既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 森鴎外 (†1922) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン
丁度好い所へ来てくれたように思われてならぬ。
なんだか内証らしく、小猫のように、物欲しげな様子が、
もう千遍も見たことがあるようで、
己は気楽に、好い心持になった。11775
見れば見る程美しくなりゃあがる。
もっと傍へ来ないかい。己を一目見てくれんかい。
天使等
往きますとも。なぜあなたお逃なさるの。
今傍へ往きますから、そこにいられるなら、おいでなさい。
(天使等回旋しつゝ、この場所を全く填む。)
メフィストフェレス
(舞台の前端へ押し出さる。)
お前達は己達を咀われた霊だと云っているが、11780
そっちの方が本当の魔法使だ。なぜと云って見ろ。
お前達は男をも女をも迷わすのだ。
己はなんと云う怪しからん目に逢う事だろう。
一体この火が愛情の元素なのかい。
己は体中がその火のようになっているから、11785
項に焼け附くのが分からん位だ。
そんなにふらふら往ったり来たりしないで、降りて来い。
そしてその可哀らしい手足を、少し人間らしく働かさないか。
実にその真面目くさった所が似合っているなあ。
だが一度で好いから、ちょっと笑って見せてくれ。11790
そうしたらどんなにか己が喜ぶだろう。
あの色気のある奴が互に見交す目附だ。あれがして貰いたい。
口の角をちょっと引き吊らせてくれれば好いのだ。
おい。そこの背の高い小僧。
己は貴様が一番好だ。その坊主面はちっとも似合ってはいない。11795
少し色気のある目で見ないかい。
それにもっと肌の見えるような風が出来そうなものだ。
その長い、襞のある襦袢は行儀が好過ぎる。
おや。あっちへ向いたな。餓鬼奴。
旨そうな背後附をしていやがるなあ。11800
合唱する天使等
愛の※等よ。
いざ澄む方へ向け。
己を咀ふもの等を、
真よ、救へ。
かくて喜ばしく11805
悪を逃れて、
諸共に
救はれよ。
メフィストフェレス
(気を取り直す。)
己は妙な気がするぞ。体中が、ヒオップのように、
火ぶくれだらけになって、自分でも気味が悪いが、11810
同時にまた自分を底まで見窮めて、
自分と自分の種族とに信頼して、凱歌を奏しているのだ。
悪魔の高尚な部分は助かって、
愛の祟が皮の上に出た。
もう厭な火は燃えてしまった。11815
そこで己はお前達一同を咀って遣る。それが当然なのだ。
合唱する天使等
聖なる火よ。
周囲にその火の燃えなむ人は、
世にありて、善き人と共に
安らかに思ひてぞあるべき。11820
汝達諸共に
起ちて称へよ。
風は浄められたり。
霊よ、息衝け。
(天使等ファウストの不死の霊を取り持ちて空に升り去る。)
メフィストフェレス
(あたりを見廻す。)
はてな、どうしたのだ。どこへ行ってしまったのだ。11825
丁年未満の奴等。出し抜けに来やがって、
獲をさらって天へ升って行きゃあがったな。
道理でこの墓の傍で、撮食をしそうにしていたのだ。
己はたった一つの大きな霊を取られてしまった。
己の質に取って置いた、高尚な霊なのを、11830
それをすばしこく掻っ撈って行きやがったな。
そこで誰に苦情を持ち込んだら好いだろう。
誰が己の已得権を恢復してくれるだろう。
手前、年が寄って人に騙さりゃあがったぞ。
自業自得だ。ひどく景気が悪いぞ。11835
己は馬鹿げた下手を遣った。外聞の悪い。
大為事が無駄になってしまった。
不仁身になっている悪魔のくせに、
劣情や無意味な色気を出したからな。
世間を知った己が、子供らしい、11840
途方もない事に掛かり合っていて見れば、
跡になって、己のした馬鹿さ加減は、
小さくない事になるのだて。
山中の谷、森、岩、凄まじき所
山の上、巌穴の間に、神聖なる隠遁者等分かれゐる。
合唱の声と谺響と
揺ぎて靡き寄る木立。
傍に畳る巌。11845
絡み附く木の根。
幹と幹とはひたと並べり。
谷川は波立ちて迸り、
いと深き岩穴は蔭をなせり。
獅子は黙ありて優しく、11850
我等の周囲を歩み、
尊き境を、
聖なる愛の御庫を畏み守れり。
感奮せる師父
(虚空を昇降しつゝ。)
とはなる喜の火。
燃ゆる愛の契。11855
沸きかへる胸の痛。
泡立つ神の興。
征箭よ。我を貫け。
槍よ。我を刺せ。
杖よ。我を砕け。11860
雷火よ。我を焼け。
徒なるものを
渾て散けしめ、
とはなる愛の核心たる、
とはなる星を照らしめよ。11865
沈思せる師父(低き所にて。)
深き谷底の上に、
わが脚下なる巌の重くすわれる如く、
千筋の小川の、
恐ろしき滝のしぶきと、流れ落つる如く、
おのが強き力もて、11870
木の幹の真直に空に聳ゆる如く、
所有る物を造り、所有る物を育つる
大威力の愛現前せり。
森も石根も波立つ如く、
激する水音は身の周囲に聞ゆれど、11875
怒号しつゝも心優しく、
谷間の土を肥やさんため、
その豊かなる滝の水は滝壺にぞ流れ落つる。
毒ある霧を懐ける
下界の空気を浄めんため、11880
雷火は赫きつゝぞ下り撃つ。
こは皆愛の使なり。
この身の周囲にありて、永遠に物を造る力を、この使は宣伝す。
あはれ、その力よ。鈍き官能の埒に限られ、
緊しく煩悩の鎖に繋がれ、11885
冷かに、糾紛せる霊の艱める、
わが胸のうちをも照せよかし。
あはれ、神よ。わが思量を黙せしめ、
わが饑ゑたる心を照せよかし。
天使めく師父(高低の中間の所にて。)
や。あの髪の毛のゆらめくような樅の木立の間を抜けて、11890
靡いて来る暁の雲はなんだろう。
あの雲の中に生きているものを中てて見ようか。
あれは穉い霊共の群だな。
合唱する神々しき童子の群
お父うさん。わたくし共はどこを飛んでいますか。
好い方。わたくし共はなんですか、仰ゃって下さい。11895
わたくし共は為合せです。
誰にも、誰にもこの世が、ほんに楽でございます。
天使めく師父
子供達。夜なかに生れて、
精神や官能の半分醒めた子供達。
両親がすぐ亡くした代に、11900
天使の群が儲物をした子供達。
愛する人が一人いると云うことは、
お前達も感じているだろう。好いからこっちへ来い。
兎に角、為合せもの共、
世間の艱難は少しも知らないのだな。11905
己の目と云う、
この世で用に立つ道具の中へ降りて来い。
そして己の目を我物にして使って、
この土地の様子を見ろ。
(師父童子等を目の中に受け容る。)
あれが木だ。あれが岩だ。11910
あれが落ちて行って、
恐ろしい瀬になって、
嶮しい道を縮める水の流だ。
神々しき童子等(目の中より。)
大した見物でございますね。
でもここは余り陰気です。11915
恐ろしくて体が震えます。
好い方。親切なお方。逃がして下さいまし。
天使めく師父
そんなら段々高い世界へ昇って行け。
そして神様が傍においでになって、
力を添えて下さるのだから、いつも浄い為方で、11920
いつとなく次第に大きくなるが好い。なぜと云って見ろ。
それが広大な※気の中に出来ている、
霊共の餌だ。
それが広がって神々しさになる、
永遠な愛の啓示だ。11925
合唱する神々しき童子の群
(山の絶頂をめぐりつゝ。)
うれしく
手を輪に
繋ぎて動き、
尊き心を歌へ。
畏く教へられて11930
汝達よすがを得ん。
さて汝達が敬ふ神を
拝むことを得ん。
天使等
(ファウストの不死の霊を載せてやゝ高き空中に漂ふ。)
悪の手から、
霊の世界の尊い一人が救われました。11935
「誰でも、断えず努力しているものは、
われ等が救うことが出来る。」
それにこの人には
上の方からも愛の同情が加わっています。
神々しい群が11940
心からこの人を歓迎します。
やや未熟なる天使等
愛して下さる、
聖なる贖罪の少女達の手で授けて下さった、あの薔薇の花が、
わたくし共を助けて勝たせてくれました。
この霊の宝を手に入れる11945
大きい為事を成就させてくれました。
わたくし共がそれを蒔くと、悪が避けました。
わたくし共がそれを中てると、魔が逃げました。
慣れた地獄の刑罰の代に
悪霊共が愛慾を起しました。11950
あの年の寄った悪魔の先生でさえ
鋭い苦痛を身に覚えました。
さあ、凱歌を挙げましょう。為事は出来ました。
やや成熟せる天使等
どうもわたくし共には
下界の屑を舁き載せて持っているのがつろうございます。11955
よしやその屑が石綿で出来ていても、
清浄ではございません。
強い霊の力が
元素を
掻き寄せて、持っていると、11960
霊と物との二つが密接して
一つになった両面体を割くことは、
どの天使にも出来ません。
それを分けることの出来るのは、
ただ永遠な愛ばかりでございます。11965
やや未熟なる天使
岩山の巓のめぐりに、霧のように棚引いて、
それから気近く動いて来る
霊共の振舞が
今わたくしに感ぜられます。
雲が澄んで来て、11970
神々しい子供達の賑やかな群が、
わたくしに見えます。
下界の縛を遁れて、
輪になって集って、
天上の11975
新しい春と飾とを味っている
子供達でございます。
この人も、追々すっかり得の附くように、
最初はちょっと
この子供達と一しょになるが宜しゅうございましょう。11980
神々しい童子等
蛹のようになってお出なさるこの方を、
わたくし共は喜んでお引受申します。
そういたすと、わたくし共は
天使の質を持っているわけになりまする。
この方に引っ附いている綿屑を11985
取って上げて下さい。
もうこれで聖なる生活にお入になって、
美しく、大きくおなりなさいました。
マリアを敬う学士
(最高き、最浄き石龕にて。)
ここは展望が自由に利いて、
心が高尚になる。11990
あそこを、漂って昇って行きながら、
女達が通り過ぎる。
あの真ん中に、星の飾をして、
立派な方がおいでになる。
あれが天妃だ。11995
あの光明で己には分かる。
(歓喜して。)
ああ。世界の最高の女王。
あの青く張った
天の幔幕の中で、
あなたの秘密を拝ませて下さい。12000
男の胸を
厳かに、優しく動して、
聖なる愛の喜を以て、
あなたに向わせる物を、受け容れて下さい。
あなたが荘重にお命じなさると、12005
我々の勇気は侵されないようになります。
あなたが満足をお与下さると、
熱した心が忽に爽かになります。
最も美しい意味での神少女よ。
尊むに堪えたる神母よ。12010
我等がためには選ばれたる天妃よ。
神々と同じ種性なる女神よ。
あなたの周囲を繞っている
軽い雲があります。
あれは贖罪の女達です。12015
お膝元で
※気を吸って、
お恵を仰いでいる
優しい群です。
お障申すことの出来ぬあなたにも、12020
誘惑に陥り易い人達が
たよりに思ってお近づき申すことは、
禁じてないのです。
あの人達は自分の弱みの方へ引き込まれると、
救って遣るのがむずかしいのです。12025
意欲の鎖を自分の力で引きちぎることが
誰に出来ましょう。
斜に、平な床を踏む足は
どんなにか早く滑るでしょう。
目附や挨拶や世辞の息に、12030
誰が騙されずにいましょう。
(赫く神母天翔り来る。)
合唱する贖罪の女の群
とはの国々の空へ
おん身は翔り来給ふ。
譬へん物なきおん身よ。
恵深きおん身よ。12035
われ等の訴ふるを聞き給へ。
大いなる女罪人
ファリセイの人々に嘲られつつも、
神々しく浄められたる御子の御足のもとに、
バルサムなす涙を流しし
愛に頼りて願ひまつる。12040
奇しき香をいと多く滴らせし
瓶に頼りて願ひまつる。
尊き御手御足を柔かに拭ひまつりし
髪に頼りて願ひまつる。
サマリアの女
昔はやくアブラムが家畜の群に水飼ひし12045
泉に頼りて願ひまつる。
救世主の御唇に冷かに触るゝことを得し
釣瓶に頼りて願ひまつる。
かなたより灌ぎ来て、
とはに清く、さはに溢れ、12050
あらゆる世界を繞り流るる、
清き、豊かなる泉に頼りて願ひまつる。
エジプトのマリア
主を据ゑまつりし
いと畏き所に頼りて願ひまつる。
警めて門より我身を押し出だしし12055
腕に頼りて願ひまつる。
沙漠にて我が怠らずなしし
四十年の贖罪に頼りて願ひまつる。
わが沙の上に書きつる
喜ばしき別の辞に頼りて願ひまつる。12060
三人諸共に
大いなる罪ある女子共を
傍より遠ざけ給はで、
贖罪の利益を
永遠に加へ給ふおん身なれば、
ただ一たび自ら忘れしのみにて、12065
過すとも、自ら暁らざりし、
この善き霊にも、
ふさはしく御免を賜へ。
贖罪の女等の一人
(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。神母に縋りまつりて。)
較べる物のないあなた様。
光明の沢山さしているあなた様。12070
どうぞお恵深くお顔をこちらへお向遊ばして、
わたくしの為合を御覧なされて下さいまし。
昔お慕われなされたお方、
今はもう濁のないようにおなりなされたお方が
帰っておいでなさいました。12075
神々しき童子等
(輪なりに動きて近づきつつ。)
もうこの方は手足が大層伸びて、
わたくし共より大きくおなりになりました。
おお方大事にお世話をして上げた御返報を
沢山なすって下さるでしょう。
わたくし共は人の世の群から12080
早く引き放されましたが、
この方はお学になったのです。
おお方わたくし共にお教なすって下さるでしょう。
一人の贖罪の女
(かつてグレエトヘンと呼ばれしもの。)
難有い霊の群に取り巻かれていらっしゃるので、
新参のあの方は自分で自分がお分かりにならない位です。12085
まだ新しい生活にお気が附かない位です。
それでももう難有い方々に似ておいでになりました。
御覧なさい。下界の絆を皆切って、
古い身の皮からそっくり抜け出しておしまいなすって、
新しい若々しいお力が、12090
霞の衣の表に顕れておいでなさいます。
あの方にお教申すことをお許下さいまし。
まだ新しい日の光を目映がっておいでなさいますから。
赫く神母
さあ、おいで。お前もっと高い空へお升。
お前がいると思うと、その人も附いて行くから。12095
マリアを敬う学士。
(俯伏して崇拝しつつ。)
悔を知る、優しきもの等よ。
汝達皆畏き境界に
虔みて身を置き換へんため、
救の御目を仰ぎまつれ。
あらゆる向上の心は12100
皆汝が用をなせかし。
童貞女よ。神母よ。天妃よ。女神よ。
永く御恵を垂れ給へ。
合唱する深秘の群
一切の無常なるものは
ただ影像たるに過ぎず。12105
かつて及ばざりし所のもの、
こゝには既に行はれたり。
名状すべからざる所のもの、
こゝには既に遂げられたり。
永遠に女性なるもの、12110
我等を引きて往かしむ。
終