ファウスト

既存の翻訳(人の手による訳) · 訳 森鴎外 (†1922) · 出典: 青空文庫 Aozora Bunko · パブリックドメイン

薦むる詞

昔我が濁れる目に夙く浮びしことある

よろめける姿どもよ。再び我前に近づき来たるよ。

いでや、こたびはしも汝達を捉へんことを試みんか。

我心猶そのかみの夢を懐かしみすと覚ゆや。

汝達我に薄る。さらば好し。靄と霧との中より5

我身のめぐりに浮び出でて、さながらに立ち振舞へかし。

汝達の列のめぐりに漂へる、奇しき息に、

我胸は若やかに揺らるゝ心地す。

楽しかりし日のくさ/″\の象を汝達は齎せり。

さて許多のめでたき影ども浮び出づ。10

半ば忘られぬる古き物語の如く、

初恋も始ての友情も諸共に立ち現る。

歎は新になりぬ。訴は我世の

蜘手なし迷へる歩を繰り返す。

さて幸に欺かれて、美しかりぬべき時を失ひ、15

我に先立ちて去にし善き人等の名を呼ぶ。

我が初の数※を歌ひて聞せし霊等は

後の数※をば聞かじ。

親しかりし団欒は散けぬ。

あはれ、始て聞きつる反響は消えぬ。20

我歎は知らぬ群の耳に入る。

その群の褒むる声さへ我心を傷ましむ。

かつて我歌を楽み聞きし誰彼

猶世にありとも、そは今所々に散りて流離ひをれり。

昔あこがれし、静けく、厳しき霊の国をば25

久しく忘れたりしに、その係恋に我また襲はる。

我が囁く曲は、アイオルスの箏の如く、

定かならぬ音をなして漂へり。

我慄に襲はる。涙相踵いで堕つ。

厳しき心和み軟げるを覚ゆ。30

今我が持たる物遠き処にあるかと見えて、

消え失せつる物、我がためには、現前せる姿になれり。

劇場にての前戯

座長。座附詩人。道化方。

座長

これまで度々難儀に逢った時も、

わたくしの手助になってくれられた君方二人だ。

こん度の企がこの独逸国でどの位成功するだろうか、35

一つ君方の見込が聞きたいのだがね。

殊に見物は自分達が楽んで、人にも楽ませようとしているのだから、

わたくしもなるたけ見物の気に入るようにしたいのです。

もう小屋も掛かり、舞台も出来ていて、

みんながさあ、これからがお慰だと待っている。40

誰も彼もゆったりと腰を落ち着けて、眉毛を吊るし上げて、

さあ、どうぞびっくりするような目に逢わせて貰いたいと思っている。

わたくしだって、どうすれば大勢の気に入ると云うことは知っている。

しかしこん度程どうして好いか分からないことはないのです。

何も見物が最善のものに慣れていると云うのではない。45

ですが、兎に角いろんな物を恐ろしく沢山読んでいるのですな。

何もかも新らしく見えて、そして意義があって

人の気に入るようにするには、どうしたら好いでしょう。

なぜそう云うかと云うと、わたくしは一番大当りがさせて見たい。

見物が人波を打ってこの小屋へ寄せて来て、50

狭い恵の門口を通ろうとして、何度押し戻されても

また力一ぱいに押し押しして、

まだ明るいうちに、四時にもならないうちに、

腕ずくで札売場の口に漕ぎ附けて、

丁度饑饉の年に麪包屋の戸口に来るように、55

一枚の入場券を首に賭けても取ろうとする、

そう云う奇蹟を、一人々々趣味の違う見物の群に起させるのは

詩人だけですね。どうぞ、君、こん度はそんな按排に願いたいですな。

詩人

いや。どうぞあの見物と云う、色変りの寄合勢の事を

言わないで下さい。あれを見ると、詩人の霊は逃げるのです。60

あの、厭がるわたくし共を、無理に渦巻に巻き込もうとする

人の波を、わたくし共の目に見せないように隠して下さい。

それと違って、詩人だけに清い歓喜の花を咲かせて見せる、

静かな天上の隠家へ、わたくしを遣って下さい。

あそこでは愛と友情とが、神々の手で、65

わたくし共の胸の祝福を造って、育ててくれるのです。

あそこで胸の底から流れ出るのを、

口が片言のようにはにかみながら囁いて見て、

どうかすると出来損ね、ひょいとまた旨く出来る。

それをあらあらしい刹那の力が呑み込んでしまうのです。70

どうかすると、何年も立って見てから、

やっと完璧になることもあります。

ちょいと光って目立つものは一時のために生れたので、

真なるものが後の世までも滅びずにいるのですね。

道化方

後の世がどうのこうのと云うことだけはわたくしは聞きたくありませんな。75

わたくしなんぞが後の世に構っていた日には、

誰が今の人を笑わせるでしょう。

みんなが笑いたがっているし、また笑わせなくてはならないのです。

役者にちゃんとした野郎が一匹いると云うのは、

兎に角一廉の利方だと、わたくしには思われます。80

まあ、気持の好い調子に遣る男でさえあれば、

人の機嫌を気に掛けるような事はありますまい。

そう云う男は、見物の頭数を多くした方が、

却て感動させ易いから、その方を望むのです。

まあ、あなたは平気で、しっかりした態度を示して、85

空想に、あるだけの取巻を附けて聞せて下さるですな。

取巻は理性に悟性に感覚に熱情、なんでも結構でさあ。

だが、おどけと云う奴を忘れてはいけませんぜ。

座長

なんでも出来事の多いが好いのですよ。

みんなは見に来るのです。見ることが大好きなのです。90

見物が驚いて、口を開いて見ているように、

目の前でいろんな事が発展して行くようにすれば、

多数が身方になってくれることは受合です。

そうなればあなたは人気作者だ。

なんでも大勢を手に入れるには、嵩でこなすに限る。95

そうすれば、その中から手ん手に何かしら捜し出します。

沢山物を出して見せれば何かしら見附ける人の数が殖える。

そこで誰も彼も満足して帰って行くのですね。

纏った筋の狂言でも、なるたけ砕いて見せて下さい。

こう骨董羹と云う按排に、お手際で出来そうなものだ。100

骨の折れない工夫で、骨の折れないお膳立をするのです。

縦しやあなたの方で纏った物を出したところで、

どうせ見物はこわして見るのですからな。

詩人

いや。そんな細工がどの位悪いか、あなた方には分からないのです。

真の芸術家にどの位不似合だか、分からないのです。105

その様子では、いかがわしい先生方の白人為事が、

あなた方の所では、金科玉条になっていると見えますね。

座長

そんな悪口を言ったって、わたくしはおこらない。

なんでも男が為事を成功させようと云うには、

一番好い道具を使うと云うところに目を附けるのです。110

思って御覧なさい。あなた方は軟い木を割る役だ。

誰を相手に書くのだか、目を開いて見て下さい。

退屈まぎれに来る客もあれば、

えらい馳走に逢った跡で、腹ごなしに来る客もある。

それから一番の困りものは115

新聞雑誌を読み厭きてから遣って来る。

仮装舞踏へでも行くように、うっかりして駆け附ける。

その足を早めるのは、物見高い心持ばかりです。

女客と来た日には、顔とお作りを見せに来て、

給金なしで一しょに芸をしてくれる。120

一体あなた方は詩人の高みでなんの夢を見ているのです。

大入がなんであなた方は嬉しいのです。

まあ、その愛顧のお客様を近く寄って御覧なさい。

半分は冷澹で半分は野蛮です。

芝居がはねたら、トランプをしようと云うのもあれば、125

娼妓の胸に食っ附いて、一夜を暴れ明かそうと云うのもある。

そうした目的であって見れば、優しい詩の女神達に

ひどく苦労をさせるのは、馬鹿正直ではないでしょうか。

まあ、わたくしの意見では、たっぷり馳走をするですな。

どこまでもたっぷり遣るですな。それならはずれっこなしだ。130

どうせ人間を満足させるわけには行かないから、

ただ烟に巻いて遣るようにすれば好い。

おや。どうしたのです。感心したのですか。せつないのですか。

詩人

いや、そう云うわけならあなたの奴隷を外から連れておいでなさい。

天が詩人には最上の権を、135

人権を与えている。

それをあなたのために擲たなくてはならないのですか。

一体詩人はなんでみんなの胸を波立たせるのです。

なんで地水火風に打ち勝つのです。

その胸から迫り出て、全世界をその胸に140

畳み込ませる諧調でないでしょうか。

自然は無際限なる長さの糸に、

意味もなく縒を掛けて紡錘に巻くに過ぎない。

万物の雑然たる群は

不精々々に互に響を合せているに過ぎない。145

そのいつも一様に流れて行く列を、

節奏が附いて動くように、賑やかに句切るのは誰ですか。

一つ一つに離れたものを総ての秩序に呼び入れて、

調子が美しく合うようにするのは誰ですか。

誰が怒罵号泣の暴風を吹き荒ませるのです。150

夕映を意味深い色に染め出すのです。

誰が恋中の二人が歩む道のゆく手に

美しい春の花を蒔くのです。

誰が種々の功を立てた人のために

見栄のしない青葉を誉の輪飾に編むのです。155

誰がオリンポスの山を崩さずに置いて、神々を集わせるのです。

人間の力が詩人によって啓示せられるのではありませんか。

道化方

そんならあなたその美しい力を使って、

詩人商売をお遣りなさるが好いでしょう。

まあ、ちょいと色事をするようなものでしょうね。160

ふいと落ち合って、なんとか思って足が留まる。

それから段々縺れ合って来る。

初手は嬉しい中になる。それから傍が水をさす。

浮れて遊ぶ隙もなく、いつか苦労が出来て来る。

なんの気なしでいるうちに、つい小説になっている。165

狂言もこんな風に為組んで見せようじゃありませんか。

充実している人生の真ん中に手を下すですね。

誰でも遣っている事で、そこに誰でもは気が附かぬ。

あなたが攫み出して来れば、そこが面白くなるのですね。

誰彼となく旨がって、為めになると思うような、170

極上の酒を醸すには、

交った色を賑やかに、澄んだ処を少くして、

間違だらけの間から、真理の光をちょいと見せる。

そうすればあなたの狂言を、青年男女の選抜が

見物しに寄って来て、あなたの啓示に耳を欹てるのです。175

そうすれば心の優しい限の人があなたの作から

メランコリアの露を吸い取るのです。

そうすれば人の心のそこここをそそって、

誰の胸にも応えるのです。

そう云う若い連中なら、まだ笑いでも泣きでもする。180

はずんだ事がまだ好で、見えや形を面白がる。

出来上がった人間には、どんなにしても気には入らない。

難有く思うのは、出来掛かっている人間です。

詩人

なるほどそうかも知れないが、そんならこのわたくしが

やはり出来掛かった人間であった時を返して下さい。185

内から迫り出るような詩の泉が

絶間なく涌いていた、あの時です。

霧に世界は包まれていて、

含める莟に咲いての後の奇蹟を待たせられた時です。

谷々に咲き満ちている190

千万の草の花をわたくしが摘んだ時です。

その頃わたくしは何も持っていずに満足していた。

真理を求めると同時に、幻を愛していたからです。

どうぞわたくしにあの時の欲望、

あの時の深い、そして多くの苦痛を伴っている幸福、195

あの時の憎の力や愛の力を、耗らさずに返して下さい。

わたくしの青春をわたくしに返して下さい。

道化方

いや。その青春のなくてならない場合は少し違います。

戦場で敵にあなたが襲われた時、

愛くるしい娘の子が両の腕に力を籠めて、200

あなたの頸に抱き附いた時、

先を争う駆足に、遥か向うの決勝点から

名誉の輪飾があなたをさしまねいた時、

旋風にも譬えつべき、烈しい舞踏をした跡で、

宴に幾夜をも飲み明そうとする時などがそれです。205

それとは違って、大胆に、しかも優しく

馴れた音じめに演奏の手を下して、

自分で極めた大詰へみやびやかな迷の路を

さまよいながら運ばせる、

それはあなた方、老錬な方々のお務です。210

そしてわたくしどもはそのあなた方にも劣らぬ敬意を表します。

老いては子供に返るとは、世の人のさかしらで、

真の子供のままでいるのが、老人方の美点です。

座長

いや。議論はいろいろ伺ったが

この上は実行が拝見したいものですね。215

あなた方のように、お世辞を言い合っている程なら、

その隙に何か役に立つ事が出来そうなものです。

気乗のした時遣りたいなどと、云っているのは駄目でしょう。

気兼をして遅疑する人には、調子が乗っては来ますまい。

詩人と名告って出られた以上は、220

兵を使うと同じように、号令で詩を使って下さい。

わたくしどもの希望は御承知の通だ。

なんでも強い酒が飲ませてお貰申したい。

どうぞ早速醸造に掛かって下さい。

きょう出来ないようなら、あすも駄目です。225

一日だって無駄に過してはいけません。

髻を攫んで放さぬように、出来そうな事件を

決心がしっかり押えなくてはいけない。

またその決心がある以上は、押えたものを放しはなさるまい。

そこで厭でも事件は運んで行くですね。230

御承知の通この独逸の舞台では

誰でも好な事を遣って見るのです。

ですからこん度の為事では

計画や道具に御遠慮はいらない。

上明も大小ともにお使い下さい。235

星も沢山お光らせなすって宜しい。

水為掛も好い。火※も好い。岩組なども結構です。

鳥もお飛ばせなさい。獣もお駈けらせなさい。

造化万物何から何まで

狭い舞台にお並べ下さい。240

さて落ち着きはらって、すばしこく、天からこの世へ、

この世から地獄へと事件を運ばせてお貰い申しましょう。

天上の序言

主。天宮の衛士。後にメフィストフェレス。

天使の長三人進み出づ。

ラファエル

昔のままの節博士で、同胞の星の群と、

日は合唱の音を立てている。

そして霹靂の歩をして245

極まった軌道を行く処まで行く。

天使の中で誰一人その理を知ってはいぬが、

それを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。

天地のなりいでた日に較べても、不可思議な、

崇高な万物は同じ荘厳を保っている。250

ガブリエル

そして早く、不可思議に早く

美しい大地がみずから回転している。

天国のような明るさと

深い、恐ろしい夜とが交代する。

巌石の畳み成せる深い底から255

幅広い潮流をなして海は泡立つ。

その巌も海も、永遠に早い軌道の歩に

引き入れられて、共に廻るのである。

ミハエル

そして海から陸へ、陸から海へ、

暴風は怒号して往き、怒号して返る。260

その往いては返る競争で、吹き過ぐる周囲に

深甚なる作用の連鎖が作られる。

ともすれば雷電の破壊の焔が

道のゆくてに燃え上がる。

しかし、主よ、御身の使徒等は265

御身の世の穏かなる推移を敬っている。

三人共に

天使の中で誰一人御身の心を知ってはいぬが、

これを見たばかりで、天使は皆強みを覚える。

そして御身が造れる一切の崇高な万物は

天地のなりいでた日と同じ荘厳を保っている。270

メフィストフェレス

いや、檀那。お前さんがまた遣って来て、

こちとらの世界が、どんな工合になっているか見て下さる。

そして不断わたしをも贔屓にして下さるのだから、

わたしもお前さん所の奉公人に交って顔を出しました。

御免なさいよ。ここいらの連中が冷かすかも知れないが、275

わたしには気取った言草は出来ない。

わざと気取って見たところでお前さんが笑うだけだ。

それとも笑うなんと云うことはもう忘れていなさるかしら。

奉公人達の云う日だの星だのの事はわたしは知らない。

わたしは人間と云う奴の苦むのを見ているだけだ。280

人間と云うこの世界の小さい神様は今も同じ性に出来ていて、

それこそ天地のなりいでし日と同じ気まぐれを保っています。

お前さんがあいつ等に天の光の影をお遣りなさらなかったら、

も少しは工合好く暮して行くのでしょうがね。

人間はあれを理性と謂ってどうそれを使うかと云うと、285

どの獣よりも獣らしく振舞うために使うのです。

まあ、お前さんの前だが、飛足のある虫の中の

※と云う奴のように

飛んだり跳ねたりばっかりしていて、

直ぐ草の中に潜っては昔のままの歌を歌う。290

草の中だけで我慢していてくれれば結構だが、

どのどぶにも鼻を衝っ込みゃあがるのですよ。

主

お前の云うことはそれだけかい。

いつでも苦情ばかり言いに来るのか。

いつまで立っても下界の事がお前には気に入らないのか。295

メフィストフェレス

そうですね、檀那。わたしにはいつも随分厭に見えますね。

人間と云う奴が毎日苦んでいるのを見ると、気の毒になってしまう。

わたしでさえもう揶揄って遣るのが厭になる位です。

主

ふん。お前ファウストを知っているか。

メフィストフェレス

あのドクトルですかい。

主

うん。己の子分だ。

メフィストフェレス

さようさ。あいつは妙な行方でお前さんに奉公しています。300

あの変人はこの世の物を飲みも食いもしませんね。

湧き立つ胸のごたごたが遠くの方へとあいつをこがれさせる。

自分が変だと云うことを半分知っているのでしょう。

天の一番美しい星を取ろうとしているかと思えば、

地の一番深い楽をも極めようとしています。305

そして遠い望も近い望も、

あいつの湧き返っている胸に満足を与えないのですね。

主

なるほど、あれは今の処で夢中で奉公しているが、

早晩心の澄む境へ己が導いて行って遣る。

見い、植木屋でも、緑に芽ぐむ木を見れば、310

翌年は花が咲き実がなるのを知るではないか。

メフィストフェレス

どうです、檀那、何を賭けますか。あいつに裏切をさせて、

お前さんさえ承知なさりゃあ、

そろそろわたしの道へ引き込んで遣りたいのですが。

主

それはあれが下界に生きている間は、315

お前がどうしようと、己は別に止めはしない。

人は務めている間は、迷うに極まったものだからな。

メフィストフェレス

それは難有うございます。なぜと云うに、死人なんぞに

構っているのは、わたしゃあ本から厭ですから。

わたしゃあふっくりした、色沢の好い頬っぺたが一番好だ。320

亡者が来りゃあわたしゃあ留守を使って遣ります。

猫だって死んだ鼠は相手にしませんからね。

主

宜しい。そんならお前に任せて置く。

あの男の霊を、その本源から引き放して、

お前にそれが出来るなら、325

お前の道へ連れて降りて見い。

だがな、いつかはお前恐れ入って、こう云うぞよ。

「善い人間は、よしや暗黒な内の促に動されていても、

始終正しい道を忘れてはいないものだ」と云うぞよ。

メフィストフェレス

好うがす。ただ少しの間の事です。330

この賭に負ける心配はない積りだ。

わたしの思い通りになったら、

どうま声で勝鬨を揚げさせて下さい。

あの先生に五味を食わせて見せます。旨がって食います。

わたしの姪の、あの評判の蛇のように。335

主

好い。今度もお前の気儘にさせて遣る。

己は本からお前達の仲間を憎んだことはない。

物を否定する霊どもの中で、

己の一番荷厄介にしないのは横着物だ。

一体人間のしている事は兎角たゆみ勝ちになる。340

少し間が好いと絶待的に休むのが好きだ。

そこで己は刺戟したり、ひねったりする奴を、

あいつ等に附けて置いて、悪魔として為事をさせるのだ。

さてお前達、本当の神の子等はな、

生々した、豊かな美しさを見て楽むが好い。345

永遠に製作し活動する生々の力が、

愛の優しい埒をお前達の周囲に結うようにしよう。

お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、

持久する思惟で繋ぎ止めて行くが好い。

(天は閉ぢ、天使の長等散ず。)

メフィストフェレス(一人。)

己は折々あのお爺いさんに逢うのが好だ。350

そこで附合がまずくならないように気を附けている。

悪魔にさえあんな風に人間らしく話をしてくれるのは、

大檀那の身の上では感心な事さね。

悲壮劇の第一部

夜

狭き、ゴチック式の室の、高き円天井の下に、ファウストは不安なる態度にて、卓を前にし、椅子に坐してゐる。

ファウスト

はてさて、己は哲学も

法学も医学も355

あらずもがなの神学も

熱心に勉強して、底の底まで研究した。

そうしてここにこうしている。気の毒な、馬鹿な己だな。

そのくせなんにもしなかった昔より、ちっともえらくはなっていない。

マギステルでござるの、ドクトルでござるのと学位倒れで、360

もう彼此十年が間、

弔り上げたり、引き卸したり、竪横十文字に、

学生どもの鼻柱を撮まんで引き廻している。

そして己達に何も知れるものでないと、己は見ているのだ。

それを思えば、ほとんどこの胸が焦げそうだ。365

勿論世間でドクトルだ、マギステルだ、学者だ、牧師だと云う、

一切の馬鹿者どもに較べれば、己の方が気は利いている。

己は疑惑に悩まされるようなことはない。

地獄も悪魔もこわくはない。

その代り己には一切の歓喜がなくなった。370

一廉の事を知っていると云う自惚もなく、

人間を改良するように、済度するように、

教えることが出来ようと云う自惚もない。

それに己は金も品物も持っていず、

世間の栄華や名聞も持っていない。375

この上こうしていろと云ったら、狗もかぶりを振るだろう。

それで霊の威力や啓示で、

いくらか秘密が己に分かろうかと思って、

己は魔法に這入った。

その秘密が分かったら、辛酸の汗を流して、380

うぬが知らぬ事を人に言わいでも済もうと思ったのだ。

一体この世界を奥の奥で統べているのは何か。

それが知りたい。そこで働いている一切の力、一切の種子は何か。

それが見たい。それを知って、それを見たら、

無用の舌を弄せないでも済もうと思ったのだ。385

ああ。空に照っている、満ちた月。

この机の傍で、己が眠らずに

真夜中を過したのは幾度だろう。

この己の苦をお前の照すのが、今宵を終であれば好いに。

悲しげな友よ。そう云う晩にお前は390

色々の書物や紙の上に照っていた。

ああ。お前のその可哀らしい光の下に、

高い山の背を歩くことは出来まいか。

霊どもと山の洞穴のあたりを飛行することは出来まいか。

野の上のお前の微かな影のうちに住むことは出来まいか。395

あらゆる知識の塵の中から蝉脱して、

お前の露を浴びて体を直すことは出来まいか。

ああ、せつない。己はまだこの牢屋に蟄しているのか。

ここは咀われた、鬱陶しい石壁の穴だ。

可哀らしい空の光も、ここへは濁って、400

窓の硝子画を透って通うのだ。

この穴はこの積み上げた書物で狭められている。

蠧魚に食われ、塵埃に掩われて、

円天井近くまで積み上げてある。

それに煤けた見出しの紙札が挿んである。405

この穴には瓶や缶が隅々に並べてある。

色々の器械が所狭きまで詰め込んである。

お負けに先祖伝来の家具までが入れてある。

やれやれ。これが貴様の世界だ。これが世界と云われようか。

貴様はこんな処にいて、貴様の胸の中で心の臓が410

窮屈げに艱んでいるのを、まだ不審がる気か。

あらゆる生の発動を、なぜか分からぬ苦が

障礙するのを、まだ不審がる気か。

神は人間を生きた自然の中へ

造り込んで置いてくれたのに、415

お前は烟と腐敗した物との中で、

人や鳥獣の骸骨に取り巻かれているのだ。

さあ、逃げんか。広い世界へ出て行かぬか。

ここにノストラダムスが自筆で書いて、

深秘を伝えた本がある。420

貴様の旅立つ案内には、これがあれば足りるではないか。

そして自然の教を受けたなら、

星の歩がお前に知れて、

霊が霊に語るが如くに、

貴様の霊妙な力が醒めよう。425

いや。こうして思慮を費して、

この神聖な符を味っていたって駄目だ。

こりゃ。お前達、霊ども。お前達は己の傍にさまよっていよう。

己の詞が聞えるなら、返事をせい。

(書を開き、大天地の符を観る。)

や。これを見ると、己のあらゆる官能に430

忽ちなんとも言えぬ歓喜が漲る。

青春の、神聖なる生の幸福が新に燃えるように

己の脈絡や神経の中を流れるのが分かる。

この符を書いたのは神ではあるまいか。

己の内生活の騒擾を鎮めて、435

歓喜を己の不便な胸のうちに充たし、

己の身を取り巻いている自然の、一切の力を、

微妙に促して暴露させて見せるのはこの符だ。

己が神ではあるまいか。不思議に心が澄んで来る。

この符の清浄な画を見ているうちに、440

活動している自然が、己の霊のために現前する。

今やっと思い当るのは、古の賢人の詞だ。

「霊の世界は鎖されたるにあらず。

汝が耳目壅れり。汝が心胸死せり。

起て、学徒。誓ひて退転せず、445

塵界の胸を暁天の光に浴せしめよ。」

(符を観る。)

一々の物が全体に気息を通じて、

物と物とが相互にそれぞれ交感し合っている。

黄金の釣瓶を卸してはまた汲む如く、天上の

諸の力が降ってはまた昇る。450

その総てが、祝福の香を送る翼を振って、

天から下界へ通って来て、

諧調をなして万有のうちに鳴り渡る。

なんと云う壮観だろう。だが、惜むらくは見物たるに過ぎぬ。

ああ、無辺際なる自然よ。己はどこを攫まえよう。455

一切の物の乳房等よ。己はどれを手に取ろう。

天地の命根の通っている、一切の生の泉等よ。

枯れ衰えた己の胸のあこがれ迫る泉等よ。汝達は湧いている。

汝達は人に飲ませている。それに己は徒に渇せねばならぬか。

(憤慨せる様にて書を飜し、地の精の符を観る。)

はて、この符の己に感じる工合はよほど違う。460

こりゃ、地の精。お前は大ぶ己に近い。

もう己の力が加わって来るらしい。

もう新しい酒に酔ったような気がする。

危険を冒して世の中に出て、

下界の苦痛をも、下界の幸福をも受け、465

暴風に逆って奮闘し、沈まんとする舟のきしめきにも

逡巡しない勇気を身に覚える。

はあ。己の頭の上に雲が涌いて来た。

月の光が隠れてしまった。

燈火も見えなくなった。470

湯気のようなものが立つ。己の頭の周囲に

稲妻のように赤い※が閃く。円天井から

陰森の気が吹き卸して来て、

己の身を襲う。

己は感じる。お前、身の辺に漂っているな。招き寄せた霊奴。475

形を顕せ。

はあ。己の胸の底へ引き弔るようにひびく。

新しい感じに

あらゆる己の官能が掻き乱される。

己の心を全くお前に委ねたように感じる。480

形を顕せ。形を顕せ。己の命を取られても好い。

(本を手に取り、地の精の呪文を深秘なる調子にて唱ふ。赤き※燃え立ちて、精霊※の中に現る。)

霊

己を呼ぶのは誰だ。

ファウスト(顔を背向く。)

気味の悪い姿だな。

霊

お前は長い間己の境界に、吸引の力を逞ゅうして、

強く己を引き寄せたな。

そしてどうする。

ファウスト

ああ、せつない。己はもう堪えられぬ。485

霊

お前はと息を衝きながら己に目のあたり逢って、

己の声を聞き、己の顔を見ようと願う。

お前の霊の願が己を引き寄せている。

さあ、ここに来ている。なんと云うけちな恐怖が

超人を以て居るお前を襲っているのだ。霊の叫はどこにある。490

自分だけの世界を造って、それを負うて、

培うた胸、己達霊どもと同じ高さの位置に立とうと、

歓喜の震を以て張った胸はどこにある。

己に声を聞せたファウスト

力一ぱい己に薄って来たファウストはどこにいる。495

その男がお前か。己の息に触れたばかりで、

性命の底から震い上がって、

臆病にも縮んでいる虫がその男か。

ファウスト

ああ。※の姿のそちを見て、なんの己がたじろくものか。

己だ。ファウストだ。お前達の仲間だ。500

霊

生の流に、事業の暴風に

身を委ねて降りては昇る。

かなたこなたへ往いては返る。

産の褥、死の冢穴。

常世の海原。505

経緯の糸の交。

燃ゆる命。

かくて「時」のさわ立つ機を己は織る。

神の生ける衣を織る。

ファウスト

広い世界を飛びめぐる忙しい霊よ。510

己はお前をどれ程か親しく思っているぞ。

霊

いや。お前に分かる霊にこそお前は似ている。

己には似ておらん。(消ゆ。)

ファウスト(挫け倒る。)

お前には似ておらんと云うか。

そんなら誰に似ている。515

神の姿をそのままに写された己だ。

それがお前にさえ似ないと云うのか。

(戸を敲く音す。)

ああ、死だ。分かっている。あれは内の学僕だ。

己の最上の幸福が駄目になる。

これ程の顕現の満ち満ちている刹那を、520

あの抜足をして歩くような乾燥無味な男が妨げるのか。

(ワグネル寝衣を著、寝る時被る帽を被り、手に燈を取て登場。ファウスト不機嫌らしく顔を背向く。)

ワグネル

御免下さいまし。あなたの御朗読をなさるのが聞えましたので、

おお方グレシアの悲壮劇をお読みになるのだろうと存じました。

わたくしも少し覚えて得をいたしたいと存じます。

なんでも当節はそう云うことは受が好いのでございます。525

誰やらが申すのを承りましたが、

俳優は牧師の師匠になっても宜しいと申すことで。

ファウスト

それは牧師が俳優であったらそうであろう。

追々そんな風になるまいものでもない。

ワグネル

わたくしのように研究室の中に縛られていて、530

世間を見るのは、やっと休日に

遠い処から遠目金で見るような事では、

どうして言論で世間を説き動すことが出来ましょう。

ファウスト

それは君が自分で感じていて、それが肺腑から流れ出て、

聞いているみんなの心を535

根強い興味で引き附けなくては、

世間を擒にすることは出来ない。

そんなにして据わっていて、膠で接ぎ合せて、

人の馳走の余物で骨董羹を拵えて、

君の火消壺の中から540

けちな火を吹き起しても、

それでは子供や猿どもでなくては感心はしない。

それが望ならそれまでの事だ。

どうせ君の肺腑から出た事でなくては、

人の肺腑に徹するものではない。545

ワグネル

先生のお詞ですが、演説家は雄弁法で成功します。

どうもその研究が足りないのが、わたくしには分かっています。

ファウスト

いや。成功しようと云うには、正直に遣らなくてはいかん。

鐘大鼓で叩き立てる馬鹿者になってはいかん。

智慧があって、切実な議論をするのなら、550

技巧を弄せないでも演説は独りでに出来る。

何か真面目に言おうと思う事があるのなら、

なんの詞なんぞを飾るに及ぶものか。

どうかすると君方の演説は人世の紙屑で

上手な細工がしてあって、光彩陸離としていても、555

それは秋になって枯葉を吹きまくる

湿った風のように気持の悪いものだ。

ワグネル

はいはい。「学芸はとこしえにして、

我等の生は短し」でございます。

御承知の通り、批評的研究を努めていますと、560

折々頭や胸がどうかなりはすまいかと気遣われます。

なんでも淵源まで溯って行く

舟筏を得るのは、容易な事ではございません。

半途まで漕ぎ著けたところで、

まあ、我々不便な奴は死ぬるのでございますね。565

ファウスト

古文書がなんで一口飲んだだけで

永く渇を止める、神聖な泉のものか。

なんでも泉が自分の霊から涌いて出んでは

心身を爽かにすることは出来ない。

ワグネル

はい。先生はそう仰ゃるが、その時代々々の心になって、570

我々より前に聖賢がこう考えられたと云うことを

見わたして、今日までの大きい進歩を思う程、

愉快な事はございません。

ファウスト

そうさ。天の星までも届く進歩だろうよ。

君に言うがな、過去の時代々々は我等のためには575

七つの鎖鑰を施した巻物だ。

君方が時代々々の精神だと云うのも、

それは原来その時代々々が先生等の霊の上に

投写した影を認めるに過ぎない。

そんなわけだから、随分みじめな事がある。580

君方を一目見て人は逃げ出してしまう。

五味溜か、がらくたを打ち込んで置く蔵か。

高が大為掛の歴史劇に、

傀儡の台詞に相応した

結構な処世訓が添えてある位なものだ。585

ワグネル

しかし、先生はそう仰ゃいますが、世界ですね、人の性情ですね、

それを誰でも文献の中から少しなりと知り得たいと存じますので。

ファウスト

いや。その知るだの、認識するだのと云う詞の意味だて。

本当に知ってもその本当の事があからさまに言われようか。

それは稀には幾らかの事を知って、590

おろかにもそれを胸にしまって置かずに、

自分の観た所、感じた所を世俗に明かした人達もあるが、

そう云う人達は磔にせられたり、焼き殺されたりした。

いや。彼此云ううちに、もう夜が更けた。

今宵は話はこれまでにしよう。595

ワグネル

はい。わたくしはいつまでも起きていて

こんな風にあなたと高尚なお話がいたしたいのでございますが、

さようなら已めましょう。明日は復活祭の初の日でございます。

それを機としてまた二つ三つお話を伺うことにいたしましょう。

わたくしはこれまで随分研究には努力いたしました。600

学問は大分ある積でございますが、一切の事が知りたいと存じまして。

(退場。)

ファウスト(一人。)

いやはや。いつまでも一縷の望を繋いでいて

心は無用の事物に牽かれ、

宝を掘ろうと貪る手で、

蚯蚓に掘り当てて喜んでいるとは、気の毒な事だ。605

精霊の気が己を囲繞していたこの室で、

あんな人間の声が響いて好いものか。

しかし下界にありとある人の中の人屑にも、

こん度は己が感謝せずばなるまい。

なぜと云うに、己の見聞覚知を破壊しようとした610

絶望の境から、あいつが己を救い出したのだ。

いや。あの顕現が余り偉大なので、

全く自分が侏儒であるように、己は感じた。

神の姿をそのままに写された己は、

永遠なる真理の鏡に逼り近づいた積で、615

下界の子から蝉脱して

享楽の自己を天の光明のうちに置いていたのに、

己は光の天使にも増して、無礙自在の力が

既に宇宙の脈のうちを流れ、

創造しつつ神の生を享けようと、620

窃かに企てていたのに、なんと云う罰せられようだ。

雷鳴のような一言が己をはね飛ばした。

お前に似ようと思うのが、そんなに僭越だろうか。

己はお前を引き寄せるだけの力は持っていたが、

お前を留めて置く力がなかったのだ。625

想えばあの嬉しかった刹那に、

己は自己をどんなにか偉大に、またどんなにか小さく思っただろう。

お前は残酷にも己を不慥かな

人間の運命の圏内に衝き戻したな。

誰に己は教を受けよう。何を去り何に就こう。630

あの内の促のまにまに動いて好かろうか。

我等の生の道のゆくてを遮り塞ぐものは、

ああ、我等の受ける苦だけではない。我等のする事業も邪魔だ。

我等の霊の受けた、最も美しきものの周囲にも、

約束したように無用の夾雑物が来て引っ著く。635

この世界の善なるものに到達してから前途を見れば、

一層善なるものが、憾むらくは虚無の幻影になって見える。

生の我等に与えた美しき感じが

下界のとよみの中で凝り固まってしまう。

不断は空想が大胆な※翔を擅にして、640

希望に富んだ勢を以て、永遠の境まで拡がっても、

「時」の渦巻に巻き込まれて、狙った幸福が一つ一つ毀れると、

さすがの空想も萎靡して、狭い空間にせぐくまる。

その時直ぐに心の底に、「憂」と云うものが巣を食って、

ひそやかな痛の種子を蒔き、645

自分も不安らしく身をもがいて、人の安穏と歓喜とを破る。

この憂は種々の仮面を取り換えて被る。

家になり、地所になり、女房になり、子供になる。

火になり、水になり、匕首になり、毒になる。

貴様は常にその中らぬもののために戦慄して、650

その離れ去らぬもののために泣かなくてはならぬ。

いや。己は切に感ずる。己は神々には似ておらぬ。

塵芥の中に蠢く蛆に己は似ているのだ。

その塵芥に身を肥やして、生を偸んでいるうちに、

道行く人の足に踏まれて、殺されて埋められるのだ。655

高い壁に沿うて、分類して百にも為切ってある棚の物が

己の周囲を隘めているのも、これも塵ではないか。

この紙魚の世界で、己を窮屈がらせている

器具、千差万別の無用の骨董も塵ではないか。

己の求めているものが、この中で見附けられようか。660

いつの世、どこの国でも人間が自ら苦んで、

その間に罕に一人位幸福な奴があったと云うことを、

己に万巻の書の中で読めと云うのか。

空洞な髑髏奴。なぜ己を睨んでいる。

お前の脳髄も己のと同じように、昔迷いつつ軽らかな665

快い日を求め、重くろしい薄明の中で、興味を以て

真理を追うて、みじめに失敗したと云う外はあるまい。

それからお前達器械だがな、車の輪や櫛の歯のような物、

熨斗の取手のような物やロラアから出来ている器械だがな、

お前達も己を馬鹿にしているに違ない。己が扉の前に670

立っていた時、お前達は鍵になってくれるはずであった。

しかし鎖鬚よりもちぢくれた鬚が生えていても、

鎖鑰を開けてはくれなかった。自然はなかなか秘密がっていて、

青天白日にウェエルを脱いで見せてはくれない。

あいつが己の霊に見せてくれない物を、

槓杆や螺牡で開けて見ることは出来ない。675

己に用のない古道具奴。お前達は父の手沢のお蔭でここにいる。

火皿を弔る滑車奴。お前はこの机に濁った燈火がいぶっている限、

夜な夜な煤けて行くばかりだ。

この少しばかりの物を、疾っくに売り飛ばせば好かったに、680

己は重荷のようにそれを背負って汗を掻いている。

貴様の先祖から譲り渡された物を、

貴様が占有するには、更にそれを贏ち得んではならん。

利用せずに置く物は重荷だ。

刹那が造ったものでなくては、刹那が使うことは出来ない。685

はてな。なぜ己の目はあそこに食っ附いて離れないだろう。

あの瓶が己の目を引く磁石なのか。

なぜ己の心持が、夜の森を歩く時月が差して来たように、

忽ちめでたく明るくなって来たのだ。

この取り残された一つの瓶奴。お前を恭しく取り卸しながら、690

己はお前に会釈をするぞよ。

人智と技術とをお前に対して敬するぞよ。

恵ある眠薬の精奴。

あらゆる隠微な人を殺す諸力を選り抜いた霊液奴。

今この主人をお前の恵に逢わせてくれい。695

お前を見たばかりで、苦痛が軽くなるようだ。

お前の瓶を手に取れば、意欲が薄らいで来るようだ。

己の霊の潮流が次第々々に引いて行く。

高く湛えた海の上へ、己はさそい出されて、

我足の下には万象の影をうつす水鏡が耀く。700

新なる日が新なる岸へ己を呼ぶ。

軽らかに廻る火※の車が己を迎える。

※気を穿って新しい道を進んで、

浄い事業の新しい境界へとこころざす

心の支度が出来たように己は感ずる。705

こんな高遠な生活、こんな神々の歓喜のような歓喜。

まだ蛆でいる貴様になんの功があってこれを受けるのだ。

好い。優しい下界の日の光に、

貴様は決然として背を向けるが好い。

誰も畏れて避けて通る門の戸を、710

押し開けて入る勇気があるなら行け。

空想が自己を苦痛の地獄に堕す

あの暗い洞窟の前におののかず、

狭い入口に地獄の総ての火が燃え立つ

あの狭隘の道を目ざして、715

よしや誤って虚無の中に滅し去る虞があろうとも、

晴やかな気分でこの一歩を敢てして、

神々の位を怖れぬ男児の威厳を、

事実の上に証して見せるなら、今がその時だ。

さあ、水晶の浄らな盃、ここへ降りて来い。720

長い年月の間お前の事は忘れていたが、

今その箱の中から出てもらおう。

己の先祖が祝賀の宴を張った時には、

お前は光り耀いていて、一人が一人へ差す毎に、

蹙んだ客の顔色も晴やかになったものだ。725

己も若かった昔の夜のうたげを覚えている。

お前の上に美しく鏤めてある、種々の絵摸様を、

飲む人の務として、詩の句で説き明かして

さて一口に中の酒を飲み干したものだ。

己はお前を今日に限って隣の客にも廻さず、730

お前の絵模様に拙い才を試みようともせぬ。

ここにあるのは早く人を酔わせる酒だ。

己がかつて選んでかつて醸した

この褐色の液がお前の中に注がれるのだ。

さあ、この最後の杯を挙げて、己は心から735

はればれしく寿をこの「暁」に上るのだ。

(ファウスト杯を口に当つ。)

鐘の響、合唱の歌。

歌う天使の群

クリストはよみがへりたまひぬ。

身をも心をも損ふべき、

緩やかに利く、親譲の

害毒のまつはれたる、740

死ぬべきもの等に喜あれ。

ファウスト

や。己の口から杯を強いて放させたあの声は

なんと云う深いそよめき、高い音色であろう。

それにあの鈍い鐘の音は、

もう復活祭の始まる時刻を知らせるのか。745

さてはあの諸声は、昔冢穴の闇の夜に

天使の唇から響いて、新しき教の群に

固き基を与えた、慰藉多き詞であったか。

歌う女の群

われ等、主にまつろへる女子は

香料を750

み体に塗りまつり、

臥させまつりぬ。

巾をもて、紐をもて

清らに裹みまつりぬ。

さるを、あなや、主の755

こゝにいまさぬ。

歌う天使の群

クリストはよみがへりたまひぬ。

いたましき、

浄からしめ、鍛ひ錬る

業を修し卒へたまへる、760

物を愛します主よ。聖にいませ。

ファウスト

お前達、天の声等はなぜ力強く、しかも優しく

己をこの塵の中に覓めるのだ。

情の脆い人等の住むあたりに響き渡れば好いに。

なるほど使命の詞は聞える。しかし己には信仰がない。765

奇蹟は信仰の愛子だ。

あの恵ある便を伝える声のする、

あの境界へは己は敢て這入ろうとは努めぬ。

しかし小さい時からあの声を聞き慣れていたので、

あの声が今己を生に呼び戻したのだ。770

昔は沈んだ安息日の静けさの中に、

ゆくりなく天の愛の接吻が己にせられた。

その時意味ありげに、ゆたかな鐘の音が聞えて、

己の祷は熱した受用であった。

その時恵ある不可思議な係恋が775

己を駆って、森の中、野のほとりへ行かせた。

そして千行の熱涙の下ると共に、

己のために新しい世界が涌出すように思った。

面白い遊、春の祭の自由な幸福を、

あの歌が青春に寄与したものだ。780

そう云う追憶が子供のような感情で、

今己の最後の仮初ならぬ一歩を引き留めたのだ。

お前達、優しい天の歌よ、好いから響き渡ってくれい。

ああ。涙が涌く。下界は己を取り戻した。

歌う徒弟の群

埋められたまひぬる、785

生きて気高くまします主は、

早く厳かに

み空高く升らせ給ひしか。

なり出づるを楽む心もて

物造る喜を今し享けんとやし給ふ。790

あはれ、悲しくも我等は

地の胸に縋りて、かくぞ世にある。

我等教子の友を、主は

歎きつゝこゝに残りをらしめ給ひぬ。

あはれ、師の君よ。795

おん身の幸に我等は泣く。

歌う天使の群

物を朽ち壊れしむる地の膝を

立ち離れつゝ、主はよみがへりましぬ。

汝達は喜びて

絆を断て。800

行もて主を称へまつり、

主に愛を捧げまつる、

同胞めき斎に就き、

み教を弘めつゝ旅寐し、

来ん世の喜を知らする汝達よ。805

師の君は汝達に近くおはす。

師の君は汝達のためにいます。

閭門の前

さま/″\の散歩する人出で行く。

職工の徒弟数人

なぜそっちへ出て行くのだい。

同じ徒弟の他の群

おいら達は猟師茶屋へ行くのだ。

初の数人

おいら達は擣屋の方へ行くのだ。810

徒弟の一人

それより河岸の茶屋の方が好いじゃないか。

第二の徒弟

あっちは途中がまるで詰まらないぜ。

第二の群

お前はどうする。

第三の徒弟

おいらはみんなと行く。

第四の徒弟

みんなお城の茶屋まで登って行けば好いになあ。

あそこが女も一番好いのがいるし、ビイルも旨い。815

それに喧嘩だって面白い奴が出来るのだ。

第五の徒弟

人を馬鹿にしていやがらあ。

また背中をなぐられるのかい。三度目になるぜ。

己はあんなところへは行かねえ。思ってもぞっとする。

下女

わたし厭になっちまうわ。町へ帰ろうかしら。820

第二の女

まあ、あそこの柳の木のとこまで行って御覧よ、来ているから。

初の下女

来ていたってなんにもなりゃしないわ。

きっとわたしには構わないで、お前と並んで歩いて、

踊場へ行けば、お前とばかし踊るのだから。

お前が面白くったって、わたしにはなんにもならないわ。825

第二の女

なに、きょうはひとりじゃなくってよ。

そら、あの髪の綺麗に縮れた人ね。あれと来ると云ったわ。

書生

やあ。気持の好い、活溌な歩きようをしているなあ。

君、来給え。あいつ等の行く方へ附いて行こう。

濃いビイルに強い烟草。830

それに化粧をした娘と云うのが、己の註文だ。

良家の処女

ちょいと、あの書生さん達を御覧なさいよ。

誰とでも御交際の出来る立派な方なのに

女中の跡なんぞに附いて行って、

まあ、なんと云う恥曝しな事でしょう。835

第二の書生(第一のに。)

おい、君、そんなに駆け出すなよ。あの跡から行く

二人を見給え。気の利いた風をしているだろう。

ひとりは僕の内の隣の娘だ。

あれが僕は好なんだ。

見給え。あんなにゆっくり歩いている。840

一しょに行くと云うかも知れない。

第一の書生

廃し給えよ。僕は窮屈な事は真っ平だ。

早く来給え。切角の旨い山鯨を取り逃がしてしまう。

日曜日に僕達をさすらせるには、

土曜日に箒を持った手に限る。845

市民

いや。こん度の市長にはわたくしは感心しませんなあ。

市長だと云うので、日にまし勝手な事をする。

そして市のためにあの人が何をしています。

一日々々と物事がまずくなるばかりじゃありませんか。

なんでも市民はこれまでになく言いなりになって、850

これまでになく金を沢山出すことになっています。

乞食(歌ふ。)

お情深いお檀那様や、お美しい奥様方。

お召はお立派で、お血色はお宜しい。

どうぞ皆様わたくしを御覧なさりまして、

わたくしの難儀にお目を留められ、お救なされて下さりませ。855

こうしてお歎き申すのを、むだになさらないで下さりませ。

お恵をなさらいでは、お楽はございません。

皆様のお遊なさる日が、

わたくしの取入日でございます。

他の市民

日曜日や大祭日には860

軍や鬨の声の話をするのが、わたしは一番好です。

遠いトルコの国で余所の兵隊同士が

ぶち合っているのが面白いじゃありませんか。

余所にそんな事があるのに、こっちはお茶屋の窓の側で

ビイルを一杯飲み干して、美しい舟の川下へさがるのを眺めて、865

日が暮れれば楽しく内へ帰って、

難有い太平の世のためにお祷をするのですな。

第三の市民

お隣の方の仰ゃる通です。わたくしもその通さ。

余所の奴等はお互に頭の割りくらをするが好い。

何もかも上を下へとごった返すが好い。870

よろず長屋に事なかれですよ。

一老女(良家の娘達に。)

やれやれ。えらいおめかしが出来ましたな。別品揃だ。

誰だって迷わずにはいられますまい。

おや。そんなにつんけんなさらぬが好い。その位で沢山だ。

お前さん達のお望を※えることなら、わたしにも出来る積だ。875

良家の娘の一人

アガアテ婆あさん。厭だよ。あっちへおいで。あんな魔法使と

往来を一しょに歩いて溜まるもんかね。

聖アンドレアスの晩に、わたしの御亭主になる人を

見せてくれたには違ないのだけれど。

他の娘

わたしにも水晶の中に現して見せてくれてよ。880

なんでも軍人のようで大勢のきつい人の中にいましたの。

それからわたしどこかで逢うかと思って気を附けていても、

まだその人らしいのに逢わなくってよ。

兵卒等

牆壁聳ゆる

堅固なる城塁よ。885

傲り蔑する

気性ある少女子よ。

占領したきはこの二つ。

艱難困苦は大なれど、

その成功こそめでたけれ。890

召募の喇叭よ。

汝が響くに任す。

歓の場へも導け。

戦死の野へも導け。

これぞ競なる。895

これぞ命なる。

城塁も落ちざらめや。

少女子も靡かざらめや。

艱難困苦は大なれど、

その成功こそめでたけれ。900

かくぞ軍人は

門出する。

ファウストとワグネルと

ファウスト

春の恵ある、物呼び醒ます目に見られて、

大河にも細流にも、もう氷がなくなった。

谷間には希望の幸福が緑いろに萌えている。905

冬は老いて衰えて

荒々しい山奥へ引っ込む。

そして逃げながらそこから

粒立った氷の一しぶきを、青み掛かる野へ、

段だらに痕の附くように蒔いている。910

しかし日は白い物の残っているのを許さないで、

何物にも色彩を施そうとする。

そこにもここにも製作と努力とが見える。

それでもこの界隈にはまだ花が咲いていない。

その代りに、日は晴衣を着た人を照している。915

まあ、跡へ戻っておいで。この高みから

町の方を振り返って見ようじゃないか。

空洞で暗い里の門から、

色々の著物を著た人の群が出て来る。

きょうは誰も誰も日向ぼこりがしたいのだ。920

あれは皆主の復活の日を祝っている。

自分達も復活して、

低い家の鬱陶しい間から出たり、

手職や商売の平生の群を離れたり、

頭の上を押さえている屋根や搏風の下を遁れたり、925

肩の摩れ合うような狭い巷や

礼拝堂の尊い闇から出たりして、

外の明を浴びているのだから、無理は無い。

あれを見給え。大勢が活溌に

田畑の上へ散らばって行く。930

川には後先になったり並んだりして、

面白げに騒ぐ人を載せた舟が通っている。

あの一番跡の舟なんぞは、

沈みそうな程人を沢山に載せて出て行くところだ。

あの山の半腹の遠い岨道にさえ935

色々な衣裳の彩色が光って見える。

もう村の方からとよめきが聞えて来る。

大勢のためにはここが真の天国なのだね。

「ここでは己も人間だ、人間らしく振舞っても好い」と、

老若ともに満足して叫んでいるのだね。940

ワグネル

先生。あなたと散歩しますのは、

わたくしの名誉でもあるし、為めにもなります。

一体わたくしは荒々しい事は嫌でございますから、

御一しょでなくてはこんな所へは来ないでしまいましょう。

ヴァイオリンを弾く音、人のどなる声、王様こかしの丸の響、945

どれもどれもわたくしは聞くのが随分つろうございます。

悪魔にでも焚き附けられているように騒ぎ廻って、

それを歌だ、慰だと云うのでございますからね。

百姓等(菩提樹の下にて。)

舞踏と唱歌と。

羊飼奴が踊に来ようとめかした。

著て出たジャケツは色変り。紐や飾が附いている。950

さすが見た目が美しい。

菩提樹のまわりは疾うから人籠で、

どいつもこいつも狂ったような踊りよう。

ユホヘ。ユホヘ。

ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。955

胡弓がこんな音をする。

羊飼奴は気が急いて、駆け附けた。

その時はずみに片肘が

一人の娘に打っ衝かる。

元気な尼っちょが顔を見て云った。960

「お前さんよっぽどとんまだね。」

ユホヘ。ユホヘ。

ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。

そう不行儀では困ります。

それでも始めるくるくる廻り。965

右の方へ踊って行く。左の方へ踊って行く。

あれあれ上著がみんな飛ぶ。

赤くなったり、熱くなったり。

肘を繋いで、息を衝いて休む。

ユホヘ。ユホヘ。970

ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。

腰にお前の手が障る。

心安立、馴染振、余り早いと遣り込める。

女夫約束固めても

騙した人はたんとある。975

構わず騙して連れて退く。

菩提樹の方からは。

ユホヘ。ユホヘ。

ユホハイザ。ハイザ。ヘエ。

胡弓の音やら人の声。980

百姓爺

やあ。先生様でござりますな。好くおいでなさりました。

わたくしどもをお嫌なさらずに

この人込の中へ

大先生様がいらっしゃる。

このお杯が一番好い。985

丁度注いだばかりだ。

どうぞ召し上って下さりませい。

お吭のお乾を止めてお上申すと云うだけではござりません。

これに這入っている酒の一滴ずつを丁寧に

勘定して見ます程、どうぞお命をお延べなさりませい。990

ファウスト

切角の御親切だから頂戴しましょう。

これでお礼を申して、あなた方の御健康を祝します。

(衆人そのあたりに集ふ。)

百姓爺

ほんとにこう云うめでたい日に、

好うおいでなさりました。

先年わたくしどもが難儀をいたしました時は、995

あなた様のお恵にあずかりました。

ここにこうしてながらえているものの中には、

えらい熱を煩っていたのを、

お亡くなりになった老先生様が、

あぶない際になってから、直して助けて下さりました。1000

その時分先生様はまだお若かったが、

どの隔離所をもお見まい下された。

どこからも死骸をかつぎ出したのに、

先生様は御無事でおいでなされた。

なんでもあぶない迫門をお凌なされた。1005

人をお助なされたので、神様が先生様をお助なされた。

一同

先生様も御長寿をなさりまして、

これからも大勢の人お救下さりませい。

ファウスト

いや。人を救うことをお教下され、また救をお授下さるのは、

あの天にいます神様だ。あれをお拝なさるが好い。1010

(ファウスト、ワグネルと共に歩み出す。)

ワグネル

先生、大したものでございますね。どうでございます、

みんなにあんな風に尊敬せられておいでになるお心持は。

先生のように、自己の材能で人をあれまでに

帰服させることが出来れば、幸福でございますね。

年寄は子供に指さしをして見せて遣る。1015

誰だ誰だと問い合って、押しつ押されつ、駆け寄って来る。

胡弓の音が息む。踊手が足を止める。

お通になる所に人墻を造って、

皆がばらばらと帽子を脱ぐ。

も少しで、晩餐のパンを入れた尊いお箱が通るように、1020

膝を衝いて拝みそうでございますね。

ファウスト

もう少しだから、あの石の所まで行って、

大ぶ歩いたから休もうじゃないか。

己は好くひとりで物案じをして、この石に腰を掛けていた。

断食や祈祷で身を責めていた時の事だ。1025

あの時は希望も饒かで、信仰も堅かった。

無理にも天にいます主にお願申して、

あの恐ろしいペストの流行を止めてお貰申そうと、

涙を流し、溜息を衝き、手の指を組み合せて悶えた。

今皆があんなに褒めるのが、己には嘲るように聞える。1030

君には己のこの胸のうちが分かるまいが、

親爺にしろ己にしろ、あの褒詞を受ける程に

働をしてはいないのだ。

親爺は行跡に暗い痕のある学者だった。

自然や、神聖なる自然の種々の境界の事を、1035

誠実が無いではないが、自分流義に

物数奇らしい骨の折方をして、窮めようとしていた。

例の錬金術の免許取のお仲間で、

道場と云う暗い廚に閉じ籠って、

際限のない、むずかしい方書どおりに、1040

気味の悪い物を煮交ぜたものだ。

大胆に言い寄る男性の「赤獅子」を、

鼎の微温湯で女性の「百合」に逢わせる。

それから二人を武火に掛けて、

閨から閨へ追い廻す。1045

ようよう玻璃の器の中に

色の度々変る「若い女王」が見えて来る。

これが薬だ。病人は大勢死ぬる。

誰が直ったかと、問う人は一人もない。

そんな風で、この谷間から山奥へ掛けて1050

病人に恐ろしい煉薬を飲ませ廻ったから、

己達親子はペストより余計に毒を流したらしい。

己の飲ませて遣ったのでも何千人か知れぬ。

大抵衰えて死んだ。毒を遣った横著な人殺が

褒められると云う経験を、己はしたのだ。1055

ワグネル

そんな事を御心配なさらなくっても好いではありませんか。

人に授かった技術を、

誠実に、間違なくおこなって行けば、

正しい人が責を尽したと云うものではありませんか。

先生はお若い時、老先生を御尊信なさって、1060

喜んでそのお伝をお受になる。

それからお年をお取になって、学問の知識をお殖やしになれば、

御子息が一層高い境界にお達しなさろうと云うもので。

ファウスト

いや。この迷の海から浮き上がることがあろうと、

まだ望んでいることの出来るものは、為合だ。1065

なんでも用に立つ事は知ることが出来ず、

知っている事は用に立たぬ。

しかしこんな面白くない事を思って、

お互にこの刹那の美しい幸福を縮めるには及ばぬ。

あの青い畑に取り巻かれている百姓家が、1070

夕日の光を受けてかがやいているのを御覧。

日は段々いざって逃げる。きょう一日ももう過去に葬られ掛かる。

日はあそこを駆けて行って、また新しい生活を促すのだ。

己のこの体に羽が生えて、あの跡を

どこまでも追って行かれたら好かろう。1075

そうしたら永遠なる夕映の中に、

静かな世界が脚下に横わり、

高い所は皆紅に燃え、谷は皆静まり返って、

白銀の小川が黄金の江に流れ入るのが見えよう。

そうしたら深い谷々を蔵している荒山も、1080

神々に似た己の歩を礙げることは出来まい。

己の驚いて※った目の前に、潮の温まった

幾つかの入江をなした海原が、早くも広げられよう。

それでもとうとう女神は沈んでしまうだろう。

ただ新しい願望が目醒める。1085

女神の永遠なる光が飲みたさに、

夜を背にし昼を面にし、

空を負い波に俯して、己は駆ける。

ああ。美しい夢だ。しかし夢は消え失せる。

幻に見る己の翼に、真実の翼が出来て1090

出合うと云うことは容易ではない。

兎に角この頭の上で、蒼々とした空間に隠れて、

告天子が人を煽動するような歌を歌うとき、

樅の木の茂っている、険しい巓の上の空に、

鷲が翼をひろげて漂っているとき、1095

広野の上、海原の上を渡って

鴻雁が故郷へ還るとき、

感情が上の方へ、前の方へと

推し進められるのは、人間の生附だ。

ワグネル

わたくしも随分気まぐれな事を思う時がありますが、1100

ついぞそんな欲望が起ったことはございません。

森や野原の景色をたんのうするまで見れば済む。

これからも鳥の羽が羨ましゅうなろうとは思いません。

それとどの位違うか知れないのは精神上の快楽で、

一枚一枚、一冊一冊と読んで行く心持と云ってはありません。1105

本を読めば、冬の夜も恵ある、美しい夜になって、

神聖なる性命が手足を温めます。それが並の本でなくて、

珍奇な古文書ででもあると、あなただって

天上の生活が御自分の処へ降ったようでございましょう。

ファウスト

いや。君は人生のただ一つの欲望をしか知らない。1110

どうぞ生涯今一つの分を知らずにおらせたいものだ。

ああ。己の胸には二つの霊が住んでいる。

その一つが外の一つから離れようとしている。

一つは荒々しい愛惜の情を以て、章魚の足めいた

搦み附く道具で、下界に搦み附いている。1115

今一つは無理に塵を離れて、

高い霊どもの世界に登ろうとしている。

ああ。この大気の中に、天と地との間に、

そこを支配しつつ漂っている霊どもがあるなら、

どうぞ黄金色の霞の中から降りて来て、1120

己を新しい、色彩に富んだ生活へ連れ出してくれい。

せめて魔の外套でも手に入って、

それが己を裹んで、余所の国々へ飛んで行けば好い。

己のためにはどんな錦繍にも、

帝王の衣にも換え難い宝だがなあ。1125

ワグネル

どうぞあの知れ渡った鬼どもをお呼なさいますな。

あの鬼どもは雲のうちにさまよいつつ広がっていて、

八方から人間に

千変万化の危害を加えようとしております。

北からは歯の鋭い、矢のように尖った舌の鬼共が、1130

先生の処へ襲って来ましょう。

東から来る鬼どもは物を干からびさせて、

あなたの肺の臓で身を肥やそうとします。

中央があなたの頂の上へ、火に火を重ねる鬼共を

沙漠の方から送って来れば、1135

西からはまた最初気分を爽かにするようで、しまいには

あなたをも田畑をも水に埋める鬼共をよこします。

ああ云う鬼共は愉快げにすばしこくお詞を聞いて、

仰ゃる通になります。それは先生を騙そうとするのです。

天からよこされた使のような風をして、1140

※ばかりを天使の詞で囁きます。

だがもう参りましょう。もうそこらが鼠色になりました。

風が涼しくなって、霧が降りて来ました。

夕方になって家の難有みは知れますなあ。おや。先生。

お立留なすって、驚いたようなお顔で何を御覧なさいます。1145

あの薄明の中に何があるので、そんなに御感動なさるのでしょう。

ファウスト

君あの刈株や苗の間を走っている黒犬が見えるかい。

ワグネル

はい。さっきから見えていますが、何も大した物ではないようで。

ファウスト

好く見給え。君はあの獣をなんだと思う。

ワグネル

尨犬です。あいつ等の流義で、御苦労にも1150

見失った主人の跡を捜しているのでございます。

ファウスト

君あれが蝸牛の背の渦巻のような、広い圏をかいて、

次第々々に我々の方へ寄って来るのが分かるか。

それに己の目のせいかも知れないが、あいつの歩く跡の道には

火花が帯のように飛んでいるじゃないか。1155

ワグネル

わたくしには黒い尨犬しか見えません。

それは先生のお目の工合でございましょう。

ファウスト

どうも己の考では、未来の縁を結ぶために、

微かな蠱の圏を己達の足の周囲に引くらしい。

ワグネル

いや。わたくしの見た所では、主人でない、知らぬ人を1160

二人見て、不安に恐ろしく思って、周囲を飛び廻るので。

ファウスト

圏が段々狭くなった。もう傍へ来た。

ワグネル

御覧なさい。犬です。化物ではございません。

うなって、疑ったり、腹這ったり、

尾を掉ったりします。みんな狗の癖です。1165

ファウスト

こら。己達の所へ来い。ここへ来い。

ワグネル

尨犬らしい気まぐれな奴でございます。

先生がお立留になれば、前へ来て据わります。

お物を仰ゃれば、飛び附いて参ります。

何かおほうりになったら、取って参りましょう。1170

水の中からステッキをも※えて参るでしょう。

ファウスト

なるほど。君の云う通かも知れん。どうも霊の痕がなくて、

総てが躾に過ぎないようだ。

ワグネル

いや。好く躾けてある狗なら、

賢い人にも気に入りましょう。1175

不断学生共の好い連になっているのだから、

先生の御愛顧を受ける値打は慥かにあります。

(二人閭門に入る。)

書斎

ファウスト狗を伴ひて入る。

ファウスト

何か物を暗示するような、神聖な恐怖を起させて、

我等の善い方の霊を呼び醒そうとする、

深い夜に掩われた1180

田畑から己は帰った。

総て荒々しい振舞をさせようとする、

粗暴な欲望は寐入った。

今は博愛の心、

神の愛の心が動いている。1185

尨犬。じっとしていろ。そんなに往ったり来たりするな。

そこの出口の所へ行って、何を嗅ぎ廻っている。

その煖炉の背後へ行って寝ていろ。

己の一番好い布団を貸して遣る。

外で、あの坂道のような所で1190

飛んだり跳ねたりして己達を喜ばせた代りに、

歓迎せられた、おとなしい客になって、

己の接待を受けるが好い。

この狭い書斎に

ランプがいつものように優しく附くと、1195

己達のこの胸の中、

自ら知り抜いている胸の中が明るくなる。

理性がまた物を言いはじめる。

希望の花がまた咲き出す。

ああ。生の小川へ、生の元つ泉へと1200

この心があこがれるなあ。

尨犬。そんなにうなるな。今己の心の全幅を領している

神聖なる物の音には、

獣の声では調子が合わない。

人間が自分の解せぬ事を嘲り、1205

往々うるさい物に思う善や美を見て

ぐずぐず云うのには、

己達は慣れている。

狗もやっぱりそれをぐずぐず云うのかい。

ああ。しかしもうなんと思っても、1210

この胸から満足が涌いて来ぬ。

なぜまた流がこう早う涸れて

己達は渇に悩んでいなくてならんのか。

これは年来経験して知っている。

この欠陥を埋め合せようとして、1215

形而上のものを尊重するようになり、

啓示がほしいとあこがれる。

あのどの伝よりも尊く、美しく

新約全書の中に燃えている啓示がそれだ。

原本を開けて見て、1220

素直な感じのままに、一遍

神聖なる本文を

好な独逸語に訳して見たい。

(一書巻を開き、翻訳の支度す。)

こう書いてある。「初にロゴスありき。語ありき。」

もう此所で己はつかえる。誰の助を借りて先へ進もう。1225

己には語をそれ程高く値踏することが出来ぬ。

なんとか別に訳せんではなるまい。

霊の正しい示を受けているなら、それが出来よう。

こう書いてある。「初に意ありき。」

軽卒に筆を下さぬように、1230

初句に心を用いんではなるまい。

あらゆる物を造り成すものが意であろうか。

一体こう書いてあるはずではないか。「初に力ありき。」

しかしこう紙に書いているうちに、

どうもこれでは安心出来ないと云う感じが起る。1235

はあ。霊の助だ。不意に思い附いて、

安んじてこう書く。「初に業ありき。」

尨犬。己と一しょにこの部屋にいる積なら、

うなることを廃せ。

吠えることを廃せ。1240

そんな邪魔をする奴を

傍に置いて我慢して遣ることは出来ぬ。

お前か己か、どちらかが

書斎を出て行かなくてはならん。

己は客を逐うことは好まぬが1245

あの通り戸は開いている、出て行くなら行け。

はてな。妙に見えるな。

自然にありそうもない事だ。

あれは幻か。現か。

あの尨犬は幅も広がり丈も伸びる。1250

勢好く起き上がって来る。

あれは狗の姿ではない。

己はなんと云う化物を内へ連れて来たのだろう。

もう火のような目、恐ろしい歯並をした

河馬のように見える。1255

はあ。もうお主は己の手の裏の物だ。

お主のような、半ば地獄に産み出されたものには、

クラウィクラ・サロモニスの呪が好い。

霊等(廊下にて。)

この中に一人捕われている。

皆外におれ。附いて這入るな。1260

係蹄に掛かった狐のように、

地獄の古リンクス奴が怯れている。

しかし気を附けて見ておれ。

あちらへ漂い、こちらへ漂い、

升っては降りて見ておれ。1265

あいつはとうとう逃げて出よう。

あいつに手が貸されるなら、

あいつを棄て置かぬが好い。

己達はあいつには

いろいろ世話になっている。1270

ファウスト

こんな獣に立ち向うには、

先ず四大の呪がいる。

「火の精 サラマンデル 燃えよ。

水の精 ウンデネ うねれ。

風の精 シルフェ 消えよ。1275

土の精 コボルド いそしめ。」

四大を、

その力、

その性を

知らぬものが、1280

なんで霊どもを御する

師になれよう。

「サラマンデルは

※のうちに消えよ。

ウンデネは1285

さざめきて流れ寄れ。

シルフェは

隕石の美しさに耀け。

インクブスは

木樵り水汲め。1290

進み出でて終を告げよ。」

四大のどれも

あの獣のうちにはいぬ。

平気で蹲って、己の顔を睨んでいる。

この呪ではまだ痛い目を見ぬと見える。1295

も少し強い祷を

聞せて遣ろう。

「奴。お前は地獄を

逃れ出たものか。

そんならこの印を見い。1300

これは暗黒の群が

項を屈する印だ。」

はあ。もうとげとげしい毛を竪ててふくれるな。

「廃物奴。

これが読めるか。1305

かつて芽ざさず、

言挙せられず、

あらゆる天に灌がれ、

無慙にも刺し貫かれた、これが読めるか。」

煖炉の背後に封ぜられて、1310

象の大さにふくれ上がるな。

部屋一ぱいになる。

霧になって散ろうとする。

天井へ升ってはならぬ。

師の脚下に身を倒せ。1315

見い。己はいたずらに嚇しはせぬ。

神聖なる火でお前を焼こうか。

三たび燃え立つ火を

待つなよ。

己の術の一番の奥の手を1320

待つなよ。

(霧落つると共に、メフィストフェレス旅の書生の装して煖炉の背後より現る。)

メフィストフェレス

そうお騒になるには及びません。なんの御用ですか。

ファウスト

そんならこれが尨犬の正体であったのか。

旅の書生だな。笑わせる事件だ。

メフィストフェレス

改めて御挨拶をいたします。博識でいらっしゃる。1325

わたくしに汗をたっぷりお掻かせになりました。

ファウスト

名はなんと云うか。

メフィストフェレス

それは小さいお尋かと存じます。

語と云うものをおさげすみになり、

あらゆる外観をお遠ざけになって、

ただ本体の深みをお探になるあなたとしては。1330

ファウスト

しかし君達のは名を聞くと、

大抵本体が読める。

蠅の神、残う者、偽る者などと云えば、

はっきり知れ過ぎるではないか。

そんなら好い。一体君はなんだ。

メフィストフェレス

常に悪を欲し、1335

却て常に善を為す、彼力の一部です。

ファウスト

ふん。その謎めいた詞の意は。

メフィストフェレス

わたしは常に物を否定する霊です。

そしてそれが至当です。なぜと云うに、

一切の生ずるものは滅しても好いものです。1340

して見れば、なんにも生ぜぬに如くはない。

こうしたわけで、あなた方が罪悪だの、

破壊だの、約めて言えば悪と仰ゃるものは、

皆わたしの分内の事です。

ファウスト

君は一部だと名告る。そして全体で己の前にいるのか。1345

メフィストフェレス

それは少しばかりの真理を申したのです。

人間は、気まぐれの小天地をなしていて、

大抵自分を全体だと思っていますが、

わたしなんぞは部分のまた部分です。

最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。1350

暗黒の生んだ驕れる光明は、母の闇夜と古い位を争い、

空間を略取しようとする。

しかしいくら骨折ってもそれの出来ぬのは、

光明が捕われて物体にねばり附いているからです。

物体から流れて、物体を美しくする。1355

そしてその行く道は物体に礙げられる。

あれでは、わたしの見当で見れば、光明が物体と

一しょに滅びてしまうのも遠い事ではありますまい。

ファウスト

そこで君の結構な任務は分かった。

君は大体からは物を破壊することが出来んので、1360

小さい所からなし崩しにこわし始めるのだな。

メフィストフェレス

そうです。勿論それが格別役にも立ちません。

無に対して立っているある物

即ち不細工な世界ですな。こいつには、

これまでいろいろな企をして見ましたが、1365

どうにも手が著けようがありません。

海嘯、暴風、地震、火事、どれを持って行っても

跡には陸と海とが依然としているですな。

それからあの禽獣とか人間とか云う咀われた物は、

一層手が著けられませんね。1370

今までどれ程葬ったでしょう。

それでもやはり新しい爽かな血が循っています。

そんな風で万物は続いて行く。考えると、気が狂いそうです。

空気からも、水からも、土地からも、

乾いた所にも、濡れた所にも、熱い所にも、寒い所にも、1375

千万の物の芽が伸びる。

もしわたしが火と云う奴を保留して置かなかったら、

これと云う特別な物がわたしの手に一つも無い所でした。

ファウスト

そんな風で君は、永遠に息む時なく、

恵深く製作する威力に対して、1380

君の陰険に、空しく握り固めた、

冷やかな悪魔の拳を揮うのだ。

実に混沌の生んだ奇怪な倅ではある。

何かちと外の事を始めてはどうだね。

メフィストフェレス

実際そうですね。少し工夫して見ましょうよ。1385

いずれこの次にもっと精しくお話します。

きょうはこれで御免を蒙りたいのですが。

ファウスト

なぜそれを己に問うのだか分からんな。

まあ、これで君にお近附になったと云うものだ。

いつでも君の気の向いた時にまた来給え。1390

そこには窓がある。そこには戸口もある。

君にはあの煙突なんぞも非常門になるのだろう。

メフィストフェレス

間が悪いが打明けて言いましょう。わたしが出て行くには、

ちょいとした邪魔があるのですよ。

あの敷居にあるペンタグランマの印ですな。1395

ファウスト

ふん。あの印を君は気にするのか。

妙だね。あれに君は縛られるなら、這入る時は

どうして這入ったか。地獄の先生、それを言って見給え。

そんな霊のある印を、どうごまかして這入ったのだ。

メフィストフェレス

好くあれを御覧なさい。本当に引いてないのです。1400

外へ向いている一角が、

御覧の通、少し開いています。

ファウスト

それは偶然の為合だった。

そこで君は己の俘になっているわけだね。

これは意外な、旨い成功だった。1405

メフィストフェレス

実は尨犬は気が附かずに飛び込んだが、

今になって見ると少し工合が違っていて、

どうも悪魔はこの部屋を出にくいのです。

ファウスト

ところで君なぜ窓から出ない。

メフィストフェレス

悪魔や化物には掟があって、1410

這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです。

初にすることは自由ですが、二度目は奴隷になるのです。

ファウスト

そんなら地獄にも法律はあるわけなんだね。

兎に角好都合だ。こうなると君達と

契約を結ぶことも、随分出来るわけだね。1415

メフィストフェレス

それは約束をする上は、あなたに十分の権利がある。

なんのかのと云って、それを狭めるような事はしません。

しかしそれはそう手短には行きませんから、

こん度の御相談にいたしましょう。

今度だけはお暇を下さるように、1420

切にお願申すのですがな。

ファウスト

それにしてもちょいと位好さそうなものだ。

面白い話が聞きたいのだが。

メフィストフェレス

いや。今度だけはお暇を下さい。直に帰って来ます。

その時なんでもお尋下さい。1425

ファウスト

一体己が君を追い掛けたのではない。

君が自業自得で網に掛かったのだ。

悪魔なんと云うものが、手に這入っては手放せないね。

また早速掴まえようと云うわけには行かんから。

メフィストフェレス

いや。是非お伽をするのがお望だと云うことなら、1430

それはいてお上申しても好いですよ。

しかしお慰に何か術をして

御覧に入れても好いと云う条件附に願いましょう。

ファウスト

それは結構だ。君の勝手にし給え。

なるたけ気持の好い術にしてくれ給え。1435

メフィストフェレス

それは承知です。単調極まる一年間に、

あなたの官能の享けたよりは、

この一時間に享けた方がたっぷりだと思わせて上げます。

これから優しい霊どもが歌ってお聞せ申したり、

美しい形を現してお見せ申すのは、1440

いたずらな幻の戯ではない。

鼻にも好い※がしよう。

舌にも好い味がしよう。

それから心にも好い感じがしよう。

別に用意なんぞはいらない。1445

仲間はもう揃っている。始めろ始めろ。

霊等

消えよ、目の上なる

暗き穹窿。

蒼き※気よ。

やさしく美しく1450

室を窺へ。

暗き雲霧は

はや散り失せしよ。

星あまたきらめけり。

やさしき日等は1455

照りわたれり。

天の子等の

霊めく美しさよ。

揺りつゝ身を曲げて

漂ひ過ぎよ。1460

あこがるゝ心もて

こなたへ続け。

その衣の

ひらめく帯は

下界を覆ひ、1465

四阿を覆へ。

恋する二人が深き心もて

生涯を相委ぬる

四阿を覆へ。

四阿は四阿に並べり。1470

芽ぐむ蔓草あり。

枝たわわなる葡萄は

籠み合ふ酒蔵の

桶に灌げり。

泡立つ酒は1475

小川と流れ、

浄き宝玉の

川床にせゝらぎて、

山の上の高き処を

背になしつゝ、1480

事足れる

緑なる岡の辺の

湖に入る。

群鳥は

喜を啜り、1485

日の方へ飛び、

波間に

漂ひ浮ける、

晴やかなる

島々の方へ飛ぶ。1490

その島には合唱の群の

歓び歌ふが聞え、

踊手の野の上に

踊るが見ゆ。

舞ひ歌ふ人皆1495

四方にあらけぬ。

岡のつかさに

攀づるあり。

湖の上に

泅ぐあり。1500

空に冲るあり。

皆生に向へり。

聖なる恵の

愛する星の

遠方に向へり。1505

メフィストフェレス

寐たな。身の軽い、やさしい小僧ども、好く遣った。

好く真面目に骨を折って寐入らせてくれた。

あの合奏のお礼は忘れはしないよ。

へん。悪魔を抑留しようとは、お前にはまだ過ぎた話だ。

小僧ども。こいつの夢に艶な姿を見せて遣れ。1510

迷の海に※めて遣れ。

ところでこの敷居の禁厭を破るには

鼠の牙がいり用だ。

呼ぶには手間は掛からない。

そこらをがさがさ云わせる奴に、もう己の詞が聞えよう。1515

こら。大鼠、小鼠、蠅に蛙に

南京虫、蝨の王の

仰だぞ。遠慮なく這って出て、

そこの敷居をかじれかじれ。

ちょいと油を塗り附けると、1520

早速そこへ飛んで来る。

さあ、為事に掛かれ掛かれ。邪魔なのは

その一番手前の角の所だ。

もう一かじりだ。それで好い。さようなら、ファウストさん、

またお目に掛かるまで、たんと夢を御覧なさい。1525

ファウスト(醒めて。)

己はまた騙されたか。

夢に悪魔を見せられて、

尨犬に逃げられるのが、

意味の深い願の果か。

――――――――――――

ファウスト。メフィストフェレス登場。

ファウスト

戸を敲いたな。おはいりなさい。誰がまた悩ましに来たのか。1530

メフィストフェレス

わたくしです。

ファウスト

おはいりなさい。

メフィストフェレス

三度言って下さいまし。

ファウスト

はてさて。おはいりなさい。

メフィストフェレス

それで宜しゅうございます。

そこで大抵中好く交際が出来る積です。

あなたの気晴らしをしてお上申そうと思って、

ちょっと貴公子と云うなりをして来ました。1535

赤い上衣に金の刺繍がしてある。

上に羽織ったのは、こわばる絹の外套です。

帽子には鳥の羽を挿しました。

そしてこんな長い、尖った剣を吊りました。

そこで早い話が、あなたの方でも1540

こう云う支度をしてお貰申したいのです。

そこであらゆる絆を絶って、自由に

人生がどんなものだと云うことを御経験なさるのですね。

ファウスト

いや。この狭い下界の生活の苦は

どの著物を著ても逃れられまい。1545

一体己は当のない遊をするには、もう年を取り過ぎた。

あらゆる欲を断とうには、まだ年が若過ぎる。

世間が己に何を提供しよう。

闕乏に堪えよ、忍べよと云うのが、

人の一生涯時々刻々1550

厭な声で歌われて、

誰の耳にも聞えて来る

永遠なる歌なのだ。

己は毎朝恐怖の念をして目を醒ます。

ただ一つの、ただ一つの願も※えずに、1555

歓楽の暗示をさえ

かたくなな批評で打ちこわし、

活動している己の胸の創作を

凡百の世相で妨碍する

日の目をまた見ることかと思えば、1560

己は苦い涙を飜して泣きたくなる。

また夜闇が下界を包みに降りて来ても、

己は恐る恐る身を臥所に倒す。

そこでも甘寐の安さを貪ることは出来ずに、

恐ろしい夢に驚かされる。1565

己のこの胸のうちに住んでいる神は

心の深い底の底まで掻き乱すことは出来るが、

己のあらゆる力の上に超然と座を占めている神は、

外界の物を何一つ動かすことが出来ぬ。

それで己には世にあるのが重荷で、1570

死が願わしく生が憎いのだ。

メフィストフェレス

そのくせ死が真に客として歓迎せられることは決して無いのです。

ファウスト

いや。勝軍のかがやきのうちに

死が血に染まった月桂樹の枝を顳※に纏う人、

急調の楽につれて広間を踊り廻った揚句に、1575

少女の腕に支えられながら死を迎えた人は幸だ。

ああ。己もあの高い精霊を覿面に見たとき、

歓喜の余にその場に死んで倒れてしまえば好かったに。

メフィストフェレス

でも誰やらあの晩に

茶色な汁を飲み干さなかったようですね。1580

ファウスト

ふん。君は探偵が道楽だと見える。

メフィストフェレス

わたしは全知ではないが、大ぶいろんな事を知って居ますよ。

ファウスト

あの恐ろしい心の乱の中で、

馴れた優しい音色に牽かれ、

穉かった世の記念の感情が、1585

旧い歓楽の余韻に欺かれたとは云え、

餌や囮やまやかしで人の霊を擒にし、

目をくらましたり賺したりして、

この悲哀の洞窟に繋いで置こうとするような、

あらゆる手段を己は咀う。1590

人の霊が自ら高しとして我と我身の累をなす、

その慢心を先ず咀う。

わが官能の小窓に迫る

現象の幻華を咀う。

わが夢の世に来て欺く1595

名聞や身後の誉の迷を咀う。

妻となり子となり奴婢となり鋤鍬となり、

占有と称して人に媚ぶる一切の物を咀う。

宝を見せて促して冒険の業をもさせ、

また怠の快楽に誘うて1600

軟い茵を体の下にも置き直す、

あの金銭を己は咀う。

葡萄から醸す霊液を咀う。

恋の成就の快楽を咀う。

希望を咀う。信仰を咀う。1605

何より切に忍耐を咀う。

合唱する霊等(目に見えず。)

痛まし。痛まし。

強き拳もて

美しき世界を

汝毀ちぬ。1610

世界は倒れ崩れぬ。

半ば神なる人毀ちぬ。

その屑を「無」のうちへ

我等負ひ行きつゝ、

失はれし美しさを1615

歎く。

下界の子のうちの

力強き汝

先より美しく

そを再び建立せよ。1620

汝が胸のうちにそを建立せよ。

爽かなる目もて耳もて

新なる生の歩を

始めよ。

さらば新しき歌1625

聞えむ。

メフィストフェレス

あれはわたしの仲間の

小僧どもです。

ませた言草で歓楽や事業を

あなたに勧めるのをお聞なさい。1630

官能の働、体の汁の循の止まる

寂しい所から、

遠い世間へ

あいつ等はあなたを誘い出すのです。

角鷹のようにあなたの命の根を啄く1635

「憂」をおもちゃにするのはお廃なさい。

最下等の人間とでも一しょにいたら、

人の中の人だと云うことがあなたにも感ぜられよう。

こう申したからとて、何もあなたを

下司の中へ連れ出そうと云うのではありません。1640

わたしはえらい人のお仲間ではない。

それでもあなたがわたしと一しょに

世間を渡って見ようと云う思召がありゃあ、

即座にわたしは甘んじて

あなたのものになってしまう。1645

まあ、兎に角お連になって見て、

わたしのする事がお気に入ったら、

御家隷にもなるですね。

ファウスト

そしてその代に己の方からどうすれば好いのだ。

メフィストフェレス

そりゃあまだ急ぐことはありません。1650

ファウスト

いやいや。悪魔は利己主義だから、

人の為になることを

容易に只でしてはくれまい、

条件をはっきり言って貰おう。

そう云う家隷は己の内へ危険を及ぼしそうだから。1655

メフィストフェレス

そんならこの世でわたしはあなたに身を委ねて、

休まずに頤で使われましょう。

そこであの世でお目に掛かった時は

あなたがあべこべに使われて下さるですね。

ファウスト

あの世なんぞは己は余り気にしない。1660

まあ、君がこの世界をこなごなに砕いたところで、

別の世界がその跡へ出来ようというものだ。

この大地から己の歓喜は涌く。

この日が己の苦痛を照す。

己がこの天地に別れてしまうことが出来たら、1665

それから先はどうにでもなるが好い。

未来に愛や憎があるか、

あの世にもまたこの世のように

上と下とがあるかなどと、

己は問うて見る気がないのだ。1670

メフィストフェレス

そう云うお考なら思い切ってお遣なさい。

お約束なさい。その上は早速

わたしの術を面白く御覧になることが出来ます。

まだ人間の見たことのない物を御覧に入れます。

ファウスト

ふん。悪魔風情が何を見せる積やら。1675

向上の道にいそしむ人間の霊が

君なんぞに分かった例があるかい。

腹の太らない馳走か、

水銀のようにころころと

間断なく手のうちで散る赤い金か、1680

勝つことのない博奕か、

己の懐に抱かれていながら

隣の男を流眄に見る女か、

隕石のように消えてしまう

名望の、神のような快さをでも授けるのか。1685

摘まぬ間に腐る果でも、日毎に若葉の

茂る木でも、見せるなら己に見せて貰おう。

メフィストフェレス

そんな御註文には驚きません。

そう云う珍物が御用とあれば差し上げる。

しかしそれよりは落ち著いて、何か旨い物を1690

食っていたいと云う時がおいおい近くなりますよ。

ファウスト

ふん。己が気楽になって安楽椅子に寝ようとしたら、

その時は己はどうなっても好い。

己を甘い詞で騙して

己に自惚の心を起させ、1695

己を快楽で賺すことが君に出来たら、

それが己の最終の日だ。

賭をしよう。

メフィストフェレス

宜しい。

ファウスト

容赦はならぬ。

己がある「刹那」に「まあ、待て、

お前は実に美しいから」と云ったら、1700

君は己を縛り上げてくれても好い。

己はそれきり滅びても好い。

葬の鐘が鳴るだろう。

君の奉公がおしまいになるだろう。

時計が止まって針が落ちるだろう。1705

己の一代はそれまでだ。

メフィストフェレス

だが好く考えて御覧なさい。聞いた事は忘れませんよ。

ファウスト

己は軽はずみに大胆に振舞いはせぬから、

どうぞしっかり覚えていて貰おう。

己が一所に停滞したら、己は奴隷だ。1710

君のにしろ、誰のにしろ。

メフィストフェレス

そんならきょうの卒業宴会に

早速御家隷の役をしましょう。

ただ一つ願いたいのは、後に間違のないように

一寸二三行書いて置いてお貰申しましょうか。1715

ファウスト

書物まで取るのかい。悪く堅い奴だな。

男同士の附合も男の詞の信用も知らないのか。

口で言った己の詞が永遠に己の生涯を

自由にすると云うだけでは不満足なのかい。

一体世界のあらゆる潮流は頃刻も息まないのに、1720

己だけが契約一つで繋がれていると云うのも変だ。

しかしそう云う迷は誰の心にも深く刻まれていて、

誰も好んでそれを霽そうとするものがない。

胸の中に清浄に信義を懐いているものは幸福だ。

そう云う人はどんな犠牲をも辞するものではない。1725

ところが、字を書いて印を押した巻紙を、

世間のものは皆化物のようにこわがっている。

いざ筆に上するとなると、一字一句にも気怯がする。

そりゃ用紙、そりゃ封蝋と、どなたもお持廻になる。

おい、悪霊。君は何がいるのだ。1730

紙に書くのか、革に書くのか、石や金に彫るのかい。

鉛筆か、鵝ペンか、それとも鑿で書けと云うのか。

己は君の註文どおりにするのだがね。

メフィストフェレス

何もそんなにむきになって誇張した

言草をしなくったって好いでしょう。1735

どんな紙切でも好いのです。

ただちょいと血を一滴出して署名して下さい。

ファウスト

それで君の気が済むことなら、

下らない為草だが異存はないよ。

メフィストフェレス

血という奴は兎に角特別な汁ですからね。1740

ファウスト

己が違約するだろうと云う御心配だけはいらぬ事だ。

平生力一ぱい遣って見ようと思っている事と、

君に約束する事とが一つなのだからね。

己は大きく丈高くなろうとして、ふくらみ過ぎた。

所詮君くらいの地位にいるはずの己だろう。1745

大なる霊は己を排斥して、

「自然」の戸は己の前に鎖された。

思量の糸は切れて、

あらゆる知識が嘔吐を催しそうになった。

どうぞ官能世界の深みに沈めて、1750

燃える情欲の渇を医してくれ給え。

未だかつて搴げられたことのない秘密の垂衣の背後に

一つ一つの奇蹟が己達の窺うのを待っている。

さあ、「時」の早瀬に、事件の推移の中に

この身を投げよう。1755

受用と痛苦と、

成就と失敗とが

あらん限の交錯をなして来るだろう。

活動して暫くも休まずにいてこそ男児だ。

メフィストフェレス

あなたにこれ程と云う尺度や、これまでと云う限界は示さない。1760

どうぞ到る処に撮食をして、

逃げしなに好い物を引っ手繰なさるが好い。

たんとお楽なさって、跡腹の病めないようになさい。

兎に角すばしこく手をお出なさい。ぼんやりしていないで。

ファウスト

いや。先っきも云うとおり己は快楽は貪らない。1765

最も悲しい受用に、受用のよろめきに身を委ねよう。

恋に迷う心の憎、爽快に伴う胸悪さに委ねよう。

物の識りたい欲を擲ったこの胸は、

これから甘んじてどんな苦痛をも迎えて、

人間全体の受くるべきはずのものを1770

この内の我で受けて味わって見よう。

この己の霊で人間の最上のもの深甚のものを捉えて、

歓喜をも苦痛をもこの胸の中に積んで、

この自我を即人生になるまで拡大して、

遂にはその人生と云うものと同じく、滅びて見よう。1775

メフィストフェレス

まあ、お聞なさい。わたしは何千年と云う間

この靭いお料理を噬んでいるから、知っています。

揺籃から棺桶までの道中に、

この先祖伝来の饅頭種をこなす奴はありませんよ。

わたしどもは知っています。この一切の御馳走は1780

神と云う奴でなくてはこなせない。

なんでもそいつが自分はいつも明るい所にいて、

わたしどもをいつも暗い所に置いて、

あなた方に夜昼を寝たり起きたりして過させるのだ。

ファウスト

しかし己は遣って見る。

メフィストフェレス

さあ、出来ないこともないでしょう。1785

だが、気になることが一つありますよ。

時は短くして道は長しですな。

お望の※うような工夫をお授しましょうか。

一つ詩人と云う奴と結托なさるです。

そこでその先生が思想を馳騁して、1790

宇宙の物のあらゆる栄誉を

あなたの頭銜に持って来るのです。

胆大なること獅子の如く、

足早きこと鹿の如く、

血の熱することイタリア人の如く、1795

堅忍不抜は北辺の民の如しと云う工合です。

その先生にお頼なさって、宏量と狡智とを兼ねて、

温い青春の血を失わずに、

予定の計画どおりに恋をすると云う

秘法を授けてお貰なさるが好い。1800

わたしもそう云う先生にお近附になりたいのです。

そして小天地先生の尊号を上るですな。

ファウスト

しかしね、君。己が見聞覚知の限を尽して、

窮めようとしている人生の頂上が

窮められないものとしたら、己は一体何物だ。1805

メフィストフェレス

あなたですか。あなたは、さよう、やっぱりあなたですな。

何百万本の※毛を植えた仮髪をお被なさっても、

何尺と云う高さの足駄をお穿なさっても、

所詮あなたはあなたですな。

ファウスト

己もどうもそんな気がする。人智の集めた宝の限を、1810

己はいたずらに身のまわりに掻き寄せて見た。

さてじっと据わって考えて見ても、

内から新しい力は涌いて出ぬ。

毛一本の幅程も己の身の丈は加っていぬ。

己は一歩も無極に近づいてはいぬ。1815

メフィストフェレス

いや、先生、それは通途の物の見ようで

物を御覧になると云うものだ。

生の喜が逃げ去らぬ間に、取る物を取ろうとするには、

も少し気の利いた手段をしなくてはいけません。

なに、べらぼうな。それは慥かにあなたの物と云うのは、1820

手足や頭やし□だけでしょう。

しかしなんでも自分が新しく受用すりゃあ、

それが自分の物でないとは云われません。

六匹の馬の代が払えたら、

その馬の力が自分のではないでしょうか。1825

そいつに駆けさせりゃあ、こっちは立派に

二十四本足のある男だ。

さあ、思い切って出掛けましょう。思案なんぞは廃にして

御一しょにまっしくらに世間へ飛び出して見ましょう。

わたしがあなたに言いますがね。理窟を考えている奴は、1830

牛や馬が悪魔に取り附かれて、草の無い野原を

圏なりに引き廻されているようなものです。

その外囲にはどこにも牧草が茂っているのに。

ファウスト

そこで手始にどうしろと云うのだ。

メフィストフェレス

出掛けるですね。

一体ここはなんと云う拷問所です。1835

こんな所で自分も退屈し、学生どもをも退屈させるのが、

生きていると云うものですか。

こんな事は御同僚の太っ腹に任せてお置なさい。

なんだって実の無い藁をいつまでも扱くのですか。

それにあなたに分かる学問の中で、一番大切な事は1840

学生どもには言うことが出来ないのでしょう。

そう云えば、さっきから廊下に一人来ているようですね。

ファウスト

今面会することは己には出来ないが。

メフィストフェレス

小僧大ぶ長く待っているのだから、

慰めて遣らずに帰すわけには行きますまい。1845

一寸その上衣と帽子とをわたしにお貸なさい。

こう云う服装はわたしには好く似合いそうです。

(メフィストフェレス著換ふ。)

これで好い。跡はわたしの頓智に任せてお置なさい。

十五分間もあれば沢山だ。

どうぞその隙に面白い旅の支度をして下さい。1850

(ファウスト退場。)

メフィストフェレス(ファウストの服装にて。)

へん。これからは人間最高の力だと云う

理性や学問を馬鹿にして、

幻術魔法によって、

偽の心を長ぜさせるが好い。

そうなりゃあ先生こっちのものだ。1855

なんの箝制も受けずに、前へ前へと進んで行く

精神を運命に授けられたので、

先生慌ただしい努力のために、

下界の快楽を飛び越して来たものだ。

これから己が先生を乱暴な生活、1860

平凡な俗事の中へ連れ込んで引き擦り廻し、

もがかせて、放さずに、こびり附かせて、

※くことを知らない嗜欲の脣の前に、

旨い料理や旨い酒をみせびらかしてくれる。

先生医し難い渇に悶えるだろう。1865

そうなると、よしや悪魔に身を委ねていないでも、

破滅せずにはいられまいて。

一学生登場。

学生

わたくしはこの土地へたった今参ったばかりですが、

どこで承っても御高名な

先生にお目に掛かって、お話が伺いたいと存じまして、1870

わざわざ罷り出ましたのですが。

メフィストフェレス

これは御丁寧な挨拶で痛み入る。

わしも外に沢山いるとおりの並の男だ。

どうだね。少しはここらの様子を見たかね。

学生

どうぞ何分宜しくお願申します。1875

わたくしは体は丈夫で、学資もかなりありますし、

奮発して出て参ったものでございます。

母はなかなか手放しませんでしたが、

是非余所でしっかりした修行がいたしたいので。

メフィストフェレス

それは君丁度好い土地へ来られた。1880

学生

実の所はなんだかもう帰りたくなりました。

この高い石垣や広い建物を見ますと、

余り好い心持はいたしません。

なんだかこう窮屈らしい所で、

草や木のような青いものも見えませんし、1885

講堂に出て、ベンチに腰を掛けますと、

なんにも見えも聞えもしないで、頭さえぼんやりして来ます。

メフィストフェレス

それは習慣ですよ。

生れたばかりの赤子に乳を含ませると、

すぐには吸い附かないものだ。1890

少し立てば旨がって飲む。

それと同じ事で今に君も知識の乳房に

かじり附いて離れないようになるさ。

学生

それはわたくしも学問の懐に抱かれないのは山々です。

どうしたらそこへ到達することが出来ましょう。1895

メフィストフェレス

まあ、外の話は跡の事にして

何科に這入るつもりだか、それを言って見給え。

学生

ええ。わたくしはなんでもえらい学者になりたいのです。

下界の事から天上の事まで窮めまして、

自然と学問とに1900

通じたいと存じます。

メフィストフェレス

それは至極のお考だ。

しかし余所見をしては行けませんよ。

学生

それは体をも魂をも委ねて遣ります。

しかし愉快な暑中休暇なんぞには1905

少しは自由を得て暇潰な事も

遣られるようだと好いのですが。

メフィストフェレス

光陰は過ぎ易いものだから、時間を善用せんと行かん。

なんでも規律を立てて遣ると、時間が儲かるよ。

まあ、わしに御相談とあれば、1910

最初に論理学を聴くだね。

そこで君の精神が訓錬を受けて、

スパニアの長靴で腓腸を締め附けられたように、

思慮の道を

改めてゆっくり歩くようになるのだ。1915

燐火が空を飛ぶように、

縦横十文字に跳ね廻っては行かん。

それから暫くはこう云う教育を受ける。

譬えば勝手に飲食をするように、

これまで何事も一息に、無造做にしたのを、1920

一、二、三と秩序を経て遣るようにする。

一体思想の工場も

機屋の工場のようなもので、

一足踏めば千万本の糸が動いて、

梭は往ったり来たりする、1925

目に止まらずに糸を流れる、

一打打てば千万の交錯が出来ると云うわけだ。

哲学者と云う奴が出掛けて来て、

これはこうなくてはならんと、君に言って聞せる。

第一段がこうだ、第二段がこうだ。1930

それだから第三段、第四段がこうなくてはならん。

もし第一段、第二段がなかったら、

第三段、第四段は永久に有りようがないと云うのだ。

そんな理窟をどこの学生も難有がっている。

しかし誰も織屋になったものは無い。1935

誰でも何か活動している物質を認識しよう、

記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。

そこで一部分一部分は掌中に握っているが、

お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。化学でそれを

エンヘイレエジス・ナツレエ、「自然処置」と称している。1940

自ら欺く詞で、どうして好いか知らぬのだ。

学生

どうも仰ゃる事が皆は分かりません。

メフィストフェレス

それは君が複雑な事を単一に戻して、

それぞれ部門に入れて考えるようになると、

おいおい今よりは好く分かるようになる。1945

学生

どうも頭の中で擣屋の車が廻っているようで、

ぼうっとしてまいりました。

メフィストフェレス

それから君、先ず何は措いても、

形而上学に取り掛からなくてはいかん。

なんでも人間の頭に嵌まりにくい事を、1950

あの学問で深邃に領略するのだね。

頭に這入る事を斥すにも、這入らない事を斥すにも

立派な術語が出来ていて重宝なわけだ。

それはまあ、後の事として、最初半年は

講義を聴く順序を旨く立てなくてはいかん。1955

毎日五時間の課程がある。

鐘の鳴る時ちゃんと講堂に出ていなくてはいかん。

聴く前に善く調べて置いて、

一章一章としっかり頭に入れて置くのだ。

そうすると、先生が本に書いてある事より外には1960

なんにも言わないのが、跡で好く分かって好い。

しかし筆記は勉強してしなくてはいかん。

聖霊が口ずから授けて下さると云う考でね。

学生

それは二度と仰ゃらなくっても好うございます。

筆記がどの位用に立つかと云うことは、好く分かっています。1965

なんでも白紙の上に黒い字で書いて置いたものは、

安心して内へ持って帰ることが出来ますから。

メフィストフェレス

ところで君、兎に角何科にするのだね。

学生

どうも法律学は遣りたくありません。

メフィストフェレス

わしもあの学科の現状は知っているから、1970

君が気の進まないのも無理とは思わない。

兎角法律制度なんと云うものは

永遠な病気のように遺伝して行く。

先祖から子孫へぐずぐずに譲り渡されて、

国から国へゆるゆると広められる。1975

そのうち道理が非理になって、仁政が秕政になる。

人は澆季には生れたくないものだ。

さて人間生れながらの権利となると、

惜いかなどこでも問題になっていない。

学生

そのお話で厭なのが益々厭になりました。1980

先生のお指図を受けるものは、実に為合です。

そこでわたくしは神学でも遣ろうかと存じますが。

メフィストフェレス

そうさな。君を方向に迷わせたくはない。

あの学問をして、

邪路に奔らないようにするのは、頗るむずかしいて。1985

あの中には毒と見えない毒が沢山隠れている。

それを薬と見分けることがほとんど不可能だ。

まあ、一番都合の好いのは、ただ一人の講義を聴いて、

その先生の詞どおりを堅く守っているのだね。

概して詞に、言句にたよるに限る。1990

そうすれば不惑の門戸から

堅固の堂宇に入ることが出来る。

学生

しかし先生、詞には概念がなくてはなりますまい。

メフィストフェレス

それはそうだ。だが、余り小心に考えて徒労をせぬが好い。

なぜと云うに、丁度概念の無い所へ、1995

詞が猶予なく差し出ているものだ。

詞で立派に議論が出来る。

詞で学問の系統が組み立てられる。

詞に都合好く信仰を托することが出来る。

詞の上ではグレシアのヨタの字一字も奪われない。2000

学生

どうも色々伺って先生のお暇を潰して済みませんが、

も少し御面倒を願いたいのでございます。

どうぞ医学はどんなものだと云うことについても

しっかりした御一言を承らせて下さいまし。

三年の学期は短いのに、2005

学問の範囲は実に広いのです。

先生がちょいと一言方針を御示下さいますと、

それにたよって探りながらでも進んで行かれましょう。

メフィストフェレス(独語。)

もうそろそろ乾燥無味な調子に厭きて来た。

ちと本色の悪魔で行って遣るかな。2010

(声高く。)

医学の要旨は造做もないものだよ。

君は大天地と小天地とを窮めるのだ。

そして詰まる所はやはり神の思召どおりに、

なるがままにさせて置くのさ。

君がいくらあちこち学問をしようとしてさまよっても、2015

それは駄目だ。てんでに学ばれる事しか学ばれない。

ところで、なんでも旨く機会を掴まえるのが、

それが本当の男と云うものだ。

見た所が、君は大ぶ体格が好い。

度胸もなくはないだろう。2020

そこで君に自信が出来て来ると、

世間の人も自然に君を信じて来るのだ。

殊に女を旨く扱うことを修行しなくては行けない。

女と云う奴はここが痛いの、かしこが苦しいのと、

いろいろな言葉の絶える時はない。2025

それがただ一箇所から直すことが出来るのだ。

そこで君がかなり真面目に遣って行くと、

女どもはみんな君の手の裏にまるめられてしまう。

なんでも学位か何かがあって、世間のいろいろな技術より

君の技術が優れていると信ぜさせるのが第一だ。2030

さてお客になって遣って来たら、人の何年も掛かって

障られない所々を、初対面の印にいじって遣る。

脈なんぞを旨く取るのだね。

そして細い腰が、どの位堅く締めてあるかと云うことを、

熱心らしい、狡猾そうな目附をして、2035

探って見て遣るのだね。

学生

そう云うお話なら、何をどうすると云うことが分かって結構です。

メフィストフェレス

兎に角君に教えるがね。一切の理論は灰いろで、

緑なのは黄金なす生活の木だ。

学生

正直に申しますが、わたくしはどうも夢を見ているようです。2040

また改めて先生のお説の極深い処を伺いに

参りましても宜しゅうございましょうか。

メフィストフェレス

なんでもわしに出来る事なら喜んでして上げる。

学生

恐れ入りますが、お暇乞をいたすには

この記念帖にお書入を願わなくてはなりません。2045

どうぞ先生の御眷顧を蒙りましたお印を。

メフィストフェレス

お易い事で。

(書きて渡す。)

学生(読む。)

エリチス・シイクト・デウス・スチエンテス・ボヌム・エット・マルム

(爾等知善与悪。則応如神。)

(恭しく帖を閉ぢて退場。)

メフィストフェレス

その古語の通にしろ。己の姪の蛇の云う通にしろ。

一度は貴様も自分が神のようなのがこわくなるだろう。2050

ファウスト登場。

ファウスト

さあ、どこへ行くのだ。

メフィストフェレス

お好な所へ行きましょう。

先ず御一しょに小天地を見て、それから大天地を見ます。

まあ、一通の修行を遣って御覧なさい。

なかなか面白くて有益ですよ。

ファウスト

しかしこの長い髯の看板どおりに、2055

気軽な世間の渡様は己には出来ない。

所詮遣って見ても旨くは行くまいて。

己には世間に調子を合せると云うことが出来たことがない。

人の前に出ると、自分が小さく思われてならない。

己は間を悪がってばかりいるだろうて。2060

メフィストフェレス

そんな事はどうにかなりますよ。

万事わたしにお任せなさると、直に調子が分ります。

ファウスト

そこでどうしてこの家を出て行くのだ。

馬や車や供なんぞはどこにある。

メフィストフェレス

それはついこの外套を拡げれば好い。2065

これに乗って空を飛んで行くのです。

この大胆な門出には

大きな荷物だけは御免蒙ります。

わたしが少しばかりの瓦斯を製造しますと、

そいつが造做なく二人を地から捲き上げてくれます。2070

そこで荷が軽いだけ早く升れる。

新生涯の序開だ。ちょっとおよろこびを申します。

ライプチヒなるアウエルバハの窖

面白げなる連中の酒宴

フロッシュ

おい。誰も飲んだり、笑ったりせんか。

陰気な面をしていると、僕が承知しないぞ。

いつでも好く燃えるくせに、2075

きょうはなぜ湿った藁のようになっているのだ。

ブランデル

それは君のせいだ、君がなんにも提供しないからだ。

いつもの馬鹿げた事か、下卑た事を遣れば好い。

フロッシュ(ブランデルの頭の上に一杯の酒を澆ぐ。)

そんならこれでどっちも済まそう。

ブランデル

豕に倍した所行だ。

フロッシュ

君が下卑た事を遣れと云ったじゃないか。2080

ジイベル

誰でも喧嘩をする奴は、戸の外へ出て行け。

胸襟を開いてルンダ・ルンダでも歌わんか。飲め、騒げ。

さあ、遣れ遣れ。ホルラア。ホオ。

アルトマイエル

溜らない。参った参った。

誰か綿があるならくれえ。あいつのお蔭で聾になる。

ジイベル

馬鹿言え。天井が反響をする位でなくては、2085

バッソオの根本的威力は発揮せられないのだ。

フロッシュ

賛成々々。苦情を言う奴は逐い出してしまえ。

アア。タラ。ララ。ダア。

アルトマイエル

アア。タラ。ララ。ダア。

フロッシュ

さあ、吭の調子は合った。

(歌ふ。)

愛すべき、神聖なるロオマ帝国よ。2090

いかにして猶纔に維持せらるゝぞ。

ブランデル

厭な歌だなあ。いやはや。政治的の歌と来ている。

下らない歌だ。ロオマ帝国がどうなろうと構わない。

難有い身の上だと、君方は毎朝神に謝するが好い。

僕なんぞは国王でもなけりゃあ、宰相でもないのを、2095

兎に角よほどの利益だと思っている。

しかし我々だって首領なしではいられない。

さあいつもの法皇を選挙しようじゃないか。

どんな資格が大事だとか、その人を高めるとか云うことは、

君方は知っているなあ。2100

フロッシュ(歌ふ。)

飛び立てや、鶯。

恋人に言伝てよ、百千度。

ジイベル

恋人に言伝なんかいらん。そんな事は聞きたくない。

フロッシュ

恋人に言伝をする。キスをする。君のお世話にはならない。

(歌ふ。)

門の戸開けよ。静けき夜はに。2105

門の戸開けよ。風流男寝ず。

門の戸させ。朝まだきに。

ジイベル

ふん。沢山歌うが好い。あんな女を褒めるが好い。

今に僕の笑って遣る時が来る。

僕を騙した通に、今に君を騙すのだ。2110

あいつの色には地の精か何かがなって、

夜の四辻でふざけるが好い。

そこへブロッケンの山から駆けて帰る、年の寄った山羊の牡が

通り掛かって、あいつに今晩はと挨拶すると丁度好い。

正真正銘の血や肉を持っている立派な男は、2115

あいつの相手には惜しいのだ。

あいつに言伝なんぞをすることがあるものか。

窓に石でも打っ附けて遣るが好い。

ブランデル(卓の上を打つ。)

東西東西。僕の言うことを聞き給え。

僕が附合を心得ていることには、諸君同意だろう。2120

ここに女に迷った人達がいます。

その人達に今晩の告別に、身分相応の忠告を

僕がして遣ろうと思います。

東西。最新の調子の歌だぞ。

合唱の所をしっかり頼むぞ。2125

(歌ふ。)

牡鼠が穴倉に巣食って、

餌は脂にバタばかり。

ルテル先生見たように

でっぷり太ってしまった。

そいつにおさんが毒を飼った。2130

鼠は世間が狭うなった。

胸に恋でもあるように。

合唱者(讙呼する如く。)

胸に恋でもあるように。

ブランデル

そこらを廻って飛び出して、

どのどぶからも水を飲んだ。2135

かじる、引っ掻く、家中を。

どんなに荒れても駄目だった。

苦しまぎれに飛び上る。

とうとう程なく荒れ止んだ。

胸に恋でもあるように。2140

合唱者

胸に恋でもあるように。

ブランデル

昼の日なかによろよろと

台所まで駆けて出て、

竈の隅に打っ附かり、

びくつき、倒れて虫の息。2145

おさんは見附けて噴き出した。

お聞よ、笛の吹きじまい。

胸に恋でもあるように。

合唱者

胸に恋でもあるように。

ジイベル

凡俗どものあの面白がりようはどうだ。2150

可哀そうに。鼠に毒を食わせる位が

丁度好い働だろう。

ブランデル

君はひどく鼠が贔屓だね。

アルトマイエル

太っ腹の禿頭奴。

運が悪くて気が折れて、お情深くおなり遊ばした。2155

病み腫れた鼠の姿が

丁度先生そっくりだ。

ファウスト、メフィストフェレス登場。

メフィストフェレス

極面白がっている連中を

何より先にお目に掛けよう。これを御覧になると、

世間がどの位気楽に渡れると云うことがお分かりになる。2160

この連中にはどの日も同じ祭日です。

小才を利かせて、大満足をして、

尻尾を※えてくるくる廻る小猫のように、

てんでに狭い間を踊っています。

※が借りていられる間は、2165

頭痛でもする日の外は、

心配なしに楽んでいます。

ブランデル

そこに来た奴等の様子を見給え。

旅から来た奴等だと云うことがすぐ分かる。

まだ著いてから一時間も立つまい。2170

フロッシュ

なるほど、君の云う通だ。僕はライプチヒに謳歌する。

小パリイと云うだけあって、ここにいると品が好くなる。

ジイベル

君はあの旅人どもを何者だと思う。

フロッシュ

僕が行って来るから見てい給え。一杯飲ませて、

あいつ等の鼻の穴から蛆を引き出すのは、2175

子供の歯を抜くより優しいのだ。

なんでも好い家柄の奴には違ない。

高慢げで、そして物事に満足しない様子だから。

ブランデル

なに。僕は賭をしよう。あいつ等は山師だよ。

アルトマイエル

そうかも知れないなあ。

フロッシュ

気を附けて見ていろ。探を入れて遣るから。2180

メフィストフェレス(ファウストに。)

悪魔はあいつ等には分かりません。

うぬが領髪を攫まれていても分からないのです。

ファウスト

皆さん、今晩は。

ジイベル

今晩は。

(メフィストフェレスを横より覗き、小声にて。)

おや、あいつは片々の脚が短いようだぜ。

メフィストフェレス

どうでしょう。そちらへ割り込んでもお邪魔ではないでしょうか。2185

どうせ旨い酒なんぞはなさそうですから、

面白いお話でも代に伺いたいのですが。

アルトマイエル

君達は大ぶ口が奢っていると見えますね。

フロッシュ

君達はおお方リッパハの駅を遅く立ったのだろう。

あの駅のハンス君と一しょに夕飯を食ってから立ったのじゃないか。2190

メフィストフェレス

生憎きょうは逢わずに通って来ましたよ。

この前の度にわたし共が逢って話した時、

あなた方の事をいろいろ噂をしましてね、

どなたにも宜しく申してくれと云いましたよ。

(メフィストフェレスはこの詞と共にフロッシュに会釈す。)

アルトマイエル(小声にて。)

一本参ったな。向うが旨く遣りおった。

ジイベル

食えない奴だ。2195

フロッシュ

まあ、黙って見ていろ。今に遣っ附けるから。

メフィストフェレス

先刻大ぶお稽古の詰んだ声で

合唱をしていられたようでしたね。

ここでお歌いになったら、

あの円天井から旨く反響することでしょう。2200

フロッシュ

君達は音楽家ででもあるのかね。

メフィストフェレス

どういたしまして。下手の横好です。

アルトマイエル

何か一つ歌い給え。

メフィストフェレス

お望なら幾らでも歌います。

ジイベル

極新しいのでなくちゃあいけない。

メフィストフェレス

わたしどもは丁度スパニアから帰ったところです。2205

あそこは酒と歌を本場にしている美しい国ですからね。

(歌ふ。)

昔昔王がいた。

大きな蚤を持っていた。

フロッシュ

聞いたか。蚤だとよ。諸君分かったかい。

蚤と来ちゃあ、僕なんぞは随分清潔なお客だと思う。2210

メフィストフェレス(歌ふ。)

昔昔王がいた。

大きな蚤を持っていた。

自分の生ませた子のように

可哀がって飼っていた。

ある時服屋を呼んで来た。2215

服屋が早速遣って来た。

「この若殿の召すような

上衣とずぼんの寸を取れ。」

ブランデル

服屋に好くそう云わなくちゃいけないぜ。

寸尺を間違えないようにして、2220

笠の台が惜しけりゃあ、

ずぼんに襞の出来ないようにするのだ。

メフィストフェレス

天鵞絨為立、絹仕立、

仕立卸を著こなした。

上衣にゃ紐が附いている。2225

十字章さえ下げてある。

すぐ大臣を言い附かる。

大きな勲章をぶら下げる。

兄弟までも宮中で

立派なお役にあり附いた。2230

文官武官貴夫人が

参内すれば責められる。

お后さまでも宮女でも

ちくちく螫される、かじられる。

押さえてぶつりと潰したり、2235

掻いたりしては相成らぬ。

己達ならば蚤なぞが

ちょぴりと螫せばすぐ潰す。

合唱者(歓呼する如く。)

己達ならば蚤なぞが

ちょぴりと螫せばすぐ潰す。2240

フロッシュ

旨い旨い。こいつは好かった。

ジイベル

蚤なんぞはそんな風に遣っ附けべしだ。

ブランデル

指を伸ばして旨くつままなくちゃいかん。

アルトマイエル

自由万歳だ。酒万歳だ。

メフィストフェレス

わたくしも自由の光栄のために一杯飲みたいのですが、2245

それにつけてもも少し酒が好ければ好いと思いますよ。

ジイベル

そんな事は二度とは聞きたくないものだ。

メフィストフェレス

ここの主人が小言を言わない事なら、

わたくし共の酒蔵にあるのを、何か一つ

あなた方に献上したいのですが。2250

ジイベル

さあ、さあ、遠慮なしに出し給え。小言は僕が引き受ける。

フロッシュ

旨い奴を一杯飲ませてくれれば、僕は感謝するね。

ことわって置くが、あんまりぽっちりではいけない。

僕に利酒をさせようと云うには、

口へたっぷり一ぱい入れてくれなくちゃあ出来ない。2255

アルトマイエル(小声にて。)

なんでもあいつ等はライン地方の奴だぜ。僕の目利では。

メフィストフェレス

ちょいと錐を持って来させて下さい。

ブランデル

錐をなんにするのだね。

まさかその戸の外まで樽が来ているわけでもあるまい。

アルトマイエル

それ、あそこの背後に亭主が道具箱を置いている。

メフィストフェレス

(錐を手に取り、フロッシュに。)

あなたの飲みたい酒を伺いましょう。2260

フロッシュ

聞いてどうしようと云うのだね。そんなに色々あるのかね。

メフィストフェレス

どなたにもお望の酒を献じます。

アルトマイエル(フロッシュに。)

ははあ。君はもう口なめずりをし始めたな。

フロッシュ

宜しい。僕が所望して好いなら、ラインの葡萄酒にしよう。

なんでも本国産が一番の御馳走だ。2265

メフィストフェレス

(フロッシュの坐せる辺の卓の縁に、錐にて穴を揉みつゝ。)

少し蝋を取り寄せて下さい。すぐに栓をしなくちゃあ。

アルトマイエル

ははあ。手品だね。

メフィストフェレス(ブランデルに。)

そこであなたは。

ブランデル

僕はシャンパンにしよう。

好く泡の立つ奴でなくてはいけない。

(メフィストフェレス錐を揉む。一人蝋の栓を作りて塞ぐ。)

どうも外国産の物を絶待に避けるわけにはいかんて。2270

好い物が遠国に出来ることがあるからなあ。

本当のドイツ人はフランス人は好かないが、

フランスの酒なら喜んで飲むね。

ジイベル

(メフィストフェレスの坐せる辺に近づきつゝ。)

正直を言えば僕は酸っぱい酒は嫌だ。

僕には本物の甘い奴を一杯くれ給え。2275

メフィストフェレス(錐を揉む。)

そんならあなたの杯にはすぐトカイ酒を注がせます。

アルトマイエル

ねえ、君達、僕の方を真っ直に見て返事をし給え。

君達は僕なんぞを騙すのに違ない。

メフィストフェレス

飛んだ事です。あなた方のような立派なお客に

そんな事をするのは、少し冒険過ぎますからね。2280

お早く願います。どうぞ御遠慮なく仰ゃい。

どんな酒を献じましょう。

アルトマイエル

なんでも宜しい。うるさく問わないで下さい。

メフィストフェレス

(穴を悉く揉み畢り、栓をなしたる後、怪しげなる身振にて。)

「葡萄は葡萄の蔓になる。

角は山羊の額に生える。2285

酒は水で、葡萄は木だ。

木卓からも酒は涌く。

自然の奥を窺う一目。

これが奇蹟だ。信仰なされい。」

さあ、皆さん、栓を抜いて召し上がれ。2290

一同

(栓を抜けば各自の杯に所望の酒涌きて入るゆゑ。)

やあ。これは結構な噴水だ。

メフィストフェレス

兎に角飜さないように願います。

一同

(皆反覆して飲み、さて歌ふやうに。)

愉快だ、愉快だ。人の肉食う夷のように。

五百の豚の群の様に。

メフィストフェレス

御覧なさい。自由の民だ。あれが鼓腹の楽だ。2295

ファウスト

己はそろそろ行きたいがなあ。

メフィストフェレス

いや。これから気を附けて見ておいでなさい。

盛んに獣性が発揮せられるのですからね。

ジイベル

(手づつなる飲み様をし、酒を床に飜す。※燃え立つ。)

助けてくれ。火事だ。助けてくれ。地獄が燃える。

メフィストフェレス(火※に向ひて唱ふ。)

「鎮まれ。親しき一大。」2300

(人々に。)

まあ、こん度は一滴の業火で済みました。

ジイベル

これはなんだ。待て。只では済まんぞ。

全体我々をなんだと思っている。

フロッシュ

もう一遍あんな真似をして見ろ。

アルトマイエル

僕はこっそりあいつ等を追っ払ってしまおうと思うのだが。2305

ジイベル

おい。そこの先生。利いた風な。

我々の目を昏ます積か。

メフィストフェレス

黙れ。酒樽の古手奴。

ジイベル

なに。箒の柄が。

我々に失敬な事を言う積か。

ブランデル

待っていろ。拳骨が雨のように降るぞ。2310

アルトマイエル

(残りたる一つの栓を抜けば、火※面を撲つ。)

やあ。僕は火傷をする。

ジイベル

魔法だ。

遣っ附けろ。そいつは無籍者だ。

(皆々小刀の鞘を払ひて、メフィストフェレスに掛かる。)

メフィストフェレス(真面目らしき態度にて。)

「仮現の形。虚妄の詞。

心を転じ、境を転ず。

ここにあれ。またかしこにあれ。」2315

(一同驚きて立ちをり、互に顔を見合す。)

アルトマイエル

ここはどこだ。好い景色だなあ。

フロッシュ

葡萄畑だ。本当か知らん。

ジイベル

それに葡萄に手が届く。

ブランデル

この青い屋根の下に

こんな好い蔓がある。こんな好い葡萄がある。

(ジイベルの鼻を撮む。外の人々も互に鼻を撮み合ひて、手に/\小刀を閃す。)

メフィストフェレス(同上の態度にて。)

「迷惑の輩。目を覆う巾を去れ。2320

記念せよ。魔の遊戯の奈何を。」

(ファウストと共に退場。人々互に手を放す。)

ジイベル

どうしたのだ。

アルトマイエル

これはどうだ。

フロッシュ

今のは君の鼻だったか。

ブランデル(ジイベルに。)

僕は君のを撮まんでいたのか。

アルトマイエル

なんだかこうぴりっと来て、節々に響いたようだ。

その椅子を借してくれ。僕は倒れそうだから。2325

フロッシュ

一体どうしたと云うのだろう。

ジイベル

あいつはどこへ行った。こん度見附けたら、

生かしては置かない積だ。

アルトマイエル

あいつが酒樽に騎って、この店の戸を出て行くのを

僕はこの目で見たよ。2330

僕は足が鉛にでもなったように重くてならない。

(卓の方へ向く。)

ああ。酒はまだ出るか知らん。

ジイベル

皆※さ。目を昏ましたのだ。

フロッシュ

僕は実際酒を飲んでいるような気がしたが。

ブランデル

それはそうとあの葡萄はどうしたのだろう。2335

アルトマイエル

どうだい。これでは不思議と云うものがないとは云われまい。

魔女の厨

(低き竈の火の上に、大いなる鍋掛けあり。その鍋より立ち升る蒸気の中に種々の形象を現ず。尾長猿の牝鍋の傍に蹲り、鍋の中を掻き廻し、煮え越さぬやうにす。尾長猿の牡と小猿等とはその傍に蹲り、火に当りゐる。天井と四壁とは魔女の用ゐる極めて異様なる器械にて装飾しあり。)

ファウスト、メフィストフェレス登場。

ファウスト

己は気違染みた魔法騒は気に食わぬ。

この物狂おしい混雑の中で

己の体がなおると、君は受け合うのか。

己に婆あさんの指図を受けさせて、2340

この腐料理で取った年を三十も

跡へ戻してくれようと云うのか。

これ以上の智慧が君にないなら、己はもう駄目だ。

己の希望の影はもう消えてしまった。

一体自然か哲人かがこれまでに2345

何か霊薬のようなものを一つ位見出さなかったのか。

メフィストフェレス

いや。あなたはまた理窟を言い出しましたね。

それはあなたを若返らせるには、自然的な方法もあります。

しかし全く別な本に書いてある

奇妙な一章ですよ。2350

ファウスト

己はそれが知りたい。

メフィストフェレス

宜しい。それは金も医者も

魔法もなしに獲られる方です。

すぐに野らへお出掛なさい。

そして鋤鍬を使い始めるですね。

それから極狭い範囲の内に、2355

自己と自己の精神とを閉じ籠めて置くですね。

食物は交のない物を食う。家畜と一しょに

家畜になって生きる。自分の取入をする畑は、

自分で肥やしをするのを不都合とは思わない。

これなら八十になっても若くていられる2360

絶好の手段だと云うことを、御信用なさって宜しい。

ファウスト

それは己の慣れぬ事で、手に鋤を取るとまでは、

どうも己は身を落すことが出来ない。

その上狭い範囲の生活も己の柄にない。

メフィストフェレス

するとやはり魔女の厄介になるですな。2365

ファウスト

しかしなぜ婆あでなくてはならんのか。

君が自分でその薬を調合したって好いだろう。

メフィストフェレス

そいつは難有過ぎた暇潰ですて。そんな暇があると、

魔の橋と云うのがあるが、わたしは橋を千位掛けます。

ああ云う薬は学術ばかりでは出来ない。2370

忍耐がなくては駄目です。

静かに落ち著いた奴が長の年月骨を折って、

その間にただ「時」が薬の発酵を強くするのです。

それに調合が複雑で、

中には不思議な物が這入るのです。2375

無論それも悪魔が授けた方ですが、

悪魔が自身で拵えるわけには行きません。

(獣等を見て。)

御覧なさい。なんと云う可哀らしい奴等でしょう。

あいつが女中で、あいつが家隷です。

(獣等に。)

お上さんは留守らしいね。2380

獣等

烟出から

内を抜け出て

馳走になりに行きました。

メフィストフェレス

いつもどの位の間ぶら附いて帰るのだい。

獣等

わたしどもが手をあぶっている間の留守です。2385

メフィストフェレス(ファウストに。)

どうです。あのきゃしゃな畜生どもは。

ファウスト

己の見た物の中で、この位ぶさまな物はないな。

メフィストフェレス

いやいや。今こいつ等と遣るような会話が

わたしは一番好なのです。

(獣等に。)

おい。咀われた人形ども。お前達に聞くのだが、2390

そのどろどろした物を掻き交ぜているのはなんだい。

獣等

これですか。乞食に施す稀い粥です。

メフィストフェレス

そんならお客はおお勢だな。

牡猿

(歩み寄り、メフィストフェレスに追従す。)

どうぞすぐに旨い采の目を出して、

わたしに儲けさせて、2395

わたしを金持にして下さい。

随分みじめな身の上です。

これで金さえ持っていると、

も少し智慧も出るのです。

メフィストフェレス

分かっているよ。富籤にでも中ったら、2400

猿も為合だろうがな。

(この間小猿等大いなる丸を弄びゐたるが、その丸を転がし出す。)

牡猿

これが世界だ。

上がったり降りたり、

止所なく廻っている。

丸は硝子の音がする。2405

こわれるのに造做はない。

中は空洞だ。

あそこは光る。

あそこは猶光る。

丸奴は生きている。2410

己の好い子だ。

おもちゃにするな。

そちゃ死ぬるのだ。

丸は土焼、

かけらが出来る。2415

メフィストフェレス

あの篩はなんにするのだい。

牡猿(篩を取り卸す。)

もしあなたが盗坊なら、

これですぐに見あらわします。

(牝猿の所に持ち行き、透かし見さす。)

さあ、篩で透かして見ろ。

もし盗坊が分かっても、2420

うっかり口で言いっこなしだ。

メフィストフェレス(火に近づきつゝ。)

そんならこの鍋は。

牝牡の猿

馬鹿なお方だ。

鍋一つ御存じない。

釜一つ御存じない。2425

メフィストフェレス

失敬な畜生だな。

牡猿

この払子をこう持って、

その腰掛にお掛けなさい。

(メフィストフェレスを椅子に掛けさす。)

ファウスト

(この間大鏡の前に立ちて、半ばそれに歩み近づき、また半ばそれに歩み遠ざかりゐたるが。)

この己の目に見える、あれはなんだ。この魔の鏡に映るのは、

まあ、なんと云う美しい姿だろう。2430

愛の神に頼むが、お前の翼の一番早いのを貸して、

己をあの女のいる境へ遣ってくれい。

己がここに立ち止まっていずに、

鏡の傍へ寄って行くと、

姿は霧を隔てて見るようにぼやけて見える。2435

女と云うものの一番美しい姿はこれだ。

こうも美しい女の姿が世にあろうか。

この横わった体に

天と云う天の精を見ずばなるまい。

所詮地にはこんな物はないのだから。2440

メフィストフェレス

なんの不思議なものですか。神が六日の間働いて、

最後に自分で喝采したのだから、何か少しは

気の利いたものが出来ていなくてはなりません。

差当りあれをたんのうするまで御覧なさい。

今にあなたにあんな好い子を見附けて上げます。2445

運が好くてあんなのの壻になる奴は

為合者ですね。

(ファウストは依然鏡の中の像を見ゐる。メフィストフェレスは椅子の上にて伸をし、払子を揮ひつゝ語り続く。)

ここの所一寸王が玉座に著いたと云う形だ。

君主の杖も持っている。頭に冠がないばかりだ。

獣等

(これまで種々の怪しげなる動作をなしゐたるが、この時大声にて叫び交しつゝ冠一つ持ち来て、メフィストフェレスに捧ぐ。)

お願ですから2450

この冠を

汗と血とで著けて下さい。

(手づつなる持扱ざまをして、冠を二つに割り、そのかけらを持ちて跳り廻る。)

とうとうおしまいだ。

口でしゃべって目では見る。

耳では聞いて歌にする。2455

ファウスト(鏡に向ひて。)

ああ、どうしよう。己はどうやら気が狂いそうだ。

メフィストフェレス(獣等を指さす。)

もうこうなると己でさえ頭がぐらぐらして来る。

獣等

こっちとらに出来るなら、

こっちとらがして好いなら、

そんならそれが考だ。2460

ファウスト(前の如き態度にて。)

ああ。己の胸は燃えて来た。

どうぞ一しょに早く逃げてくれ。

メフィストフェレス(前の如き態度にて。)

兎に角正直に告白する

詩人だとは認めて遣らなくてはなるまい。

(この間牝猿の等閑になしゐたる鍋煮え越す。大いなる火※燃え立ちて、烟突に向ふ。魔女恐ろしき叫声をなし、烟突より火※の中を穿ちて降る。)

魔女

アウ。アウ。アウ。アウ。2465

咀われた畜生奴。豕奴。

鍋はほうって置く。上さんには火傷をさせる。

咀われた畜生奴。

(ファウスト、メフィストフェレスの二人を見て。)

ここには何事がある。

お前達は何者だ。2470

ここへは何しに来た。

なぜ留守に這い込んだ。

お前達は骨々に

火で焼く痛が見たいのか。

(魔女杓子にて鍋を掻き廻し、ファウスト、メフィストフェレス、獣等に※を弾き掛く。獣等懼れうめく。)

メフィストフェレス

(手に持ちたる払子を逆にして、柄にてあたりの土器、玻璃器を敲き立つ。)

打ち破れ。打ち破れ。2475

粥は引っ繰り返れ。

硝子はかけらになれ。

これでも洒落だよ。

腐女奴。

手前の歌に合せる拍子だ。2480

(魔女の憤り且つ驚きて退くを見つゝ。)

やい。骸骨奴。案山子奴。己を見忘れやがったか。

檀那様、お師匠様を見忘れやがったか。

実は遠慮はいらんのだ。手前も猫の怪物も、

腕を出せば、敲き潰して遣るのだぞ。

いつ赤い胴著がこわくなくなったのだ。2485

帽子に挿した鳥の羽が見えんか。

己が面でも隠しているかい。

己に名告をしろと云うのかい。

魔女

やあ。檀那。飛んだ御無礼をいたしました。

蹄を隠していらっしゃるもんだから。2490

それに二羽の鴉はどうなさいました。

メフィストフェレス

こん度だけは特別で恕して遣る。

それは顔を合せないことが

大ぶ久しくなっているからな。

それに文化と云う奴が世の中を甜め廻して、2495

悪魔をも只では置かねえのだ。

北国生れのお化はな、もう見ることが出来ないよ。

それ、角や、尻尾や、爪なんぞは見えまいが。

ただ足は無いと不自由だが、

見せては世間の通が悪い。2500

そこでもうよほど前から、若い奴等がするように、

腓腸の贋物を食っ附けて歩いているのよ。

魔女(踊りつゝ。)

サタンの檀那がおいでては、

わしゃ嬉しゅうて気が狂う。

メフィストフェレス

こら。そんな名を口に出すと云うことがあるか。2505

魔女

そりゃなぜでございます。あの名がなんといたしました。

メフィストフェレス

あれはな、もうお伽話に書かれてから久しゅうなる。

そのくせ人間のためには好くはならない。

一人の悪魔はいなくとも、悪人はおお勢いるからな。

兎に角これからは己を男爵閣下と云うが好い。2510

華族のうようよいる中の己も華族の一人なのだ。

まさか己の血筋が怪しいとは云うまい。

それ、己の紋所はこれだ。

(猥褻なる身振をなす。)

魔女(止所なく笑ふ。)

へ。へ。お前様のお極だ。

やっぱり今でも昔のままの横著者でいらっしゃる。2515

メフィストフェレス(ファウストに。)

どうです。覚えてお置なさい。

これが魔女の扱振です。

魔女

そこであなた方の御用向は。

メフィストフェレス

実は例の薬をたっぷり一杯貰いたいのだ。

だが一番年を食った好い奴でなくてはいけない。2520

一年増に強く利くのだからな。

魔女

お易い御用でございます。ここに一瓶

わたくしのちょいちょい舐めるのがございます。

もうちっとも臭くはございません。

これを一杯献じましょう。(小声にて。)2525

ですが、御承知の通、禁厭なしにあの方が上がると、

一時間とは生きていられませんよ。

メフィストフェレス

いいや。大事な友達だ。好く利かなくてはならない。

手前の台所の一番好いものが飲せたいのだ。

手前例の圏をかいて、文句を言って、2530

たっぷり一杯上げてくれ。

(魔女怪しげなる動作にて圏をかき、その中に種々の物を排置す。そのうち玻璃器、金属器自ら鳴りて楽を奏し始む。最後に猿等を圏の中に入れ、大いなる書籍を取り出し、一匹の猿を卓にしてそれを載せ、他の猿には炬を秉らしむ。さてファウストを招きて圏の中に入らしむ。)

ファウスト(メフィストフェレスに。)

君これはどうすると云うのだい。

こんな馬鹿げた真似、気違染みた為草、

無趣味極まる欺瞞は

僕は疾うから知っている。大嫌だ。2535

メフィストフェレス

何を気にするのです。ただ笑わせるまでですよ。

そんなに窮屈に考えなくても好いじゃありませんか。

あいつも医者だから、薬が好く利くように、

禁厭をして飲ませなくては気が済まないのです。

(ファウストを強ひて圏の中に入らしむ。)

魔女

(大袈裟なるこれ見よかしの表情にて、書の中より朗読し始む。)

「汝須らく会すべし。2540

一より十を作せ。

二は去るに任せよ。

而して径ちに三に之け。

然らば則ち汝は富まむ。

四は喪失せよ。2545

五と六とより

七と八とを生ぜしめよ。

是の如く魔女は説く。

是においてや成就すべし。

九は則ち一なり。2550

十は則ち無なり。

之を魔女の九九と謂ふ。」

ファウスト

婆あさん熱に浮かされているのじゃあるまいか。

メフィストフェレス

まだなかなかあんな物じゃありません。

わたしは好く知っていますが、あの本は皆あんな調子です。2555

随分あれで暇を潰したこともあります。

なぜと云うと、まるで矛盾した事は

智者にも愚者にも深秘らしく聞えますからね。

あなたに言いますが、学術は新しいようで古い。

原来三と一だの、一と三だのと云って、2560

真理の代に妄想を教えるのは

いつの世にもある遣方です。そんな工合に

誰にも邪魔をせられずに饒舌って教えています。

誰が馬鹿に構うものですか。

大抵人間はただ詞ばかりを聞せられると、2565

何かそれに由って考えられるはずだと思うのです。

魔女(誦し続く。)

「夫れ学術の

崇高なる威力は

全世界に秘せらる。

然れども思量せざる者2570

贈遺の如くに得べし。

労苦することを須ゐず。」

ファウスト

なんの無意味な事を己達に言って聞せるのだ。

もう直にこの頭が割れそうになって来る。

己にはなんだか馬鹿が十万人も2575

群をなしてしゃべっているように思われる。

メフィストフェレス

もう好い、好い。えらい巫子さん。

早く薬を持って来て、杯の縁まで

一ぱいに注いでくれ。

己の友達にはあの薬が障る気遣はない。2580

この人はこれまでにもいろんな薬を飲んで見て、

大ぶ位の附いている人だから。

(魔女複雑なる作法をなして薬を杯に注ぐ。それをファウスト受けて唇に当つるとき、軽き※燃え立つ。)

構わずにぐいとお飲なさい。休まずにぐいと。

すぐに好い心持になります。

悪魔と君だの僕だのと云うあなたが、2585

火なんぞをこわがるのですか。

(魔女圏を解く。ファウスト脱出す。)

メフィストフェレス

さあ、すぐに出掛けましょう。じっとしていてはいけません。

魔女

もし、あなた、お薬が好く利くようにお祈申します。

メフィストフェレス(魔女に。)

何か返礼に己に頼みたい事があるなら、

ワルプルギスの晩に遠慮なく言うが好い。2590

魔女

それからこの歌の本を上げますから、時々お歌なさい。

不思議な利目がございますからね。

メフィストフェレス(ファウストに。)

さあ、わたしが案内しますから、早くおいでなさい。

薬が内外一面に染みるように、

汗を出さなくてはいけません。2595

これから高尚な懶惰の価値を分からせて上げる。

今にあなたの体の中で、愛の神が動き出して

折々跳ね廻るのを、面白くお感じになるのだ。

ファウスト

まあ、待ってくれ。一寸今一度あの鏡を見なくては。

あの女の姿があんまり好かったから。2600

メフィストフェレス

お廃なさい。お廃なさい。今にあらゆる女の

手本になるのを、正味で御覧に入れますから。

(聞えぬやうに。)

あの薬が這入っているから、

今にどの女でもヘレナに見える。

街

ファウスト登場。マルガレエテ通り過ぐ。

ファウスト

もし、美しいお嬢さん。不躾ですが、この肘を2605

あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。

送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。

(振り放して退場。)

ファウスト

途方もない好い女だ。

これまであんなのは見たことがない。2610

あんなに行儀が好くておとなしくて、

そのくせ少しはつんけんもしている。

あの赤い唇や頬のかがやきを、

己は生涯忘れることが出来まい。

あの伏目になった様子が2615

己の胸に刻み込まれてしまった。

それからあの手短に撥ね附けた処が、

溜まらなく嬉しいのだ。

(メフィストフェレス登場。)

おい。あの女を己の手に入れてくれ。

メフィストフェレス

どの女ですか。2620

ファウスト

今通って行った奴だ。

メフィストフェレス

あれですか。あれは今坊主の所から帰るのです。

懺悔して罪の免除を受けて来たのです。

わたしは坊主の椅子の傍を忍んで通ったが、

なんにも持たずに懺悔に行った、

ひどく罪のない娘ですよ。2625

あんなのはわたしの手に合いませんね。

ファウスト

でも満十四歳にはなっているだろうが。

メフィストフェレス

丸で道楽息子のような口の利きようをしますね。

どの美しい花をも自分の手に入れようとして、

自分の手で摘み取ることの出来ない2630

恋や情はないはずだと思う性ですね。

ところがなかなかいつもそうは行きませんよ。

ファウスト

おい。道学先生。

どうぞ道徳の掟を己に当て嵌めることだけは免してくれ。

それから君に手短に言って置くがね。2635

あの旨そうな若々しい肌に

今宵己の手が触れることが出来なかったら、

夜なかまで待たずに君とお分にするよ。

メフィストフェレス

しかし出来る事と出来ない事とは考えて下さい。

探偵して機会を捕えるまでに、2640

少くも十四日は掛かるのです。

ファウスト

己なんぞは七時間遊んでいられると、

あんな物を騙して遣るには、

悪魔の手を借るまでもないがなあ。

メフィストフェレス

もうフランス人のような物の言いようをしますね。2645

だがお願ですから、気を悪くしないで下さい。

何もすぐに手に入れるのが面白いのではありません。

南の方の国の話に随分あるように、

先ずいろいろな前狂言をして、

あの人形をあっちこっち2650

捏ね廻したり躾けたりするのが、

却って手に入れた時より面白いものです。

ファウスト

そんな面倒をしなくっても、己は直にその気になれる。

メフィストフェレス

まあ、洒落や笑談は廃にして、わたしは度々

言う代に、一度はっきり言って置きますが、2655

あの好い子を手に入れるのは、そう早くは行きませんよ。

一挙して抜くと云う砦ではない。

詭の謀と云う面倒なので我慢しなくては。

ファウスト

そんならあいつの持物でも己の手に入れてくれ。

あいつのいつも腰を掛ける場所へでも連れて行ってくれ。2660

あいつの胸に触れたことのある巾でも、

沓韈の紐でも好いから、恋の形見に手に入れてくれ。

メフィストフェレス

わたしがあなたの苦をどうにかして上げる

お手伝をする気だと云うことが、あなたにも分かるように、

手間を取らせずに、きょうのうちに2665

あなたをあの娘の部屋へ連れて行きます。

ファウスト

そして逢われるのか。手に入れられるのか。

メフィストフェレス

いいえ。

当人は隣の上さんの所へ行っているでしょう。

その隙にあなたがひとりで

未来の楽を思い浮べながら、あの娘の肌の香の2670

籠っている所にいるのを心遣になさるが好い。

ファウスト

そんなら今から行かれるのか。

メフィストフェレス

まだ早過ぎます。

ファウスト

そんなら何かお土産に遣る物を心配して置いてくれ。

メフィストフェレス

直に遣りますか。それはごうぎだ。それなら成功します。

方々の好い所に昔埋めて置いた2675

宝のあるのを、わたしは知っています。

まあ、少し調べて見なくては。(退場。)

夕

小さき清げなる室。

マルガレエテ辮髪を編み結びなどしつゝ。

マルガレエテ

きょうのお方がどなただか知れるなら、

何か代に出しても好いと思うわ。

大そうはきはきしたお方のようだったこと。2680

きっと好い内の方だわ。

わたしお顔を見たら、すぐ分かってしまった。

でなくては、あんな不遠慮な事はなさらないわ。(退場。)

メフィストフェレス、ファウスト登場。

メフィストフェレス

さあ、這入るのです。そっと、構わずに。

ファウスト(暫く黙りゐて。)

どうぞ己をひとりで置いて行ってくれ。2685

メフィストフェレス(四辺を探るやうに見つゝ。)

なかなかどの娘でもこう綺麗にしているものではないて。(退場。)

ファウスト(あたりを見廻す。)

この神聖な場所を籠めてくれる、

優しい、薄暗い黄昏時よ。好く来てくれた。

渇して纔かに吸う希望の露に命を繋いでいる、

優しい恋の艱よ。己の胸を占めてくれい。2690

静けさ、秩序ある片附方、物に満足している心持が、

なんとなくこの周囲に浮動しているではないか。

この物足らぬ中になんと云う豊富なことだろう。

この人屋めいた中になんと云う祝福のあることだろう。

(寝台の傍の鞣革の椅子に身を倚す。)

この椅子はあれがまだ生れぬ世を、喜につけ悲につけ、2695

腕を拡げて迎え容れた椅子であろう。

己に掛けされてくれ。家の長老の座のこの椅子に、

幾度か取り巻く子等の群がぶら下がったことであろう。

事に依ったら、あの子がまだふくらんだ頬をしていた時、

神聖なクリストの恩を謝して、この椅子に靠っている2700

家の長老の萎びた手に、敬虔なキスをしたかも知れぬ。

ああ。好い子よ。毎日お前に母のような指図をして、

この卓の上に巾を綺麗にひろげさせ、

足に踏む砂をさえ美しく波立つようにさせる、

その饒けさと整との精神が、2705

身の辺に戦いでいるのを己は感ずる。

まあ、なんと云う可哀い手だろう。神々の手のような。

お前のお蔭でこの小屋が天堂になるのだ。

そしてここは。

(手にて寝台の帷の一ひらを搴ぐ。)

まあ、なんと云うぞっとする嬉しさが襲うだろう。

己はたっぷり何時間もここに立ちもとおっていたい。2710

自然よ。お前はここで軽らかな夢の中に、

ただ一度しか生れぬ天使を育てたのだ。

優しい胸に温い性命の満ちている

穉子がここにいたのだ。

物を織り成す、神聖な、清浄な力で、2715

あの神々しい姿貌がここで発展したのだ。

そこで貴様はどうだ。何がここへ連れて来たか。

己は心の底から感動させられてしまう。

貴様はここで何をしようと思う。なぜそう胸が苦しゅうなる。

吝なファウスト奴。貴様は見違えた奴になったなあ。2720

禁厭の靄が己をここで包んでいるだろうか。

驀直に受用しようと云う促が己を駆って来たのに、

恋の夢に己は解けて流れるように感ずるではないか。

空気の圧の変るまにまに己は弄ばれて変るのか。

もしこの刹那にあれがここへ這入って来たら、2725

己の無作法はどんなにか罪なわれるだろう。

大きなのろま男奴。なんと云う小さくなりようだ。

大方あれが足の前に蕩けた様になって俯さるだろう。

メフィストフェレス登場。

メフィストフェレス

早くおしなさい。娘が下を遣って来ます。

ファウスト

行こう、行こう。己はもうここへは来ない。2730

メフィストフェレス

ここにある所から持って来た、

一寸目方のある箱がありますがな。

兎も角もこれをそこの箪笥に入れてお置きなさい。

あの娘が見て気が遠くなる程欲しがることは受合です。

あいつの体のいろんな物があなたのおもちゃになるように、2735

わたしがこの箱にいろんなおもちゃを入れて置きました。

相手の子供は子供でもこっちの細工は細工ですから。

ファウスト

さればさ。そんな事をしたものだろうか。

メフィストフェレス

それに文句がありますか。

それともこの品物をあなたが持っていなさる積ですか。

そんならあなたも色気なんぞを出して2740

結構な暇を潰すことをお廃になり、

わたしにもこれから先の骨折を免じてお貰申したい。

まさかあなたは吝なのではありますまいね。

あの可哀らしい小娘を

あなたの胸のお望どおりに靡かせようとしている2745

わたしに、頭を掻かせたり、手を摩らせたりするのですか。

(小箱を箪笥に入れ、鑰を卸す。)

さあ、早く逃げましょう。

なんです、その顔は。

今から講堂へでも出て行こうと云うのですか。

形而下学と形而上学とがさながら現われて来て、2750

灰色の顔をしてあなたの前にでも立っていると云うのですか。

さあ、逃げましょう。(退場。)

マルガレエテ燈を秉りて登場。

マルガレエテ

なんだかここは鬱陶しくて、むっとするようだこと。

(窓を開く。)

そのくせ外はそんなに暑くもないのに。

わたしなんだか分からないが、変な心持がするわ。2755

早く母あさんがお内へお帰だと好い。

なんだかこう体中がぞくぞくしてならない。

まあ、わたしはなんと云う馬鹿げた、臆病な女だろう。

(著物を脱ぎつゝ歌ひ始む。)

「昔ツウレに王ありき。

盟渝せぬ君にとて、2760

妹は黄金の杯を

遺してひとりみまかりぬ。

こよなき宝の杯を

乾しけり宴の度毎に。

この杯ゆ飲む酒は2765

涙をさそふ酒なりき。

死なん日近くなりし時

国の県の数々を

世嗣の君に譲りしに、

杯のみは留め置きぬ。2770

海に臨める城の上に

王は宴を催しつ。

壮士あまた宮内に、

御座の下に集ひけり。

これを限の命の火2775

盛れる杯飲み干して、

その杯を立ちながら

海にぞ王は投げてける。

落ちて傾き、沈み行く

杯を見てうつむきぬ。2780

王は宴の果てゝより

飲まずなりにき雫だに。」

(著物を納めんと、箪笥を開き、小箱を見る。)

おや。どうしてこんな美しい箱が這入っているのだろう。

わたし錠は慥かに卸して置いたのに。

本当に不思議だこと。何が入れてあるのだろう。2785

誰か母あ様にお金を借りに来て

質に入れて置いたのかしら。

おや。ここに鍵が紐で縛り附けてあるわ。

わたし開けて見ようや。

まあ、これはなんだろう。大した物だわ。こんな物は2790

わたし生れてからついぞ見たことがないわ。

装飾品だわ。どんな貴婦人がどんな宴会へでも

附けて行かれるだろうと思うわ。

わたしにでも似合うかしら。

一体誰のだろう。2795

(装飾品を身に附けて鏡に向ふ。)

この耳輪だけでもわたしのだと好い。

別の顔のように美しく見えるわ。

ほんとに若くても綺麗でもなんにもなりゃしない。

それだけでも好いには好いのだけれど、

人もそれだけにしきゃ思ってはくれない。2800

褒めるにでも気の毒がりながら褒めるのだもの。

みんなに附いて来られるのも、

ちやほやして貰われるのも、お金次第だわ。

わたしなんぞのように貧乏では為方がないわ。

散歩

ファウスト物を思ひつゝあちこち歩みゐる。そこへメフィストフェレス来掛る。

メフィストフェレス

ええ。食っただけの肘鉄砲とでも云おうか。地獄の2805

あらゆる景物とでも云おうか。これより胸の悪い事はない。

ファウスト

どうしたのだ。腹でもひどく痛いのかい。

己は生れてからそんな顔をしている奴を見たことがない。

メフィストフェレス

わたしはもし自分が悪魔でなかったら、

すぐに悪魔にさらって行って貰いたい位です。2810

ファウスト

頭の中で何かが居所変でもしたのかい。

気違のように跳ね廻るのは君の柄にはあるが。

メフィストフェレス

まあ、思っても見て下さい。娘に遣ろうと思って捜した、

あの装飾品は坊主がふんだくって行きました。

お袋があれを見附けるや否や、2815

なんだか気味が悪くなったのですね。

一体あの女はいやに鼻の利く奴で、

いつも讃美歌集を嗅いでいたり、

道具は一々鼻を当てて、これは神聖な物だ、

これは世間の物だと嗅ぎ分けたりするのです。2820

そこであの飾にあまり祝福なんぞが

附いていないのを、慥かに嗅ぎ出したのです。

お袋はこう云いました。「お前、筋の悪い品物は

持っていても気が詰まる。苦労になって血まで耗る。

これは聖母様にお上げ申そうね。2825

そうすると天の蜜を下さるから」と云いました。

すると娘は口を歪めてこう思ったです。

「まあ、貰った馬は何とやらと云うことがある。

それに誰が神様に背くかと云うと、

あれを親切にここへ持って来た人ではあるまい。」2830

そこでお袋が坊主を呼んで来る。

坊主は話を聞くか聞かぬに、

もう貨物に見とれている。

その言草が好い。「それは御殊勝な事でござります。

欲しい物をお捐になるだけ、それだけ御利益があります。2835

お寺の胃の腑は大丈夫でござります。

これまで国を幾つも召し上がっても、

ついぞ食傷はなさりませぬ。

筋の悪い品物を召し上がって消化なさるのは、

お前様方にわしが言うが、お寺ばかりだ。」2840

ファウスト

それは天下通用の遣方だ。

猶太人も王様にも出来る。

メフィストフェレス

坊主は腕輪や指輪や鎖なんぞを、

三文もしない物のように引っ手繰って、

胡桃を籠に一つ貰った程の2845

礼も言わずに、

いずれ報は天からあると約束しました。

女どもはそれを難有がったのですね。

ファウスト

そこでマルガレエテは。

メフィストフェレス

気が落ち著かぬと云う風で、

何がしたいか、どうしたいか、自分で自分が分からずに、2850

夜昼貰った宝の事を、それよりもくれた人の事を、

思い続けているのです。

ファウスト

あの娘がそう胸を痛めては可哀そうだ。

君すぐに外の宝を捜し出して遣り給え。

初のはそう大した物でもなかったから。2855

メフィストフェレス

そうでしょう。檀那様が見れば万事子供の戯だ。

ファウスト

そしてさっさと己の考通にして貰いたい。

先ず君があの隣の女を手に入れなくちゃいかん。

悪魔が粥のようにべたべたしていては困る。

外の装飾品を急いで持って来給え。2860

メフィストフェレス

へえへえ。お易い御用でございます。

(ファウスト退場。)

女にのろい男と云う奴は、その女のためになら、

月でも日でも星を皆でも、

暇潰しに花火のように打ち上げでもします。(退場。)

隣の女の家

マルテ一人登場しゐる。

マルテ

まあ、内の檀那さんに罰が中らねば好いが。2865

わたしを随分ひどい目にお逢わせなされた。

藁の上へひとり残して置いて、

自分は世間へ飛び出しておしまいなされた。

不断腹をお立になるようなことをせずに、

どんなにも大切にしてお上申す積でいるのに。2870

(泣く。)

事によったらもうお亡くなりなされたかも知れぬ。

鶴亀々々。せめて死亡証でも手に入ったら。

マルガレエテ登場。

マルガレエテ

おばさん。

マルテ

グレエテさんかえ。なんだい。

マルガレエテ

わたしびっくりして膝を衝いてしまいそうだったの。

またこんな箱がわたしの箪笥に2875

あったのですもの。箱は黒檀でしょう。

中に這入っているものと云ったら、

こないだのより、もっと、もっと立派なの。

マルテ

そうかい。それはおっ母さんに言わないが好いよ。

また懺悔の時に持って行くといけないから。2880

マルガレエテ

まあ、見て御覧なさいよ。それ。

マルテ(マルガレエテを装飾す。)

まあ、お前さんはなんと云う為合な子だろう。

マルガレエテ

だって、こうして往来へ出たり、お寺へ行ったりすることが

出来ないのだから、詰まらないわねえ。

マルテ

いつだってわたしの所へ来て、2885

そっと体に附けて見るが好いよ。

そして暫くの間、鏡の前を往ったり来たりして御覧。

わたしが一しょに楽んであげるからね。

その中にはお祭かなんかで、好い折が出来ようから、

目立たないようにぼつぼつ体に附けて出るさ。2890

最初は鎖を掛けて出る。それから耳に真珠を嵌める。

おっ母さんも気は附くまいが、また何とか云い様もあろうよ。

マルガレエテ

ねえ、おばさん。この箱を持って来たのは誰でしょう。

なんだか気味が悪いじゃありませんか。

(戸を敲く音。)

おや。大変だわ。おっ母さんじゃないでしょうか。2895

マルテ(窓掛を透し視る。)

知らない男の方だよ。お這入下さいまし。

メフィストフェレス登場。

メフィストフェレス

失礼ですが、ずんずん這入ってまいりました。

どうぞ御免なさって下さいまし。

(マルガレエテに敬意を表して卻く。)

マルテ・シュウェルトラインさんにお目に掛かりたいのですが。

マルテ

マルテはわたくしでございます。なんの御用で。2900

メフィストフェレス(小声にてマルテに。)

お前さんですか。こうしてお目に掛って置けば好い。

お客様はどちらの令嬢ですか。

どうも飛んだ失礼をしましたね。

いずれ午過ぎにでもまた来ましょう。

マルテ(声高く。)

あら、まあ。グレエテさん。お聞よ。2905

この方がお前の事をどこかの令嬢だろうとさ。

マルガレエテ

まあ。わたし貧乏人の娘なのに、

このお方がそんな事にお思なさっては困るわ。

飾は皆わたしの物でもないのに。

メフィストフェレス

いえ。御装飾品だけを見て云ったのではありません。2910

御様子と、それにお目が鋭いので。

このままいて宜しければ、こんな難有い事はありません。

マルテ

御用はなんですか。早く伺いたいもので。

メフィストフェレス

さよう。もっとめでたいお知らせだと好いが。

持って来たわたしが怨まれなければ好いと思うのですよ。2915

御亭主が亡くなりましたよ。お前さんに宜しくと云うことで。

マルテ

おや、まあ。とうとう亡くなりましたの。

可哀そうに。本当に亡くなったでしょうか。ああ。

マルガレエテ

まあ。おばさんしっかりなさいよ。

メフィストフェレス

まあ、気の毒な最期を聞いて下さい。2920

マルガレエテ

だからわたし生涯男は持たなくってよ。

亡くなった時どんなにか哀しいでしょう。

メフィストフェレス

悲の隣に喜があり、喜の隣に悲があるのです。

マルテ

どうぞ亡くなった宿がどうなったかお話なすって。

メフィストフェレス

あのパズアの聖アントニウスのお傍で、2925

極難有い場所に

葬って貰われて、

そこを永遠に冷たい臥所にしておられますよ。

マルテ

その外には何もおことづかりなすったことはございませんか。

メフィストフェレス

まだ大したむずかしい事があるですよ。2930

お前さんに三百度のミサを読ませて貰いたいそうで。

それから遺物と云うものは何もありませんでした。

マルテ

まあ。諸国を廻る職人の徒弟でも、笈の底に

飾の一つや、変銭の一つ位は取って置いて、

縦え餓えても、乞食をしても、2935

それは記念に残すのに。

メフィストフェレス

どうもお前さんには実にお気の毒ですよ。

しかし実際無駄遣をしたわけでもありません。

自分でも悪かったと云って後悔していました。

そう。それよりも不為合を怨んでいましたっけ。2940

マルガレエテ

まあ。人間は不為合のあるものでございますね。

わたくしもその方のために少しレクウィエムでもお唱申しましょう。

メフィストフェレス

お見受申す所、あなたはもう直にお嫁入をなさっても

宜しそうでございます。愛敬のおありになる方ですね。

マルガレエテ

あら。まだなかなかそんな事は出来ませんわ。2945

メフィストフェレス

それは御亭主でなくても、差当好い方と

御交際なさるが好い。ただいとしい、可哀いと

抱き合うばかりでも、世の中の主な楽の一つです。

マルガレエテ

そんな事はこの土地ではいたさぬ事になっています。

メフィストフェレス

そうなっていても、いなくても、すれば直出来ます。2950

マルテ

もし。まだお話がございましょうか。

メフィストフェレス

ええ。息を引き取りなさる所に、

わたしは附いていましたが、五味溜よりは少し好い、

腐り掛かった藁の上でした。でも信者として

死なれましたよ。まだ大ぶ罪滅がせずにあると云って。

そう云われましたっけ。「己は自分が心からいやだ。2955

こんな渡世のお蔭で、女房をああして置いて死ぬるのだから。

ああ。思い出すと溜まらなくなる。

どうぞこの世で己の罪を免してくれれば好いが。」

マルテ(泣きつゝ。)

可哀そうに。わたしはもう疾っくに免して上げたのに。

メフィストフェレス

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