イーリアス

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 土井晩翠 (†1952) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

第一歌

詩神への祈。 題目の略示。 アポローンの祭司其女クリュセーイスの贖を求めてアガメムノーンに辱めらる。 祭司の祈に依りアポローン疫癘をアカイア陣中に湧かしむ。 豫言者カルハースの説明。 アガメムノーンとアキリュウスとの爭。 アガメムノーン祭司の女を返し、其代償として先にアキリュウスの獲たるブリイセーイスを奪ふ。 アキリュウス怒り、部下を率ゐて水陣に退く。 神母テチス其哀訴を聞き、ヂュウスの救を乞ふことを約す。 クリュセーイスの解放。 神母オリュンポスに登り、ヂュウスに哀訴して聽かる。 ヂュウス約すらく、アキリュウスの屈辱を雪ぐ迄はトロイア軍に戰勝を許すべしと。天妃ヘーレー之を悟りて天王と爭ふ。 ヘープァイストス之を和解せしむ。

神女よ歌へ、アキリュウス・ペーレーデース凄じく

燃やせる瞋恚――その果はアカイア軍におほいなる

禍來たし、勇士らの猛き魂冥王に

投じ、彼らの屍を野犬野鳥の餌と爲せし

すごき瞋恚を(斯くありてヂュウスの神意滿たされき) 5

アートレ,デース、民の王、および英武のアキリュウス、

猛けり爭ひ別れたる日を吟詠の手はじめに。

1 詩神ムーサ(複ムーサイ)

1 ペーレーデースとはペーリュウスの子の意。

2 正しく曰はばアカーイアー。當時はグリースの名稱無し。國民はアカーイオス(複アカーイオイ)又アルゲーオイ又ダナオイとも呼ばる。

3 冥府の王アイデース或はハイデース、いつもペルソーナとして冥府を見る。XXIII244に初めて冥府となす。

6 アートレーデースを縮む。,は省略の記號、以下皆同樣、アートレーデースはアトリュウス(又アートリユウス)の子の意、アトレーデースとも他の詩歌には發音す。ホメーロスの詩に於ては必ずアートレーデース。(Brasse's Greek Gradus)

7 「爭ひ別れたる日」のこのかた「ヂュウスの神意滿たされき」と解する人々あり。

いづれの神ぞ、爭を二雄の間に起せしは?

そはレートーとヂュウスとの生める子――彼は其祭司

クリュセーイスを恥ぢしめしアートレ,デースにいきどほり、 10

陣に疫癘湧かしめぬ、斯くて衆軍亡び去る。

これより先にクリュセース其の愛娘を救ふべく、

巨多の賠償もたらして、アカイア族の輕舟の

水陣さして訪ひ來り、手に黄金の笏の上、

神アポローンの「スチンマ」を掛けてアカイア衆人に、 15

願へり、特に元帥のアートレ,デース兄弟に。

9 アポルローン。此譯に於てはアポルローンをアポローンに縮む。

15 幣帛の類。

『アートレ,デース及び他の脛甲堅きアカイオイ、

ウーリュンポスの高きより、神靈願はく敵王の

都城の破壞と安らかの歸國を君に惠めかし。

君は愛女を身に返し、その贖を受け納れよ、 20

銀弓鳴らすアポローン――ヂュウスの御子惶みて』

18 ウーリュンポス或はオリュムポス、神々の住するところ。

アカイア全軍之を聞き、祭司を崇め、珍寶の

贖得べく一齋に心合はせて諾へり。

アガメムノーンただ獨り怫然として悦ばず、

不法に祭司追ひ攘ひ、更に罵辱を浴せ曰ふ、 25

『老翁! なんぢ、水軍のかたへためらふこと勿れ、

再びこゝに推參の姿あらはすこと勿れ。

神の金笏「スチンマ」も汝に何の助無し、

故山を遠く後にしてあなたアルゴス空の下、

わが舘の中、機に寄り、閨に仕へて老齡の 30

逼らん時の來る迄、なんぢの愛女放つまじ。

我を怒らすこと勿れ、今平穩に去らまくば』

29 アガメムノーンの領土、首府はミケーナイ。アルゴスは又グリース全土の稱となることあり。

威嚇の言に老祭司、畏怖を抱きて命に因り、

默然として身を返し、怒濤轟く岸に沿ひ、

離れてやがて老齡の聲を搾りて訴へり、 35

髮美しきレートーの生めるアポローン大神に、

『ああクリュセーを、神聖のキルラを守り、テネドスを

猛くまつらふ銀弓の大神、われをきこしめせ、

スミンチュウスよ、御心に叶ひ神殿飾り上げ、

又牛羊の肥えし肉炙り捧げしことあらば、 40

われの願を聞し召し、悲憤の涙わが頬に

流せしダナオイ族をして君の飛箭を受けしめよ』

39 小アジアの諸都に於けるアポローンの稱。恐らく野鼠を亡せる者の意か。

切なる願納受する神、プォイボス・アポローン、

包み掩へる胡※と白銀の弓肩にして

ウーリュンポスの高嶺より怒に燃えて駈け降り、 45

夜の俄かに寄する如凄く駈け來るアポローン、

怒の神の肩の上、矢は戛然と鳴りひびく。

やがてアカイア水軍のまともに立ちて鋭き矢、

切つて放てば銀弓の絃音凄く鳴りわたり、

騾馬の群、はた足速き、犬は眞先に斃れ伏し、 50

次いで軍兵陸續と射られ亡べば山と積む

死體を燒ける炎々の火焔收まる隙も無し。

九日續き陣中に神矢あまねく降り注ぐ、

十日に至りアキリュウス、衆を評議の席に呼ぶ。

(腕白きヘーレーの神女ダナオイ軍兵の 55

亡び眺めて傷心の思を彼に吹きこめり)

呼ばれ評議の席に着く其會衆のたゞ中に、

脚神速のアキリュウス、身を振り起し陳じ曰ふ、

58 アキリュウスの常用形容句。

『アートレ,デーよ、我れ思ふ、戰爭、惡癘わが軍を

斯くも永らく害す時、死を幸に逃れ得ば、 60

諸軍再び漂浪の果に故郷に歸るべし。

さもあれ、祭司に、豫言者に、或は夢に説く者に、

(夢はヂュウスの告なれば)究めしめずや、いかなれば、

神プォイボス・アポローン、斯くもわれらに憤ほる?

祈祷或は犧牲をば怠る故に咎むるや? 65

或は山羊と小羊の薫ずる匂納受して

この惡癘を退くや? 答を彼に求めん』と。

59 アートレ,デースの呼格。

斯く陳じ終へ、坐に着けば、續いて衆の前に立つ

占術妙技すぐれたるテストリデース・カルハース、

現在の事、過去の事、未來の事をみな悟り、 70

神プォイボス・アポローン賜へる豫言の能により、

アカイア軍をイーリオス郷に導き率ゐたる

其カルハース慇懃の思をこめて衆に曰ふ、

72 イーリオス又イーリオン=トロイアー。

『ヂュウスの寵兒アキリュウス、君われに問ふいかなれば

銀弓の神アポローン、かくも激しく怒るやと、 75

さらば解くべし、只我に誠をこめて先づ約せ、

言句並に威力にて我救ふべく先づ盟へ、

思ふ、恐らくアルゴスを統べ、アカイアに君臨の

高き位にある者の心わが言激すべし。

下なる者に怒る時、王者の稜威ものすごし、 80

たとへ今日暫くは其憤激を抑ふるも

後日に之を霽すまで胸裏に宿る炎々の

瞋恚の焔收まらず、君よく我を救はんや?』

脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、

『信頼われに厚くして神託降るが儘に曰へ、 85

ヂュウスの愛づるアポローン――之に祈りて神託を

ダナオイ族に君傳ふ――その神かけてわれ盟ふ、

われ生命のある限り、我光明を見る限り、

わが水軍の傍にダナオイ族の一人だも

君に兇暴の手を觸れじ、今アカイアの中にして 90

至上の權を身に誇るアガメムノーンを名ざすとも』

その言信じ、玲瓏の心眼常に曇なき

豫言者即ち説きて曰ふ、『祈祷犧牲のなほざりを

怒るに非ず、アポローン、――愛女許さず贖を

受けず、祭司を侮りしアガメムノーンに憤ほり、 95

災難われに降したり、災難更になほ繼がむ。

贖受けず、父のもと、美目の少女返しやり、

神聖の牲、クリュセース祭司の許に送らずば

疫癘荒るる禍を神アポローン退けじ、

若し斯く爲さば和ぎて我の祈を納受せむ』 100

陳じ終りて坐に着けばつづいて衆の前に立つ

アートレ,デース、權勢のアガメムノーン、猛き威も

胸裏は暗に閉されて憤激やるに處なく、

雙の眼爛々とさながら燃ゆる火の如く、

瞋恚はげしくカルハース睨みて暴く叫び曰ふ、 105

『常に樂き事曰はず、ただ禍を豫言しつ、

常に不祥を占ひて心樂しと思ふ者、

汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。

クリュセーイスの身に代ふる好き賠償を收むるを

わが許さざる故をもて、遠く矢を射るアポローン、 110

ダナオイ族に禍を降すと衆の集りの

もなかに立ちて陳ずるや?――風姿、容貌、女性の技、

我その昔娶りたる夫人クリュタイムネストレ、

之に比べて劣らざる――之に優りてわが愛づる

少女は國に携へむ――わが情願のある處。 115

さもあれ、其事好しとせば少女を放ち去らしめん、

禍難を衆の逃れ得て安きにつくはわが望。

今ただ急ぎ新たなる償われの爲め探せ、

アルゴス人のたゞ中に我のみ戰利失ふを

正しとせんや? 見ずや今我が獲し者の立ち去るを』 120

113 クリュタイムネーストレーを縮む。

118 此要求は無理ならず、戰利を失ふは物質上の損害並に名譽の毀損なり。(リーフの説)

脚神速のアキリュウス其時答へて彼に曰ふ、

『アートレ,デーよ、高き名になど貪婪の激しきや?

わが寛大のアカイオイ、いかに補償を與へ得ん?

皆知るところ、いづこにも今や戰利の殘りなし、

城市を掠め獲たる物、皆悉く頒たれぬ、 125

今また之を奪ひなば誰か不法と咎めざる?

君甘んじてかの少女、神の御もとに捧ぐべし。

ヂュウスの惠厚くしてトロイア堅城壞る時、

アカイア軍は三重四重に君に補償を致すべし。』

其時答へて權勢のアガメムノーン彼に曰ふ、 130

『汝、英武のアキリュウス、汝誠に勇なるも、

我を欺くこと勿れ、凌ぐを得せじ説きも得じ、

汝に戰利保つため我わが戰利失ふを

甘んずべしと思へるや? 少女棄てよと命ずるや?

若し寛大のアカイオイわが望むまゝ平等の 135

戰利を我に與へなばわれ諾はむ、然らずば、

親しく行きてアキリュウス、汝、或はアイアース、

はたオヂュシュウス得しものを奪ひて共に歸るべし。

我斯く行きて奪ふ者、彼は恐らく怒らんか。

さはれ此事計るべき時は後こそ、今は先づ、 140

わが神聖の海の上、黒き一艘の舟浮べ、

すぐれし水夫乘りこませ、中に犧牲を備へしめ、

頬美はしきわが少女クリューセーイス乘らしめよ、

首領のひとり共に行き、その一切の指揮を爲せ、

イドメニューウスかアイアース、はたオヂュシュウスあるは又、 145

衆軍の中第一に畏るべきものアキリュウス、

行きて犧牲をたてまつり飛箭の神を和げよ』

脚神速のアキリュウス目を怒らして彼に曰ふ、

『ああ厚顏無恥にして偏に私利を願ふ者、

アカイア軍中何ものか汝の命に從ひて、 150

汝の爲めに道を行き、汝の爲めに戰はむ?

長槍握るトロイア族何らの害も加へねば、

之に戰鬪挑むべく我此郷に來しならず、

其民かつて牛羊をわれに掠めしことあらず、

緑林掩ふ連山と怒濤轟く海洋と 155

間にありて隔つれば、數多の勇士うみいでし

フチーエーの地未だ其劫掠受けしことあらず、

只汝とメネラオス、讐トロイアに報い得て

喜ばんため、われ人は顏は野犬の如くなる

無恥の汝に從へり、汝この事顧みず、 160

更に今またアカイオイ我の勞苦に報ふべく、

我に頒ちし戰利をも汝は奪ひ去らんとや?

アカイアの軍トロイアの一都市先きに破る時、

汝の戰利多くしてわが獲しところ小なりき。

戰鬪激しく暴るる時、わが手最も善く勉め、 165

戰鬪の利を頒つ時、汝最も多くを得。

奮戰苦鬪に疲れし身水陣中に休むべく

わが得しところ小なるも甘んじ受けて退きき。

いざ曲頸の船泛べフチイエーむけ歸るべし

故山に向ひ歸ること遙かに優る、恥受けて 170

こゝに汝の富と利の増すを空しく眺めんや!』

157 アキリュウスの領土。

アガメムノーン、衆の王、その時答へて彼に曰ふ、

『逃げよ、心の向くが儘、とく去れ何ぞためらふや?

我がためこゝに殘るべく汝に願ふ我ならず、

衆人敬ひ我に聽き、至上のヂュウス我を守る。 175

神寵受くる列王の中に最も憎むべき

汝、口論と爭と鬪、常にこゝろざす。

汝、もつとも勇ならばある神靈の惠のみ。

いざ今部下と戰艦を率いて國に歸り行き、

ミュルミドネスを司どれ、我は汝を憚らず、 180

汝の怒顧みず、汝を嚇し更に曰ふ、

神、銀弓のアポローン、クリューセーイス求むれば、

わが船舶と部下をして彼女を返しやらしめん。

しかして汝の陣に行き、汝の獲たる紅頬の

ブリイセーイス奪ひ取り、わが威汝に優れるを 185

痛く汝に知らしめん、衆人はたまた畏服して

わが眼前に憚らず、肩並ぶるを愼しまむ』

180 アキリュウスの領民(單數ミュルミドーン)

その言聞きてアキリュウス悲憤の思耐へがたく、

胸鬚荒き胸のうち、心二つに相亂る。

鋭利の劒を拔き放ち、集へる衆を追ひ攘ひ、 190

不法の募る驕傲のアートレ,デース殺さんか?

或は悲憤の情抑へ、自ら我を制せんか?

思は亂れあひ乍ら、鞘よりまさに長劒を

拔き放さんとしつる時、天より降るアテーネー、

二人を共にいつくしみ二人を共に顧みる 195

白き腕のヘーレーの命傳へ來るアテーネー、

アキルリュウスの後に立ち、衆には見えず、たゞ獨り

彼に姿を示現して、その金色の髮を曳く、

愕然としてアキリュウス、後を見返り忽ちに、

眼光爛とアテーネー射る神容を認め知り、 200

即ち之に打向ひ羽ある言句陳じ曰ふ、

197 アキルリュウス又アキリュウス。

201 言語は羽ありて飛翔すと曰はる。此よりして「羽ある言葉」の句あり。或る獨逸の麗句集は此を以て書名と爲す。

『アイギス持てるヂュウスの子、今何故の降臨か?

アートレ,デース暴れ狂ふ其驕慢の照覽か?

彼其不法を償ひて程なく命を失はむ、

此事必ず成るべきを今より君に誓ふべし』 205

202 恐るべき模樣を有する盾の一種。

藍光の目のアテーネー即ち答へて彼に曰ふ、

『汝二人をもろともに愛し、等しく顧みる

玉腕白きヘーレーの命を奉じて我れ來る。

わが嚴命を畏まば棄てよ汝の憤、

やめよ汝の爭を、手中の劒を拔く勿れ、 210

ただ意のままに言句もて飽くまで彼を耻ぢしめよ、

我今汝に宣んし曰ふ、我言必ず後成らむ、

即ち今の屈辱を償はんため三倍の

恩賞汝に來るべし、自ら制し我に聽け』

脚神速のアキリュウス即ち答へて彼に曰ふ、 215

『憤懣いかに激しとも高き二神の嚴命を

奉ぜざらめや、奉ずるは賢きわざと我は知る、

神靈の命きくものを神靈嘉みし冥護せむ。』

しかく陳じてアキリュウス、手を白銀の柄に留め、

パラスの命に從ひて長劍鞘に收め入る。 220

神女即ちアイギスを持てるヂュウスの殿堂に、

諸神の群に交じるべくウーリュンポスに歸り行く。

ペーレーデース引き續きアガメムノーンにいきどほり。

彼に向ひて荒らかに更に罵辱をあびせ曰ふ、

『卑怯の心鹿に似て醜き眼は狗に似る、 225

酒に亂るるあゝ汝! 汝他と共戰鬪の

爲めに武裝を敢てせず、アカイア勇士もろともに

埋伏するを敢てせず、之を恐るる死の如し、

げに其よりもアカイアの陣中汝に爭へる

人の戰利を奪ひ取るわざこそ遙か優るらめ。 230

貪婪の王、ああ汝、ただ小人に主たるのみ、

アートレ,デーよさもなくば、けふの非法は最後ぞ。

更に汝に神聖の誓をかけて曰ふを聞け、

誓はこれこの笏に掛く、――この笏はじめ山上の

樹木の幹を辭してより再び枝を生じ得ず、 235

再び其芽萠え出でず、緑再び染むる無し、

青銅これが皮を剥ぎ、葉を拂ひ去り、斯くて今

高きヂュウスの命を受け、判行ふアカイアの

法吏その手に執るところ、此笏にかけ曰ふを聞け、

アカイア全軍他日われペーレーデースに憧れむ、 240

トロイア勇將ヘクト,ルの手に衆軍の亡ぶ時、

汝いかほど悲むも遂に施す術無けむ、

其時汝アカイアの至剛の者を侮りし

身の過を悟るべし、碎くる胸の惱亂に』

234 此笏はアキリュウスの所有ならず、諸頭領共有の物。今彼の談論に當りて臨時に渡されしもの。

ペーレーデース斯く陳じ、黄金の鋲ちりばめし 245

笏を大地に投げつけつ、やがておのれの坐に歸る。

アートレ,デース亦怒る――其時立てり衆の前、

ピュロスの辨者、温柔の言葉いみじきネストール、

蜜より甘き巧妙の言を舌より湧かす者、

彼その昔神聖の郷土ピロスに生れ出で 250

共にひとしく育ち來し現世の友は先だちぬ、

先だつ二代見送りて今三代に王たる身、

彼いま衆に慇懃の誠をこめて説きて曰ふ、

252 ヘロドートス II 142 に人間三代は一百年とあり、ネストールは七十歳位ならむ。

『あゝあゝ悲し、アカイヤの族に大難降り來る、

ダナオイ族の中にして、智略にすぐれ戰鬪に 255

すぐれし二人汝等の爭ふ始末聞き知らば、

敵の大將プリアモス及び其子らことほがむ、

他のトロイア人一齊に又起すべし大歡喜、

我れ汝らに歳まさる、われの苦諫を聞き納れよ。

いにしへ我は汝らに優る諸勇士友としき、 260

其中誰か輕慢の心を我に抱きしや?

かゝる勇士を其後見ず、今より後も見ざるべし、

ペーリトオスよ、衆人を廣く治めしドリュアスよ、

エクサヂオス、カイニュース、ポリュペーモスは神に似き、

〔アイギュースの子、テーシュース、ひとしく不死の靈の類、〕 265

彼ら地上の人類の中に最も猛き者、

其敵ひとしく猛なりき、敵は山地のフエールシン、

半獸半人末遂に激しく打たれ亡びにき。

我その昔ピロスより、遠きはるかの故郷より、

招きに應じ來り訪ひ、彼らに結び交はりき、 270

與みして共に戰ひき、大地の上に住めるもの、

誰かは之を敵として戰ふ事を得たりしや?

其勇者すら諫納れ我の言葉に耳かせり。

汝ら等しくわれに聞け、諫を容るは善からずや?

アートレ,デーよ、勇なるも少女を奪ひ取る勿れ、 275

勿かれ、アカイア衆人の彼に與へし恩賞を。

ペーレーデース、汝また彼と爭ふこと勿れ、

ヂュウスの寵を蒙りて笏を其手に握るとも、

彼と等しき光榮を誰かは外に授りし?

汝神母の産めるもの、汝まことに勇なれど、 280

彼れ大衆に君として權威遙かに優らずや?

アートレ,デーよ、憤激をやめよ、我今敢て乞ふ、

彼を憎しむこと勿れ、存亡危急の戰に

彼ぞアカイヤ全軍の金城堅き守なる!』

265 265行は大概の寫本に省かる、後世の添加。

267 いはゆるセントール。

アガメムノーン其言に答へて即ち彼に曰ふ、 285

『叟よ、汝の曰ふところ皆悉く理に當る、

さはれ此者一切の衆を凌ぎて上に立ち、

治めて御して衆人に令を下すを冀ふ。

我が見る處、あるものは此事彼に許すまじ、

不死の神靈よし彼を戰士となすもこれがため、 290

漫に非法の言吐くを神靈彼に許さんや!』

その時英武のアキリュウス彼を遮り答へ曰ふ、

『汝の命に從ひて汝にすべて讓らむか、

即ち小人卑怯の名、我また辭ふことを得ず、

他人にかゝる命下せ、我に命ずること勿れ、 295

〔今より後に再びと我は汝の令聞かず。〕

我いま汝に曰ふ處、之を心に銘じおけ、

汝ら先に與へしを今取り去るに過ぎざれば、

たゞに少女の故をもて我汝等と爭はじ、

さもあれ黒き輕舟のほとりに我の持つところ、 300

わが意に背き一毫も汝ら掠め去る勿れ、

之を犯して衆人の目に觸るゝべく試みよ、

直ちに汝の暗黒の血潮わが手の槍染めむ』

296 アリスタルコス此行を省く、諸評家によりて省かるる行は前後屡々あり、本譯の註解中には一々是を指摘せず。只〔‥‥〕の記號を折に用ゐて表示することあるべし。

斯くして二人爭ひの言句了りて立ちあがり、

斯くしてアカイヤ水陣のほとりの會は散じ解け、 305

メノイチオスの子と共に部下の衆兵引きつれて

ペーレーデース陣營と戰船さして歸り去る。

306 メノイチオスの子=パトロクロス。

こなた輕舟浮ばせてアートレ,デース令下し、

漕手二十を撰びあげ、犧牲と共に紅頬の

クリュセーイスを導きて來りて舟に移らしむ、 310

親しく舟を指揮するは智慧逞しきオヂュシュウス、

かくて衆人一齊に水路はるかに漕ぎいだす。

アートレ,デースの命により、こなたアカイヤ全軍に

潔齋式は行はれ、衆人ひとしく身を清め、

洗ひし水を海にすて岸に集り牛羊の 315

いみじき牲を銀弓の神アポローンにたてまつる、

烟と共にたなびきて牲の香高く天上に。

陣中にして衆は斯く、而して先にアキリュウス

嚇せる怒引きつげるアガメムノーン今更に、

傳令の役司どり侍從の職にいそしめる 320

タールチュビオス及び又ユウリバテース召して曰ふ、

『汝等二人つれたちてペーレーデース・アキリュウス

彼の陣より紅頬のブリーセーイスとり來れ、

彼若しこれを與へずば我衆人を引きつれて、

行きて少女を奪ひ去り、更に苦惱を増さしめむ』 325

314 恐らく疫癘の際、彼らは身を洗淨せず、又哀慟の記號として頭上に塵を撒きしならむ。(XVIII 23 參考)

323 ブリーセーイスとはブリーセスの女といふ意味、本名はヒポダメーア。

しかく宣して兇戻の命を下して送りやる、

止むなく二人打つれて荒凉の海の岸に沿ひ、

ミルミドネスの陣營とその水師とを訪ひ來り、

その陣營と水師とに勇士坐せるを眺め見る、

二人の來るを望み見てペーレーデース喜ばず、 330

二人恐れて敬ひて將軍の前立てるまゝ、

一言一句陳じ得ず、何等の問も出し得ず、

されど將軍意に猜し二人に向ひて宣し曰ふ、

『來れ二人の傳令者、神明及び人の使者、

近くに來れ、われ責めず、たゞ汝等を遣はして 335

ブリーセーイス奪ひ取るアートレ,デース責むるのみ。

パトロクロスよ、つれ來り少女彼らの手に渡し、

去り行かしめよ、しかはあれ異日禍難の起る時、

衆の破滅を救ふべくわれの力を望む時、

其時二人わがために證者たれかし、慶福の 340

諸神の前に、無常なる諸人の前に、殘忍の

王者の前に、――見ずや彼無慚の心あれ狂ひ、

アカイア人に水軍のほとりに勝を來すべく

等しく前後の計※らすことを敢てせず』

斯く陳ずるを聞き取りてパートロクロス愛友の 345

言に從ひ、紅頬のブリーセーイス陣營の

中より出し與ふれば、アカイア軍に引き返す

二人につれて愁然と少女去り行く――こなたには

ペーレーデース只ひとり友を離れて、銀浪の

岸拍つほとり潜然と涙流して、渺々の 350

海を眺めて手を擧げて祈願を慈愛の母に斯く、

345 パトロクロス又パートロクロス。兩樣の發音。

『あゝわが神母、早世の運に生れし我なれば、

ウーリュンポスの高御座、轟雷振ふわがヂュウス、

われに光榮賜ぶべきを露ばかりだも顧みず、

アートレ,デース、權勢のアガメムノーン威に誇り、 355

われの戰利を奪ひ去り、我に無禮を斯く加ふ』

352 青春にして死すべき運命すでに定る。(IX 460 以下參照)。

涙を流し陳ずるを千仭深き波の底、

老いたる父の海神のかたへに神母きゝとりつ、

銀波忽ちかきわけて煙霧の如く浮び出で、

潜然として涙なる愛兒の前に向ひ坐し、 360

玉手に彼をかい撫でて即ち彼に向ふて曰ふ、

『愛兒なに故悲むや、何故心痛むるや?

胸に藏めず打ち明けよ共に親しく知らんため』

358 後の神話にネーリュウスの名を以て呼ばるる者。

XVIII 38 ネーレーデースあり。

脚神速のアキリュウス吐息を荒く母に曰ふ――

『君はすべてを皆知れり、述ぶるも何の效かある? 365

エーエチオーンの聖き郷、テーベイの市に侵し入り、

之を掠めて一切をわが軍こゝに齎しつ、

アカイヤ人らその戰利宜きに叶ひて分ち取り、

クリュセーイスの紅頬はアガメムノーン收め得き。

さはれアポローンの祭司たるクリュセースは堅甲の 370

アカイア人の輕舟の陣を目ざして訪ひ來り、

囚の愛女救ふべく巨多の贖持ち來し、

手に黄金の笏の上、飛箭鋭き大神の

スチンマのせて衆人に、特に二人の元帥の

アートレデース兄弟に言懇に訴へぬ。 375

其時すべてアカイヤの軍勢ひとしく聲あげて、

祭司を崇め珍寶の贖得るをうべなへり、

ひとり驕傲の威の募るアガメムノーン憤り、

不法に祭司斥けて更に罵辱の言加ふ。

祭司怒りて退きて祈を捧ぐ、かくて見よ、 380

アポローン彼を愛すれば其訴を納受しつ、

無慘の飛箭射放てばアルゴス人は紛々と

共にひとしく斃れ伏す、續きて神の怒の矢、

更にアカイア全軍の四方に隈なく降り注ぐ、

その時豫言者銀弓の神の御旨を宣り示す、 385

その時我は先んじて神意解く可く諫めたり。

されど權威にいや誇るアートレ、デースいきどほり、

立ちて威嚇の言を述べ、其言遂に遂げられつ、

かくて少女を眼光るアカイア人の輕舟に

神の供物ともろともにクリュセースに返しやり、 390

更に今はた傳令の使アカイア衆人の

われに與へし紅頬を陣の外へと奪ひ去る。

神母よ君の子を救へ――言葉或は行に

よりてヂュウスを君嘗つて喜ばしめしことあらば、

ウーリュンポスの頂にのぼりヂュウスに訴へよ。 395

屡聞けりわが父の宮殿の中ほこりがに

君のいへるを――その昔ウーリュンポスの諸神靈、

ヘーレー及びポセードーン、パ,ラス・アテーネー一齊に

雷雲かもす大神を鐡の鎖につけし時、

諸神の中に君ひとり彼の禍掃へりと。 400

君は其折、天上にブリアレオース、地の上に

勇力父に優るゆゑアイガイオーンの名を呼べる

百の腕ある怪物を、ウーリュンポスの頂に

急ぎて呼びてクロニオーン・ヂュウスの縛を解かしめき。

怪物ヂュウスの傍に揚々として誇らへば、 405

諸神は畏怖の念に滿ち再び彼に觸れざりき。

乞ふ、今行きて雷霆の神の前坐し膝抱き、

むかしを語り訴へよ、神恐らくはトロイア人

援け、アカイア軍勢を海に舳艫に追ひやらむ、

かくして彼等王のため禍難を受けて悲まむ、 410

かくして遂にかの王者自ら先にアカイアの

至剛の者を侮りし身の過を悟り得む。』

397 此奇怪の神話は他に何等の出所無し。アテーネーとヘーレーと與みしてヂュウスに抗す云々は奇怪の甚しきもの。説明し難し(リーフ)。

402 アイガイオーンは荒るる者を意味す。或説は彼を海王ポセードーンの子とし、他はウーラノスと(天)ガイア(地)との子とし、又或説はポントスとタラッサとの子とす。

テチス其時潜然と涙そゝぎて答へ曰ふ、

『あはれ汝をいかなれば不運に生みて育てけむ!

汝の命は短くて遂に長きを得べからず、 415

水師のほとり涙なく禍なくてあるべきを、

など宿命のはかなくて、不運すべてに優れるや!

あゝ運命の非なるより汝を宮にかく産めり。

こを雷霆の神の前、聞え上ぐべく雪積る

ウーリュンポスに赴かん、(神の納受のなからめや) 420

その中、汝激浪の洗ふ船中留りて

アカイヤ人に憤ほれ、其戰に加はるな。

昨日ヂュウスは清淨のアイチオペースの宴の爲め、

オーケアノスに出で行きて諸神ひとしく伴へり、

十二の日數過ぎ去らばウーリュンポスに歸り來ん、 425

金銅の戸の彼の宮その時汝の爲めに訪ひ、

膝を抱きて訴へん、彼の納受は疑はじ』

423 アイチオペース族は敬信の念に滿つ、神々は屡往きて其祭を受く。(XXIII 206)

陳じ了りて辭し返る、殘れる彼は胸の中

心に叛き奪はれし帶美はしき子の故に

なほ憤悶の情やまず。――同時にかなたオヂュシュウス、 430

聖き犧牲を携へてクリュ,セーイスを尋ね行く。

衆人斯くて深き水湛へし灣に入りし時、

白帆おろし、折り疊み、黒く塗りたる船に入れ、

急ぎ綱曳き帆檣を倒して叉に支へしめ、

これより櫂に漕ぎ入りて舟灣内に進ましめ、 435

つづいて衆は碇泊の重石沈め、綱繋ぐ。

これより衆は一齊に海岸さして進み行き、

飛箭の神に奉る聖き犧牲を曳きいだす。

クリューセーイス又波を分け來し船を出で來る。

其時智あるオヂュシュウス彼女を引きて祭壇に 440

進め、愛する父の手に渡して彼に陳じ曰ふ、

『ああクリュセーよ、王者たるアガメムノーンの令に因り、

汝の愛女今返し、更にダナオイ族の爲め、

聖き犧牲をアポローンに――先にアルゴス軍中に

禍難くだせし神靈に――捧げて彼を和げむ』 445

442 呼格。

しかく陳じて彼の手に渡せば、祭司喜びて

愛女を受けつ、衆人は直にりりしき祭壇を

めぐり犧牲を並べつつ、飛箭の神に奉り、

皆一齊に手を淨め、聖麥おのおの手に取りぬ。

その時祭司双の手を擧げて高らに祈り曰ふ、 450

449 牲の角の間に、又神壇の上に蒔くもの。

『ああクリュセーを、神聖のキルラを護り、テネドスを

猛くまつらふ銀弓の大神、われを聞し召せ、

神靈先にわが祈納受ましまし、わが譽

高めて更にアカイアの軍勢痛く惱せり。

更に今また新たなる我の祈を納受して、 455

ダナオイ族の疫癘の禍難を攘ひ去りたまへ』

しかく祈願を捧ぐればアポローン之を納受しぬ。

祈願終りて聖麥を牲の頭上に蒔き散らし、

斯くして牲を仰向けて屠りてこれが皮を剥ぎ、

つづいて股を切り取りて二重の脂肪これを蓋ひ、 460

更に其上精肉を載せて、斯くして老祭司、

薪燃やして燒き炙り、暗紅色の酒灑ぎ、

五叉の肉刺携ふる若き人々側に立ち、

股の肉よく燒けし時、臟腑を先に喫しつつ、

殘りの肉を悉く細かに割きて串に刺し、 465

心をこめて燒き炙り、終りて串を取り除けつ、

料理終を告ぐる時、酒宴の備整へつ、

斯くて衆人席に着き、心の儘に興じ去り、

飮食なして口腹の慾を滿たして飽ける時、

溢るるばかり壺の中神酒を充たし、まづ先きに 470

奠酒を爲して若き人普く衆に酌ましめぬ。

斯くて終日アカイアの子ら讃頌の歌謠ひ、

飛箭鋭き大神を柔ぐべくも試みぬ。

アポローン之を耳にして心喜び樂めり。

459 神々に捧ぐる時は仰向かしめ、冥府の靈に捧ぐる時は下向かしむ。

470 此前後不明、諸名家の譯も一致せず。初めに祭司らが飮食し、後に一般の參加者が飮食せしか。

斯くて紅輪沈み去り、暗き夜の影寄する時、 475

衆人ともに船繋ぐ綱のかたへに打ち臥しつ、

薔薇色なす指持てる曙の神女のいづる時、

アカイア軍のおほいなる水陣さして立ち歸る。

之を惠みて銀弓のアポローン追風吹き送る。

斯くして衆は帆檣を立てて白き帆高く張る、 480

快風吹きて帆のもなか滿たし、波浪は紫を

染めて高らに艫のめぐり※鞳として鳴り響く。

潮を蹴りて走る船斯くて海路の旅果す。

やがてアカイア陣營の廣きに歸り着ける時、

衆は黒船陸上に、白洲の上に引き揚げつ、 485

長き枕木その底に並べて布きて業終り、

終り、おのおの陣營に或は船に散じ去る。

こなた足疾きアキリュウス・ペーレーデース、神の子は

その輕舟の傍に坐して憤悶抑へ得ず、

勇士集る席上に、又戰陣のたゞ中に 490

絶えて姿を現はさず、欝々心蝕めて

思空しく戰鬪に、又※喚にあこがれぬ。

その後十二日は移る、その曙に不滅なる

諸神ヂュウスに從ひてウーリュンポスの頂に

皆一齊に歸り來る――時に愛兒の訴を 495

忘れぬテチス渺々の波浪をわけて浮び出で、

曙早く天上のウーリュンポスに昇り行き、

見ればかなたに群神を離れて坐せり連峯の

聳ゆる中の絶頂にクロニーオーン、雷の神。

神女即ち近寄りて其前に坐し左手に 500

其膝抱き、右の手をのばして彼の頤を撫で、

クロニーオーン、神の王ヂュウスに祈願述べていふ――

501 相手の膝を抱き其頤を撫づるは古來グリース人一般の習。

『天父ヂュウスよ、群神の間に在りてわれ嘗つて、

君を助けし事あらば此わが願容れ給へ、

他よりも早く運命の盡くるわが子を愛で給へ、 505

アガメムノーン、衆の王、今しも彼を侮りて

彼の戰利を奪ひ去り不法におのがものとしぬ。

ウーリュンポスを統べ給ふ君光榮を彼に貸し、

アカイアの民わが愛兒崇め尊ぶ時來る

その前トロイア軍勢に願はく力添へ給へ。』 510

雷雲寄する天王は之に答へず、默然と

長きに亘り口緘む、膝を抱きしテチス今

更に迫りて身を寄せて、再び彼に問ひていふ、

『わが情願を受け納れてうなづき給へ、然らずば

斥け給へ、大神は何を恐れん、しかあらば、 515

諸神の中にわが譽れいとも劣るを悟るべし』

深き吐息に雷雲のクロニーオーン答へ曰ふ、

『なんぢに迫られ、ヘーレーの憎しみ起し、彼をして

われを怒らす暴言を吐かしめんこと痛むべし。

彼は諸神の中にして常に不法に我を責め、 520

われ救援を戰場にトロイア軍に貸すと曰ふ。

さはれ今去れ、ヘーレーに見咎められそ、我に今

求むる處、心して必ず之を成らしめん、

望まば垂れんわが頭、これに汝の信を措け、

見よ群神の中にしてわれの至上のこの證、 525

わがこの頭うなだれてうべなふ處欺かず、

囘るべからず、いたづらに無效の聲と過ぎ去らじ』

クロニーオーンしか宣んし點頭き垂るゝ双の眉、

アンブロシャの香漲れる毛髮かくて天王の

不死の頭上に波立ちて震へり巨大のオリュンポス。 530

528 此三行に皷吹せられてグリース最大の彫刻家フェーヂアースヂュウスの像を造れりと曰ふ。

529 天上の靈液。

二神かくして議を終り別る、テチスは晃燿の

ウーリュンポスを辭し去りて波千仭の底深く、

ヂュウスは彼の神殿に――その時諸神の中にして

居ながら待てる者あらず、おの/\其坐立ち上り、

臨御を迎ふ一齊に。クロニーオーンかくて其 535

王座につけり、然れどもヘーレー彼を窺ひて、

老の海神うみなせる愛女、その脚銀光を

放てるテチス、天王と計りし跡を察し知り、

憤然として言荒くクロノスの子を責めて曰ふ、

539 クロノスの子即クロニーオーン即ヂュウス。

『いづれの神ぞ狡獪の君もろともにたくらむは? 540

われを疎んじ外にして常に祕密の計を

君は好みて行へり、かくして未だ温情を

我に施し胸の中打明けしことあらざりき』

人天すべての父の神即ち答へて彼に曰ふ、

『ヘーレー、汝一切の計らひ總べてを知るを得ず、 545

汝天王の配なれど此事汝に許されず、

知るべきところいや先に天上及び人間の

あらゆるものを後にして聞く光榮は汝の身、

衆神ひとしく外にしてわが胸ひとり知る處、

汝も之を探り得じ、汝の問ふを許されじ』 550

その時牛王の目を持てるヘーレー答へて彼に曰ふ、

『天威かしこきクロニデー、仰せ何等の言音ぞ?

われ究問の度を越して先に探りしことあらず、

悠然として君ひとり好めるまゝに計らへり。

今たゞ恐る、年老いし海王産めるかの神女、 555

脚銀色のテチスより神慮あるひは誤るを。

王座のもとに今朝はやく彼が御膝を抱きしを

見たり、思ふにアキリュウス崇めて更にアカイアの

軍を水師の傍に斃さん約の整ふか?』

552 クロニデース(クロノスの子)の呼格。

雷雲寄するクロニオーン即ち答へて彼に曰ふ、 560

『奇怪の汝、疑を常に抱きてわれ覘ふ、

かち得るところたゞ獨りわれの不興を増すのみぞ、

はては禍難のはげしきを汝の上に招くのみ、

かの事よし又ありとせば、我の心に協へばぞ、

口を閉して席に着き、わが命令を重んぜよ、 565

ウーリュンポスの群神の數はた如何に多くとも、

わが手の威力打たん時汝を救ふものなけむ』

しか宣んすれば牛王の目あるヘーレー畏怖に滿ち、

胸を抑へて默然と返りておのが座に着きて、

ヂュウスの宮に天上の諸神ひとしく悲めり。 570

ヘープァイストスすぐれたる神工、その時彼の慈母

玉腕白きヘーレーを慰め衆に陳じいふ、

『下界の人間の故をもて神靈二位のあらびより、

天上諸靈のたゞ中の騷起りて可ならんや?

その事誠に痛むべく、遂に堪ふべきものならず、 575

御宴の娯樂、絶え果てて不祥の禍難代るべし。

神母自ら悟らんも我は諫めてかく曰はむ、

慈愛の父の大神に切に和ぎ求めよと、

さなくば再び彼怒り諸神の宴を妨げむ、

雷霆飛ばす大神の威力誰れかは敵すべき、 580

怒らば天の群神の列坐ひとしく倒されむ。

今願くは温柔の言葉に彼を柔げよ、

直ちに聖山一の神われに慈愛を施さん』

しかく陳じて身を起し二重の盃とりあげて、

愛する母の手に捧げ再び言を嗣ぎて曰ふ、 585

『不滿は如何にはげしくも胸をさすりて耐へおはせ、

君懲しめを蒙むるをわが目いかでか忍び見む、

憤激わが血あほるとも威力誰しも及びなき

雷霆の神敵として君を助けんこと難し。

むかし助けを心せし我を天宮のしきみより、 590

踵によりて引き掴み投げ飛ばせしは彼のわざ、

終日空を飛ばされて沈む夕陽もろともに、

息絶え/\に逆に落ち來し郷はレームノス、

シンテーイスの人々の温情により助かりぬ』

593 アイガイオス(エーヂアン)海の北にあり。

斯く陳ずるを腕白きヘーレー聞きてほゝゑみつ、 595

笑みて其子の捧げたる二重盃手にとりぬ。

つゞきて天の靈液を諸神おの/\手に取れる

酒盃に注ぎ殿中をヘープァイストス※り行く。

そのあしらひに慶福の諸神ひとしくほゝゑみつ、

のどけさつきぬ笑聲は歡喜溢るゝ宮の中。 600

斯くて終日夕陽の降り沈むにいたる迄、

御宴をつゞけ群神の心に充たぬものもなし、

神アポローンの手に取れる瑤琴の音またひゞき、

歌の神女の宛轉の微妙の聲もつぎ/\に。

斯くて落日晃耀の光の名殘消え去れば、 605

諸神おの/\其宮に就きてやすらひ睡るべく、

ヘープァイストス跛行神、巧みの技に天上の

靈おの/\に築きたる王殿さして歸り行く、

はたオリュンポス雷霆の天威かしこきクロニオーン、

甘眠來り襲ふとき憩ひ馴れたる床の上 610

登りて睡る――黄金の王座ヘーレー側らに。

611 第一卷中に本詩中の最も重大なる配役者(神も人も)が讀者の前に現出す。人間中にアガメムノーン。アキリュウス、ネストール、パトロクロス、神明中にはヂュウス、ヘーレー、アテーネー。第三卷に到つてトロイア側の人と神とが現はる。ヘクトール。パリス、プリアモス、――神女アプロヂーテー及び全局の中心ヘレネー。

第二歌

大神ヂュウス計りて夢の靈をアガメムノーンに遣はす。 夢の靈王の枕上に立ち詐はりてトロイア落城の近きを告ぐ。 王起ちて諸將軍を召集す。 次に軍隊を集め、之を試さんために、歸陣を命ず。 軍隊の擾亂。 神女アテーネー之を憂ひ、來りてオヂュシュウスに命じ、其擾亂を鎭せしむ。 オヂュシュウス諸軍に勸告す。 テルシテース罵詈の言を放つてアガメムノーンを責む。 オヂュシュウス之を懲す。 又衆軍を勵まして戰を續けしむ。 ネストール之を讚す。 犧牲を備へ神を祭りて戰勝を祈る。 アカイア軍の勢揃ひ。 戰役參加の諸將及び其船數。 トロイア軍集る、其勢揃ひ。

諸神並に諸將らの終夜の休み外にして、

クロニーオーン・ヂュウスの目甘き眠に囚はれず、

胸に計略たくらみつ、アキリュウスに榮あらせ、

アカイア軍の傍に衆人斃さん術思ひ、

思ひこらして元戎のアガメムノーンの陣營に 5

欺瞞の『夢』を送るべく計りて自ら善となし、

即ち精を呼び出し、飛翔の言を宣しいふ、

2 第一歌の終と矛盾すれど、其矛盾はさまで重大ならず。

『欺瞞の「夢」よアカイヤの水軍めがけ飛び行きて、

アートレ,デース――元戎のアガメムノーンの營に入り、

正しく我の命のまゝ述べよ、戰備を髮長き 10

アカイア人に迅速に爲さしむるべく彼に曰へ、

「トロイア人の街廣き都城この日に陷らむ、

ウーリュンポスの山上の衆神今は爭はず、

女神ヘーレー懇に願ひ諸神の心曲げ、

爲めに悲慘の運命はトロイア城に懸りぬ」と』 15

10 アカイア人の長髮は唯に飾のみならず、自由の記號(アリストテレスの「修辭」一ノ九、又クセノフオンの「ラケドモンの政體、十一ノ三」。

しか宣すれば「夢」の靈その嚴命をかしこみて、

アカイア人の輕舟の陣に急ぎて走り來つ、

やがて續きて元戎のアガメムノーンにおとづれつ、

陣營の中、かんばしき甘き眠の王を見つ、

即ち彼の枕上に立ち、ネストール(大王の 20

尊敬最も篤うするネーリュウスの子、ネストール)

その影取りて「夢」の靈彼に向ひて宣しいふ、

『軍馬を御する勇猛のアトリュウスの子たる者!

眠るや? 汝王者の身、民の信頼あるところ、

心に大事を思ふ者豈に夜もすがら眠らめや! 25

今速かに我に聞け、遠く離れて思ひやる

クロニーオーン憐みて我を汝に遣はせり、

其命受けて長髮のアカイア軍を速かに

準備せしめよ、街廣きトロイアけふぞ亡ぶべき、

ヘーレー女神懇に求め、諸神の意を抂げつ、 30

ウーリュンポスの山上の群神今は爭はず、

禍難はヂュウスの手よりしてトロイア城に今掛かる、

汝心に之を記せ、甘美さながら蜜に似る

睡なんぢを去らん時わがいふ處忘るな』と。

しかく陳じて靈は去る、後に王者は胸の中、 35

成就すべくはあらぬ業、プリアモス守るトロイアを、

其日の中に奪ふべく愚の心もくろみつ、

トロイア並びにアカイアの民にひとしく叫喚を、

禍難を來す戰爭の猛きをヂュウス・クロニオーン、

心ひそかに計へるその計略を悟り得ず、 40

眠さませる大王の耳に神祕の聲は鳴る。

アートレ,デース身を起し、新たに成れる美はしき

衣を纒ひ、戰袍の廣きを上に打はふり、

光澤なめらの雙脚にいみじき戰鞋穿ちなし、

銀鋲うてる長劔を肩に斜めに投げ掛けつ、 45

父祖相傳のいかめしき王笏手にし、青銅の

胸甲穿つアカイアの陣中さして出でて行く。

見よ今聖きエーオース、ウーリュンポスに向ひ行き、

ヂュウス並びに群神に光を傳ふ、こなたには

アートレ,デース音聲の朗らの諸使に令下し、 50

毛髮長きアカイアの衆を集議に招かしむ。

諸使その令を傳ふれば衆人はやく寄せ來る。

斯くてすぐれし元老の集議まさきにネストール

(ピュロスの王者ネストール)其船めぐり行はる。

かく群衆を集め得て大王賢き策をいふ、 55

48 曙の女神。

53 一般に當時グリースの社會は三階級より成れり、王、元老、平民。

55 反語的か。

『諸友願はく我に聞け、尊き夢の靈夜半に

眠の中に現はれぬ、其風貌はさながらに、

其身の丈に到る迄、みなネストール見る如し、

わが枕上に立ち留り、我に向ひて彼は曰ふ、

『軍馬を御する勇猛のアトリュウスの子たる者! 60

眠るや、汝王者の身、民の信頼するところ。

心に大事思ふもの豈によもすがら眠らんや!

今速かにわれに聞け、遠くはなれて思ひやる

クロニーオーン憐みて、われを爾に遣はせり、

その命受けて髮長きアカイア人を速かに 65

準備せしめよ、街廣きトロイア今日ぞ亡ぶべき、

女神ヘーレー懇ろに求めて衆の意に抂げつ、

ウーリュンポスの聖山の衆神今は爭はず、

禍ヂュウスの手よりしてトロイア城に今降る。

汝こゝろに之を記せ』しかく陳じて夢の精、 70

飛び去り行きて、甘眠は再び我におとづれず、

さらばアカイア衆軍に準備せしめん、よからずや。

我まづ初め衆軍を試めさむ(正し、かく爲すは)

即ち舟を艤ひて邦に歸れと勸め見ん、

即ち諸友、部を分ち、勸めて彼ら引き留めよ』 75

1 甚だ當を得ず、又後に諸友が兵を引き留むる事なし。

此前後矛盾多し、後世の添加なるべし。

しかく宣んして坐に返る。つゞきて衆の前に立つ、

ピュロス沙岸の一帶を領し治むるネストール、

計量密に參列の衆に向ひて陳じ曰ふ、

『あゝアルゴスの諸君王及びわが友、諸將軍、

今聞くところ、此夢を他のアカイア人見しとせば、 80

欺瞞となして信頼をこれにおくべき由あらじ。

されども見しはアカイアの至高と自ら誇る者、

いざ、さは、アカイア軍勢に勉めて準備なさしめよ』

79 ネストールの演説極めて弱し、アリスタルコスは全く之を省く。

しかく陳じて集會の席をまさきに辭し去れば、

つゞいて王笏もてる者、同じく立ちて群衆の 85

牧者の命に從へり。――今、軍勢は寄せ來る、

似たり恰も巖石の隙より絶えず新しく

陸續として繰り出す密集無數の蜂の群、

群がり寄せて陽春の花をめぐりて飛び翔けり、

こゝに或は又そこに紛々として亂る如く、 90

斯く百千の軍勢は兵船並に陣營を

出でゝ隊伍を順々に大海原の岸の上、

集會めがけ押し寄する――中にヂュウスの使たる

オッサ姿を燦爛と照して衆を逐ひ進む。

かくして寄する集會の騷はげしく大地震る、 95

その擾々のたゞ中に立てる九人の傳令使、

朗々の聲衆に呼び騷を制し神明の

命を奉ずる列王の宣言聞けと命下す。

かくて漸く坐に着きて衆人席を占め終り、

叫喚やめば其の中にアガメムノーン起ち上る、 100

其の手に握る王笏はヘープァイストス鑄たるもの、

ヘープァイストスの手よりこを受けしは天王クロニオーン、

天王これをアルゴスを屠れる使者のヘルメース、

彼に讓ればヘルメース悍馬を御するペロプスに、

ペロプス之を嗣がせしは衆を治むるアトリュウス、 105

そのアトリュウス臨終にチュエステースに、又次いで、

アルゴス及び列島を此笏取りて治めよと、

チュエステースは其順にアガメムノーンの手に讓る、

其王笏に身をもたせ王は普く衆に言ふ、

94 流言報告等を人化す。

103 アルゴスは百眼の怪物、而して都市アルゴスの建設者。ヘルメースはアルゲープォンテースと呼ばる。されど或説によれば是句は「速かに走るもの」を意味す。詳細はザイラアのホメール字書を見よ。

104 系統左の如し。

┌アエギストス

│

┌チュエステース┘

タンタロス│

│

―ペロプス│ ┌アガメムノーン

└アトリュウス─│

└メネラオス

107 この場合にアルゴスはグリース全土の稱。

『友よ、ダナオイ諸勇士よ、神アレースの部將等よ、 110

見よ、クロニオーン、運命の非なるに我を屈せしむ。

イリオン城を覆へし、振旅し國に歸るべく

先に應護の盟もてクロニーオーン約せしを、

今は欺騙をたくらみて衆兵すでに失へる

我に空しく譽なき歸陣の酷き命下す。 115

威靈かしこき天王の神慮まさしく斯りけり。

彼は幾多の城壁をすでに地上に打ち崩し、

此後つゞきて崩すべし、彼の神威は物すごし。

思へ、アカイヤ諸民族、この大軍を擁し得て、

たゞに無效の戰伐を事とし、數の劣りたる 120

敵軍前に相向ひ何等の蹟も擧げ得ざる、

此事子孫聞き知らば、思へ、何等の恥辱ぞや!

今トロイアとアカイアと兩軍互ひに相約し、

斃れしものを葬りておの/\勢を數へんか、

トロイア城内一切の族悉く寄り來り、 125

われアカイヤの大衆は十人おの/\群をなし、

その群おの/\飮宴の給仕たるべくトロイアの

一人づゝを採るとせば、トロイアの數なほ足らず、

アカイア人の數優に城内すめるトロイアの

數を凌ぐは斯くばかり、さもあれ幾多の城市より、 130

長槍揮ふ衆勇士來りて彼の應援に

勢猛くわれ防ぎ、壯麗堅固のイーリオン,

其城破り碎くべきわれの希望を打ち絶やす。

天の照臨するところ星霜九年過ぎ去りて、

今わが船の材は朽ち、繩は腐れぬ、かくてわが 135

故郷に遠く恩愛の妻子淋しく日を送り、

われを待ちつゝあるべきを、しかもわが軍遠征の

基となりし業遠く容易く成就すべからず。

いざ今われの曰ふ如く衆一齊に承け入れよ、

いざ今衆軍船に乘り、愛の故郷に歸り去れ、 140

街路の廣きトロイアは遂に陷落の時あらず』

宣言かくて其はじめ集議の席にあらざりし

群集すべての胸の中、其心肝をかきみだす。

天王ヂュウスの黒雲の中より飛べる東風と

また南風と煽り拍つ渺々の海イカリオス、 145

その激浪の立つ如く、群衆ひとしく亂れ立つ、

或は西風寄せ來り勢猛く飄々と

無邊の麥隴みだす時、穗の一齊に伏す如く、

群衆ひとしく亂れ立ち、即ち歡呼の聲を揚げ、

水陣めがけ馳け出せば、脚下に塵は濛々と、 150

亂れて空に舞ひのぼる――衆人互に勇み合ひ、

船をおろして大海に浮ばしめよと罵りつ、

船渠空しく殘されて歸郷を急ぐ叫喚は

天にのぼりぬ、船舶を支へし材は拂はれぬ。

145 正しく曰はばイーカリオス。ダイダロスの子イーカロス人工の翼を附けて天に上る、而して誤りて落下し海に沈む、これよりイーカリオス海と呼ばる。バートランド・ラッセル先年“Icarus”を著し、道義を伴はざる物質文明の沒落を諷す。

その時ヘーレー聲あげて藍光の目のアテーネー、 155

之に呼ぶこと無かりせば彼ら歸國を遂げつらむ、

『アイギス持てるヂュウスの子、アトリュウトーネー、あゝ見ずや!

斯くアルゴスの諸軍勢祖先の宿にあこがれて、

渺々の海打ち渡り故郷に歸り去らんとや!

かくして彼らプリアモス又トロイアに戰勝の 160

譽れ並にアルゴスのヘレネー殘し去るべきや?

あゝ此の女性の故を以つてアカイア人の幾萬は、

遠く故郷をはなれきてトロイアの地に斃れしを!

なんぢ今行け、胸甲のアカイア人を巧辭もて、

留めよ、船の激浪を躍り進むを押し止めよ』。 165

157 アトリュウトーネーは倦まざるもの、制すべからざる者を意味す。アテーネーに對する常用形容句。

アートリュウトーネー、又はアトリュウトーネー(Brasse's Greek Gradus)

藍光の目のアテーネーその宣命に順ひて、

ウーリュンポスの頂を飛ぶが如くに馳けくだり、

忽然としてアカイアの輕舟の陣訪ひ來り、

聰明さながら神に似るオヂュシュウスの立つを見る。

將軍心に魂に且つ憤り且つ悶え、 170

楫取多き黒船に未だ其手を觸れざりき、

藍光の目のアテーネー近より來り宣し曰ふ、

『ラーエルチァデイ、神の族、妙算奇謀のオヂュシュウよ、

楫取多き船に乘り、汝ら斯くも憧憬の

地なる祖先の恩愛の宿をめざして去らんとや? 175

汝らかくてプリアモス又トロイアに戰勝の

譽並にアルゴスのヘレネー棄つや? 彼のため、

アカイア族の幾萬は國を離れてトロイアの

郷に逝けるを! いざ立ちて彼らに向へ、ためらひそ。

なんぢ巧の言により衆のおの/\押しとめよ、 180

波浪を越して其舟の躍り進むを警めよ』

173 共に呼格。オヂュシュウスはラーエルテースの子即ちラーエルチアデースなり。

かくと陳ずるアテーネー、其忠言を聞き悟り、

將軍急ぎ馳け出だす、その脱ぎすてし戰袍は

從者イタケーの傳令者ユウリバーテス運び行く。

184 I 320のは同名異人。

斯くて走りて總帥のアガメムノーンの前に行き、 185

相傳不朽の王笏を彼より借りて携へて、

青銅鎧ふアカイアの水陣指して馳け出す。

かくして進むオヂュシュウス、列王或は將帥の

一人に逢へば引き留め、言句巧みに説きて曰ふ、

186 101 以下にいふところの笏。

『豪勇の士よ、卑怯者の如くおのゝくことなかれ、 190

なんぢ何故沈勇を示して他にも勸めざる?

アートレ,デースの祕意未だ君明かに悟り得ず、

彼れ剛臆をためすのみ、やがて彼らを咎むべし、

集議の席に述べしことすべての人はまだ聞かず、

恐らく彼の憤激はアカイア人の利にあらじ、 195

神の寵する大王の怒まことに恐るべし、

彼の光榮神に出で、神の愛護は彼に垂る』

或は卒伍の卑き者罵り呼ぶにいで逢へば、

王笏揮つて之を打ち、おどし叱りて宣しいふ、

『友よ吻りに動かざれ、優る他人の曰ふ處、 200

聞かずや! 汝戰に適せず力弱くして、

集議或は戰鬪の場に何らの效もなし、

アカイア人の一切はこゝに統治を行はず、

多數の統治宜とせず、クロニオーンの撰び上げ、

他の一切を治せんため、笏と律とを附するもの、 205

其者ひとり主たるべし、其者ひとり王たらむ』。

斯く彼れ至上の威を振ひ陣中めぐり令すれば、

衆人即ち水陣と陸營とより叫び出で、

集議の席に押し寄する、似たり高鳴る滄溟の

狂瀾岸の岩拍ちて怒潮うづまき吠ゆるさま。 210

斯くて衆人悉くおのおの席に歸り着く。

テルシテースはたゞ獨り猶叫喚の聲やめず、

胸に無盡の迷妄の思貯ひ、列王に

みだりに抗し爭ひて、首尾整はぬ亂言に、

たゞにアルゴス衆人の笑起すを喜べる 215

彼れ、イリオンに寄せ來る衆中最も醜惡の

相を持つ者、斜視にして、一脚他より短かかり、

左右の肩は聳え立ち胸に向ひて迫り來つ、

頂顱光りてまばらなる毛髮これが上に生ふ。

常に誹謗の的なればペーレーデースとオヂュシュウス、 220

彼を最も憎しめり、今はた彼の妄言は

アガメムノーンに向ひ來る、衆人これを顧みて

胸に瞋恚の焔燃え、憤激彼に甚だし。

彼は即ち大音に叫びて王を責めて曰ふ、

212 此人物は又ソホクレースの作『プイロクテーテース』四四二にあり。

彼に關して奇異の傳説あり、即ち彼はホメーロスの後見人。而して彼の産を奪へるが故に詩人はその不朽の詩に於て彼に復讐すと。又第二の傳説――カリドーンの野猪狩に於てメレアーグロスは彼を絶崖より落して不具者たらしむ云々。野猪狩は IX 543 に見る。

『アートレ,デーよ! 今更に何の不足ぞ? 欲求ぞ? 225

陣營の中、青銅は君に餘れり、アカイアの

軍勢敵を屠る時、主として君に捧げたる

佳人の數も陣營の中に不足にあらざらん。

或はとあるトロイア人、我か或はアカイアの

外の勇士に捕はれし子の償にイリオンの 230

城より取りて來るべき黄金を君欲するや?

はた妙齡の婦女を獲て、かたへ人なき密房に

愛に耽けるを望めるや? ああ全軍の將として

アカイア族を困厄に導き入れて宜からむや!

あゝ柔弱者恥しらず、アカイア族の名は空し。 235

さもあれ我は船に乘り故郷に去りて王をして

あとトロイアに留りて獨り戰利に飽かしめむ。

然らば我の要あるや然らざるやを辨へむ。

あゝ彼れ優れる豪勇のアキルリュウスを辱め、

其獲し戰利其手より強奪なして身に收む、 240

さあれ微温のアキリュウス、胸裏の怒大ならず、

アートレ,デーよ、さもなくば君の非法は今最後!』

アガメムノーン總帥に、かゝる毒舌あびせたる

テルシテースの傍に、直ちに寄する、オヂュシュウス、

將軍彼を睨まへて憤然として叫び曰ふ、 245

テルシタ、汝亂言者、辨は允に雄なるも、

默せよ、汝、列王を叨りに誹謗する勿れ。

アートレ,デースもろともにトロイア寄せし衆の中、

賤陋汝に優るものわれは知らずと敢て曰ふ。

汝集會に口開き諸王を云々する勿れ、 250

彼等に無禮曰ふ勿れ、歸郷を語ること勿れ、

戰役何らの形とる? 商量未だ及び得ず、

アカイア族の歸郷又可否は未だに測られず、

アートレ,デース、民の王、アガメムノーンに惡言し、

彼にダナオイ諸將軍獻ずる所多しとて、 255

そのため汝衆人の前に誹謗の言放つ、

さはれ汝に今宣んす、宣んする處屹と成らむ、

今なす如く亂言を吐くこと汝やまざらば、

我は汝を捕縛して服裝すべて剥ぎ取らむ、

汝の耻を掩ふ處被袍と下衣と剥ぎ取らむ、 260

かくて汝を辱かしめ、鞭に懲して集會の

席よりかなた輕舟の陣に泣き咆え去らしめむ。

我もし之れを能くせずば肩のへ頭戴かじ、

テーレマコスは身を父と此後またと呼ばざらむ』

246 呼格。

264 オヂュシュウスの愛兒。――長男の名を一種の名譽の稱號とすること他にも例あり。

しかく宣んして彼の肩、背に打ちおろす笏の鞭、 265

妄人即ち身をかがめ、涙はげしくはふり落つ。

見よ金笏の打おろす肩は血にしむ疵の痕、

テルシテースはおののきて苦痛激しく、茫然と

あたり見※し、流れくる涙ひそかに推し拭ふ。

衆人之を眺めやり、傷み乍らも快然と 270

笑みておのおの傍に坐れる者に向ひ曰ふ、

『ああオヂュシュウス聰明の意見集議の端開き、

或は敵と鬪ひて百千の功建て來る、

されども今し傲慢の彼を集議の座より追ひ、

アカイア族に勳功の至上のものを齎らしぬ。 275

驕慢彼を促して妄人さらに罵詈の言、

放ちてまたと列王を侮どることは能くし得じ』

衆人かくぞ――こなたには都市の破壞者オヂュシュウス、

金笏持ちて立ちあがる、傍に神女のアテーネー、

傳令使者の姿取り、沈默せよと衆人に 280

宣る、アカイオイ、高きもの、又低きもの一齊に

彼の言句に耳を貸し、彼の意見を顧慮せよと。

將軍即ち其見を錬りつゝ衆に宣んし曰ふ、

『アートレ,デーよ、明朗の聲ある人の目の前に、

アカイア族は今君を誹謗の的となさんとす。 285

駿馬産するアルゴスを立ち出でし時、衆軍の

誓「トロイア堅城の破却の後の凱旋」と

等しく共に大王に約せし言は遂げられず。

幼齡の兒の爲す如く、或は寡婦のわざに似て、

衆人おの/\懷郷の嘆に堪へず、悲めり。

辛酸痛く嘗めし後、誰か歸郷を勉めざる? 291

たゞ一月も最愛の妻に、故郷に別れ來て、

激浪及び嚴冬の嵐に惱む船の中、

泊せんものは寂寞の思に堪へずつぶやかむ。

況して春秋九囘、わが軍こゝにつきてより

移りぬ、宣べし衆人の水師のほとりつぶやくは、

咎むべからじ、然れども滯陣の日の長くして、

功なく空しく歸らんは何らの恥辱! いざや友!

暫く忍び留りて究め知らんと欲せずや?

占ひ説きしカルハース、當るや或は非なるやを。 300

此事われ人、胸中に皆悉く銘じ知る、

死の運命を免れし諸卿はた又證者たり、

事たゞ昨日と見るばかり、アカイア水師アウリスに

集り、害をイリオンとプリアモスとに謀る時、

泉のほとり神聖の壇を設けて列神に 305

いみじき犧牲たてまつり、清冽の水迸る

かたへ葉廣きプラタンの樹の下、衆の立てる時、

大なる奇蹟現はれき、オリュンピオスの遣はせる、

背は血紅の恐るべき蛇現はれて聖壇の

下より這ひ出、プラタンの梢めがけて這ひ上る、 310

その最上の枝のうへ、廣き緑葉繁る蔭、

まだ聲立たぬ可憐なる子雀八羽潜み居つ、

これらを産める母鳥と合はせて九羽を數ふるを

木昇る惡蛇進み寄り、悲鳴の子らを呑みさりぬ。

母鳥しきりに悲鳴して愛兒の※り翔け飛ぶを 315

惡蛇這ひ寄り其翼無慘に捲きて捕まへぬ。

されど其蛇母と子と九羽の鳥皆呑みし時、

彼つかはしゝ神靈は奇蹟をこゝに顯しぬ、

神意微妙のクロニオーン、惡蛇を化して石としぬ。

これを眺めし衆人は、身じろぎもせず茫と立つ、 320

牲の祭の中にして神の降せる此不思議、

起るを見たるカルハース未來を悟り衆に曰ふ、

『あゝ長髮のアカイヤ族、何故默し佇むや?

クロニーオーンおほいなる奇蹟を我に遣はせり、

事の成就は遲くとも成りて光榮朽ちざらむ。 325

惡蛇は雛と其母と合はせて九羽の鳥呑みぬ、

數は同じき九春秋、戰鬪こゝに續くべく、

暦數十たび移る時廣き街路のイリオンの

堅城遂に破られてわが軍の手に落ちぬべし』

しか宣んしたる彼の言、今は正しく成らんとす。 330

敵の堅城イーリオンわが手の中に落つる迄、

陣營こゝに張らしめよ、わが堅甲のアカイオイ!』

284 人間を明朗の聲あるものと稱す。

303 トロイアに向ふ諸軍船の集合點。

308 オリュンポスの神。

309 蛇は又 VII 207 にも出づ。

その言聞きてアルゴスの衆軍ひとしく歡呼しつ、

歡呼の聲に水軍のほとり普く震動し、

皆英豪のオヂュシュウス陳べし處を讃美しぬ。 335

ゲレーナ騎將ネストール、その時衆に宣んし曰ふ、

『ああ、痛むべし、集會の席に汝ら曰ふところ、

心に軍事留めざる幼穉の輩にさも似たり、

先に結びし約束と誓いづくに今ありや?

會議と男子の謀らひと盃擧げし約束と 340

信を繋げる握手とはすべて烟と消ゆべきや?

長時に亙り、こゝにある衆は空しくいたづらに

口論に耽り方策の宜しきものを見出し得ず。

アートレ,デーよ、先の如、今も不撓の意氣により、

奮戰苦鬪のたゞ中にアルゴス族に令下せ、 345

衆軍の中、一二の徒、説異にして雷霆の

ヂュウスの約の眞否まだ知れざる前にアルゴスに

歸らんずるものありとせば(彼の願は成らざらむ)

其意にまかせ、彼をして其運命に就かしめよ。

聞かずや昔、イリオンに流血破滅を加ふべく、 350

アルゴス衆軍一齊にその船舶に乘りし時、

神威無上のクロニオーン、我の願を納受しつ、

右手に雷光閃かし、善き前兆を現はしき。

衆人おのおのイリオンの女子を奪ひて册かせ、

かれヘレネーの嘆息と惱を報ひ終らずば、 355

歸郷を急ぐべからざる故はかくこそ、了せりや?

されども國に歸るべき願切なる者あらば、

漕座いみじき黒船に彼の手をして觸れしめよ。

他に先んじて凶運と死とに其者出で逢はむ。

されば大王心して是より外の説を聞け。 360

わが曰ふ處、いたづらに汝棄つべきものならず、

大王、今わが衆兵を種族家族により別て、

家族互に相援ひ、種族互に助けよと、

命下る時アカイアの衆みな之に從はば、

諸將並に諸兵士の勇怯忽ち悟り得ん、 365

人々各其族のために戰ふものなれば。

又敵城の落ちざるは神意に因るや、あるは他に

諸軍の懈怠、戰鬪の拙によるやを辨へむ。』

339 ヘレネーの奪取を報復せずばトロイアより歸らずとの盟。

353 右に現はるるは吉兆。

355 頗る不明、――此儘ならばヘレネーの逃亡は暴力により止むを得ざりしこととなる。アリスタルコスはヘレネーのに非ずヘレネーの爲めに國人の嘆息と解す。

彼に答へて權勢のアガメムノーン宣んし曰ふ、

『あゝ叟、集議にアカイアの子らを遙に君凌ぐ、 370

ああ今われにクロニオーン、又アテーネー、アポローン、

賜ふ參與の十員の君に似るものあらましを。

さらば直ちにプリアモス彼の堅城陷りて

わが軍勢の手の中に奪はれ破壞さるべきを。

さるを天王クロニオーン口論と無用の爭に 375

われを投じて之がため禍難を我に降らしむ。

たゞに少女の故をもて嗚呼われ並にアキリュウス

口論はげしく戰ひつ、しかも我まづ怒りしよ。

兩者再び一心に結ばゝ敵のトロイアの

禍難允に遠からじ、禍難素より小ならじ。 380

さもあれ今は戰鬪の備のために食に就け、

おのおの鋭く鎗琢け、おのおの楯を整へよ。

おのおの糧を駿足の群に與へて飽かしめよ、

おのおの戰鬪心して隈なく兵車檢し見よ、

夕陽沈み入らん迄奮戰苦鬪爲さんため。 385

暗夜到りて衆軍の勇み抑ゆること無くば、

瞬く隙も戰鬪を中止することあらざらん。

かくしておのおの胸の上身を蓋ふ楯の革紐は

汗にまみれむ、長鎗を揮ふ堅腕倦み果てん、

閃めく兵車曳く馬も淋漓の汗に苦まむ、 390

はた曲頸の船のそば戰よそに遠ざかり、

殘りてわが目に觸れんもの、彼豈に鷙鳥の餌となり、

野犬の腹を肥やすべく無慘の運を免れんや?』

371 切なる祈願の時此等三神の名を呼ぶ、IV 287. VII 312. XVI 97. にも。

しか宣んすればアカイヤの軍一齊にどよめきぬ、

そを譬ふれば、絶崖のほとりの波を南風の 395

襲ひて驅りて聳てる危巖めがけて打つ如し、

巖はつねに波ひたる、あらしの向きに係らず。

衆人かくて身を起し、水師の中に驅け走り、

陣に火煙を吹き揚げて糧食ひとしく喫去り、

やがて應護の神靈に衆人おのおの牲を上げ、 400

非命の戰死、惡戰の苦惱の救ひ祈り請ふ。

アガメムノーン大王は牲に五歳の肥へし牛、

天威至上のクロニオーン・ヂュウスの前にたてまつり、

式にアカイア族中の宿老將士呼びあつむ。

初め來るはネストール、王イドメネー之に次ぐ、 405

次ぐは二人のアイアース、同じく跡に續き來る

ヂオメーデース、第六は聰明理智のオヂュシュウス、

更に英豪メネラウス、自ら來る、其兄の

胸中の感、悟り得て招かれなくに來り訪ふ。

斯くて犧牲の牛圍み、聖麥握る衆の中、 410

アガメムノーン、權勢の王は聲あげ祈り曰ふ

410 I 449 參照。

『虚空に位し、雲湧かす光榮至上のクロニデー!

イリオン城の宮殿を烟塵暗く覆し、

その城門を悉く猛火の焔打ち崩し、

勇將ヘクト,ル胸に着る甲を鋭刄つんざきて、 415

彼の※りに同僚の一團ひとしく倒れしめ、

塵噛ましめん其前に神願くは許さざれ、

光輪西に落ち行くを、暗の大地に降り來るを』

412 クロニオーンの呼格。牲を備へ神を祭る同樣の儀式は詩經大雅の旱麓篇にあり。「清酒既に載せ、※牡(赤牛)既に備はり、以て享し以て祀り、以て景福を介にす。」

クロニオーン其祈願いまだ許さず其の牲を

納受なせども辛勞を王に對して増し加ふ。 420

衆は祈祷を上ぐる後、やがて聖麥振り蒔きつ、

犧牲の首を仰向かせ、屠りて之の皮を剥ぎ、

續きて股肉切り取りて二重の脂肪に蓋はしめ、

四肢より截りし精肉を更に其上重ね載せ、

葉を棄てさりし樹の枝を集め燃して之を燒き、 425

ついで臟腑を串にして火上にかざし炙り燒く。

次に股肉の燒けし後、臟腑試み喫する後、

殘れるところ悉く細かに割きて串に刺し、

用意洩れ無く燒き炙り、炙りて火より取り出し、

斯くして準備終る時、酒宴の席を整へて、 430

衆人共にこゝに座し、皆一齊に飽き足りぬ。

かくして宴飮了し果て口腹おのおの滿てる時、

ゲレーナ騎將ネストール、衆中立ちて宣んし曰ふ、

421 I 449 とほぼ同じ。

423 股の肉は最上。

『アートレ,デーよ、光榮のアガメムノーンよ思ひ見よ、

言論討議すでに足る、神明命じ我の手に 435

託せる事功いつまでかまたと、延引さすべきや?

いざ傳令の使者をして青銅よろふアカイアの

衆水陣に集むべく聲朗かに宣らしめよ、

われ亦一齊連れ立ちてアカイア陣に赴きて

急にアレース、勇猛の軍の神を目醒まさむ。』 440

その進言に從ひてアガメムノーン統帥は、

直ちに音吐朗々の令使に命じ、長髮の

アカイア族を戰鬪に皆悉く招かしむ。

令使即ち命傳へ、衆迅速に集へ來る。

アートレ,デース取り圍む神寵厚き列王は 445

馳せて隊伍を整ふる、中に藍光の眼持てる

アトリュトーネー・アテーネー不朽不滅の楯を取る、

楯に純金の百の總垂れたり、總は精好の

織はいみじくおのおのの價正しく百の牛、

此楯取りてアテーネー、アカイア族の陣中を 450

縱横はげしく驅け※り、衆を勵まし胸中に

奮戰苦鬪の勇ましき思おのおの湧かしめぬ。

衆忽然と勇み立ち感じぬ、戰甘くして

船に乘じて恩愛の故郷に行くに勝れりと。

449 VI 236 に又「百牛の價」あり。

見よ、山岳の頂の大森林を燒き立つる 455

猛火暴びて、炎々の焔遠きに照る如く、

集り來る軍勢の武具より燦と照り返す

光輝は高く空に入り、天に冲して凄ましき。

譬へば空にとび※る百千萬の鳥の群、

雁、鷺、丹頂、頸長き白鵠ひとしく群れ翔り、 460

廣きアシオス原上に、ケーストロスの沿岸に

翼を延して揚々と、あなた、こなたに飛び※り、

嗷々鳴きており立てば沼澤ために鳴りひびく、

樣さながらにアカイアの衆軍陣と水師より、

スカマンダロスの岸の上、群がり來れば軍勢と 465

軍馬の脚の轟きに大地はげしく鳴りどよむ。

斯くして春に花と葉と萠えづる如く百千の

衆軍並びたち留る、スカマンダロスの花の野に。

461 アーシオス平野、リヂアにあり。

陽和の春のうららの日、瓶に牛羊の甘き乳

溢るゝ頃に、牧童の小舍に粉々飛び※る 470

無數の蠅の密集の群見る如く、髮長き

アカイア族の軍勢はトロイア軍と相對し、

その覆滅を志し平野の中に立ち並ぶ。

譬へば羊百千の群牧場に混ずるを、

養ひ馴るる牧童ら容易く認め知る如く、 475

諸將おのおの其部下の衆兵分ち整へて

戰場さして進ましむ。アガメムノーン、其中に

頭と眼とは雷霆の神明ヂュウス見る如し、

腰はアレース、胸許はポセードーンのそれに似つ、

百千群がる牧の中、すぐれて目だつ牛王の 480

雄々しく列を擢んずる姿も斯くや、陣中に

此日此時百千の勇將中に赫耀と、

アートレ,デース神明の惠みに影を拔き出でぬ。

477 聯合軍の主領として堂々の威を振ふアガメムノーン。――本詩の中他にまたかかる形容なし。

ああオリュンポス宮殿のムーサイ今はた我に曰へ、

君は神靈、すべてを見、すべてを知りて隈あらじ、 485

我たゞ風聞聽けるのみ、何らも見知ることあらず、

ダナオイ衆軍率ゐたる王侯將帥誰なりや?

アイギス持てるヂュウスの子、ウーリュンポスに住む詩神、

イリオンに來し衆軍を我に告ぐるに非ずんば、

口舌おのおの十あるも、疲勞知らざる聲あるも、 490

金銅不壞の意思あるも、かの衆兵を名ざすこと、

彼の衆軍を擧ぐること、我豈にいかで善くせんや?

いざ軍船の將帥を、又軍船の一切を――

484 歌の神女、(英語のミューズ、)單數ムーサ。歌神に呼ぶことは此後時々あり。

ボイオーチア族率ゐるはペーネレオース、レーイトス、

アルケシラオス又更にプロテーノール、クロニオス、 495

そのあるものはヒリエーと岩石多きアウリスと、

スコイス及びスコーロス、また嶺多きエテオノス、

又テスパイア、グライアー、また原廣きミカレソス、

之等を郷に、他はハルマ、エーレシオンとエリュトライ、

更に他は又エレオーン、ヒュレイ並びにペテオーン、 500

オーカレエーと堅牢に築きたる都市メデオーン、

ユウトレーシス、コーパイと鳩の産地のチースベー、

他は又更にコローネーア、ハリアルトスの青草地、

更に他は又プラタイア、更に他の領グリイサス、

更にその領堅牢にヒュポテーバイを築ける地。 505

オンケーストス、聖なる地、ポセードーンの美し森、

更に他の郷、葡萄の地、アルネー及びミイデーア、

聖なるニイサ、極境を占めたる城市アンテドン、

此らの地より五十艘、兵船來り、船ごとに

ボイオーチアの健兒らは乘り込む一百二十人。 510

494 此「舟揃」(494―877)は後世の添加ならむ、評家の意見樣々なり。初めにボイオーチアー軍(縮めてボイオーチアとす)。

497 エテオーノスを縮む。

498 ミカレーソスを縮む。

508 アンテドーンを縮む。

510 ボイオーチアは、こゝに劈頭にしかも最も長く説かれしも後の卷々における其行動は微々たり。又此の船揃ひ中に録せられたる勇士にして全く戰爭に加はらざるものあり。

アスプレドーン、ミニエーのオルコメノスに住める族、

將はアレース生める二子、アスカラプォスとヤルメノス、

その誕生のゆかり聞け、アゼーオスの子アクトール、

其家にむかし無垢の處女アスチオケーは樓の上

昇り、軍神アレースと私かに契り生むところ、515

三十艘の兵船は彼らをのせて進み來ぬ。

プォーキヤ族に將たるはエピストロプォス、スケヂオス、

二人の父はイーヒトス、その又父はノーボロス。

彼らの郷はキパリソス、また石多きピトーンの地、

聖きクリーサ、更に又ドーリス及びパノピュース、520

アネモーレーア、更に又ヒアムポリスも其領土、

更に彼らの住む處、聖なるケーピソスの岸、

更に其領この川の源流に沿ふリライア市、

黒き兵船四十艘、彼らと共に進み來ぬ。

二將勉めてプォーキアの衆の隊伍を整へて、525

ボイオーチアの軍勢の左に接し陣取りぬ。

ロクリス族に將たるはオイリュースの子アイアース、

テラモニデース・アイア,スに其の身長をくらぶれば

遙かに劣り小なるも、鎗を取りてはアカイアと

ヘルラス族を凌ぐもの、布の胸甲身に着けぬ。 530

ロクリス族の住む處、キノス、オポース、カリアロス、

ペーッサ及びスカルプェー、更にいみじきアウゲーア、

更にタルプェー、トロニオン、傍へる流はボーグリョス。

彼等の黒き兵船の四十こぞりてアイア,スに

附きて聖なるユゥボィア島のをちより進み來ぬ。 535

528 アキリュウスに次げる猛將軍、770 行を見よ。

530 グリース全體の稱としてヘルラスを用ゐるはホメーロスの詩中獨此一行あるのみ、683 は其一部の地の名。

(やまとの國といふ如し)。

鬪志はげしきアバンテス、彼等の領はユウボイア、

カルキス及びエレトリア、ヒースチアイア葡萄の地、

ケーリントスの港市、更にヂオスの高き都市、

更に其領カリストス、更に其郷スチュラの地、

エレプェーノール(その父はカルコードーン)アレースを 540

祖先となして猛勇のアバンテス族導きぬ。

その脚疾きアバンテス髮をうしろに振り亂し、

敵の胸甲碎くべく長鎗はげしく繰り出し、

彼に從ひ奮鬪の勇氣はげしく續き來ぬ、

黒き兵船四十艘彼に續きて一齊に。 545

堅固美麗に築かれし都市アテーナイ、すぐれたる

エレクチュウスの所領の地、ヂュウスの神女アテーネー、

豐かの「大地」産み出でし彼をいにしへ養ひき、

しかして彼をアテーナイ中の佳麗の殿堂に、

入れしこのかた年※り、アテーナイ市の若き子ら、 550

牛と羊の牲捧げ、親しく之を祭りたる

其民族を率ゐるはペテオスの息メネスチュ,ス、

普天の下に彼よりも馬と盾取る勇士とを

巧みに統ぶる者あらじ(ただゲレーニャのネストール、

年齒彼より優る者彼に競へり)黒く塗る 555

兵船あげて五十艘、彼に從ふ一齊に。

542 うしろに髮を亂す――恐らく頭の前面を剃りしか、IV 533 トレーケース人は結髮す。

547 大地より生れしエレクチュスはアカイア以前の神話、こゝに神女アテーネー其殿堂に彼を入ると説くが事實は正反對、アテーネーは後より來れるもの、然れど兩者が同一殿堂に祭られしは頗る早き時代よりなり。

551 「‥‥之を祭りたる‥‥」或譯者は之をアテーネーとし、他は之をエレクチュウスとす。

552 メネスチュースを縮む。

十二の船をサラミスの地よりアイア,ス引き來り、

アテーナイ人水陣を据へし傍に整へぬ。

アルゴス及び城壁を固く備へしチイリンス、

深き港灣含みたるアシネー及びヘルミオネー、 560

トロイゼーンとエイオナイ、エピドーロスの葡萄の地、

領する種族、更に又アイギナ及びマーセース、

領する若きアカイア族、率ゐる將は大音の

ヂオメーデース、又次ぎてカパニュウスの子ステネロス。

祖父はタラオス、王たりしメーキストを父として、 565

勇武さながら神に似るユゥリュアロスは將の三、

されども高き音聲のヂオメーデース全隊を

統べたり、黒き八十の軍船彼等に附き來る。

557 アイアースの如き特に勝れし勇將に只二行を與ふるは怪むべし。(リーフ)

堅固美麗に築かれし都市ミケーネー領と爲し、

更に富強のコリントス、クレオーナイの堅固の市、 570

オルネーアイと美しきアライチレーを郷となし、

又シキュオーン(そのはじめアドレーストス治めし地)

ヒュペレーシエイ、嶮要の地なるゴノエサ、ペレーネー、

領して更にアイギオン、アイギアロスの一帶を、

又おほいなるヘリケーのほとりを領し占むる者、 575

その民族の百の船、率ゐる王は權勢の

アートレ,デース、アガメムノーン、精鋭及び數のうへ

優る衆軍從へり、率ゐる彼は燦爛の

黄銅の武具身に穿ち、勇武秀いでゝ軍勢の

數はた及ぶものなきを昂然として誇らへり。 580

山嶽四方に聳え立つラケダイモーン、スパルテー、

パーリス及び鳩多きメッセー領し住める者、

ブリセーアイと秀麗のオーゲーアイを郷となし、

アミユクライと港市ヘロスを領し住める民、

更にラースを領と爲し、オイチュロスに住める者、 585

その民族の六十の船を王弟―猛勇の

將メネラオス從へり、衆軍區々に陣取りぬ。

わが猛勇に信を措き、衆を鼓舞して戰鬪に

進むる彼は、ヘレネーの逃亡並びに涕涙の

怨報へん情願は衆に優りて激しかり。 590

587 メネラーオスを縮む、以下同樣。

ピュロスと美なるアレイネー、アルペーオスの貫ける

トリオン、更に堅牢のアイピユの府に住めるもの、

キュパリッセース、プテレオス、アムピゲネーア、ドーリオン、

更にヘロスに住める者、(詩の神むかし此郷に

トレーケー人タミュリスに會し、其歌亡ぼせり。 595

オイカリエーのユウリュトス其許辭して歸り來て、

歌人誇れり『アイギスを持てるヂュウスの神女

ムーサイよしや歌ふとも競ひて之に勝つべし』と。

怒れる神女彼を打ち、盲目となし加ふるに

彼の歌謠を奪ひ取り更に彈琴忘れしむ) 600

これらの族を率ゐるはゲレーニャ騎將ネストール、

兵船九十一齊に彼に從ひ進み來ぬ。

601 ゲレーニアーを略す。

キュルレーネーの高き山、麓の郷のアルカヂア、

アイピチオスの墓の傍、接戰手鬪の武士の郷、

プェネオス及び牧羊地オルコメノスに住める族、 605

リペー並にストラチイ、また風勁きエニスペー、

テゲエー及び美はしきマンチネエーを占むる者、

スチュンプェーロス領となし、パルラシエーに住める者、

其民の舟六十をアンカイオスの生むところ、

アガペーノール將として率ゐぬ、舟の一一に 610

戰術特に巧みなるアルカヂア人多く乘る、

アガメムノーン統帥は櫂揃ひたる黒き船、

かれらに賜ひ、黯紅の海を走れと下命しぬ。

その船舶を造るべき技に彼らは疎かりき。

ブープラシオンと神聖のエーリスに住む民の群、 615

其領の端ヒュルミネー、又ミュルシノス、岩勝ちの

オーレニエーとアレーション、中に含める民の群、

四人の將帥之を統べ、おのおの率ゆ十の船、

その船舶に數多くエペーオス族乘り込めり、

アムピマコスとタルピオス、彼を生めるはクテアトス、 620

これを生めるはアクトルの系より出でしユウリトス、

二人おのおの將となる。第三將はヂオーレス、

アマリンキュウスの勇武の子。オーゲーアスの子たる王、

アガステネスの生むところ、ポリュクセーノス第四將。

621 先文 596 は同名別人。

海のあなたにエーリスと向ひ對する島二つ、 625

ドーリキオンとエキナデス、その民族を率ゐるは、

メゲース、勇は軍神のアレースに比し、雷霆の

神の愛するピュリウスの生みたる子息メゲースは

父に對して憤りドウリキオンに退きき。

黒き船舶四十艘附き從へりメゲースに。 630

625 エーリスとエキナデスとは相向はず、地理についての不明の一例。

ケプァレーン族の勇なるを率ゐ來るはオヂュシュウス、

彼等の領はイタケーと緑葉震ふネーリトン、

クロキュレーアと嶮要のアイギリープス、更に又

ザキュントスの地領となし、更にサモスを郷と爲し、

本土並びに諸の岸を領とし占むる民、 635

智は神に似るオヂュシュウス率ゐて之が將となる、

艫は紅の兵船の十二ひとしく彼に附く。

アイトウロス族率ゆるはアンドライモーン生める息、

トアス、其領プリュウローン、オーレノス又ピュレーネー、

海に臨めるカルキスと岩石多きカリュドウン、 640

先に英武のオイニュウス其もろ/\の子と共に、

此世を辭して金髮のメレアグロスも亦逝きぬ、

アイトウロス族一切を擧げてトアスの指揮仰ぎ、

今一齊に隨へる黒き兵船四十艘。

鎗の名將イドメネー、クレーテ,ス族導けり、 645

彼等の領はクノーソス、城壁堅きゴルチユス、

リュクトス及びミレートス、更に白堊のリュカストス、

更に戸數の豐かなるプァイストス又リュウチオン、

其他に更に百城のクレーテーの地住める族、

率ゐて之に將たるは鎗の名將イドメネー、 650

メーリオネース之に副ふ、神アレースに似たる者、

八十艘の黒き船みな一齊に從へり。

645 イドメニュウスの佛蘭士訓み。

645 地名クレーテー、族名クレーテース。

ヘーラクレース生みたる子、トレーポレモス丈高き

勇將かなたロドスより郷土の諸豪從へて

九艘の兵船率ゐ來ぬ、彼らは別る三の郷、 655

リンドス及びイエーリュソス及び白堊のカメーロス、

トレーポレモス、譽ある鎗の名將之を統ぶ。

アスチュオケーは彼の母、ヘーラクレース獲たるもの、

神寵うけし勇士らのあまたの都城やぶる後、

セルレーエースの川の岸、エピュレーよりし彼を獲き。 660

トレーポレモス莊麗の宮殿中に養はれ、

長じてヘーラクレースの母方の叔父老齡の

リキュムニオスを(アレースの裔を)俄かに討ち果し、

長じて多く船造り、衆を集めて渺々の

海に浮べり、力あるヘーラクレ,スの他の子孫、 665

彼に報復計れるを恐れて海に浮び去り、

辛苦を經つつ飄零の果にロドスにたどり來ぬ、

部下の衆人族に因り分れて三の郷開き、

諸神諸人を司どる天王之に愛を垂る、――

クロニーオーン豐饒の富を彼らに授けたり。 670

ニーリュウス又三艘の等しき船をシュメーより、

ニーリュウス、母はアルガイエ、父は王者のクサロポス、

ニーリュウス、彼れイリオンに寄せしダナオイ族の中、

ペーレーデース・アキリュウス除けば無双の美貌の身、

されども彼は弱くして只少數の兵率ゆ。 675

ニーシユロスまたクラパトス領し、並びにカソスの地、

ユウリュピロスの都市コース、カリュドナイの群島を

領する族率ゐるはペーヂッポスとアンチポス、

二人の父はテツサロス、ヘーラクレース其祖先、

三十艘の兵船は彼に隨ふ一齊に。 680

ペラスゴスなるアルゴスを領する族、アーロスに、

居を占むる者アロペーとトレーキスとに住める者、

フチエイ及び美はしき女性の産地ヘルラスを、

領する族其稱はミリミドネスとヘレーネス、

又アカイオイ、其船の五十を率ゆ、アキリュウス。 685

されども之を戰場に驅るべき將は今あらず、

衆兵こぞりて喧囂の戰今は心せじ。

髮美はしき妙齡のブリーセーイス本として

足疾く走るアキリュウス怒りて船に留れり。

苦戰の末に其むかしリュルネーソスを陷れ、 690

テーベー城を打碎き、セレーピオスの子たる王、

ユウエーノスの二人の子、鎗の名將ミネースと

エピストロポス打斃しリュルネーソスに彼を獲き、

今は怒りて休らへど程なく立たむアキリュウス。

693 517 と 856 とに同名異人二人あり。

族あり其郷ピュラケーとデーメーテールの聖地たる 695

花咲き匂ふピューラソス、羊産するイトーンの地、

海に臨めるアントローン、緑草深きプテレオス、

プロ,テシラ,オス雄豪の將軍彼ら統べたりき、

されども亡び黒き土彼を蓋へり、其妻は

半ば成りたるピュラケーの舘に殘りて氣は狂ふ、 700

アカイア族に先んじて將軍船より飛びおれる

其時彼を殺せしはダルダニエーのとあるもの、

新たの將帥缺かざれど衆みな切に彼偲ぶ、

アレース神の苗裔のポダルケースは今首領。

ピュラコスの子イヒクロス牧羊多く持てるもの、 705

ポダルケースを産みなせり、プロ,テシラ,オス老練の

武人即ち其義兄、プロ,テシラ,オス英豪に

齡も勇も優れりき、亡きを繼ぎたる將あれど

部下の民族過ぎさりし名將軍を今思ふ。

黒き兵船四十艘みな一齊に從へり。 710

695 農業の神女。

698 プローテシラーオスを縮む。

ボイベーイスの湖に沿へるペライに住める者、

ボイベー及びグラピュライ、更に堅固のヨールコス、

其族の舟十一をユーメーロスは率ゐ來ぬ。

アドメートスは彼の父、母は美貌の勝れたる

アルケースチス、ベリアスの息女の中に擢んじぬ。 715

メートーネーとトーマキー占め從へる民族の

又其領地メリボイア、又嶮要のオリゾーン、

その民族の七艘を率ゐるピロクテーテース、

弓の名將、其もとに舟各にのりこめる

漕手は五十、弓術にすぐれて奮ひ戰はむ。 720

されど將軍島の中、聖なるレームノスの中、

苦惱激しく惡靈の水蛇の噛める疵により、

アカイア人に棄てられてひとり淋しく打ち伏せり。

さはれ苦惱に打ち伏せど水師のほとりアカイアの

衆軍ピロクテーテース勇將ほどなく思ひ出む、 725

部衆は將を缺かざれど、かの勇豪をなほ思ふ、

あらたに彼ら率ゐるはメドーン、都城を破壞する

將オイリュウス生める庶子、レーネー彼の母なりき。

721 此有名の將軍に關してホメーロスは只如上を記す、ソホクレースの悲劇「ピロクテーテース」に七艘の舟を率ゐることを述ぶ、明かにこの一段より來るなり。

トリッケイまた山多きイトウメーの地占むる族、

オイカリエーのユウリトス嘗つて領せし其都城、 730

これらを占むる民族をアスクレーピヨス生める息、

ポダレーリオス、マカオーンすぐれし二人の醫は率ゆ。

三十艘の兵船は之に隨ふ一齊に。

オルメニオスに住める民、ヒュペーレーアの源泉と

アステリオン又チタノスの雪嶺近く住める者、 735

ユウアイモーンの秀れし子、ユウリピロスの令を受く、

黒き兵船四十艘彼に隨ふ一齊に。

民あり其領アルギッサ、ギユルトーネー、更に又、

オルテー及びエーロネー、オロオソーンの白堊の府、

その民族を率ゐるはポリュポイテース、武勇の士、 740

ペーリトオスは彼の父、神靈ヂュウス産むところ、

ペーリトオスはその昔長髮亂す怪物を、

ペーリオンより驅り出だし、アイチイケスに放ちし日、

ヒポダメーアと契り得てポリュポイテース生み出でぬ。

其副將はレオンチュ,ス、かれアレースの裔にして 745

父は英武のコローノス、更に其祖父カイニュウス。

黒き兵船四十艘みな一齊に隨へり。

742 怪物は即ち Centaurs(I 268)。

キポスの地より二十二の舟率ゐるはグーニュウス、

エニエーネス族又強きペライボイ族從へり。

彼ら其居を定めしはドウドウネーの冬の郷、 750

其耕作の勞積むはチタレーシオスの岸の上、

その清き水流れ入りペーネーオスに注げども、

ペーネーオスの銀浪と混ずることは絶えてなし、

油の如く徒らに其表面を走るのみ、

凄き陰府のスチュクス別れ來りし水なれば。 755

テントレードーン生める息、マグネース族率ゐ來ぬ、

ペーネーオスの流、又緑葉震ふペーリオン、

其ほとりなる民族を率ゆ、足疾きプロトオス、

黒き兵船四十艘みな一齊に從へり。

759 以上列擧するところ、舟の數は一千一百八十六、乘組員の最多は百二十人、最少は五十人、其平均八十五人とすれば遠征軍の人數は十萬人なり(リーフ)。

かくぞダナオイ軍勢を率ゐし列王將士の名、 760

詩神今はた我に曰へ、アートレ,デース率ゐ來し

衆中至剛の者は誰ぞ? 至上の軍馬またいづれ?

軍馬の最も優るものペーレースの子のそれなりき、

ユウメーロスは之を御す、馳けて飛鳥にさも似たり、

その年齡と脊の丈と毛色と兩馬相同じ、 765

神、銀弓のアポローン、ペーライエーの牧場に

畏怖の戰廣ぐべき此兩牝馬養へり。

英武無双のアキリュウス並に彼の聯乘の

馬も遙に優れども怒りて陣に退けば、

テラモニデース・アイアース今人中に勝れたり。 770

波浪を分くる曲頸の舟の中にし横はる

ペーレーデース沸然と、アガメムノーン大王に

怒抱けり、その部下は※々波うつ岸の上、

圓盤長鎗投げ飛ばし、或は弓矢に興をやる。

軍馬はたまたそれ/″\に兵車のそばに立ち停り、 775

ロートス或は沼澤のほとりに生へる芹を噛む。

兵車また善く蓋はれて部下の諸將の營中に

藏まり立てり、その諸將ペーレーデースを惜み合ひ、

陣營のうちさすらひて猶ほ戰鬪に加はらず。

763 ペーレースの子アドメトス、アドメトスの子ユウメーロス。

かなた大地を燒き拂ふ猛火の如く進む軍、 780

大地は下に震ひ鳴る、雷霆の神憤ほり

チュポーンの郷のアリマの地(怪人そこに其床を

構ふと人は傳へ曰ふ)其地激しく撃つ如く、

大軍過ぐる脚もとに大地高らに震ひ鳴る、

大軍かくて歩を速く廣野よこぎり進み行く。 785

782 地震の神話的説明、日本は鯰!、一笑。

かなたヂュウスの命に因り、憂の報を齎らして、

迅速恰も風に似るイーリス、トロイア軍を訪ふ、

そこにトロイア滿城の老少共に集りて、

イリオン城の※廊に評議の席を開きあり。

プリアモス王生める息ポリテースの聲をまね、790

足疾きイーリス近寄りて傍に其時立ちていふ、

(その健脚に依り頼み、トロイア哨の役を帶び、

老いしアイシューエーテース其墳塋の高き地に、

アカイア軍勢兵船を出で來る時を窺へる)

其ポリテースに身を似せてイーリス衆の中に曰ふ―― 795

787 使の神女。

793 古のトロイア王。

『ああ老父王、君は今平和の時に於ける如、

はてなき議論喜べり、されど戰亂今起る。

われ人間の戰に屡※會へり、然れども

今寄せ來る軍勢の如きは未だ嘗て見ず、

數はさながら深林の緑葉或は海の沙、 800

われの都城を攻めんため敵は平野を進み來る。

ああ英豪のヘクトール、君に忠言特にいふ、

プリアモス王のおほいなる都市に援軍集れり、

さはれ四方に分れ布く諸人の言語一ならず、

されば衆將率ゐ來し部下におのおの令下せ 805

各所屬の衆軍を整へ之を繰出せ』

しか陳ずれば、ヘクトール其言聞きて誤らず、

たゞちに衆議の會を解く、衆人はしりて武器を取り、

あらゆる城門推し開き歩兵團また騎兵團、

全軍ひとしく奔り出で騷ぎは激し囂々と。 810

都城の前に平原の中に離れて丘陵の

高く立つあり其四方おの/\道は開かるる、

この丘陵を人界に呼ぶ名稱はバチアイア、

されども神は脚早きミュリーネーの墓と呼ぶ。

トロイア並に應援の衆軍こゝに陣取りぬ。 815

トロイア軍を統ぶるものプリアミデース・ヘクトール、

堅甲光る飛將軍、その最鋭の軍勢は

數はた他に拔きいでゝ長鎗振ひ戰へり。

814 フリギエーを攻めたるアマゾン軍中の一(III 189)。

816 應援軍の中トレーケース、キコーネース、パイオニエースは歐洲人他は亞細亞人。

アンキーセース生むところ、アイナイアース勇にして

ダールダネスの兵率ゆ、アプロヂイテー、美の女神、 820

イデーの丘に人間と契りて彼を生れしむ、

アンテーノールの二人の子、戰術すべて巧みなる

アルケロコスとアカマース、彼と並びて將となる。

イデーの丘の麓端、ゼレーアの地に住める民、

トロイアの族、富み榮えアイセーポスの水に飮む、 825

其民族を率ゐるはリュカーオーンの子パンダロス、

神アポローン勇將に親しく弓を授けたり。

アドレーステーア占むる族、アパイソス市を占むる族、

またピチュエーア、更にまたテーレーエーア占むる族、

率ゐて之に將たるはアドレーストスと胸甲を 830

布もて造るアムピオス――ペルコーテーのメロポスは

彼ら二人の父なりき、人に勝りて將來を

占ふ術に長ずれば、二兒の從軍宜しとせず、

されども二人順はず死の運命に引かれ來ぬ。

ペルコーテーとプラクチォス其ほとり住みアビードス、 835

又セーストス、更にまたアリスベーの地、聖き地を

占むる民族率ゐるはヒュルタキデース・アーシオス、

アリスベーより、水清きセルレーイスのほとりより、

其軍將を丈高き黒き駿足乘せ來る。

土地豐饒のラーリッサ領して鎗に名ある族、 840

ペラースゴスの民族を率ゐる將はヒポトオス、

並び將たりアレースの系勇猛のピライオス、

二人の父のレートスはチュウタミアスの生むところ。

將ペーロオス、アカマース奔潮高きわだつ海、

ヘレースポントス境するトレイケー族並び統ぶ。 845

ユウペーモスはキコネスの長鎗揮ふ民率ゆ、

神の寵せるケアスの子、トロイゼーノス彼の父。

遠きあなたのアミドーン、アーキシオスの岸邊より、

地上に走る至美の水、アーキシオスのほとりより、

ピュライクメース曲弓のパイオニヤ族導けり。 850

荒き野生の騾馬出づるエネタイ人の故郷より、

ピュライメネース勇將はパプラゴス族引き來る。

彼等の領はキトウオス、更に其領セーサモス、

パールテニオス流水のほとりの名所、更に又、

アイギアロスとクロームナ、エリュチイネーの高原地。 855

エピストロポスとオヂオスはハリゾウン族率ゐ來る、

銀の鑛山あるところ遠きアリユベイ彼の領。

ミーソス族を率ゐしはクロミス及びエンノモス、

後者は鳥に占へど死の運命を免れず、

他のトロイアの勇將と共に亡べり、足早き 860

アイアキデース流水の中に彼らを打ちとりぬ。

861 アイアキデース即アキリュウス。此名は祖父アイアコスより來る。

ポルキユス更にプリュギアの好戰の民導けり、

アスカニエーの遠きよりアスカニオスともろともに。

ギューガイエーの湖上にてタライメネース生む處、

メストレースとアンチポス、メーオネス族導けり、 865

トモウロス山、その下に生れし同じ民族も。

蠻語あやつるカーロスの族を率ゆるナステース、

彼らの領はミレートス、緑葉の山プテーローン、

マイアンドロスの諸川流、はたミュカレーの高き嶺。

アムピイマコスとナステース彼らを率ゐ將たりぬ、 870

アムピイマコスとナステース、二人の父はノミオーン、

アムピイマコスは金冑を少女の如く飾り着ぬ、

愚かや黄金無慘なる破滅を彼に防ぎ得ず、

流れの中に足はやきアイアキデース彼を討ち、

彼は亡びてアキリュウスかの黄金を獲て去りぬ。 875

867「蠻語」の句はホメーロス詩中只此一行のみ。

遠きリキエーあなたより、クサントスの流より、

來るリキエー族率ゆサルペードーンとグローコス。

第三歌

兩軍の會合。 パリスの出陣。 メネラオスを見てパリス恐れて退却す。 ヘクトール大にパリスを叱る。 パリスの辨解並に決鬪の提案。 兩軍休戰して決鬪を待つ。 ヘレネー侍女をつれてトロイア城のスカイアイ門に現る。 プリアモス王の問に答へてアカイア軍中の諸將を説明。 王戰場に進み盟約並に祭事を行ふ。 メネラオスとパリスとの決鬪。 パリス負けて逃げ歸る。 神女アプロヂーテー之を救ふ。 アガメムノーン盟約の履行を迫る。

おのおの將に隨ひて衆軍隊に就ける時、 1

トロイア軍は叫喚と喧囂あらく進み行き、

群鶴高く雲上に翔けりて鳴くにさも似たり、

嚴冬並びに淫霖を避けて長鳴空にあげ、

オーケアノスの潮流の上に飛翔を續けつつ、 5

ピグマイオイの族人に悲運と死とを齎して、

曉天高く奮鬪を挑む群鶴斯くあらむ。

之に反して勇を鼓し相互の救念じつつ、

アカイア軍は堂々と無言の中に進み行く。

7 小人國と群鶴との戰――昔の傳説。

8 IV 429 にも同樣の記事。

南風吹きて濃霧湧き、石を抛つ距離の外、 10

視線くらますばかりなる――そを牧人は厭へども、

賊は夜よりも喜べる――其霧に似て濛々と

進み來れる軍勢の脚下はげしく塵起る。

かくして彼等足速く大野横ぎり進み行く。

兩軍向ひて相進み互ひに近く迫る時、 15

トロイア軍の先頭に艶冶のアレクサンドロス、

現はれ出でゝ豹皮着る其肩の上短弓と

利劔を負ひつ、青銅の二條の鎗を振り※し、

來りて彼とまのあたり向ひ勝敗決すべく、

アルゴス軍中勇猛のすぐれし者に呼び挑む。 20

16 即ちパリス――プリアモス王の子、ヘクトールの弟――ヘレネーを奪へる元兇。

17 豹、獅子、又狼の皮を鎧の上に着くるは當時の習ひ、夜行の時は特に。X 23 にも同樣の記事あり。

アレース神の寵兒たる王メネラオス、悠然と

衆のまさきに進み來る敵を望見しつる時――

譬へば獅子王餓迫り、めぐり逢ひたる巨大なる

角逞しき大鹿を、或は荒き山羊を獲て

欣然として貪りつ、彼のうしろに迫り來る 25

獵の一群、速き犬強き壯士を見ざる如、

王メネラオス斯くばかり、艶冶のアレキサンドロス

來るを眺め喜びつ、罪あるものを懲さんと、

武器を携へいち早く兵車をおりて地に立てり。

斯く戰陣の眞先に彼の出でしを望み見て、30

艶冶のアレクサンドロス愕然として胸打たれ、

死の運命を逃るべく陣中さして逃げ歸る。

譬へば、とある山麓に毒蛇を見出で驚きて、

歩みすばやく飛びしざり、兩膝そゞろおののきて、

兩頬ともに青ざめて逃ぐる恐怖の人や斯く、 35

艶冶のアレクサンドロス、アートレ,デースに恐ぢ怖れ、

自方トロイヤ軍勢の陣中さして逃げ歸る。

こを眺めたるヘクトール憤然として叱り曰ふ、

36 弟アートレ,デース即メネラオス。

『無慙の汝、姿のみ艶美、好色の詐欺の子よ、

汝此世に生れずは、或は女性に逢はずして 40

逝かば却つて優ならむ、汝のために斯く願ふ、

衆の目の前、冷笑と侮蔑の的にならんより。

見よ長髮のアカイア族、汝の美貌の故に因り、

勇武に長けし鬪將と汝を見なし、聲あげて

嘲み笑へり、あゝ無慙! 汝勇なし、力なし。 45

斯くありながら大海の波浪を渡る船に乘り、

親しき友ともろともに航し渡りてトロイアの

人と交はり、歡待を裏ぎりつゝも其郷の

勇士の少婦艶麗の女性ヘレネー奪へるよ!

斯くて、汝の老親に、故郷に、民におほいなる 50

禍難、敵には喜びの勝利、汝にたゞ恥辱。

アレースの寵メネラオス之に汝は向ひ得じ、

知るべし汝奪ひたる美婦の夫を何ものと。

肝腦塵にまみる時、アプロヂ,テーの惠なる

美貌も髮も絃琴も汝に何の效あらじ。 55

トロイア人は卑怯なり、さなくば彼に來たしたる

禍難の故に汝とく石の衣を着しならむ』

57 石に打たれて死せん。

艶美のアレクサンドロス其時答へて彼に曰ふ――

『汝の苛責皆正し、あゝヘクトール皆正し、

汝の心あゝ強し、船造るべく巧妙に 60

巨木つんざく人の手の揮へる手斧――揮るごとに、

力いよいよ優り來る斧の如くにあゝ強し。

げに勇猛の精氣こそ常に汝の胸中に。

アプロヂーテー惠みたる恩寵さはれ、咎むる勿!

諸神賜へる恩寵は棄つべきならず、何人も、 65

たゞにおのれの意思により受くべきものに非るを。

今もし汝、戰鬪に我の奮ふを望まんか、

トロイア並びにアカイアの兩軍さらば對せしめ、

其先頭にアレースの寵兒、敵王メネラオス、

並びに我を立たしめよ、ヘレネー及び財寶を 70

堵けて戰ひ、勝を得て優者たるもの其許に

彼女並びに一切の財寶を獲て歸るべし、

兩軍斯くて親睦と堅き約定整へて

我はトロイア豐沃の郷に向はむ、はた彼は

馬の産地のアルゴスと美人に富めるアカイアに』 75

64 美貌。

斯く陳ずるを耳にして歡喜大なるヘクトール、

トロイア軍の陣中に馳せ、長鎗のたゞなかを

握りて衆を留れば、全軍ひとしく靜まれり。

その時長髮のアカイア族彼をめがけて矢を放ち、

或は石を抛ちて彼を打たんと騷ぎ立つ。 80

アガメムノーン統帥はされど大音擧げて曰ふ、

『やめよ汝等アルゴスとアカイアの子ら、射る勿れ、

堅甲光るヘクトール今わが軍に叫ぶらし』

其言聞きて戰鬪をやめて衆人忽ちに、

鳴しづむればヘクトール二軍にひとしく叫びいふ、 85

83 ヘクトールの常用形容句。

『トロイア、アカイア兩軍士、われを通じて爭の

本たるアレクサンドロス彼の主張を耳にせよ。

トロイア、アカイア兩軍士、汝等おの/\一齊に

大地の上に美はしき汝の武器を横たへよ、

かれと勇武のメネラオス、ヘレネー及び其産を 90

堵けて兩人相對し、正に勝敗決すべし。

其戰に勝を得て優者たるもの其許に、

彼女並びに其産を皆悉く取り去らむ、

しかして二軍友好と堅き盟約整へむ。』

しか宣すれば衆軍は皆寂然と鳴しづむ。 95

その時高き音聲の王メネラオス衆に曰ふ、

『衆人我にも耳をかせ、大なる苦痛わが胸に

迫る、我またアカイアとトロイア軍の解散を

望めり、我の爭ひとはた又アレクサンドロス、

初めし非行本として二軍の辛勞すでに足る。 100

死と運命と臨めるは我が兩人の中いづれ?

其者は逝け、他は早く和ぎ、散じ分るべし。

汝等地靈と日輪に黒白二頭の羊の子

捧げよ、我も一頭を別にヂュウスに捧ぐべし、

またプリアモス老王を呼びて犧牲を屠らせよ。105

年まだ若き彼の子ら驕慢にして信を缺く――

その僣越のわざによりヂュウスの誓破ること

無からんためぞ――年少の心は常に定らず。

されど老者の係はらば雙方最も善しとする

其結末を來たすべく前後ひとしく顧みむ』 110

103 誓約の時にはヂュウスと日神(ヘーリオス)と地神(ゲーア)とに牲を捧ぐる古代の習ひ。

しか宣んすれば、トロイアとアカイア軍勢もろともに、

悲慘の軍終るべき希望に滿ちて喜べり。

即ち軍馬を列に留め、おのおの兵車を下りて立ち、

戰具を棄てゝ地の上に互に近く横たへつ、

兩軍互に向ひ合ふ、間の距離は大ならず。 115

二人の使者をヘクトール都市に遣はし、速かに

小羊二頭求めしめ、プリアモス王招かしむ。

アートレ,デースこなたには水陣さして使者として

タルチビオスを遣はして同じく小羊求めしむ、

アガメムノーンの嚴命に使者は背くを敢てせず。 120

玉腕白きヘレネーを今イーリスは訪ひ來る、

借れる姿は其義妹アンテーノ,ルの子の夫人、

アンテーノリデ,ス・ヘリカオーン王の娶れるラオヂケー。

プリアモス王産みいでし息女の中にすぐれし美。

ヘレネー時に宮中に大機据ゑて紫の 125

二重の綾を織り出す、圖は青銅の鎧きる

アカイア人と馬馴らすトロイア人の戰鬪を

寫す、彼女の故をもてアレースの手のなせしもの。

足疾きイーリス近寄りて傍に立ちて陳じいふ――

121 使の女神。

122 アンテーノールはトロイアの有名の老將軍、其子(アンテーノリデース)の名はヘリカオーン

126 二重に身を蓋ふべき幅の

『いみじき姫よ、來り見よ。悍馬を御するトロイア人、 130

青銅穿つアカイア人、行はんずる晴業を。

先に悲慘の戰を願ひ、平野に軍神の

あらび互に被らし涙の雨を蒔けるもの、

今は戰收りて彼らは盾に身を凭たせ、

鎗を大地に突き立てて鳴りを鎭めて休らへり。 135

只かれアレクサンドロス、アレース愛づるメネラオス、

長鎗取りて戰ひて君一身を爭はむ、

その戰に勝つ者の妻とし君は呼ばるべし』

先きの夫に双親に故郷に、むかふ纒綿の

思を、斯くてヘレネーの胸に神女は湧かしめぬ。 140

今純白の垂絹に面を掩ひ悄然と、

涙にくれて速かに彼女は室を立ち出でつ、

身ひとりならず傍にピトチュウスの女アイトレー、

明眸の人クリメネー二人の侍女を伴ひて

かくて進みてスカイアイ城門のもと立ちとまる。 145

こゝにトロイア諸元老、群がり坐せり、プリアモス、

チュモイテース、パントオス、ランポス及びクリュチオス、

アレースの裔ヒケタオーン、更に二人の智ある者、

ウーカレゴーン、老巧のアンテーノール、城門に――

齡の故に戰場の難を避くれど論辨の 150

席にいみじき、譬ふれば深林の中、枝高く

聲朗らかに秋蝉の歌ふ姿や斯くあらむ。

かゝるトロイア諸元老今塔上に座する者、

其塔前にヘレネーの來るを眺め見たる時、

聲を潜めて翼ある言句互に陳んじ曰ふ―― 155

145 「西門」の意、又「ダルダニアイ門」とも曰ふ。V 789 XXII 194.

152 プラトーンのプアイドロス四十一章に蝉に關する意味深き神話の起原を説く。

『容顏さながら凄きまで不死の神女に髣髴の

斯る女性の故に因り宣べなり猛きトロイアと、

脛甲堅きアカイアと多年の戰禍忍べるは!

さはれ美貌も何かせむ、ああこの女性船に乘り、

故郷に去りて禍を我の子孫に殘さざれ!』 160

156 有名の詩句――ヘレネーの美を想像せしむ。レッシングがラオコーン二十一章に辯ずるところ。

衆はしか曰ふ。プリアモスその時呼びてヘレネーに

曰ふ『わが愛兒、こゝに來てわが傍に坐を占めよ、

先夫並に姻戚と親しき友ら望み見よ、

(汝に何の罪も無し、アカイアの族慘澹の

戰われに加へしは責むべき諸神の所爲なりき) 165

かなた雄々しき一人の名を今われに知らしめよ、

誰そ? かの目だつアカイア人、威風あたりを拂ふ者、

躯幹彼より高きもの他に我は見る、然れども

けだけき威容、秀麗の姿を彼に比する者、

わが眼まだ見ず、帝王の相を正しく彼具ふ。』 170

165 人間の不幸と罪過とは神明の所爲と信ぜられたり。

女性の中にすぐれたるヘレネー答へて彼にいふ、

『ああ恩愛と威光とを兼ぬるかしこき舅君、

君の御子の跡慕ひ、わが閨房を兄弟を

愛兒を更に、年齡の等しき友を打棄てし

その時凄き死の禍難われを襲はば善かりしを、 175

運命之を許さねば今は悲涙にくるゝのみ。

いざ今君の問ひたまふ事の次第を陳ずべし。

アートレ,デース、權勢のアガメムノーン、かれこそは、

すぐれし王者、勇しき戰士ひとりに兼ぬる者、

ああいにしへは義兄とし仰ぎしものを、無恥の我れ』 180

老王聞きて嘆稱の聲を放ちて陳じ曰ふ、

『アート,レデーよ、幸多し、神寵厚し、運強し、

アカイア健兒ひれふして附くものいかに多きかな、

葡萄の實るフリギエー、其地をむかし我訪ひて、

駿馬を御するフリギアの無數の族を眺め見き、 185

そはオトリュウス、又神に似しミグドーンに附けるもの、

サンガリオスの流域に其時彼等陣取りぬ、

その應援の將としてわれ其數に加はりぬ、

むかし勇なるアマゾーン女軍寄せ來し時なりき。

されど彼らも眼光るアカイア族に數若かず』 190

174 唯一の兒ヘルミオーネ。

176 自殺せんとせしも遂げず、VI 334 に同樣の懺悔を述ぶ。

179 アレクサンダー大王の愛誦の句。

182 アートレ,デースの呼格。

184 ホメーロス以後の小フリギエーと混ずべからず。

186 此二將の妹ヘーカベーはプリアモス王の妃。

次に見たるはオヂュシュウス、老王即ち問ひて曰ふ、

『愛女よ更に我に曰へ、かなたに見るは何人ぞ、

アートレ,デース大王に躯幹の丈は劣れども、

眺むる處雙の肩、胸の廣さは優るもの。

豐かに惠む地の上に彼其武器を横へて、 195

其身親しく群衆の列の間を馳け※る。

わが見る處譬ふれば厚き毛を着る牡羊の

悠然として行く如し白き羊の群わけて』

195 大地は一切のものを養ふ。

ヂュウスの生める艶麗のヘレネー答へて彼に曰ふ――

『ラーエルテースの子なり彼、聰明叡智オヂュシュウス、 200

イタケー邊土の民族の中に育てど百千の

策に巧みに賢明の言をしばしば出すもの』

アンテーノール、賢明の元老即ち答へ曰ふ――

『然かなり女性、君が今述ぶる言句ぞ誠なる、

いにし日偉なるオヂュシュウス、君に關して使者として、 205

武神のめづるメネラオスもろともこゝを訪ひし時、

われ兩人を客としてわが殿中にもてなしつ、

その性情と賢明の言句を共に學び得き。

彼等トロイア集會の席に列なり立てる時、

ゆゆしき双の肩廣くまさりて見えき、メネラオス、 210

されど其座に就ける時威容勝れき、オヂュシュウス。

かくて彼らの辯論と討議に進み入りし時、

かれメネラオス急速に彼の所懷を披瀝しつ、

其言ふ處少なれど言は頗る明快に、

齡は比して若けれど、岐路に走らず、多辯せず。 215

されども次に聰明の將オヂュシュウス語る時、

立ちて俯き双の目をしかと大地に据ゑ付けつ、

手に取る笏を後にも前にも絶えて搖がさず、

しかと握れる其擧動痴人のわざに似たりけり。

「勇には富めど愚かなり」見しものかくも曰ひつらむ、 220

されど胸より朗々の聲迸り、辯論の

言句さながら嚴冬の吹雪の如く出づる時、

何らの人か巧妙をオヂュシュウスに競ひ得む、

今勇將の姿見てかくあることを怪まず』

205 戰爭の前アカイアの二將來りてヘレネーを取り返し平和の解決を得んとしたり(XI 124 參照)。

212 アンテーノールは當時和睦を唱ふ、他は之に反す。(XI 128―)

プリアモス王第三にアイアース見て尋ね問ふ、 225

『見よ彼秀れて偉なるもの、頭と厚き肩と共

アルゴス人を凌ぐ者、かのアカイヤ人何ものぞ?』

垂絹長く面を掩ふ艶美の女性答へ曰ふ、

『彼アイアース、すぐれたるアカイヤ軍の堅き城、

こなたは英武イドメネー、クレーテースの衆中に 230

神の如くに立ち上り、諸將士彼を取り圍む。

クレーテーより出でし時、アレースめづるメネラオス、

わが宮殿の中にして屡※彼をもてなしき。

其他すべての眼光るアカイア人を我は見る、

彼等を我は能く知れり、彼等の名を皆語り得む、 235

たゞ民族の二將軍今わが眼は見出し得ず、

馬術巧みのカストール、ポリヂュウケース、拳鬪者、

兄弟二人われととも同じ胎より生れし身、

ラケダイモンの故郷より二人はこゝに來らじか?

或は波浪つんざける船のへこゝに來れども、 240

われに基く數多き恥辱と汚名恐るれば、

衆の爭ふ戰鬪の列にまじるを願はじか?』

かくは陳じぬ、然れども二人はすでに一切を

生める大地に歸り去る、ラケダイモンの故郷にて。

230 地中海中の一大島クレーテーに住める民族。(II 649)

かなた府中に傳令の使者は神への供物、 245

小羊二頭、又地より來り心を慰むる

酒を壺中に運び行く、別に他の使者イダイオス、

燦然として光る瓶、又黄金の盃を

手に老王の傍に寄りて促し陳じ曰ふ、

246 大地は一切を生ず。

『ラーオメドーンの御子よ起て、かの原上に降り行き、 250

神の供物を屠るべく、馬術巧みのトロイア人、

青銅鎧ふアカイア人、二軍の首領君を呼ぶ、

やがてアレクサンドロス、武神のめづるメネラオス、

長槍取りてヘレネーの一身賭して戰はむ、

彼女並に其資産勝ちたる者の手に落ちむ。 255

而して衆は友好と盟約堅く結び得て、

我は豐沃のトロイアに歸らん、彼はアルゴスの

駿馬産する其郷に、美人の産地アカイアに』

250 ラーオメドーンはトロイアの先王、プリアモス、ランポス‥‥らの父。

其言聞きて可憐なる老王そぞろ慄きつ、

車馬の備を命ずれば、從者はとみに從へり。 260

プリアモス王駕に乘りて雙の手綱をかいとれば、

アンテーノール傍に華麗の臺に身を乘せて、

スカイアイ門通り過ぎ馬を大野に驅り進む。

斯くてトロイア、アカイアの陣門近く着ける時、

車馬より出でゝ、豐沃の大地の上におりたちつ、 265

トロイア並びにアカイアの二軍の中に進み入る。

アガメムノーン衆の王其時たゞちに身を起す、

又聰明のオヂュシュウス同じくたてば、傳令使、

神に捧ぐる盟約の牲を集めて寶瓶の

中に神酒を混じ入れ、列王の手に水灑ぐ。 270

アートレ,デース長劔の巨大の鞘の傍に

常に携ふ短劔をやがて手中に拔きかざし、

牲の頭を厚く掩ふ柔毛ざくと斬り落す、

そをトロイアとアカイヤの貴人に令使分ちやる。

アートレ,デースやがて手を擧げて大事を祈り曰ふ、 275

270 恐らくトロイア人の齎らせる酒とアカイア人のそれとを混ぜるならむ。

273 頒たれし毛を衆は祈の前火に投ず。

『靈山イデーの高きよりまつらふ至上のわが天父、

また一切を見渡して一切を聞くエーリオス、

更に川流また大地、又僞の誓言を

盟へる者に其死後の罰を冥府に課する者、

諸靈願はく證者たれ又冥護せよ此盟。 280

若し彼れアレクサンドロスわがメネラオス殺しなば、

ヘレネー及び一切の資産は彼の物たらむ、

而してわが軍悉く海を渡りて辭し去らむ。

されど金髮のメネラオス、アレクサンドロス斃しなば、

トロイア人はヘレネーと其資産とを渡すべし、 285

又正當の賠償をアルゴス人に拂ふべし。

この事永く將來の子孫に因つて傳はらむ、

アレクサンドロス斃るるも、プリアモス王及び諸子

否みてこゝに約さるる賠償拂ふを欲せずば、

我は即ち償の爲めに此地に留りて、 290

最後の望遂ぐる迄戰鬪續け止まざらむ』

277 日の神。

かく宣べ牲の小獸の喉を酷き青銅の

刄に劈んざきて地の上に喘ぐがまゝに斬り倒す、

無慘や青銅生命を體より奪ひ息たやす。

かくて瓶より金盞に酒を滿たして、更に地に 295

灑ぎ、天上常住の不死の諸神に祈りつつ、

トロイア並にアカイアの兩軍おのおの陳じ曰ふ、

『至上至大のわが天父、又他の不死の諸神靈、

兩軍の中まつさきに盟を破り棄てんもの、

彼も子孫も肝腦は今此酒を見る如く、 300

地上に灑げ、其妻は敵の手中に奪はれよ』

斯く陳ずれど、クロニオーン未だ願を納受せず。

ダルダニデース・プリアモス其時彼等に告げて曰ふ、

『聞けトロイア人、脛甲の善きアカイヤ人、共に聞け、

高きイリオン風強きあなたに我は今歸る、 305

アレース愛ずるメネラオス、彼と我が子の戰ふを

我今親しくわれの目に眺むることを忍び得ず、

兩者いづれに運命の終りの既に定るや、

ヂュウス並に天上の諸靈正しく知ろし召す』

しかく宣んして神に似る老王やがて、小羊の 310

遺骸と共に駕に乘りて手綱を双の手に繰れば、

アンテーノールかたはらに華麗の臺に身を乘せつ、

二人は共にイリオンの都城をさして立ち歸る。

プリアモスの子ヘクトール及び英武のオヂュシュウス、

其時現場先づ測り、次に青銅の甲を取り、 315

中に二條の鬮を入れ、之を搖がし兩人の

孰れか先に鋭鎗を投ずべきかを定めんず。

その時衆人もろ/\の神に祈りて手を擧げて、

アカイア及びトロイアの兩軍ひとしく陳じ曰ふ、

『靈山イデーの高きよりまつらふ至上のわが天父、 320

いづれにもあれ兩軍の中に眞先きに爭を

起さんものの命を絶ち、冥王の府に入らしめよ、

友好及び盟約はわれらの上にあらしめよ』

しか陳ずればおほいなる堅甲光るヘクトール、

面をそむけ打ふればすぐにパリスの鬮出でぬ。 325

つゞいて衆は隊列を爲して地上に坐を占めつ、

その傍に駿足の軍馬は休む、武具も地に。

艶冶のアレクサンドロス、髮美はしきヘレネーの

夫、その時肩のへに華麗の鎧投げかけつ、

之に續きて白銀の締金具せる脛甲の 330

美なるを左右の脛めぐり堅くよろほひ了る後、

かれの兄弟リカオーン常に帶びたる青銅の

胸甲いみじく彼の身に適ふを借りて胸に着け、

肩のあたりに銀鋲を飾りて美なる青銅の

長劒懸けておほいなる堅盾更に其上に、 335

次にりりしき頭上に堅甲着れば、其上に

馬尾の冠毛ものすごく勢猛く震り搖ぐ。

次に鋭き長鎗をしかと其手に握り持つ。

アレースめづるメネラオス其軍裝は又等し。

329 軍將の武裝の順序。XI 18, XVI 131 XIX 369 などほゞ同じ。

軍裝おのおの兩陣の中に終りて、トロイアと 340

アカイア勢のたゞ中に二人の武將いかめしく、

睨み進めばトロイアの駿馬を御する軍勢と

脛甲堅きアカイアの陣勢畏怖の念に見る。

測り定めし場の中にかくて兩雄相近く、

おのおの鎗を振りかざし互に憤怒の情に燃ゆ。 345

直ちにアレクサンドロスまさきに、影を長く曳く

長鎗ひやうと投げ飛ばし、アートレ,デースの盾を打つ、

青銅さはれ貫かず、鎗の穗先は堅剛の

盾に曲りぬ、引きついで長鎗とりて進み出で、

アートレ,デース・メネラオス祈念を神に捧げいふ、 350

『天王ヂュウス、われをして眞先きに我を傷へる

これこのアレクサンドロス今懲さしめ、わが手もて

彼を斃すを得さしめよ、後世之に鑑みて

主人の盡す歡待に仇報ゆるを畏るべし』

351 歡待を裏切るものを懲罰する神としてヂュウスに呼ぶ(XIII 624 にも)。

しかく宣んして影長き大鎗揮りて投げ飛ばし、 355

プリアミデースの滿月に似たる圓盾ひやうと打つ。

燦爛光る圓盾を堅剛の鎗貫きつ、

巧盡せる銅冑のたゞ中更に刺し通し、

更に其鎗脇腹に添ふて胴衣を劈んざきぬ。

その時アレクサンドロス其身屈めて死を逃る。 360

アートレ,デース嗣ぎて又銀鋲飾る劔を拔き、

高く振り上げ堅甲の頂めがけ切りおろす、

されども三つに又四つに長劔折れて飛び散れば、

アートレ,デース大空を仰ぎて嘆じ叫びいふ、

『ああクロニデー! 何神か君に殘忍優らんや! 365

無道のアレクサンドロス討たんとわれの盟ひしを、

長劒碎け手より落ち、鎗またわれの掌中を

離れて飛びて效あらず、あゝわが敵は傷かず』

しかく叫んで飛びかゝり、馬尾の冠毛戴ける

堅甲つかみ彼を曳きアカイア陣に引き返す。 370

その堅甲を※の下結びて刺繍美はしき

革紐かれの柔軟の咽喉いたく引き締めつ、

かくて捕へて勇將は不朽の譽得べかりし、

そを速に認め來てアプロヂュテー、ヂュウスの子、

猛に屠りし牛王の革にて造る紐斷てば、 375

頭はづれし堅甲はアートレ,デースの手に殘る、

そを脛甲のすぐれたるアカイア軍の陣中を

めざし打振り投げやれば親しき朋は收め去る。

更に新たにメネラオス飽く迄敵を斃すべく、

鋭鎗取りて憤然と走り出づれば敵將を 380

アプロヂ,テーは神力に易く雲霧の中隱し、

香を燻んじてかんばしき閨房の中つれ來る。

神女かくしてヘレネーを呼ぶべく進み、高塔の

中に多數のトロイアの友の間に彼を見て、

神酒の如き薫香を放つ其衣取りて引き、 385

ラケダイモンに其むかし久しく仕へ美しき

羊毛彼のために織り、痛くも彼に愛されし

今は老齡進みたる――女性の姿とり來り、

アプロヂ,テーはヘレネーに向ひて即ち宣んし曰ふ、

『來れこなたに、パリス今汝を呼びて歸らしむ、 390

彼今中に閨房に美なる臥榻に横はり、

容姿耀き華衣を着く、その樣人と戰鬪を

爲すべく來るそれならず、舞踏の會に赴くか、

或は舞踏を今やめて休らふ樣にもさも似たり。』

其言聞きてヘレネーは胸裏の思亂されつ、 395

やがて神女の艶麗の首筋、情を刺戟する

胸もと及び明眸の光を認め知りし時、

愕然として聲をあげ、アプロヂ,テーに向ひいふ

『あゝ非道なり、わが神女! われを欺く何故ぞ?

今また我を遠き地に――フリギエイ又メオニエー、 400

戸口豐かのとある郷――そこに明朗の聲放つ

人間のうち君めづる人ある庭に――引き行くか?

今メネラオス秀麗のパリスに勝ちて其郷に、

無慙の我を率ゆべく望むが故にまたこゝに、

君現はれて陰險の策謀またもたくらむや? 405

あゝ君、神明の域を棄て、進んで彼の前に坐せ、

足に再び神聖のウーリュンポスを踏む勿れ、

今より永く彼のそば悲み嘆け、彼護れ、

やがては彼れの婦とならむ、或は彼の婢とならむ。

そこに臥床を備ふべく罪を犯してわれ行かじ、 410

行かばトロイア滿城の人悉くわれ責めむ、

しかして無限の憂愁を我は心に抱くべし』

400 リヂアの古名。

401 人間は言語明かのもの。

アプロヂ,テイはいきどほり即ち答へて宣んし曰ふ、

『愚かなる者警めよ、われを激すること勿れ、

我怒る時一朝に憎愛處を換ゆべきぞ、 415

二軍の中に怨恨を生ぜしむべきわが思索

今はた汝恐れずや? 悲慘の最期恐れずや?』

しか宣んすればヂュウスの子ヘレネー聞きて畏怖を爲し、

光り耀く銀色の被衣に隱れ默然と

行くをトロイア軍は見ず、神女は彼に先立てり。 420

斯くてパリスの壯麗の館に再び來る時、

從者はすべて急がしく各々彼の業に就き、

麗人ひとり宏壯の高き屋の下、閨房に。

笑嬉々たるアプロヂ,テー彼女のために椅子を取り、

親しく之を運び來てそを愛人の前に据う。 425

アイギス持てるヂュウスの子ヘレネー之に身を托し、

目をそむけつゝ良人を咎めて彼に陳じ曰ふ――

『君戰場を逃げ歸る、そこにはじめのわが夫、

英武の彼に斃されて君生命を棄つべきを。 430

武力に腕に、鎗術に武神のめづるメネラオス

之に優ると高言をああ君先に吐き乍ら。

今まのあたり又更に武神のめづるメネラオス

彼に戰挑むべく行かずや――ああ否、今君に

勸む、戰ふこと勿れ、彼れ金髮のメネラオス――

彼を敵とし愚かにも勝負決すること勿れ、 435

恐らく彼の長鎗に忽ち命を失はむ』

429 ヘレネーの性格を現はす、――一方に於いて高き義憤あり、しかも他方に於ては賤み乍らも愛するパリスの安全を慮る。

その時アレクサンドロス答へて彼に陳じ曰ふ、

『妻よ苛酷の言葉もてわれを咎むること勿れ、

神アテーネー助くれば今メネラオス我に勝つ、

我また機會なからめや、われにも神の助あり。 440

いざ今共に閨に入り愛を飽く迄味ははむ。

戀情われを襲ふこと今の如きはあらざりき、

ラケダイモンの好土より君を誘ひてその昔、

舟に乘り行き、クラナエー其の島の中温柔の

閨裏に君と語らひし、その日も今に猶若かじ、 445

今身を襲ふ戀々の情はそゞろに耐へ難し』

しかく陳じて先立てばヘレネー後に從へり、

やがて美麗の榻の上二人は共に打ち臥しぬ。

アートレ,デースこなたには艶冶のパリス探すべく、 450

獅々奮迅の勇なして諸軍の間巡り行く。

されどトロイア軍勢もその援軍もアレースの

めづる勇將メネラオスにパリスの姿示し得ず、

愛せし故に隱せしに非らず(パリスを見しとても)

死に運命を見る如く彼はすべてに憎まれき。

アガメムノーン、衆の王、その時衆に向ひ曰ふ、 455

『トロイア、アカイア兩軍と援軍共にわれに聞け、

アレースめづるメネラオス今明かに打勝てり、

いざアルゴスのヘレネーと其資産とを皆我に

渡せ、而してふさはしき賠償われに今拂へ、

此事永く後世の記録の上に傳はらむ。』

アートレ,デース斯く宣しアカイア軍勢みな贊す。 460

460 第三歌はこゝに終れどメネラオスとパリスとの決鬪の仕末は第四歌 219 に到つて定る。ホメーロスの兩作を各二十四歌に別つは遙か後世(アレクサンドリア時代)ならむ(リーフ)。

第四歌

オリュンポス山上神々の評議。 天王クロニオーンはアカイア、トロイア兩軍を和せしめんとす。 天妃ヘーレーの怒。 クロニオーンの答、トロイアは天妃の意の儘亡滅せしむべし、然れども同樣に天王は他日天妃の愛する城市をも其意の欲する時は破滅すべしといふ。 天妃の承諾。 天王はアテーネーをトロイア軍に遣はし、先の約定を破らしむ。 使の神女はトロイアの將パンダロスに勸め敵王メネラオスを射て負傷せしむ。 其出血を見てアガメムノーン悲む。 輕傷なることを告げてメネラオス兄を慰む。 軍醫マカオーンの施藥。 アガメムノーンの戰の準備。 陣中を巡り勇者を勵まし、怯者を責む。 諸將の態度。 兩軍の形勢。 混戰の敍述。 アーンチコロスの奮戰。 エレペーノールの死。 ロイコスの死。 オヂュシュウスの怒。 敵王の庶子を討つ。 アカイアの勝利の叫び。 トロイアの困難。 トロイア勢を勵すアポローン。 ヂオーレスの死。 パイロオスの死。 兩軍相互の討死。

こゝにヂュウスを中心に黄金の床に坐を占めて、

群神評議行へる――中にヘーベー端麗の

神女かれらにネクタルを捧げ※れば相つぎて、

金の盃ほしながらトロイア城を眺めやる。

其時直ぐにクロニオーン天妃ヘーレーの胸の中、 5

瞋恚を起すつらき言紆餘曲折に宣んし曰ふ、

2 ヂュウスとヘーレーとの女、宴席に侍するもの。

『二位の女神はアカイアの王メネラオス助くめり、

そはアルゴスのヘーレーとアラルコメネーの・アテーネー。

されど二神は遠ざかり、たゞ傍觀を喜べり、

之に反してパリスには、嬌笑好むアプロヂ,テー 10

絶えず伴ひ、運命の非なるを常に拂ひ除け、

今はた最期覺悟せる彼の一命助けたり。

されども正に戰勝はアレースめづるメネラオス。

その終局をいかにせむ、この事われら計らはむ。

更に新たに殘虐の奮戰苦鬪起さんか? 15

或は平和を兩軍の中に今更來さんか?

若し今すべて衆こぞり和議を喜び納るべくば、

プリアモス王領有の都府は豐かに榮え得ん、

又メネラオス、ヘレネーを勝利の家に伴はむ』

8 二神の崇拜は此二都を中心とす。

しか宣すれば向ひ坐し、トロイア軍の禍を 20

計らひ居たるアテーネー、ヘーレー共につぶやきつ、

アテーナイエー默然と口を閉してもの曰はず、

激しき憤怒身を焚きて父なる神にいきどほる。

されどヘーレー胸中の怒抑へず叫び曰ふ、

22 アテーネー又アテーナイエー。

『あゝ恐るべきクロニデー、今何事の仰せぞや、 25

わが心勞と流汗を(疲勞の故の流汗を)

君今空しくなさんとや? プリアモス等の一族を

絶やさんためにわが戰馬人間に似て皆疲る、

よし爲さば爲せ、他の諸神斷じて之を讃し得ず』

25 クロニデース(クロノスの子)の呼格。

雷雲寄するクロニオーン怒りて彼に答へ曰ふ、 30

『非道の汝、プリアモス並に其子何程の

害を汝に加へしや? 汝はげしくイリオンの

堅固の都城倒すべく願へる迄に加へしや?

其城門を城壁を崩して汝、生き乍ら

プリアモス王及び子ら、及び其他のトロイアの 35

民を貪り食ふ時、汝の怒癒されむ。

汝の望むまゝに爲せ。この爭は此後に

我と汝の間との難題たること無かれかし。

我また汝に別に曰ふ、汝心に銘じおけ、

我また情願切にして、汝のめづる民族の 40

住まへる都城壞ぶるべく望まん時に、汝わが

怒止むること勿れ、任せよわれに一切を。

わが意に反し行ふを今日は汝に許すべし。

日輪及び天上の諸星の下に人間の

住む一切の都府の中、高き聖なるイ,リオンを、 45

プリアモス王及び其槍術まさる民族を、

我は其他の一切に優りて痛く愛で思ふ。

彼等は我に祭壇を捧げ、供物を怠らず、

神酒犧牲を怠らず、こは神明の受くる禮』。

その時牛王の目を持てるヘーレー答へて彼に曰ふ、 50

『あらゆる都城の中にしてわが最愛のものは三、

アルゴス及びスパルテー、更に廣街のミケーネー、

君憎惡の的たらば此等すべてをくつがへせ!

よしわれ怒り其破壞禁ぜんとても效あらじ、

怒るも何の效あらじ、君の力はいや優る。 55

されどもわれの辛勞を無效に歸すること勿れ、

われは神なり、其本は正しく君と相同じ、

巧智に富めるクロノスの至上の子とし生れし我、

彼の子にして又君の正配の名を呼ばるれば、

二重に崇し、君は又神明すべてを皆率ゆ。 60

さは當面の此事についておの/\讓るべし、

君は此の身に、身は君に、而して他は皆從はむ。

トロイア、アカイア兩軍の戰場中にアテーネー

今速に遣はして試みしめよ、いかにして

トロイア軍は眞先に盟に背き、戰勝の 65

アカイア軍を破るべく、其開端をいたさんか』。

52 アルゴスは一般にグリース國全部を指す、されどこの行のは一都市の名稱。

しか宣すればクロニオーン人間並びに神の父、

之に從ひアテーネー呼びて直ちに彼に曰ふ、

『今迅速にトロイアとアカイアの軍さして行け、

トロイア軍の眞先に盟にそむき、戰勝の 70

アカイア軍を破るべき其方法を試みよ』

しかく宣んしてアテーネー(素より之を望みたる

神女)を激し勵ませばウーリュンポスの高きより、

彼は飛び降る、譬ふればクロノスの子の降す星、

爛々として海人に、又軍隊に兇兆を 75

なすもの、而して光芒を四方に遠く放つ者、

神アテーネー之に似て大地の上に飛び降り、

二軍の中に現はるる、之を眺めて驚くは

馬術巧みのトローエス、脛甲堅きアカイオイ。

各之を眺め見て近きに隣る者に曰ふ、 80

『更に新たに殘虐の畏怖の戰起らんか?

或は人間の戰の審判者たるクロニオーン、

トロイア、アカイア兩軍の間に平和來さんか?』

79 トロイア人=トロース、又トローオス其複數はトローエス。

アカイア及びトロイアの各人かくぞ陳じたる、

今トロイアの陣中をあまねく巡るアテーネー、 85

アンテーノールの子ローダコス勇士の姿借り來り、

英武恰も神に似るパンダロスを探し行き、

リュカーオーンの剛勇の子のたゞずむを見出しぬ。

彼を圍むは盾持てる精悍無比の若き子ら、

アイセーポスの流れより彼に伴ひ來る者、 90

即ち彼に近寄りて羽ある言句述べて曰ふ――

88 II 826.

『リュカーオーンの勇武の子、君今我に聽くべきか?

勁箭飛ばしメネラオス王を射ること能くせずや?

能くせばトロイア全衆の感謝並に賞贊を、

特にもアレクサンドロス・パリスのそれをかち得べし。 95

彼れ眞つ先に莫大の恩賞君に與ふべし。

アートレ,デース、軍神のアレースめづるメネラオス、

君の飛箭に斃されて火葬の堆に登る時。

いざ立て、立ちて光榮の敵王目がけ矢を放て。

さはれアポローンに先づ盟へ、リキエー生れの銀弓の 100

神に初生の子羊のすぐれし牲を捧げんと、

聖なる都ゼレーアに君の歸郷のあかつきに。』

しかく宣んするアテーネー、淺慮の彼は從ひて、

直ぐに光澤うるはしき弓をとりいづ、其弓は

山羊の角より成れるもの、彼れ其むかし岩窟に 105

埋伏しつゝ飛びいでし獸の胸を貫きて、

地上に仰に倒れしめ頭よりいづる右左、

十六束の長さなる二條の角を得たる時、

良工巧みに其角を合せ整へ滑かに、

磨き終りて黄金の端を上下に附せるもの、 110

其剛弓を張り終へて之を地上にさしおけば、

勇武の友ら其前に盾を並べて押し隱くし、

アレースめづるメネラオス敵の勇將射る前に、

アレースめづるアカイアの健兒の襲なからしむ。

かくして彼れの箭筒より蓋を開きて一條の 115

新たの羽箭――恐るべき苦痛の本を取り出し、

弦上直ちに慘酷の飛行の武器をあてがひつ、

聖なる都ゼレーアにおのが歸郷のあかつきに、

清き初生の子羊の牲捧ぐべく銀弓の

神アポローン――リキエーに生れし神に盟かけ、 120

弦――牛王の筋と共矢筈を取りて引きしぼる、

弦は胸許、鋼鐵の鋭き先は弓端に。

かくて大弓滿月の如くに張りて射放てば、

弓高らかに鳴りひびき弦は叫んで鋼鐵の

鏃するどき勁箭は、衆軍の上翔けり飛ぶ。 125

されど不滅のもろ/\の神は汝を、メネラオス、

忘れず、特にアテーネー、戰利の司ヂュウスの子、

汝の前に身を進め飛箭の害を減ぜしめ、

安らに眠る小兒より蠅を慈愛の母拂ふ

跡見る如く、勇將の身より飛箭をはづれしむ。 130

神女即ち佩帶の金の締金、胸甲の

二重の上に合ふ處、こゝに勁矢の路を向く。

今慘毒のつらき矢は飛んで帶のへ進み來つ、

其精妙に造られし帶を貫き跳り入り、

同じく共に精妙の胸甲、更に金屬の 135

胴衣を穿つ――、其胴衣矢を防ぐべき身の護り、

至上の護り彼は着る、是をも飛箭貫ぬきて、

今肉體の外の端、皮膚を破れば忽ちに、

黯紅色のすごき血は疵口よりし流れ出づ。

104 レッシングの「ラオコーン」十五章十六章に此一段を評す。

132 體の上部を蓋ふ鎧、下部を蓋ふ鎧と合する處。

メーオニス又カアイラのとある女性が、染料の 140

赤きを以て純白の象牙の馬具を色どりつ、

こを室内に陳すれば多くの騎士は憧憬の

目を光らせど求め得ず、たゞ帝王の珍寶と

なるのみ、彼れの乘る駒の飾、並に御者の榮――

かくこそ染むれメネラオス、汝流せる紅血は 145

眞白き汝の股と脛、更に下りて足首を。

140 III 401, II 864.

140 II 867.

その黯紅の血の流れ疵より出づるを眺め見て、

アガメムノーン、衆の王、愕然としてをののけば、

アレースめづるメネラオス、同じく共に身は震ふ。

されどつゞいて附け紐と矢じりと共に體外に 150

あるを認めてメネラオス其沈着を取りもどす、

アガメムノーン、然れども、其弟の手を取りて、

僚輩もろとも叫喚の聲もはげしく陳じいふ、

150 鏃を箆に固着せしむる紐なるべし。

『あゝわが弟、トロイアと戰はんため陣頭に

汝を立たせ盟ひしは汝にとりて死なりしよ、 155

トロイア人は神聖の盟を破り、汝射ぬ。

さはれ盟と子羊の血と純粹の灌奠と

信頼おける握手とは遂に空しきものならず。

よし迅速ならずとも、ウーリュンポスの神靈は

遲くも必らず成し遂げむ、彼等は重く賠はむ、 160

彼等の頭、また妻子すべてを擧げて賠はむ。

此事今我明かにわが胸中に感じ知る、

聖なるイリオン・プリアモス及び鎗術秀いでたる

かの族擧げて一齊に亡滅の時來るべし。

高き玉座に、天上に宿れるヂュウス・クロニオーン、 165

彼等の不信いきどほり黒暗々のアイギスを

彼等すべてに動かさむ、此事必ず効あらむ。

さはれあゝわがメネラオス、汝亡びて一生の

運命こゝに閉づべくばわれの苦惱はいかばかり、

かくて乾けるアルゴスに責むべき我は歸らんか、 170

直ちにアカイア軍勢は祖先の郷にあこがれん、

プリアモス王、トロイアの誇のまゝにアルゴスの

ヘレネーこゝに殘し行き、汝の骨は地下に朽ち、

成すべき業は成らずしてトロイアの地に葬られ、

かくして無慙のトロイアのあるもの、譽のメネラオス 175

其墳上に飛び上り跳り叫びて斯く曰はむ、

「こゝに空しくアカイアの軍勢率ゐ來し如く、

アガメムノーンの一切の怒の果は斯く成らむ、

見よ善良のメネラオスこゝに殘して、空虚なる

船に乘じてなつかしき故郷に彼は去り行けり」 180

他日あるもの斯く曰はむ。――大地その時身を掩へ』

157 II 341.

163 VI 447 に同樣の豫言ヘクトールの口に述べらる。臨終者の豫言はXVI 851 に。

181 その時は予は死を願ふ。

その時金髮メネラオス彼を慰め答へ曰ふ、

『悲しむ勿れ、アカイアの衆を嚇すことなかれ、

鋭き鏃、幸に急所を外づれ、佩帶は

表にわれを防ぎ得つ、下に胸甲また胴衣、 185

銅工巧みにわがために造りたるもの、身を救ふ。』

アガメムノーン・クレーオーン其時彼に答へ曰ふ、

『しかあれかしと我念ず、あゝ友愛のメネラオス、

さはれ負傷を調べ見て上に良藥貼すべく、

辛き苦痛を救ふべく今一人の醫を呼ばむ』 190

しかく宣んして傳令のタルチュビオスに向ひ曰ふ、

187 「權威あるもの」。

『タルチュビオスよ速かにこゝにマカ,オーン呼び來れ、

アスクレーピヨス――すぐれたる名醫の息を呼び來れ、

來りて彼は檢すべし、アカイア軍の首領たる、

アレースめづるメネラオス、トロイア或はリキエーの 195

軍の弓手に射られたり、彼の光榮わが苦痛』

しか宣んすれば傳令使、命を奉じて誤らず、

銅冑うがつアカイアの軍を横切り、すぐれたる

マカーオーンを探しつゝ、やがて佇立む彼を見る、

彼を圍むは盾持てる健兒一團、トリケーの 200

地より、良馬の産地より彼に從ひ來る者、

即ち傍に近寄りて羽ある言句を陳じ曰ふ、

『馳けよアスクレーピヨスの子、アガメムノーン、君を呼ぶ、

往きて宜く檢すべし、アカイア軍の主領にて

アレースめづるメネラオス、トロイア或はリキエーの 205

軍の弓手に射られたり、彼の光榮、わが苦痛』

しかく陳じて胸中の彼の心を動かしつ、

アカイア族の大軍の列を二人は過ぎて行く。

かくて金髮メネラオス飛箭に打たれ疵つける

地點に着けば、諸の將軍彼を取り圍む、 210

すぐれし軍醫マカ,オーン、妙技は神に似たる者、

眞中に立ちて負傷者の帶より直ぐに其矢拔く。

鋭き其矢拔き去れば鋭き鏃碎け落つ。

光る佩帶やがて解き、つゞいて下の胸甲と、

青銅の具を作りなす工人の手になる胴衣、 215

解き、慘毒の矢の射りし疵をくわしく檢し了へ、

血を吸ひ出し、熟練の醫は妙藥を其上に

貼しぬ、むかしケーローン、彼の父愛でたびしもの。

衆人かくて豪邁の將メネラオスいたはれる、

其時かなたトロイアの盾持つ軍勢寄せ來る、 220

アカイア同じく戰鬪を思ひ再び武具を帶ぶ。

そこに見るべし英邁のアガメムノーン怠らず、

畏れず、荒ぶ戰鬪に對し避易敢てせず、

光榮得べき奮戰をめがけ激しく苛つを。

戰馬並びに青銅のいみじき戰車彼は棄つ、 225

ペーライオスの孫にしてプトレマイオス生める息、

ユウリュメドーンは扈從して、喘ぐ双馬を傍らに

駐むれば王は命下し、傍離れず近く立ち、

諸隊經※り指揮の果、疲勞の折に備へしむ。

かくして歩足に諸の部隊を王は巡り行き、 230

駿馬を御するアカイオイ勇みはやるを望む時、

其傍に近寄りて痛く勵まし宣んし曰ふ――

『アルゴスの子ら、勇しき英氣弛むること勿れ、

天父ヂュウスは虚僞の子を絶えて援くることあらず、

眞先に盟破り棄て暴を行ふ不義の者、 235

鷙鳥彼らの柔かき肉喰ふべし、其愛づる

妻女並びにいとけなき子らは我らの兵船に

運び去るべし、イーリオン陷落なさん曉に』

之に反して戰鬪にためらふ者を望む時、

憤怒の言に激しくもアガメムノーン責めて曰ふ、 240

『あゝ、汝らアルゴスの怯れたるもの恥ぢざるや?

いかなれば斯く茫然と鹿の子の如佇立むや?

廣き大野を翔け走り疲るる時に立ち停り、

勇氣は絶えて胸中に湧かざる子鹿見る如し、

汝ら斯くも茫然と立ちて戰鬪に加はらず。 245

クロニーオーン手を延して救ふや否や見んが爲め、

白浪寄する海の岸、我が兵船を曳き上げし

ほとりに近くトロイアの軍近くを待たんとや?』

諸軍諸隊に命令を傳へて斯くて巡り行き、

クレーテー人豪勇のイドメニユウスを取り圍み、 250

軍裝しつゝある處、諸隊を經つつ王は訪ふ。

イドメニユウスは先頭の中に猛き猪見る如し、

メーリオネース彼のため後陣を勵まし進ましむ。

アガメムノーン、衆の王、これを眺めて喜びて、

甘美恰も蜜に似る言に直ちに讃し曰ふ、 255

『駿馬を御するダナオイのすべてに優り君をわれ、

イドメニュウスよ尊べり、戰場並びに他の役に、

又宴席に尊べり、アルゴス軍の諸頭領、

その盃中に宿老の酌むべき美酒を混ずる時、

他の髮長きアカイアの族は酌むべき分量に 260

限りあれども只君と、我と等しく充ち溢る

盃つねに前にあり、心の儘に酌み得べし、

いざ戰鬪に奮ひ立て、先に高言せし如く』

クレーテー族率ゐたるイドメニュウスは答へ曰ふ、

『アートレ,デーよ其むかし約し盟ひし時の如、 265

君に對してとこしへに我忠誠の友たらむ。

他の長髮のアカイア族、さはれ勵ませ迅速に

鬪はんため――盟約を踏みにじりしはトロウエス、

彼を未來に待つものは死と荒廢の二つ也。

彼は眞先に約破り我に禍害を加へたり』 270

しか陳ずれば喜びてアートレ,デース過ぎ去りつ、

次ぎに隊伍を經※りてアイア,スの許訪ひ來る、

アイア,ス二人、鎧ほひて歩兵の群は雲に似る。

山羊を牧ふ者、展望の高き場より海のうへ、

ゼピュロス吹きて驅り來る飛揚の雲を望む時、 275

漫々として限りなき潮を下に瀝青の

色を深めて寄する雲すごき颶風を誘ふ時、

牧人震ひ慄きて洞窟のもと群を驅る、――

其雲に似て勇猛の二人アイア,ス取り圍み、

ヂュウスの系の少壯の密集の隊物凄く、 280

盾と鎗とを振りかざし戰場さしてゆるぎいづ。

275 西風。

アガメムノーン、權勢の王は眺めて喜びて、

彼らに向ひ口開き羽ある飛揚の言を曰ふ――

『青銅鎧ふアカイアの衆を率ゐるアイアンテ、

君に指令の要を見ず(君を鼓舞する不可なれば) 285

君は衆人勵まして戰鬪はげしく勉めしむ。

あゝわが天父クロニオーン、又アテーネー・アポローン、

斯くある心意一切の人の胸中存し得ば!

プリアモス王統ぶる都府今迅速に陷らむ、

わが軍勢の手よりして劫掠受けむ荒されむ』。 290

284 呼格。

しかく宣んして其場に彼らと別れ他に進む。

次に見たるはネストール、ピュロスの首領、朗々の

聲を放ちて戰鬪に軍を整へ進ましむ。

かたへに立つはペラゴーン、アラストール、クロミオス、

王ハイモーン更にまたビアス、諸民の主たるもの、 295

戰馬兵車を備へたる騎兵まさきに進ましめ、

後陣は勇氣凛々のあまたの歩兵、戰ひの

防壁として守らしめ、劣れるものを中央に

据えて斯くして好まずもやむなく戰鬪勉めしむ。

彼は眞先に命令を騎兵に下し警めて 300

軍馬を制し、隊列の中に亂入なからしむ、

『誰しも馬術と勇氣とに信頼なして他の前に

ひとりトロイア軍勢と戰ふことを求むるな、

又何人も退くな、しかせば汝弱からむ。

さはれ誰しも戰車より敵のそれへと移るもの、 305

槍を揮ひて衝き進め、此事遙かに優るべし。

正に等しくいにしへの勇者は彼の胸中に

かかる思と心とを具して都城を破りにき』

戰術永く善く知れば老將かくは勵ましぬ、

之を眺めて喜べるアガメムノーン、權勢の 310

王は即ち彼に向き羽ある飛揚の言をいふ、

『老將軍よ願くは君の心の望むまま、

雙脚君にしなやかに、勇力君に強かれよ、

しか念ずれど老齡は他における如君を打つ、

あゝ他の誰か代り得て、君少壯の勇ならば!』 315

ゲレーニャ騎將ネストール即ち答へて彼に曰ふ、

『アートレ,デーよ我も亦切に望めり、その昔

エリユウタリオーン斃したる其日の如くあれかしと。

さはれ諸神は人間にすべてを同時與へ得ず、

ああ少壯の身は昔、――今は老齡身を襲ふ、 320

さはれ我尚ほ騎兵らの列に加はり、忠言と

論辯を以て令すべし、これ老齡の分たらむ。

その年齡の若きよりわれに優りて武具を取り

その精力にたよるもの宜しく鎗を揮ふべし』

318 VII 133 以下。

319 XIII 729. XVIII 328.

322 II 53.

其言聞きて喜びてアートレ,デース過ぎ去りつ、 325

ペテオースの子、強き騎士メネスチュウスの立つを見る。

彼を圍むはアカイアの鯨波の叫び高き群、

其傍に近く立つ聰明智謀のオヂュシュウス。

ケプァレー人の剛強の群、將軍を圍み立つ、

彼らは未だ衆軍の擧ぐる鯨波の音聞かず、 330

戰馬を御するトロイアとアカイアの軍もろともに

今辛うじて起ち上がる其形勢を見る彼ら、

アカイア軍の他の部隊トロイア軍を敵として

奮ひ進みて戰鬪を初むるを待ち佇立めり。

アガメムノーン、衆の王、之を眺めて叱り責め、335

即ち彼に打向ひ羽ある飛揚の言を曰ふ、

『ペテオースの子、あゝ汝ヂュウスの系の王の子よ、

あゝ又汝策謀に富みて僞多き者、

汝らなどて離れ立ち、怖れ慄ひて他を待つや?

先鋒中に身を措けば汝ら宜しく身を起し、 340

奮戰苦鬪のたゞ中に勇みて進むべからずや!

アカイアの人、宿老のために酒宴を開く時、

其宴席にいや先きに汝二人を余は招く、

そこに汝等燔肉の美味を口にし、蜜に似る

甘き芳醇酌み干して、欲する儘につねに飽く。 345

さるを汝に先んじてアカイア軍の十部隊

劔戟取りて戰ふを汝等空しく眺むるや?』

智謀に富めるオヂュシュウス目を怒らして彼に曰ふ――

『アートレ,デーよ何らの語、君の齒端を洩れ出づる?

我れ戰鬪を棄つるとや? 軍馬を御するトロイアの 350

衆に對してアレースをアカイア人の醒ます時、

欲せば或は念頭に置かば君また眺むべし、

テーレマ,コスの父は善く軍馬を御するトロイアの

先鋒めがけ鬪はむ、空し君の語、風に似て』

351 アレース(軍神)を醒ますとは戰をなすこと。

アガメムノーン・クレーオーン彼の怒を認め知り、 355

先きの言句を打消して笑を含みて彼に曰ふ――

『ラーエルチアデー、神の裔、智謀に富めるオヂュシュウス、

我は過分に君責めず、過分に君に指令せず。

君胸中に明策を蓄ふことを我は知る、

君の心に思ふこと我も同じく亦思ふ。 360

いでや此事此後にわれら善くせむ、若し辛き

言句わが口洩るとせば――神明すべてを打ち消さむ』

しかく宣んしてその場に彼らと別れ他に進み、

チュウデュウスの子、剛勇のヂオメーデース、堅牢に

組まれ戰馬に曳かれたる兵車の上に立つを見る、 365

其傍に立てるものカパニユウスの子ステネロス。

アガメムノーン・クレーオーン彼等を眺め叱り責め、

羽ある飛揚の言放ち彼に向ひて宣んし曰ふ、

『軍馬を御する豪勇のチュウヂュウスの子ああなんぢ、

何故恐れ慄くや、戰場眺め怖るゝや? 370

汝の父は畏怖知らず、常に親しき同僚に

先んじ進み戰鬪を敵に挑むを喜べり、

その戰場に勤むるを眺めしものの曰ふ如し。

我は彼見ず彼知らず彼の優秀人は説く。

彼その昔客としてミュケーネーの地往きて訪ひ、 375

ポリュネーケースもろともに從軍の徒を呼び集め、

(二人その時テーベーの聖なる都市と戰へり)

すぐれし援軍與ふべく彼らに切に乞ひ求む、

ミュケーネー人諾ひて彼等の請を贊せしも、

ヂュウスは之をひるがへし、不吉の兆を現はしぬ。 380

二人は斯くて辭してたち行路進めてアソーポス、

高き蘆荻と青草の繁れる郷にたどり來ぬ。

そこにアカイア衆民の令を奉して使者となる

彼チューヂュウス、カドモスの多くの子らの飮宴を

エテオクレース勇將の居館の中に認め得つ、385

馬術巧みのチューヂュウス彼たゞ一人客として、

カドモス族の數多き最中にありておののかず、

彼等に競技挑みつゝ、容易に彼等一切に

勝を制せり、アテーネー神女の助けかしこかり。

カドモス族は憤懣にたへず、其歸路伺ひて、 390

五十の少壯誘ひ來て密に埋伏の陣を布く。

其五十人率ゐるは二人の勇士、其一は

ハイモニデース・マイオーン、不滅の神に似たる者、

アウトポノスを父とするポリュポンテースまた強し、

されども之に打勝ちて無慘の運に終らしめ、 395

神の示驗をかしこみて只マイオーン一人を

許して國に歸らしめ他を一齊に打ち取りぬ、

アイトーリオス、チュウヂュウスかかりき、生める彼の子は

武勇は父に劣れども辨論の上彼に勝つ』

377 即ち七門を有する城市 408.

しか宣んすれど豪勇のヂオメーデース物曰はず、 400

高き王者の叱責を默然として惶みぬ、

されど名譽のカパニュウス産める子答へて王に曰ふ、――

『アートレ,デーよ僞りそ、事明かに知り乍ら。

父に遙かに優れりとわれら自ら誇り曰ふ、

諸神の示驗かしこみて、ヂュウスの助け蒙りて、 405

ただ少數の軍勢をアレースの壁潜らせて、

城門七つ備へたるテーベーの都市取りし我。

しかして敵は愚かにも氣の錯亂に亡び去る、

されば同じき光榮にわれと父とを置く勿れ』

402 ステネロス。

407 十年後再び攻めてテーベーを取る。

409 父に優ると自讃す。東洋的ならず。

しかいふ彼を豪勇のヂオメーデース睨め曰ふ、 410

『叟よ默して坐に返り我の言句を受け容れよ、

脛甲堅きアカイアの軍、戰場に驅り立つる

アガメムノーン總帥をわれ豈に敢て咎めんや?

アカイア軍勢打ち勝ちて聖地イリオン陷いれ、

トロイア軍を亡さば光榮彼の身にあらむ、 415

アカイア軍勢敗れなば大哀彼の身にあらむ。

そはともかくも我れ二人身の豪勇を省みむ』

しかく宣んして兵車より大地の上に飛び降る、

其將軍の穿ちなす青銅の武具鳴りひゞき、

倔強の勇士なほ聞きて其心肝を冷やすべし。 420

譬へば海の潮流の※鞳として岸の上、

西吹く風に驅られ來て波また波と碎け散り、

始めは沖に高まりてやがて大地に打ちつけつ、

怒號はげしく更に又岬のめぐり、波がしら

立てて泡沫飛ぶ如し――正に其樣見る如く、 425

ダナオイ族の軍團は隊また隊と休みなく、

つゞいて戰場さして行き、諸將おの/\令下し、

兵は無言に進み行く、かかる多數の軍勢の

胸裏に聲の有り無しを人の疑ふばかりにも、

默然として肅々と進む衆軍、身に穿つ 430

種々の武裝は燦爛とあたりに映じかゞやけり。

之に反してトロイアの軍は豐かの村人の

獸欄の中、數知れぬ牝羊――乳を搾られて、

立つ時兒らの聲を聞き、絶えずも叫び鳴く如し。

斯くトロイアの大軍の中に叫喚湧き亂る、 435

衆の叫びは一ならず、又唯一の聲ならず、

種々の言語は相混じ種々の人種は相交る。

アレースかなた勵ませば更にこなたを勵ますは

藍光の目のアテーネー、『畏怖』と『恐懼』と入りまじる。

渇のはげしき『不和』も起つ、そは人殺すアレースの 440

姉妹又友、そのはじめ小さく育てど天上に

今は頭を支へしめ、脚は大地を踏みて立つ。

彼また群衆横切りて爭あまねく其中に

投じ亂して衆人の呻吟苦叫起らしむ。

彼ら斯くして一齊に進みて、とある地に着けば、 445

獸皮の盾は相拍ちて、長槍及び青銅を

鎧ふ勇士の猛勇と飾鋲ある大楯と、

互に當り相拍ちて轟々の音湧き起り、

撃たるる者と撃つ者の歡呼或は叫喚の、

音一齊に喧びしく紅血地上を流れ行く。 450

白雪融けて量増せる二條の流れ山降り、

怒號の水をもろともにその源泉の高きより、

深く凹める峽谷に合流なして注ぐ時、

離れて遠き山上に牧童その音聞く如く、

混じ戰ふ軍勢の中より音と畏怖と湧く。 455

428 III 8 に同樣の敍述あり。

441 不和は小なる原因に生じ大なる結果を來たす。

447 盾の外面の中央に隆起す。

タリシュオスの子エケポ,ロス、トロイア軍の先陣の

中にすぐれし勇將を、アーンチロコス先づ斃す、

馬尾の冠毛振りかざす甲の天邊打碎き、

鋭刄凄く骨に入り、其額上を貫けば

一命亡び死の暗は忽ち彼の目を蔽ひ、 460

亂軍中にどうと伏し塔の倒るる見る如し。

その倒るるを脚取りてエレペーノール曳き來る、

カルコウドーンの生める息、アバンテースの族の長、

亂箭中より引き出し其軍裝を迅速に

剥ぎ取るべくと望みたる其勞遂に空しかり、 465

屍體を曳ける彼を見て敵の勇將アゲノール、

槍を飛ばして盾の側かがめる彼の脇腹の

隙を覗ひて打當てつ、手足の力弛ましむ。

斯くして去れる彼の魂――彼を※りてトロイアと、

アカイア二軍、猛烈の技を演じて群狼の 470

如く、人々飛びかかり人々互に相撃てり。

462 II 540.

463 II 542.

466 アンテーノールの子、XII 93, XIV 425, XV 340, XXI 595.

468 死すること。

かなたアイア,ス、テラモーンの子は花やかの若き武者

アンテミオーンの若き息、シモエーシオス打ち取りぬ、

イデーの嶺を降り來し其母むかし、兩親に

附きて羊群守るべく、來りし時にシモエース、 475

流のほとり彼を生み、シモエーシオスと名を呼びぬ、

慈親に受けし養育の恩を酬ゆる遑なく、

命薄うしてアイア,スの槍に斃され亡び去る。

其前方に進み行く彼を、胸のへ右側の

乳房に添ふてアイア,スの鋭槍酷く刺し通し、 480

青銅肩を貫けば大地に斃れ塵に伏す。

譬へば廣き沼澤の地に白楊の生え出でゝ、

幹滑かに、頂きに近く枝葉のしげるもの、

車匠は之を耀ける斧を揮ひて切り倒し、

造る華麗の車駕のため曲げて輪縁となさんとし、 485

乾燥のため川流の岸に晒しておく如し。

斯くの如くに英豪のアイア,スの手に斃さるる

シモエーシオス塵に伏す、其アイアース目ざしつつ、

プリアミデース・アンチポス群集中に槍飛ばす、

覘は外れてオヂュシュウス率ゐたる伴リュウコスを、 490

屍曳きずるままに打つ、鼠蹊のほとり丁と射て。

リュウコスかくて倒れ伏し屍は彼の手より落つ。

其殺されし伴のため忿然としてオヂュシュウス、

光る冑に身を固め先鋒中に進み出で、

敵に近づき立ち停り、あたり見※し、燦爛の 495

投槍飛ばす――かくと見てトロイア軍はあとしざる。

槍は空しく飛ばざりき、デーモコオーン――アビドスの

駿馬産するほとりより呼ばれ來りし一勇士、

プリアモス王うみなせる庶子を鋭刄うちとめぬ。

伴の死滅をいきどほり、槍もて彼の顳※を 500

うつ豪雄のオヂュシュウス、其青銅の槍凄く、

穗先かなたに貫ぬけば暗黒かれの目を蔽ひ、

倒るる時に地はひゞき介胃彼の上に鳴る。

先鋒並びにヘクトール斯くて後陣に退けば、

雄叫びすごきアカイアの衆は屍體を曳きずりて 505

なほ奮進を續け行く――之を怒れるアポローン、

ぺルガモスより見おろしてトロイア軍に叫び曰ふ、

489 プリアモスとヘカベーとの子後アガメムノーンに殺さる。(XI 104)

『駿馬を御するトロイアの汝ら奮へ、アカイアの

軍に敗る勿、彼らの身岩石ならず、鐵ならず、

肉を劈ざく鋭刄に打たれて堪うるものならず、 510

髮美はしきテチスの子、ペーレーデース戰を

休み、水師の中にして其憤悶を養へり』

かく城壁の高きより怒に燃ゆるアポローン、

こなたアカイア軍勢の弱り見る時、群衆の

間を※り勵ますはトリートゲネーア・アテーネー。 515

515 トリートニス湖上に生る。

アマリンケース生みなせるヂオーレスいま命つきぬ。

鋭き石は踝のほとり右脛を猛に打つ、

イムブラソスの子、ペーロオス、トレーケースの族の長、

アイノスよりし來るもの尖る石もて彼を打つ、

無慘の石に筋二條並びに骨を碎かれし 520

彼は斃れて塵に伏し、天を仰ぎて双の手を

其僚友にさしのべつ、最後の息を引き取れば、

馳せ近きてペーロオス、槍とり直し、しかばねの

腹部のもなか突通す、無慘や臟腑悉く

溢れ地上にひろがりて暗黒彼の目を閉ざす。 525

其ペーロオスを更に又アイトーロスの將トアス

槍を飛ばして打ちたほし、鋭刄肺を貫ぬけり、

トアスつゞきて近寄りて、倒れし敵の胸部より

其大槍を拔き取りつ、更に鋭利の劒をとり、

彼の腹部の中央を切りて生命奪ひ去る。 530

されど甲冑剥ぐを得ず。髮を結べるトレー,ケス

族の同僚長槍を手中に取りて圍み立ち、

身の丈高く勇猛の著名の敵を追ひ拂ふ、

爭ひかねて悄然とトアスうしろに引き返す。

かくて二將は並び伏す、エペーオイ族青銅を 535

鎧へる者と其敵のトレーケースの族の長。

之をめぐりて數多く他も亦共に亡び去る。

幸にして青銅に射られず絶えて創受けず、

戰場中を巡る者――アトリトーネー・アテーネー

其手を取りて導きて猛き飛刄を外らしむる―― 540

かくある者は陣中にありて戰鬪恨むまじ。

此日トロイア、アカイアの衆勢ともに相並び

ともに地上に斃されて等しく塵の中に伏す。

517 II 622.

518 II 844.

526 II 638.

542 最後の二行全く衍文。

第五歌

神女アテーネー勇將ヂオメーデースを勵ます。 兩軍諸將の奮戰。 ヂオメーデース敵將パンダロスを殺し更にアイネーアースを傷け之を救はんとする神女を追ふ。 アプロヂーテー馬をアレースに借りオリュンポスに逃る。 ヂオーネー之を慰めて傷を治す。 アポローン、アイネーアースを救ひてペルガモスに歸る。 アレース、トロイア軍を勵ます。 ヘクトールの進撃。 ヂオメーデース退く。 サルペードーンとトレーポレモスの戰。 神女ヘーレーとアテーネー、オリュンポスを下りアカイア軍を援く。 ヂオメーデース神女に勵まされてアレースを討つて之を傷つく。 アレース逃れてオリュンポスに登り、ヂュウスに訴へて叱らる。 負傷の治療。 二神女また歸り來る。

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