ファウスト

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 森鴎外 (†1922) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

あなたなんぞは格外な恵を受けておいでになる。8845

生涯お逢になった男は、どんな大胆な、思い切った

事をでも、すぐするように、恋い焦がれた人ばかりで、

最初からあのテセウスの様な、立派な姿の、しかも

ヘラクレスに負けぬ力の男が、言い寄りましたね。

ヘレネ

そう。まだ十歳の、靭やかな鹿を、アッチケの8850

アフィドノスの城へ連れて行かれたっけね。

闇の女

それから間もなく、カストル、ポリドイケス兄弟に

救い出されて、選り抜いた人達の争の的になられた。

ヘレネ

だけれど、打ち明けて云えば、アヒルレウスそのままの

パトロクロス様が誰よりも内々好であったっけ。8855

闇の女

それを父上の思召で、あの大胆な航海者で、また

内をも善く治めるメネラスにお妻せなされた。

ヘレネ

娘をお遣なされた上、国の政治もお任せなされた。

その女夫中に生れたのが、ヘルミオネだったっけ。

闇の女

ところが遺されたクレタ島を大胆に争おうとする8860

遠征の留守に、余り美し過ぎた客が来られた。

ヘレネ

それはあの時後家同様であった上、そのために

どれだけの禍を受けたやら。思い出させて貰うまい。

闇の女

自由に生れた、クレタ人のこの婆々が、囚人、奴隷に

せられたのも、あの戦役のお蔭であった。8865

ヘレネ

それでも直にこの城の取締の女中にせられて、

城をも、切角の戦利品をも、お預になったのね。

闇の女

それはあなたが棄て置いて、塔で囲んだイリオスの

都と、そこの歓楽とに、引かれておいでなされたから。

ヘレネ

歓楽なぞとお云でない。この胸の中一ぱいに8870

際限のない苦労が注ぎ込まれたではないか。

闇の女

それでも世間の噂には、あなたは分身の術で、

イリオスにも、エジプトにもおられたとか。

ヘレネ

物狂おしい心の迷を入り乱れさせてくれるな。

今でさえどれが自分か分からずにいるものを。8875

闇の女

そればかりか、運命のあらゆる定に逆って、

早い恋をしたアヒルレウスも、空洞な影の国から

出て来て、お傍に慕い寄ったとか聞きましたが。

ヘレネ

あの方も影、わたくしも影で、逢ったと云うまでの事。

物にも書いてある通に、あれはほんの夢だった。8880

ああ。わたくしはもう消えて、このまま影になりそうだ。

(合唱の群の一半に倒れ掛かる。)

合唱の群

お黙よ、お黙よ。

厭な目附をして、厭な事を言う人ね。

歯が一本しかない、その口から、

そんな恐ろしい禍の門から、8885

ろくな事は出はしない。

情ありげに見える意地悪、

羊の毛皮を著た狼の怒は、

首の三つある狗の※より

わたしには猶恐ろしい。8890

そんな悪い工の、根ざし深く

狙っていた勢が、いつ、どこで、

どうはじけて出るのかと、わたくし共は

おずおずして聞いています。

優しい、十分慰藉になるような、8895

憂き事を忘れさせる、軟い、恵ある詞の代に、

過ぎ去った、総ての事の中から、

善い事よりは悪い事をと、引き出して来て、

今の光を

打ち消すと同時に、8900

ほのかに赫く未来の明さえ、

お前さん、曇らせてしまいますね。

お黙よ、お黙よ。

もうお体から立ち離れそうにしている

お后様の魂を8905

お取止申して、昔から

日の照した姿の中で、一番美しい

あのお姿をそのままお置申したいから。

(ヘレネ恢復してまた群の中央に立つ。)

闇の女

羅に包まれていた時から目を悦ばせて、今は目映いように光って君臨している、

きょうの日の太陽も、浮雲の間から出て貰おう。8910

お前は恵ある目で、世界がお前の前に展開しているのを見ておくれ。

皆はわたしを醜いと云って嘲っても、わたしはこれでも美と云うものを見分けている。

ヘレネ

眩暈のした時わたくしを取り巻いていた寂しい境からよろめきながら出て来たので、

こんなに疲れている体を、暫くはまた休めていたいが、

突然どれ程意外な事に出合うまでも、男らしく心を持って、気を取り直すのが、8915

后の役目で、また人皆の役目であろう。

闇の女

その厳めしさと美しさとを取り帰して、我々の前にお立になった、

あなたのお目を見ますると、何かお指図がありそうな。何のお指図か。さあ、仰ゃって。

ヘレネ

お前達、無益な争に暇を潰した入合せに、支度をおし。

王様のお申付なされた生贄を、急いで用意させておいで。8920

闇の女

鉢に五徳に鋭い鉞、洗う水も燻す火も、何もかも

御殿に用意してあります。何を生贄になさいます。

ヘレネ

それは王様が仰ゃらぬ。

闇の女

仰ゃいませんか。お笑止な。

ヘレネ

何をそう気の毒がるのか。

闇の女

その生贄はあなた様。

ヘレネ

そんならこの身か。

闇の女

それとこの女子達。

合唱の群

まあ、どうしよう。

闇の女

鉞でお切られなさるのです。8925

ヘレネ

気味の悪い。もしやそうかと思っていた。

闇の女

どうも致方がございますまい。

合唱の群

まあ。そしてわたくし共は。

闇の女

御主人は上品なお死をなさる。

だがお前方はあの屋根の搏風を支えた梁に、

黐に著いた鶇のように、並べて吊るされるのだ。

(ヘレネと合唱の群とは、兼て工夫せられたる、立派なる排列をなし、驚き呆れる様にて立ちゐる。)

闇の女

幽霊共。素わが物でもない白昼に、別れると云うに8930

驚いて、木偶のように凝り固まって立っていおる。

人間もお前方と同じ幽霊だが、美しい日の光に、

すなおには暇乞をしともながる。それでも誰一人引き受けて

頼んで最期を緩めて遣り、救って遣るものはない。

人間は皆それを知っている。そのくせ覚悟の好いのは少い。8935

兎に角お前方は助からぬ。どりゃ、為事に掛かろうか。

(フォルキアデス手を打ち鳴らす。それを合図に、戸口に覆面したる侏儒等現れ、以下のフォルキアデスの命令を、一々即時に執行す。)

お前達、陰気な、円まっちい慌者等奴。こっちへ

転がって来い。腹さんざ荒すことが出来るのだ。

金の角附の贄の置卓を、場所に据えて置け。

銀の台の縁に、光るように鉄を置け。8940

気味の悪い黒血の汚を洗うのだから、

水瓶を一ぱいにして置け。どうせ直に

首と胴とは離れるのだが、兎に角立派に括んで、

葬ってだけは貰うはずの生贄殿が、

お后はお后らしく膝をお衝になるように、8945

この五味の上へ、立派に毛氈を布いて置け。

先導の女

お后様は物思に沈んで、片脇に立っておいでになる。

女中達は刈られた牧の草のように萎れている。

女中仲間の年上の、神聖な義務ですから、

大お婆あさん、わたくしがお前に物を言いましょう。8950

この連中は向う見ずに、お前を見損って逆ったが、

お前は賢くて、経験もおありだし、好意も持ってお出のようだ。

どうにか助かる道があるなら言って聞せて下さいな。

闇の女

それは言うのは優しいよ。御自分がお助かりなされ、

附物のお前方も助かるのは、お后の思召次第だ。8955

御決心が、火急な御決心がなくてはならない。

合唱の群

糸を繰るパルチェエの中の一番貴いあなた、一番賢い占女シビルレのあなた。

金の剪刀の股をすぼめて持っていて下さい。そして救の日を知らせて下さい。

踊の時になってから跳ねて、その跡で可哀い

人の傍で休息したい、わたくし共の手足が、8960

もう気味悪く、ぶらぶら吊るし上げられて、浮いているように見えますから。

ヘレネ

あれ等には、まあ、臆病がらせてお置。わたくしは悲しくはあるがこわくはない。

それでも助かる道があるとお云なら、それは嬉しく思ってそうしましょう。

賢い、眼界の広い人には、随分度々不可能だと

思われる事も可能になるものだ。さあ、それをお言。8965

合唱の群

さあ、仰ゃい。早く仰ゃい。飛んだ頸飾で、この頸に

巻き附きそうに威している、厭な、気味の悪い※を、

どうしたら※れられましょう。あらゆる神様達の中の

貴い母神様、レア様が、不便がって下さらぬと、その※に

掛かる時の事が、もう息が切れ、息が窒がるように、早くから感じられています。8970

闇の女

話の長い筋道を、黙って聞いているだけの我慢が、

お前方、お出来かい。色々なわけがあるからね。

合唱の群

我慢が出来ますとも。聞く間は命があります。

闇の女

一体誰でも内にいて、宝の番をしたり、御殿の

壁の割目を繕ったり、雨の漏らぬように屋根を8975

直したりしているものには、生涯運が向いて来る。

それと違って家の閾の神聖な一筋を、軽はずみに

馬鹿にして、うかうかとした足附で、踏み越えて

出て行ったものは、帰って来た時、元の場所が

なくなってはいないでも、何もかも変っているか、8980

事に依ったら、こわれているのを見るでしょう。

ヘレネ

なぜお前そんな知れ切っている言草をお言だい。

話をおしのはずじゃないか。喧嘩の種をお蒔でない。

闇の女

事実の話をするのです。非難なぞはしません。

メネラス王は海賊の業をして、港から港へと、8985

島や岸辺をどこでも戦って行かれる。そして

持って帰られた宝は、御殿の中に寝かしてある。

イリオスの攻撃には長の十年も費された。

凱旋の道中は何年掛かったやら、わたしも知らぬ。兎に角

現にチンダレオスのこの御殿の場所は8990

どうなっていると思われる。それに周囲の御領分は。

ヘレネ

さてもさてもお前は悪口が癖になって、

小言でなくては口が利けなくなっているのかえ。

闇の女

葦の茂った岸を洗って、放飼にしてある鵠を

浮ばせて、広々とここの谷合を流れている、あの8995

オイロタス川が早瀬になって落ちる

タイゲトスの山を背に負って、スパルタの背後を

北へ登って行く、この谷山には久しく住む人も

なかったのに、キムメリオイの闇から出て来て、

谷の奥深く、こっそり徙って来た、大胆な種族が9000

あって、攀じ登られぬ、堅固な砦を築き上げ、

その界隈の土地をも民をも、勝手に虐げている。

ヘレネ

好くそんな事が出来たものね。不思議なようだが。

闇の女

それには時が掛かったのです。二十年位前からでしょう。

ヘレネ

一人の頭を戴いているかえ。賊の仲間は多いかえ。9005

闇の女

賊ではありません。しかし頭は一人いる。わたしの

所へも遣っては来たが、悪口は言いたくない。何でも

取れば取られるのに、自由な贈物を受けるので、

課税ではないと云って、少し取って帰って行った。

ヘレネ

どんな男かえ。

闇の女

悪くはありません。わたしには9010

気に入った。捌けた臆面なしで、グレシアなどに

類のない、教育のある、物分かりの好い男だ。人は

あの種族を野蛮だと云うが、中で誰一人残酷な

事をしたとは思われぬ。イリオス攻撃の時には、

こっちの英雄達も大ぶ人肉を食ったではないか。9015

わたしはあの男の大人物な処に目を附ける。頼に

しても好さそうだ。それに砦が立派だ。御自分の

目でお見なさるが好い。あなた方の御先祖が

ただ何と云う事もなく、一つ目のキクロオプスの

為事のように、自然石を直に自然石の上に9020

倒し掛けて、積み上げた石垣とは違う。あっちでは

何もかも鉛直に、水平に、規則正しく遣ってある。

外から見なさるが好い。鋼鉄を磨いたように平に、

接目が合って、がっしりと、天に聳えている。

登ろうと云っても、その登ろうと云う考からして9025

滑り落ちる。中には大きな御殿の間取がしてあって、

あらゆる種類の、あらゆる用に立つ建物が

それを取り巻いている。大小の柱、大小の迫持、出窓や

出入の廊下が見える。それに紋が所々に

附いている。

合唱の群

紋とは。

闇の女

お前方も見たはずだが、アイアスの9030

楯の上にも巻き附き合った蛇が附いていた。

テエバイを囲んだ七人も、一人々々その楯に

意味の深い形を附けていた。夜の空に照る

月や星もあった。女神もあった。軍人も、梯や、刀や、

松明や、その外平和な都を意地悪く侵そうとして、9035

威しに使う種々の物を、形にして附けていた。

わたしの話す勇士の群も、先祖から伝わった、

そう云う紋を、美しく彩って附けているのだ。

獅子や、鷲や、鳥の爪だの、嘴だの、その外花も、

鳥の羽も、孔雀の尾も、種々の獣の角もある。9040

青、赤、黒や、金、銀の筋を引いたのも見られる。

世界程ある、際限もなく広い座敷々々に、

そう云う紋の附いた楯が沢山並べて懸けてある。

お前方には好い踊場だ。

合唱の群

そして踊る殿方は。

闇の女

この上もないのがいる。金髪の若々しい男の群だ。9045

皆青春の薫がする。土地の人ではお后に余り近く寄った時、

あのパリスだけその薫がした。

ヘレネ

お前は柄にない事を

言い出したね。そして詰まりどうしようと云うの。

闇の女

それはあなたのお詞次第です。真面目にはっきり

好いと仰ゃい。その砦にお連申します。

合唱の群

どうぞ9050

好いと仰ゃって、皆を御一しょにお助下さいまし。

ヘレネ

そう。あのメネラス王がわたくしの体に害を

お加なさる程、残忍でおいでなさるとは思われぬが。

闇の女

あの後家のあなたに、強情に思を掛けて、とうとう

望を遂げたデイフォボスに、奮闘して死んだ9055

パリスの同胞に、類のない体刑を加えたのを、もう

お忘なされたか。鼻や耳を殺ぎ、その上にも創を

附けられた。目も当てられぬ残虐をせられた。

ヘレネ

それは男にせられたのだ。わたくしゆえに。

闇の女

その男ゆえ、あなたにも同じ事をなさるでしょう。9060

美人は共有にはならぬ。それを専有していた人は、

誰とももあいにせぬように、寧打ち砕いてしまう。

(遠くより喇叭聞ゆ。合唱の群震慄す。)

あの喇叭の響が、耳をも臓腑をも、引き裂くと同じように、

昔し持っていて、それを無くして、今持っていぬ物を、

永く忘れぬ男の胸には、嫉妬がしっかりと9065

爪を打ち込んで放さぬものだ。

合唱の群

あれ。あの角の声をお聞でないか。打物の光をお見でないか。

闇の女

王様いつでもお著なされい。相違なく何事もわたしが好んで申し上げる。

合唱の群

そしてわたし達は。

闇の女

分かり切っている。お后の死は目の前に見えている。

お前方の死もその中に含まれている。いや。どうもお前方の助かりようはない。9070

(間。)

ヘレネ

あの、思い切って差当り、わたくしのせねばならぬ

事を考えた。お前は仇なす禍津日だ。それは好く

分かっている。福をも禍に転じまいものではない。

だけれどその砦へだけはお前に附いて行こう。

その外は心得ている。胸の奥に、ひそやかに后が9075

隠している事は、誰にも分からせずに置く

事としよう。さあ、婆々、案内をおし。

合唱の群

まあ、どんなにか喜んで、足早に

わたくし共はまいりましょう。

死をば背後に、9080

そば立つ砦の

越すこと出来ぬ

墻をば前に。

末には遂に

恥知らずの詐の謀に落されたが、9085

一度はお后様をお護申した、あのイリオスの

城のように、その砦がまたお護申してくれれば好い。

(霧ひろごりて、遠景を罩め、前景をも便宜に掩ふ。)

おや、おや、まあ。

皆さん。振り返って御覧なさい。

今まで好い天気だったじゃありませんか。9090

それにオイロタ川の尊い流から、

帯のように霧がゆらめき升って来ます。

葦の緑で飾られた、

美しい岸がもう見えないのね。

楽しげに睦じく泳いでいた、9095

優しいように、傲ったように、自由に、

軽げに滑っていた、あの鵠も、

まあ、もうわたしの目に見えなくなったわ。

でも、おや、

あれの鳴くのが、わたしには聞えてよ。9100

人が死を知らせるのだと云う、

咳枯れた声で遠くに鳴くのが。

約束通命の助かる福の代に、

滅びるのだと云うことを、とうとう

あれがわたし達に知らせるのでなければ好いが。9105

その鵠に似た、長い、美しい、白い頸をした

わたし達と一しょに、あの鵠のお種の

お后様もお滅びなさるのだと云うことを。

まあ、気になること、気になること。

もう周囲の物が9110

残らず霧に包まれてしまった。

お互に顔も見えないじゃないか。

何をしているのでしょう。歩いているのでしょうか。

ちょこちょこ歩きに、地の上を

浮いて走っているようですね。9115

なんにも見えなくって。亡者の案内をなさる

ヘルメス様が先に立っておいでなさりはしないの。

厭な、夜の灰色に明ける、手に障らない物の

一ぱいいる、籠み合っていて、いつまでも空洞な

地獄へ連れ戻そうと、厳しくお指図なさる9120

金のお杖が光ってはいなくって。

おや、急に暗くなったわ。濃い鼠色な、壁のように茶色な

霧が光を見せずに立って逃げて、楽に前の見える目に、石垣の立っているのが見えるわ。

中庭だろうか。深い濠の中だろうか。兎に角

気味の悪い所だわ。皆さん。わたし達は捕虜になってよ。9125

これまでにない、ひどい捕虜になってよ。

(中世式の空想的なる、複雑なる建物に囲繞せられたる、砦の中庭。)

先導の女

気早で痴な、ほんに女子染みた女子達だね。

目先の事に支配せられ、幸不幸や、天気模様に

弄ばれ、幸をも不為合をも、落ち著いてこらえる

事が出来ぬ。仲間同士でお互に、はしたなく9130

抗い合い、邪魔をし合う。やれ嬉しい、やれ

悲しいと、同じ調子に泣いては笑う。まあ、お黙。

お后様がこの場合に、気高いお心から、御自身のため、

お前さん方のために、どうお極下さるか、それをお聞。

ヘレネ

こりゃ。占女ピトニッサ。どこにおいでだ。名はなんと9135

云うか知らぬが、暗いこの砦の穴の中から出ておいで。

もしや、その不思議な首領に、この身の来たのを告げて、

優しく迎える用意をさせに行ったのなら難有い。

そのお方の所へ、早くわたくしを連れておいで。

わたくしはもう休みたい。流離の果が見たい。9140

先導の女

お后様。どこを御覧になっても駄目でございます。

厭な姿が消えました。別に歩いたとも思わずに、

どうした事か、霧の中からここへ来ました、その霧の

中にでも留まりましたか。それともあなたを

丁寧にお迎申させようと、主人を尋ねに参って、9145

多くの物をただ一つに、不思議に合せたような砦の

迷路に迷っておりますのか。いや。あれを御覧

遊ばせ。あちらの上の方に、廊下にも、窓にも門にも、

大勢の家隷共が心得貌にすばしこく、あちこちと

歩き廻っておりまする。鄭重にお客様を9150

歓迎いたす徴ではございますまいか。

合唱の群

ああ。胸が開けたわ。あれ、あちらを御覧。

年の若い、可哀らしい男の群が、行儀好く、

徐かな歩附きで、立派な行列を作って、降りて

来ますのね。どうしたのでしょう。あの若者の立派な9155

群は、誰の指図で、こんなに早くお支度をして、

行列を作って出て来ましたのでしょう。何が一番

感心だと申しましょうか。可哀らしい足取か。

白い額を囲んでいる、波を打った髪の毛か。

丁度桃のように赤くって、そして柔い毛の9160

生えている、あの両方の頬っぺたか。あれに

食い附いて遣りたいわ。だが、丁度そんな事をして、

言うのも厭なこと、口が一ぱい灰になったのに

懲りているから、気味が悪くて出来ないわ。

だが一番美しいのが9165

前へ出て来ますね。

持っているのはなんでしょう。

御座の段に、

氈にお茵、

戸張やら、9170

天蓋のような飾やら。

あれ、もうお后様が迎えられて、美しい

お茵にお就遊ばしたので、

お頭の上に

雲の飾をお戴になったように9175

天蓋がゆらゆらしている。

さあ、お進。

一段一段に

真面目に並ぶのですよ。

お立派、お立派、も一つお立派ね。9180

こんな歓迎なら、祝福しなくては。

(合唱の群の詞にて言ふ事共、次第に施行せらる。)

児童と青年と、長き列をなして降りたる後、ファウスト中世騎士の宮中服を著け、階段の上に現れ、品好く徐に歩み降る。

先導の女

(念を入れてファウストを見る。)

あの感心してお上申して好いお姿、気高い立居、

愛想の好いそぶりを、昔から例のあるように、

神様達があのお方に、仮にちょいとの間お授

なされたのでないなら、男同士の戦争も、美しい9185

女を相手の小迫合も、あのお方のなさる事が

何一つ成功しないと云うことはありますまい。

やはり誉められておいでなさる殿方を、この目で沢山

見ましたが、どの方よりもこのお方がお立派です。

徐かな、真面目な、十分敬意をお表しなされた9190

足取でおいでになる。お后様。あちらへお向遊ばせ。

ファウスト

(縛めたる男を一人随へて歩み寄る。)

この場合にふさわしい、鄭重な御挨拶、尊敬を尽した

歓迎の代に、自分の職責を忘れて、主人の義務までを

果させずにしまいました、この不埒な家隷を

鎖に繋いで、あなたの前へ引いて来ました。9195

さあ、下にいて、この貴婦人に、犯した罪の申立をしろ。

奥方。これは珍らしい、遠目の利く男ですから、

高い望楼の上で、方々を見廻させて置きました。

そこにいて、高い空をも、広い土地をも、鋭く

目守っていて、そこ、ここで何事があるとか、9200

周囲の丘から、この堅固な砦のある谷へ掛けて、

どう云うものが通るとか云うことを、それが

牧畜の群であろうが、また軍隊であろうが、

見逃してはならぬのです。そして人民なら

保護し、敵兵なら打ち散らします。それが9205

なんと云う懈でしょう。あなたがお越になる。

それをこの男は知らずにいる。これ程の貴い

お客を、義務として鄭重にお迎申すことが、

出来なくなる。横著で一命を失った男ですから、

もう疾っくに屍を我血の中に横えていて好い9210

奴です。しかしあなたお一人の思召で、お罰し

なさるとも、お赦なさるともして戴きましょう。

ヘレネ

どうもお察し申す所が、わたくしをお験なさる

思召かと存じますが、指図をさせる、裁判を

させると仰ゃるのは、まあ大した権力をこの身に9215

お貸なさいますことね。さようなら裁判官の

第一の務ゆえ、被告の申立を聞きましょう。さあ、お言。

望楼守リンケウス

膝を衝かせて下さい。拝ませて下さい。

死なせて下さい。生きさせて下さい。

神のお授けなされたこの貴婦人に、9220

わたくしはもう身を委ねています。

朝の楽を待って、日の歩はどうかと、

東の空を見ていますと、

不思議にも突然

日が南から升って来ました。9225

谷を見ず、岡を見ず、

天地の遠い境を見ず、

わたくしは無二のお姿を拝もうと、

その方ばかり見ていました。

リンクスと云う獣が高い木の上にいるような9230

眼力をわたくしは授かっていましたのに、

今は深い眠の暗い夢を醒まして見ようと

骨を折るような気がして来ました。

どうにも見当が附かなくなりました。

甍か。塔か。鎖した門か。9235

霧が立つ。霧が消える。

こんな女神がお出になる。

目と胸とをお姿の方へ向けて、

優しい光を吸い込みました。

目映いお美しさで9240

この目をすっかりおくらましなさいました。

わたくしは番人の務を忘れました。

吹かねばならぬ角の笛をすっかり忘れました。

思召通に、わたくしを殺そうとなさいまし。

お美しさがあらゆる怒をなだめてしまいます。9245

ヘレネ

わたくしの身から起った罪を、わたくしが罰することは

出来ません。まあ、どうしよう。あらゆる男の心を

惑わして、その身をも、どんな大切な物をも護って

いられぬようにするとは、なんと云う残酷な運が

わたくしに附き纏っていることだろう。神や、半神や、9250

英雄や、悪魔までが、今勾引すかと思えば、また騙して

堕落させ、果し合い、あちこちへ流離わせ、迷の衢を

どことなく引き廻して歩かせ、一度ならず、

二度も、三度も、四度までも世を乱し、禍の数々を

起させるようになるとは。どうぞその善い方を9255

あちらへ連れて行って、解放してお遣下さい。

神に欺かれた人に恥辱は与えられませぬ。

ファウスト

わたくしはこの場で、善くお射中になる方をお見上

申すと同時に、射中てられたものを見て、驚く外

ありませぬ。弦を離れた矢がこの男を傷けた、その弓を9260

目のあたりに見ます。続々に放たれる矢は悉く

わたくしに中ります。この砦や間取一面に、羽を

著けた矢が風を切って飛んでいます。これでは

どうなるでしょう。どんな忠義な家隷をも、あなたが

突然叛かせておしまいになる。城は危くなります。9265

どうやら麾下の軍隊が、お勝になってお負に

なることのないあなたに、もう服従しそうです。

これではわたくしは総ての物を捧げて、迷った

臣下を引き連れて、あなたに降る外ありません。

この砦にお這入になるや否や、城主の席も総ての9270

物もお手にお入になったあなたを、任意に、誠実に、

おみ足の下に伏して、主君と仰がせて下さいまし。

望楼守(手に箱を持ち、同じく箱を担へる男等を随へて登場。)

お后様。また御前に戻って参りました。一目お見

下さるようにと、おねだり申した金持も、

あなたにお逢申すや否や、自分は同時に乞食の9275

貧しさと、王侯の富とを得たと感ずるでしょう。

わたくしは今までなんでしたか、そして今は

なんでしょう。何を思って好いやら、して好いやら。

目がどれ程鋭くたって、それがなんになりましょう。

御前からは、その稲妻も挑ね反されます。9280

わたくし共は東から遣って来ました。

それは西の国の災難でした。

その列の首はその列の尾を知らぬ、

長い、幅の広い民の群でした。

先の一人は倒れても、二人目が踏み止まる。9285

三人目の槍が役に立つ。

殺された千人は気に留めませむ。

一人々々百倍強くなっています。

押し合って進んでまいりました。

その場所々々を我物にしてまいりました。9290

しかしきょうわたくしが厳しい指図をする土地で、

あすは他人が盗をします。

わたくし共は見廻しました。忙しい見ようです。

一番美しい女を撈うものもある。

足の丈夫な牡牛を盗むものもある。9295

馬は残らず取って来ました。

わたくしだけは、まだ人の見たことのない、

一番珍しい品物を捜しました。

外で人が持っているような物は、

わたくしは枯草同様に思いました。9300

どんな嚢の中も見え、

どんな箪笥も透き通らせる鋭い目の

見る方へ附いて行って、

宝をわたくしは捜し当てました。

そして金を堆く手に入れました。9305

しかし一番美しいのが宝石です。

あなたのお胸に青く照るには、

中で緑柱玉が宜しゅうございましょう。

海の底から出た一滴の卵形の真珠を、

お耳とお口との間にゆら附かせましょう。9310

お頬の紅にけおされる紅宝玉は

お気に召さぬかも知れません。

そう云う稀な宝の限を、わたくしは

ここで御前へ持って出ます。

幾度かの血腥い戦争の獲を9315

おみ足の下へ供えるのでございます。

こんなに沢山箱の数を持ち出しましたが、

鉄の箱はまだこれより多うございます。

あなたにお附申すことが出来るなら、

お宝庫を一ぱいにいたして上げます。9320

あなたがお座にお就になったばかりで、

智でも、富でも、勢でも、

類のないお姿の前へ、

もう項を屈め、腰を曲げて参りますから。

これは皆わたくしが我物にして、大事に護っていましたが、9325

それが離れてお手許へ参ります。

貴く、珍しく、結構な物だと存じましたのが、

もうなんでもなくなって見えまする。

これまで持っていた物が消え失せて、

刈られて枯れた草のようになりました。9330

どうぞ晴れやかなお目で一目御覧になって、

元の価のあるものになさって下さいまし。

ファウスト

それはお前が大胆に働いて儲けた重荷だが、

そっちへ退けろ。お叱はあるまいが、お褒は

戴かれぬ。もうこの砦の懐にあるだけの物は、皆この9335

お方の物だから、別に出して上げるには及ばぬ。

あっちへ行って、宝のあるだけを、順序好く

積み上げて、ついに見られぬ奢の優れた見物を

拵えろ。蔵の円天井を晴れた空のように赫かせて、

生きていぬ物の生活の天国を造れ。そして9340

お歩出しなさる時、急いでお先に立って、

花模様の絨段を敷き続いで行って、

柔い床がおみ足に障るように、この神々しい

お方がまぶしくお思なさらぬ程度で、しかも

此上のない耀きがお目に触れるようにしてくれ。9345

望楼守

殿様のお言附になったのはやさしい為事だ。

家隷がする段になると、遊半分に出来る。

あのお美しい方の御威勢で

性命財産が支配せられているのだから。

もう全軍がおとなしくなって、9350

刃が皆鈍って来た。

あのお美しい姿の前では、

日の光も濁って冷えて来る。

目で拝むものが豊かなので、その外の物は

何もかも虚になって、無くなってしまう。9355

(退場。)

ヘレネ(ファウストに。)

わたくしお話申したい事がありますから、この傍へ

おいで下さいまし。あいた場所がお待申しています。

そうして下さると、わたくしの地位も固まりましょう。

ファウスト

先ず跪かせて、身をお委申す心持を述べるのを

お許下さい。そしてお傍へお引上なさる9360

そのお手に、接吻をおさせ下さい。わたくしを

境界の知れぬお国の共治者としてお認下さい。

またあなたのために、崇拝者と従者と番人とを

一人で兼ねているものだとお思下さい。

ヘレネ

わたくしは色々な不思議を見聞いたして、驚いて9365

いますのでございます。そして伺いたい事が沢山

ございます。それはそうと、只今の男の詞が

奇妙で、そして優しく聞えるのはなぜでございましょう。

それを最初にお教なすって下さいまし。

声と声とが譲り合って、詞が一つ耳に入ると、9370

次に外の詞が来て、先のをいたわっていましたが。

ファウスト

臣下の物の言様があなたのお気に入るようでは、

歌をお聞になったら、きっとお喜なさるでしょう。

耳をも心をも底から楽ませる歌ですよ。

しかし直に稽古して御覧なさるが一番確かです。9375

掛合の詞があれを誘い出します。呼び出します。

ヘレネ

あんなに美しく話されましょう、どうしたら。

ファウスト

やさしい事です。ただ出れば好い、心から。

そしてもし胸に係恋が溢れると、

顧みて問います、楽を誰か

ヘレネ

共に享けると。9380

ファウスト

そこで心の見る所は、過去未来の縁を絶ち、

現在ばかりがなんでしょう。

ヘレネ

それが世の幸。

ファウスト

さよう。宝です。利益です。財産、手形です。さて

奥書は誰がしましょう。

ヘレネ

それはこの我手。

合唱の群

砦の主に奥方様が9385

お優しくなさりょうとも、

誰が御無理と存じましょう。

皆さん打ち明けて仰ゃい。

あのイリオスが恥かしい滅びようをして、

わたくし共が恐れ歎いて、迷路を9390

辿りはじめてから、度々なって

いたように、身は今も捕虜になっています。

男に可哀がられ附けている女と云うものは、

選嫌はしませんが、

男を味って見る目がありますわ。9395

ですから、金色の※髪をした牧童にでも、

どうかして遣って来た、黒い、剛い毛の

ファウヌスにでも、時と場合で、

ふっくりした、こっちの手足を

すっかり自由にさせて遣るものですわ。9400

お二人が段々摩り寄っていらっしゃって、

軟かい物を詰めた、お立派な

お椅子の上で、

もうお肩とお肩、お膝とお膝が障るように、

互におもたれ掛かりなすって、9405

お手をお絡合なすって、お体をゆすっていらっしゃる。

どんな内証のお楽をも、

お上はお控なさらずに、

みんなの目の前で

思い切ってお見せ附け遊ばすのね。9410

ヘレネ

わたくしは自分がひどく遠くにいるようにも、ひどく近くにいるようにも

思われますが、それでも「ここにいます、ここに」と心から申したいのでございますのね。

ファウスト

わたくしは息が出来ない位で、体は慄えて、詞は支えます。

時も所も消えてしまって、夢ではないかと思っています。

ヘレネ

わたくしは色香が闌れたようにも思われ、また元の処女に戻ったようにも思われて、9415

自分が糸で、知らないあなたと、離れぬように織り交ぜられたような気がしますわ。

ファウスト

またとないこの出逢を、そう穿ってお考えでない。

存在は義務だ。それが刹那の間でも。

闇の女

(劇しき態度にて登場。)

恋のいろはのお稽古を、たんとなさるが好い。

ふざけながら、恋の理窟を御研究なさるが好い。9420

理窟を捏ねながら、懶けて恋をお為続けなさるが好い。

だがもうそんな暇はありませんよ。

天気模様の変ったのに気が附かぬのですか。

せめてあの喇叭の音だけでも聞くが好い。

災難はもう遠くはない。9425

メネラス王が大軍を起して、

お前方を責めに来るのだ。

手痛い軍の支度をするが好い。

その女を手に入れた報には、

今に勝ち誇った兵卒共に取巻かれて、9430

あのデイフォボスのように切りさいなまれる。

廉物のおきゃん達が最初に吊るし上げられて、

跡にはすぐにその女を、贄卓の前で

研ぎ澄ました鉞が待ち受けているのだ。

ファウスト

不遠慮な邪魔が、うるさく押し掛けて来おる。9435

非常な事にでも、無意味な慌しさは嫌だ。

どんな美しい使者をでも、悪い便は醜く見せる。

それにお前は一番醜い女で、悪い便ばかりを好んで

持って来おる。しかしこん度はお前無駄をした。

お前は空の息で空気をゆするが好い。今なんの9440

危険があろう。あってもそれは徒な威しだ。

(信号喇叭、塔の上にての爆音、種々の金笛吹奏、軍楽、大軍の行進通過。)

いや。すぐにここへ、好く一致した勇士の群を

呼び集めて、あなたに見せます。

婦人を堅固に保護することの出来る男でなくては、

婦人に愛して貰う権利はない。9445

お前方、北方の青春の花。

お前方、東方の華やかな武力。

お前方に勝利を得させるに違ない、

久しく抑えた、静かな怒を持っている人々。

これまで国々を破った、9450

鋼鉄に身を堅めて、鋼鉄の中を抜けて来た人々。

お前方が歩き出すと、大地が震う。

お前方が歩いて行った跡には轟が残る。

ピロスから己達は上陸した。

老将ネストルはもういなかった。9455

拘束するに及ばぬこの軍が

幾多の小王国を打ち破って通った。

さあ、すぐにこの城壁の下から、

メネラス王を海へ押し戻せ。

海上をさまよい歩いて、覘ったり盗んだりするが好い。9460

それが王の好な業だ、天職だ。

隊長達。己がお前方に会釈する。

お前方を指揮するのはスパルタの后だ。

山や谷を略取して后のお前に献じてくれ。

国内の所得はお前方の所得にする。9465

ゲルマアネの槍使。

お前は堡塁に拠って、コリントスの湾を守れ。

百の谷があると云うアハイアは、

ゴオテの勇士、お前に防がせる。

フランケの自由な軍はエリスへ進め。9470

ザックセの土着の兵にメッセネは任せる。

北方のノルマネは海上を掃蕩して、

アルゴリスの港を手広に経営しろ。

さて各そこに土着したら、外へ向けて

力を展べ威を赫かすことが出来よう。9475

しかしスパルタは后の年来の居城だから、

お前方の領地の上に据えて置く。

何不足のない国々で、各福を受けるのを、

后は上で御覧になる。

許可や権利や光栄を、安じてお前方は9480

后のお膝下へ受けに出ることが出来るのだ。

(ファウスト座を降る。諸将囲繞して、詳細なる指揮命令を受く。)

合唱の群

一番美しいものを手にお入なさる方は、

何より武勇を先になすって、気を利かせて

兵器を調えてお置なさるが好い。

この世で一番優れたものを、いかにも旨く9485

取り入って手にお入なすったでしょうが、

落ち著いてそれを持っておいでなさることは出来ません。

横著者がずるずると諂い寄ることもあり、

盗人が大胆に奪って行くこともあります。

その御用心をなさらなくてはなりません。9490

ちょっと合図をなさると、強い人達が

寄って来てお指図を聴くように、

こんなに勇ましく、賢く、人を手懐けて

お置になったから、外の方々よりここの殿様は

優れていらっしゃると存じて、お誉申します。9495

皆さんはお指図通お働なさるでしょう。

そうしたら、御自分のお為にもなって、

殿様も御満足に思召しましょう。

御名誉はどちらにもおありになりましょう。

なぜと申しますと、こんなお強い持主の物を9500

誰が横取をいたすことが出来ましょう。

お后はあなたの物です。そういたして上げたく存じます。

わたくし共と一しょに、内は堅固な城壁で守り、

外は強い軍隊で護って下さるから、

猶更いつまでもそうしてお上申したいのです。9505

ファウスト

誰にも豊かな国を遣るのだから、

この人々に約束した褒美は

立派なものだ。もうそれぞれ立たせよう。

己達は真ん中にいて守っている。

エウロッパの山脈の端に、狭い丘陵の9510

帯で繋がっている半島よ。あの人々は競って、

八方から波の打ち寄せる所で、

お前を守っていてくれるのだ。

早くから后を仰ぎ見ていたこの国は、

あらゆる国を照らす日の下で、9515

今后の領地になって、どの人種の

いる所も、永遠に幸福を享けるが好い。

エウロタ川の葦の戦の中で、

卵の殻を破って、光りながら出て来て、

貴い母や兄弟を目映がらせた昔の事を、9520

后は思われるが好い。

あなたの方にばかり向いて、この国は

栄の限を見せています。

世界中があなたの物になっていても、

取り分けて本国をお愛しなさい。9525

山々の棘々しい巓が、まだ日の冷たい矢を

背に受けてこらえていても、

もう岩々がどこやら緑掛かった色を見せて、

山羊が意地きたなく貧しい餌を※っている。

泉は涌く。小川は集まって流れ落ちる。9530

もう谷や半腹や平地が青くなって来る。

地面が断続して、百の岡をなしている上を、

叢雲が広がって渡るのを御覧なさい。

角のある牛が分かれ分かれに、足取を用心して

断崖をさして歩いて行く。9535

しかし岩壁が穹窿になって、百の洞を作っているから、

どの獣の宿をもすることが出来る。

それをあそこでパンの神が護っている。

そして茂った谷の濡れて爽かな所に、

生の少女のナペアイが住んでいる。また狭く並んだ木々が9540

高みにあこがれて枝を上へ伸ばしている。

ここは古い林だ。※の木は強く立って、

剛情らしく枝と枝とを交えている。

甘い汁を孕んだ、優しい槭はすらりと立って、

枝葉の重荷を弄んでいる。9545

静かな木蔭には、母親らしく、

生温い乳が涌いて、人や羊の子の飲物になる。

平地の人の食料になる、熟した果も遠くはない。

そして切り込んだ木の幹からは蜜が滴る。

ここでは健康が遺伝する。9550

頬も脣も晴やかになる。

人が皆その居所々々で不死になる。

皆満足して健かでいる。

そこで優しい子が浄い日に育って、

人の父たる力を得る。9555

わたし共は見て驚いて、

いつまでも人か神かの問を決し兼ねる。

それだからアポルロンは牧者の姿でいた。

牧者の美しいのがあれに似ていた。

なぜと云うに、自然が浄い境を領していると、9560

あらゆる世界と世界とが交感する。

(ヘレネの傍に坐す。)

こんな風にわたしは成功した、あなたも成功した。

もう過去なんぞは背後へ投げ棄てましょう。

第一の世界に属しているのは、あなただけだから、

最高の神の生ませたものだとお感じなさい。9565

堅固な砦があなたを閉じ籠めもしない。

スパルタに隣るアルカジアが、永遠の若さで、

楽の多い世を久しく送らせようと、

わたし共二人を引き留めていもしない。

祝福のある土地に住むように誘われて、9570

あなたは一番晴やかな運命の中に逃げ込まれた。

王者の座がそのまま生きた草木の家になる。

アルカジアめく幸福を二人は享けましょう。

(場所全く一変す。並びたる数箇の岩室に倚せ掛け、生きたる草木もて数軒の家を編み成せり。家は鎖されたり。周囲に岩石の断崖ありて、その辺まで緑の木立の蔭を成せるを見る。ファウストとヘレネとは見えず。合唱の群分かれ/\になりて、あたりに眠れり。)

闇の女

女子供がもうどの位寝ているか、わたしは知らぬ。

わたしがはっきり目で見た事を、夢にでも見たか、9575

それもわたしには分からぬ。どれ起して遣ろう。

小娘共びっくりするだろう。信ずることの出来る奇蹟の解決を、

やっとの事で見ようと思って、

下の方に据わって待っている鬚男のお前方も同様だろう。

さあ、出ろ、出ろ。髪をゆすって、9580

目をはっきりさせろ。瞬なんぞしないで聴け。

合唱の群

さあ、お話、お話。こんな岩なんぞ見ているのは退屈だから、

どんな不思議があったか言ってお聞せ。

聞いても本当に出来ないような事を聞くのが一番好だわ。

闇の女

寐て起きて目をこすりこすり、もう退屈がるのか。9585

そんなら聴け。この洞、この岩屋、この庵には、田舎に隠れた

恋中の二人のように、殿様と奥様とが

かくまわれていなさるのだ。

合唱の群

あの、この中に。

闇の女

世間の附合を絶ってしまって、わたし一人にそっと奉公させていなさる。

お傍で大事にしては下さったのだが、ああした中の腹心に似合わしく、9590

わたしははずしているようにした。あちこち歩いて、

薬の功能を知っているから、木の皮や根の苔などを

採って来る。その留守は差向さ。

合唱の群

お前さんの話を聞くと、あそこの中に森や野原や川や湖水があって、

別な世界でも出来ているようだわ。飛んだ造話をするのね。9595

闇の女

お前方は分からないから、言って聞せるが、あそこはまだ窮めたことのない深い所さ。

奥には座敷が座敷に続き、庭が庭に続いている。それをある時、物を案じながら見て廻った。

すると出し抜けに笑声がして、明座敷に谺響を起していたのだ。

ふいとそっちを見ると、男の子が一人奥様の膝から殿様の膝へ飛び附いている。

それからまた逆に殿様から奥様へ飛び附く。甘やかす、ふざけさせる、たわいなく9600

可哀がって揶揄う、笑談に声を立てる、喜んで叫ぶ、それが交る交るだから、わたしは

ぼうっとした。羽のないジェニウスのような裸の子さ。ファウヌスに似ていて、

獣らしくはない。それが堅い床へ飛び降りると、床がそれを弾き返して、

虚空に高く飛び上がらせる。二度三度と

弾き返しているうちに、その子の頭が高い円天井に9605

障るじゃないか。心配げに奥様がそう云うのさ。

「飛び上がるなら、何遍でも、勝手にお飛び上がり。

だが、飛んで逃げるのじゃないよ。空を飛んで歩くことは止めて置くよ」と云うのさ。

殿様も傍から意見している。「お前をそんなに飛び上がらせる、その弾く力は地にあるのだ。

地に生れた神アンテウスのように、お前の足の親指の尖が地に障ると、9610

すぐにお前に力が附くのだ」と云っているのさ。

そんな風で、鞠が敲かれて飛ぶように、ここの岩の

並んでいる上を、こっちの岩角からあっちの岩角へと、あちこち飛び廻る。

そのうち出し抜けに荒々しい谷の穴へ落ちて見えなくなった。

もう駄目らしかったのさ。奥様は泣き出す。殿様は機嫌を取る。9615

わたしは気にしながら、肩をゆすぶっていたのさ。ところがその子がまたどんな様子をして

出ただろう。その谷に宝でも埋まっているのか。

花模様の縞のある衣裳を立派に著て出て来た。

臂からは総がぶらぶら垂れている。胸の辺には紐がひらひらしている。

手には金のリラを持っている。丸で小さいフォイボスの神のように、9620

元気好く、谷の上に覗いている岩の角へ出ている。こっちは皆あっけに取られる。

奥様と殿様とは、嬉しさの余に、交る交る抱附競をする。

無理はない。その子の頭の上の光りようと云ったらない。

金の飾が光るのか。非常に強い霊の力が※になって燃え立つのか。容易には分からない。

そんな風で、まだ子供だのに、永遠な旋律が体の9625

節々を循っている、あらゆる美なるものの未来の

製作者だと云うことを、もう知らせて、その振を見せて立ち振舞っている。

今にお前方その様子を見たり聞いたりして、何もかも感心してしまうだろう。

合唱の群

クレタ生れの小母さん。

それをあなた奇蹟だと云うの。9630

あなたこれまで教になる詩なんぞを

聞いたことがないのでしょう。

イオニアやヘルラスに、

ずっと昔の先祖の代からある、

神や英雄の沢山の話を9635

聞いたことがないのでしょう。

今頃出来る事は

なんでも皆

美しかった先祖の代の

悲しい名残ですわ。9640

あのマヤの子の事を歌った、

真実よりも信じたい、

可哀らしい※に比べると、

あなたの話はなんでもないわ。

その子は可哀らしくて丈夫でも、9645

やっと生れたばかりの赤さんなの。

それを蔭言の好な保姆さん達が

智慧のない空頼に、

綺麗な、軟かい毛織の襁褓にくるんで、

結構な上著を巻き附けていました。9650

ところが、その横著赤さんが、

大事に押さえ附けていた、

紫の蝉脱の殻を、平気でその場に残して置いて、

まだどんな形にもなるような、

しかも弾力のある手足を、9655

もう横著に、可哀らしく、しっかりと

抜き出しましたの。丁度あの育ち上がった蝶々が、

窮屈な蛹の中から、すばやく羽を広げて

脱け出して、遊半分、大胆に

日の一ぱいにさしている、※気の中を9660

飛び廻るようでしたの。

そんな風に、この横著赤さんは

ひどくすばやくて、盗坊や詐偽師や、

その外あらゆる慾張る人間に、

いつまでも恵を垂れる、悪い神様になりましたの。9665

赤さんは間もなくそれを、

ひどくすばやい手際で見せ附けましたの。

海の主の神様の三股をちょいと取るかと思うと、

軍の神のアレエス様のお剣をさえ、

旨く鞘から抜き取ります。9670

日の神のフォイボス様の弓矢も、

燃える火の神のヘファイストス様のやっとこも取る。

あの火に遠慮しなかったら、お父う様チェウスの

稲妻さえ取り兼ねなかったのです。

でもとうとう恋の神のエロス様とは角力を取って、9675

小股をすくって勝ちました。それから

キプリアの女神様がお可哀がりになると、

その隙にお胸の帯を取りました。

浄き旋律の、愛らしき絃の声、洞の中より聞ゆ。一同耳を傾け、暫くにして深く感動せしものゝ如し。これより下に記せる「間」の処まで、総て音の揃ひたる奏楽を伴はしむ。

闇の女

あの可哀らしい声をお聞。そして

昔話なんぞはさっさと忘れておしまい。9680

そんな古い神様の連中は

打ち遣ってお置。時代遅だ。

誰ももうそんな事が分かってくれるものはないのだ。

我々はもっと高い税金を払わせられているのだ。

人の胸に徹えさせるには、自然の胸から9685

出て来なくてはならぬと云うのが、その税金だ。

(岩の方へ退く。)

合唱の群

こわいおばさん。お前さんもこの媚びるような

物の音がお好なの。わたし達は、

今病気が直ったようで、なんだか好い心持で、

そして涙脆くなって来ましたわ。9690

心の中が夜が明けたようになって、

世界中にない事を、わたし達が

自分の胸の中で見附けるのだから、

日の光なぞは消えさせて下さい。

ヘレネ。ファウスト。上に記しし衣裳を著けたるエウフォリオン。並に登場。

童子エウフォリオン

わたしの歌う子供の歌をお聞になると、9695

それがすぐにあなた方のお慰になりましょう。

わたしが調子に乗って跳ねるのを御覧になると、

あなた方のお胸も跳りましょう。

ヘレネ

人間らしく為合にしてくれるだけには、

愛は上品な二人を近寄らせるのですが、9700

神のような喜をさせるには

結構な三人組を拵えますのね。

ファウスト

一切解決がこれで附いたのだ。

己はお前の物で、お前は己の物だ。

こうして縁が繋がれている。9705

これより外に、どうもなりようはない。

合唱の群

年来思い合っておいでになったお心が、

この坊っちゃんの柔かい赫きになって

御夫婦の上に集っています。このお三人の

一組をお見上げ申すと、難有いようですねえ。9710

童子

さあ、わたしを飛ばせて下さい。

さあ、わたしを跳ねさせて下さい。

どんな高い所の空気の中へも

升って行くのが

わたしの望です。9715

もうその望に掴まえられています。

ファウスト

好い加減にしろ。好い加減にしろ。

おっこちるとか、怪我をするとか

云うような事に出合って、

大事な息子が己達を9720

台なしにしないように、

余り思い切った事をしないでくれ。

童子

もうこれより長く地の上に

止まっていたくはありません。

わたしの手や、9725

わたしの髪や、

わたしの著物を放して下さい。

皆わたしの物じゃありませんか。

ヘレネ

自分が誰の物だか、

考えておくれ、考えておくれ。9730

やっと美しく揃った

わたしの物、お前の物、あの人の物を

お前がこわしたら、わたし共がどんなにか

歎くだろうと云うことを、考えておくれ。

合唱の群

なんだか、このお三人の組はもう程なく9735

ちりぢりにおなりなさりそうですね。

ヘレネとファウストと

どうぞ二親に免じて、

余り活溌過ぎる、

劇しい望を

控えてくれ、控えてくれ。9740

そして静かにおとなしく

この土地を飾っていてくれ。

童子

そんならあなた方の思召ですから

我慢していましょうね。

(合唱の群を穿ちて過ぎ、舞踏に誘ふ。)

この機嫌の好い人達の周囲を9745

廻って跳ねるのは、よほど楽です。

節はこれで好いの。

足取もこれで好いの。

ヘレネ

ああ、それは好い思附だよ。

その美しい女達に9750

面白い踊をさせてお遣。

ファウスト

もうこんな事は早く済ませてくれれば好い。

こんな目くらがしのような事は

どうも己には面白くない。

(エウフォリオンと合唱の群と、歌ひ舞ひつゝ、種々の形に入り組みて働く。)

合唱の群

そんなにして両手を9755

お振なさいますと、

その波を打った髪をゆすって

お光らせなさいますと、

その足でそんなに軽く地を踏んで

お歩になりますと、9760

そして折々手足を

お入れ違わせなさいますと、

可哀らしい坊っちゃん、

それで思召はもう※いました。

わたくし達は皆心から9765

あなたをお慕申します。

(間。)

童子

お前達は皆足の軽い

鹿どもだね。

さあ、もっと傍で

新しい遊をしよう。9770

わたしが猟人だよ。

お前達は獣だよ。

合唱の群

わたくし達を掴まえようと思召すなら、

余り早くお駆なさらないが好いわ。

可哀らしい坊っちゃん。9775

どうせわたくし共は皆

しまいにはあなたに抱き附きたいと

思っているのでございますから。

童子

森の中へ往こう。

木や石のある所へ往こう。9780

造做なく手に入るものには

気が向かない。

無理に手に入れたものが

ひどく嬉しいのだ。

ヘレネとファウストと

なんと云う気軽な事だろう。なんと云う9785

騒ぎようだろう。好い加減にはさせられそうもない。

まるで角の笛でも吹くように、

谷にも森にも響き渡っている。

なんと云うふざけようだろう。叫びようだろう。

合唱の群

(一人々々急ぎ登場。)

わたくし達を馬鹿にして、恥を掻かせて、9790

前を通り抜けておしまいなすったのね。

みんなの中で一番気の荒いのを

お掴まえなすったのね。

童子

(一少女を抱き登場。)

この強情な小さい奴を連れて行って、

無理にでも遊ぶ積だ。9795

己の楽に、己の愉快に、

厭がる胸を抱き寄せて、

厭がる口にキスをして、

力と意地とを見せたいのだ。

娘

お放しよ。こんな体の肌の下にも、9800

心の力も意地もあってよ。

わたしの意地だって、あなたのと同じ事で、

そうわけもなく挫かれはしません。

あなたわたしが狭鍔詰まっていると思って、

そのお腕を大層たよりになさることね。9805

しっかり掴まえていらっしゃい。わたし笑談に

お馬鹿さんに火傷をさせて上げてよ。

(火になりて燃えつゝ天に升る。)

わたしに附いて高い空にお上りなさい。

わたしに附いて窮屈な墓へお這入なさい。

消えてしまった的をお掴まえなさい。9810

童子

(身辺に残れる火を払ふ。)

ここは森の木立の間に

岩が畳り合っているばかりだ。

こんな狭い所が己になんになろう。

己は若くて元気じゃないか。

風がざわざわ鳴っている。9815

波がどうどう響いている。

どちらも遠く聞えている。

あれが近い所なら好い。

(岩を踏みて、次第に高き所へ跳り登る。)

ヘレネ、ファウスト及合唱の群

シャンミイの獣の真似でもするのか。

おっこちはしないかと思って、ぞっとする。9820

童子

次第に高い所へ登らなくては。

次第に遠い所を見なくては。

これで自分のいる所が分かった。

地にも親しく、海にも親しい、

これは島の真ん中だ。9825

ペロップスの国の真ん中だ。

合唱の群

この山と森との中におとなしく

暮そうとはお思なさらないの。

今に道端や岡の上にある

葡萄の実だの、無花果だの、9830

金色の林檎だのを

採って上げます。

ねえ、こんな結構な国に

結構にしていらっしゃいましな。

童子

お前方は平和の夢を見ているのか。9835

夢を見ていたい人は見ているが好い。

戦争。これが合図の詞だ。

戦勝。これが続いて響く音だ。

合唱の群

誰でも平和の世にいて、

昔の戦争の日に戻りたがる人は、9840

望の幸に

暇乞するのですわ。

童子

危険の中から危険の中へ、

自由に、どこまでも大胆に、

自分の血を吝まないように、9845

この国が生み附けた人々だ。

この抑えることの出来ない人々には、

高尚な志が授けてある。

闘う人々には

総て福利が与えてある。9850

合唱の群

上を向いて御覧なさい。あんな高い所へお登

なすってよ。それでも小さくはお見えなさらない。

武装しておいでなさるような、軍にお勝なさるような、

鉄や刃金でお体が出来ているような御様子ね。

童子

掩堡もなければ、墻壁もない。9855

一人々々自信の力で遣って行く。

物にこたえる堅塁は

金鉄のような男児の胸だ。

人に侵されずに生きていようと思うなら、

早く軽装して戦場に出ろ。9860

女は娘子軍になるが好い。

小さい子までが皆勇士になるが好い。

合唱の群

あれは神聖な詩だわ。

天へ升って行くが好い。

あれは一番美しい星だわ。9865

次第に遠く遠く光って行くが好い。

どうしたってその声がわたくし達の所へ

届かないことはない。どうしたって聞えてよ。

聞くのが好だわ。

童子

なに。己は子供になって出て来はしない。9870

武装してこの青年は来たのだ。

強い、自由な、大胆な人達に交って、

胸ではもう手柄をしている。

さあ、行こう。

ああ、あそこに9875

名誉の衢が開いている。

ヘレネとファウストと

まだこの世に、やっと生れて来たばかりで、

晴やかな幾日かに、やっと出合ったばかりで、

眩暈のするような階段を踏んで、

お前は憂の多い境へあこがれて行くか。9880

己達の事を

なんとも思わぬか。

この可哀らしい家庭が夢であったか。

童子

あなた方あの海の上の雷の音をお聞でしょう。

そこの谷々に谺響しています。9885

塵の中に、波の上に、兵と兵とが出会って、

迫り合って苦戦するのです。

そして死は

掟です。

それはそうしたものなのです。9890

ヘレネ、ファウスト及合唱の群

恐ろしい事。気味の悪い事。

お前には死が掟かい。

童子

わたしに遠くから見ていられましょうか。

いやいや。往って艱難辛苦を倶にします。

上の人々

暴虎馮河だ。9895

死ぬるが命か。

童子

でも行かなくては。

もうわたしの羽が広がります。

あちらへです。行かなくては。行かなくては。

飛びますから、悪く思わないで下さい。9900

(エウフォリオン空に飛び騰る。刹那の間衣裳の身を空中に支ふるを見る。頭よりは光を放てり。背後には光の尾を曳けり。)

合唱の群

イカルスですね。イカルスですね。

まあ、おいたわしい事。

(美少年ありて、両親の脚の下に墜つ。この屍はその人の姿かと疑はる。されどその形骸は直ちに消え失せ、毫光は彗星の如く天に升り去り、跡に衣と袍とリラの琴と残れり。)

ヘレネとファウストと

ああ、喜の跡から

すぐに恐ろしい憂が来た。

童子の声(地底より。)

お母あ様、この暗い国に9905

わたしを一人で置かないで下さい。

(間。)

合唱の群

(輓歌。)

なんの一人で置きましょう。どこにおいでなさいましょうと、

あなたは知った方のはずです。

あなたはこの世をお去なすっても、

誰の胸もあなたをお忘申すことは出来ません。9910

あなたをお悔み申すことも出来ない位です。

御運命を羨ましがって歌うのですから。

喜の日にも悲の日にも、あなたの歌と意地とは

美しくまた大きゅうございました。

立派なお家柄で、大した御器量で、9915

この世の福を受けにお生れになったのに、

惜しい事には、早くそれをお亡くしなすって、

お若い盛りにお隠れになりました。

世間を観察する、鋭い御眼力があって、

あらゆる人心の発動に御同情なすって、9920

優れた女の限に思われておいでになって、

特色のある詩をお作になりました。

しかしあなたは断えず検束のない網の中へ

お駆け込みなすって、

民俗や国法に9925

無謀にも御牴触なさいました。

それでもおしまいには極高尚な御思案が、

清浄な勇気に重きを置かせて、あなたは

立派な物を得ようとなさいました。

だがそれは御成功になりませんでした。9930

誰が成功するでしょう。これは不幸の極の日に

国民皆血を流し口を噤みます時、

運命がその中に跡をくらます

悲しい問題でございます。

だがいつまでも歎に屈めた首を屈めているには9935

及びません。新しい歌に蘇ります。なぜと云うに、

土地はこれまでそう云う歌を産んだように、

これから後もそれを産みましょうから。

(全き休憩。音楽息む。)

ヘレネ(ファウストに。)

美と福とが長く一しょになってはいないと云う

古い諺を、残念ながらこの身に思い合せます。9940

命の緒も愛の絆も切れました。どちらをも

痛ましゅう思いながら、つらいお別をいたします。

お別にもう一度寄り添わせて下さいまし。

さあ、地獄の女神、子供とこの身とをお引取下さい。

(ヘレネがファウストに抱き附く時、その形骸は消え失せ、衣裳と面紗とファウストの手に留まる。)

闇の女(ファウストに。)

その一切の物の中から残った物を、しっかり持っておいでなさい。9945

その衣裳を手から放してはいけませむ。

もう悪鬼共が褄を引っ張って、

地獄へ持って行こうとしています。

しっかり持っておいでなさい。お亡くなしなさった

女神はもういない。しかし神々しい跡は残っている。9950

値踏の出来ぬ程尊い恵を忘れずに、

向上の道にお進なさい。お命のある限、あなたはそれを力に

所有る卑しい境を脱して、※気の中をお升なさい。

いずれまた遠い、極遠い所でお目に掛かりましょう。

(ヘレネの衣裳散じて雲となり、ファウストを包擁して空に騰らしめ、ファウストは雲に駕して過ぎ去る。)

闇の女

(エウフォリオンの衣と外套とリラの琴とを地上より拾ひ上げ、舞台の前端へ出で、遺物を捧げ持ちて語る。)

これでも旨く取り留めたと云うものです。9955

無論※は消えてしまいました。

しかし何も世間のために惜むには当りません。

これが残っていれば、詩人に免許を遣り、

商売忌敵の党派を立てさせるには十分です。

わたしは技倆を授けて遣ることは出来ませんが、9960

せめて衣裳でも貸して遣ることにしましょう。

(舞台の前端にて、一木の柱の下に坐す。)

先導の女

さあ、皆さん早くおし。魔法は破れました。

古いテッサリアの婆あさんの怪しい、心の縛は解けました。

耳よりも心を迷わする、籠み入った音の、

演奏の酔も醒めました。さあ、地獄へ降りましょう。9965

お后様はしとやかなお歩附きで、

急いでお降なされた。忠義な女中達はすぐお跡を

お慕申すが道です。お后様には不可思議なお方の

玉座の側でお目に掛かられることでしょう。

合唱の群

お后様はどこにだって喜んでおいででしょう。9970

地獄でもペルセフォネイア様とお心安くなすって、

外のお后様同士御一しょに、

息張って上に立って入らっしゃるのですもの。

わたし共はそれとは違って、低いアスフォデロスの野の奥に、

実のならない柳や、ひょろひょろした9975

白楊の木のお仲間にせられていて、

何を慰にして日を送りましょう。

面白くもない、お化のような囁をいたすのが、

おお方蝙蝠の鳴くように

ぴいぴいと聞えることでしょう。9980

先導の女

名を揚げたでもなく、優れた事を企てるでもないものは、

四大に帰る外はない。さあ、おいで。

わたしは是非お后様のお側へ行きたい。

人格には功ばかりでは足りない。忠実がなくては。

一同

まあ、これで日向へ出られましたね。9985

もう人と云う資格はなくなったのが、

自分にも分かるようです。

だが決して地獄へは帰りますまいね。

永遠に活動している自然は、

わたし達、霊共に信頼していますから、9990

こちらも自然にすっかり信頼していて好いのです。

合唱の群の一部

わたし達は、この百千の枝の囁く揺ぎ、ざわ附く靡きの中で、

笑談にくすぐり、そっとおびいて、生の泉を根から梢へ上げさせましょう。

たっぷり葉を著けたり、花を咲かせたりして、

あの乱髪をふわふわと自由に栄えるように飾って遣りましょう。9995

実が落ちると、すぐに面白く暮らしている群が押し合って、

急いで集まって来て、取って食べようとしますでしょう。

そして皆が一番古い神様達の前へ出たように、わたし達の周囲にしゃがむでしょう。

他の一部

わたし達はやさしい波のように体をゆすって、機嫌を取って、

この滑っこい岩壁の、遠くまで鏡のように光っているのに身を寄せましょう。10000

鳥の啼声でも、葦の笛の音でも、よしやパンの神の恐ろしい声であろうとも、どんな声にも

耳を傾けて聞いていて、すぐに返事をして遣りましょう。

ざわつきの返事なら、ざわつきでしましょう。

雷なら、こっちの、震り動かすような雷を、二倍にして、また跡から三倍にも十倍にもして聞かせましょう。

第三部

きょうだい達。気の軽いわたし達は小川と一しょに急ぎましょう。10005

あの遠い所の美しく草木の茂っている丘が好ですからね。

それから次第に流れ落ちて、マイアンドロスのようにうねって、

先ず外牧場に、それから内牧場に、それからまた家の周囲の畑に水を遣りましょう。

あそこに平地や、岸や、水を越して、すらりと空を指している

糸杉の頂が目標になっています。10010

第四部

お前さん達はどこへでも勝手に飛んでおいで。わたし達は、棚に葡萄の茂っている、

あの一面に畑にしてある岡を取り巻いて、翔っていましょう。

あそこでは朝も晩も、葡萄造が熱心に、優しい限、手を尽して、

実のりを覚束ながっているのが見られます。

鋤鍬で掘ったり、根に土を盛ったり、摘んだり、縛ったりして、10015

あらゆる神様達を、中にも日の神様を祈っています。

意気地なしのバクホス様は忠義な家隷にも余り構わずに、

小屋に寝たり、洞の中で物にもたれて、一番若いファウニと無駄話をしたりしています。

あの神様の夢見心の微酔に、いつでもいるだけの酒は、

遠い世の後まで、冷たい穴蔵の右左に並べてある10020

甕の中や、革嚢の中にしまってあります。

しかしあらゆる神様達、中にも日の神様が、風を通し、

濡らし、温め、日に曝して、実の入った房を堆くお積累になりますと、

葡萄造のひっそり働いている所が、急に賑やかになって来て、小屋の中にも音がします。

幹から幹へと騒ぎが移って行きます。10025

籠がみしみし、小桶がことこと、担桶がきいきいと、

大桶まで漕ぎ附けます、酒絞の元気な踊まで。

そこで浄く生れた、露たっぷりな葡萄の房の神聖な豊けさが、

不作法に踏まれ、醜く潰されて、泡を立て、とばしりを跳ねさせて交り合います。

そこで銅鑼鐃※の音が耳を裂くように聞えます。10030

これはジオニゾスの神様が深秘の中からお現れなすったからです。

山羊の脚の男神様が、山羊の脚の女神達と踊って出て来る、その間に

セイレノスを載せた、耳の長い獣が締まりのない大声で叫びます。

何一ついたわりません。割れた蹄が所有る風俗を踏みにじります。

所有る官能がよろめき、渦巻きます。厭な、ひどい騒ぎに耳が聾になります。10035

酔っぱらいが杯を捜します。頭も腹も溢れます。

誰やらあちこちにまだ世話を焼いてはいますが、それは騒ぎを大きくするばかりです。

無理はありません。新しい濁酒を入れるには、古い革嚢を早くあけたいのですから。

(幕下る。)

闇の女フォルキアス舞台の前端にて、巨人の如き姿をなして立ち上がり、履を脱ぎ、仮面と面紗とを背後へ掻い遣り、メフィストフェレスの相を現じ、事によりては、後序を述べ、この脚本に解釈を加ふることあるべし。

第四幕

高山。屹立せる、稜角ある岩の頂。一団の雲たなびき来

て、岩に倚りて止まり、突出せる段の上に降る。雲破る。

ファウスト(現れ出づ。)

晴れた日に陸や海を越して、穏かに己を載せて来てくれた

雲の乗物に暇を遣って、10040

足の下に極深い寂しさを見卸しながら、

己は十分気を落ち著けて、この絶頂の岩端に足を踏み入れる。

雲は散らずに、ゆっくり己の身を離れる。

その群がまろがった列になって、東を指して行くのを、

感心して、驚いて、己の目が見送っている。10045

雲は動きながら破れて、波立って、形を変える。

何かの形に纏まるらしい。そうだ。見違ではない。

日に照された褥の上に、美しく体を横えて、

巨人のように大きくはあるが、神々達に似た女が現れている。

見えるわ、見えるわ。ユノか、レダか、いや、ヘレネか。10050

あの神々しく可哀らしく変化して目に映ること。

や。もういざってしまう。遠い氷山のように、

幅広く堆く、不極まりな形をして、東の空に止まって、

移り行く日の大きい意味を目映く写している。

それでもまだ己の額や胸の辺には、薄い、明るい10055

霧が漂って、優しく、冷たく、気を霽らしてくれる。

それが今たゆたいながら、軽々と、次第次第に

高く升って一しょになる。目の迷か、あの姿は

疾うに失った、若かった昔の、無上の物じゃないか。

心の奥の一番早く出来た宝の数々が涌き上がる。10060

軽快にはずんだアウロラの恋を己に見せる。

あの最初の快速には感じても、理解することの

ほとんど出来ぬ一目がこれだ。そのくせ捉え得て見れば、

どの宝よりも赫くのだ。あれ、あの形の美は霊の

美のように増して来て、解けずに、※気の中に升って、10065

己の心の内の最善の物を持って行ってしまう。

七里靴一つぱたりと地を踏みて出づ。間もなくまた一つ出づ。メフィストフェレス脱ぎて降り立つ。靴は急ぎ過ぎ去る。

メフィストフェレス

これなら可なり歩いたと云うものだろう。

ところで、あなた、なんだと思っているのです。

こんな不気味な所の真ん中で、恐ろしい岩穴の

※を開けている処で雲から降りるなんて。10070

わたしはこんな所も好く知っています。しかし

この土地ではありません。地獄の底で見たのです。

ファウスト

なんに附けても馬鹿げたお伽話を知っていて、

こんな時にまでそれをさらけ出すのかい。

メフィストフェレス(真面目に。)

昔神様がわたし共を、真ん中一面に永遠な火が10075

熱く燃え立っている、底の底のどん底へ虚空から

堕しておよこしなすった時の事ですね。

なぜお堕しなすったと云うことも知っていますがね。

わたし共は明るいことは明る過ぎる場所で、

随分籠み合った、窮屈な体附をしていたのです。10080

悪魔連一同ひどく咳をし出しまして、

上からはごほんごほん、下からはぶうぶう云わせます。

地獄は硫黄の臭と酸とで一ぱいになる。

その瓦斯ってない。それが非常な物になって、

幾ら厚くても、国々の平たい地盤が10085

程なくどうどうと鳴って、はじけたのです。

そこで尻尾を撮んで倒さに吊るしたように

これまでどん底であった所が、こん度は絶頂になります。

なんでも上を下へと云う結構な教訓は、

この時悪魔連が発明したらしいのです。10090

わたし共は押し籠められていた、熱い穴から逃れ出て、

自由な空気の結構さ加減の絶頂に来ましたからね。

これは無論秘密で、大事に隠して置いて、

人間には後になってから知らせて遣るのですが。

ファウスト

己のためには、山は高尚に沈黙しているもので、10095

どうして、なぜ出来たとは、己は問わない。

自然が始て自分で自分の基礎を立てた時、

地球を綺麗に円めたのだ。山は山、谷は谷になった所を

面白がって、岩と岩、頂と頂を並べたのだ。

そして旨く斜面を附けて岡を拵え、なだらかな勾配で、10100

次第に低く、谷まで下るようにしたのだ。

その所々で、草木が緑に芽ぐんで、生長する。

自然が慰をするのに、何も物狂おしい

渦巻なんぞをさせなくても好いのだから。

メフィストフェレス

あなたはそんな風に言いますがね。10105

なるほどそれがあなたには太陽のように明かでしょう。

しかしその場にいたものは、そうでないことを知っています。

まだ地の底があの下の方で、煮え上がって、火を噴いて

流れていた時、わたしはそこにいました。

まだあのモロホの槌が、岩と岩とを敲き合せて、10110

山の欠らを遠方へ飛ばせていた時です。今でも外から来た、

何千斤かの重さの物が、国々に動かずにいる。

あれを飛ばせた力を誰が説明しますか。哲学者には分からない。

そこに岩が在る。そのまま在らせる外、為方がない。

随分今まで行き著く程考えたのです。10115

ただ淳樸な下民にはそれが分かっていて、

縦え人がなんと云っても、自分の考を改めない。

その疾うから煉れている考はと云うと、あれは奇蹟だ。

悪魔の手柄になるのですね。

行者共は信仰の杖を衝いて、魔の岩とか、10120

魔の橋とかを見に行くではありませんか。

ファウスト

ふん。悪魔がどう自然を観察しているかと聞いて見て、

それを顧慮するのも、無価値ではないよ。

メフィストフェレス

自然は有のままでいるが好い。わたしは構わない。

※は衝かない。わたしは見ていたのだ。10125

わたし共は大きい事をし出来す連中です。

騒動と暴力とむちゃとで遣るのです。そこの岩山が証拠です。

さてこれからいよいよ分かるようなお話をするとして、

この地球の表面はお気に入りましたかな。

兎に角あなたはこの世界の国々と、その立派さ加減とを、10130

随分際限もない広さに、御覧になったのですが。

しかしどうも満足と云うことのない先生だから、

これなら欲しいと云う物もなかったでしょうね。

ファウスト

所が、有るよ。大きい物が己の心を惹いた。

なんだか、当てて見給え。

メフィストフェレス

それは造做はありません。10135

わたしはある都を選り出しますね。真ん中には

市民の食物の不気味さがあります。

曲がりくねった、狭い町、とんがった搏風、

けちな市場、大根、菜っ葉、葱がある。

脂の乗った肉を啄きに、10140

青蠅の寄る屠肉場がある。

いつでも、あなた、行って御覧なさるが好い。

きっと賑やかで、臭いのです。

それから僭上に、上品らしい見えをする

大通や広い辻がある。10145

それからしまいには、関門で為切ってないと、

場末がどこまでも際限なく延びる。

そこでわたしは、馬車の車輪がごろごろと

あっちへ走って往き、こっちへ走って来、

散らばった、うようよする蟻の群が10150

永遠に馳せ違うのを楽んでいるとしましょう。

そこでわたしは馬や車に乗って出ると、

いつもそいつ等の中心になって、

千百の人間に敬われるとしましょう。

ファウスト

そんな事では己は満足しない。10155

人口が繁殖して、自分の流義で、

気楽に口腹を養って、場合によっては

教育を受け、学問をするのを見て喜んで

いるうちに、ただ叛逆人が出来上がるのだ。

メフィストフェレス

それからわたしは、自分で見ても壮大だと思うように、10160

面白い土地へ、慰のために城を造らせましょう。

森や岡や原や牧や畑を、

立派に庭園に築き直させましょう。

緑いろに聳えた垣の前に、天鵝絨のような牧や、

髪の如き道や、巧に結った生木の屋根や、10165

岩組で築いた滝や、種々の噴水がある。

真ん中はすなおに升るが、

脇からは形が変って小さく噴き出る。

それから一番の美人を畜えるために、

気の置けない、のん気な小家を立てさせましょう。10170

限のない月日を、なんとも言えない

面白い、差向いの寂しみに暮そうと思うのですね。

わたしは美人と云ったが、

それは一人ではない。わたしの女と云うのは、

いつでも複数に考えて言うのですからね。10175

ファウスト

悪く現代的だ。サルダナパアルの驕奢だ。

メフィストフェレス

そう仰ゃると、大抵お望の見当が附きますね。

そいつは飛び離れて大胆です。

もう大抵月宮の近所まであなたは升ったのですが、

やはり天上界へ気が引かれているのでしょう。10180

ファウスト

大違だ。この地球上に

まだ偉大な事業をする余地がある。

驚歎すべき物が成就しなくてはならぬ。

己はまだ大胆な努力をするだけの元気を感じている。

メフィストフェレス

では名聞を博せようと云うのですね。10185

あなたは女英雄の色になっていただけありますね。

ファウスト

主権を取るのだ。占有するのだ。

事業が一切だ。名聞はいらぬ。

メフィストフェレス

いらなくても、詩人が出て来て、

あなたの栄華を後世に伝えて、馬鹿話で10190

馬鹿の真似をさせるように、人をおびくでしょう。

ファウスト

ところがそれが兎に角君の得にはならぬのだ。

人間の欲望が君に分かるものか。

君の皮肉な、悪辣な、厭な性質で、

人間が何を要求するかが分かるものか。10195

メフィストフェレス

どうでも好いから、あなたのお望どおりにさせましょう。

そこであなたの気まぐれの範囲をお打明なさい。

ファウスト

己の目は海の沖に捕えられていた。

水が涌き立って、堆く盛り上がった。

それが凪いで、平な岸の一帯を襲わせに、10200

波をばら蒔いた。

それが癪に障った。あらゆる権利を尊重する

自由の精神を、専横の心が、

喜怒哀楽に鞭うたれた血の勢で、

感情の悩に陥らせるようなものだ。10205

己は偶然かと思って、また瞳を定めて見た。

波は止まって返して行く。

息張って為遂げた目的から退いて行く。

また時が来ては、同じ戯を繰り返すのだ。

メフィストフェレス(見物に。)

あれではなんの新しい事も聞き取られませんね。10210

そんな事は千百年前からわたしも知っている。

ファウスト

(興奮して語り続く。)

波は自分が不生産的で、その不生産的な力を

八方へ逞うしようとして這って来る。

膨れて、太って、転がって、荒地の

厭な境に溢れる。寄せては返す波が10215

力を恃んで専横を窮めていて、

さて引いて行った跡に、何一つ己を恐怖させる程の事を

為遂げてはいない。溜まらんじゃないか。

検束のない四大の、目的のない威力だ。

そこで己の精神は自力の限量以上の事を敢てしたい。10220

あれと闘って勝ちたいのだ。

それは出来る事だ。あの汎濫する性質はあっても、

どんな丘陵でもあると、避けて滑って通る。

いかに傍若無人に振舞っても、

瑣細の高まりも中流の砥柱になって、10225

瑣細の窪みも低きに就かせる。

そこで己は心中で急に段々の計画を立てる。

あの専横な海を岸から遠ざけて、

干潟の境界を狭めて、

海を遥かに沖へ逐い返したら、10230

さぞ愉快な事だろう。

己はその計画を一歩一歩心に運らして見た。

これが望だ。己はこれをはかどらせる積だ。

(見物の背後、右の方遠き所より、鼓の音と軍楽と聞ゆ。)

メフィストフェレス

造做もない事です。あの遠くの鼓が聞えますか。

ファウスト

また軍か。智者の聞くことを好まぬ響だ。10235

メフィストフェレス

戦争でも平和でも好い。己を利するように

それを利用しようと努めるのが賢いのです。

あらゆる好機会を待つのです、窺うのです。

機会はあります。さあ、先生、お掴まえなさい。

ファウスト

そんな謎なら、己は御免を蒙る。10240

どうしろと云うのだ。手短かに言い給え。

メフィストフェレス

わたしは歩く途中で聞きましたが、

お気の毒な殿様が大頭痛の様子です。

御承知のあの人です。御一しょに機嫌を取って、

虚偽の富を手に入れさせた時は、10245

あの人は世界中を買い占めることが出来ましたっけ。

一体あの人は余り早く即位をなさったので、

快楽の受用と国家の政治とが、

随分一しょに出来て、

そうするのがひどく都合が好く、また結構でもあると、10250

飛んだ間違った判断をせられたのです。

ファウスト

大変な間違だ。命令をする人は、

命令その物に快楽を覚えんではならん。

高遠な意志が胸に一ぱいあって、

何を思っているか、それを誰一人窺うことが出来ぬ。10255

そして一番忠実な臣下の耳に囁いて、

それが行われると、天下瞠目する。

そんな風で、永く最高の地位、最大の権威を保つのだ。

受用は人を陋しゅうする。

メフィストフェレス

あの人はそんな風ではありませんね。10260

受用をしたのです。どんなにかしたでしょう。

そのうちに国は無政府の状態になって、上下交々争い、

兄弟牆に鬩ぎ、相殺し、

城と城との間、市と市との間、工業組合と

貴族との間、僧官と僧侶と信徒との間、10265

それぞれに争が出来、

目を見合わするものは皆敵である。

寺で人が殺される。関門の外に出れば、

旅客も商人も性命財産があぶない。

そこで人民一同が可なり大胆になった。10270

自家防禦で生存するのです。遣って見ればそれでも行けますよ。

ファウスト

それは行く。歩く。跛を引く。倒れてまた起きる。

それから翻筋斗をして、転がって一しょに死ぬる。

メフィストフェレス

その状態でいて、誰も苦情を言ってはならないのですね。

てんでに頭を出そうとする。また随分出しもする。10275

極小さい人物がしっかりした奴と云われる。

そこで余りひどいと、一番好い人までが言い出す。

とうとう豪い奴等が根を固めて置いて謀叛して、

こんな宣言をしました。「治めてくれるのが君主だ。

当代は治めようともせず、治める力もない。10280

新しい君を選んで、国に新しく魂を入れて貰おう。

そしたら個人を堅固に保護してくれて、

その新設せられた社会では、

平和と正義とが相嫁ぐだろう」と云うのです。

ファウスト

坊主でも言いそうな事だな。

メフィストフェレス

坊主が言ったのです。10285

そして便々たる腹に本領安堵をさせました。

外のものより余計に交ぜ返したのは彼奴等です。

一揆は広がる。神聖にせられる。

そこでわたし共が機嫌を取って上げた、あの殿様は、

今この場で多分最後の決戦をするのでしょう。10290

ファウスト

気の毒だな。あんな分隔のない、好い人だから。

メフィストフェレス

さあ、おいでなさい、見物しましょう。「生きている間は有望だ。」

こっちの手でこの狭隘から救い出しましょう。

今一度救えば、後の千度も救うことになります。

采の目はまだどう出るか、分からない。10295

殿様の身に運があれば、その麾下に人もある。

(二人は山の中腹を踰えて前に出で、谷間の陣を望む。鼓、その他の軍楽下より聞ゆ。)

あの陣地を御覧なさい。旨く取ってあります。

わたし達が這入って行けば、全勝ですね。

ファウスト

君はここで何を遣って見せる積だ。

まやかし、目くらがし、空虚な見えだろう。10300

メフィストフェレス

戦争に勝てる計略を遣るのです。

どうかあなたも前途の目的を考えて、

気を大きく持つことに、腹を極めて下さい。

殿様に玉座と版図とを保たせて上げた上で、

あなたは御前に平伏して、海岸一帯の地を10305

所領にお貰なさることが出来るのです。

ファウスト

そうか。君も随分色々な事をして来たが、

そんなら今度は会戦に一つ勝って見せ給え。

メフィストフェレス

なに。勝つのはあなたです。

こん度はあなたが上将軍だ。10310

ファウスト

「それが己に適当な高座だろうよ。」

まるで知らない為事で、采配を振るのだから。

メフィストフェレス

幕僚をお拵なさい。そうすれば元帥は枕を高うしていられます。

戦争のらんぼうは疾うから知っていますが、10315

戦争のさんぼうは、こん度前以て、

山奥の原人で編成して置きました。

あいつ等を集めたものには、利運が向きますよ。

ファウスト

あそこに武器を執って来るのは、あれはなんだ。

君、山の中の人民共を煽動したのかい。10320

メフィストフェレス

なに。ペエテル・クウィンチェの役者の組と同じ事で、

やくざな中の選抜です。

(三人の有力者登場。)

メフィストフェレス

やあ。奴共があそこに来ました。

御覧の通、年配も区々で、

被服装具もそれぞれ違います。10325

だが存外御用に立つでしょう。

(見物に。)

当節はどの子供でも、

鎧と武者領とが大好です。

符牒のような、実のない奴等ですが、

それだけ却ってお気に入るでしょう。10330

喧嘩坊

(年若く、軽装して、はでなる服を著る。)

どいつでも己と目を見合せりゃあ、

すぐ拳骨を※に叩き込むのだ。

逃げ出すような臆病者は

後髪を攫んで引き戻して遣る。

はやとり

(男らしく、武具好く整ひ、奢りたる服を著る。)

そんな実のない喧嘩なんぞは10335

笑談同様の暇潰しだ。

何にもひるまず取り込んで、

外は一切跡にする。

かたもち

(年寄りたり。厳かに武器を執りて、下に服を著ず。)

それも余り役には立たぬ。

大財産もすぐ蕩けて、10340

生活の川水に流れ落ちる。

取るのも悪くはないが、持っているのが一層好い。

万事この薄黒い野郎に任せて御覧なさい。

あなたの物を何一つ、人手には渡さない。

(一同群がりて山より下る。)

外山の端

鼓と軍楽と下より聞ゆ。帝の帷幄開張せらる。

帝。上将軍。護衛者等。

上将軍

この丁度好い狭隘へ10345

全軍を密集して背進させたのは、

今から見ても、熟慮した計画でした。

決戦が勝利に帰するのを、わたくしはまだ確信しています。

帝

どうなるかは、今に分かるだろう。

その背進が敗走に似ているのが、己には不愉快だ。10350

上将軍

あれ、あの我軍の右翼を御覧なさい。

戦略はああ云う地形を望むのです。

丘陵が余り嶮しくもなく、余り行進し易くもない。

我には有利で、敵には危険だ。

我兵があの波状をなしている平地に半ば隠れていれば、10355

敵の騎兵もうかとは来ません。

帝

いや。今となればその処置を称讃するより外はない。

我軍の精神も手腕もここで験されるのだ。

上将軍

あの中央の牧の平地で、

我部隊が勇悍に闘っているのを御覧なさい。10360

空中に、朝霧の中に、日に照されて

槍の穂尖がきらめいています。

あの大方陣が真っ黒に波を打っていますね。

数千の士卒が大功を立てようとあせっています。

あれで多数の気力が分かります。10365

敵の力を分割することが、あれになら出来ましょう。

帝

うん。こんな美しい戦況を、己は始て見る。

我兵には倍数だけの威力があるなあ。

上将軍

我左翼については別に申すことはございません。

嶮しい岩山を勇士が守っています。10370

今武器が一面に光っている、あの石道が

狭い谷の重要な通路を掩護しています。

ここで期せずして敵の兵力が一敗地に塗れるのが、

もうわたくしには見えるようです。

帝

あそこに弐心の親戚共が遣って来おる。10375

己をおじだ、従兄弟だ、兄弟だと云って、

次第次第に我儘になって、玉座に尊敬をなくさせ、

命令の杖に威信をなくさせ、

それから同士討をして国内を荒し、

とうとう一しょになって己に刃向かって来たのだ。10380

部下の群は腹が極まらずに観望していて、

風向の好い方に附こうとしているのだ。

上将軍

間牒に出した、信用の置かれる一兵卒が、

今岩を降りて来ます。旨く遣って来たか知らぬ。

第一の間牒

こっちの為事は旨く参りました。10385

大胆に、狡猾に立ち働いて、

随分あちこちと潜って来ました。

所がたんと思わしいお土産もありません。

忠実なお身方のように、

殿様に心からの尊敬をいたしているものは多いが、10390

そのくせ袖手傍看の分疏しかしません。

内乱の萌があるの、民心が危険だのと。

帝

自己の安全を謀るのが、利己主義の教だ。

恩義も情誼も、義務心も名誉心もない。

罪悪が盈ちて来ると、隣家の火災で10395

身を焼くと云うことが分からぬのか。

上将軍

二人目のが帰って来る。そろそろと降りて来る。

あの疲れ切った兵卒は、手足が震えているらしい。

第二の間牒

最初は面白半分の暴行が、

怪しげにはかどるのを見ていました。10400

そのうちに思い掛けず、急劇に

新しい帝王が擁立せられました。

それから群集が指図通の路を取って、

野原を進んで参るようになりました。

押し立てられた偽朝の旗に、10405

皆附いて来るのです。羊のような根性の奴等が。

帝

僭号を称える奴の出来たのは、己の利益だ。

己が帝王だと云うことが、これで切に感ぜられる。

単に一軍人として己は甲を著たが、

今それが高遠な目的があって著たことになった。10410

今まで己ははでな限の祝に出て、

何一つ闕けた事のない時も、危険のないのが惜しかった。

お前方の流義で、己に為合を勧めた。

あの時己は胸を躍らせて、中世の為合の気分になっていた。

もしお前方が疾っくに戦争に反対しなかったら、10415

己は今頃大手柄を顕しているだろう。

またいつかの催の夜、鏡に向うように火の境を覗いて見て、

その火と云うものが恐ろしく肉薄して来たとき、

己の胸には独立特行の決心が附いた。

あれは幻影だが、しかし偉大な幻影だった。10420

己は夢現の境に、勝利と名誉とを夢みた。

当時等閑にして過した事を、己は今取り返したい。

(偽帝の挑戦に応ぜんとして使を発す。ファウスト甲を著、半ば鎖せる※を戴き、三人の有力者上に記せる衣裳を著、武具を取り装ひて登場。)

ファウスト

多分お叱はあるまいと存じて、参著しました。

危険はなくても、御用心はおありなさるが宜しいでしょう。

御承知の通、山の中の人民は平生物を案じて、10425

岩に現れた自然の文章を読んでいます。

もう疾っくに平地を遁れた霊どもは、常よりも

岩石に同情を寄せています。霊どもは

金気をたっぷり帯びて立つ、尊い気の中で、

迷路のような谷間に潜んで、密かに働いています。10430

その唯一の欲望は、絶えず分析したり、湊合したり、

試験したりして、新しい物を発見したがるに過ぎませぬ。

霊の力の静かな指で、

透き徹る形を築き上げて、

その結晶の永遠な沈黙の中に、10435

上の世界の出来事を窺うのです。

帝

それは己も聞いている。お前の詞に※はあるまい。

だが、それがこの場でなんの用に立つのか。

ファウスト

サブスの裔の魔術師で、ノルチアに住んで

いるものが、あなたに誠実に帰服しています。10440

昔あの男は恐ろしい否運に迫られていました。

もう焚附がぱちぱち云って、※の舌が閃きました。

体の周囲に積み上げた、乾いた薪には

※児や硫黄の棒が交ぜてあったのです。

神も人も悪魔ももう助けようのなかった時、10445

御威勢が燃ゆる鎖を絶ちました。

ロオマでの事でした。それをひどく恩に被て、

あの男はあなたの前途に目を著けています。

あの時から自分の事は考えずに、ただあなたの

お為に、天文を観、深秘を探っています。10450

あれが御救助に参るようにと、火急の用事を

わたくし共に托しました。山の力は偉大です。

あそこで自然が、自由に非常な力を展すのを、

魯な僧侶共は魔法と申すのです。

帝

祝の日に機嫌好く遊びに機嫌好く来る客を10455

出迎えて挨拶するときでも、あの押し合い

急ぎ合いして、一人毎にその間を狭める客を、

こっちでは歓迎する。それとは違って、

運命の秤がどちらに傾くかと云う、

心許ないその日の朝、力強く身方を助けようと、10460

わざわざ出て来る、忠実な人なら、

己は此上もなく歓迎しなくてはならぬ。

とは云うものの、大切なこの刹那には、

抜かれるのを待つ刀から、勇ましい手も引いて貰わんではならぬ。

敵身方と立ち別れて、数千の人が争っている、10465

この刹那は尊敬して貰わんではならぬ。

独立するのが男だ。宝冠玉座を望むものは、

自身にそれだけの値打がなくてはならぬ。

己に刃向かって起って、帝だの、この国の主だの、

大元帥だの、百官の司だのと、10470

僭称している非類は、

この手一つで死の国へ衝き落さんではならぬ。

ファウスト

それはそうでもございましょうが、大事を成そうと思召すには、

首を賭することは宜しゅうございますまい。

あの冑と云うものは鶏冠や立毛で飾ってあるではございませんか。10475

あれは人の勇気を励ます頭を保護する武具です。

頭がなくては、手足は何になりましょう。

頭が寐入れば、体は皆萎える。

頭が傷けば、体は皆傷く。

頭が※えれば、体は皆※えるのです。10480

それゆえいざと云う時には、腕はすぐ己が強さを利用して

盾を挙げて頭を禦ぎ、

刃はすぐ自分の職務を心得て、

受け流してはまた切り込みます。

丈夫な足も幸運な仲間をばはずれまいと、10485

打たれた敵の項を踏みます。

帝

己の怒もその通だ。驕った敵の素首を、

足の台にして遣りたい。

使者等(帰り来る。)

わたくし共は余り優待もせられず、

余りお役にも立ちませんでした。10490

手強い、立派な、こちらの口上を、

先では古い洒落だと申して笑いました。

「お前の所の帝王はもう行方不明になったのだ。

そこの谷間に谺響がしている。

あれが記念は何かと云えば、お伽話に云う通、10495

昔々あったとさだ」なぞと、無礼を申しまして。

ファウスト

それでは動かぬ忠義の心で、お側にいる

我々の望どおりになったのだ。

あれ、あそこに敵が寄せます。身方はきおって待っています。

攻撃をお命じなさい。好い時期です。10500

帝

ここでは己は指揮をすまい。

(上将軍に。)

責任は、侯爵、やはりお前の手に委ねて置こう。

上将軍

そんなら、右翼、さあ、進め。

丁度今坂道に掛かっている、敵の左翼は、

もう一足と云う所で、験された忠誠の10505

壮んな力に譲らんではなるまい。

ファウスト

それではどうぞ、この元気な物共を、

すぐあなたの戦列に加えて、

隊の士卒と深く入り交らせ、

一つになって、大きい伎倆を揮わせて見て下さい。10510

(ファウスト右の方を指す。)

喧嘩坊(進み出づ。)

己に顔を向けた奴は、上※と下※とが砕かれた上でなくては、

顔を向け換えることは出来ぬ。

己に背中を向けた奴は、頸と頭と髪の毛とが

忽ちぐにゃりと項に垂れる。

そこでわたしが荒れる通に、10515

お前様の兵卒が棒や刀を振り廻したら、

敵は自分の血の中に

一人々々倒れましょう。(退場。)

上将軍

中央部隊は徐かに続いて、

十分の威力を以て、巧に敵に当ってくれ。10520

あの少し右の方では、敵がもう奮起して、

我軍の計画を動揺させているのだから。

ファウスト

(中央の有力者を指さす。)

そこでこの男にも御命令を受けさせてお貰申したい。

素早くて、傍を鼓舞して猛進する男です。

はやとり(進み出づ。)

官軍の勇気には、10525

分捕熱も加わらなくてはいけません。

偽皇帝の贅沢な幕の中を、

皆に目当にさせるが好い。

もう長くは椅子の上で、きゃつも息張ってはいられまい。

どれ、その隊の先頭に立ちましょう。10530

陣中の女商人はやえ

(はやとりに寄り添ふ。)

わたしこの方のお上さんにはなっていないが、

やっぱりこの方が一番好な人なのよ。

わたし達の取入をする好い秋が来たのね。

女は握るときは凄いもので、

取るに遠慮はしませんわ。10535

勝軍にはいつも先へ出てよ。どんな事でも出来るから。

(二人退場。)

上将軍

兼ねて予期していた通、敵の右翼は我左翼に

猛烈に衝突して来た。あの狭隘の岩道を

是非取ろうとして奮進する敵兵に、

身方は一人々々抗抵するに違ない。10540

ファウスト(左の方を揮く。)

そこでどうぞこの男もお見知置を願います。

強い物に強い物の加わるのは、損のない道理ですから。

かたもち(進み出づ。)

左翼に御心配はありません。

どこでもわたしがいさえすれば、持った物は亡くさない。

昔の話にある通、稲妻の火が落ちて来ても、10545

わたしの持った物は放しません。(退場。)

メフィストフェレス

(上の方より降り来る。)

さあ、御覧なさい。あの背後の方で、

どのごつごつした岩穴からも、

武装した兵隊が押し合って出て来て、

元から狭い山道を一層狭くしています。10550

甲冑に、太刀と盾とで、

身方の背後に石垣を築いて、相図をすれば打って出る

用意をして待っています。

(小声にて解事者等に。)

どこから連れて来たなんぞと、野暮を言うのじゃありませんよ。

無論わたしはぐずぐずせずに、10555

あたり近所の甲冑蔵をさらけ出した。

あれでも徒歩立もあり騎馬もあり、

まだこの世の物らしい風をして蔵の中に立っていた。

昔は騎士だ、帝王だと云っていたのだが、

今は蝸牛の殻ばかりだ。10560

その中へ色々な怪物が潜り込んで、支度をして、

中昔をそのままに、蘇らせて見せるのだ。

中実は悪魔の小僧でも、

この場はやんやと云わせるのだ。

(声高く。)

御覧なさい。打ち合わぬうちから勇気を出して、10565

急きあって、金物をからから云わせています。

旗竿に結んだ旗のちぎれも、爽かな風に

吹き靡けて貰いたがって、あんなにじれています。

昔の勇士が今様の戦争に出たがって、

待ち構えているのだから、どうぞ察して遣って下さい。10570

(上の方より恐ろしき金笛の音聞ゆ。敵軍たじろく。)

ファウスト

地平線は暗くなった。

ただここかしこに意味ありげな

赤い火の光が見えるばかりだ。

もう刃が血に染まって光っている。

岩も、森も、吹く風も、10575

大空さえも我軍を助けるのだ。

メフィストフェレス

右翼はしっかりこたえている。

中にも目立って見えるのは、あの素早い大男の

喧嘩坊のハンス奴が、

あいつの流義で働いているのだ。10580

帝

最初は腕をただ一本振り上げたと思ったが、

もう十二本も振り廻している。

只事ではないな。

ファウスト

あのシチリアの海岸に立つと云う

霧の話をお聞になったことはありませんか。10585

あそこでは昼の空に清くゆらいで、

丁度空の中程の高さに、

特別な蒸気に映って、

不思議な影が見えまする。

市街が見えたり隠れたりする。10590

庭園が浮いたり沈んだりする。そう云う画図が次々に、

※気を穿って出て来ます。これも同じわけです。

帝

しかしいかにも心許ない。どの長い槍の尖も、

皆稲妻のように光って見える。

殊に身方の部隊の槍は、穂尖から穂尖へと、10595

小さい※が忙しげに飛んでいる。

余り怪物臭いじゃないか。

ファウスト

お免下さい。あれは過ぎ去った

霊なる物の名残です。

航海者の皆祈誓を掛ける10600

ジオスコロイの同胞の火です。

あれが今霊験の限をここで見せるのです。

帝

しかし自然が己達に対して、

不思議の限を見せるのは、

誰の為業か、それが聞きたい。10605

メフィストフェレス

別な人ではありません。

殿様の御運を胸に蓄えている、あの尊い先生です。

余りきびしい迫害を、敵が御身に加えるので、

先生は心からおこっています。

よしや自分の身は棄てても、あなたを助けて10610

御高恩に報いたいと云っているのです。

帝

そう云えば、いつか人民が讙呼して、己を連れて廻ってくれた時、

己も己の威勢を験して見たいと思ったので、

好い機会と見て、思案もせず、

あの親爺の白鬚に涼しい風を送ったまでだ。10615

無論坊主共は慰をし損ねて、

あれからは己の事を好く思わなくなった。

それに何年も立ってから、

あの時喜んでした事の報に、今ここで逢うのかなあ。

ファウスト

心から出た善行の報は次第に大きくなります。10620

どうぞ一寸上の方を御覧下さいまし。

今先生が何か相図をせられそうです。

お気をお附なさいまし。今それが現れます。

帝

や。空高く舞う鷲の跡を、すさまじい勢で

グリップス鳥が追い掛けおる。10625

ファウスト

気を附けて御覧なさい。善兆です。

昔話にばかり聞く

グリップス鳥の分際で、

まことの鷲と戦うとは。

帝

今は大きい輪をかいて、二羽が覗い寄っている。10630

それと見る間に

もう双方から飛び附いて、

頭や胸を掻き裂こうとする。

ファウスト

御覧なさい。あの笑止なグリップス奴は、

引っ掻かれ、引っ裂かれ、身を傷うばっかりで、10635

とうとう獅子の尾を垂れて、

あの絶頂の森の中へ飛び込んでなくなりました。

帝

なるほど、お前の判断する通かも知れぬ。

不思議ではあるが、さもあろうか。

メフィストフェレス(右に向きて。)

数度の突撃が功を奏して、10640

敵は余儀なく退却します。

まだ覚束ない抗抵を試みながら、

右へ右へと崩れ掛かり、

その乱戦の結果として、

主力の左翼に混乱を来します。10645

我部隊の、堅固な前列は

右に方嚮を転ずるや否や、

電光の如くに敵軍の虚に附け入ります。

あれ、双方の大軍が、

暴風に打たれる波のように、10650

火花を散らして奮闘します。

これより花々しい軍は想像にも及びません。

この会戦には勝ちましたね。

帝

(左側にてファウストに。)

あれを見い。あそこが己には心許ない。

あそこの我拠点がどうもあぶない。10655

礫の飛ぶのも見えぬ。

低い岩には、もう敵が上っている。

上の岩はもう身方が棄てた。

あ、今だ。敵の一団が

次第に肉薄して来た。10660

もうあの狭隘を取ったかも知れぬ。

祝福のない努力の結果はこれか。

お前方の奇術も徒労であったぞ。

(間。)

メフィストフェレス

はあ。あそこへわたしの二羽の鴉が来ました。

なんの便を持って来たやら。10665

悪い知らせでなければ好いが。

帝

笑止な鳥奴。何をする気か。

あの岩の上の激戦の中から、

黒い帆を揚げてこっちへ来おる。

メフィストフェレス

(鴉等に。)

さあ、己の耳の側へ来て止まれ。10670

お前の保護してくれるものが、滅びると云うことはない。

お前の献策は道理に※っているからな。

ファウスト(帝に。)

鳩と云う鳥が、餌を貰い子を育てる巣へ、

遠い国から帰ることは、

あなたも聞いておいででしょう。10675

ここに大事な差別があります。

平和に鳩の便があれば、

軍には鴉の使があります。

メフィストフェレス

これは重大な悲報に接しました。

あの岩角で我勇士が10680

難儀しているのを御覧なさい。

手近な高地はもう敵が占めました。

あの狭隘が敵手に落ちると、

身方の立場は困難です。

帝

やはり己は騙されたのか。10685

お前方は己を網に入れた。

その糸が身に絡むのを、己は気味悪く思っているのだ。

メフィストフェレス

御落胆なさいますな。まだ敗北はいたしません。

耐忍と機智とは結局まで入用です。

末になって来ると、事情は切迫するものです。10690

わたくしは慥かな斥候を持っています。

命令権をわたくしにお授下さい。

上将軍

(この隙に歩み寄る。)

この人達と御結托なされたのを、

わたくしは疾うから心配していました。

幻術では堅固な幸福は得られません。10695

もうこの戦況を一転する策はない。

為始めた人が片を附けるが好い。

わたくしは指揮の杖をお返し申しましょう。

帝

いやまた好運の向いて来ることもあろうから、

それまで杖はあずかって置け。10700

己はあの忌々しい情報や、

この男の鴉附合が厭でならぬ。

(メフィストフェレスに。)

どうもお前に杖は遣られぬ。

お前は適任の男ではなさそうだ。

だが命令はしても好い。救われるものなら救ってくれ。10705

まあ、どうにかなるようになる事だろう。

(上将軍と共に帷幄の中へ退場。)

メフィストフェレス

そんならあの鈍い棒に身を護って貰うが好い。

己達にはあんな物は余り役に立ちそうでない。

なんだか厭に十字架に似ているて。

ファウスト

そこでどうする。

メフィストフェレス

もうする様にしてあります。10710

さあ、黒い従弟共、急用だ。お前達は山の大湖に往って、

ウンジネに己から宜しくと云って、

水の影を借りて来てくれ。

なかなか学びにくい女の奇術で、

あいつ等は物の体と影とを分けて使う。10715

所で誰が見てもその影を体だと思うから妙だ。

(間。)

ファウスト

あの鴉共が水の少女に

心からお世辞を言ったと見えるな。

あれ、もうあそこへ流れて来出した。

方々の水気のない兀岩の上に、10720

たっぷり泉の早瀬が涌く。

敵の勝利ももう駄目だ。

メフィストフェレス

随分意外なお待受ですから、

どんな大胆な登手も途方に暮れるでしょうて。

ファウスト

もう一本の小川が何本にもなって、勢強く流れ落ちる。10725

谷間に隠れては、倍の水嵩になって出て来る。

一本の滝になって、弓なりに落ちる。

それがまた忽ち平な、幅広な岩の上に広がって、

しぶきを飛ばして、あらゆる方角へ流れて、

段々になって谷底へ落ちて来る。10730

大胆に男らしく抗抵した所で、なんになろう。

大波が押し流そうとして寄せるのだから。

こうひどく溢れて来ては己までがぞっとする。

メフィストフェレス

わたしなんぞにはその水の贋物は丸で見えません。

騙されるのは人間の目だけだ。10735

わたしはこの不思議な出来事が面白くてなりません。

やあ。群になって逃げ出しますね。

馬鹿共は水に溺れるかと思うのだ。

陸にいるのに、為方で、水を吹き出す真似をして、

滑稽な、泳ぐような身振をして駈けている。10740

もう全軍の騒擾になった。

(鴉等再び来る。)

お前達の事を大先生の所で褒めて遣る。

だがここで自分が先生になって遣って見る気なら、

これから火を焚いている鍛冶屋へ往け。

あの一寸坊共が、草臥れると云うことなしに、10745

金や石を赤く焼いて敲いている所なのだ。

そして随分念の入った口上を言って、

黒人の消さずに焚いているような、

ぴかぴか光る、ぱちぱち鳴る火を所望して来るのだ。

遠い空の稲妻や、10750

一番高い所から瞬く隙に落ちる星は、

夏は毎晩見られもしよう。

だが木立の茂みの中で稲妻がしたり、

湿った土に打っ附かって星がしゅっと云うのは、

そうめったには見られまい。10755

そこでお前達、何も大して面倒を見なくても好いが、

最初は丁寧に頼んで見て、それから出せと指図するのだ。

(鴉等退場。白の通の事共実現す。)

メフィストフェレス

敵は目の前が真っ暗だ。

一足踏むのも心許ない。

どこの隅にも鬼火が燃える。10760

出し抜けに目映い光物がする。

そこいらは皆至極好い。

この上何かこわい音でもさせようかな。

ファウスト

あの蔵の穴から出されて来た空洞な武具が、

外の風に当って気丈夫になったと見えて、10765

あそこの高い所で、さっきからがたがたかちゃかちゃ、

不思議な怪しい音をさせているなあ。

メフィストフェレス

そうです。もう止めても止まりませむ。

結構な昔の世に戻ったように、

騎士らしく打って廻る音が、もうここへ聞えますね。10770

籠手やら脛当やらが、

ゲルフェンになり、ギベルリイネンになって、

永遠な闘を繰り返す。

先祖から受けた習慣で、頑強に遣っていて、

媾話なんぞは誓ってしない。10775

もう物音が大ぶ広がって来た。

悪魔の手伝う催しは皆そうだが、

しまいに功を奏するのは党派の憎悪で、

止めを刺すまでそいつを息めないのだ。

なかなか気持悪く、人に驚慌を起させるように、10780

どうかするとまた大袈裟に、悪魔らしく威して、

物音を谷々へ響き渡らせますね。

(奏楽団の初め戦争の騒擾を学びたるが、終に晴やかなる軍楽の音に変ず。)

僭帝の帷幕

玉座。奢侈なる周囲の装飾。

はやとり。はやえ。

はやえ

とうとう一番先へここへ来たのね。

はやとり

己達より早くは鴉にも飛べまいよ。

はやえ

まあ、好い物がうんとあるわねえ。10785

どれを先に取ろうかしら。どれを跡にしようかしら。

はやとり

ほんに幕の中に一ぱいあるのだから、

己にもやっぱり手が著かない。

はやえ

この敷物なんか丁度好いわ。

わたしどうかすると随分ひどい所に寝るのだから。10790

はやとり

ここに鋼鉄で宵の明星が拵えてある。

己はとうからこんな物が欲しかったのだ。

はやえ

この金糸で縁を取った緋の引廻しね、

こんなのが疾うから欲しかったわ。

はやとり

(武器を手に取る。)

こいつはこれで重宝だぞ。10795

人を敲き切って置いて、先へ出られる。

お前もう随分たくし込んだが、

まだ何一つろくな物は取らないなあ。

そのがらくたはそこに置いて、

この箱を一つ持って行け。10800

これは兵隊に払う給金で、

中実は金貨ばっかりだ。

はやえ

まあ、恐ろしく重いこと。

わたしには持ち上がらないわ。

はやとり

早くしゃがめよ。しゃがむのだよ。10805

己が背中へ背負わせて遣る。

はやえ

おう痛。わたしもう駄目よ。

重くて腰が折れそうだわ。

(箱転がり落ち、蓋開く。)

はやとり

見ろ。金貨が一ぱいだ。

早く取らねえか。10810

はやえ(蹲る。)

早くこの前掛にしゃくい込んでおくれよ。

この位持って行けばかなりあるわねえ。

はやとり

それが好い好い。早くしろよ。

(女立ち上がる。)

や、大変。前掛に穴が開いているぜ。

立っている所にも、歩いて行く先にも、10815

お前金をばら蒔いているじゃねえか。

我帝の護衛等

この大切な場所で何をしている。

お手元金になぜ手を著ける。

はやとり

なに。こっちは体を売物にして出たのだから、

勝利品の割前を貰うのです。10820

敵の天幕に来れば、これは極まりだ。

こっちもやはり兵士だから。

護衛等

いや。そんな奴は我々の仲間には向かぬぞ。

兵士と盗坊とは兼ねられぬからな。

こっちの殿様の方へ来るものは、10825

正直な軍人でなくてはならぬ。

はやとり

所が正直と云う奴は分かっていらあ。

すぐに徴発と来るのだ。

お前さん達だって一つ穴だ。

「よこせ」と云うのが仲間の挨拶だ。10830

(はやえに。)

往けよ。持っている物は引き摩って行くのだ。

ここでは己達はもてないからな。(退場。)

第一の護衛

おい。なぜすぐにあいつの横っ面を

ぶんなぐって遣らないのだ。

第二の護衛

なぜだか己は力が抜けて手が出せなかった。10835

変に怪物臭い奴等だから。

第三の護衛

己もなんだか目の前に

火花が散るようで、好く見えなかった。

第四の護衛

己もなんと云ったら好いか知らんが、変だよ。

きょうは一日厭に暑くて、何やら気になるように、10840

息が詰まるように蒸々していた。

平気で立っている奴がある。遣られて倒れる奴がある。

手探で歩きながら人を切る。

刀を一振振る度に、敵は倒れる。

目の前には霧が掛かっているようで、10845

耳はがんがん鳴っている。

始終そんな風で、とうとうここへ遣って来たが、

どうして来たのか、自分にも分からないのだ。

帝と四諸侯と登場。

護衛等退場。

帝

どうしてこれがこうなったにしても、兎に角会戦には勝った。

逃げた敵はもうちりぢりに野原に散らばった。10850

玉座は空しく残っていて、絨緞にくるまれながら、

微かに見える宝物が所狭きまで置いてある。

己達はここで立派に身方の護衛を随えて、帝王の威厳を以て、

県々の使者を待ち受けるのだ。

どの方面からも好い便が来る。10855

国内は平穏になって、民は帰服したそうだ。

よしや戦争に幻術が手を貸したとしても、

詰まり戦うことは自分で戦ったのだ。

昔から偶然の事が軍隊の助になったことは往々有る。

隕石がある。敵陣の上に血が降る。10860

身方を鼓舞して、敵の心をひるまする

怪しい物音が岩穴からした例もある。

敗者は殪れて、謗は必ず下流に帰し、

勝者は栄華を受けて、助くる神を称う。

命令を須いずして、万民信服し、10865

異口同音に「神よ我等汝を称う」と呼ぶ。

しかし今まで己は忽にし勝であったが、敬虔な目を

今我胸に注いで、ここに最高の価値を認める。

年若な、気軽な君主は徒に日を送りもしょうが、

年を取っては重大な、刹那々々の意義を考える。10870

だから己は今すぐに、お前達四人の元勲と、

※内※外一切の事を掟てようと思う。

(第一の臣に。)

侯爵。軍隊の巧妙な部署をしたのはお前だ。

それから機を見て大胆な処置に出たのもお前だ。

以後は平時相応な事業をお前に托する。10875

お前を式部卿にして、この刀をお前に授ける。

式部卿

今まで国内に働いていた、忠実な軍隊が、

玉体と御位との固に、疆を安く戍る上は、

代々お住まいなさる広い城の大広間で、祭の日に

御膳部の用意をいたすことをお許下さいまし。10880

清浄にして献上し、清浄にお給仕をいたして、

尊いお側を離れませぬ。

帝(第二の臣に。)

次には天晴の勇士であって、しかも優美に、おとなしい

お前を侍従長にする。これは容易な役ではない。

お前は宮中一切の職員の頭だ、好く和合せぬと、10885

職員が己の役に立たぬ。主君にも、同僚にも、

誰にも気に入るようにして、これからお前

職員一同の模範になってくれんければならぬ。

侍従長

善人をば助けて遣り、悪人にも害を加えず、

その上潔白で欺かず、沈著で偽らなかったら、10890

上の御意図に副うわけで、必ずお気に入りましょう。

ただこの胸の中をお見抜下されば、それだけで満足いたします。

お祭の日の事まで想像いたして宜しゅうございましょうか。

あなたが食卓にお就になれば、

わたくしは金のお盥の耳を持っていて、お楽の央に10895

折々お手をお滌なさる時、お顔を拝して喜びましょう。

帝

いや。己は今重大な事を思っていて、祭の事は

考えぬが、それは宜しい。それも務の励になる。

(第三の臣に。)

次にお前には光禄卿を申附ける。猟の事、鳥屋、

菜園の事は、今後お前に受け持たせる。10900

月々出来る物の中で、好な物を選ることは

己に任せて、料理を旨くさせてくれい。

光禄卿

味の好いものを差し上げて、御賞味あそばすまでは、

わたくしは義務として、何も戴かずにいましょう。

御料の季節を早めたり、遠方の品を取り寄せたり、10905

厨の役人と打ち合せて、油断なくいたしましょう。

尤も食卓の飾にする初物や珍物はお好なさらず、

滋養になる常の品がお望だとは存じていますが。

帝(第四の臣に。)

どうも祭の話は所詮逃れられぬと見えるから、

次には若い勇士のお前を、良※令にして遣そう。10910

その役になったからには、好い酒がたっぷりと

いつも穴倉にあるようにいたして置け。

しかし自分は節酒して、うかと機会に誘われて、

酔ってしまわぬようにいたせ。

良※令

殿様の御信任さえ受けますると、若い者も、10915

三日見ぬ間に、立派な男に変っています。

わたくしも一つ大宴会の時を想像いたしましょう。

金や銀の、美しい盃で、なるたけ立派にわたくしが

御殿の食卓を装飾いたしますが、

しかし一番結構なお杯は御用に取って置きましょう。10920

それは透き徹ったヴェネチアの玻璃で、

中に楽が待ち受けて酒を旨くし、酔わせませぬ。

しかしさような宝を手頼にいたすは尋常で、

寡欲のお徳はそれに増すお身の備でございます。

帝

この大切な日にお前達に言おうと思った事だけは、10925

お前達、慥かな口から、信じて聞いたことだろう。

綸言は重いもので、授けた物に相違はないが、

それを確めるには書物がいる、印璽がいる。

方式に※うように、それを調えて取らする事は、

その司のものが然るべき時にいたすであろう。10930

(大司祭兼相国登場。)

円天井の建物も、土台の石に重を托して、

それで永く崩れずに立っている。

そこにいる四人の諸侯を見い。今差当り内廷を

維持して行くに有利だと思う廉々を話していた。

国内全体の政治に関した事は、これから五人に10935

しっかりと申し附けて置くことにしよう。

お前達の領分は余の臣下より立派にしたい。

そこで己に叛いたもの共の地所を併せて、

今直にお前達の領地界を広めて遣す。

お前達には随分結構な土地を遣った上に、10940

今後譲受、買受、交換の折毎に、

それを広めて行く権利をも授ける。

その外領主として正当に行うはずの廉々は、

故障なく行うように、この場できっと許して置く。

裁判官としては最後の審判をいたして好い。10945

その審判に異議は申させぬことにする。

それから賦割、利足、献納物、道銭、租金、税金から、

塩や鉱産物の専売、貨幣の鋳造まで、皆差し許す。

これは己の感謝の意を十分に表するために、

帝位の次に引き上げたお前達であるからだ。10950

大司祭

一同に代って厚くお礼を申し上げます。

我々を強く堅固になさるのも、詰まり王室のお為でござります。

帝

まだお前達五人に托する一層重い事がある。

現に己は生きていて、これからも生きていたいが、

祖宗歴代の鎖は、落ち著いた己の目を、10955

邁往の衢から畏敬の道へ呼び戻す。

己もいつかは親族に別れずばなるまい。

その時は、お前達、己の世嗣を選んでくれい。

宝冠を戴かせた上、贄卓に登らせて、

騒がしかった世の末を、太平に結んでくれい。10960

相国

誇を深い胸に蔵め、敬を色に表して、

人臣の最上たる諸侯がお前に拝伏します。

忠義の血がこの脈を漲り流れておりまする間は、

我々は君の意志で働く、一つの体でござります。

帝

そこで最後に言って置くが、これまで申し渡した10965

一切の事は、追って書附にして、親署して遣す。

総てお前達の所有物は自由に処理して宜しいが、

分割することはならぬ。それが唯一の条件だ。

また己に貰った物を、どれだけ殖やしていようとも、

それをそのままお前達の嫡子に譲って遣って好い。10970

相国

国家の栄、我々の栄のため、大切なお定を、

直様、謹んで記録に留めまして、

浄書、封緘は記録所で扱わせます。

どうぞ御親署を遊ばして下さりませ。

帝

それでは一同暇を取らせる。大切な日であるから、10975

銘々この場を引き取って、内省いたしているが好い。

(世俗の四諸侯退場。)

大司祭

(一人残りて、荘重に言ふ。)

相国は引き取りましても、大司祭は残りました。

あなたのお耳に入れたい諫の情に駆られまして、

父のような心がお身の上を気遣うのでござります。

帝

この喜の日に何の気遣があるのか。それを申せ。10980

大司祭

こう云う日に、神聖な、あなたのお心が、

悪魔と結托しておいでなさるのを、いかにも苦痛に存じます。

無論見掛は御位が安全なようでござりますが、

惜むらくは主や法王の祝福がおありなさりません。

法王がもしお聞になったら、すぐに神聖な御権威で、10985

罪の深いこの国をお罰しになりましょう。

あなたが戴冠式の日に、今殺そうと云う悪魔師を、

お救になったことを、法王はまだお忘にはなりませぬから。

お冠から出た、特赦の第一の光は、

クリスト教世界に危害を与え、咀われた人の頭に落ちました。10990

どうぞお胸にお問になって、擅に受けられた

この幸福の一分を、ロオマへお返しなさりませ。

あの悪魔がお身方をしに出て参って、

あなたが偽貴族の甘い詞をお聴納になった時、

あなたの帷幕の張ってあった、あの一帯の丘陵を、10995

過を悔いて、敬虔に、ロオマへ御寄附なさりませ。

山や茂った森の広がっている限、

肥えた牧場になっている高地も、魚の多い、澄んだ湖水も、

迂りながら急いで谷に灌ぐ、無数の小川も、

下の牧場や、原や、谷合になっている、広い低地も、11000

そっくり御寄附なさりませ。そうなされたら、お詫が※って、

お赦免になるでございましょう。

帝

いや。思い掛けぬ失錯を教えられて恐懼に堪えぬ。

寄附の地所の境界は、お前勝手に極めてくれい。

大司祭

先ず取り敢えず、あの罪悪の場所であった、11005

咀われた土地を、なるべく早く、尊い祭の場所にすると、

御沙汰をなされて下さりませ。厚い石壁が忽ち聳え、

歌者の座に朝日がさし込み、段々建て添えられる寺院が

十字形に広がり、信者のいる中の間が延び、高まり、

歓喜する信者の群が、11010

熱心に立派な門から籠み入って、

天に聳立つ塔の上から、鳴り響く第一の鐘の音が、

山にも谷にも聞え渡り、再造の恩が受けたさに、

懺悔の民が寄って来るのが、もう心に浮んで来る。

どうぞこの霊場の落成の日に早く逢いたい。11015

上の御臨場が当日の最大の光栄でござりましょう。

帝

なるほど神の徳を称え、己の罪障を消滅させるには、

そんな大工事で、真心を広く知らせるも好かろう。

好い。己の心の澄んで来るのが、もう分かるようだ。

大司祭

御決裁と文書の作成とを、相国としてお願申します。11020

帝

その寄附の合式証書をお前作って、己の前へ持って来い。

己は喜んで署名をいたして遣す。

大司祭

(暇乞して起ち、出口にて顧みる。)

さて追って出来上がりまする寺院には、

十分一金、利足金、上納金なんど、一切の租税を、

永遠に御免除下さりませ。立派に維持してまいるにも、11025

綿密に経営いたすにも、大した費用が掛かります。

かような荒地へ、至急に工事をいたすには、

戦利品の財宝を多少お下渡し下さりませ。

その外遠方の材木、石炭、スレエトなんぞを使うと申すことも、

申し上げずには置かれません。11030

運搬だけは、説教いたして、人民に負担いたさせます。

冥加のために運んで来て、祝福を受けるのでござります。

(退場。)

帝

いや。己の身に負った罪は重くて大きい。

風来の魔法使奴が己にえらい迷惑を掛けおった。

大司祭

(また帰り来て、最敬礼を行ひつゝ。)

今一つ申し上げます。あの評判の悪い男に、11035

全国の海岸をお遣しになりましたね。

あそこの十分一金、利足金、上納金、一切の租税も、懺悔の思召で、

寺院へ御寄附なさらぬと、あの男が寺院の罰を受けます。

帝(不機嫌に。)

あれはまだ海の底で、土地にはなっていないのだ。

大司祭

権利を戴いて忍耐していれば、時節が参るのでござります。11040

お詞は有功だと、わたくし共は心得ておりましょう。

(退場。)

帝(一人残る。)

あの様子では国を皆遣っても満足はすまいなあ。

第五幕

開豁なる土地

旅人

うん。あれだ。あの勢の好い、

茂った古木の菩提樹だ。

こんな長旅をして来て、11045

またあれを見ることか。

波風に、あの沙原へ

打ち上げられた時、

己を舎してくれたのはあの小屋だ。

これが昔の場所なのだ。11050

実に祝福して遣りたい主人であった。

人を助けることの好な、正直な夫婦だった。

しかしあの時もう大ぶ老人であったから、

もう再会することは出来まい。

ああ。ほんに敬虔な人達であったなあ。11055

戸を叩こうか。呼んで見ようか。おい。

今も猶客を好んで、積善の余慶を受けているなら、

己の挨拶を聞いてくれい。

媼バウチス

(甚だ老いたり。)

お客様。お静かになすって下さいまし。

爺い様を休ませて下さいまし。11060

年寄は長く寐なくてはちょいと寤めている間に、

しっかり働くことが出来ませぬ。

旅人

おばさん。昔御亭主と一しょに、

若いものの命を助けて下さったのは

あなたですか。その時のお礼を11065

聞いておもらい申したいのですが。

半分死んでいた、わたしの口を、

まめに養って下さったバウチスさんはあなたですか。

(翁登場。)

わたしの荷物を、骨を折って、波間から

引き上げて下さったフィレモンさんはあなたですか。11070

あの恐ろしい、不慮の事の跡始末は、

あなた方に、あなた方の所の

手早く焚き附けた火の光に、

白金のように鳴った鐘の音に任せてあったのだ。

そこでわたしに今一度外へ出て、11075

あの果のない海を見渡させて下さい。

わたしに据わって祈祷をさせて下さい。

わたしは胸が一ぱいになっているから。

(旅人沙原に歩み出づ。)

翁フィレモン(媼に。)

晴やかに花の咲いている、あの庭へ

急いで食卓の用意をおし。11080

お客は走り廻って、驚いていても好い。

目で見ながら、不思議に思っているのだから。

(旅人の傍に来て立つ。)

荒波がしぶきを飛ばして、

お前さんをひどい目に逢わせた海が、

花園のようになっているのが見えますでしょう。11085

天国のような画図になって見えるでしょう。

わたしも年を取って、もう昔のように手ぐすね引いて

人を助けようとしてはいられませんが、

わたしの力の衰えるに連れて、

波も遠く沖の方へ引きました。11090

賢い殿様の、大胆な御家隷衆が、

溝を掘って、土手を築いて、

海の権力を狭めて、

代って主になろうとせられます。

並んで緑に栄える牧場や、草苅場や、11095

畑や、村や、森の出来たのを御覧なさい。

だが早くあちらで何か上がって下さい。

もう今に日が入ってしまいます。

あのずっと遠くに帆が見えていますね。

夜泊まる港を捜しているのでしょう。11100

鳥だって塒は知っていますから、

今あそこに出来ている港をさして行くのでしょう。

あの遠くに青い縁の見える、

あそこがやっと海なのです。

右も左も、広い間が11105

皆賑やかな人里になっています。

(庭にて三人卓を囲みて坐す。)

媼

なぜあなたは黙っていて、お中が透いていましょうに、

一口も物を上がりませんか。

翁

あの不思議な話が聞きたいと仰ゃるのだ。

話の好なお前が言ってお聞せ申すが好い。11110

媼

そうですね。奇蹟だとでも申しましょうか。

今になってもわたくしは気が鎮まりません。

どうもあの出来事は

正当な事ではございませんからね。

翁

でもこの海岸をあの方にお授になったお上が、11115

なんで罪の深い事をなされよう。

その御沙汰はお使が鳴物を鳴らして触れて

この家の前をも通ったじゃないか。

工事に手を著けられた場所は、

この沙原から遠くない所でございました。11120

天幕や小屋が最初に出来ましたが、

間もなく草木の緑の中に、立派な御殿が立ちました。

媼

昼間は御家隷達が鋤鍬を使って、

無駄に騒いでばかりお出になるようでしたが、

夜沢山火が燃えていた跡に、11125

翌日は立派に土手が築いてございました。

牲にせられて血を流した人達があったとかで、

夜苦しがって泣く声がいたしまして、

海の方へ火が流れて参ったと思いますと、

朝はそこが溝になっておりました。11130

不人情な檀那で、この小屋や地面を

欲しがってお出になります。

隣で息張っていらっしゃるので、

こちらではただ恐れ入っていなくてはなりません。

翁

でもこの地面の代に、新しく拓いた土地の11135

立派な場所をくれようと仰ゃったのだ。

媼

あんな海であった土地を頼におしでない。

やはりこの高い所を持ちこたえている事ですよ。

翁

さあ、みんなでお堂へ這入って

夕日の名残を惜みましょう。11140

そして鐘を撞いて、据わって、お祈を上げて、

昔からの神様にお縋申しましょう。

宮殿

広き遊苑。真直に穿ちたる大溝渠。

老いさらぼひたるファウスト沈思しつゝ歩めり。

望楼守リンケウス

(通話筒にて話す。)

日は入り掛かる。

遅れた舟が面白げに港に這入って行く。

大きな舟が一艘、11145

掘割をこちらへ来掛かっている。

彩った旗が心地好く靡いて、

強い檣がいつでも用に立つように聳えている。

お前に乗り込んでいる船長は嬉しい事だろう。

福がお前を待ち兼ねているだろう。11150

(沙原にて撞く鐘の声す。)

ファウスト

(耳を欹つ。)

また咀われた鐘の音がする。

不意に矢を射掛けるように、ひどく己を傷けおる。

目の前には己の領地が果もなく横わっているのに、

背後からは懊悩が己を揶揄う。

物妬の声がこんな事を思い出させる。11155

己の立派な領地は不浄だ。

あの菩提樹の岡、茶いろの家、朽ちそうになった、あの寺は

己のではないと思い出させる。

保養にあそこへ行って見ようと思うと、

余所々々しい影が己に身顫をさせる。11160

あれは目に刺された刺、足の蹠の刺だ。

ああ。こんな所にはもういたくない。

望楼守(同上。)

あの彩った舟が、

爽かな夕風に気持好く帆を揚げて近寄ること。

どんなにか堆く、大箱、小箱、嚢などを積み上げて、11165

急いで持って来るだろう。

外国の産物を、豊富に、雑駁に積みたる華麗なる舟。

メフィストフェレス。三人の有力者。

合唱の群

それ、陸揚だ。

それ、もう著いた。

わが保護者に、

わが主に幸あれ。11170

(陸に上りて、荷を陸に運ぶ。)

メフィストフェレス

これで運験をしたと云うものだ。

檀那さえ褒めてくれれば、万歳だ。

たった二艘の舟で出て、

二十艘にして港へ帰った。

大した為事をしたと云うことは、11175

積荷を見れば分かるのだ。

自由な海は人の心を解放する。

思案なんぞを誰がしているものか。

なんでも手ばしこく攫むに限る。

肴も捕れば舟も捕る。11180

舟三艘の頭になると、

四艘目の舟も、鉤索で引き寄せる。

お気の毒だが、五艘目も助からない。

暴力のある所に正義は帰する。何を持っているかが問題だ。

どうして取ったかは問題にならぬ。11185

舟軍と貿易と海賊の為事とは、

分けることの出来ない三一同体だと云うのが※なら、

己は航海業の白人だ。

三人の有力者

礼も言わねば挨拶もせぬ。

挨拶もせねば礼も言わぬ。11190

檀那に臭い物でも

持って来て上げたようだ。

檀那は厭な

顔をなさる。

王者の獲も11195

お気には入らない。

メフィストフェレス

此上御褒美を貰おうと

思っているなら、間違だ。

てんでに取るだけの物は

取っているじゃないか。11200

有力者

あれはその折々の

退屈凌ぎだ。

割前は平等にして、

もらわなくては。

メフィストフェレス

何より先に11205

宝物を

上の座敷々々に

並べるのだ。

そこで檀那が数々の品物を、

お出になって御覧になって、11210

そこで一々何もかも

精しく当って見なさるが、

なかなかごまかさせては

お置なさらぬ。

さてその上で乗組員に11215

御馳走は何度もあるのだ。

五色の鳥はあした来る。

その世話は己がしっかり引き受ける。

(荷物を運び去る。)

メフィストフェレス(ファウストに。)

あなたは顔を蹙めて、陰気な目をして、

優れた好運の話をお聴取になりますね。11220

雄大な智謀が功を奏して、

岸と海との和親は成就した。

岸を離れる舟を、海は喜んで引受けて、

脚早く遠方へ持って行く。

ここにいる、この御殿にいる、あなたの手が11225

全世界を抱擁しておいでになると仰ゃっても好い。

最初手を著けたのはこの場所でした。

ここに始て小屋掛をしました。

そしてあの時溝を掘った所に、

今は忙しい※が波を切っています。11230

あなたの智略と、御家隷の骨折とで、

水と土との利を収めたのです。

丁度ここから。

ファウスト

そのここが咀われている。

それがひどく己を悩ましているのだ。

気の利いたお前に己は打明けるが、11235

それが己の胸を断えず刺して、

もう辛抱が出来なくなった。

どうも口に出すのも恥かしい事だ。

実はあの岡の上にいる爺婆を逐い除けて、

あの菩提樹の蔭に己は住みたい。11240

あの何本かの木が我物でないのが、

世界を我物にしている己の興を損ずる。

己はあそこから四方を見渡されるように、

枝から枝へ足場を掛けさせ、

十分に展望の利くようにして、11245

己のしただけの事を見渡し、

土着した人民共の安堵するように、

賢く政治をして遣りながら、

未曾有の人為の大功を

一目に眺めていたいのだ。11250

富を得ていながら、闕けた事を思う程、

苦しい事は世間にない。

あの鐘を聞き、菩提樹の花を嗅げば、

寺の中か、墓の中にいるような気がする。

物毎に自由になる威勢が11255

あそこの砂に挫かれる。

どうしたらこれを気に掛けずにいられよう。

あの鐘が鳴れば、己は気が狂いそうだ。

メフィストフェレス

そうでしょうとも。そんな気になる事があっては、

面白くなく日をお暮しになるのは当前だ。11260

誰も無理とは云いません。あの鐘の音は、

誰の上品な耳にも厭に聞えます。

あの咀われた、ぼおん、ぼおんが

晴れた夕空をも曇らせて、

産湯から葬式までの、11265

あらゆる世間の出来事に交って聞える。

まるで人生と云うものが、ぼおんとぼおんとの間の、

消えてしまった夢のようだ。

ファウスト

どうも人の片意地と反抗とが

どんな立派な成功をも萎けさせるので、11270

大きい、恐ろしい苦痛の中に、

正義の心さえ倦み疲れてしまうようになるのだ。

メフィストフェレス

ここでなんの遠慮がいるものですか。

疾っくの昔新開地へお遣になっても好かったのだ。

ファウスト

そんなら往って、あれを立ち退かせてくれい。11275

爺婆のために己の見立てた、立派な地所は、

お前、前から知っているはずだ。

メフィストフェレス

なに。そっとさらって行って、据えて置けば、

見返る隙に起き上がっています。

圧制も、受けた跡で、立派な住いを見れば、11280

我慢が出来るものですよ。

(鋭く口笛を吹く。)

三人の有力者登場。

さあ、来い。殿様の御沙汰がある。

それからあしたは乗組員の宴会だ。

有力者

随分まずいお待受でした。

御馳走位あっても好い。11285

(退場。)

メフィストフェレス

(見物に。)

やっぱりここでも昔あった事がまたあるのです。

ナボトの葡萄山と云うのがありましたっけね。

深夜

望楼守

(城の望楼にありて歌ふ。)

物見に生れて、

物見をせいと言い附けられて、

塔にこの身を委ねていれば、11290

まあ、世の中の面白いこと。

遠くも見れば、

近くも見る。

月と星とを見る。

森と鹿とを見る。11295

万物を永遠なる

飾として見る。

そして総てが己に気に入るように、

己自身も己に気に入る。

幸ある我目よ。11300

これまで見た程の物は、

何がなんと云っても、

兎に角皆美しかった。

(間。)

だが己は自分の慰にばかり、

こんな高い所へ上げられているのじゃない。11305

闇黒の世界から、なんと云う気味の悪い

恐怖が己を襲って来ることだろう。

二重に暗い菩提樹の蔭から、

火の子が飛び出して来た。

風に飜り立てられて11310

火勢はいよいよ強くなる。

や。あの苔蒸して湿って立っていた、

中の小屋が燃え上がる。

早く救って遣らんではなるまい。

いや。もう救うことは出来まい。11315

ああ。不断火の用心を善くしていた、

人の好い老夫婦が、

烟の獲にせられてしまう。

なんと云う恐ろしい災難だろう。

※が燃え立って、黒かった苔の屋が11320

火の中に赤く立っている。

あの地獄の猛火の中から

老人達は逃げ延びただろうか。

梢の間から、葉の間から

火の舌が閃き出ている。11325

枯枝にちょろちょろ火が移って、

すぐに焼けては落ちてしまう。

我目よ。あれを見なくてはならぬか。

己はこんなに遠くが見えなくてはならぬか。

落ちた大枝の重りで、11330

小さい祠は潰れてしまう。

もう木の頂が、尖った※に、

蛇のように纏い附かれた。

空洞な幹が根まで焼けて、

真っ赤になって立っている。11335

(長き間。歌。)

つね人の目を慰めた

幾百年の樹も滅びた。

ファウスト

(出窓にありて砂原を望む。)

上の方から聞えるのは、なんと云う歎の歌だろう。

今はあの一言一声がもう時機に後れている。

望楼守が泣いている。11340

心の奥で、早まった業が己を悩ます。

あの半分炭になった幹には気の毒だが、

こうなれば菩提樹の木立を伐り開いて、

眼界を遮る物のないような

望楼をすぐ立てよう。11345

己の情に救われた恩を思って

楽しく余年を送る、

老人夫婦の住んでいる

新しい家も、もう目に見るようだ。

メフィストフェレスと三人の有力者と(下にて。)

大急ぎで遣って来ました。11350

御免なさい。穏和手段は駄目でした。

戸を叩いても叩いても、

とうとう開けてはくれません。

懲りずに叩いて、ゆさぶるうちに、

朽ちた扉は倒れました。11355

大声でどなったり、ひどく嚇したりしたが、

どうしても聴きません。

兎角そんな時の習で、

聴きもしない、聴こうともしない。

しかしわたし共はぐずぐずせずに、11360

あいつ等を早速逐い退けて遣りました。

老人共は大した苦みもしませんでした。

驚いて倒れたきり、死んだのです。

旅人が一人隠れていて、

切って掛かりましたから、片附けました。11365

荒為事をしている、ちょいとの間に

炭火がそこら中へ散らばって、

藁に移りました。そこで三人が

旨く火葬になるわけです。

ファウスト

己の詞が耳に聞えなかったのか。11370

交換しようとは云ったが、強奪しようとは云わなかった。

無謀な暴挙を己は咀う。

責任はお前達が分けて負うが好い。

合唱の群

古い詞が聞えるぞ。

威勢にはすなおに靡け。11375

大胆で逆いたけりゃ、

家も地面も身も賭けろ。

(退場。)

ファウスト(出窓の上にて。)

星がもう光を隠して、

火も下火になって来た。

風がそよそよと吹いて来て、11380

烟を己の方へ吹き靡ける。

早まって言い附けた事を、早まってした。

や。なんだ。影のような物が来る。

半夜

灰色の女四人登場。

第一の女

わたしの名は不足だ。

第二の女

わたしの名は罪だ。

第三の女

わたしの名は憂だ。

第四の女

わたしの名は艱だ。11385

三人諸共に

戸が締まっていて這入られませんのね。

中には金持がいるから、這入りたくもないわ。

不足

そんならわたし影になるわ。

罪

わたしなんでもなくなるわ。

艱

奢っている人はわたしに顔を背けるのね。

憂

お前方は這入られもしないが、這入ってもならないわ。11390

わたし錠前の穴から這入ってよ。

(憂消え失す。)

不足

さあ、皆さん、一しょにここを逃げましょうね。

罪

わたしお前さんの傍に引っ附いて行ってよ。

艱

わたしお前さんの跡から食っ附いて行ってよ。

三人諸共に

雲が出て来て、星が隠れたのね。11395

あの奥の、遠い、遠いところから、

兄弟が来ますのね。あれ、あそこに。兄弟の死が。

(退場。)

ファウスト(宮殿にて。)

四人来て、三人帰った。

話の意味は分からなかった。

なんだか艱と云うような後声が聞えて、11400

その跡から陰気な死と云う詞が聞えた。

空洞な、怪物染みた、鈍い声であった。

まだ己は圏の外へ遁れずにいるが、

どうぞ己の生涯から魔法を除けて、

呪文と云うものを綺麗に忘れたいものだ。11405

そして自然の面前に男一人になって立ったら、

人間として生きる甲斐があるだろうに。

己も、闇黒の中を探って、傲慢な詞で

身をも世をも咀った、あの時までは、男一人であったのだ。

今は怪異があたりの空気に満ちて、11410

どうして避けて好いか、分からぬ。よしやある時

昼の日が真面目に、晴やかに笑ってくれても、

夜が己を夢の網に捕えてしまう。

心嬉しく新草の野を見て帰れば、鳥が啼く。

なんと啼くか。凶事と啼きおる。11415

虚妄の糸が旦暮この身に纏って、

形が見える。物を告げる。警戒を勧める。

そこで己はいじけて孤立している。

門ががたりと云う。そして誰も這入っては来ぬ。

(竦然として。)

誰かいるのか。

憂

そのお尋には否とは申されませぬ。11420

ファウスト

そしてお前は誰だ。

憂

兎に角ここに参っているものです。

ファウスト

下がれ。

憂

いえ。ここはわたくしのいて好い所です。

ファウスト

(初め怒り、既にして自ら慰む。)

だがな、用心していろ。呪文なぞを唱えるなよ。

憂

耳にはわたしの声が聞えなくても、

その方の胸にはしっかり響きましょう。11425

これでわたしは色々に姿を変えて、

人を随分こわい目に遇わせますの。

陸にいても、海にいても、

心配げなわたしは、いつもお連になっています。

誰も来いとは申しませんが、わたしはいつも附いていて、11430

お世辞も言われ、咀われもします。

あなた、憂をまだ御存じなかったの。

ファウスト

己は世の中を駆けて通った。そしてあらゆる歓楽を、

髪を攫んで引き寄せるようにした。

意に満たないものは衝き放し、11435

手を脱れたものは勝手に逃がし、

ただ望を掛けては、望を遂げ、

また新しく望を掛け、そんな風に勢好く、

生涯を駆け抜けた。初は盛んに、押強く遣ったが、

今では賢く、落ち著いて遣る。11440

この世の中はもう知り抜いた。

その埒の外へ出抜ける当は無い。

誰にもしろ、目映そうに上を向いて、

天の上に自分のようなものがいると思うのは、馬鹿だ。

それよりしっかり踏み止まって、周囲を見ろ。11445

えらい奴には世界が隠立はせぬ。

何も永遠の境にさまようには及ばぬ。

自分の認識した事は、手に握ることが出来る。

そうしてこの世で日を送るが好い。

よしや怪物が出ていても、自分は自分の道を行くが好い。11450

そのゆくてには苦もあろう。楽もあろう。

どうせ、どの刹那にも満足はせぬのだから。

憂

誰でもわたしが手に入れると、

その方には世界はなんにもなりませぬ。

永遠の闇が被さって来て、11455

日が出もせねば入りもせぬ。

目や耳は満足でいながら

心の内には闇が巣を食う。

世の中のどの宝をも

その方は手に入れることが出来ぬ。11460

福も禍もその折々の気まぐれになって、

有り余る中で餓えている。

嬉しい事も、つらい事も、

次の日へ送って行く。

よしや向うが見えていても、11465

物が出来上がると云うことはありません。

ファウスト

廃せ。己はその手は食わぬ。

そんな無意味な事は聞きたくない。

そこを退け。その称言には、どんな賢い男も

惚かされてしまいそうだ。11470

憂

往こうか、来ようか、

決心がその方には附きません。

開けている道の途中を、探足で、

小股に、よろけながら歩いている。

次第に方角が立たなくなって、11475

見当が皆間違って来て、

小さくなりながら、人の邪魔になって、

溜息を衝いては、息苦しがる。

息は詰まらぬが、元気も無い。

絶望はせぬが、諦念も附かない。11480

こう云う絶間のない経歴、

惜みながら措くこと、嫌いながらすること、

楽になったかと思っては、また悩されること、

おちおち寐ないで、気分の直らぬことが

体をその場に釘附にしていて、11485

地獄に堕ちる支度をさせます。

ファウスト

咀われた悪霊奴。お前達は人間を、

幾度となく、そんな風に扱うのだ。

当前の日をもお前達が、網に罹ったような煩悩の、

厭な混雑にしてしまうのだ。11490

霊の厳しい結托は引き放しにくくて、

附いた悪霊の退かぬことは、己も知っている。

だが、こりゃ、憂、お前の密かな、強い力をも、

己は認めて遣さぬぞ。

憂

いえ。わたしがすばやく咀って置いて、11495

あなたに背中を向けるとき、わたしの力をお験下さい。

一体人間は生涯盲でいるものです。

そこで、ファウストさん、あなたは盲に今おなりなさい。

(ファウストに息を嘘き掛け、退場。)

ファウスト(失明して。)

夜が次第に更けて来たらしい。

だが心の中には明るい火が赫いている。11500

己の思っただけの事は早くしてしまわんではならぬ。

主人の詞の外に重いものはない。

家隷共。一人も残らず、寝牀から起きい。

大胆に己の工夫した事を、面白く己に見せてくれ。

道具を手に持て。鋤鍬を使え。11505

極めた為事をすぐしてしまえ。

掟を守って、急いで励めば、

無類の立派な功が立つ。

この大業を完成するには、千本の手を使う

ただ一つの心があれば十分なのだ。11510

宮城内の大いなる中庭

松明。

メフィストフェレス

(支配人として先に立つ。)

寄って来い。這入って来い。

よろめく死霊共。

骨と筋と紐とを繕い合せた

半端物共。

死霊レムレス(合唱。)

御用を早速勤めましょう。11515

聞きはつりました所では、

どうやら広い地面があって、

それをわたくし共が戴くのだそうですね。

先を尖らせた杙も、測量に使う

長い鎖も、ここにあります。11520

だがなぜ呼ばれたのだか、

実はもう忘れました。

メフィストフェレス

ここではそんな技師のするような手数はいらぬ。

尺は自分の体で取るが好い。

一番背の高い奴がそこへ横に寝ろ。11525

外の奴等は周囲の草を取れ。

親爺共を葬る時にしたように、

長方形に掘り窪めろ。

御殿から出て、狭い家に這入る。

どうせしまいはこんな馬鹿気た事になる。11530

死霊

(おどけたる態度にて土を掘る。)

己も若くて生きていて、色もした。

なんだか随分好かったかと思われる。

どこかで好い音がして、面白そうだと、

己も出掛けて踊ったものだ。

そのうち老と云う横著ものが、11535

杖を持って来てくれた。

己はちょっと躓いて、墓の戸口へ転げ込んだ。

なぜまたあの戸が折悪く開いていたやら。

ファウスト

(宮殿より出で、戸口の柱を手もて摸索す。)

あの鋤のからから鳴るのが、実に好い心持だ。

あれは己に奉公している物共だ。11540

土をその所に安んぜさせ、

波を程好き界に堰き留め、

海の周囲に厳かな埒を結うのだ。

メフィストフェレス(独言。)

そのお前さんが土や木の束で※を築くのも、

詰まり己達のために骨を折るのだ。11545

なぜと云うに、お前さんは水の魔の

ポセイドンに大御馳走をするのだから。

どの道お前方は助からない。

四大は己達とぐるになっていて、

なんでもしまいには滅びるのだ。11550

ファウスト

支配人。

メフィストフェレス

ここにいます。

ファウスト

どんな手段をでもして、

人夫を集められるだけ集めて、

馳走と嚇しとで元気を附け、

金も遣り、おびきもし、虐げもせい。

そして計画した溝渠がどれだけ延びたか、11555

毎日己に知らせるようにせい。

メフィストフェレス(中音にて。)

こっちの聞いた知らせには、

溝渠の話なんぞはないが、薨去の話ならあるのだて。

ファウスト

あの山の麓に沼があって、

悪い蒸気がこれまで拓いた土地を皆汚している。11560

あのきたない水の決口を附けるのが、

最後の為事で、また最上の為事だ。

そこで己は数百万の民に土地を開いて遣る。

安全ではないが、働いて自由に住まれる。

土地は肥えて草木が茂る。11565

大胆に働いた民等の築いた、高い丘を繞って、

新開地に面白そうに、すぐ人畜が居著くのだ。

よしや外では海の潮が、岸の縁まで騒ぎ立っても、

ここの中は天国のような土地になっている。

海の潮が無理に土を抱き込もうとして、11570

意地きたなく岸を噬んでも、

衆人力を一つにして、急いでその穴を填めに往く。

好い。己の服膺しているのは、

人智の最上の断案で、それはこうだ。

凡そ生活でも、自由でも、日々これを贏ち得て、11575

始てこれを享有する権利を生ずる。

だからここでは、子供も大人も年寄も

そう云う危険に取り巻かれて、まめやかな年を送るのだ。

己はそう云う群を目の前に見て、

自由な民と共に、自由な土地の上に住みたい。11580

己は「刹那」に向って、

「止まれ、お前はいかにも美しいから」と呼びたい。

己のこの世に残す痕は

劫を歴ても滅びはすまい。

そう云う大きい幸福を予想して、11585

今己は最高の刹那を味うのだ。

(ファウスト倒る。死霊等支へ持ちて地上に置く。)

メフィストフェレス

この男はなんの楽にも飽かず、なんの福にも安んぜず、

移り変る姿を追うて、挑んで歩いた。

そしてこの気の毒な奴は、

最後の、悪い、空洞な刹那を取り留めて置こうと思った。11590

己に随分手痛く逆ったものだが、時は功を奏して、

親爺奴、今ここの沙の上に身を委ねた。

時計は止まった。

合唱の群

止まった。そして真夜中のように

黙っている。針は落ちる。

メフィストフェレス

落ちる。用は済んだ。

合唱の群

過ぎ去った。

メフィストフェレス

過ぎ去ったと。馬鹿な詞だ。11595

なぜ過ぎ去らせるのだ。

過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じだ。

何のために永遠に物を造るのだ。

そして造られた物を「無」に逐い込むのだ。

今何やらが過ぎ去った。それになんの意味がある。11600

元から無かったのと同じじゃないか。

そして何かが有るように、どうどう廻をしている。

それよりか、己は「永遠な虚無」が好だ。

埋葬

死霊(単吟。)

こんなにまずい家の普請を誰がした。

鋤で、鍬で。11605

死霊等(合唱。)

麻の襦袢の陰気男のお前には

ちと出来過ぎた。

死霊(単吟。)

こんなにけちな座敷の飾を誰がした。

卓もない、椅子もない。

死霊等(合唱。)

ありゃちょいとの間借りたのだ。11610

掛取共の多いこと。

メフィストフェレス

体は倒れている。霊が逃げようとしている。

早くあの血で書いた手形を見せよう。

どうも此頃は悪魔の手から霊を取り上げるに、

色々な手段があって困る。11615

もう昔の流儀では間に合わない。

新しい流儀にはまだ慣れていない。

昔は己がひとりで遣ったが、

今は手伝を連れて来なくちゃならない。

どうも己達は何をするにも都合が悪くなった。11620

在来の習慣も、昔の権利も、

何一つ引当にすることが出来ない。

元は極まって最後の息と一しょに飛び出すのを、

己が待ち受けていて、極すばしこい鼠のように、

ひょいと、堅く握った拳の中に攫むのだった。11625

所が今では霊奴が用心深くなって、

陰気な場所を、厭な死骸の、胸の悪い家を容易に出ない。

とうとう互に嫉み合う元素が、

情なくもそいつを逐い出してしまうのだ。

そこで朝から晩まで己は苦労するのだが、11630

いつ、どんな風に、どこから出るかが、厄介な問題だ。

死と云う古い奴がすばやい力を亡くしてからは、

果して死んだかと云う事からが、長い間疑わしい。

己がしゃっちこ張った体に色目を使っていると、

それはただ見掛だけで、そろそろ動き出すことがある。11635

(羽の生えたる神人の如き、奇怪なる呪咀の挙動。)

さっさと遣って来い。もっと駈足をして来い。

角の直な先生に、角の曲った先生。

どれもどれも、正真正銘の悪魔の門閥家だ。

ついでに地獄の※も持って来い。

勿論地獄には※が沢山、沢山ある。11640

そいつが身分次第、位階次第で呑み込むのだ。

だが未来へ逐い込む、この最後の洒落を遣るのに、

格別窮屈に選り分けるわけではない。

(左の方に恐るべき地獄の※開く。)

や。地獄の口の糸切歯が開いた。

吭の天井から恐ろしい勢で火※が涌き出る。11645

そしてその奥の沸き返る蒸気の中に、

永遠に燃えている、※の城が己に見える。

赤い波が歯の直後まで打ち寄せて来る。

咀われた奴等が助かりたさに泳ぎ附く。

ところをハイエナの牙めく牙にひどく噬まれて、11650

奴等は心細い、火の中の彷徨をまた繰り返す。

あの隅々にはまだ気の附かなかった物を

沢山に見ることが出来る。狭い間に許多の恐怖がある。

まあ、こんな風に罪人共を威かすも好かろう。

どうせ夢だ、まやかしだとしか思ゃあしない。11655

(短き直なる角の胖大鬼等に。)

おい。火のような頬っぺたをした、太った横著者共。

硫黄で肥えて、好く燃えているぞ。

短い、動いたことのない、木の株のような項をしているな。

今に燐のように光る物が出るから、

ここの下の所で待っていろ。それが霊だ。11660

羽の生えたプシヘエだ、それをむしると、きたない蛆になる。

己がそいつに極印を打って遣る。

その時火※の渦巻く中を持って逃げて貰うのだ。

なんでも体の下の方に気を附けていろ。

食もたれ奴。それがお前達の職分だ。11665

霊殿がその辺にお住いになっているか、

それはしかとは分からない。なんでも臍には住みたがる奴だ。

あそこから飛び出すかも知れないから、

好く気を附けているのだぞ。

(長く曲れる角を戴ける痩鬼等に。)

そっちの風来もの共。羽の生えた巨人共。11670

お前達は止所なく虚空を攫んで見てくれ。

臂をずっと伸ばして、尖った爪を見せて、

ふらふら飛んで逃げる奴を掴まえてくれなくちゃならない。

奴は古家の中にいるのが厭に違ない。

それに天才と云う奴はすぐ上へ抜けたがるのだ。11675

(上右の方より光明さす。)

天人の群

罪人免し、

塵に命あらせんため、

ゆるやかに天翔り来よ。

御使よ。

天の族よ。11680

たゆたふ列の

空に漂ふ隙に、

あらゆる物の上に

やさしき痕を留めよ。

メフィストフェレス

厭な音が聞えるぞ。溜まらない調子だ。11685

待ちもしない夜明と一しょに上の方から来おる。

敬虔がる趣味の奴に気に入りそうな、

野郎とも娘っ子とも附かない歌いざまだ。

己達がやけになって、人間の根だやしをしようと思ったことは、

お前達も知っているはずだ。11690

なんでも己達の工夫した、一番ひどい罪悪を、

奴等は祈って救うに丁度好いとしている位だ。

畜生奴。陰険に遣って来やがる。

これまで幾人横取をして行かれたか知れない。

己達の武器を、奴等は使って、己達を退治るのだ。11695

あいつ等もやっぱり悪魔だ。ただ仮面を被っているだけだ。

ここで負けようものなら、永遠な恥辱だ。

墓の側へ寄って、穴の縁をしっかり守っていろ。

合唱する天使等(薔薇の花を蒔く。)

色赫ける、

高き香送る薔薇の花よ。11700

閃き、漂ひ、

みそかに物を活かすものよ。

小枝を翼とせる、

蕾の封の披かれたるものよ。

疾く往きて花咲け。11705

春よ。芽ぐめ。

紅に、はた緑に。

楽土を

憩へるものに与へよ。

メフィストフェレス(悪魔等に。)

なんだって屈んだり、びく附いたりするのだ。11710

それが地獄の流儀かい。蒔くなら蒔かせて、こたえていろ。

銘々持場に就くのだ。

多分奴等は、こんな花を雪のように降らして、

火のような悪魔を埋めてしまう積だろう。

お前達が息をすれば、融けて縮れてしまうのだ。11715

ぷっぷと吹くのだ。頬膨奴。それで好い、好い。

お前達の息で飛んでくる花の色が皆褪める。

そうひどく遣るな。鼻を塞いで、口を締めい。

やれやれ、余りひどく吹き過ぎたのだ。

どうも程と云うものを知らぬから困る。11720

縮れたばかりなら好いが、乾いて、茶色になって、燃えるわ。

もう毒々しい赤い火になって、飛んで来る。

皆固まっていて、こたえろ。

や。勢が挫けたな。丸で意気地がなくなった。悪魔共。

そろそろへんな不気味な熱さを感じて来おったな。11725

天使等(合唱。)

尊き花弁、

悦ばしき※は

愛を広く世に施し、

心の願ふ

喜を生ぜしむ。11730

真の詞は

澄める※気の中に、

とはの天人の群に、

到る処に曙光を仰がしむ。

メフィストフェレス

馬鹿者共、咀われていろ。恥をかきおれ。11735

悪魔ともあろうものが逆立をして、

不細工な体で翻筋斗をして、

けつから先へ地獄に堕ちて往きゃあがる。

自業自得の熱い湯に難有く這入るが好い。

己はここにこたえているぞ。11740

(漂ひ来る花を払ひ/\。)

鬼火奴。逃げんか。どんなに光っても、

握ると、胸の悪い、べとべとした物になるのだ。

何をふら附くのだ。引っ込まんか。

厭に※児か硫黄のように、項に引っ附きゃあがる。

天使等(合唱。)

汝達の物ならぬ物をば11745

汝達避けでは※はじ。

汝達の心を乱るものをば

汝達の受け容るべきことかは。

さはれ尚力強く迫り来んときは、

我等心を励さでは※はじ。11750

愛する人をば

たゞ愛のみ引き入るゝものぞ。

メフィストフェレス

ああ。頭が燃える。胸が、肝が燃える。

悪魔以上の火だ。

地獄の火よりよほど痛い。11755

お前達、失恋の人達が、棄てられて、

首を捩じ向けて、恋人の方を見て、

恐ろしく苦しがるのは、こんな火のせいだね。

己もへんだぞ。妙にあっちへ顔が向けたくなる。

あいつ等と仲直りの出来ぬ喧嘩をしている己ではないか。11760

いつも見ると、ひどく厭なのだがな。

なんだかおつな物が己の体に染み渡ったようだぞ。

己はあの妙に愛くるしい餓鬼共が見たくてならない。

何もここで悪態を衝いてならんと云うわけはあるまい。

もし己が旨くぼかされてしまったら、11765

跡になって馬鹿だと云われるのは誰だろう。

大嫌な横著小僧共。

どうも厭に愛くるしく見えてならないぞ。

おい。綺麗な餓鬼共。己に言ってくれ。

お前達もやっぱりルチフェルの裔ではないか。11770

いかにも可哀らしいなあ。ほんにキスでもして遣りたい。

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