原頭を染むる時、

獸王たけりて牧場を再び跳り飛ぶ如し、

ヂオメーデース斯く暴れてトロイア軍に馳せ向ふ。

その場に彼に打たれしはアスチュノオスとヒュペーロン、

一人は彼の長槍に胸のたゞ中貫かれ、 145

他は肩の上大刀に鎖骨に掛けて斬られ伏し、

斯くして頸より又背より肩は無慘に劈ざかる。

これを後にし又向ふポリエードスとアバスとに――

夢を占ふ老夫子ユウリュダマスの二人の子、

其戰場に來るとき父は其夢占はず、 150

ヂオメーデース猛勇に二人を屠り且つ剥ぎぬ。

144 XV455のと同名異人。

148 XIII 663 と同名異人。

其老齡にパイノプスうめる子二人クサントス、

並にトオーン亦打たる、父頽齡に衰へて、

家産を讓り傳ふべき他の子を遂に儲け得ず、

ヂオメーデース兩人を屠りて魂を奪ひ去り、 155

たゞ慟哭と悲痛とを彼の老父に殘すのみ、

父は故郷に歸り來る二兒を迎ふることを得ず、

家産は遂に親屬の間に分ち配られぬ。

153 XI 422 と同名異人。

プリアモス王うめる二子エケムモーンとクロミオス、

一つ戰車に並び乘り同じく共に亡さる、 160

譬へば森に草を喰む其牧牛の群目がけ、

跳り來りて獅子王が彼等の首を碎くごと、

ヂオメーデース戰車より二人の敵を打ち落し、

猛威を奮ひ亡ぼして其戰裝を剥ぎ取りて、

部下に命じて生捕りし馬を水師に送らしむ。 165

かく戰陣を荒らし去る勇將を見てアイネア,ス、

たちて戰場横切りて飛槍の間通り過ぎ、

探し※りぬ弓術は神明に似るパンダロス、

其パンダロス、リカオーンの勇武の子息見出して、

其傍に立ち停り彼に向ひて陳じ曰ふ、 170

166 トロイア應援の名將軍、アイネアース又アイネーアースとも訓む。

『ああパンダロス、いづくにぞ汝の弓は? 勁箭は?

はた名聲は? 何人もこゝに汝に比せぬもの、

リキエー中に何人も優ると誇り得ざるもの、

いざ今ヂュウスに手を擧げて祈りて彼に矢を飛ばせ、

彼れ何者ぞ? 我に勝ち、多くの禍難トロイアに 175

來たし、多くの勇將をすでに地上に倒れしむ、

神に非ずば彼を射よ、犧牲の故にトロイアに

怒れる神に非ざらば、――神の怒は恐るべし』

リュカオーンのすぐれし子其時彼に答へ曰ふ――

『青銅よそふトロイアに忠言寄するアイネアス! 180

我いま彼を勇猛のチュウデーデースと眺め見る、

其楯により、其兜――冠毛振ふものにより、

其馬により、しか思ふ、彼神なりや我知らず。

わが曰ふ如く人にして只チューヂュースの子なりせば、

神助なくして斯く迄に猛きを得まじ、神明の 185

あるもの彼の側に立ち、雲霧に彼の肩を掩ひ、

彼に當りし勁箭を別の道にと外らしめぬ。

正しく我は一箭を彼に飛ばして右の肩、

其胸甲の※より他の端までも射透しぬ。

彼を冥王の府の底に沈めさりぬとわれ言ひき。 190

とある怒の神明の助けに彼は免れ得ぬ。

我の乘るべき戰の車も馬も今あらず。

リュカオーンの殿中に戰車十一うるはしく、

新たに成りて裝はれて飾の被帛之を蓋ふ、

其おのおのに繋がれて二頭の馬は首ならべ、 195

白き大麥裸麥噛みつゝ共に地を踏めり。

父、老練のリュカオーン其美はしき殿中に、

門出の我に喃々と幾多の事を説き勸め、

奮戰苦鬪のたゞ中に戰車戰馬に身を乘せて、

トロイア軍に令せよと我に命じき慇懃に、 200

されども我は聽かざりき、(聽かば遙かに善かりしを)

衆人密に群れば、多量の食を取り馴れし

戰馬恐らく其糧を缺乏せんの掛念より。

かくして我は之を捨て、徒歩にイリオン訪ひ來り、

ただ勁弓にたよりしよ、今見る我に效なきを。 205

まさしく我はメネラオス、ヂオメーデース兩將を

覘ひて勁矢飛ばしめつ、之を傷け鮮血を

流さしめしも徒らにたゞ其勇を増せしのみ、

われイリオンの堅城にトロイア軍を導きて、

わがヘクトール助くべく立ちしかの日に凶惡の 210

運命弓を掛釘の上よりわれに取らしめき。

他日歸りてわが故郷、又わが家妻、又わが屋、

高き樓閣、此目もて親しく又も見なんとき、

わが知らぬ人忽ちにわれの頭を斬り落せ、

若し我れ弓を折り碎き炎々燃ゆる火の中に 215

投ずることを爲さずんば――無效は風の如き弓。』

アイナイアース、トロイアの將軍其時答へ曰ふ、

『しか曰ふ勿れパンダロス、我々二人彼目がけ、

戰車戰馬を驅り進め、武器を揮ひて彼を打ち、

彼を試さん其前は局面何の變なけむ。 220

いざ乘れわれの戰車の上、乘りて知るべしトロイアの

軍馬の良きを、原上に縱横無碍に馳け走り、

敵を逐ふ時、逃ぐる時、共に軍馬は飛ぶ如し。

ヂュウス再び恩寵をヂオメーデースに垂るべくば、

其時兩馬安らかに我を都城に返すべし。 225

いざ今鞭と輝ける手綱汝の手に握れ、

汝の御する車のへ立ちてわれ彼の強敵を

撃たむ、さなくば汝撃て、われは戰馬を御すべきに』

222 265 以下參照、又 XX 220.

その時リュカオーンのすぐれし子、彼に向ひて答へ曰ふ、

『アイナイアース、手綱とり戰馬御するは汝たれ、 230

ヂオメーデースの手を逃れ退かんとき、其馴れし

主人のもとに迅速に車を兩馬引き得べし。

彼等恐怖し駈け狂ひ、汝の聲の無きが爲め、

戰場よりし安らかに我を乘せ去ることなくば、

ヂオメーデース、英豪のチュウヂュースの子飛びかゝり、 235

我を倒してすぐれたる戰馬捕へて引き去らむ。

されば汝の戰車又戰馬は汝御し進め、

向ひて來る強敵を鋭槍揮ひ我受けむ、』

しか曰ひ二將、雜色に塗りし戰車に身を乘せつ、

熱情燃えて駿足をヂオメーデース目がけ驅る。 240

之を眺めてステネロス、カパニュウスのすぐれし子、

チュウデーデースに打ち向ひ羽ある言句陳じ曰ふ、

『チュウデーデーよ、わが愛づるヂオメーデスよ、我は見る、

二人の勇士量りなき威力を持ちて猛然と、

汝に向ひ進み來て汝を敵に戰はむ、 245

一人は弓に秀いでたるかれパンダロス、リカオーンの

子とて自ら誇る者、他はアイネアス、彼も亦

アンキイセースの子と誇り、アプロヂテーを母と曰ふ。

いざ今戰車に身をのせて退き去らむ、先鋒の

中の奮戰戒めよ、恐らく命を失はむ』 250

243 共に呼格。

しか曰ふ彼を睨め見てヂオメーデース叱り曰ふ、

『恐怖の言を吐く勿れ、なんぢの諫われ知らず、

戰鬪中にたじろぐは、或は震ひおのゝくは、

わが本性のわざならず、われの猛威はなほ強し、

われは乘車を歡ばず、今あるまゝに徒歩にして、 255

向はむ、パラス・アテーネー許さずわれの戰慄を。

よし一人は免るとも彼らの駿馬兩將を

もろとも乘せて陣中に驅け歸ることなかるべし。

我また汝に更にいふ、汝心に銘じおけ、

垂示かしこきアテーネー、二將を共に倒すべき 260

光榮われに賜ぶべくば、其時汝わが馬を

駐め、手綱を引きしめて戰車の縁に繋ぎ置け。

しかも必ず忘れずに彼の戰馬に飛びかかり、

擒へて之をアカイアの軍陣中に曳き到れ。

聲朗々の神ヂュウス、ガニュメーデースの償に、 265

父トロースに與へたる馬と正しく同じ種、

曉光及び日輪の下に至良の馬は是れ、

ラーオメドーンの目を掠め、牝馬をこれに觸れしめて、

私かに種を偸みしはアンキイセース、民の王、

かくして彼の城中に六頭の駒産れ出づ、 270

かくて自ら心籠め中の四頭を養ひつ、

畏怖の基なる他の二頭、子のアイネアス求め得ぬ。

今もし之を擒へ得ばわれの聲譽は大ならむ』

262 兵車の前面と側面との添へる欄。

265 トロースの美貌の子ガニュメーデースを奪ひ、其償に名馬を與ふ。(神話)

267 トロースの馬を托されし者、彼はプリアモス王の父。

かくも如上の事に付き二人互に陳じ曰ふ。

そこに直ちに二敵將駿馬を驅りて迫り來つ、 275

リュカオーンのすぐれし子まさきに聲を放ちいふ――

『英豪勇武のああ汝、チュウデーデース、先きにわが

射りし勁箭、苦き武器、遂に汝を倒し得ず、

鋭刄效を奏するや? 今わが槍に試みむ』

しかく叫んで影長き大槍揮ひ投げとばし、 280

チュウデーデースの盾打てば、穗先きは之を貫きて、

勢猛く衝きて入り、其の胸甲に迫り來る、

之を眺めてパンダロス勇み高らく叫び曰ふ、

『汝腹部を貫ぬかる、其重傷を時長く

耐へは得まじ、光榮を汝はわれに與へたり』 285

ヂオメーデース威を奮ひ、憤然として答へ曰ふ、

『汝謬る、長槍はわれに當らず、然れども

汝戰やめざらむ、汝のひとり倒されて

其血を以つて猛勇のアレース神を飽かす迄』

しかく叫びて飛ばす槍、槍を導くアテーネー、 290

鼻を打たしむ眼の下に、槍は眞白き齒を碎き、

堅き青銅更にまた根本に舌を打ち落し、

更に其穗は※の端貫き外に拔け出でぬ。

戰車を落つるパンダロス、其燦爛の戰裝は

戛然として鳴りひゞき、足とき駒はをののけり。 295

魂と力ともろともに、彼の體より逃れ去る

其しかばねを、アカイアの將士奪ふを恐れたる

アイナイアース、盾と槍とりて兵車を下り來つ、

獅子の如くに身の威力信じ、倒れしなきがらを

めぐり、身の前、長槍と圓楯かざし、大音に 300

叫喚しつつ、なきがらを奪はんものを倒すべく、

勢猛くめぐり立つ。チューデーデース之を見て、

巨大の石を高らかに――今の時見る人間の

二人合して上げ難き石を容易くたゞ獨り、

振り上げとばし、敵將の臀部に――股と接合の 305

局所――そは又髀臼と呼ばるる者に打ち當てつ、

髀臼碎き更に又二條の筋を斷ち截りぬ。

其大石に肉割かれ剥ぎ去られたるアイネアス、

大地に倒れ膝つきて兩手わづかに身を支へ、

其雙眼は迫り來る黒暗々の夜に閉ぢぬ。 310

かくしてそこに人の王、アイナイアース死せんとす、

そを速に認めたる、アプロヂーテー、ヂュウスの子、

(彼の母なり、牧牛のアンキーセイスに此子生む)

翔けり來りて白き腕のして愛兒をかき抱き、

駿馬跨るアカイアの一人彼の胸を刺し、 315

彼を倒さん恐より、槍に對する防ぎとし、

彼のめぐりに輝ける被袍廣げておほひ去る。

神女かくして戰亂の中より其子救ひ出す。

カパニュウスの子こなたには、ヂオメーデース英豪の

將軍先きに令したる約を忘れず、混亂の 320

外に離れて單蹄の彼の兩馬を引き出し、

手綱をつよく張り締めて兵車の縁に繋ぎ止め、

アイナイアース乘せて來し二頭の駿馬、たてがみの

美麗のものに飛びかゝり、之を奪ひてアカイアの

陣中に引き、親友のデーイピロスに(同齡の 325

友の間に同心の故もて特にめづるもの)

彼に渡して水軍の中に曳かしめ、斯くて彼、

耀く手綱ひきしめて強き蹄の馬を驅り、

兵車飛ばして迅速にヂオメーデースの跡を追ふ。

其勇將は無慘なる青銅揮ひキュプリスを 330

逐ひ行く、弱き神と知り、戰鬪中に人間に

令する神女アテーネー、あるは城壁打ち碎く

猛きエニューオー、あるは其類に非ずと認め知り、

群衆中を駈け走り、逐ひ行き之に迫り來て、

ヂオメーデースまつしぐら其長槍を振り上げて、 335

鋭き穗先き柔軟の玉手のおもてはたとつく。

奉仕の仙女織りなせる微妙の帛を貫きて、

鋭刄直に掌の端に當りて肉に入り、

アプロヂ,テーの血を流す、そは透明の清き液、

そは慶福のもろ/\の神明の身に宿る液、 340

神明素より麺麭を喫せず、葡萄の酒飮まず。

(故に人間の血に非ず、故に不滅の身と呼ばる)

打たれて神女泣き叫び、地上に愛兒振り落す、

そを手の中に收めしは神プォイボス・アポローン、

暗き雲中隱し去り、駿馬を御するアカイアの 345

中の一人も其胸を射て倒すこと勿らしむ。

其時勇將たからかにアプロヂ,テーに叫び曰ふ、

330 アプロヂーテー。

333 アレースに伴ふ神女本歌 592 にもあり。

『戰鬪軍裝の間より退け、汝ヂュウスの子!

かの纖弱の女性らを欺き得ても足らざるや!

また戰場に身を置かば、之を恐れて震ふこと 350

疑あらじ、目前に其亂鬪を眺めずも』

其言聞きて狂はしく苦痛激しく去る神女、

そを疾風の脚早く救ひ、イーリス群衆の

外に出せば、激痛に惱み、美麗の膚染めて、

行きてアレース戰場の左にあるを見出しぬ、 355

雲霧の中に其槍と二頭の駿馬そばにして。

神女即ち其愛づる同胞の神の膝の上、

倒れて彼の金甲をつけし駿馬を乞ひ求む、

『ああわが同胞、憐憫を垂れて汝の馬を貸せ、

神の聖座のあるところ、ウーリュンポスに行かんため。 360

負傷の痛堪がたし、チューデーデース我を打つ、

ああ此地上の人の子はヂュウスとすらも戰はむ』、

355 スカマンダロスの岸上、戰場の左に。(35―36)

其言聞きてアレースは彼に金甲の馬與ふ。

神女かくして痛心の其身兵車の上にのす、

其傍に座をしめてイーリス手中に綱を取り、 365

快鞭馬に加ふれば勇みて兵車曳き走り、

忽ち高きオリュンポス、神の聖座に到り着く。

そこに疾風の足はやきイーリス戰馬引きとめて、

兵車の外に解き放ち之に微妙の糧與ふ。

その時神母ヂオーネー、アプロヂイテー聲あげて、 370

膝に倒るをかき抱き、玉手靜かに艶麗の

愛兒を撫でゝ口開き之に向ひて宣んし曰ふ、

370 ヂオーネーはホメーロスの作中只單にアプロヂーテーの母神としてのみ記され、局面中何らの行動に加はらず。

『愛兒よ、天の何者か汝をかくは傷めたる?

さながら汝一切の目の前、惡をなせしごと』

嬌笑めづるアプロヂ,テー即ち答へて母に曰ふ、 375

『ヂオメーデースわれを打つ、彼れチュウヂュース生める息、

われわが愛兒アイネアス――人中最もめづるもの、

そを戰場の間より救ひ出でたる故をもて。

今戰鬪はトロイアとアカイア族のそれならず、

ダナオイ族はおほけなく神明をさへ敵と爲す。』 380

375 「嬌笑を好む」の意なるプイロンメーデースは此女神の常用形容句。

神女の中にすぐれたるヂオ,ネー答へて諭しいふ、

『耐へよ愛兒惱む時、忍べなんぢのつらきわざ、

ウーリュンポスに住める者、多く地上の人間と

互に禍難蒙らせ互に惱み苦めり。

斯くアレースは苦めり、アロウユウスの二人の子、 385

エピアルテース、オートスが鎖を彼に掛けし時、

堅き牢中囚はれし月數算ふ十と三、

二人の繼母うるはしきエーエリボイア憐みて、

ヘルメーアスに訴へて弱れるアレース救はしむ、

若し然らずば戰鬪に猛きアレース弱り果て、 390

無慘の戰身を責めて遂に最後を遂げつらむ。

天妃ヘーレー苦めり、アムピトリュオーンの猛き子が、

鏃三つある矢を射りて彼の右胸を打ちし時、

時に殆んど治しがたき苦痛は天妃惱せり。

冥府の王者ハイデース同じく共に苦しめり、 395

アイギス持てるヂュウスの子、前と同じき猛き者、

冥府の門に飛ばす矢に彼の苦惱を受けし時。

勁箭彼の肩を射て疵に惱めるハイデース、

ヂュウスの宮を、――おほいなるウーリュンポスをたづね行き、

負傷の故に其心惱亂しつゝ堪えやらず。 400

其時彼にねんごろに苦痛鎭むる藥塗り、

癒やせし者は巧妙のパイエーオーン――神のわざ。

ああ強暴の人の子は斯くも不敬を敢てして、

ウーリュンポスの神明にその矢放つを憚らず。

藍光の目のアテーネー、神女今はたかの者を 405

擧げて汝に向はしむ、愚かや彼の胸中に

ヂオメーデース悟り得ず、神と戰ふ人間は

壽命長きを得べからず、戰爭軍旅の間より、

歸らん時に其膝に寄りてあまゆる子は無しと。

ヂオメーデース勇なるも今すべからく思ふべし、 410

彼に優れるある神は彼に手向ふことあらむ、

アドレーストスの愛娘、アイギアレーアいたく泣き、

アカイア中の至剛なる若き良人哭しつつ、

睡る家人を起たしめむ。ああ彼の賢婦英豪の

ヂオメーデース失ひて哭する時ぞ來るべき。』 415

392 ヘーラクレースがヘーレーを傷けしこと古き神話にありと見ゆ。

396 ヘーラクレース。

412 ヂオメーデースの妻。

しかく宣んして双の手をのし透明の血を拭ひ、

之を癒やせば忽ちにアプロヂ,テーの苦は輕し。

こを眺めたるアテーネー、天妃ヘーレーもろともに

辛辣胸を刺す言にクロニオーンを激せしむ。

藍光の目のアテーネーまづ口開き宣しいふ―― 420

『ああ父ヂュウス、われの今述ぶる言句を怒らんや?

見よキュプリスは限りなく愛づるトロイア軍勢の、

跡を追ふべくアカイアのとある女性を促しつ、

美麗の衣纏ひたるその女性をばかい撫でて、

その黄金のとめ金に彼女纖手を傷つけぬ』 425

424 ヂオメーデースに傷けられしを反語的に曰ふ、勇將を一女性と呼びつつ。

その言聞きて人間と神との父は微笑みつ、

黄金の如美はしきアプロヂーテー召して曰ふ、

『愛兒、汝に戰爭のつらき仕業は課せられず、

そは猛勇のアレースとアテーネーとの司のみ、

汝はひとり温柔の婚嫁の術に身を盡せ』 430

斯くして諸神相對し此等の事を談じ合ふ。

ヂオメーデースこなたにはアイナイアース追ひ迫り、

神アポローン應護の手、彼に延ばすと知り乍ら、

偉大の神をいさゝかも恐れず、敵のアイネアス

屠りて彼の戰裝のいみじきものを剥がんとし、 435

飽くまで敵を倒すべく三たび激しく追ひ迫る、

三たび燦爛の楯揮りてアポローン彼を追ひ返す。

更に四たびの試みに神の如くに迫るとき、

銀弓強きアポローン嚇し叱りて叫び曰ふ――

『退け汝チュデーデー、汝神明に相如くと 440

思ひなはてそ、永遠の不滅の神は地の上に

歩む無常の人間と其本性を一にせず』

其言聞きて二歩三歩ヂオメーデース後しざり、

勁箭飛ばすアポローン神の怒りを避け逃る。

その群衆を遠ざかり、アポローン行きて彼の宮 445

建てる處のペルガモス、聖地に移すアイネアス、

そこにレートウ又弓矢好める神女アルテミス、

祕宮の中に彼を治し、彼に光榮あらしめぬ。

また銀弓のアポローン一の幻影作り成し、

アイナイアース及び其武具に全く似せしむる、―― 450

その幻影を取り圍み、アカイア及びトロイアの

兩軍互に牛皮張る圓盾あるはその總の

亂るる小盾其胸をおほへるものを打ち合へり。

其時猛きアレースに向ひアポローン宣し曰ふ、

『嗚呼ああアレース、人間の禍、汝、血に染みて 455

城壁碎くああ汝、來りかの者豪勇の

ヂオメーデース攘はずや? ヂュウスにさへも手向はむ

かれ眞つ先にキュプリスを打ちて其手を傷付けぬ、

而して更に神明の如くにわれに迫り來ぬ』

452 全身を掩ふ大なるもの。II 388 VI 117.

455 此アポローンの言は V 31と同じ。

458 アプロヂーテー。

しかく宣んしてアポローン行きて位すペルガモス。 460

こなたアレース激勵をトロイア軍に施して、

トレーケースのアカマース武將の影に身を似せて、

ヂュースの裔のプリアモス王の衆子に命じ曰ふ、

460 アポローン戰を見るべく屡ペルガモスに座す。(IV 508)

462 II 844 のと同名異人。

『ああヂュウスより傳はれる王プリアモスの子ら汝!

汝の堅き城門の前の戰鬪來るまで、 465

アカイア諸軍汝らを亡すことを諾ふや?

アンキーセースうみなせるアイナイアース、猛き者、

わがヘクトールもろともにわれの尊ぶ猛き者、

倒る、いざ立て紛擾の中より勇士救ひ出せ!』

しかく宣んしておのおのの魂と勇とを鼓舞せしむ。 470

その時猛きヘクト,ルをサルペードーン叱り曰ふ、

『ああヘクトールいづくにぞ先きに汝の持てる勇?

汝は曰へり兄弟と姉妹の夫もろともに、

自方並に友軍の力用ゐず獨力に、

トロイア城を保たんと、さはれいづこに彼らある? 475

獅子の前なる犬のごと彼ら震ひてすくだまる。

之に反して友軍に過ぎざる我は戰はむ。

さなり友軍に過ぎぬ我れ遠き郷よりこゝに來ぬ。

リキエー遠し、クサントス渦卷く流ある處、

そこに恩愛の妻と子を殘して我はこゝに來ぬ、 480

はた又貧者羨めるあまたの資産殘し來ぬ。

われリキエーの郷人を勵まし進め自らも、

戰鬪切に今望む。しかもアカイヤ衆軍の

掠めて奪ひ去らんもの此處に微塵もわれ持たず。

さるを汝は立ち停り動かず、絶えて衆人に 485

奮ひ起りて其妻女防ぎ護れと指令せず。

思へ、恐らく大綱に洩れなくかかる魚の如、

汝ら敵の戰利また餌となることなからずや?

敵は汝の堅城を破壞することなからずや?

此事汝晝に夜に常に心に戒めよ。 490

汝よろしく遠來の友の將士に懈怠なく

任につくべく乞ひ求め、彼の誹謗を免れよ』

471 リキエーの將軍、II 876.

479 トロイア平野を流るる同名の川(一名スカマンドロス)あり。

サルペードーンしかいへば、慚愧に堪へず、ヘクトール、

直ちに武具を携へて兵車を降り地に立ちて、

鋭利の槍を揮ひつゝ、諸隊の間かけめぐり、 495

衆を促し進ましめ凄き戰亂めざめしむ。

衆軍即ち引き返しアカイア軍に立ち向ふ。

アカイア軍勢又密に列を造りてたじろがず、

髮金色の農の神デーメーテール、強く風

吹くに乘じて穀物と糠とをふるひ別つとき、 500

農家の聖き床の上、風の齎らす細粉の

積りて白く高まるを見るが如くに、アカイアの

軍勢白く塵被ぶる――トロイア軍の兵車曳く

戰士再び盛り返し、戰場中に駈けしむる

軍馬の蹄、空中に蹴揚げし塵に白くなる。 505

かくて衆軍堅剛の腕の力を推し進む。

更にあたりに猛勇のアレース霧を暗うして、

トロイア軍を援け行き、黄金の劔身に帶ぶる

アポローン、下せし令を遂ぐ。ダナオイ軍を助けたる

藍光の眼のアテーネー去るを眺めてアポローン 510

彼に命じてトロイアの軍の勇氣を覺まさせき。

499 オリュンポスに住まず、只地上にありて農業禾稼を司る神女。

508 此句はひとりアポローンに屬す。

銀弓の神又更に聖殿外にアイネアス、

送り出して胸中に鋭き英氣滿たさしむ。

勇將かくて陣中に入れば衆人喜べり、

彼の生けるを、更に又健やかにして凛々の 515

勇を奮ふを喜べり、されど何らの問をせず。

神アポローンの、アレースの、果なく荒るる爭鬪の

靈の、催ほす他の業は其糺問を扣へしむ。

518 エリス IV 440.

アイアス二人オヂュシュウス、ヂオメーデースもろともに

ダナオイ軍を一齊に戰鬪中に進むれば、 520

衆は勇みてトロイアの威力並に叫喚を

物ともせずに悠然と立てり――颯々の呼吸より

朗に吹きて慘憺の陰雲拂ふ強き風、

ボレアスの類睡る時、空靜穩に返る時、

連山高き頂にウーリュンポスのクロニオーン、 525

雲を留めて動かさず、――其雲のごと悠然と

ダナオイ軍勢トロイアの軍を迎へてたぢろがず。

アートレデース陣中を※りあまねく令しいふ――

『友よ男兒の面目に汝の勇氣振り起せ、

はげしき軍旅の中にして汝ら互に恥を知れ、 530

見よ恥を知る人中に死よりも生の數多し、

怯れて逃ぐる者の上光榮あらじ、益あらじ』

しかく宣して槍飛ばしアイナイアスの友にして、

將ペルガソス生めるもの、デーイコオーンを打ち倒す、

彼は勇みて先鋒の中に交りて戰へば、 535

プリアモス王生める子の如く衆に尊ばる――

其堅楯をひやうと射るアガメムノーンの長き槍、

楯は鋭刄支へ得ず、槍は激しく劈きて、

更に腹帶又下の腹部を突きて打倒す、

突かれて敵はどうと伏す、鎧甲高くひゞかして。 540

かなたダナオイ勇將を、ヂォクレースの二人の子、

オルシロコスとクレ,トーンをアイナイアース打ち倒す、

二人の父は堅牢に築かれし都市フェーレーに

住みて家計は豐なり、ピュロスの原を貫ける

アルペーオスの廣き河、河靈の裔は彼の父。 545

河靈は衆の王としてオルシロコスを生れしめ、

オルシロコスは英豪のヂオクレースの父となり、

そのヂオクレース双生のオルシロコスとクレートーン、

善く戰術に通じたる二人の子らの父となる。

二人長じて暗黒に染めし兵船身を托し、 550

アガメムノーン、メネラオス二將に譽加ふべく、

良馬の産地イリオンにアカイア軍に伴へり、

死の運命は無慘にも二人をこゝに亡びしむ。

譬へば山の頂に繁る叢林奧深く、

母獸によりて養はれ長ぜし荒き獅子二頭、 555

牧牛並に肉肥えし群羊屠り餌食とし、

獸欄いたく荒らす後遂に主人の手にかゝり、

其青銅の鋭刄に撃たれて斃れ伏す如し、

二人正しく斯の如、アイナイアースの手によりて、

打たれて伏して、おほいなる樅の倒れを見る如し。 560

其斃れしを憐みてアレースめづるメネラオス、

燦爛、光る青銅の鎧穿ちて先頭に

進みて槍を打ち揮ふ――アイナイアースの手に因りて

斃れんことを望みたるアレース彼を勵ませり。

アーンチロコス(英豪のネスト,ルの子)は之を見て、 565

王の危險を憂慮しつ、其禍にアカイアの

勞苦空しく成るべきを思ひ眞先に馳け出づる。

アイナイアース、メネラオス二將互に相面し、

戰望み鋭刄の槍をおのおの振りかざす、

アーンチロコス進み來て王にまちかく並び立つ。 570

二人の勇士相並び助けて立つを眺め見て、

アィナイアース勇猛の將軍乍ら引きかへす。

こなたの二將アカイアの陣に二友のなきがらを、

携へ歸り同僚に渡し了りて又更に、

激しく鬪戰勉むべく先鋒中に引き返す。 575

543 II 712.

546 河靈を父とするオルシロコスよりヂオクレース生れ、ヂオクレースより祖父と同名のオルシロコス生る。

楯を備ふる猛勇のパフラゴニアの首領たる

ピュライメネース、アレースに似るもの車上に立つ處、

槍の名將メネラオス、アートレデース其槍を

飛ばして彼を覘ひ打ち鎖骨に當てて斃れしむ。

アチュニオスの勇武の子ミユドーン兵車を御する者、 580

逃れ去るべく單蹄の馬を後へと返す時、

アーンチロコス石投げてはげしく彼の臂打てば、

象牙を飾る其手綱彼の手はなれ塵に落つ、

アーンチロコス飛び掛り、劔を揮ひこめかみを

衝けば堅固の兵車より呻を揚げてさかさまに、 585

沙塵の中に倒れ落ち頭と肩を地に埋む、

沙塵の堆は深くして長く逆に立てる彼、

やがて屍體を其双馬蹴りて地上に斃れしむ、

アーンチロコスは鞭うちて馬をアカイア陣に驅る。

577 同名の將 XIII 643―659 に現はる。恐らく別人か。或評者は此矛盾を以てイーリアスが同一作者の手に成るに非ずといふ一論據と爲す。

戰陣中にヘクトール之を眺めて大聲を 590

揚げて進めば、勇猛のトロイア軍勢之につぐ。

其眞つ先にアレースと並びて進むエニュウオー、

女神その手に殘忍のキュードイモスを齎らせば、

更にアレース手の中に巨大の槍を打ち揮ひ、

前に或は又後に將ヘクト,ルに添ひて行く。 595

混戰中に勇奮ふヂオメーデース之を見て、

おののき震ふ、譬ふれば大平原をたどる者、

海洋さして速かに流るる川の岸に立ち、

泡沫たてゝ咳くを驚き眺め歩を返す、

チュウデーデース之に似てたじろき衆に告げて曰ふ、 600

592 戰の女神。

593 騷ぎを人化する名。

『友よ勇武のヘクトール、槍に巧みに戰鬪に

すぐるる彼を驚嘆の目もて我らは眺め來ぬ、

ある神明は傍にたちて禍難を免れしむ、

見よ今アレース人間の形をとりて前にあり、

今トロイアの軍勢に面しながらも引き返せ、 605

返せ、效なく神明に對し戰ふこと勿れ。』

かくは陳じぬ。トロイアの軍勢眞近く寄せ來り、

戰術長けし二勇將メネステースとアンキァロス、

同じ兵車にたちたるを打ちて倒せりヘクトール、

其倒るるを憐みてテラモニデース・アイアース、 610

近くに寄せて燦爛と光る大槍投げ飛ばし、

アムピイオスを(セラゴスの子たる)武將を射て斃す。

財に領土に豐かにてペソスの郷に住めるもの、

運命彼を導きてトロイア軍を援けしむ。

テラモニデース、アイアース彼の帶射て影長き 615

槍に下腹部貫ぬけば地響なしてどうと伏す、

其戰裝を剥がんとしアイア,ス之に飛びかかる、

トロイア軍は之を見て燦爛光る投槍を

彼に飛ばせば楯の上其幾條はつき刺さる。

かくて屍體を足に踏み青銅の槍拔きとれど、 620

斃れし敵の美麗なる戰裝更に双肩の

上より剥ぐを善くし得ず、亂槍彼を襲ひ來る。

猛威にはやる敵軍は其數多く槍振ひ、

勢凄く迫り來る。將軍さすが勇なるも、

其身長も高くして、其名聲も高けれど、 625

之に手向ふことを得ず、次第に後に引きさがる。

兩軍かくて烈々の奮戰苦鬪に亘り合ふ。

613 II 828.

其時辛き運命はヘーラクレース生むところ、

トレーポレモス勇將をサルペード,ンに向はしむ、

雷雲寄するクロニオーン其の子並に其裔の、 630

二將互に近よりてやがて面して立てる時、

トレーポレモスまづ先きに口を開きて陳じいふ、

『サルペードン、リキエーの參謀、汝戰鬪の

術知らずしていかなればこゝに震ひてくぐまるや?

アイギス持てる天王の裔と汝を呼ぶものは 635

僞れるかな、そのむかしクロニーオーン生みいでし。

その諸の英豪に汝遙かに劣らずや?

されども人の曰ふ如く豪勇にして獅子王の

心を持てるわれの父ヘーラクレース偉なるかな、

ラーオメドーンの馬のため彼その昔ここに來つ、 640

たゞ六艘の舟及びたゞ僅少の人を率て、

イリオン城を陷れ、これの市街を破壞しぬ。

さるを汝は怯にして率ゐる民も弱り果つ、

リキエーよりしこゝに來て、更に今より猛しとも、

思ふに汝トロイアに何らの救與へ得ず、 645

我に打たれて冥王の關門通り過ぎんのみ。』

631 サルペードーンはヂュウスの子、トレーポレモスはヂュウスの子たるヘーラクレースの子。

リキエー軍の首領たるサルペードーン答へ曰ふ、

『トレーポレモス、げに然り、トロイア領主ラーオメドーン、

愚なるが故に其城は汝の父に亡さる。

領主は彼に功立てし勇士をいたく罵りて、 650

その爲め遠く彼の來し馬を恩賞なさざりき。

されど汝にわが手より死と暗黒の運命と

來らん、汝わが槍に斃れて我に名聲を

與へん、更に良馬持つ冥府の王に魂魄を』

651 ガニメーデースを天上に奪ひ去りし其償としてヂュウスがトロースに與へ、トロース之を其子ラーオメドーンに與へし馬――ヘーラクレースはラーオメドーンの女を救ひ、此名馬を賞として受くる約を得、されど其約果されず。

サルペードーンかく陳じ、トレーポレモス更にその 655

利刄振り上げ、兩將の手より同時に長き槍、

はなれ激しく飛び行きて、サルペードーンは敵の頸

眞中を打てば、物すごき鋭刄刺して内に入り、

暗黒の夜は双眼を蓋ひて彼を倒れしむ、

トレーポレモス投げ突けし槍は敵將の左腰 660

打ちて鋭く其穗先貫き通り骨に觸る、

されど天父の救あり、彼に死滅を逃れしむ。

その神に似る英豪のサルペードーンを戰の

場よりその友救ひ出す、其身に立てる長槍は

曳かれ行くまま惱ますを、危急の際に何人も 665

氣つかず、之を腰部より拔き去り彼を地の上に

立たしめんこと思ひ得ず。辛勞かくも大なりき。

脛甲堅きアカイアの友亂戰の場の外に

トレーポレモス運び出す、そを眺めたるオヂュシュウス、

心肝堅く忍ぶ者さすがに痛く胸動く、 670

その時彼は胸中に思ひ煩ふ、まづ先きに

雷霆の威のヂュウスの子サルペードーンを追ふべきか?

或はリキエー郷軍の夥多の命を奪はんか?

されどヂュースの猛き子をその鋭利なる長槍に

倒さんことは英豪のオヂュシュウスに許されず。 675

彼の心をリキエーの群に向くるはアテーネー。

かくして打たるコイラノス、アラストールとクロミオス、

アルカンドロス、ハリオスとノエーモーンとプリュタニス。

堅甲光るヘクトール之を認むるなかりせば、

リキエー軍の他を多くオヂュシュウスは打ちつらむ。 680

かくてダナオイ軍勢に恐怖もたらし、ヘクトール、

耀く武具に身をかため先鋒中に進めるを、

サルペードーン、ヂュウスの子喜び悲痛の聲に呼ぶ、

『プリアミデーよ、敵人の餌食とわれの斃る身を

忍ぶことなく今救へ、止むを得ずんば後の日に 685

一命こゝになげうたむ、かくして我は本國に、

祖先の郷に立ちかへり、恩愛深き我が妻に、

わが幼弱の子に歡喜與ふることのあらざらむ。』

677 同名異人159.

斯く陳ずるにヘクトール答へず、堅甲ゆるがして、

アカイア族を速に攘ひ斥け、其軍の 690

多數の命を奪ふべく勇み躍りて進み行く。

而して勇武神に似るサルペードーンを同僚ら、

共にいたはり、アイギスをもつ天王のめづる樹の

下に横たへ、其腰に立つ白楊の堅き槍、

槍を親しき剛勇のペラゴーン引きて拔き去りぬ。 695

其時濃霧彼の目を掩ひて魂は彼を棄つ、

されど程なく生き返る――北風吹きて奄々の

呼吸苦しき勇將を再び生に返らしむ。

693 此ぶな樹はスカイアイ門の前にあり。VI 237.

かなたアレース軍神と黄銅鎧ふヘクト,ルに

向ひ對するアルゴスの軍勢船に歸り得ず、 700

又奮然と進み出で之と戰ふことを得ず、

トロイア陣中アレースのあるを悟りてあとしざる。

プリアミデース・ヘクトール及びアレース軍神に

殺され武具を剥れたる最初は誰か? 最終は?

神に類するチュートラス、馬術すぐるるオレステス、 705

アイトーロスのトレーコス、オイノマオスは之に次ぐ、

オイノピデース・ヘレノスと耀き光る佩帶の

オレスビオスは又次に――オレスビオスの住む處、

ケーフィーシスの湖に隣りて特に豐沃の

ピューレー、之れの傍にボイオーチアの富民住む。 710

かく猛烈の戰にアルゴス軍勢數多く、

打たるるを見る皓腕の神女ヘーレー、かたはらに

藍光の目のアテーネー立てるに向ひ叫び曰ふ、

『アイギス持てる天王の常勝の兒よ、ああ見よや!

若し無慙なるアレースの斯かる兇暴捨ておかば、 715

堅城イリオン亡して勇み故郷に歸るべく、

メネラーオスに約したるわれの盟の辭空し。

いざ立て、共に猛烈の救ひの道を計らはむ』

宣する旨に藍光の目のアテーネー順へり。

かくてヘーレー端嚴の神女――偉大のクロノスの 720

子は黄金の頭甲ある戰馬の具裝整へつ、

侍女ヒーベイは速かに鐵の車軸をたゞ中に、

輻の數八の黄銅の輪を車體にぞ据え付くる、

車輪の縁は不壞の金、其上更に黄銅の

被覆いみじく外縁をなして見る目を驚かし、 725

銀より成れる兩轂左右いとしく※り行く、

戰車の床は黄金と白銀の紐編み成して、

而して二重欄干は前後左右をとり圍む、

車體の先に銀製の轅突き出づ、其端に

美なる黄金の軛附け、之に黄金の紐を垂れ、 730

軛の下の疾風の足とき馬をヘーレーは

手づから御して戰鬪と其喊聲にあこがれぬ。

アイギス持てる天王の愛づる明眸アテーネー、

其多彩なる精妙の衣自ら織り出し、

自ら工み成せるもの、天父の堂に脱ぎ棄てて、 735

雷霆の神クロニオーンもてる被服を身に着けつ、

かくて涙の基たる暴びの戰具整へり、

双の肩のへ投げ掛くる大楯――總を垂るるもの、

凄し『恐怖』は其中に至重の位保つめり、

『鬪爭』そこに、『暴力』も、紅血冷やす『追撃』も、 740

又恐るべきゴルゴーン怪物すごき頭あり、

アイギス持てる雷霆の神の示せる畏怖の像。

又頭上にアテーネー兜戴く、其の上に

二本の角と隆起四つ、百の都城の兵を掩ふ、

かくて親しく燦爛の兵車に神女立ちあがり、 745

重くて堅き大槍を其手にとりぬ、槍により

手向ふものをアテーネー奮然として打ち敗る。

ヘーレー斯くて迅速に駿馬に鞭を打ち當てて、

驅れば天上もろもろの門は呀然と開かるる、

門の司は『時の靈』――上天及びオリュムポス 750

之に托さる、濃雲を開き或は閉ぢるため、

こゝを二神はその命に應ずる駿馬驅り去りぬ。

736 アテーネーが父神の武裝を身に着くること VIII 384 にもあり、特殊の恩愛を見るべし。

744 意味分明ならず、739 以後此一段に關して學者の意見紛々。

749 天門旭、呀然豁(王世貞)。

750 ホーライの數と名とをホメーロスは(ムーサイと同樣に)詩中に説くこと無し。

諸峯群れ立つオリュンポス、其最高の頂に

諸神と離れ悠然と坐せる雷霆のクロニオーン、

之を眺むるヘーレーは、兵車を其處にひきとゞめ、 755

天威かしこきクロノスの子に問ひかけて陳んじ曰ふ、

『天父ヂュウスよ、アレースの斯く兇暴に狂へるを

君怒らずや? アカイヤの族の幾何、何人を

彼は無慚に斃せしぞ! 悲哀かくして我にあり。

さるをキュプリス、銀弓のアポローン共に狂暴の 760

彼を勵まし荒れしめて悠然として喜べり!

天父ヂュウスよ、アレースを痛く懲して戰場の

外に我若し攘はむに君それ我に怒らんか?』

雷雲寄するクロニオーン其時答へ宣んし曰ふ、

『彼に對してアテーネー、勝利のわが子、起たしめよ、 765

わが子すべてに優る彼れ、アレース懲す術に馴る』

然か宣すれば皓腕のヘーレー之に從ひて、

鞭を駿馬に打あつる、兩馬即ち飛ぶ如く、

大地と星の空のあひ勇みて遠く驅け出す。

岸上高く展望の岬に立ちて人遠く、 770

葡萄の酒の色湧かす大海眺めわたす如、

蹄の音も高らかに神女の双馬遠く馳す。

斯くてトロイア平原にスカマンダロス、シモエース、

二つの流れ相混じ合する場に着ける時、

馬を駐めて戰車より玉腕白きヘーレーは、 775

之を放ちて其めぐり厚く雲霧を掩ひ布く、

又シモエース之が爲めアムブロシアを生ぜしむ。

773 別名クサントス。

777 こゝには芳草を意味す。

共にアルゴス軍勢に力添ふべく念切に、

怯ゆる鳩の行く如くそこより二神歩を進め、

馬術巧みの豪勇のヂオメーデース取り圍み、 780

軍勢中の至剛なる、數また最も優るもの、

生肉喰ふ獅子の如、或は猛く容易くは

打勝ちがたき野猪の如、群れゐるほとり訪ひ來り、

玉腕白き端嚴の神女ヘーレー高らかに、

聲黄銅の如くして五十の人の聲合はす 785

ステントールの雄剛の姿を借りて宣し曰ふ、

786 此名は此後イーリアス中に現はれず。しかも大音の諺となる。アルストテレスの政治論 VII 4「ステントールの聲を持たずしては‥‥」

『恥ぢよ汝らアルゴスの卑怯なる者、形のみ

優る、先にはアキリュウス軍陣中にありし時、

ダルダニエーの城門の前に、トロイア敵軍は

彼の鋭き槍恐れ、其れの姿を見せざりき、 790

見よ今敵は其都城離れて船を前に攻む』

789 即ちスカイアイ城門。(III 145)

然かく宣んして將卒の魂を勵まし勇を皷す。

更に藍光の眼の神女チュウーデーデース訪ひ行けば、

兵車駿馬の傍らに猛き將軍其疵を――

さきにパンダロス射りし矢の疵を治めて坐を占めつ、 795

其圓形の楯むすぶ太き革紐、その下の

淋漓の汗に惱みつゝ腕疲れたる勇將は、

即ち紐を解き緩め疵の黒血を吹き拭ふ。

其時神女その馬の軛に觸れて彼に曰ふ、

『ああチュウーヂュース生める子は痛くも父に似ざるよな! 800

將チューヂュース身の丈は短かりしも勇ありき。

むかし身獨りテーバイに、使になりてカドモスの、

種族の中に往ける時、(われ其時に廳中に

彼を酒宴に招かしむ)武勇の示し、競技、

彼に對して我はつゆ求めざりしも例の如、 805

英武の彼はテーバイの子らに挑みて技競ひ、

すべてに於て悉く其一同に打ち勝てり、

(容易く勝てり、そこに我れ彼に援助を施しき。)

今われ汝の側に立ち、汝を守り、心より

敵軍トロイア軍勢と戰ふことを命じ曰ふ。 810

さはれ夥多の戰鬪によりて汝の四肢疲る、

或は卑怯の恐怖より汝は絶えて動き得ず。

知るべし汝、勇猛のオイネーデースの子に非ず』

802 IV 376 以下。

808 チューヂュース自らの勇を今女神は説きつゝあり、此行は矛盾、誤つて※入さる(リーフ)

813 オイニユウスの子即チュウヂュウス。

ヂオメーデース――勇猛のチュウデーデース答へ曰ふ、

『アイギス持てる、ヂュウスの子、神女よ君をわれは知る。 815

されば進んで聊かも隱さず君に打明けむ。

卑怯の恐れ、怠慢はわれを抑ゆるものならず、

君が降せる嚴命を思ひ出づるが故にのみ。

慶福享くる諸の神に對する戰は

すべて許さず、ただ獨りアプロヂ,テーの戰場に 820

來らん時は青銅の刄をあげて打つべしと。

其命により退きてこゝに留り、同僚の

アルゴス將士誡めてこゝに等しく陣せしむ、

アレースかなた戰場に命を下すを知るが故』

藍光の目のアテーネー神女答へて彼に曰ふ、 825

『ヂオメーデース、わが愛づる、チューヂュースの武勇の子、

恐るる勿れ、アレースを、はた又神明の中にして

何もの彼に與みするも、我は汝を助くべし。

いざ單蹄の馬を驅り、まづアレースに突きかかれ、

近きに迫り、アレースを――かの暴れ狂ふ慓悍の 830

神――反覆の禍を打ちて憚ること勿れ。

先には天妃ヘーレーと我とに彼は約し曰ふ、

アルゴス勢に味方してトロイア軍を打つべしと、

その約忘れ、彼ぞ今トロイア軍の援なる。』

しかく宣んして兵車より神女手づからステネロス 835

引きて大地に降らしむ、勇士直ちにおりたてり。

かくして神女豪勇のヂオメーデースの傍に

勇み戰車に乘りたてば、樫の軸木は高らかに、

神と人との恐るべき重さのもとに鳴りきしる。

即ち鞭と手綱とを手にしてパラス・アテーネー、 840

アレースめがけ單蹄の駿馬ただちに驅り進む。

アレースときにペリィパス(オケーシオスの生む處、)

アイトーロスの族中にすぐれし巨人の武具を剥ぐ、

血汐に染みて武具剥げる其アレースに見られじと、

アーイデースの其甲いたゞく神女アテーネー。 845

845 冥府の王の名は『目に觸れざる者』の意。アイデース又アーイデース。(Brasse)

こなたアレース、人間の禍の神、英豪の

ヂオメーデース眺め見つ、倒して魂を奪ひたる

長身の敵ペリイパス斃れし場に棄ておきて、

馬術巧みの豪勇のヂオメーデースに馳け向ふ。

斯くして兩者眞近くに互に迫り來る時、 850

敵の生命絶やすべき一念切にアレースは、

軛手綱の上こして黄銅の槍投げ飛ばす、

その槍宙に手に握る藍光の目のアテーネー、

かくて空しく飛び來る槍を戰車の外に投ぐ。

つゞいておのが順來る雄叫び凄き豪勇の 855

ヂオメーデース、黄銅の槍繰り出せばアテーネー

こをアレースの革帶のほとり腹下に衝き入らす。

勇將かくてアレースに疵を負はして肉破り、

槍を手許に繰りもどす、其時強きアレースの

叫ぶ音聲譬ふれば九千或は一萬の 860

軍勢ともに同音に戰場中に叫ぶごと、

トロイア及びアカイアの兩軍ひとしくこれを聞き、

恐怖に震ふ、アレースの叫喚かくも凄かりき。

天蒸暑く風荒び怒號の中に夜のごと、

雲霧まくろく湧き出づる――其樣みせて物凄く、 865

ヂオメーデース、剛勇の將の目の前アレースは――

暴びの神は雲に乘り、大空高く昇り去る。

斯くて諸神の住む處、ウーリュンポスの頂に

早くも着きて雷霆のクロニオーンのそばに坐し、

受けし疵より流れづる淨血示し慘然と、 870

悲憤の念に驅られつつ、羽ある言句を陳じ曰ふ、

『天王ヂュウス、あゝ君は此凶暴を怒らずや?

われら諸神は人間に惠を加へ施して、

好みて相互爭ひて激しき苦難忍び受く。

狂ふ無慙のかの息女――常に不法をたくらめる―― 875

彼に父たる故をもてすべては君に相叛く、

ウーリュンポスに住める他の不滅の神は悉く、

君に忠順盡しつつ、其命令に從へり。

言句或は業に因り君はかの女を警めず、

子たるの故に君はその狂暴のわざ勵ませり。 880

彼女は斯くて剛勇のヂオメーデースをそゝのかし、

不死の諸神に逆ひて彼れの暴威を奮はしむ。

アプロヂ,テーの手首をば彼は眞先きに傷ひて、

次にさながら神の如われを目がけて襲ひ來ぬ。

さもあれ我の迅き脚われを救へり、然らずば 885

死屍累々のたゞ中に長く惱を受けつらむ、

或は彼の鋭刄に打たれ虚弱になりつらむ』

880 ホメーロスの詩中にアテーネー誕生の詳説なし、ヂュウスの頭より生る云々は後世の説。

雷雲寄するクロニオーン睨みて彼に答へ曰ふ、

『わが傍に坐を占めて嘆くを止めよ、反覆者、

ウーリュンポスに住む神の中に最も憎き者、 890

汝は不和を爭を又戰鬪をつねに好く。

汝を生めるヘーレーの耐ふべからざる屈せざる

性を汝は受け嗣げり、彼を制すること難し。

恐らく彼の助言より汝この難受けつらむ。

汝の長く苦むをさもあれ我は忍び得じ、 895

汝正しく我の種、ヘーレー我に生みなせり。

忌み恐るべき汝他の神より生れしものならば、

ウーラニオーンの諸子よりも低きにとくに落ちつらむ』

898 クロノス及びイーアペトス。(VIII 479)。

しかく宣んして命下しパイエーオーンに治癒せしむ、

即ち鎭痛の藥もてパイエーオーン忽ちに 900

彼を癒しぬ、畢竟は死すべき質に非れば。

譬へば白き乳液に無花果の汁搾り入れ、

掻き亂す時忽ちに凝りて固體となる如く、

斯く迅速に猛烈のアレース傷を癒されぬ。

ヒーベイ彼の身を洗ひ美麗の衣纒はしむ、 905

即ち彼は傲然とクロニオーンの側に座す。

更にアルゴスのヘーレーと守護の神靈アテーネー、

共にヂュウスの宮殿に歸り來れり、人間の

禍の本アレースの屠殺を絶やし平げて。

第六歌

神々去る後、兩軍相戰ふ――アカイア軍の優勢。 ヘレノスに説かれてヘクトール城中に歸り、母へカベーをして神女アテーネーを祭らしめんとす。 グラオコスとヂオメーデースとの會見。 彼等の父祖の親交。 之を思ひ、戰はず、武具を交換して別る。 ヘクトール城中に歸る。 神女アテーネーに捧ぐる寶と祈。 ヘクトール其弟パリスを責む。 ヘクトール其妻子との會見及び告別。 パリス武裝してヘクトールと共に戰場に進む。

(諸神退き)戰鬪はトロイア及びアカイアの

軍勢中に行はれシモエースまたクサントス、

兩河の間、原上のあなたこなたに黄銅の

槍は互に揮はれて奮戰正に今激し。

テラモニデース・アイアース、アカイ軍の堅き城、 5

眞先に立ちてトロイアの陣を破りて、光明を

其友僚に齎しつ、トレーイクスの族中に

至剛のほまれアカマース、(ユウソーロスの子)を打ちぬ。

アイア,ス即ち眞つ先きに長き冠毛振りかざす

其敵將の甲突けば覘違はず鋭刄の 10

槍は骨まで深く入り、暗黒彼の目を蔽ふ。

8 II 844, V 462.

雄叫び高き豪勇のヂオメーデース打ち取るは、

チュウトラースの生めるもの、堅き城市のアリスベー

領とし富みてよく人に愛を受けたるアキシュロス、

其邸宅は街道にのぞみ親しく人を容る。 15

されどもこゝに何人も其面前に走り來て、

彼の悲慘の運命を救はず。二人命おとす、

彼と從者のカレーシォス、――彼の戰馬を御する者、

二人等しく斃されて共に黄土の底に行く。

13 II 860.

ユウリアロスの打ち取るはオペルチオスとドレーソス、 20

ついで二將のあとを追ふ、アイゼーポスとペーダソス、

二將の母は水の仙、アバルバレエー、其むかし

ブーコリオーンに二子生みぬ、ブーコリオーンはすぐれたる。

ラーオメドーンのはじめの子、私かに母の産むところ、

彼れ群羊を牧ひし時、そこに仙女に契り逢ひ、 25

仙女かくして身ごもりてやがて双兒の母たりき。

メーキスチュウス生める子は今其二人打ち倒し、

威力と肢體亡して更に肩より武具を剥ぐ。

27 即ユウリアロス。

ポリュポイテース次に又アスチュアロスを打ち取れば、

ペルコーテーのピヂュテスをオヂュシュウスは黄銅の 30

槍にて倒し、チュウクロスまたアレタオーン打ち取りぬ。

アブレーロスを槍をもてアーンチロコスは打ち取りぬ、

アガメムノーン、民の王、王は倒せりエラトスを、

サトニオエース清流のほとりに近く、嶮要の

ペーダソス市に住む者を――又ピュラコスの逃げ行くを 35

打ちて倒せりレーイトス、ユーリピュロスはメランチオス。

雄叫び高きメネラオス、アドレーストスを生き乍ら

擒へり、彼の戰車曳く二頭の馬は原上を、

恐れ狂ひて駈け走り、柳の枝にからまりて、

爲に轅の端の上戰車を碎き、他の人馬 40

怖れて逃ぐる路の上共に城市に向ひさる、

車上の彼は逆さまに振り落されて、地の上に

車輪のほとり塵噛みて俯せば、傍に迫り來る

アートレ,デース・メネラオス手には大身の槍を取る、

其膝抱き聲あげてアドレーストス乞ひ求む、 45

37 II 830 同名異人。

『アートレ,デース、わが命助け、賠償受け納れよ、

富める我父蓄ふる種々の財寶數知れず、

黄銅並に黄金を又鐵製の具を備ふ、

アカイア水師の中にしてわれの生けるを知らん時、

父喜びて莫大の賠償君に贈るべし』 50

しかく陳じて將軍の胸裏の思動かせば、

彼はアカイア輕舟の中に其捕虜送るべく、

之を從者に附せんとす、その面前にとぶ如く、

アガメムノーン馳けて來て大喝なして叫びいふ、

『ああ懦弱なるメネラオス、など敵人を憐むや? 55

トロイア族のおほいなる好意を汝館内に

嘗て受けしや? 一人だもわれらの手より蒙らす

無慘の破滅避けしめな、まだ胎内にある子すら

免るべからず、悉く皆絶やすべし、一片の

墳墓も跡もトロイアの空に留めず絶やすべし。』 60

アガメムノーンかく宣ぶる忠言聞きて弟は、

心を變じ手をのしてアドレーストスを引き握み、

投げてあなたに打ち飛ばす、倒るゝ彼の脇腹を

突きて殺して、勇猛のアートレ,デース其胸を

踵に踏まひ鋭刄の槍を死屍より引き拔きぬ。 65

その時高くネストール、アルゴス勢に叫び曰ふ、

『友よ、ダナオイ諸勇士よ、神アレースの從者らよ、

汝等の中何人も、戰利の品を飽く迄も

水師の中に運ぶべく、後に留りて掠奪の

業にいそしむこと勿れ、たゞ敵人を打倒せ、 70

後に靜に原上に彼等の死屍を剥ぎ得べし』

しかく陳じておのおのの意氣と勇とを奮はしむ。

その時トロイア軍勢はアレース愛づるアカイアの

軍に追はれてイーリオス城内さして逃げんとす。

プリアモスの子ヘレノスはすぐれし占者斯くと見て、75

アイネーアスとヘクト,ルのかたへにたちて之に曰ふ、

75 プリアモス王の子にして占術を能くする者は彼と妹カッサンドレーとのみ。

『アイネーアスよ、ヘク,トルよ、戰鬪並に評定の

席に汝等一切に優る、汝等トロイアと

リキエー二族信頼を最も多くおくところ、

汝四方を※る後こゝに留り、わが軍を 80

城門前に引き止めよ、さらずば逃げて城に入り、

婦女に抱かれ戲れて敵の嗤笑を招くべし。

かくてすべての軍隊を勵し勇士を鼓する後、

疲勞厭はずもろ共にこゝに留り、アカイアの

軍に敵して戰はむ、運命われに迫り來ぬ。 85

ヘクト,ル、汝城に入り我ら二人の母に曰へ。

母は丘の上祭らるる藍光の目のアテーネー、

神女パラスの殿堂の聖門鍵もて開き入り、

中にトロイア城内の主婦を普く集むべし、

母はしかして館中にもてる衣裳の數々の 90

中に、最美と最秀と認め最も愛づる者、

そを雲※のアテーネー神女の膝に捧ぐべし。

更に母また盟ふべし、トロイア城と城中の

妻子老幼憐みて、神女計りてイーリオン

そこより猛き敵の將、恐怖をわれに起すもの、 95

ヂオメーデース攘ひなば其壇上に一歳の

無垢の子牛の十二頭感謝をこめて捧げむと。

チュウデーデースは敵中の、わが見るところ最勇士、

怖るべきかな、女神より生れしと傳ふアキリュウス、

其にも増して恐るべし、ああ猖獗や此敵士、 100

その烈々の剛勇を彼と比すべき者あらず。』

92 坐像と見ゆ、衣を神女に捧ぐる模樣の彫刻はアテーナイ府のパルテノーン殿堂にあり。

しか宣んすればヘクトール其同胞の言に聽き、

武具を携へ戰車よりひらり大地に飛び降り、

鋭利の槍を揮り舞はし諸隊遍ねく經※りて、

之を勵まし猛烈の戰鬪に驅け進ましむ。 105

かくして彼等引き返しアカイア勢に向ひ立つ。

アルゴス陣は退きて其殺戮の手を留め、

心に思ふ、衆星の羅る天を降り來る

とある神明トロイアを助けて斯くも奮はすと。

その時トロイア軍勢に大音に叫ぶヘクトール、 110

『ああ豪勇のトロイア族、又遠來の援軍ら、

わが友! 汝の勇を鼓し、その面目を耻ぢしめそ。

我れイリオンに赴きて而して評議司どる

長老及び妻女等に勸め促し、慇懃に

諸神に祈祷捧げしめ、犧牲の盟爲さしめむ』 115

堅甲光るヘクトール、しかく宣んして立ち去れば、

今背に負へる彼の盾隆起の飾もてるもの、

其縁をなす黒き革、頸と踵を亂れ打つ。

117 楯は枠の上に黒き皮革を張り、上に金屬の板を蓋ふ。皮革は金板の外に食み出で縁を爲す。退く時は此楯を背に負ふ。楯は大にして足に屆く。

ヒポロコスの子らグラウコス、又チューヂュースの武勇の子、

各々はげしく戰鬪を望み二陣の前に出づ、 120

かくして二將間近く互に迫り寄する時、

雄叫び高き豪勇のヂオメーデース先づ陳ず、

『ああ無常なる人間の中に秀づる君はたそ?

名譽を競ふ戰場に我は初めて君を見る、

影長く曳く鋭鋒の、これこの槍に手向へば、 125

君は正しくその勇氣凛々として他に勝る。

わが剛勇を敵とする子らの父こそ不幸なれ。

さはれ君若し天上を降れる神の一ならば、

我れ戰はず、天上の神を敵とし戰はず。

ドリアスの子のリコオルゴス勇すぐれしも天上の 130

神を恐れず敵として遂に壽命は永からず。

ニューセイオンの丘の上ヂオーニソスの諸の

保姆をいにしへ驅りし彼れ、リコオルゴスは無慘なる

尖れる棒に追ひたてて、彼らの杖を悉く

地上に投じ棄てしめぬ、ヂオーニソスは恐ぢ震ひ、 135

海の潮の底くゞる、テチスその時その胸に

人のおどしに震ふ彼恐怖の彼を抱き取りき。

リコオルゴスを悠々の生を送れる神明は

かくして憎み、雷霆のヂュウスは彼の目を奪ふ。

かくて程なく彼逝けり、不死の諸神の憎しみに。 140

われ慶福の神明と戰ふことを敢てせず、

されど大地の産物を食ふ人間の身なりせば、

汝近づけ、速かに死滅の域に入らんため』

129 ヂオメーデースが神と戰ひしこと前の V にあり、此段と矛盾す。

ピッポロコスの勇しき子息答へて彼に曰ふ、

『ああチューヂュースの勇武の子、我の素生をなど問ふや? 145

樹の緑葉のそれのごと人の素生も亦然り、

風は樹葉を吹き去りて大地に散らし、森林は

春の新たに囘る時他をまた芽出し長ぜしむ。

斯く人間の世代も時に生れて時にやむ。

されど多くの人々の能く知る如く、われの系、 150

君もし委細知らまくば今われ君に陳すべし。

馬匹の産地アルゴスの郷の一都市エピュレーに、

いにしへ住めるシシューポス・アイオリデース、策略は

衆に優りき、優る者生みたる其子グローコス、

そのグローコス比類なきベレロポンテース産みなせり、 155

神の惠に此勇士美にして威あり猛からず。

彼に國王プロイトス禍害たくらみ領土より

放ちて外に遣はしぬ、王プロイトス、アルゴスの

中にヂュウスの寵によりあまねく部下を服せしむ。

是より先きに彼の妻艶麗の妻アンテーア、 160

私かに勇士慕へどもベレロポンテ,ス警めて、

操守正しく身を守り邪戀の聲に耳貸さず。

淫婦怒りてプロイトス夫王に讒し告げて曰ふ、

『ああプロイトス、亡び去れ、さなくば我に不義の戀、

迫りし彼の命を絶て、ベラロポンテスとく殺せ。』 165

しか陳ずるを耳にして王ははげしく憤ほる。

されども彼を恐るれば其殺害を敢てせず、

計りて彼をリキエーに送り、たためる帖の中、

其殺害の命令を記せるものを齎らして、

岳父の許に致さしむ、彼の一命絶やすため。 170

かくて諸神に導かれ行きて流のクサントス

又リキエーに着ける時其廣大の地のあるじ、

リキエー王は慇懃に勇士を崇め、もてなしつ、

九日續いて宴開き九頭の牛を牲にしつ、

あくるあしたに、紅の薔薇色なる指もてる 175

曙の神エーオース現はれし時、彼に問ひ、

其愛婿のプロイトス送れる帖を求め取り、

之を開きて中にある凄き命令讀める時、

彼に命じてまづ先きに猛き常勝のキマイラを

神の系たるキマイラを敵とし行いて破らしむ、 180

怪物の身は前は獅子、後はドラゴン、中は山羊、

炎々として物凄き火焔口より吐けるもの。

ベレロポンテス神明の教奉じて怪物を

倒せる後に引き續きてソリュモイ族と戰へり。

その戰鬪は人中の至難のものと彼は曰ふ。 185

更に續きてアマゾネス、勇武の女軍亡ぼせり。

其凱旋の途待ちて王は新たにたくらみつ、

廣き領土のリキエーの中に至剛の徒を撰び、

埋伏せしむ、然れども彼等は家に歸り來ず、

ベレロポンテス勇奮ひ皆悉く打ち取りぬ。 190

其時王は神明の種とし彼を認め知り、

彼を留めて彼の手に愛女を與へ、更に又

王者の名譽一切の半を割きて讓り去る、

リキエー族は加ふるにすぐれし領土一部割き、

彼に與へり、豐沃の果樹と穀との美し地を。 195

ベレロポンテス勇將の妻は三兒を擧げ得たり、

イサンドロス、ヒポロコス、ラオダメーアを擧げ得たり、

ラオダメーアにクロニオーン、雷霆の神契りつゝ

黄銅鎧ひ神に似るサルペードーンを生みなしぬ。

ベレロポンテス、さり乍ら後に諸神に憎まれつ、 200

心を蝕し悄然と、一人さびしく漂浪の

旅に人目を避け行きぬ、アレーイオスの原上に。

ソリュモイ族の勇士らとイサンドロスの戰へる

時にアレースあらびつつイサンドロスを亡ぼしぬ、

またアルテミス憤りラオダメーアを亡しぬ。 205

殘るは獨りヒポロコス、彼ぞ正しくわれの父。

我をトロイア戰場に送りてわれを警めぬ、

つねにすべてに立ち勝れ、すべての中の至剛たれ、

エピュレー及び廣大のリキエーの地に産れ來て、

歴代常にかち得たる祖先の名譽汚す勿と。 210

系統及び血族のいはれは斯くと我誇る』

146 有名の句、シモニデス曰く、『キオスの人(ホメーロス)の句に云々あり』人生の無常は XXI 464―467 にも説かる、人間の不幸を嘆ずるは XVII 445―447, XXIV 525.

152 こゝはペロポンネソス全部を指す。エピュレーは恐らくコリントス。

155 本名はヒッポノス、其族人ベレロスを殺せる故にベレロボンテースと呼ばる。

163 淫婦の邪戀の物語、グリースに於て他に有名なる者はヒポリュトスのそれ、ユーリピデース之を悲劇となす、後代にセネカ又更に後代にラシイヌの作あり。

169 ホメーロス時代に文書の技ありしことを明示す。

200 晩年狂ふ。

しか陳ずれば大音のヂオメーデース悦喜しつ、

即ち槍を取り直し大地の胸に衝き立てつ、

睦みの言句向ひ合ふ將に對して宣し曰ふ、

『さてこそ君は昔より祖先傳來われの友、 215

我の勇祖父オイニュウス其舘中にそのむかし、

ベレロポンデ,スもてなして二十日に亘り宿らしめ、

更に互の友愛に美麗の品を取り換へき、

紫染めし燦爛の帶をわが祖父彼の手に、

黄金製の盃をベレロポンテスわが祖父に、 220

その盃は門出にわれ邸中に殘しきぬ。

アカイアの軍テーベーに敗れし昔、家を辭し

父チューヂュウス去れる時我幼くて見覺えず。

我今かなたアルゴスに主として君を迎ふべし、

我リキエーを訪はん時君また我を迎ふべし。 225

さらばこれこの戰場に互の槍を避けしめよ。

神明われに惠垂れ、わが健脚の及ぶもの、

トロイア及び援軍の中に打ち取る者多し。

同じくアカイア軍勢の多くを君は打取らむ。

いざ今軍裝われと君換うべし、父祖の傳來の 230

友たることを兩軍の戰士ひとしく知らんため。』

216 IX 535 以下に又オイニュースを説く、彼はチューヂュウスがテーベーに戰死の後、孫ヂオメーデースを育つ。

しかく陳じて戰車より兩將等しく飛びおりつ、

互に手と手握り合ひ誓言互に曰ひ換はす。

その時ヂュウス・クロニオーン、グローコスの智を奪ふ、

ヂオメーデース、勇將と彼は武裝を取り換へぬ、 235

百牛の値の黄金を九牛の値ある黄銅に。

232 213に槍を大地につきたつとあり。矛盾。

234 此奇異なる結末は了解に苦む。

こなた英武のヘクトール、西大門と山毛欅の木に

着けばトロイア城中の夫人息女ら寄せ來り、

子弟と友と良人の消息切に尋ね問ふ。

將軍さはれ儼然と誡め、神に祈るべく、 240

禍害を憂ひおびえたるすべてに命をのべ傳ふ。

かくて華麗の宮殿に王プリアモス住む處、

彫琢こらす柱廊を具へるほとり到り着く。

そこに琢ける石の室互に隣り築かるる

其數五十、元戎の王プリアモス生みなせる 245

諸王子おの/\正妻と共に起き伏しするところ、

更に同じく國王の息女のために設けられ、

廣き中庭隔てたる向ひの側に彫琢の

石にて成れる室十二、王プリアモスの愛婿ら、

その貞淑の妻共に鄰り起き伏しする處、 250

そこに慈愛の母夫人、息女の中に艶麗の譽の

高きラオヂケイ倶し、將軍に向ひ來つ、

親しく彼の手を執りて彼に對して陳じ曰ふ、

237 スカイアイ(西門の意)。

『我が子何故戰場の荒びを棄ててこゝに來し?

荒びて狂ふアカイアの軍勢迫り城壁の 255

側に戰ふ、かるが故汝の心イリオンの

高き壁上神明に祈り上げよと命じけむ。

暫く休め、甘美なる芳醇我はもたらさむ。

クロニーオーン及び他の諸神にはじめ奉り、

次に我子よ口にして汝の元氣とり直せ、 260

疲れし人に玉盃は頗る可なり、汝今

勇を奮ひて同胞を禦ぎて痛く疲れたり』

堅甲光るヘクトール即ち答へて陳じいふ、

『あはれわが慈母、甘美なる酒を齎すこと勿れ、

恐らく我を弱らしめ、勇と力と棄てしめむ。 265

洗はざる手に黒き酒クロニオーンに捧ぐるを

われは憚る、雷雲を集むる神に血と塵に

まみる不淨の手を擧げて祈らんことは許されず。

さはあれ君は香料を携へ、老いし女性らを

倶して藍光の目の神女、アテーネーの宮詣づべし。 270

居館の中に蓄ふる最上最美のよき衣、

君の最も愛づるもの、そを取り出し、鬢毛の

美なる神靈アテーネー其膝のへに奉れ、

而して誓へ、神女若しトロイア及び城中の

女性並に小兒らを憐みおぼし、チュウーヂュース 275

生める猛將、恐るべき戰將・禍難を釀す者、

彼を聖なるイーリオン城外遠く攘ふ時、

初歳の牝牛十二頭無垢なるものを捧げんと。

いざやわが慈母、アテーネー神女の宮をさして行け、

われはパリスの許を訪ひ彼に命ぜん、わが言に 280

彼もし耳を貸すとせば。ああ今大地忽然と

彼に向ひて開けかし、ウーリュンポスの神かれを

育て、トロイア、プリアモス並に諸子のおほいなる

詛となせり、彼にして冥王の府に落ち行くを、

わが目親しく見るとせば苦き不幸を忘るべし。』 285

281 IV 182.

然か宣んすれば母夫人その館中をめざし行き、

從者に命じ城内の老いし女性を集めしむ。

しかして香を薫じたる奧に進めり――もろもろの

千紫萬紅身を飾る衣服はそこに數知らず。

美貌のアレクサンドロスひろき海原漕ぎ返し、 290

名家の娘ヘレネーを誘ひし同じ途の上、

シドーンの地より得たるもの、シドーンの少女織りしもの。

中の一枚とりあげてヘカベー之を獻つる、

そは巧妙を極めたる最美最麗、燦として、

星の如くに耀きて、すべての下に藏めらる。 295

即ち之を携へて侍女を率ゐて宮に行く。

かくして高き丘の上、神女パラスに詣うづれば、

頬美しきテアーノー、アンテーノルの配にして

父は老將キッセイス、トロイア人に撰ばれて、

宮の祭司となれる者、彼らのために戸を開く。 300

悲しみ叫ぶ女性らは神女に向ひ手を擧げつ、

頬美はしきテアーノー衣服を取りて鬢毛の

美なる神女の膝の上、獻じ捧げて雷霆の

クロニオーンのおほいなる息女に祈り求めいふ、

292 ポエニキエー(ヘニキア)の最古の都。

298 V 69, XI 923.

『ああ端嚴のアテーネー、尊き神女、わが應護、 305

ヂオメーデースの大槍をくじかせたまへ、願くは

彼れスカイアイ大門の前に直逆に落ちよかし。

トロイア及び城中の女性小兒に哀憐を

賜はば初歳の子牛らの無垢なるものを十二頭、

直ちにこゝに牲として此神殿に捧ぐべし』 310

祈願をかくは陳んずれどそを納受せずアテーネー。

斯く雷霆の神の子に彼等は祈る、――かなたには

パリスの華美の邸さして脚を進むるヘクトール、

邸はトロイア城中の勝れし工匠もろともに、

主公自ら建てしもの、居室と堂と中庭と 315

精美を窮め高き地に造られ、王者プリアモス

及び英武のヘクトール、彼等の邸は皆近し。

神の愛するヘクトール、今此邸に進み入り、

十一ペークス長き槍燦爛たるを手に握る、

穗は黄銅の製にして、根元を金の環包む。 320

パリスは室の中にして華麗の武具を整へつ、

楯と胸甲、角弓を其手に取りて調べ居り、

侍婢の間に坐を占むるアルガエエーのヘレネーは、

之を督して工藝のいみじき業に勤めしむ。

將軍その時パリスを見、罵辱の言句吐きて曰ふ、 325

『奇怪の汝、憤慨を胸裏に宿すこと勿れ、

見よ、衆軍は城壁に、或は城市の傍に

陸續として打死にす、城市のほとり戰鬪の

叫喚高く亂るるは汝の故ぞ、汝また

他の者戰場逃げ去らば必ず之を罵らん。 330

起たずや、敵の兵燹に都城の亡び燒くる前』

326 メネラオスと一騎討し危きに臨める時トロイア軍は彼を助けざりき。

容姿は神の如くなるパリス答へて彼に曰ふ、

『ああヘクトール、剴切の君の呵責を我は受く、

さらば答へむ、願くは心に留め、我に聞け、

トロイア軍に憤り、怨み怒りて我こゝに 335

坐するに非ず、只獨り悲哀に浸り耽けるため。

いま我が妻も温柔の言句によりて勵して

我を戰場に驅らんとす、我また之を善しと見る、

勝利の運は敵自方互に遷るものなれば。

さはれ君待て、軍裝を我の整へ終るまで 340

或は先に進み行け、續きて君に追ひ附かむ』

336 一騎討に失敗せるが故に。

堅甲光るヘクトール默然として答無し、

其時ヘレネー蜜に似る甘美の言を陳じ曰ふ、

『ああ我が義兄、禍の基となりて恐るべき

我は狗にも似たる者、――わが母我を産みし時、 345

颶風の氣息われを驅り山上或は大海の

潮の底に行くすゑを消すべかりしを、さありせば

山海我を葬りてこれらの禍難起り得じ。

さはれ神明この難をその意に決し遂げし後、

我なほ衆の憤慨と罵詈とを解し、其責を 350

感じて更に良き人の妻としならば善かりしを!

あはれ此人その心堅固に非ず、後も亦

然らむ、斯くて應報をいつしか受けむ、我は知る。

さはれ君今内に入り、此椅子につけ、わが義兄、

狗にも似たるわが故に、パリスのなせる咎ゆゑに、 355

他の一切を打越して君の心は惱めるよ。

ああクロニオーン、運命の惡きを加ふ、斯くありて

末代遠き人々に我れ醜名を歌はれむ』

343 可憐なる美人の懺悔(III 173 參照)。

357 III 164.

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、

『ヘレネー、汝、慇懃に我を留むること勿れ、 360

從ひ難し、わが心トロイア勢の應援に、

我を驅り立つ、彼ら今我無き故に悲めり。

勵ませ汝この人を、彼また自ら急ぐべし、

わが城中にある中に來りて我に會すべく。

いざ今行きて我が邸を訪ひて家臣と恩愛の、 365

妻と可憐の子とを見む、ああ我れ知らず、後に又、

此一身を全うし歸りて彼ら見るべきや、

あるは神命アカイアの手中に我を委すべきや』

堅甲光るヘクトール、しかく宣して別れ去り、

建造いみじき其邸に到る、されども邸中に 370

アンドロマケー、皓腕の恩愛の妻見出さず、

妻女は幼兒携へて美服纒へる一侍女と

共に城上の塔の中、慟哭しつゝ立ち留る。

貞淑の妻邸中に見出し得ざるヘクトール、

戸口に行きて立ち留り、侍女らに向ひ宣し曰ふ。 375

『侍女らよ、汝、眞實を委細に我に打明けよ、

邸中去りて皓腕のアンドロマケー今いづこ?

我の姉妹や訪ひ行きし? あるは美服の義妹にか?

あるはトロイア女性らが鬢毛美なる恐るべき

神女に祈祷奉るパラスの高き殿堂か?』 380

その時とある忠勤の老女答へて彼に曰ふ、

『正しき報道我に君、命じたまへり、ヘクトール。

君の姉妹に、あるは又、美服を纒ふ義妹らに、

はたトロイアの女性らが鬢毛美なる恐るべき

神女に祈祷奉る宮に夫人の脚向かず、 385

トロイア軍勢迫られて敵軍盛に奮へるを、

聞けるが故にイリオンの大塔さして脚運び、

さながら狂女見る如く、急ぎ走りて城壁に

今たゝずめり、乳母また共に幼兒を抱き行く』

その言聞けるヘクトール、直ちに邸を走り出で、 390

先に來りし道の上、再び急ぐ脚進め、

城中過ぎてスカイアイ(その大門を駈け出でて

戰場さして進むべき)ほとりに來り着ける時、

彼に逢ふべく高貴なるアンドロマケー駈せ來る。

(森の掩へるピラゴスの高地の麓テーベーに 395

住みてキリケス民族の主領なりけるエーチオーン、

エーチオーンの生みたるはアンドロマケー、――トロイアの

黄銅鎧ふヘクトール、娶りて彼の妻としき)

夫人近より來る時、ひとりの侍女は從ひて、

胸に幼齡の兒を抱く、恩愛の父ヘクトール 400

めでいつくしむ幼兒は美麗の星にさも似たり。

(父ヘクトール命ぜし名、スカマンダリオス、然れども

衆人呼べる彼の名はアスチュアナクス――其父は

ひとりイリオン守るため)、彼れ今無言にほゝゑみて

愛兒眺むる傍にアンドロマケー近よりて、 405

涙を流し彼の手を執りて言句を宣し曰ふ、

394 結納の豐富なる意。

402 河神スカマンダロスより?

403 「防都者」

『あはれ良人、勇により君は亡びん、幼齡の

子をも不幸の我身をも君憫まず、速かに

ああ我れ寡婦となりぬべし、――アカイア勢は一齊に

君を襲ひて斃すべし、君失はば我むしろ 410

泉下に入るを善しとせむ――君その破滅告ぐる時、

我には一の慰藉なし、殘るは獨り幽愁の

暗のみ、あはれ恩愛の父母もろともに我に無し。

アキルリュウスは我父を殺しぬ、彼は殷賑の

キリケス族の都なる城門高きテーベーを 415

荒らしつくして我の父エーイチオ,ンを亡しぬ。

さはあれ彼は憚りて其戰裝を剥ぎ取らず、

その精巧を盡したる武具もろともに彼を燒き、

その上に墓を打ち立てつ、後に雷霆のクロニオーン

生める、山住む仙女らは、めぐりに楡の樹を植えぬ。 420

はた我ともに殿中に育ちし同胞七人は、

皆悉く同じ日に冥王の府に落ち行きぬ、

皆悉く蹣跚と歩む群牛、銀色の

羊兒のそばに脚速きアキリュウスに殺されぬ。

森の掩へるプラゴスを領せし我の母夫人、 425

そを擒にしアキリュウス、他の數多き鹵獲とも

こゝに連れ來て其後に、無量の賠償受け納れて

放ちぬ、されどアルテミス、父の居城に母を射ぬ。

さればヘクト,ル、君は今我にとりては父と母、

兄弟を兼ね、しかも猶ほ勇氣盛のわが所天。 430

されば自ら身を愛し、こゝ塔中に留れかし、

愛する者を無慚にも孤兒また寡婦と爲す勿れ。

また衆軍を無花果樹のほとりに留めよ、其ほとり

防禦薄くて敵の軍容易に中に入り得べし。

三たび最強の敵の軍、來りて之を試みき、 435

二人のアイア,ス、高名のイドメニュース、又更に

アートレ,デース、勇猛のヂオメーデース將として。

恐らく誰か神託を悟りて之を勸めしか?

或は彼ら自らの武勇促がし寄せ來しか?』

416 XXI 42 は同名異人。

428 VI 205 に他の例。

堅甲光るヘクトールその時答へて彼に曰ふ、 440

『妻よ、この事悉く同じく我の胸にあり、

されど怯者の如くして我もし戰避くとせば、

トロイア滿城男女らは何とか曰はむ、恐るべし。

我の心も之を責む、我は學べり剛勇に

常に振舞ひ、トロイアの先鋒中に戰ひて、 445

祖先の名譽、わが名譽、露だも汚すべからずと。

ああ我は知る、心中に我明かに感じ知る――

日は來るべしイーリオン、聖なる都城亡びの日、

槍に秀づるプリアモス、民衆ともに亡びの日。

さはれ來らんトロイアの禍難、わが母ヘカベーの 450

それすら、父王の禍難すら、はた勇猛に戰ひて

敵に打たれて塵中に、俯伏しなさむ同胞の

その禍難すら、汝ほどわれの心を惱さじ。

黄銅鎧ふアカイアの一人酷く縛めて、

涕にくるる汝の身囚へ引き去る其禍難。 455

斯くて恐らくアルゴスに主人の命に從ひて

布帛織らむか、あるは又メッセーイスかヒュペレーア、

泉の水を擔はむか、つらき運命身を壓して。

しかして流涕の汝を見、ある者他日かく曰はむ――

「彼の夫はヘクトール、イリオン城の戰に 460

馬術巧みのトロイアの陣中最も猛き者」

斯くこそ他日人曰はめ、新たの悲哀汝の身

襲はむ、奴隷の境地より救ふべき者あらずして。

あゝわれ汝の囚はれと悲痛の叫び聞かん前、

大地穿ちて墳塋の暗なす底に入らまほし!』 465

448 著名の句、IV 164 參照、カルタゴー落城を眺めしシピオ(アフリカヌス)此句を吟ぜしと曰はる。(アッピアンのカルタゴ戰爭百三十二章)

450 父母以上に妻を悲む、僞らざる告白か。東洋倫理とのコントラスト。

しかく宣してヘクトール、愛兒に向ひ手を延せば、

父を眺めつ、燦爛の甲に恐れつ、甲の上

馬尾の冠毛おそろしく搖ぐを眺め、驚怖せる

幼き者は泣き出し、叫喚高く面背け、

華麗の帶を纒ひたる乳母の胸に身を隱す。 470

之を眺めて恩愛の父と母とは微笑みつ、

直に英武のヘクトール頭より甲を取りはづし、

燦爛として輝けるまゝに地上に据えおきつ、

胸に愛兒を抱き取り、手中に彼をあやしつゝ、

クロニーオーン及び他の諸神に祈願捧げ曰ふ 475

『ヂュウス並に諸の神靈願はくわれの子を、

我と等しくトロイアの中に著名の者と爲し、

勇猛の威も等しくてイリオン城を治せしめよ。

然らばわが子戰の場より歸り、血と塵に

まみれし鹵獲もたらして母の喜たらん時 480

「父にも優る英豪」と讃して人は稱ふべし』

しかく宣んして愛妻の手中に愛兒抱きとらす、

涙ながらも微笑みて香焚きこむる胸の中、

愛兒抱くを眺めつつ、憐憫そゞろ堪え難く、

手を延し妻をかい撫でて慰め語るヘクトール、 485

『不便の者よわが爲めに悲み過すこと勿れ、

何らの敵も運命に背きて我を倒し得ず、

一たび生を享くる後、勇怯を問はず、人間の

いかなる者も運命を逃るべからず、ああ思へ!

いざ今家に立歸り、おのれの業に心せよ、 490

機と裃とに心せよ、而して侍女に命下し、

おのおの業に就かしめよ、戰こそはイリオンに

住める男兒の身の勤め、特に中にもわれの分』

488 XII 325.

しかく宣してヘクトール馬尾冠毛の兜取り、

頭にのせぬ、可憐なる妻ははてなき涕涙に 495

潜然としてあまたたび見送りながら別れ去り、

やがて堅固に築かれし英豪の將ヘクト,ルの

舘に歸りて數多き侍女に委細を物語り

その哀號を擧げしむる、――其時侍女ら舘の中、

大ヘクトール、其主公、生ける間に悲めり、 500

アカイア族の勇猛の手を免れて戰の

場より再び歸ることあり得べしとは信ぜねば。

かなたパリスは棟高きその舘中に留らず、

黄銅製のすぐれたる武裝に其身固めつゝ、

その健脚に信をおき、城中過ぎて急ぎ行く。 505

そを譬ふれば厩中に飽くまで糧を喰みし駒、

繋げる手綱ふりほどき、原上さして馳け出す、

清き河流に浴すべく馴れたる駒は揚々と、

高く頭を振り上げつ、肩のめぐりに鬣を

亂しつ、かくて雄麗の姿に誇り、神速の 510

脚を飛ばして牧草の繁れる場に行く如し。

斯く丘上のペルガモス降り、燦爛の武具ひかる

プリアモス王生める子のパリス恰も日輪の

如く輝き、高らかに笑ひて速き脚進め、

直ちに兄のヘクトール、妻と語れるその場より 515

別れ去る時認め得つ、容姿さながら神に似る

弟アレクサンドロスまづ口開き陳じ曰ふ、

『わがためらひの長くして急げる君を停めしを、

君、乞ふ許せ、尊命の如くにわれは來り得ず』

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、 520

『正しき心持てる者、誰も汝を戰鬪の

技に暗しと賤めず、汝まことに勇士なり、

たゞ惜むらく怠りて其意志弱し、その爲に

我は悲む、トロイアの人の口端惡評を

汝の上に聞ける時、汝の故に我惱む。 525

さはれ今起て! 此事を他日正して補はむ、

黄銅鎧ふアカイアの軍をトロイア城外に、

驅逐し去りて、掌中に天の永遠の神明に

感謝の盃を捧ぐべく、クロニーオーン惠む時。』

第七歌

アテーネーとアポローンの二神戰を終らんがためヘクトールを促し、敵の最勇者に一騎討を挑ましむ。 アカイアの勇將九人應じて立てる中、籤によつてテラモニデース、アイアース撰に當る。 兩雄の勇戰。 夜に到りて中止、アガメムノーンの陣に食事の後ネストール休戰して屍體を焚かんとす、又城壁と塹濠とを設けしむ。 トロイア軍にアンテーノール和議を提出しヘレネーを返さんとす、―パリス反對す。 翌日プリアモス使をアカイア陣に送る。 談判成らず。 兩軍屍體を葬る。 アカイア軍土工を起す。 海神ポセードーン怒る。 兩軍眠る間雷鳴はげし。

しかく陳じて城門を急ぎて出づるヘクトール、

弟アレクサンドロス之に伴ふ、兩將は

情念切に激烈の奮戰苦鬪こゝろざす。

譬へば水夫海上に善く琢かれし楫使ひ、

波浪の上を長く漕ぎ疲勞に四肢の弱る時、5

神憐みて順風を望める彼に惠むごと、

しかく二將は待望のトロイア勢に現はれぬ。

其時パリス打ち取るはアレーイトオス王の息、

アルネーに住むメネスチオス、父は巧みに矛使ふ、

目は牛王のそれに似るプュロメヅウサは彼の母。 10

エーイオニュウス黄銅の甲戴く其へりの

下に其頸鋭刄の槍に貫くヘクトール。

ピポロコスの子グラウコス、リキエー軍に主たる者、

亂軍中に槍投げて、デキシアデース、イーピノス、

速き戰車に飛びのれる彼の肩射て貫ぬけば、 15

眞逆に戰車より地上に落ちて息絶えぬ。

8 VIII 137.

13 第六歌の二二九。

斯く猛烈の戰にトロイア諸將アルゴスの

軍を破るを眺めたる藍光の目のアテーネー、

ウーリュンポスの頂を降り聖なるイリオンに

着きぬ。其時ペルガモス丘上高くアポローン、 20

神女を眺め、トロイアの戰勝願ひ降り來つ、

二神斯くして樫の木の傍互に相向ひ、

銀弓の神アポローンまづ口開き宣んし曰ふ、

『クロニーオーン、雷霆の神の息女よ、新なる

何等の思念切にしてウーリュンポスをおり來しや? 25

戰運決しアカイアに勝利を惠むためなりや?

ああ亡び行くトロイアの運命、君は憐まず。

さはれ君もし諾はばその事遙かに善かるべし、

今日はしばらく兩軍の戰爭こゝに止めしめよ、

後日再び奮鬪を初めて遂にトロイアの 30

亡滅あらむ、此都城破壞し去るは、君及び

他の諸の神明の心に協ふことなれば』

藍光の目のアテーネー其時答へて彼に曰ふ、

『しかあらしめよ、勁箭を遙かに飛ばす君―われも

同じ思にトロイアとアカイア陣のたゞ中に 35

來りぬ、さはれいかにしてこの戰鬪をとゞむべき?』

ヂュウスの神子アポローンその時答へ陳じ曰ふ、

『戰馬を御するヘクト,ルの勇氣を奮ひ起たしめよ、

彼はアカイア陣中の勇士に挑み、まのあたり、

戰慄すべき戰を一人と一人決すべし、 40

黄銅鎧ふアカイアの軍勢はたまたいきどほり、

猛きヘクト,ル敵とする一人の勇士勵さむ』

藍光の目のアテーネー其言聞きてうなづきぬ。

しか計らへる二位の神、神意悦ぶ計らひを

王プリアモス生める息ヘレノス胸に感知して、 45

行きて英武のヘクトール訪ひて向ひて陳じ曰ふ、

『王プリアモス生める息、智は神に似るヘクトール、

君と我とは同じ胞、君今我に聽くべきか?

トロイア及びアカイアの軍勢ひとしく坐らしめ、

アカイア勢の中にして至剛の者を君挑め、 50

戰慄すべき決鬪に來りて我と戰へと。

死の運命は未だなほ君に到らず、しかくわれ

天上不死の神靈の聲を正しく聞き取りぬ』

45 VI 76.

しか陳ずればヘクトール聞きておほいに歡喜しつ、

陣中行きて其槍のもなかを握り、トロイアの 55

すべての部隊おし留む、衆は即ち地に坐しぬ。

黄銅鎧ふ自方をばアガメムノーン坐せしめぬ。

藍光の目のアテーネー、銀弓の神アポローン、

兩軍眺め喜びて、アイギス持てる天王の

聖なる樫の樹の上に、身を猛禽の形にして、 60

坐せばトロイア、アカイアの兩軍おの/\密集の

部隊をなして地に坐しぬ、盾と兜と槍並めて。

60 神々の變形、XIV 290, XIII 62 にも。

あらたに起るゼピュロスの氣息巨海にかかる時、

下に海潮その爲めに黒むが如き樣見せて、

アカイア及びトロイアの兩軍共に原上に 65

坐せり。其時ヘクトール間に立ちて宣し曰ふ、

『われに聞けかし、胸中の心の命を今曰はむ、

トロイア勢よ、脛甲の善きアカイアの軍勢よ。

高き位のクロニオーンわが盟約を遂げしめず、

禍難心にたくらみて、こを兩軍に課せんとす。 70

やがて汝等壁高きトロイア城を奪はんか、

或は汝等水軍のほとりわれらに敗れんか。

全アカイアの軍勢の諸將汝の軍にあり、

其中一人其心わが敵たるを望むもの、

こゝに來りてヘクトールわれと勝敗決せずや? 75

今われ宣んす、わが言の證者たれかしクロニオーン!

若し黄銅の鋭刄に我を倒さば、わが武具を

剥ぎ取り之を水軍の中に持ち去れ、然れども

われの屍體は返すべし、かくてトロイア城中の

男女ひとしくわが死屍に火葬の禮を行はむ。 80

若しアポローン光榮を我に與へて、我彼を

打たば武裝を剥ぎ取りて聖イリオンに運び行き、

神、銀弓のアポローン祭る祠堂に掲ぐべし、

而して死屍は汝等の水師の中に返すべし、

さらば長髮のアカイアの衆人之を葬りて、 85

ヘレースポントス廣原のほとりに墓を築くべし。

さらば將來生るべき人のあるもの、舟にのり、

暗緑そむる大海を漕ぎめぐりつゝ見て曰はむ、

「こは古の遠き日の人の墳塋、すぐれたる

彼を光榮のヘクトール戰ひ勝ちて倒しぬ」と。 90

かくこそ曰はめ、かくありて我が名聲は亡ぶまじ』

69 IV 64―72 參照、本篇 69―72 を後世の添加とするはリーフ。又曰く先に III に於てメネラオスとパリスとの決鬪あり、而してトロイア軍の盟約の破壞あり、今また再度の決鬪は詩作上一貫の道に非ず、IIIよりも本篇は古き作なるべし云々。

82 鹵獲の武具を神に捧ぐるは古來の習。

86 廣き意味に於ての。

しか宣んすれば默然と衆人共に鳴靜む。

其挑戰を拒まんは恥辱、うくるは身の危難、

やがて勃然メネラオス身を振り起し、憤慨の

吐息もあらく衆人を罵詈の言句に叱り曰ふ、 95

『ああ嗚呼汝ら大言者、汝ら今はアカイアの

男兒に非ず、婦女子のみ、ダナオイ族の一人も、

彼ヘクト,ルに向はずば何ら無上の屈辱ぞ!

ああああ汝悉く水と土とに成りはてよ、

汝ら全く譽なく皆茫然とこゝに座す。 100

いざ今彼に向ふべく武裝を我は整へむ、

勝敗いづれ、天上のたゞ神明の旨にあり』

99 咒詛の意を包む、「空しく元の水土に歸せよ」此罵詈の言メネラオスに相應せず、全軍は彼のヘレネーの故に惱む。

しかく宣んしてメネラオス華麗の武具を身に裝ふ。

ああメネラオス! その時にアカイア諸王立ちあがり、

なんぢを止め、更にまたアガメムノーン自らも、 105

汝の右の手を取りて汝に叫ぶなかりせば、

汝の命はヘクト,ルの手中に遂に落ちつらむ。

トロイア名將ヘクトール、はるかに汝の上にあり。

アガメムノーン叫び曰ふ、『汝狂へり、メネラオス、

その狂何の要もなし、扣へよ怒はげしとも、 110

汝に優る英豪に敵し戰ふこと勿れ、

プリアミデース・ヘクトール、彼を諸將は皆恐る、

ペーレーデース・アキリュウス遙かに汝に優るもの、

それすら恐るヘクトール、彼に敵すること勿れ、

汝今行き友軍の間に汝の席占めよ。 115

アカイア軍は敵すべき他の勇將を起たしめむ。

其者誠に勇にして戰つねに飽かずとも、

凄き兵亂、恐るべき挌鬪逃れ出でん時、

思ふに彼は喜びて疲勞の膝を息ませむ。』

119 ヘクトールと戰ひ生還せば幸ならむ。

アガメムノーンかく宣し、その愛弟を説き諭す、 120

理の當然にメネラオス聽けり、その時喜びて

彼の肩より戰裝を從者ら共に解きおろす、

ついで老將ネストール立ちてアカイア軍に呼ぶ、

『ああああ悲し、大哀はアカイア軍に降り來ぬ。

ああ汝等ヘクト,ルを恐れ震ふを耳にせば、 125

いかに嘆かんペーリュウス、騎馬の老將すぐれたる

ミルミドネスの評定者、また辯論者、そのむかし、

其館中に我に問ひ、アルゴス族の血統と

素生を聞きて喜べるああかれ老雄ペーリュウス、

高く手を擧げ神明に祈り求めん、魂魄の 130

肢體を離れ暗深き冥王の府に落ち行くを。

ああわが天父クロニオーン、又アテーネー、アポローン、

むかしペーアの城壁のほとり、急流ケラドーン、

又ヤルダノス岸上にピュリオイ族と槍使ふ

アルカデス族戰ひし、其時我は若かりき。 135

其日眞先に戰ひて猛勇神の如くなる

エリュウタリオーン穿ちしはアレーイトスの着し武裝。

アレーイトスは戰爭に弓を用ゐず、長槍を

使はず、獨り鐵の矛揮ひて敵の堅陣を

破るが故に人々は、帶美はしき女性まで、 140

矛の勇士と綽名しき。アレーイトスを勇將を

力に因らず計略に因り、狹隘の道の上、

打ち倒せしはリュコルゴス、そこには彼れの鐵の矛、

彼の破滅を救ひ得ず、不意に襲ふてリュコルゴス、

槍もて腹部貫けば彼れは地上に打ち斃る、

かくて軍神アレースの賜へる鎧剥ぎ取りつ、

その後つねに戰亂の場に其武具身に着けつ、

やがてさしものリュコルゴスその殿中に老いし時、

エリュウタリオーン愛臣に之を讓りて穿たしむ。

之を穿ちて傲然とあらゆる勇士挑みしも、 150

勇士等共に恐ぢ震ひ彼に抗するものあらず。

其時衆中年齡に於て最も若かりし

我奮然と進み出で、かの勇將に手向へる

戰の果、光榮をわれに賜へりアテーネー、

躯幹最も大にして、勇氣最も勝れたる 155

彼はわが手に倒されて大地の上に身を延しぬ。

其時の如我れ若く勇力今に續き得ば、

堅甲光るヘクト,ルに忽ち向ひ戰はむ。

汝らアカイア全軍の中の至剛と誇るもの、

汝ら立ちてヘクト,ルと戰ふことを敢てせず』 160

124 I 254.

128 ネストール先にペーリュウスの舘に來りアキリュウスを訪ひトロイアに向はしめき。(XI 765)

134 ヤルダノスはセミチク起原ヨルダンと同じ。

134 ネストールの族。

137 矛の勇士アレーイトスをリュコルゴスは倒して其鎧を奪ひ後之をエリュウタリオーンに讓る。其エリュウタリオーンをネストール打ち取る

143 六歌一三〇のと同名異人。

老將しかく罵れば勇將九人立ち上がる、

眞先きに早く衆の王アガメムノーン身を起し、

次にチュウヂュウス生みなせるヂオメーデース、又次に

勇氣飽く迄逞しき同名二人アイアース、

彼らの後にイドメネー、また彼の友英豪の 165

メーリオネース、其勇はアレース神に似たるもの、

ユウリュピロスは之に嗣ぐ、ユウアイモーン生める息、

つづくはトアス、其父はアンドライモーン、また次に

神明に似るオヂュシュウス、みなヘクト,ルと戰はん。

167 II 638.

168 II 736.

ゲレーニャ老將ネストール其時彼らに告げて曰ふ、 170

『何人撰に當るべき? そを籤に因り決めしめよ。

善き脛甲のアカイアの全軍彼を喜ばむ。

彼また自ら心中に深く喜悦を感ずべし、

凄き兵亂、恐るべき挌鬪逃れ出でん時。』

しか宣んすれば諸將軍おのおの籤に記號附け、 175

アガメムノーン總帥の兜の中に之を入る。

その時衆は高らかに其手を擧げて大空を

仰ぎ、各神明に祈願捧げて陳じ曰ふ、

『神、願くはアイアース、ヂオメーデース、あるは又

黄金富めるミケネーの王に此籤落ちしめよ』 180

180 アガメムノーン。

衆は斯く曰ふ、ゲレーニャの老將兜打振れば、

籤は兜の外に出づ、正しく衆の望むもの、

アイアースのそれ、傳令使即ち之を手に取りて、

右より始め順々に諸將のもとを巡り行く。

アカイア陣中他のものは之を認めず、こを知らず、 185

かくてあまねく經※りて、末アイアース其籤に

記し兜に投じたる勇士のもとに到るとき、

アイアース手をさしのぶる、使者近よりて其籤を、

渡せば記號認め得て勇將軍そゞろ歡喜しつ、

脚下に之を地に投じ衆に向ひて叫びいふ、 190

189 これに因らば當時文書の術あることは明かならず。 VI 168 と矛盾す。以上はある評家の説なれど此場合は記合を用ゐるが正當なり。

『見よや同僚この籤を! 嬉し正しく我の者、

『我は正しく大豪の彼ヘクト,ルに打ち勝たむ。

さはれ今我戰裝を着くる間にわがために、

クロニオーン雷霆の神に祈願をたてまつれ、

聲をな立てそ、トロイアの軍勢之を聞き取らむ、 195

否、公然と曰ふもよし、我何ものも恐れねば。

何もの敢て勇力にはた計略に意のままに、

我を敗らむ、サラミスに生れ育ちしアイアース、

我甘んじて敗れむや! われ戰術に暗からず。』

しか陳ずれば雷霆のクロニオーンに祈りつゝ、 200

アカイア軍勢天上を仰ぎてかくも叫び曰ふ、

『イデーの嶺にまつらへる至上至高のクロニデー!

勝利並びに光榮を賜へ、われらのアイアスに。

さはれ等しくヘクト,ルを愛さば共に兩雄に

賜へ、等しき勇力を、賜へ等しき光榮を』 205

然く衆軍祈るまに黄銅光る鎧着つ、

武具一切を身のめぐり整へ了るアイアース、

さながら巨大のアレースの進むが如く驅けいだす、

雷霆の神クロニオーン荒き戰果すべく、

命じ進むる諸の勇士の中に軍神の 210

進むが如くアカイアの堅き城壁アイアース、

大身の槍を打ち揮ひ、顏面凄く笑浮べ、

歩武堂々と軍勢の中より立ちて馳け出づる――

その勇猛の姿見てアカイア軍は歡喜しつ、

トロイア軍は戰慄の肢體めぐるを禁じ得ず。 215

ヘクトールなほ心臟の鼓動高まる、然れども

挑戰われより初むれば逃避するを得べからず、

はた退きて同僚の隊伍の中に混じ得ず。

近きに迫るアイアース、巨塔に似たる盾を取る――、

牛七頭の皮重ね、更に其上黄銅を 220

張りし大楯、ピュレーの地住める名匠チュキオスの

精を盡して彼のため造りしところ、燦爛の

光を放つ黄銅は第八層を成せる盾、

其盾胸の前にしてテラモニデース・アイアース、

近く英武のヘクト,ルに迫り威嚇の言放つ、 225

221 ボイオーチアーの一市。(II 800)

『知れ明かに、ヘクトール、威は獅子王の如くして、

敵の軍陣打ち碎くアキルリュウスを外になほ、

アカイア陣中剛勇の將軍こゝに數あるを。

ああアキリュウス、彼は今潮に浮ぶ曲頸の

船中殘り衆の王アガメムノーンに憤る。 230

汝を敵に戰はんわが同輩は數多し、

起て今汝、いざわれと戰ひ、勝負決すべし』

堅甲光るヘクトールその時答へて彼にいふ、

『神より生れしアイアース・テラモーニオス、衆の將、

戰鬪の技覺えなき弱き小兒を見る如く、 235

或は女性見る如く我を侮ること勿れ、

我れ戰鬪の技を知り善く殺戮の技を知る、

我れ牛革の大楯を右に左に打振りて、

常勝の威を振ふべく勇み戰ふ技を知る、

我れ迅速の馬の驅る兵車の上の馳驅を知る、 240

我れ健脚を踏み鳴らすアレース神の舞踏知る、

されどさすがの勇猛の汝を我は埋伏の

途には打たず、打つべくばわれ公に戰はむ』

234 テラモニデースに等し。

しかく叫びて影長く曳く大槍を打ち飛ばし、

革七重の恐るべきテラモーンの子の盾に當て、 245

まづ貫ぬくは外の端、第八枚の黄銅皮、

鋭き槍は六枚の革つんざきて内に入り、

第七枚に觸れて止む。やがて續きておのが順、

神より生れしアイアース影長く曳く槍飛ばし、

プリアミデース・ヘクトール持つ圓楯に打ち當てつ、 250

その燦爛の大楯を鋭き槍は貫ぬきて、

巧窮むる胸甲の裏をかきつゝ進み入り、

利刄は更に脇腹のかたへに被服つんざきぬ。

敵はその時身をそばめ死の運命を免がれぬ。

ついで兩將手を延して各々槍をぬきとりつ、 255

奮然として彼と此互に襲ひ、生肉を

食ふ獅子王見る如く、暴べる野猪を見る如し。

プリアミデース敵將の盾のもなかを槍あげて、

突けど黄銅貫かず、鋭刄脆く先曲る。

今奮進のアイアース、敵の盾打ち猛然と 260

貫き通しヘクト,ルを勇み乍らもよろめかす。

見よ鋭刄は彼の頸觸れて鮮血迸る、

堅甲光るヘクトールされど戰鬪まだ止めず、

數歩すざりて路の上其目に觸れし巨大なる

黒き巖石逞しき腕に取り揚げ振り飛ばし、 265

アイアス持てる七重の盾を目がけて投げつけつ、

盾のもなかの浮彫を打てば鏘然鳴りひゞく、

續いてやがておのが順、更に一層のおほいなる

石振り上ぐるアイアース、怪力こめて打ち當てつ、

碾臼の石見る如き巨大の打撃盾碎き、 270

盾に潰され打たれたる敵將の膝疵つけて、

身を仰向きに倒れしむ、アポローン之を引き起す。

ついで兩將劔を取り互に迫り近きて、

打たんずる折、神明と人との使、彼と此、

トロイア及び黄銅を鎧ふアカイア軍勢の 275

中より來るイダイオス、タルチュビオスも細心に。

兩使即ち兩將の間に笏をさし入れつ、

忠言馴るるイダイオス知慮ある使者は宣し曰ふ、

『汝等二人戰をやめよ、爭ふこと勿れ、

汝等共に雷霆のクロニオーンのめづる者、280

汝等共に勇猛の戰士、われ等の知る處、

夜は來れり其命に因りて休むを善しとせむ』

テラモーニオス・アイアース其時答へて彼に曰ふ、

『汝の言に答ふべくヘクト,ルに曰へ、イダイオス、

わが軍陣の諸勇士にまづ挑みしはヘクトール、 285

彼ははじめに答ふべし、彼從はゞ從はむ、』

堅甲光るヘクトール其時答へて彼に曰ふ、

『ああアイアース、神明に長躯と智慮と勇武とを

合はせ惠まれ、アカイアの中に無双の名槍手、

けふの奮戰挌鬪を是迄に留め引き分けむ。 290

後日新にまた汝敵としわれは戰はむ、

神明二者を相判じ、勝をひとりに賜ふまで。

夜は來れり、其命に因りて休むを善しとせむ。

斯くして汝水軍のかたへ、アカイア全軍を――

特に汝の朋友とめづる同僚慰めむ。 295

プリアモス王司どる、城壁の中われも亦、

歸りトロイア軍勢と長く裾曳く女性らを

喜ばすべし、わがために祈らむ彼等神殿に。

別れに臨み贈答のすぐれし品を換へしめよ、

然かせばアカイア、トロイアの各人やがて斯く曰はむ、 300

「心を碎く憤激に因りて彼等は鬪へり、

されども後に和ぎて友誼結びて別れたり」』

しかく陳じて銀鋲を打てる長劔、その鞘と

合はせて更に、精巧の革帶加へ與ふれば、

こなた勇武のアイアース紅燦爛の帶贈る。 305

かくて兩將別れ去る、彼はアカイア軍陣に、

これはトロイア友僚の中に。――友僚恙なく

テラモーニオス・アイアスの勇武の手より免れて、

生きて歸れる彼を見つ、その安全を期せざりし

衆は歡喜の情に滿ち、彼を城裏に導きぬ。 310

脛甲堅きアカイアの軍勢こなたアイアスを、

勝を喜ぶ總帥のアガメムノーンに連れ來る。

アートレ,デースの陣營に彼ら斯くして着ける時

アガメムノーン衆の王、彼らのために雷霆の

クロニオーンに牲として五歳の牡牛奉る。 315

即ちこれが皮を剥ぎ、これを調理し四肢分ち、

巧みに肉を切り割きて串に貫き火にかざし、

心用ゐて善く炙り、炙りて火より取り出す。

調理の技の了る時、宴の準備の終る時、

衆はおのおの食に就き、皆平等に飽き足りぬ。 320

されどもひとりアイアース受けしは脊筋長き切れ、

アガメムノーン、民の王、彼の譽にこを與ふ。

かくて衆人口腹の慾を飽く迄滿たす後、

ゲレーニャ騎將ネストール―評議の席に至上なる―

彼今先に忠言を試みんとし立ち上り、 325

思慮を豐かに慇懃に彼らに向ひ陳じ曰ふ、

313 第七歌後半の初まり。

315 II 403―405 參照。

『アートレ,デース及び他の全アカイアの諸將軍、

見よ長髮のアカイアの衆人亡び、鮮血は

スカマンダロス奔流のほとり、アレース軍神に、

無慚に蒔かれ、魂魄は冥王の府に沈み去る。 330

されどあしたの曉にアカイア軍を休ましめ、

我一齊に集りて牛また騾馬に痛むべき

屍體をこゝに運ばしめ、かくして之を水陣の

近くに燒かん、しかすれば他は故郷に歸る時、

彼等可憐の子息らに其白骨を頒ち得む。 335

更に火葬の場近く土を原頭集め來て、

すべての爲めに墳塋を、又速かに其そばに、

船舶及び軍勢の禦ぎに壁を築くべし。

又堅牢の諸の門を設けて、其中に

戰馬の通る一條の道をおのおの開くべし、 340

壁を※りて外傍に塹濠深く穿つべし、

かくせば軍馬軍勢を外に停むることを得む、

荒び高ぶるトロイアの戰禍襲ふを防ぎ得む』

しか宣んすれば一齊に諸將は之に贊し聽く。

こなたトロイア衆族の會は恐ろし、かまびすし、 345

王プリアモス司どるイリオン城の門のそば。

アンテーノール思慮深く其時衆に宣んし曰ふ、

『トロウエス又ダルダノイ、また援軍も我に聞け、

わが胸中の心肝の命ずる儘に我曰はむ、

急ぎて起ちてアルゴスのヘレネー及び其資財、 350

アートレ,デースに引き渡せ、我軍今は誓約を

破りてこゝに戰へり、其誓約を果さずば、

わがトロイアの陣中に何らの好事望み得ず』

348 トロイア人。(複數)

しかく宣んして坐に着けば、續いて立てり鬢毛の

美なるヘレネー妻とする美貌のアレクサンドロス、 355

彼に答へて怫然と羽ある言句陳じ曰ふ、

『アンテーノール! 君の言、われの喜ぶものならず、

これより優る他の言句、君は宣ぶべき術を知る、

今曰ふ處眞實に述べりとなすや? さもあらば

神明君の分別を定めし奪ひ去りつらむ。 360

馬術巧みのトロイアの諸軍に我は今曰はむ、

其まのあたり我曰はむ、わが妻敵に返さずと、

さはれかの時アルゴスの地より、我家に齎らしし

資財は彼に返すべく更に我のも附け足さむ』

しかく陳じて坐につけば、續きてたてりトロイアの 365

ダルダニデース・プリアモス聰明神に似たる者、

思慮をこらして慇懃に衆に向ひて陳じいふ、

『トロウエス又ダルダノイ、又援軍もわれに聞け、

わが胸中の心肝の命ずる儘に我曰はむ、

例の如くに城中に歸りて今まづ食を取れ、 370

而して守備を心して其警戒を解く勿れ。

明くるあしたにイダイオス敵の水軍さして行き、

アガメムノーン、メネラオス二將に面し、今パリス

陳ずるところ傳ふべし、ああかれ戰禍の基なり、

使者また思慮の言述べん、敵人之に應じ得ば、 375

叫喚怒號の戰をしばらく止めて、戰場の

屍體を燒きて其後に更に新たに戰はむ、

神明二軍を相判じ勝を一方に惠む迄』

しか宣んすれば衆人は耳傾けて聽き贊じ、

次に部隊に相別れ各々夜の食を取る。 380

あくるあしたにイダイオス使となりて、アカイアの

水陣を訪ひ、アレースに仕ふる諸軍もろともに、

アガメムノーン總帥の舟のめぐりに集るを見る、

其集團の中にたち使者大音に叫び曰ふ、

『アートレ,デース及び他の全アカイアの諸將軍、 385

聽けプリアモス及び他のトロイア諸將命下し、

われに曰はしむ(其言を願はく諸君贊せずや?)

言は正しくパリスの語(彼は禍難の基なり)

いにしへアレクサンドロス其舟中にトロイアに

持ち歸りたる財寶を(其前死せば善かりしを) 390

皆悉く返すべく、更におのれの財足さむ、

たゞ光榮のメネラオス王の正妃は返し得ず、

パリス斯く曰ひ、トロイアの諸人の諫止きき入れず、

更にかれらの曰ふ處傳へて我は陳ずべし、

叫喚怒號の戰をしばらくやめて、戰場の 395

屍體を燒きてやがて後、神明二軍を相判じ、

勝を一方に惠む迄戰ふことを欲せずや?』

しか宣んすればアカイアの全軍鳴りをしづめ聞く、

中に憤然立ちあがるヂオメーデース叫び曰ふ、

『今何人もパリスより、財寶或はヘレネーを 400

得ること勿れ、トロイアに破滅の運の迫れるは、

すでに明か、聰明を缺ける者すら皆知らむ』

しか陳ずればアカイアの全軍共に聲あげて、

贊し、馬術に巧なるヂオメーデースの言に聽く。

アガメムノーン斯くと見てイダイオスに向ひ曰ふ、 405

『汝自ら、イダイオス、聞けりアカイア族の言、

彼らの答、今聞けり、我が意も、是と相同じ。

さはれ屍體に關しては我は火葬を拒むまじ、

生命すでに亡びたる死者に對して何人も、

火葬によれる迅速の靈の慰藉を拒むまじ。 410

雷霆の神クロニオーン、我がこの誓聞し召せ』

しかく宣んして神明に向ひて笏をさし上げぬ。

かなた使のイダイオス、トロイアさして歸り去る。

トロウエス又ダルダノイ其衆共に一齊に、

集議の席に坐を占めて使者の歸を待てる時、 415

歸り來れるイダイオス、彼らの中に立ち乍ら、

齎らし來る使命述ぶ。衆人之に從ひて、

屍體を運び薪材を求むる業の用意しつ。

同じくかなたアカイオイ、急ぎ水師を立ち出でて、

死體或は薪材を運ばんためにいそしみぬ。 420

滉瀁として靜かなるおほわだつみを昇り來る

日輪天に耀きて光大地に觸るる時、

トロイア・アカイア兩軍は又原頭に相會す。

血汐にまみれ汚されて、面貌分くるよしもなき

死屍におの/\水灑ぎ、洗ひてかくて兩軍は 425

熱き涙を潜然と流し車上に之をのす。

さはれ偉大のプリアモス號泣するを禁ずれば、

默々として炎々の火上に屍體積みて泣き、

火葬を終へて神聖のイリオンさして歸り行く。

同じくかなた堅牢の脛甲つくるアカイオイ、 430

心傷めて炎々の火上に屍體積み上げつ、

火葬終りて中廣き軍船さして歸り行く。

その夜深更、空おぼろ、曉光未だ出でぬ前、

火葬の場の傍に立てるすぐれしアカイオイ、

原頭、土を運び來てそこに一つの共同の 435

墳墓を築き、更にまた其傍に長壁と

高塔造り、兵船と軍勢共に防がしめ、

中に堅固に組み立てし諸門を設け、門内に

戰車驅るべき道備へ、また長壁を取りまきて、

其外端に幅廣く水量深く、おほいなる 440

塹濠穿ち、濠中にあまたの杙を植えつけぬ。

毛髮長きアカイアの軍勢かくもいそしみぬ。

電光飛ばすクロニオーン・ヂュウスのかたへ坐を占むる

諸神これらのおほいなる作業見おろし驚きぬ。

大地を震ふポセードーンその時眞先に宣んしいふ、 445

『ああわが天父クロニオーン、果なき地上人間の

ある者此後神明に心を意思を宣ぶべきか?

君は見ざるや? 髮長きアカイア族は其船の

前に長壁築き揚げ、更にめぐりに塹濠を

穿ちて、しかも神明にいみじき犧牲怠れり。 450

壁の譽は曉光の廣まる限り大ならむ、

而して我とアポローン、ラーオメドーンのためにして、

力盡してかの都城築きし聲譽忘られむ』

450 重大の事に當りて神に祈り牲を捧ぐるは古の聖き習ひ、アカイア人怱々の際此式を怠る。

453 XXI 493 參照。

雷雲寄するクロニオーン慨然として答へ曰ふ、

『ああ大地を震ふ者、威力の汝何を曰ふ! 455

神明の中汝より腕力及び豪勇の

劣れる者はかの業に恐怖抱くもさもあらむ、

さはれ曉光布く限り汝の光譽大ならむ、

奮へ、長髮のアカイアの軍勢こゝを一齊に、

船を率ゐて打上げて彼等の郷に去らん時、 460

その時汝かの壁を倒し怒潮に投じ入れ、

廣き岸上悉く沙塵の山におほひ去れ、

かくてアカイア軍勢の壁はあとなく亡ぶべし』

かく天上に神々は言を換はして相謀る。

まなく夕陽沈み去り、アカイア軍の作業成る。 465

かくて陣中牛屠り衆は夕の食を取る。

レームノスより船あまた、ユウネーオスの遣はせる、

酒積みのせて岸にあり、彼を生めるはイエーソーン、

民の王たるイエーソーン、ピュプシピュレーは彼の母。

アガメムノーンとメネラオス、アトリュウス生む兩子息、 470

之に醇酒の千「メトラ」ユウネーオスは贈り來ぬ。

毛髮長きアカイアの諸人、舟より酒を買ふ、

そのあるものは黄銅に、或は光る鋼鐵に、

或は皮に、あるものは牛に、或は囚へたる

奴隷に代へて酒を買ひ、豐かの宴を用意しつ、 475

かくてよすがら長髮のアカイア族は樂めり。

トロイア及び同盟の軍勢かなた又同じ。

されどよすがらクロニオーン、其胸中に災難を

たくらみ高く雷震ふ。爲めに衆みな畏怖の色、

其盃を傾けて大地に灑ぎ、クロニオーン 480

神に灌酒の禮了へて、初めて酒盃口に觸る、

つづいて衆人床に就き甘き睡眠味へり。

第八歌

ヂュウス衆神に命じて兩軍に助力すること勿らしむ。アテーネーは其命に從へどアカイア軍に忠言せんことを乞ふ。朝より正午に到り兩軍互に死傷あり。正午を過ぎヂュウス黄金の秤を取り出し二軍の運命を量る。アカイアの非命決定せらる。アカイア諸將退却。ヘクトール追撃。ヘーレー之を見て悲みポセードーンを促してアカイア軍を助けしめんとするも聽かれず。アガメムノーン憤然として諸將卒を勵ます。アカイア諸將の奮戰。射手チュウクロスの功名。――ついでヘクトールの爲めに敗られ退く。ヘーレーとアテーネーはアカイア軍の退却を悲む、而かもヘクトールの死を豫言す。兩神進んでアカイア軍を助けんとするを認めてヂュウス大に怒りイーリスを遣はして之を止む。夜にいたりて休戰、ヘクトール衆軍を激勵す。クサントス川とトロイア城との間、原上の夜營と篝火。

番紅花色の衣着る曙光の神女エーオース、

全地照せば雷霆のクロニーオーン、連峯の

ウーリュンポスの頂に、諸神の會議催しつ、

親しく言を宣んすれば諸神ひとしく之を聞く。

1 XI XIX 及び其他曙光の神の出現を以て初まる篇多し。

3 IV 1, 參照。

『諸神並に諸神女ら、われの宣んする言を聞け、5

わが胸の中、心肝の命ずる處我のべん。

何ら神女も又神も我の言句に抗すべく

試みなせそ、一齊に之を贊せよ、しかあらば

此等の業を迅速に我は遂ぐるを得べからむ。

汝等の中誰にてもひとり離れてトロイアに 10

或はかなたアカイアに救助を望み行かんもの、

ウーリュンポスに歸る時、恥づべき打撃被むらむ。

我は其もの引き捕へ、投ぜん暗きタータロス、

遠きほとりに、其中に地下最深の淵湛ふ。

其城門は鐵にして黄銅これが門戸たり。 15

冥府の下の其距離は天と大地の距離に似る。

神威至上の我たるを其もの斯くて悟るべし。

或は汝ら望みなば悟らんために試みよ、

黄金製の一條の鎖、天より垂れ下げて、

諸神ら及び諸神女ら、汝らこれに取りすがれ、 20

されど天より地の下にクロニオーンをおろし得じ、

力合せて勉むるも至高の我をおろし得じ。

されども我もし心きめ汝をしかく爲さまくば、

大地を海を汝らを皆一齊に下すべし、

ウーリュンポスの頂にわれ其時に其鎖 25

繋がば共に汝らは釣られて空に漂はむ。

諸神並びに人間に我の優るは斯くと知れ』

13 反抗する者を罰する場處、V 898 參照。

19 ヂュウスの力を述ぶ。19―26 に I 494―508 を參照すべし。

25 ウーリュンポスは神々の居として天と混同さるることあり、テサリアにある實際の山なれども

しか宣んすれば諸の神明默し靜まりぬ、

威風するどき宣告を諸神等しく驚きぬ。

藍光の目のアテーネー其時彼に答へ曰ふ、 30

『ああわが天父クロニデー、神明すべての中にして、

君の威力の至高なる、我等すべての知るところ、

されど飛槍に巧みなるアカイア種族、運命の

非なるを滿たし亡ぶるは、われの悲み泣くところ。

君命じなば戰に加はることを敢てせじ、 35

されど彼等を益すべき忠言彼に與へんず、

君の怒の故による彼等の破滅なきが爲め』

雷霆釀すクロニオーン、笑を含みて答へ曰ふ、

『1トリートゲネーア、わが愛女、安かれ、他には懇情の

言句用ひず、然れども汝に對し我やさし。』 40

39 アテーネーの別名 IV 515 參照。

しかく宣んして黄銅の脚、鬣は黄金に、

迅速さながら飛ぶ如き軍馬に車曳かしめつ、

身に黄金の裝着け、黄金の鞭、精巧を

盡せるものを手に取りて斯くて車上にクロニオーン、

鞭を加へて勵せば、勇む双馬は衆星の 45

羅る天と地の間飛ぶが如くに馳けり行く。

清泉多く涌きいでゝ野獸むれゐるイデー山、

其一偶のガルガロン、聖なる森と神壇の

薫ずるところ人間と神との父は駒とどめ、

戰車の外に解き放し、雲霧あたりに振り蒔きつ、 50

其光榮に誇ひて嶺上高く坐をしめて

見おろすトロイア城中とアカイア族の水陣を。

48 ガルガロンはイデーの最頂、海拔五六〇八フイート。

毛髮長きアカイアの軍勢はやく陣中に、

おのおの糧を喫し了へ、ついで軍裝身に纒ふ。

同じくかなたトロイアの軍、城中に武裝しつ、 55

婦女と小兒を護るべき要に迫られ、其數は

敵に劣るも奮然と勇み戰鬪こゝろざす。

かくて諸門は一齊に開かれ、歩兵また騎兵、

皆一齊に駈け出でゝ動亂四方に湧き起る。

兩軍かくて相進み原上互に逢へる時、 60

矛を打ち合ひ、槍飛ばし、黄銅鎧ふ軍勢の

勇と勇とを鬪はし、浮彫高き大楯を

互に近く迫り寄す、斯くて戰亂湧き起り、

打たるる者と打つ者と叫喚怒號紛として

兩軍亂れ鬪ひて血は戰場を流れ行く。 65

曙光はじめて照りしより日の中天に昇る迄、

飛刄はげしく兩軍をうちて彼これ相たほる。

かくて光輪めぐり行き天の眞中を過ぐる時、

クロニーオーン黄金の秤取り出し其中に、

駿馬を御するトロイアと黄銅鎧ふアカイアの 70

運を――すべてに懸り來る死の運命を投じ入れ、

秤の眞中手に取ればアカイア非命の運沈み、

運傾きて慘憺と大地の上に垂れさがり、

之に反してトロイアの運は高くも天のぼる。

やがてイデーの高きより雷霆の神雄たけびつ、 75

アカイア軍に閃々の電火飛ばせば之を見て、

衆はひとしく驚愕に打たれて畏怖に青ざめぬ。

イドメニュウスも留らず、アガメムノーンも、アレースに

仕ふる二人、アイアース共に留らず、引きのきて、

ゲレーニャ騎將ネストール、アカイア軍を守るもの、 80

其馬打たれ斃るれば獨り留る、やむを得ず。

鬢毛美なるヘレネーの夫のアレクサンドロス、

一矢飛ばして其馬の頭を鬣生ゆるきは、

正しくぐさと射貫き、致命の傷をおはしむる、

矢は腦中に貫ぬけば苦痛にたへず飛び揚り、 85

もがき狂ひて馳けめぐり戰車戰馬をかき亂す。

と見る老將跳り出で利劒を拔きて曳革を、

切れば忽ち猛然と、戰場さしてヘクトール、

プリアミデース剛勇の將軍兵車驅り來る。

かくて老將一命はほとんど亡び去らんとす、 90

その時之を目にとむるヂオメーデース、大音の

勇將すごく雄叫びて、オヂュシュウスを叱り曰ふ、

69 ヂュウスの秤は此行の外三箇處に出づ。XXII 209 以下最も著し。XVI 258, XIX 223 參照。

81 斃されしは所謂脇馬なり。軛に附けらるる者に非ず、車の側面に繋がる。

『神より生れしオヂュシュウス、なんぢ智謀に富めるもの、

軍勢中の卑怯者の如くに汝背をむけて

いづこに逃る?、恐らくは背を鋭槍は貫ぬかん。95

返せもろとも強敵を攘ひ老將救ふべし。』

しか叫べども忍從のオヂュシュウス聞き取らず、

急ぎて馳せてアカイアの水陣中に身を潛む。

ヂオメーデース只一人殘り先鋒の中に入り、

ゲレーニャ騎將ネスト,ルの馬前に立ちて聲揚げて、 100

危急に迫る彼に叫び羽ある言句陳じいふ、

97 或は「聞き入れず」と解す、しかせば勇將の性質と矛盾す。

『あはれ將軍、激しくも若き戰士は君を攻む、

君の威力は衰へて苦の老齡は身に纒ふ、

君の從者は弱くして君の戰馬は脚おそし、

われの戰車に乘り移れ、トロースの馬原上を 105

縱横無碍にかけ※り、進退共に勇しく

飛ぶが如きを君は見む、アイネーアスの御せる者、

無双の駿馬、先にわれ彼より奪ひとりしもの、

君の戰車と戰馬とをわれの從者は心せむ。

いざわが車馬をトロイアの陣中向けむ。ヘクトール、 110

知るべしわれの手の中に鋭槍いかに強きかを』

108 V 323.

しか陳ずればゲレーニァの老將之に從へり。

ユウリュメドーンとステネロス、二人の從者猛きもの、

心やさしくネスト,ルの戰馬いたはり引きしざる。

かくて兩將もろともにヂオメーデースの車の上、 115

燦然として耀ける手綱を取りてネストール、

馬に鞭あて迅速にヘクト,ル目がけ迫り來つ、

ヂオメーデースましぐらに彼に鋭刄投げ飛ばす。

覘外れて其槍は戰車の手綱とれる者、

テーバイオスの生める息エ,ニオピュウスに打ち當る、 120

車上に立てる其從者、乳のほとりを貫かれ、

兵車の外に逆落ちて馬はあとへと引しざる、

撃たれし彼は其儘に魂魄さりて地に返る。

之を眺めしヘクトール悲哀に堪へず、然れども

斃るる儘に伏さしめて、更に新の勇猛の 125

御者求むれば、程もなく得たるはアールケプトレモス、

猛き勇士はイピトスの子息、忽ち脚早き

双馬の車上身を乘せて、新の御者は左右の手に

綱をかいとり、ヘクト,ルの傍にたちて任に就く。

その時禍難近づきて悲慘の業は湧き起り、 130

トロイア軍は小羊の如く城裏に入らんとす。

されど諸神と人間の父なるヂュウス之を見て、

高く雷音轟かし、霹靂飛ばし、爛として

ヂオメーデース乘る馬の其眼前にひらめかし、

炎々として燃え上る硫黄の焔舞ひおこる、 135

之に驚怖の双の馬戎車のもとにひれ伏せば、

燦爛の綱その手より緩めてはづすネストール、

恐怖に滿ちて慄然とヂオメーデースに叫びいふ、

『チュウデーデース、單蹄の馬を返して逃げ走れ、

神のまつらふ戰勝は汝にあらず、悟らずや? 140

雷霆の神クロニオーン今光榮を敵の手に

與へり、後日われに又好まば之を與へんか?

勇力いかにすぐるるも塵界の子はおほいなる

威力遙かに優る神ヂュウスの旨に抗し得ず。』

ヂオメーデース、大音の勇將答へて彼に曰ふ、 145

『老將軍よ君は今正しくこれらの事宣んす。

されどしかせば恐るべき悲嘆はわれの胸打たむ。

トロイア族の集會に曰はむ後の日、ヘクトール、

「われを恐れて其船にチューデーデース逃れきと」

かれ高らかに斯く曰はむ其時われに地よ開け』 150

150 死すること。

ゲレーニャ ネストール、其時答へて彼に曰ふ、

『ああチューヂュース生める息、汝何をか今曰へる?

卑怯無力とヘクトール汝をいつか罵るも、

何かはあらむ、トロイアとダルダニエーの男兒、又

トロイア女性信ずまじ、女性の夫、倔強の 155

勇士を汝塵中に斃したること幾何ぞ』

しかく宣んして單蹄の馬を返して戰場を

後に逃ぐればトロイアの軍勢並にヘクトール、

叫喚はげしく槍投げて彼の後追ひ迫り來つ、

堅甲光るヘクトール大音擧げて彼に曰ふ、 160

『チューデーデーよ、駿馬驅るアカイア族は光榮の

席に酒肉の饗宴に汝を特に尊びき、

今は汝を侮らむ、汝女性に今似たり、

卑怯の少女逃げ走れ、われを敗りてひるまして、

わが城壁を攀ぢ登り、われらの女性水陣に 165

奪ひ歸るを善くせんや、その前汝命盡きむ。』

ヂオメーデース之を聞き思は二途に相分る、

馬首を轉じてヘクト,ルに向ひ勝敗決せんか、

戰場あとに逃れんか、三たび心に迷ふ時、

三たびイデーの高きより迅雷震ふクロニオーン、 170

トロイア軍に應援のしるし勝利を報ずれば、

トロイア軍にヘクトール大音あげて叫びいふ、

『トロイア勢よ、リキオイよ接戰死鬪のダルダノイ!

汝わが友、勇猛の威力を奮へ、男子たれ!

クロニーオーン喜びて戰勝及び光榮を 175

われに、敵には敗亡を與へしことを我は知る。

愚かや、彼ら築きたる長壁脆く弱くして、

效なし、さはれ其爲めにわれの力を分つまじ、

廣き塹濠容易くもわれの駿馬はとびこさん。

而して中の空虚なる敵の諸船に到る時、 180

焚燒凄き炎々の火焔を汝忘れざれ、

猛火に船を焚き掃ひ、烟に迷ふアカイアの

軍勢、船の傍にわが手親しく亡さむ』

宣んし了りてヘクトール更にその馬激し曰ふ、

『クサントス又ポタルゴス、ランポス及びアイトーン、 185

汝ら飼養の恩思へ、アンドロマケー、おほいなる

エーイチオーンのまなむすめ、すぐれし女性蜜に似る

甘味の麥をはましめて、さらに汝の願ふとき、

彼女の配と誇る我、我に先んじ芳醇の

酒を汝に飮ましめし飼養の恩を今拂へ。 190

急ぎて馳けよ、ネスト,ルの盾をわれ今獲んがため、

矛も取柄も黄金の、――其名聲は天上に

ひびきし盾を獲んがため、更に巧みに造られし

ヂオメーデースの介冑を、ヘープァイストス鑄るがため

勞せしものを、勇將の肩より奪ひ取らんため、 195

此らの二つ奪ひ得ばアカイア勢は今宵にも

――われは望まむ 迅速に航する船に乘り込まむ』

祈り斯くいふヘクトール――かなたに怒る端嚴の

ヘーレー其坐立ちあがりウーリュンポスを搖がしつ、

即ち行きてポセードーン大神の前宣んしいふ、 200

『あゝ大地をゆする者、遠く威力の及ぶ者、

ダナオイ族の壞滅に汝心を傷めずや?

ヘリケー及びアイガイに豐かの供物齎らしし

彼らを思へ、戰勝を彼らの爲に心せよ。

アカイア族に身方するわれら、トロイア軍勢を 205

攘ひ、雷霆のクロニオーン神に抗して起たん時、

イデーの嶺にたゞ獨り坐りて彼は悲しまむ』

202 ダナオイ=アカイオイ=アカイア族=アルゴス族。

203 ペロポンネソスの北岸(II 575)ポセードーンを崇拜の二市。

大地をゆするポセードーン、慨然として答へ曰ふ、

『ヘーレー何ら大膽の言句を汝宣んするや!

クロニオーンに外の神あらがふ事をわが心 210

敢て願はず、われらより彼は遙かに強ければ』

二位の神明相向ひ、しかく談じぬ。こなたには

塹濠並に長壁と船との間に横はる

大地の上に一齊に、戰馬並に盾持てる

戰士群がる――アレースに似たる勇將ヘクトール、 215

プリアミデース、光榮を神より受けてこを集む。

その時アカイア軍勢を急ぎて立ちて鼓舞すべく

アガメムノーンを端嚴の神女ヘーレー勵ましつ、

斯くしてアカイア水陣は凄き兵燹免れぬ。

大王即ち水軍と陣營さして進み行き、 220

權威を示すおほいなる紫袍を腕にかいとりつ、

オヂュシュウスの黒き船、舷側廣き前に立つ、

船は眞中に位置を占め、テラモニデース・アイアース、

またアキリュウス兩將の陣營左右に見渡して、

呼ばゝ彼らに聞かるべし(腕の力と勇氣とを 225

信じ、兩將其船を左右の眞先に並べしむ)

大王かくて朗々の大音放ち叫び曰ふ、

『恥ぢよ、汝ら、形のみ優る卑怯のアカイオイ、

先の廣言いづこぞや? 思ひいでずや? レームノス

かしこにありて大言し、至剛の者と誇らひつ、 230

角眞直なる牛王の肉を喫しつゝ、芳醇の

溢るゝ盃を傾けて叫びし聲はいづこぞや?

汝ら曰へり、戰場に一もて敵の百人に、

更に二百に當らんと、さるを一人のヘクト,ルに

敵するを得ず、彼は今猛火にわれの船燒かむ。 235

あゝわが天父クロニオーン、人界の王の孰れをか

君はかく迄懲らしゝや? かくも譽を奪へりや?

禍害の運にこゝに來し楫取多き船の上、

途に壯嚴の君の壇すぐるたびごと、堅城の

トロイア軍の壞滅を祈りて、爲めに牛王の 240

脂肪美肉を捧げしを今明かにわれは曰ふ。

あゝクロニオーン願くはわれの祈りを受け納れよ!

危難逃れて一命を保つを許せ、トロイアの

軍勢われに打勝つをあゝ願くは許さゞれ』

229 遠征の途中に上陸せる地。

237 II 111 參照。

涙流して陳ずるをクロニーオーン憐みつ、 245

アカイア軍に破滅なく免るべきを首肯しつ、

禽鳥中にすぐれたる鷲を下せば、猛鳥は

足敏捷の牝鹿の子、可憐のものを其爪に

攫み舞ひおり、壯嚴の神壇の前、アカイアの

衆その牲を神明に捧ぐるほとり投げおろす。 250

鳥はヂュウスのもとよりと見たる軍勢勇み立ち、

トロイア軍を進み撃ち、奮鬪すべくこゝろざす。

その時接戰つとむべく戰馬を敵に向け直し、

塹濠躍り越さしめし、諸軍の數は多けれど、

チュウデーデース凌げりと誇り得るものあらざりき。 255

ヂオメーデース眞つ先に駈けてトロイア一勇士、

プラドモーンの生める息、アゲラオスを打ちとりぬ、

馬を囘して逃るべく、退く敵の背を槍に、

肩と肩との間うち胸貫けば車上より

大地に落ちるアゲラオス、黄銅の武具高なりぬ。 260

ヂオメーデース追ひ、次ぎて、アガメムノーン、メネラオス、

又之に次ぎ勇猛の威勢の二人アイアース、

イドメニュウスは又次に、續きて彼の從者たる

メーリオネース、殺戮のアレース神に似たる者、

ユウアイモーンのすぐれし子、ユウリピュロスは又續く、 265

順は九番のチュウクロス、彈力強き弓を取り、

テラモーンの子アイア,スの楯のうしろに立ち留る、

其アイアースその楯を時に少しく擡ぐれば、

その隙間よりチュウクロス四方眺めて敵陣の

中の一人を覘ひ射る、敵は斃れて命おとす、 270

脚を返してチュウクロス、母の蔭なる子の如く、

燦爛光るアイア,スの楯のうしろに身を隱す、

255 即ち、ヂオメーデース。

257 XI 302 ヘクトールに殺されしアカイアの將、同名異人あり。

261 此 261―265 と VII の 164―167 とを比べ見るべし。

265 アイアースの異母弟。

彼の矢先にトロイアの陣中斃れし者や誰?

オルシロコスは眞つ先に、之につゞくはオルメース、

オペレステース、ダイトール、リュコポンテース、クロミオス、 275

ポリュアイモーンの生める息、アモパオス又メラニポス。

其諸勇士は順々に彼に射られて地に倒る。

アガメムノーン、衆の王、之を眺めつ、トロイアの

堅陣彼の強弓に崩れ亂るを悦喜しつ、

進みて彼の側に立ち、羽ある言句を宣んし曰ふ。 280

274 V 545 は同名異人。

274 XII 187 は同名異人。

275 XXI 210 のと別人。

275 V 160. V 677. XVII 218 のと別人。

『天晴、汝チュウクロス、覇者テラモーンのいみじき子、

アカイア軍に光明を、汝の父に光榮を

與へんとせば射續けよ、庶子なりしかど館内に

汝の幼稚なりし時、彼は汝を愛撫しき。

故郷に遠く離れたる彼の譽に名をあげよ。 285

われ今汝に宣んすべし、宣んするところ、きと成らむ、

アイギス持てるクロニオーン又アテーネー惠垂れ、

建造堅きイーリオン都城の破壞許す時、

我のすぐ後恩賞を汝手中に受取らむ、

鼎或は神速の二頭の駿馬、戰車とも、 290

或は美人、其閨を汝と共に分つもの』

いみじき若きチュウクロス其時答へ陳じ曰ふ、

『威光至上のアートレ,デー、自ら焦る我の身を

など勵ますや? 勇力のあらん限りは奮戰を

やめじ、わが軍イリオンをめがけ進みし日よりして、 295

羽箭飛ばして敵人を我は屡※射倒しつ、

鏃の長き勁箭をわれは八條射放ちて、

若く勇める敵人の體中深く沈ましむ、

されど我かの狂犬を未だ射倒すことを得ず』

292 呼格。

299 ヘクトール。

しかく宣んしてヘクト,ルを斃さん思胸に燃え、 300

彼をめがけて新たなる一矢弦より切り放つ。

其矢當らず、然れども王プリアモス生める息、

ゴルギュチオーン、勇猛の武者の胸をぞ貫ぬける、

カスチァナイラ、彼の母、麗容神女に似たる者、

アイシュメーより嫁し來る此麗人は彼生みき。 305

園中咲ける罌粟の花、其結ぶ實の重きより、

又陽春の露によりうつむく樣を見る如く、

射られし彼は戴ける兜の重みにうなだれぬ。

305 トレーケースの一市。

更に一箭チュウクロス、ヘクトール射て斃すべき

思に驅られ奮然と弦音高く切り放つ、 310

されどアポローン其矢先外らして胸を射せしめず、

矢は戰場に急ぎ來るアールケプトレモスの胸、

剛勇の武者ヘクト,ルの戰車驅るもの、其胸を

乳のほとりをひやうと射る、射られて戰車落ち降る

勇士地上に命おとし二頭の駿馬あとかへす。 315

御者の落命憐みて悲痛にたへぬヘクトール、

傷心いとゞ切乍ら、屍體をそこにふせるまゝ、

のこして更に傍のケブリオネース同胞に

戰馬のたづな握らしむ、其命彼は應じ聽く。

其燦爛の兵車より大地跳びおるヘクトール、 320

大音聲に叫びつゝ、手に大石を振り上げて、

若き弓手を斃すべく奮然として飛びかゝる、

其矢筒より一條の勁箭更に拔き出し、

その弦上にあつる時、堅甲光るヘクトール、

ねらひて弦をひく彼の肩に眞近く、頸と胸、 325

鎖骨によりて別たれて致命の急所ある處――

そこにきざある大石を投げてはげしく敵を撃ち、

筋斷ち切れば彼の手は麻痺しつ、彼は膝突きて

地上に倒れ、剛弓は彼の手はなれ地に落ちぬ。

されど英武のアイアース、倒れし弟眺め見て、 330

奔り來りて彼を守り其大楯に彼を掩ふ。

而して更に友二人、一はエキオス生める息、

メーキスチュウス、又一はアラーストール、近よりて

はげしくうめく負傷者を兵船中に搬び去る。

312 VIII 126.

318 XI 521, XVI 738.

333 XIII 422.

ウーリュンポスのクロニオーン、今又更にトロイアの 335

勇を鼓すれば奮ひ立ち、アカイア軍を塹濠に

追ひつむ、それの先頭に勇みて進むヘクトール、

脚神速の獵の犬、野猪を或は獅子王を、

追ひつゝ之に飛びかゝり、腰に或は其下肢に

噛みつき、彼の惱めるを見守る如くヘクトール、 340

毛髮長きアカイアの軍勢驅りて追ひ攘ひ、

後れしものを打ち取れば慌てふためき逃る敵、

逃げ塹濠と濠中の杭とを返り過ぎし後、

トロイア軍の手にかゝり無慙の打撃受けし後、

アカイア勢は兵船のかたへ留りて休らひつ、 345

互に諫め勵まして更に其手を高く擧げ、

神明皆に心こめ切に祈願をたてまつる。

こなた勇めるヘクトール、ゴルゴー或はアレースの

面見る如く物凄く、鬣美なる駿足を

あなたこなたに進むれば、敗れしものを腕白き 350

ヘーレー眺め憐みて藍光の目の神に曰ふ、

348 恐ろしき怪物。(XI 36)

『あゝ無慚なり、汝見よ、アイギス持てるヂュウスの子!

アカイア軍の亡ぶるを猶この際に救はずや?

運命惡くつらくして只一人の猛勇の

故に彼らは亡びんか、プリアミデース、ヘクトール 355

飽く迄禍害行へり、彼の兇暴忍ばれず』

藍光の目のアテーネー、其時答へて彼にいふ、

『アカイア軍の手に懸り、勇氣と生と一齊に

亡び、故郷の土の上、彼は遂には斃るべし。

さはれわが父クロニオーン、奇怪の計慮胸にして、 360

つれなく常に剛愎にわれの努力を妨げつ、

ユウリスチュウス命じたる役に惱める彼の子を

屡※助け救ひたるわが勳勞を顧みず。

天を仰ぎて悲しめる子に救援を與ふべく、

雷雲寄するクロニオーンわれを天より遣はしき、 365

忌み嫌はるゝハイデスの城門堅き館に入り、

そこエレボスの暗きより獵犬引きて歸るべく、

主命を彼のうけしとき、今日あるを我知らば

彼スチュクスの奔流の水をいかでか免れむ。

テチスの願納受して父今我を憎しめり。 370

都城を破るアキリュウス譽を得るを祈願しつ、

彼、天王の膝抱き軟手に彼の頤撫でき。

「藍光の目の愛女よ」とさはれ天父は又曰はむ。

いざ今單蹄の駿足をわれらの間に引き出せ、

アイギス持てる天王の宮に進みて戰鬪の 375

武裝を我は整へむ、しかして我は眺むべし、

プリアミデース・ヘクトール堅甲光るかの勇者、

われら二神の戰場に入るを果して喜ぶや?

見よ、アカイアの船のそば、トロイア軍の一人は

斃れ、其肉其脂、野犬野鳥を飽かしめむ』 380

362 天妃ヘーレー計りてミケーネーの王者ユウリスチュウスにヘーラクレースを服從せしめ、十二の難事を行はしむ。(XV 640. XIX 132)

366 冥府の王ハイデース。

379 ヘクトールの死を豫言す。

しか宣んすれば皓腕の神女ヘーレー欣然と、

(いみじき神女ヘーレーは偉なるクロノス生む處)

之に順ひ黄金を裝へる戰馬曳き出す。

アイギス持てる天王の愛づる明眸アテーネー、

その多彩なる精妙の衣、自ら織りいだし、 385

自ら巧みなせるもの、父神の堂に脱ぎ棄てつ、

雷霆の神クロニオーンもてる胸甲身に帶びつ、

かくて涙の基なる暴びの戰具整へり。

かくて親しく燦爛の兵車に神女立ちあがり、

重くて堅き大槍を其手にとりぬ(槍により 390

手向ふ者をアテーネー奮然として打敗る)

ヘーレー斯くて迅速に駿馬に鞭を打ちあてゝ

驅れば天上もろ/\の門戞然と開かるゝ、

門の司は「時」の靈、上天及びオリュムポス、

之に托さる、濃雲を開きあるひは閉ぢるため、 395

そこを二神はその命に應ずる駿馬驅り去りぬ。

381 二神女の武裝の敍述は V 719―752 にもあり。

されどイデーの高きよりクロニーオーン之を見て、

大に怒り、黄金の羽あるイーリス呼びて曰ふ、

『なんぢ、イーリス、疾く行きて後に引かせよ、わが前に

彼ら來るを押しとめよ、われに抗せば害あらむ。 400

今、我敢て宣んし曰ふ、宣んする處きと成らむ。

戎車の下に脚速き彼等の馬を疵つけむ、

彼らを車下に打ちおとし、車輪微塵に碎くべし、

わが轟雷の打つところ、重き負傷に惱むべく、

月と日※る十年に亘りて傷は癒えざらむ。 405

われに抗する禍はかくと知るべし、アテーネー、

われヘーレーに對しては怒らず、瞋恚催さず、

我の計畫するところ破るは彼の習のみ』

405 月と日※る十年とは滿九年の意、九は神聖の數と曰はる。三も同樣。

408 V 892. I 518―521.

しか宣んすれば疾風の足ときイーリス令傳へ、

イデーの峯を降り來てウーリュンポスに翔け向ひ、 410

溪谷多きオリュムポス其いやさきの門の前、

二神に逢ひておしとゞめヂュウスの言を宣んしいふ、

『いづくに馳すやあゝ汝? 胸ぬち何の悖狂ぞ!

クロニデースはアカイアの救援なんぢにおしとゞむ。

クロニデースはかく嚇す、しかして其事きと成らむ、 415

戎車の下に脚速き汝の馬を疵つけむ、

汝を車下に打ちおとし、車輪微塵に碎くべし、

彼の轟雷打つところ重き負傷に惱むべく、

月と日めぐる十年に亘り其疵癒えざらむ。

彼に抗する禍はかくと知れかしアテーネー、 420

彼、ヘーレーに對しては怒らず瞋恚催さず、

彼の計畫するところ破るは彼の習のみ。

さもあれ汝、アテーネー、あゝ狂妄の無恥の狗子、

クロニオーンに逆ひて汝の槍を擧ぐとせば……』

しかく宣んして疾風の足ときイーリス歸り去る、 425

その時ヘーレー口開き藍光の目の神に曰ふ、

『あゝ無念なり、アイギスを持てるヂュウスのまなむすめ、

已むなし、われら人間の故にヂュウスと爭ふを

やめむ、彼らのあるものは亡び、あるものながらへむ、

そは運命のあるが儘、クロニーオーン胸の中、 430

トロイア及びアカイアに施すところ定むべし』

しかく宣んして單蹄の駿馬あとへと曳き返す。

ホーライ其時鬣の美なる駿馬のもろ/\を、

放ちて解きてアムブロシヤ匂ふ馬槽の前繋ぎ、

燦爛光る壁に倚り彼らの戰車駐め据う。 435

二位の神女は黄金の玉座に着きてもろ/\の

他の神明に相まじり、慘然として樂しまず。

433 單數はホーレー(時)、複數の形にては天候の管理者(女性)、またヘーレーの侍女。

その時イデーの高きよりウーリュンポスの峯さして、

兵車と馬を驅り來りヂュウス諸神の會に着く。

大地をゆするポセードーン其時馬を解き放し、 440

兵車を臺の上に据え、据えて布蓋に之を掩ふ。

雷音遠く鳴りひゞくヂュウスその時、黄金の

玉座によりておほいなる山を脚下に震はしむ。

ヘーレー及びアテーネー彼に離れて席を占め、

彼に何等の句も曰はず、何らの問も打ち出でず。 445

クロニーオーン然れども心に猜し宣んし曰ふ、

『などかく悲哀催すや? ヘーレー及びアテーネー、

汝ら深き怨恨をトロイア軍に向け起し、

之と戰ひ亡すを念じて休むことあらず。

我の力と我の手は抗すべからず、もろ/\の 450

ウーリュンポスに住める神われを攘ふを得べからず。

戰鬪及び其來す恐るべき業見る前に、

汝等二神耀ける四肢は恐怖に震ふべし。

我今汝に宣んすべし、宣んする處きと成らむ、

雷に撃たるゝ汝らは戰車に乘りて此場に―― 455

不死の神明集れるウーリュンポスに歸り得じ』

しか宣んすれば、向ひ坐しトロイア軍の禍を

計らひ居たるアテーネー、ヘーレー共に舌打ちぬ。

默然として言葉なき藍光の目のアテーネー、

唯烈々の憤懣をクロニオーンに抱くのみ。 460

されどヘーレー胸中の怒抑へず叫び曰ふ、

『あゝ恐るべきクロニデー、何らの言を宣んするや?

君の威力の微ならざる、既にわれらの知るところ、

たゞ運命に惠まれず、亡びんとするアカイアの

可憐の勇士思ひやり、われは悲憤を抑へ得ず。 465

されど嚴命下る時、われ戰鬪に加はらじ、

君の憤怒の故によりアカイア全軍悉く

亡ぶることの無きがため、只忠言を與へんず』

457 457―562 はIV 20―25 に同じ。

463 463―468 は VIII 32―37 にほゞ同じ。

雷雲よするクロニオーン彼に答へて宣んし曰ふ、

『望まば汝あした見む、汝、牛王の目を持てる 470

ヘーレー、汝、つよき我れ威力無上のクロニオーン、

アカイア軍を今よりもなほ痛烈に破すべきを。

見よ、猛勇のヘクトール、水師のほとり足速き

ペーレーデース立たん迄、戰鬪やむることあらず、

その日船尾の傍に彼ら激しく戰はむ、 475

パトロクロスの死の故に接戰苦鬪凄からむ。

斯く運命は定れり。われは汝の憤激を

心に掛けず、地と海の果に汝の行かんとも、

イーアペトスとクロノスのやどる其場、其ほとり、

ヒペリーオーンの生める息ヘーエリオスの光線も、 480

風もかしこに音づれず、たゞタータロス四方にあり。

汝飄零の果そこに行かんも我は顧みず、

汝の怒顧みず、汝無上の無恥のもの』

478 「地の底海の果に行きて彼等の助を求むるとも我は恐れず」の意。

479 ウーラニオーンの子ら、敗れて地底に住む。(V 898)

480 ヘーエリオス(太陽)の詩的別名。

しか宣んすれど皓腕のヘーレー彼にもの曰はず。

やがて燦たる日の光オーケアノスに沈み去り、 485

大地の面に暗黒の夜陰の幕を降らしむ。

その夕陽の沈めるをトロイア軍は喜ばず、

三たび祈れるアカイアの軍は暗夜を歡呼しぬ。

その時耀くヘクトール、水師離れて、渦卷ける

川の岸のへ鮮血にまみれし屍體無きところ、 490

率ゐ來りしトロイアの衆の會合打開く。

衆人即ち兵車より大地の上に下り立ち、

ヂュウスのめづるヘクトール宣ぶる言句に耳を貸す。

彼の手中の長き槍、黄銅の穗は耀きて、

穗先の根元、黄金の環を※らせり、其槍に 495

身をもたせつゝヘクトール、トロイア軍に宣んしいふ、

『ダルダニエーとトロイアの軍勢及び諸援軍、

わが言を聞け、アカイアの軍船軍勢亡ぼして、

風すさまじきイリオンに歸陣なすべく我曰へり。

されども暗は寄せ來る、暗は救へり、波荒ぶ 500

海の岸のへアカイアの軍勢並に其船を。

我又黒き夜の命奉じてこゝに休らはむ。

いざ晩食の備せよ、鬣美なる駿足を

兵車よりして解き放ち、馬糧を之に與ふべし。

今速かに都城より肥えし牛羊曳き來れ、 505

甘美の酒と麺麭を陣營よりし運び來よ。

更に加へて薪材の多くをこゝに集め來よ、

あすの曉光出づる迄、炎々の火をよもすがら、

わが軍陣の前に焚き、光焔天に冲らしめむ。

暗に乘じて長髮のアカイア軍勢蒼惶と、 510

渺々廣き海上に逃れ去ること得べからず、

又傷みなく靜穩に船に乘ること得べからず、

船に乘る時、わが軍の放つ飛箭に投槍に、

打たれて敵のあるものは故郷に疵を養はむ。

之を眺めて他の者は馬術巧みのトロイアの 515

軍に對して戰鬪を挑むを遂に憚らむ。

ヂュウスのめづる傳令使、今城中を觸れ※れ、

神の造れる塔上にわが世の花の少年と、

鬢毛白き老人と併せて共に寄るべしと、

又纖弱の女性らはおの/\家に炎々の 520

火を燃しつゝ、警戒の備、怠ること勿れ、

隙に乘ずる敵軍の不意の襲の無きがため。

わが剛勇のトロイア軍、わが言ふ如く成らしめよ。

わが曰ふ處今に足る、たしかの言句今日に足る。

殘る處は明くる朝宣ぶべし、トロイア陣中に。 525

望みてわれはクロニオーンまた他の神に乞ひ祈る、

ケーレス神に遣はされ、黒き船のへ此郷に

來りし狗群、速かに追ひ攘ふべく今祈る。

夜を徹して我軍の警備怠ること勿れ。

あしたの夜に身を起し黄銅武裝とゝのへて、 530

アカイア水師ほど近く攻撃強く試みむ。

ヂオメーデース、猛勇のチュウデーデース、水師より

城壁かけてヘクトール我を果して攘はむや?

彼を或は我斃し血染の鎧剥ぎ得むや?

あすの日彼は其勇をいかにと知らむ、わが襲ふ 535

槍を迎へて立たん時。さはれ思ふに傷きて

先鋒中に横はり、多數の友ももろともに

倒れん、朝日昇る時。斯くして我はとこしへに

不死と不老の身となりて、藍光の目のアテーネー、

銀弓の神アポローン――神とひとしく譽得む。 540

アカイア軍に禍の襲ひくること確かなり。』

518 或版には「少年と」の代に「少女らと」。

529 死の運命。

しかく宣んするヘクトール、トロイア軍は歡呼しぬ。

かくて汗する駿足を軛よりして解き放ち、

革紐によりおの/\の兵車に之を繋ぎ留む。

衆軍やがて速かに肥えし牛羊都城より、 545

もたらし來り、陣屋より甘美の酒と麺麭を

搬び來りつ、更にまた薪材多く集め來る。

〔衆軍かくて神明にいみじき牲をたてまつり、

風は其香を天上に原頭よりし搬びゆく。

さはれいみじき諸神靈いづれも之を受け納れず、 550

之を望まず、イーリオン白楊の槍手に揮ふ

王プリアモス眷族を、民をひとしく憎しめり。〕

548 548―552 括孤内の數行は如何なる寫本にも無し、プラトーンの作と稱せらるる「アルキビアデース」II の中に引用さる、トロイアの破滅は諸神一切の願に非ず、只一部の神のみ之を願ふ、ヂュウスはトロイアを憎まず、其敬信を嘉みすること IV 44 以下に見るべし。

衆軍かくて功名の念に燃えつゝ夜もすがら、

戰場中に休らへり、篝は光煌々と。

譬へば風無き夜半の空、澄める月球とりかこみ、 555

燦々として衆星の光照り出で、もろ/\の

山も岬も谿谷もひとしく影を示す時、

天上高く限りなく光る衆星仰ぎ見て、

牧人あすの晴思ひ欣然として勇むごと、

かばかり多くトロイアの軍勢燃やす篝の火、 560

舟と流のクサントス、間、イーリオン城の前。

原上、篝の數は千、そのおの/\に相添ひて、

兵員五十、炎々の焔の前にやすらへり。

白き大麥裸麥噛める軍馬も一齊に、

兵車の前に列びたち、あすの曙光を待ちつくす。 565

555 此譬喩は有名のもの、テニスンこれをいみじく譯す、何故彼は更に多くを譯さざりしか?

マシュー・アーノルドは其論文『ホーマア飜譯について』の中に此第八歌の 553 以下を試譯す。ポープは最後を誤譯す。フォッスの獨譯は頗る妙。

第九歌

アカイア軍の憂怖。アガメムノーン退去を説く。ヂオメーデースとネストール之に反對す。壘壁及び塹濠の防備。諸將の評議。ネストールの發議。アキリュウスを起たしめんとす。アガメムノーン後悔し、彼に莫大の贈與を盟ふ。使者としてオヂュシュウスとアイアースとプォイニクスら行く。アキリュウス之を歡待す。オヂュシュウス辨を振つて説く。アキリュウス之を拒む。プォイニクスまた勸めて先例を説く。アイアースも諫む。效なし。使者歸り報ず。ヂオメーデース衆を勵す、衆軍眠に入る。

かくトロイアの軍勢は警備に勉む、アカイアは

辛き「恐怖」の伴にして神の送れる「逃走」の

靈に憑かれて、最剛の武者も憂愁抑へ得ず、

鱗族多きわだつみの水をボレース、ゼプュロスと――

トレーケーより湧き起る二つの風の――忽然と 5

襲ひて吹きて亂す時、狂瀾怒濤一齊に

暴び起りて海草を水のうちとに散らす如、

アカイア族の胸中の思はげしく碎かれぬ。

5 本詩は小亞細亞に成るとの説を唱ふるもの此らの行を引く。

アートレ,デース殊更に心憂にうち沈み、

あなたこなたに歩を進め、聲朗々の傳令の 10

使に命じ、叫喚を禁じ靜に名を呼びて、

評議の席に諸將軍招き自ら先に立つ。

憂に滿つる席上にアガメムノーン悄然と、

暗き洞より陰慘の泉溢れて巉崖を、

流れ落して來る如く、涕流して立ち上り、 15

長嘆しつゝアカイアの衆に向ひて陳じいふ、

『あゝアカイアを導きて之を治むるわが友よ、

クロニオーン、おほいなるヂュウス先には、堅牢の

イ,リオン城を亡ろぼして歸陣すべしと約したり。

彼、今酷くおほいなる禍難にわれを沈め去り、 20

惡しき欺騙をたくらみて、われに命じて軍勢を

失ひし後アルゴスに譽なくして歸らしむ。

天威かしこきクロニオーン、しかあることを喜べり。

あゝ彼既に數多く都城の頭打碎く、

更に此後しかなさむ、無上の威力彼にあり。 25

されば汝等、我の今宣んする處聽き入れよ、

船に乘じて恩愛の故郷に向ひ逃げ歸れ、

街路の廣きトロイアの陷落遂に得べからず』

しか宣んすれば默然と衆軍鳴りをおし靜め、

無言に長くアカイアの子ら一齊に悲しめり。 30

程經て高き音聲のヂオメーデース陳じ曰ふ、

『アートレ,デーよ、我は先づ評議の席にふさはしく、

君の淺慮の言責めむ、願はく怒ること勿れ。

さき頃君は陣中に我を誹謗し罵りぬ、

鬪志はあらず勇なしと、而して此事悉く、 35

アカイア將軍一齊に老も若きも皆知れり。

クロニデースは意地あしく君に二物を施さず、

すべてに優り王笏の光榮君に與へしも、

至大の力、豪勇の徳をば君に施さず。

訝かし、君はアカイアの子ら鬪志なく勇なしと、 40

君の宣する言の如あるを望みてやまざるか?

歸國の途につくことを切に願はゞ速かに、

立ち去れ、途は開けたりミケーネーより從ひて、

君に附き來し數多き舟は岸邊に皆待てり、

されど其他の長髮のアカイア族はトロイアの 45

城落つる迄殘るべし、更に彼らも一齊に、

舟に乘じて郷めざし遁逃なさんことあるも、

われとわが友ステネロス、トロイア城の最後迄、

奮戰つゞけやまざらむ、神明われと共にあり』

34 IV 370 以下。

48 II 564 參照。ヂオメーデースは言行共に勇まし。

しか宣んすればアカイアの衆一齊に歡呼して、 50

悍馬を御する英豪のヂオメーデースの言を褒む。

その時騎將ネストール列座の中に立ちて曰ふ

『チューデーデーよ、戰鬪の中に汝は至剛の身、

また評定の席の上、同輩中の至上たり。

アカイア族の何人も汝の言を責めざらむ、 55

爭ふ事はあらざらむ、されど言論なほ足らず、

汝は未だ年若し、齡を問はゞ汝なほ

我が最少の子の如し、しかも理により説くが故、

アカイア族の王侯に堂々の言吐き得たり。

齡は汝に優れるを誇り得る我今こゝに、 60

陳じてすべて打明けむ、わが言ふ處何人も、

アガメムノーン大王も敢て侮ること無けむ。

恐るべきかな同志討、これを好める儕輩は

眷屬あらず、法あらず、爐邊の平和またあらず。

暗黒の夜は今到る、夜に應じていざ共に 65

食事の準備なさしめよ、夜を警むる各隊は

長壁の外穿たれし塹濠に沿ひ守備を爲せ。

我少壯にかく勸む、されどこれらの命令は、

アートレ,デーよ、君にあり、君は至上の權あれば。

また宿老に饗宴を君具ふるを善しとせむ。 70

君の陣中蓄ふる好き酒多し、アカイアの

舟大海を渡り來てトレーケーより持ち來る。

君※待の力あり、君は多數を統べ治む。

衆人ひとしく評定の席に着く時、その中に

至上の説を吐くものに聽くべし、アカイア全衆は、 75

美なる正しき忠言を要せむ、敵は舟近く

煌々として篝焚く、誰かは之を喜ばむ?

わが軍隊を亡ぼすも救ふも正に今宵なり』

63 アキリュウスとの調停をほのめかす。

64 眷屬と法と家庭とは古の社會の三大根底。

70 宴を催うして其後協議せんとす。

71 VII 467 參照。

しか宣んすれば衆人は耳傾けて之に聽き、

警備の隊は武器具して蒼惶として奔り出づ、 80

率ゐるものはネスト,ルの生みたるトラシュメーデース、

アスカラポスとアレースの豪勇の子のヤルメノス、

メーリオネース、アパリュウス、デーイピュロス又次ぎて、

クレーオーンの生める息、リュコメーデース亦猛し。

AI翻訳で読む · 原文